津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■自転車を修繕して・・

2018-08-31 21:16:25 | 徒然

 この夏はあまりにも熱く、日中は外出を控えていた。自転車は車庫に入れたままにしていたら、見事に前輪が熱でやられてパンク状態、タイヤ+チューブを交換してもらった。
少し涼しくなったから図書館に通いたいと思ったからだ。
以前電動ではないアシスト機能をもった商品が出たことをご紹介したことが有る。
自転車屋の親父さんとその話をしたのだが、まったくご存じない。どうやら関東圏と、商品を製造している宮崎県でしか販売していないらしい。
その部品だけ購入して、熊本の自転車屋さんで取り付けるという事は出来ないらしい。
これじゃ~全国展開は難しいだろう。しかたないからアシストなしの自力で頑張ることにした。



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■殿様の質問に答えられず

2018-08-31 09:07:36 | 歴史

 熊本藩年表稿の「宝暦十三年一月」の項に、重賢公が「を他国では『ぐん』と呼び、肥後では『こおり』と唱えるのは何か理由があるのか?」とのお訊ねがあったが、「吟味したが判らず」と記録されている。

確かに御奉行は「おこうりぶぎょう」と読んでいるが、ならば飽託などはこれも「こおり」と読んでいたのだろうか。
多分藩校時習館の先生たちが首を並べて史料などを調べてご返事申し上げたのだろうが、一日二日の作業ではなかったろう。

ブリタニカ国際大辞典では次の様に解説している。
古くは「こほり」といった。行政単位として国の下にあり,郷,里,村などを含む区画。古くは「こほり」に「」の文字が用いられていたことは当時の金石文,古文書,古記録類に明らかで,『大宝令』の頃から「郡」の文字に変ったものと思われる。『大宝令』では郡は,広さ,郷の数などにより大,上,中,下,小の5等に分けられた。郡には役人として郡司がおかれていた。郡の数は時代により変動があった。奈良時代の『古律書残編』には 555郡,平安時代前期の『延喜式』には 591郡,中世の『拾芥抄』には 604郡,江戸時代の『郡名考』では 631郡となっている。明治以降,府県のもとに編入された。

地方では古い言葉が定着した後、言葉の読みとかが改められてもそのまま残されている事例が多く見受けられる。
この郡もその一例だろうが、いかにも古さを感じさせる読みであり優雅に感じさせる。

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■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(7)

2018-08-31 06:21:12 | 史料

 〇捨子捨馬不仕様被仰出之趣相守可申事
    此一巻左に記

 七四八
  覺
一捨子有之候ハヽ早速不及届、其所之者いたわり置、直に
 養候歟、又、望之者有之候ハヽ可遣之、急度付届ニ不及
 候
一馬類・畜類人之疵付候様成儀は、只今迄之通り可相届候、
 其外ともなひ又ハおのれと痛煩計に候は不及届、随分養
 育、主有之候ハヽ返可申事
一主なし犬、頃日食物給させ不申候様相聞候、畢竟食物給
 させ候ハヽ其人之犬之様罷成、已後迄六ヶ敷事と存申候
 と相聞不届候、向後左様無之様可相心得事
一飼置候犬死候へハ支配方へ相達候得とも、於(無缺ヵ)別條は向後
 ヶ様之届無用之事
一犬計ニかきらす、惣て生類人々慈悲之心を元といたし憐
 ミ候儀肝要之事
  貞享四年卯四月

 七四九
  覺
一捨て子いたし候事彌以御制禁ニ候、養育難成譯有之候ハヽ
 奉公人は其主人、御料ハ御代官、私領ハ其外名主五人組、
 町方ハ其所之名主五人組へ其品可訴出、育に難成におゐ
 てハ其所ニて養育仕へし、此上ニて捨子仕候ハヽ急度可
 為曲事者也
   午十二月

 七五〇
  覺
一生類憐之儀ニ付、最前書附を以被仰出候處、今度武州寺
 尾村内國代場村之者病馬捨之不届之至候、死罪ニも可被
 仰付候得とも、今度先命御助流罪被仰付候、向後於相背
 は急度曲事か被仰付候、御料は御代官、私領は地頭より
 前方被仰付候趣彌堅相守候様、入念可申付者也
  貞享四年四月日

 七五一
  覺
一捨馬之儀段々被仰付候處、頃日も捨馬仕候者有之、今度
 急度御仕置可被仰付候へとも、先今度も流罪被仰付候、
 向後捨て馬仕候もの於有之は可為重罪者也
  卯十二月

