津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■本能寺からお玉が池へ ~その⑬~

2023-02-28 06:50:41 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:10:31日発行 第69号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑬~        医師・西岡  曉


     むくどりや 野川 草の実 うち被り   (及川貞)

 あちこちで椋鳥の群れ飛ぶ声が響く季節になりました。この句の「野川」のことではありませんが、当院の少し西には野川公園があって、その西には多磨霊園があります。多磨霊園には当院初代医院長・塚本金助先生の墓所がありますし、[12]の与謝野晶子と[13]の岡本かの子とが眠る処です。
 多摩公園の西にあるのが斎藤病院(@府中市浅間町)です。精神科病院として当院より後輩(当院の3年後=1957年開院)の斎藤病院ですが、今の医院長・斎藤章二先生は、斎藤茂吉のお孫さんです。実は斎藤病院は、章二先生のお母様の御実家の「宇田病院」(1939年開院)を発展的に継承したものですし、何より斎藤茂吉が委員長を務めた「青山脳病院」(1907年開院)が源流でもありますから、本院は当院の先輩病院と言った方が良いかもしれません。青山脳病院は、茂吉の次男・北杜夫(本名:斎藤宗吉。ご自身躁鬱病をカミングアウトされています。)が小説「楡家の人々」で「帝国脳病院」として描いています。

     うつしみの 狂へるひとの哀れさを かへりみもせぬ世の人醒めよ もろびと覚めよ  (斎藤茂吉)

 先輩病院と言えば、当院と同じ市内の青木病院(@調布市上石原3丁目)を忘れてはいけません。青木病院は1962年の開院ですが、1945年開院の診療所「青木神経科」が発展した病院だからです。その青木精神科(と青木病院)の会員時の医院長・青木義作は、斎藤茂吉の義従弟(養母の弟の長男)にあたる人で、茂吉が院長だった時代の青山脳病院の副院長でした。青木病院の理事長・青木浩子先生は青木義作のお孫さんです。

 [15] 愛宕山

 前回までに、森鴎外の「鴈」の玉を含めて3人の「玉」という名の女性についてお話しました。「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れから少し外れることになりますが、実はその後の「本能寺から本郷へ」の流れに関わる(そのお話は、来年稿を改めます。)玉という名の女性がもう一人います。お玉の局(=桂昌院;1627~1705)です。
 お玉の局は、関白・二条光平の青侍だった本庄宗正の長女ですが、母が(玉を連れ子)に本庄宗正の後妻になったので本庄家の娘として12歳で江戸城大奥に上ったと言われています。後に将軍(徳川綱吉)の生母にまで上り詰めたことから「玉の輿」の語源になったと噂されました。「青侍」とは、公家(本庄宗正の場合は、関白・二条家)の家政部門に勤務する武士のことです。お玉の局の父の主君・二条光平は、大河ドラマ「麒麟がくる」に登場した二条晴良の系図上の曾孫ですが、光平の父・康道は(晴良の孫ではなく)九条幸家の長男です。康道の養父・昭美(あきざね)は秀吉に関白を譲った(ことで30年もの間関白の座を離れましたが、秀吉の死後17年で見事(?)再登板しました。)人です。光平の「光」の字は、春日局の息子・家光から戴いたものです(からその元は、明智光秀?)。町娘だった本庄玉を見初めて我が子家光の側室・お玉の局にしたのは春日局だとされます。こうして「玉の輿」に乗った本庄玉は、江戸城大奥御中臈・お玉の局になり、お玉の局は、5代将軍綱吉(1646~1709)の生母になりました。家光の母が春日局であれば、綱吉は(明智光秀の重臣で「本能寺の変」の主要メンバー=)斎藤利三の曾孫になります。
 前回述べたように、春日局の墓所は、湯島の麟祥院にあります。そこから江戸城を越えて南へ6㎞余り、増上寺(@港区芝公園4丁目)にお玉の局の墓所があります。そして墓所とは別に、遥か遠く山城国西山の善峯寺(@京都市西京区大原野小塩町)と金蔵寺(@京都市西京區大原野石作町)に(遺髪を納めた)「桂昌院廟」があります。何故なら、お玉の局は幼少の砌この両寺によく参っていて、長じて大奥に上った後、荒廃していた両寺を再興したからだそうです。両寺には(お玉の局のお手植えと伝わる)「桂昌院桜」が、善峯寺にはお玉の局が寄進した「厄除けの鐘」が、今も残っています。余談ですが、私の苗字「西岡」は、この両寺のある今日の西山の東側、桂川、淀川との間の地域=西岡から戴いています。西岡には、ガラシャが輿入れした勝竜寺城や明智家を滅亡に導いた「山崎の戦い」の古戦場があるのです。

