津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

紅メダカ、二尾百疋也

2007-07-31 12:43:10 | 歴史
 宝暦の改革で名君とされる重賢だが、一方では本草の博物知識でも知られ「錦繡叢」や「毛介綺愌」など採色図鑑などを残している。そのようなことを知ってか、あるとき江戸へ出府する某が、大阪で「紅メダカ」なるものを見て人を通じて申し上げると、そのようなものがあるはずが無いと叱られてしまう。後日佐田右州なる人が同様「紅メダカ」を見つけて買い求め、フラソコ(ママ)に入れて重賢に献上したという。重賢は大変喜ぶと共に、先に叱り付けた某に対して、「自分の誤りであった」と断りを入れられたという。
その値は二尾で百疋だという。百疋=千文(一貫文)=1/4両とすると、二匹で二万円ほどだろうか。珍しいものだったのだろうが高い、ところで「紅メダカ」って何・・・・?

 某なる人「御側に相勤居候が、感涙にたえかねけり」と「槙集記」は記している。
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あっぱれ14歳

2007-07-30 18:46:02 | 徒然
 江戸時代においては「男色」とか「衆道」とかよばれるものは、容認されたもので有ったらしい。その気は無いのに、目をつけられた人にとっては迷惑な話ではある。若干十四歳の眉目秀麗な横田九郎兵衛は友人と共に、白川の河原で西岸寺の梵鐘の鋳造があるというので、見物に出かけている。そこにその気があるストーカー岩部弥太郎なるものが、刀を抜いてまで交情をせまった。九郎兵衛は止む無くこれに対応して岩部を討ち果たした。九郎兵衛は身分軽き者で有ったらしいが、穿鑿の結果「その行動が堂々たるものであった」として、士分に取り立てられた上で切腹仰せ付けられたという。藩庁の粋な取り計らいである。「横田九郎兵衛岩部弥太郎を討果す」という文書が残されている。
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松井康之殉死?・・「鷺絵源三郎久重覚書」から

2007-07-30 18:23:05 | 歴史
 昨日の「小壺狩り」の続き・・・・
「鷺絵源三郎久重覚書」では、小壺を献上した「いなづ」なる人は、康之が亡くなった時追い腹をしたと記されている。これはどういうことだろうか。松井家文書に於いては、康之に殉死したのは田中理右衛門只一人としている。その故をもって子孫は「松井」の名乗りを許された。さて「小壺狩り」の「いなづ」なる人についてだが、「鷺絵源三郎久重覚書」は次のように記している。

 佐渡死去ノ時イナヅ丞服(ママ・追腹)ヲ切ナリ 色々御留候へ共不聞、「兎角御恩ノ段ハ御伴申送申上ハ、御意にても聞不申」と云 「其恩ハ」と御問候へバ「未練何方二置たるぞ」と御申候つる御おん候て終二腹ヲ切候也

 三齋公伝書の解説書によると「主君の佐渡から、どこかへ未練を置き忘れて来たような健気な者だ、と誉められた事を御恩と思って」追腹したとある。
さて真実は・・・「いなづ=稲津」氏ではなかろうかと思うのだが。
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小壺狩り・・「鷺絵源三郎久重覚書」から

2007-07-29 12:10:26 | 歴史
 永青文庫にある「鷺絵源三郎久重覚書」が、そのまま「三齋公伝書」として今日紹介されている事を知った。鷺絵源三郎とは松屋会記を著した松屋源三郎の事である。松屋が所持する名物に、肩衝、鷺絵というものがあるそうだが、後者の鷺絵に由来して鷺絵源三郎としたのであろう。この覚書は三齋の「懇命」によって成されたとされるが、その内容は多岐に及び大変興味深い。その中にある三齋に関する茶会が、「松屋会記」に転載されていることは当然である。(芦屋在住のT氏のご教示と、膨大な資料を頂戴した、感謝)

 さて薄田泣菫の「小壺狩り」という小説が有る。松井康之の中間が旅の途中で見つけ手に入れた小壺が、康之の元へ上がる。康之の死後忠興に献上された。康之も忠興もその素晴らしさに魅了されるのだが、小者によって見出されたという経緯から、一抹の不安が心の中に残っていた。しかし古田織部によりその素晴らしさが認められて、その不安から解消されるというような話である。創作では無かろう、ならば作者は何処から題材を得たのだろうという疑問が残っていた。**青空文庫で読めます**

 「鷺絵源三郎久重覚書」(あえてそうしておく)や「松屋会記」のなかに、よく似た話が紹介されている。松井康之の鉄炮衆である「いなづ」が同様の経緯で小壺を見附け出している。以下は同じとも云っていい。泣菫は此処に題材を見出していたのだ。新しい資料に出くわして驚き、無学の不甲斐なさを思うのだが皆さん「よくぞこんな事まで」と思わせる勉強振りに脱帽である。
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真夏の世の夢・・さて明日は