 〇自分之牛馬は不及申、他所之牛馬怪我病死之節、御書
  附之通入念可申事
    此一巻左ニ記

 七五二
  覺
一御國之馬口勞幷駄賃馬、惣て御領内之馬於他領怪我仕
 候歟、又は病馬等有之節支配様之事
一御領内之馬他領ニて怪我仕候歟、又は煩候ハヽ、其節々
 宿主を頼随分入念養生仕、御國在所へ牽歸候儀可成躰ニ
 候ハヽ、在所へ牽歸可申候、不成様子ニ候ハヽ早速在所
 へ申越、其段御惣庄屋へ相達、連寄養生可仕候、遠方歟
 又は何とそ連寄候儀難成様子ニて候ハヽ、馬主付居候て
 入念養生仕、其段御國在所へ申越、御惣庄屋へ相達可申
 候、若病馬他所へ久敷逗留難成様子有之候ハヽ、其趣共
 早々可申越候事
一右之馬若死候ハヽ、其所々庄屋・宿主、又は町ニて候ハ
 ヽ町別當・宿主より、或ハ病馬或怪我ニて死候様子見届
 相違無之との證文を取可申候、此方之證文をも望候ハヽ
 病死之様子相違無之様證文を調遣歟申候、其上ニて右死
 馬之儀何方へ成共堀埋申度段、其所之庄屋歟町別當へ相
 尋、差圖之所へ堀埋歟申候、堀埋候ニ及間敷と申候ハヽ
 捨所受指圖捨置罷歸、即刻右之首尾御惣庄屋へ申達、御
 惣庄屋より御郡奉行へ相達可申事
一於他領村里遠野山ニて馬怪我仕候歟又ハ煩候ハヽ、早々
 其近方之村へ罷越候て申断、人を雇村へ連寄養生歟仕度、
 自然急病歟又は毛がニて即時馬死候ハヽ、是又早速近方
 村へ申届、其所之者へ死馬之様子見届候て、或煩或怪我
 ニて馬死候段見届相違無之旨、見届人幷村庄屋歟町別當
 證文を取可申候、此方之證文をも望候ハヽ死馬之様子相
 違無之様證文調遣可申候、死馬之儀右同断、所之庄屋歟
 町別當へ相尋、堀埋候歟又ハ埋候ニ不及と申候ハヽ捨所
 受指圖捨置、御國へ罷歸即刻右之首尾御惣庄屋へ相達、
 御惣庄屋より御郡奉行へ可申達事
一他國之馬御領内ニて怪我仕候歟、或病馬有之候節、支配
 仕様之事
一他國之馬御領内ニて怪我仕候歟、又ハ病馬之節、宿主随
 分支無之様肝要歟申候、若右之馬死候て見届人を乞候ハ
 ヽ早速罷出見届可申候、又ハ證文をも取可申と望候ハヽ
 早々御惣庄屋へ相達、御惣庄屋より御郡奉行へ申達受差
 圖、死馬之様子見届候通相違無之庄屋・宿主より證文調
 遣、彼方より之證文をも取り可申候、右之死馬堀埋可申
 哉と相尋候ハヽ、いか様とも望次第仕、捨場見計差圖可
 仕候事
一他領之馬御領内村里遠野山なとニて怪我仕候歟、又ハ病
 馬有之段申断候ハヽ、其所之者罷出肝煎歟申候、若急ニ
 馬死候由申届候ハヽ其所之者罷出立合見届候て、即刻御
 惣庄屋へ相達、御惣庄屋より御郡奉行へ申達、任差圖、見
 届人幷庄屋方より死馬之様子相違無之様證文相認、彼方
 ゟ之證文をも取可申候、死骸之儀右同前ニ心得可申事
右は御領他領ニて病馬・怪我馬、或死馬有之候節支配仕
様、向後右之通沙汰可仕旨h仰付候間被得其意、此段御惣
庄屋・村庄屋幷在々馬口勞・宿町駄賃馬持共至迄堅可被申
付置候事
   元禄二年巳正月

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■体幹障害?

2018-08-30 19:56:30 | 徒然

 最近は一月毎に病院に行き、いろんなチェックを受けている。
血圧は薬のお陰で平常値を保っているが、血糖値が高く、ほぼ「糖尿病状態」である。
食事に気を付けて運動のために毎朝散歩を続け何とか基準値をクリアしようと必死である。
歩くのは良いのだが、まっすぐ歩けず、酒に酔って歩いているような感じが解消しない。
どうも加齢から来る小脳の異常らしい。「体幹障害」とでもいうのだろうか・・・
頭部のCTスキャンを見せてもらったが、古い脳梗塞の跡だという影があった。
数年前左手がしびれて仕方がなくそのころの事だったのだろう。それから少々体の事を考えなければと思うようになった。
少々遅きに失した感じはあるが、こうなれば主治医の先生に我が身を託して、摂生するのみである。

あと少々長らえて、肥後細川藩侍帳をすべて見直して完全なものにしたいと念じているが、早くしないと後の祭りになりかねない。
今しばらくの猶予を願うばかりである。

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■住所録消滅

2018-08-30 10:12:33 | 徒然

 PCの中にあるデータは、紙にすることをしないようにしているが、住所録が消えてなくなったのには大いに慌ててしまった。
実はデータを丸ごと「一太郎」に移そうとした際、誤操作をしたのが原因らしい。
そこで昨日は、年賀状その他の郵便物から、新たに住所録を二時間ほどかけて整備した。
処が数が10程減っているから、何方かが脱落している。まだ年賀状の時期までは時間があるから思い出して付け加えなければならない。
もう宛名書きも手書きが辛くなってきて、年賀状等は特にプリントアウトしなければ疲れてしまう。
先日はWiFiの故障で一日半ほどPCが使えず、なんとも手持ち無沙汰ですごしたが、76爺の暮らしにとっても欠くべからざるものである。

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■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(6)

2018-08-30 08:01:16 | 史料

 〇鐵炮御改之儀、先年書附被仰付候通彌以堅相守、鐵炮
  餘人へ借申間敷候、尤鐵炮所持不仕者無断所持仕間敷
  事
    此一巻左ニ記
 七四六
 一筆申觸候、然者今度被仰付候鐵炮改之儀ニ付、獵師威
 シ鐵炮・用心鐵炮・牢人稽古鐵炮・商賣鐵炮・夫々證文
 被仰付筈ニ候、則案文五通指越候間其御心得可有候、同
 村之中同類之鐵炮有之ハ、五人ニても十人ニても連判之
 書物ニ可被仰付候、尤其者/\之五人組替相見候様可被
 仰付候、不及申獵鐵炮・威鐵炮なと一つに證文調候儀ハ
 不成筈ニ候、其類之數有之候ハヽ、類寄御調候様と申入
 儀ニ候、右證文之案文各御寫候て先々へ被差越、觸留之
 所より此方へ可有御返候、已上
  貞享五年三月十五日    郡方