    あたごやま いる日の如くあかあかと もやし尽くさん のこれる命  (西田幾多郎)

 西田幾多郎は、(哲学の)京都学派(精神病理学の京都学派も西田の影響を強く受けています。)なので、この歌の「あたごやま」は、勿論京都の愛宕山です。愛宕山と言えば、「本能寺の変」の一週間前、明智光秀が愛宕山白雲寺(現存しません。@京都市右京区嵯峨愛宕町)の「勝軍地蔵」に詣でた処です。光秀は、翌日「愛宕百韻」を巻き、その発句に土岐明智家の苦境を詠みました。

    時は今 あめが下なる 五月かな

 明智家の未来を拓くべく起こした「本能寺の変」ですが、皮肉にもその結果明智家は滅亡の憂き目を見ることになってしまいました。愛宕山の勝軍地蔵への祈願が足りなかったのでしょうか?
 明智家の滅亡から10年余り、光秀の孫・細川忠利は、少年期の4難関を愛宕山福寿院で過ごし、学問を修めています。愛宕山白雲寺は、明治維新後の「廃仏毀釈」に遭って破壊され、本尊の勝軍地蔵は金蔵寺に移されて金蔵寺「愛宕権現堂」に収められました。金蔵寺は、先ほど述べたように、「本能寺の変」の主要メンバー・斎藤利三の曽孫(と考えられる)徳川綱吉の母・お玉の局(=桂昌院)所縁の古刹です。
 話は変わって、汽笛一声 新橋を はや我が汽車は 離れたり・・・ と始まるのが「鉄道唱歌」ですが、大昔(1900!)の歌なので、今ではご存知の方も少なくなりました。何せ、新橋を「汽車」が走っていたこと自体、百年近い大昔のことなのです。この歌は、続けて 愛宕の山に 入りのこる 月を旅路の友として  と、東京の愛宕山を詠っています。(ご存知の方もおられるでしょうが、江戸=)東京にも勝軍地蔵を祀つた愛宕山があるのです。ただ「本能寺の変」の頃には江戸には愛宕山は(ありましたが、愛宕山という名では)まだありませんでした。
 東京の愛宕山の勝軍地蔵も京の愛宕山のものと同じく(?)、少々「本能寺の変」と関りがあります。「本能寺の変」の翌日、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」で三河に戻るべくまずは宇治田原(現・京都府宇治田原町)から甲賀の小川(現・志賀健甲賀市信楽町)の多羅尾光俊の館に入りました。光俊から多羅尾氏伝来の(源頼朝所縁と伝わる)勝軍地蔵像が贈られ、光俊を始めとする甲賀者が(明智光秀所縁の喜多村氏を含む伊賀者と協同して)伊賀越え道中の警護を担うにあたって地蔵像を同道させ、家康たちは無事三河・岡崎に帰還出来たと言われます。その後の家康の勝軍地蔵への帰依は弥増すばかり、戦陣に必ず護持して必勝を祈り、祈ったことで本当に勝ち戦が続いたそうです。
 後年、征夷大将軍となった家康は、「本願寺の家」の21年後、京の愛宕山の勝軍地蔵を勧請した愛宕神社を江戸にも建立し、その別当寺・円福寺に伊賀越えに同道した地蔵像を祀りました。江戸の愛宕神社が建てられた桜田山は、その後「愛宕山」と呼ばれます。円福寺が(京の愛宕山白雲寺と同じく)廃仏毀釈で廃寺になると、勝軍地蔵は真福寺(‘港区愛宕山1丁目。江戸城に一番近い寺だったため、お玉が池種痘所開所の年・1885年には外国使節のしゅくしゃになりました。)に移転されましたが、関東大地震で焼失してしまいました。今寺庭に建っている地蔵像は、1934年(昭和9年)に再建されたものです。

