津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■中瀬助九郎の敵討ちと、親・源太左衛門の死の真相

2023-04-15 07:03:51 | 人物

 先の■明智光秀の甥って誰で書いたが、中瀬家の初代・助九郎は不幸な死を遂げた父親・源太左衛門の敵討ちを14歳で成し遂げて勇名をとどろかせた。
中瀬家には先祖附とは別に「中瀬家傳略」という文書が存在する。そのなかにこの事件に関することが記されているが、今一つ父の死についての原因がよく判らない。
一方助九郎の弟・僧南谷については「近世畸人傳」に「僧南谷」という記事が残されているが、この事件について「附」として次のように記されている。

 附、松下助三郎豊長(故有て母家の姓を冒し中瀬助九郎といふ)は、南谷の兄也。父忠綱(源太左衛門)、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切 腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。其後、豊長(助九郎)京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざること をうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も 亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎(助九郎)にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の 従者、(坂根八左衛門・中田平次右衛門) をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、 旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、 八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。

 この文章を見ても真相がよく判らない。実は島根大学教授の田中則雄氏の「芥川敵討実録の展開」という論文が公開されていた。
この事件の原初的なものが地元石見に存在しており、これにより事件の真相にたどり着くことが出来る。
その論文に事件の概要が次のように記されている。

 万治二年(1659)の春、吉永藩士早川四郎兵衛の養子八之丞が、同僚大崎長三郎を男色の争いから討ち果たし出奔した。その後早川四郎兵衛は藩によって責めを負わされ切腹。八之丞は、これは大崎長三郎の姉が藩に働きかけた結果であると伝聞し、彼女の夫である松下源太左衛門を敵と定め、江戸に於いて討つ。残された幼い兄弟三郎兵衛、忠三郎は、成長の後敵討に出る。兄弟二手に分かれて探索中、忠三郎が摂津の芥川で八之丞を討ち取る。時に忠三郎十四歳であった。

 これが近世畸人傳・僧南谷の記事の「附」が語る所に殉じているのだろう。

処が上記論文の中で「談海」に収められている「芥川敵討ちの話」では少々筋書きが違っていることを指摘される。
それはいろいろな史料の中で「祖型」に近いものとして、主君・加藤式部少輔から早川が扶持を放され、これを松下源太左衛門の讒言によるものだと邪推したのもだとされる。扶持を放されたという早川とは上の事件概要によると父・四郎兵衛であり、これが源太左衛門を討とうと考えたが病となり、養子である八之允に遺言してこれを討たせようとしたとある。

 こうなってくると真相はやぶの中であるが、近世畸人傳・僧南谷の記事の「附」が語る、真相が霧の中に在る書き廻しがこれに殉じている用の思える。
田中則雄氏には「地方における実像の生成ー因幡・石見の事例に即してー」という論考があるが、これが論文「芥川敵討実録の展開」の前段に当たるものらしい。岩波書店『文学』2015年7・8月号に掲載されているようだが、古本では結構な値段がする。幸い熊本県立図書館が所蔵しているようなので、全文コピーが出来るかどうか判らないがチャレンジしてみたいと思う。
いずれにしろ源太左衛門は早川氏による逆恨みにより命を奪われたことになる。

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐三人の隊長

2023-04-15 06:40:34 | 熊本

         

              ほ古ろひし よろひの袖の     ほころびし 鎧の袖は
                乱連いて 繕ふ思ハ       乱れいて 繕ろう思いは
                  古登/\にして        ことごとにして
                        長貴

 作者の感慨は現世では集う事のない、協同隊長・宮崎八郎、竜口隊長・中津大四郎、熊本隊長・池部吉十郎の三人を一つの画面(もしかしたら黄泉の世界)に集合させた。
多くの有為の人を率いて戦った三人が語り合えば、その想いは如何なるものであったろうか。
宮崎八郎は八代の萩原堤で銃弾に倒れ、中津大四郎は宮崎の長井村の神社の森で切腹して果てた。池部吉十郎は鹿児島の城山陥落の知らせを聞き潜伏していたが捕らえられた。長崎の臨時裁判所で死刑の判決を受け処刑された。
三人の無念な思いに対して、鳩野宗巴は心からのねぎらいと、供養の誠を託してこの歌を詠んだのであろう。

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