 七四七
  覺
一鐵炮御改之儀、彌以無懈怠可有沙汰候事
一鐵炮借候儀は勿論、借用仕候儀御法度之事ニ候間、堅相
 守候様重疊可被申渡候事
一商賣鐵炮賣之候節は、御奉行所へ其段相達、受差圖候様
 可有御沙汰事
  但、町在共鐵炮質物ニ取遣仕候儀堅無用之事
一支配内浪人取上鐵炮、御郡奉行衆手前ニ取置、幷御百姓
 共取揚鐵炮ハ御惣庄屋手前ニ預居候、右之鐵炮彌入念可
 被預置候事
一獵師之内闕人有之時は、其者所持之鐵炮早速御惣庄屋手
 前に取上、其時々御奉行所へ可被相達候
一缺跡之鐵炮、其もの親類ハ不及申、他郡之者ニても於望
 申は、遂吟味其趣可被書出事
一右缺跡望申もの、同村獵師同名無之可被申付事
一缺跡之鐵炮望申もの、幷所替仕候もの共村々之儀、郷帳
 面ニ有之村相違無之書出候様可被申付事
一獵師共所替仕度段願候ハヽ、前以御奉行所へ相達、可受
 差圖事
一御改帳ニ書出候鐵炮所持之者共之内、闕人有之節は、早
 速鐵炮を御惣庄屋手前ニ取置候ハヽ、其段御奉行所へ可
 被相達候、所替之儀も右同前可有御沙汰候
一右帳面ニ被書出候者共之名を替候儀を(はヵ)儘ニ不成事ニ候
 間、其段可被申付候、若無據様子有之候ハヽ、御奉行所
 へ可被相達候
一他國より御國へ來候もの、幷浪人等支配内へ仕候ハヽ、
 鐵炮所持仕居候哉之段相改、有無之儀其時々指出可被申
 付、御奉行所へ可被相達候、勿論、鐵炮所持仕ニおゐて
 ハ早速取揚、玉目書付可被指出事
  附、他國より當分為渡世來候者も、即刻相改、鐵炮所
  持仕者御惣庄屋手前預置、其段御奉行所へ可被相達候
  事
一御改帳ニ被書出候浪人他國へ引越候節、鐵炮持参仕度由
 願申候歟、御奉行所へ相達可受指圖事
一右御帳ニ被書出鐵炮所持之もの共、他國へ引越候節、無
 断鐵炮持参不仕候様堅可被申付候、尤村庄屋五人組へも
 其段可被申付置候事
一右御帳ニ被書出候町幷在々御赦免之鐵炮、損繕候分ハ相
 断不申候ても不苦候、玉目替候ハヽ御惣庄屋へ相断、其
 時々御郡奉行承届、御奉行所へ可被相達候事
一鐵炮持主共之内、鐵炮取迯仕候歟又ハ盗レ候者有之時ハ、
 其段被承届、早速御奉行所へ可被相達事
一支配之御扶持人又は御惣庄屋・一領一疋・地侍・地鐵炮
 者御暇被下候砌ハ、被相達、鐵炮所持仕候ハヽ取上置、
 其段御奉行所へ可被相達事
一支配之寺社方へも、右之趣を被受、可有御沙汰候事
右之趣被得其意、支配方御惣庄屋幷村庄屋へ堅被申付、末
々迄入念候様ニ可有御沙汰候、此書附之外難被及了簡儀は
御奉行へ可被相達候、以上
  元禄四年正月
    右之外、事繁により略之

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■候は句点?

2018-08-29 20:47:35 | 徒然

 山本夏彦はその著「完本 文語文」のなかで、谷崎潤一郎が言ったことだとして、「候は句点」であり、「候ところ」「候まま」「候あいだ」等という使い方は間違いだとしている。

そんなことはない・・・・古文書を読んでいると盛んに出てくる。「・・・候にて候」なども同様である。
大先生の仰ることだとして、鵜呑みにすることはない。実物がかもし出すニュアンスは句点で切られるよりも豊かである。

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■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(5)

2018-08-29 06:52:22 | 史料

 七四〇
  條々
一異國より抜荷を買取候金元をいたし、人を雇ひ候て抜荷
 仕候者有之由相聞候間、彼族を訴人仕るに於ひてハ、吟
 味之上金元仕候者之金銀米銭家財等迄、不殘可被下之事
一抜荷仕候ものを同類能内より召捕へ、或訴人仕候ものに
 ハ、右之荷物御褒美として可被下之事
一唐人と抜買を申合、または右之言合の取次をいたし、或
 ハ抜荷物仕なれたる者幷抜荷物に雇はれ、或ハ其事に携
 り候者之事訴人仕におゐてハ、急度御ほうひを可被下、
 たとひ同類たりといふとも其科をゆるし、賃銀禮銀等申
 合候員數の一倍可被下之事
  附、只今迄抜荷仕候者の宿いたし、故ハぬけ取候荷物
  預り隠し置候もの、或ハ手合仕候ものたりといふとも
  訴人仕候ハヽ是又其科をゆるし御褒美被下候事右同断
  たるへき事
右之条々急度可相守之、若存なから隠置外より令露顕は、
其科本人同前たるへきもの也
  正徳四年十一月    奉行