      東都芝愛宕山遠望品川海図(昇亭北寿)

 江戸の愛宕山は、(愛宕山になってからは)信仰の場であると同時にその見晴らしのよさから江戸で有数の名所になりました。今浅草の方が有名な「ほおずき市」や「羽子板市」も、始まりはこちらの愛宕山神社です。

               ほおずき
    鬼灯市 雨あをあをと 通りけり  (永方裕子)

 1874年(明治7年)に東京府(当時)は、愛宕山の東の麓に東京府病院を開院しました。初代院長は岩佐純、副院長は佐々木東洋、2代目院長は坪井信良です。懸命なる読者諸氏はお気付きかもしれませんが、佐々木東洋はお玉ヶ池種痘所発起人三宅艮斎の妹婿で、同じく発起人の坪井信良は坪井信道の娘婿ですから、「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れの一端が、ここ愛宕下にまで流れ流れてきたようです。東京府民から(地名をとって)「愛宕下病院」とも呼ばれた東京府病院は、開院6年後には慈善病院となりましたが、残念ながらその半年後に兵員されてしまいました(が、今その跡地には東京慈恵会医科大学付属病院が建っています)。
 「お玉ヶ池種痘所」に始まった近代日本の医学校は、明治の終わりには(お玉が池種痘所から発展した)東京帝国大学(現・東京大学)医学部を始め12校、大正の終わりには19校に増えましたが、西日本に(国公立の学校ばかりで)私立の医学校は有りませんでした。1927年(昭和2年)、大坂に開校した「大坂高等医学専門学校(現・大阪医科薬科大学)」が西日本で初の私立医学校です。大坂高等医学専門学校の初代校長・足立文太郎(1865~1945)は、入学時の学長が三宅秀(卒業時には退官)だった東京帝国大学医科大学卒業の解剖学者です。
 夏目漱石が「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」を発表したのは、俳句雑誌「ホトトギス」でした。「ホトトギス」の同人で岡崎生まれの中村若沙(本名・中村一郎;1894~1978)は、大坂高等医学専門学校出身の外科医です。若沙の句の「地蔵盆」は、旧暦7月24日(現在の近畿地方では月後れの8月24日に行われます。)の地蔵菩薩の縁日のことです。

    子が打てば 子の鉦の音 地蔵盆  (中村若沙)

                         

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            今回を持ちまして既刊分のご紹介は終了いたしました。次号が発行されましたら再度掲載させていただきます。
                                             津々堂

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■一向一揆と「旗」

2023-02-27 06:17:04 | 歴史

 昨日の「どうする家康」に便乗するように、 NHKBSプレミアムで「家臣団分裂!若き家康・最大の試練 〜三河一向一揆の衝撃〜」が7ヶ月ぶりに再放送されていた。
磯田道史先生ご出演のお馴染みシリーズもの「英雄たちの選択」だが、ここに「進者往生極楽  退者无(無)間地獄」の旗が登場していた。そして「どうする家康」にも登場していた。
随分前、この「旗」は三河の「一向一揆」とは関係ない(加賀一向一揆のもの)という論考を読んだことがあって、もしそうならNHKはどういう「裏」があって、この旗を採用されたのか。
先の論考を探してみると、今でも存在していた。「進者往生極楽 退者無間地獄」旗について
例えばウイキペディアで一向一揆で検索すると「南无阿彌陀佛」の旗の写真が紹介されており、先の旗には触れられていない。
本当の処はどうなのか磯田先生の見解をお聞きしたかったのだが・・・
一昨年の「麒麟がくる(39)本願寺を叩け」ではその旗、手本は『浄土真宗本願寺派 日照山 長善寺にある、「進者往生極楽  退者无間地獄」の旗』が用いられていた。
                  