2007-07-28 20:50:12 | 徒然
 今年は「蝉」の発生が四年ぶりとかで多いと報道があった。朝窓を開けると蝉が取り付いている。手を伸ばしても飛び立とうとしない。よくよく観察すると羽化をしてまだあまり時間がたっていないようだ。庭の木には三個ばかり抜け殻がへばりついているし、地面にはそれらしい穴がいくつか見える。大きな通りの街路樹が蝉の集合場所になっており、「ワッシ、ワッシ」と鳴き声が暑苦しい。
 暑苦しいといえば、「お願いします」の連呼がうるさかった天下分け目の選挙戦も今日で終了、さて明日国民はどのような審判を下すのか。松岡農相死去後の衆議院同時選挙の行方も興味深い。熱い選挙戦は終わったが、冷や水をかぶるのは誰か・・お楽しみ。
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細川一族の決闘

2007-07-28 18:13:30 | 歴史
 細川幽齋の末弟・三渕伊賀守好重の嫡男長岡重政が肥後三渕家の初代である。室は松井康之女(たけ)で嫡男が之直、次男が重則である。重則の子勘左衛門が嫁取りをしようとしたが反対者が出て不調となる。相手は藤田助之進(500石)の娘である。豊前街道(国道443号線)の福岡との県境に南関町があり、福岡に入ると山門郡山川町となりここに北関という所が有る。かっては北関、南関と二つの関所があったとも伝えられる。延宝元年藤田助之進は「お暇」して離国、それを追うように前川勘右衛門も「お暇」する。北関で両家一族が果し合いをして、藤田一族は討ち果たされたという事件である。女性問題が絡んだ不名誉な話だが、細川一門である前川(三渕)家としては絶対負けられない話である。事件後勘右衛門は豊後杵築で亡くなっている。自裁か・・・二十三歳。「北関始末記」「北関物語」「北関聞書」「北関秘録」といろんな文書が残されている。細川家にとっては苦々しい事件では有る。
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ばれてしまった

2007-07-27 10:24:30 | 徒然
 7月16日に行われたシンポジウム「肥後400年の品格・築城前後の熊本に見る肥後スピリット」の報告稿が、咋日の熊本日日新聞に二面に渡り掲載されている。私も参加したが、なかなか良いシンポジウムだった。(パネリストの発言のみで終わったのが残念・・)
 悪友から電話があった。「あんた出とったごたるね」「・・・・」「あれじゃばればれたいね」「・・・・」
講演に聞き入る人たちの会場風景の写真が掲載されている。なんとそのど真ん中に私がいる。見たとたん「まずい・・・」と思った矢先の悪友の電話であった。入場券の手配に当たっては速攻で申し込んだので大丈夫だろうと思っていたが、後日新聞社のF氏から心配のご連絡をいただいた。写真はまさに出席の証明となった。
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著者は・・・

2007-07-26 11:06:01 | 書籍・読書
 今読んでいる「幕末下級武士の絵日記」は、先に書いたようになかなか面白い。住居についても20数ページにわたっての記述が有る。各地のいくつもの平面図が紹介されていて下級武士の生活ぶりを伺える。かって私は、熊本藩士K氏(200石)のご子孫から、屋敷の間取り図のコピーを頂戴した事が有る。それらと比較しながら読んでいてふと思った。著者は建築関係者ではないのか・・・・。著者大岡敏明氏の略歴を詳しく読んで驚いた。熊本県立大学の教授で居住環境学専攻で工学博士とあった。なんと地元の方だし、大学はすぐ近所である。これはこれは・・・K氏のお宅の間取り図をお送りしようかと考えている。
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すずめ達のその後

2007-07-25 13:05:15 | 徒然
 7/5のブログで書いたすずめ達のその後。あれから早いもので三週間ほど経過する。古米の量も少なくなってきたので、最近は朝夕二回量も二握り程に減量した。やってくるすずめの数も、今では三十羽を越えている。ちょうどこの時間に我が家に来られるお客さんは、そのすさまじい食欲に吃驚される。証拠写真をお見せしようと思うが、デジカメをもって近づくと、ものすごい羽音を立てて飛び去っていく。未だよい写真が取れないが、いずれベストショットをお見せしたいと思う。申し訳ないのはお向かい様で、屋根がすずめの糞で白くなり始めた。良く学習していて、時間前にはその屋根の上に整列して待っている。「焼き鳥になっちまうぞー」と思うほどの昨今の熱さだが奇特なものだ。精米はもったいないので、玄米を買ってきてやろうと妻と相談している。すずめの鳴き声や動作に癒されて、いまさら止めるという訳にはいかなくなった。
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吉村文右衛門は如何