 七四一
  定
 人賣買彌堅可禁之、召抱之下人男女共拾ヶ年限といへと
 も、向後年季限無之譜代に召抱共可為相對次第、此旨可
 存者也、仍如件      
  元禄十二年三月日   奉行

 七四二
  覺
 西國中國其外上方筋ハ、商賣物銀遣荷て金を遣候儀不自
 由之旨相聞候、向後諸國一統に金銀共無滞通用可仕候、
 當分遣なれ不申内商賣に差つかへさるやうに、御料ハ御
 代官、私領ハ地頭より入念可被申付候、以上
  巳十二月

 七四三
  定
 何事によらす宜からさる事に百姓大勢申合せ候をととう
 と唱へ、ととうして強て願事を企るを強訴といひ、或ハ
 申合せ村方たちのき候をてうさんと申、前々より御法度
 ニ候段、右類之儀これあらハ居村他村に不限早々其筋の
 役所へ申出へし、御褒美として、ととうの訴人銀百枚、
 ごうその訴人同断、てうさんの訴人同断、右之通り下さ
 れ、その品ニより帯刀苗字御免あるへき間、たとへ一旦
 同類に成とも、發言いたし候ものゝ名前申出るにおひて
 ハ、其科を免され御ほうひ下さるへし
一右類訴人いたすものもなく村々騒立候節、村内のものを
 差押へ、ととうに加ハらせす、一人もさし出さゝる村方
 これあらハ、村役人ニても百姓にても重モに取静候もの
 ハ、御褒美銀下され帯刀苗字御免、さしつゝき静メ候も
 のともゝこれあらハ、夫々御褒美下しおかるへき者也
  明和七年四月    奉行

 七四四
 一筆申觸候、切支丹轉者若御切米取之内有之、其者果候
 ハヽ、早速御奉行所え組頭方より被達之、其上組頭・御
 奉行所御目附立合届之、死骸髪をも剃不申、鹽詰ニ仕、
 旦那寺へ遣置、其段書附を以可被達候、尤相組之者ニ三
 人組脇小頭等出合可相改之、幷召仕之者ころひもの有之
 刻も右同断
一御切米取切支丹宗門轉候もの類族有之果候節は、組脇小
 頭衆幷相組之内一両人出合改之、不審成る儀無之段組頭
 衆承届、旦那寺ニ土葬仕置、其趣従組頭可被相達候、組
 頭無之面々は、其列之内二三人出合改之、觸頭又は其支
 配方へ申届候上、書附を以可被相達候、御切米取召仕候
 ものに類族有之果候ハヽ、其死骸相改、支配之頭々え申
 達、旦那寺え土葬仕、其支配方より可被達候
一御侍中之家來ニ切支丹轉之者有之果候ハヽ、早速御奉行
 所へ可被申達候、其上主人御奉行所御目附立合見届之、
 髪をも剃不申、死骸鹽詰仕、旦那寺へ遣置、其段書附を
 以可被達候、且又轉者之類有之果候ハヽ、主人方より諸
 事相改、不審成儀於有之ハ、旦那寺え土葬仕置、主人手
 前より組頭へ相達、書附可被差出候
一従公義被仰出候御書付之通、親轉不申以前之子共、男女
 共本人同前ニ改之筈ニ候
右之趣相違無之候、御組頭衆御組中へも可被仰觸候、恐惶
謹言
  貞享四年八月廿七日        有吉市郎兵衛
                   柏原新左衛門

 七四五
一諸御郡中切支丹宗門ころひ候本人果候節ハ、早速御奉行
 所へ可被申達候、其上ニて五人組・庄屋・惣庄屋立合相
 改、御郡奉行・御奉行所之御目附見届之、死骸髪をも剃
 不申鹽詰ニ仕、旦那寺へ召置、其段書附可被差越候
一本人町方之者果候ハゝ、早速御奉行所へ被相達、其上ニ
 て五人組・町頭・年寄立合相改、御町奉行・御奉行所之
 御目附見届之、死骸髪をも剃不申鹽詰ニ仕、旦那寺へ召
 置、其段書附可被差出候
一切支丹宗門ころひ候者の類族果候刻、五人組・庄屋・惣
 庄屋立合相改、不審成儀無之段御郡奉行承届、旦那寺へ
 土葬仕置、其段書附を以可被相達候
一町方へ居候類族果候ハヽ、五人組・丁頭・町年寄立合相
 改、不審成儀無之段御町奉行承届、右同断
一本人果候節之御目附之儀、八代之町在共御城附、佐敷表
 は町在とも彼地詰之衆被相勤筈ニ候、其外之町在ニは御
 奉行所之御目附衆被出筈ニ候
一鶴崎表、久住、野津原、此三ヶ所ハ遠方之儀候間、轉申
 披之本人果候刻、熊本へ先注進被仕、其上ニて改被申候
 ては延引ニ成候ニ付、改以前ニ果候との注進ニは不及候、
 且又、右三ヶ所之本人死骸改之節、見届之御目附は彌鶴
 崎詰之御目附勤被申筈ニ候
右之趣、最初も被仰渡候得共、彌相違無之と被致沙汰候
様、為年所々御町奉行・御郡奉行え可被仰觸候、恐々謹言
  貞享四年八月廿七日        有吉市郎兵衛
                   柏原新左衛門
    此外事繁により略之
        

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■朝日新聞の相良清兵衛関連記事

2018-08-28 10:55:32 | 歴史

 朝日新聞デジタルで相良清兵衛に関する記事が掲載されていることをN氏からわざわざご連絡いただいた。
なぜこの時期にという思いもあるが、私はちょうど「細川家史料に見える・相良清兵衛事件」をご紹介している最中であり、ありがたいアシスト記事である。

    https://www.asahi.com/articles/ASL814DNJL81TLVB00Y.html

当方におけるご紹介は足踏み状態だが、また頑張って該当記事をご紹介したいと思う。

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■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(4)

2018-08-28 09:32:10 | 色・いろいろ

 七三七
  條々
一公義之船は不及申、諸廻船共遭難風の時は助船をいたし、
 船破損せさる様に成程情をいるへき事
一船破損之時は其所近き浦之者入情、荷物船具等取揚へし、
 其取揚ヶ候所之荷物之内、浮荷物は貮拾歩一、沈荷物は
 拾歩一、川舟ハ浮荷物三拾歩一、沈荷物は貮拾歩一取揚
 候者ニ科遣之事
一沖にて荷物はぬる時は、着岸之湊におゐて其所御代官下
 代庄屋出合遂穿鑿、船に相殘荷物船具等之分可出證文事
  附、船頭浦之者と申合荷物盗取之、はねたる由偽申に
  おゐては、後日に聞といふとも、船頭ハ勿論申合輩悉
  可被行死罪事
一湊に永く船を懸置輩あらハ、其子細を所之者相尋日和次
 第に早々出船いたさすへし、其上にても令難澁ハ何方之
 船と承届之、其浦之地頭・代官ニ急度可申達之事
一御城米廻之刻、船具水主不足之悪船に不可積之、幷日和
 好節於船頭は船主沖之船頭可為曲事、惣て理不儘之儀申          よしなすといえども
 懸之又ハ私曲於有之ハ可申出、縦雖為同類其科をゆるし、     縦雖為ー縦し為すと雖も(たとえやるとしても、たとえやったとしても)
 御褒美可被下之、且又あたを不成様ニ可被仰付事
一自然寄船幷荷物流來におゐてハ揚置へし、半年過迄荷主
 於無之は揚置之輩可取之、若右之日數過荷主雖為來不可
 返之、雖然其所之地頭・代官可受差圖事
一博奕惣て賭之諸勝負、彌堅可為停止事
右之條々可相守此旨、若悪事仕におゐてハ申出へし、急度
御褒美可被下之、科人は罪之輕重ニしたかひ可為御沙汰者

  寛文七年閏二月十八日    奉行

 七三八
一前々より浦々高札相建、公義之船は不及申諸廻船共猥成
 儀無之様ニ日仰付置候處、遭難風候節も所之もの共船の
 助には不相成、却て破損候様にいたし、態と荷物を刎さ
 せ、或は上乗船頭と申合不法之儀共有之様に相聞不届ニ
 候、御領は御代官、私領ハ地頭より常々遂吟味、毛頭不
 埒不仕様急度可被申付候、若此上不埒之儀於有之ハ、後
 日ニ相聞候共其ものハいふに不及、所之者迄可被行重科、
 其上其所之御代官地頭迄可為越度事
一御城米船近年破損多候ニ付、今般諸事相改、別て大切ニ
 可仕旨申渡、船足之儀も深ク不入様ニ、大坂船ハ大坂奉
 行、其外國々之船ハ其所支配之御代官より、船足定之所
 ニ極印を打、船頭水主之人數不減少様ニ急度申付、令運
 漕筈ニ候、依之、湊ニ寄候船之分ハ船頭水主人數幷船足
 極印之通無相違哉、送状ニ引合急度相改、帳面ニ記置、
 上乗船頭ニ印形致させ、右書物其所ニ留置、御料は御代
 官私領ハ地頭へ指出之、御代官幷地頭より御勘定奉行迄
 可被差出候、且又、極印より船足深ク入候有之候ハヽ積
 候俵數委細に改之、御城米之外、船頭私之運賃を取、他
 之米穀或ハ商賣之荷物等積入候歟、又は水主人數定之内
 令減少候ハヽ、私に積入候荷物は其所ニ取揚置、水主人
 數不足之分は其所ニて慥成水主を雇為致出船、其上ニて
 右之譯早速御勘定奉行へ可訴之事
右之條々急度可相守、若違犯之輩於有之は詮議之上可被行
罪科、不吟味之子細も候ハヽ、其所支配之御代官又ハ地頭
迄可為越度者也
  辰八月

 七三九
  条々
一浦々におゐて船を借り候て、異國船之ぬけ荷を買取候者
 有之由相聞へ候、自今以後はたとひ初より其事をしらす
 して借し候とも、其船の船頭水主はぬけ荷買取候ものゝ
 同罪ニ行ハるへく候、然上ハ諸國浦々の船頭水主つねつ
 ね申合せをき候て、若ぬけ荷買取候ものに船を借し合候
 ハヽ、からめ取候て長崎奉行所又ハ其所の御代官所地頭
 荷なりとも程近き所へ申出へし、若又、船中にてハとら
 へかたき事も候ハヽ、何方へなりとも船をつけ候所にて
 其所の者に告しらせ、からめ取候て其所に預置、是又長
 崎奉行所又ハ其所之御代官地頭へなりとも申出へし、其
 船頭水主は急度御ほうひを下さるへし
一浦々の船頭水主、たとひぬけ荷買取候事を申合せ候とも、
 或ハ船中にてなりとも、或ハ船を付候所にて成とも、ぬ
 け荷買取ものをからめ取候事、前にしるし候ことくに仕
 候ハヽ、初より申合候罪科をゆるし御ほうひハ船借り候
 時に申合候代物の一倍下し置るへき事
  附、其船の事ハ船主船頭等相對にて借し候とも、其水
  主の働により候てぬけ荷買取候もの幷申合候船頭等か
  らめ取候ハヽ、其水主に被下候御ほうひの事、是又船
  借り候時船主船頭等と申合せ候代物の一倍を下さるへ
  き事
一諸國浦方におひて、ぬけ荷買取候もの有之由を告知せ候
 者有之候ハヽ、其所の者共早速に出合ひ候てからめ取へ
 し、若油断せしめとりにかし候におゐてハ、急度罪科に
 行ハるへき事
右之条々急度相守へき者也
  正徳四年二月    奉行