2007-07-24 19:03:40 | 書籍・読書
「幕末下級武士の絵日記・その暮らしと住まいの風景を読む」を読んでいる。所々に書き込まれた挿絵はなかなかのもので、その文章をいっそう際立たせている。主人公の忍藩士尾崎石城は、江戸詰の庄内藩士浅井氏の子だが、尾崎家(馬廻役・百石)に養子で入った。廿九歳の時上書したことで、蟄居を申し渡され十人扶持に落とされた。尾崎を名乗っているがどうも養家を出されたらしく、妹夫婦の家に居候している。そんな境遇での友人達との心豊かな交友が綴られている。
 ふとわが肥後藩士吉村文右衛門を思った。当時(延享三年)百石の下級武士が、痛烈な藩政批判の上書を上げた。この「吉村文右衛門上書」の最後尾には「誠惶誠恐 頓首頓首 死罪死罪」と書かれている。死をも覚悟しての上書であるが、お咎めは無かったのだろうかと思うのである。これについては「先祖附」にも記載は無かろうけれど、確認せねばならぬ。時の藩主は宗孝だが、二年後不幸な事件で死去し、その後に登場するのが細川重賢である。文右衛門の上書が重賢の目に触れたかどうかは分からないが、堀平太左衛門によって「宝暦の改革」へと進んでいく。時代が人を集めた。
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介護作業

2007-07-24 18:13:08 | 徒然
 昨日九州北部の梅雨明けが発表されたが、まー昨日今日の暑いこと。我が家の愛犬「ごえもん」もくたばっている。御歳18歳3ヶ月の超爺さまで、目が不自由で耳は難聴状態、後ろ足が萎えて歩行もまま成らなかったが、昨日は前足も不自由になって起き上がることが出来ない。家の中に入れ、冷房をきかせてやると少しは元気になったが、夏毛は抜けるて飛び回るし、おしっこはするしで家中てんてこ舞いだ。現在は外で平泳ぎ状態で寝ているが、こんなに熱いとこの夏を乗り切れるのか知らんと本当に心配になってしまう。クーラーのない部屋は温度計が34度をさしている。昼はそうめんを食って、麦茶をがぶ飲みして・・・人間様も既に夏モードだが、「ごえもん」同様夏ばてしそうな気がしている。さてそろそろ「ごえもん」を家の中に入れて介護作業が始まる。
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着物のお値段

2007-07-23 22:14:59 | 歴史
 綱利の生母・清高院の浪費に対して家老松井興長の諫言を受け、老女をもって「1/10ほどで生活してみよう」といやみたらしい返事をしている。お付の女中衆に対しても厳しいお達しが出されている。「小袖の表百五十目、かたびら八十目」とある。お姫様方は「小袖表二百五十目、帷子百五十目」としている。「お世継ぎのつくりかた」によると、将軍家綱の時代「婦女衣服制限令」が出されて、大内(京都・宮廷)並びに家門(徳川一門)に於いては「小袖の表六百目(銀)」とし、十二年後「女院・姫君銀五百目、御台所四百目、本城女房三百目」と厳しくなった。細川家におけるお触れも、これらに則したものだろう。寛文期の相場は金一両=銀五十四匁というから、細川家の女中衆の百五十目も大変なものである。下って綱利の孫・重賢は、若い頃着替えさえない状態だったと云うのに。いつの時代も女性のお洒落には泣かされるという事か・・・
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松平信康(家康嫡男)の血筋

2007-07-23 14:30:06 | 歴史
 いま読んでいる「お世継ぎのつくりかた」の中にある、「家康を中心とした縁組一覧」なる図には明らかな間違いがある。この図を検証しようと思いウィキペディアで調べてみると、こちらにもいろいろ間違いがあって、「削除予定」が入っている。   信じる者は・・・救われない。
 信康には二人の娘があり、上の登久姫(峰高院)は小笠原秀政に嫁いだ。秀政の娘・千代姫が徳川秀忠の養女として、細川忠利に嫁いだ。一方下の熊姫(妙光院)は本多平八郎忠勝の子・忠政に嫁いでいる。その子忠刻は徳川千姫の壻殿だが胸を病んで若死にをしている。末の妹亀姫は従兄妹の小笠原忠脩(秀政嫡男)に嫁ぎ子(長次)を成したが、誕生の数日後忠脩が戦死、亀姫は幼子を伴い忠脩の弟忠真に再嫁した。故に忠真が小笠原家の総領家(小倉藩主)であるわけだ。細川家と小笠原家のつながりは、信康の血を介して深いものがある。そして千姫もまた細川忠利、小笠原忠真と「いとこ」の間柄である。細川家を親藩同様と徳川に言わしめた所以が見える。
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書籍・読書

2007-07-22 15:16:27 | 書籍・読書
 読んでいる本・今から読む本
  1、お世継ぎのつくりかた 鈴木理生著 筑摩書房
  1、幕末下級武士の絵日記 大岡敏昭著 相模書房
  1、古文書からのイメージ 森 安彦著 三省堂

 「お世継ぎ」は別にH系統の話ではない。誤解のないよう・・・
 「絵日記」 忍藩十人扶持・尾崎某の絵入り日記
 「古文書」 16年間に及ぶ古文書エッセー

  
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只今調整中

2007-07-21 23:09:30 | 徒然
 自宅サーバーで動かしてきた当方サイトですが、トラブルが多発したためサーバーを移転しました。メールの発着信などが未だ正常に稼動せずご迷惑をお掛けしています。明日は何とかなるだろうと思いますが、今日のブログは一休みさせていただきます。
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