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■購入「檜垣嫗集」

2018-08-28 06:45:38 | 書籍・読書

 京都大学国語国文資料叢書22「檜垣嫗集、蓮台寺蔵・祐徳神社蔵」を、日本の古本屋で発見購入した。
先の史談会で「檜垣媼家集補注」を勉強したところだが、まずはその前に本元の「檜垣嫗集」を読まずばなるまいと思ったところだが、注文が遅れ史談会には間に合わなかった。(お粗末様・・)
影印として、檜垣のお墓が在る「蓮台寺」本、又祐徳神社所蔵の「きよ原の元すけ」「ひかきのうは集」が掲載されており、夫々翻刻が為されている。
蓮台寺本については、「元久二年五月廿九日 校合畢 従三位治部卿平朝臣」の原本を、「右之一冊者飛鳥井前大納言雅章真筆ヲ以不違一字書写畢尤後代可為明鏡者也」とする写本をなし、「于時寛文七年六月下旬 法橋玄幸」が更に写したものであるという。これを細川家筆頭家老・八代城主松井家の5代直之(元禄5年10月29日没・55歳)が、蓮台寺に納めたと記されている。
編者・目加田さくを氏は、この「蓮臺寺本」が収められた霧箱に「檜垣集一帖 右八代府君源直之公見寄與者也 寛文七年秋九月 蓮臺寺住持文海誌」と記されていることから、松井直之を藩主と解されているが、これは明らかな間違いである。

遅まきながら翻刻文を精読して勉強をしようと思う。

ちなみに、飛鳥井雅章の室は烏丸光賢(室・細川忠興女・万)女であり、松井直之室は同じく光賢の子・烏丸資慶女である。
又直之の末妹は、烏丸資慶の弟・裏松資清の息・意光に嫁いでいる。

 

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■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(3)

2018-08-27 10:40:01 | 史料

 〇御高札之面堅相守可申事
    此一巻左ニ記
 七三二
  定
一忠孝を勵し、夫婦兄弟諸親類に睦敷、召仕の者に至迄憐
 憫を加ふへし、若不忠不幸の者あらハ可為重罪事
一萬事おこりいたすへからす、家作衣類飲食等に及迄儉約
 を可相守事
一悪心を以、或いつわり、或無理を申懸、利欲を構へて人
 に害をなすへからす、惣て家業をつとめへき事
一盗賊幷悪黨の者有之は訴人ニ出へし、急度御褒美可被下
 事
  附、博奕堅令停止事
一喧嘩口論令停止之、自然有之時ハ其場え猥不可出向、又
 手負たる者を隠置へからさる事
一被行死罪之族有之刻、被仰付之輩之外不可馳集事
右條々可相守之、有違犯之輩は可被處嚴科之旨所被仰出候
也、仍下知如件
 天和二年五月日     奉行

右之通被仰出之訖、領分之輩堅相守者也
            越中守

 七三三
  條々
一毒薬幷にせ薬種賣買之儀彌堅制禁之、若於商賣仕は可被
 行罪科、たとひ同類たりといふとも訴人に出たる輩ハ御
 褒美可被下事
一にせ金銀賣買一切可為停止、自然持來におゐてハ両替屋
 にて打つふし其主へ可返之、幷はつしの金銀にせ金銀ハ
 金座銀座へ遣可相改事     
  附、にせ物すへからさる事
一寛永之新銭金子壹両に四貫文、勿論壹歩にハ壹貫文、御
 領私領共ニ年貢収納等にも御定之員數たるへき事
一新銭之儀は、いつれの所にても御免なくして一圓不可鍮
 出之、若違犯之輩有之は可為罪科事
  附、悪銭・似銭・古銭此外ゑらふへからさる事
一真作之慥ならさる書物商賣いたすへからさる事
一諸色々商賣、成一所に買置しめ賣、或ハ申合高直にいた
 すへからさる事
一諸職人申合、作料・手間賃等高直にすへからす、惣て誓
 約をなし結徒黨儀可為曲事事
右之條々可相守、此旨若違犯之族有之は可被處嚴科者也、
仍下知如件
  天和二年五月日     奉行

 七三四
  定
きりしたん宗門ハ累年御制禁たり、自然不審成者有之は申
出へし、御褒美として、はてれんの訴人銀五百枚、いるま
んの訴人銀三百枚、立歸者の訴人銀百枚、右之通可被下之、
たとひ同宿宗門之内たりといふとも訴人に出る品により銀
五百枚か被下之、隠置他所よりあらハるゝにおゐてハ、其
所之名主幷五人組迄一類共に可被處嚴科者也、仍下知如件
  天和二年五月日     奉行

 七三五
  條々
一伴天連幷切支丹宗門之類、異國より日本渡海之沙汰近年
 無之間、自然相忍密々差渡儀可有之事
一先年異國へ被差遣之南蠻人之子供伴天連に可仕立企有之
 由、此以前渡海之伴天連共申之儀、其子孫の伴天連と成
 候者、日本船を作り日本人の姿をまなひ日本の詞を遣ひ
 相渡儀可有之事
一異國船近年四季共に渡海自由たるの間、浦々の儀ハ不及
 申在々所々に至迄、常々無油断心を付見出し聞出し申出
 へし、縦彼宗門たりといふとも、於申出は其咎をゆるし、
 御褒美之上乗渡船荷物共可被下之、萬一隠置後日に伴天
 連又ハ同船之輩等捕之、拷問之上は其かくれあるへから
 さるの間、不申出之相隠す輩之儀ハ不及申、其一類又ハ
 其品により一在所の者迄急度曲事におこなはるへき事
右之條々海上見渡す所々番之者は勿論、獵船之輩、其外之
者ニ至迄念を入、見出し聞出し奉行所迄可申出之者也、仍
下知如件
  正徳四年十二月日    奉行

 七三六
  覺
一質地取候者年貢不出之、質地ニ遣置無田地者方より年貢
 役等勤候者有之由相聞不届之至ニ候、堅停止之事
一田畑永代賣買、此已前日仰出候通彌以制禁之事
右之趣堅可相守、若違犯は可行罪科者也
  卯四月日

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■是政夫人・雲仙庵も坂本西教寺

2018-08-27 06:43:47 | 史料

 先に■今一つの米田家のお墓 で米田家の是季・是長・是正・是長女吟・是長の養子となった是庸のお墓が大津市坂本の西教寺にあることを知りご紹介した。
昨日、米田家の系図を詳しく読んでいたら是季の父・助右衛門是政夫人雲仙庵が、遺言によりその西教寺に葬られたと記されている。
没年は慶安三年五月十六日である。その八年後、息・是季が亡くなっている。
是季が細川家を出奔(慶長12年=1606)し、元和8年(1622)帰参するまでの16年間、一体どこに住んでいたのかという疑問がずっと在った。
一時期この西教寺に身を寄せていたのではないかという話がある。
雲仙庵がこのお寺に埋葬するように望んだ理由は何であったのだろうか。雲仙庵は「明智日向守室ノ兄弟ノ子」と系図には記されている。
西教寺の説明に「元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。」とある。この辺りにヒントがあるような気がしているのだが・・・?

                   明智光秀室・妻木煕子の墓


     
真賀法印関係略図と米田家系図をまとめてみた。

                      +ーーー●名不分明 飯岡肥後宗信室
                      |                                       細川忠利末子
                      +ーーー●チヨ 牧 興相室             長岡元知
                      |                         ‖ーーーーーーーー是庸
                      +---●コヤ 乃美主水景尚室                             +ーーー            |
        
            米田助右衛門是政  |                                                                |         ↓
                                       ‖ーーーーーーーーーーーーーーーー+---是季ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+---是長ーーー+========是庸
     真賀法印---+---●アン(雲仙庵)   |                 |
          |           +ーーー●フク 波々伯部八左衛門室   +ーーー是正
          |           |
          |           +ーーー●ナツ 
          |
          +---●野々口丹波室 此子野々口又之允正保年中當御家ニ被召出候
          |

          +---某 比良内蔵助ーーーーーーーーーー比良太郎兵衛
          |
          +---●シモ 入江兵衛尉室 秀林院様御側ニ■勤御遺言承り候、入江傳右衛門母なり
          |

          +---某 以斎坊 後還族
          |
          +---某 喜斎坊 後還族ーーーーーーー●コウ 毛利藤兵衛ニ嫁ス
          |
          +---某 田中官兵衛 後号通安

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■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(2)

2018-08-26 15:21:09 | 史料

 七二九
 口上
一御百姓共平日奢ヶ間敷儀無之、費等堅不仕、衣類之儀襟
 袖口帯等ニ至迄絹類堅相用不申、菅笠・合羽・鼈甲象牙
 之櫛笄等、従前々御停止被仰付候儀委不及申達候、然處
 下方今以風俗悪ク、衣類其外共猥成る様子不届之至候、
 急度相改、諸事兼て御法度向堅相守候様人別各より可被
 申付候、右之趣度々被及御沙汰、皆共よりも稠敷申觸事
 ニ候へ共、今以相改不申様子不届至候、此上右之趣相背
 候もの於有之は、其者ハ不及申村役人共へ急度可被申付
 候、左無之候ハヽ各へも可為越度候條、稠敷被申附、相
 背候者有之候ハヽ早速覺書を以可被相達候、餘御郡前宜
 敷、支配所格別惰弱ニ有之候ハヽ不届至候、其外賭博ヶ
 間敷儀兼て御法度之通稠敷可被申付候、相背候もの有之
 候ハヽ其趣可被相達候
一前々より年程相觸候徳利酒村々へ有之、御百姓風俗悪敷
 家業を不出精ニいたし候段相聞不届之至候、村々稠敷可
 被申間敷候、勿論、札受取候賣人たりとも札面之外賣物
 堅賣せ被申間敷候、右之通相背候者有之候ハヽ、其者ハ
 申不及村役人共指通不申候様、稠敷被申附、及違背候者
 有之候ハヽ早速可被達候
一馬口勞札之儀、札を受取候者共之外牛馬商賣立等之儀不
 仕筈ニ候處、間ニハ無札之者立會、又ハ高持御百姓之内
 ニも左様之類有之様子相聞不届候、急度被申附、相背候
 者有之候ハヽ是又早速被相達、右之外御法度之趣一々不
 及申達候、年々御沙汰之趣委敷申聞相慎候様稠敷被申付
 違背之者少も見遁聞遁なく、尤遠慮會尺等ニ拘不被申、
 急度吟味有之可被相達候、不之様子ニて風俗相改不申     扌偏に乄=締
 候ハヽ、其趣委敷御役所へ相達申筋有之候事

 七三〇
   覺
一年中方之儀、追々御達之趣村役人共も所柄ニより堅相
 守、且、小百姓ともへも不絶申聞候ニ付、村々引風俗
 も宜様子ニ相聞候間、彌以入念常々無油断心を附候様可
 被申渡候
一博奕之儀御法度ニて候處、間ニハ心得違之者有之、相顕
 候ヘハ御咎被仰付、筋ニより庄屋共も越度相成候間、聊
 之儀ニても手遊不致様被申渡、各もひたと廻在方ニ成
 候様被申付候
一在中ニて無願見せ物致興行人を集メ候儀ハ、兼々御法度
 被仰付置候、春内は人形舞シ踊春駒其外致門藝もの入込
 候を村方ニ宿致せ、假ニ舞臺等敷儀取しつらひ、又ハ間
 廣なと借受、近郷之人を集メ藝致せ候心得違有之、跡達て
 方申付候所々有之候、右躰之儀及吟味候ヘハ、所ニよ
 り在宅人之名をかすり又ハ在宅人屋敷内ニて興行有之、
 村役人共より指留候儀難成段申出候、在中之妨ニ相成候
 趣を以相断候を、在宅之面々強て興行可被仕様無之候、
 萬一相断候ても聞入無之、押て興行有之候ハヽ、早速御
 惣庄屋え致注進候様被申付置、早々此方え可被相達候
 右之趣小百姓共迄も委敷可被申附候、御法度之條々格別
 申達ニも不及事ニ候得共、右両條は間々心得違も有之候
 ニ付、御役所にも相達猶又一統及達候間、不洩様可被申
 付候、以上
  正月

 七三一
一御百姓共之儀、耕作之時節をたかへす、地味を考、農業
 出精いたし、御年貢諸出米銭公役等速ニ相勤、親ニ孝行
 いたし、夫婦兄弟にむつましく、諸御法度を守候者ハ、
 風儀宜敷御百姓ニて誠ニ國之寶ニて候、士農工商共其家
 業を専に致筈ニ候、百姓ニ生れ得候もの農業を出精いた
 ス筈之事なから、極々骨折仕事ニ付、生質不情成者ハ間
 々外之業ニ移り安く候ニ付、庄屋・頭百姓・村横目より
 常々委申聞せ精を出せ候様、農業出精ニて油断なく働候
 者ハ夫たけ作徳有之事不及申事ニ候、左候得ハ御年貢も
 早ク納候上諸事夫ニ應手廻よく、第一親を能養ひおのつ
 と家内申分も無之候、右之通ニて御法度を守候者ハ賞翫
 すへき事ニ候、夫ニ引替不情のものハ時節ニ後レ、仕事
 も麁抹ニ怠りかちに有之候ヘハ、不作ハ目の前ニて御年
 貢も難澁いたし、夫よりハ人ニ不筈出來諸事せわらしく
 成行候て、親も養ひ得す家内口論勝ニ有之、自然といろ
 /\之悪事を工ミ御法度を背き、つまる所ハ盗賊共相成
 事候、善悪之分り根元農業ニ出精不出精之所より起候
 間、能々此意味を辨へ出精致シ候様可被相心得候事
  但、庄屋・頭百姓・村横目ハ不及申、五人組内ニても
  頭立候ものより委敷申談、何レも出精致せ可申事
 

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■三齋公と檜垣の塔

2018-08-26 08:11:08 | 歴史

 昨日の史談会では「檜垣媼家集補註」を取り上げた。檜垣媼は、能「檜垣」が有名であり、又「年ふれば わが黒髪も白川の みずはくまで 老いにけるかな」の歌でも知られる。
この「補注」は、熊本の近世後期の国学者・中島廣足の著によるものだが、これに書かれている檜垣の塔である。実物は熊本市蓮代寺町の蓮台寺に檜垣のお墓として存在している。
この「檜垣の塔」については、細川家の肥後入国直後の三齋(忠興)公の逸話が残されている。
熊本城に入った三齋公は、城内にこの檜垣の塔が在ることに気づかれて、次の宿泊地河尻から、書面を届け、蓮台寺にすぐさま返すように言い渡されている。
そして八代に初入城するために出発されている。「三代集」にある檜垣の歌のことなどをよく御存知であったことを示す逸話である。

         

            昨日申度候つれとも、初而参候故、無其儀候、
            今日ハ天氣悪敷河尻ニ逗留申内、越中
            所ゟ歩之者参候間、幸と令申候、仍而、ひか
            きの女の石塔を、肥後守居間之庭に居候            
            へる、御入之此女ハ、三代集之内ニも入、無隠儀ニ
            候、左候へハ、國之古跡にて候、其はかの石塔迄取
            候事氣ちかい一つの内たるへきかと存候、其上
            見事にも無之候、万事肥後守仕様悪事ハ
            不可仕置候儀候條、當年中ニこれを取除むかし
            の所ニ遣しむかしニ不替様取立置可然かと
            存候、各分別候而能時分、越中に可被申聞候候 以上
             十二月廿一日          三齋
              四郎右衛門殿 (家老有吉立行)
              道 孝 老  (大友義鎮宗麟の二男)
              竺 印    (山田竺印)
              中 庵
                 参

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