                 クリックすると大きくなります。

付け足し:古文書に親しみだした当初「无」を「無」と読むことも判らなかったが、「无」という活字が存在している事さえ知らなかった。人様に話せば笑われる話だが、なつかしいことである。

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■肥後「新陰流剣術」和田家史料26点

2023-02-26 17:22:54 | オークション

 私は熊本に伝わる武道特に「剣術‐兵法」のことにはとんと疎い。
「新陰流」についても「肥後武道史」を見ると、16流派の内、「イ・新陰流剣術」「ロ・柳生流剣術」「ハ・當流新陰(影)剣術」
「チ・新陰流兵法」「ヌ・新陰流剣術(イとは別流だが本流?)」の5流派が見える(だと思う??)。

現在ヤフオクに「新陰流・和田家」の史料が26点(別々)出品されている。
「肥後武道史」の仕分けからすると「チ・新陰流兵法」に該当する。
これだけの史料がバラバラになってしまうのかと考えると、大いに切ない。しかし止めるすべがない。
この和田家はどうやら【丹後以来】(南東11-23)和田摠右衛門家の分家、(南東11-28)和田平也家のものらしい。
先祖附(巻物)だけでも考えたが、応札しておられる方がおられるので、撤退することにした。
(熊本県立図書館に先祖附は残されている)

       

                          

 

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■2:26事件と磯部浅一

2023-02-26 08:25:04 | 徒然

 身は死せども霊は決して死せず候間「銃殺されたら、優秀なユウレイになって所信を貫くつもりに御座候えども、いささか心配なることは、小生近年スッカリ頭髪が抜けてキンキラキンの禿頭にあいなり候間ユウレイが滑稽過ぎて凄味がなく、ききめがないではあるまいかと思い、辛痛致しおり候。貴家へは化けて出ぬつもりに候えども、ヒョット方向をまちがえて、貴家へ行ったら禿頭の奴は小生に候間、米の茶一杯下さるよう願上候」

 このような滑稽な文章を遺したのは、2:26事件(1936年‐昭和11年)で逮捕され後銃殺刑に処された、皇道派の磯部浅一主計大尉である。
彼の「獄中日記」にある8月14日の文章だが、一方次のような事も書いている。

 余は日夜、陛下に忠諌を申し上げている、八百万の神神を叱っているのゼ、この意気のままで死することにする。
天皇陛下 何という御失政でござりますか、なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召し下さりませぬか。
八百万の神々、何をボンヤリしてござるのだ、なぜおいたましい陛下をお守り下さらぬのだ。

 8月28日には

「日本もロシヤのようになりましたね」と言うことを(昭和天皇が)側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間気が狂いました。
「日本もロシヤのようになりましたね」とははたして如何なる御聖旨かにわかにわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであるという意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。
だが私も他の同志も、いつまでもメソメソと泣いてばかりはいませんぞ、泣いて泣き寝入りは致しません、怒って憤然と立ちます。
今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、私は今は、陛下をお叱り申し上げるところにまで、精神が高まりました、だから毎日朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。
天皇陛下 何というご失政でありますか、何というザマです、皇祖皇宗におあやまりなされませ。

磯部浅一は山口県の出身である。農民の出身だそうだが、私の先祖も「磯部氏」で下松に居住した毛利の家臣だったが、血族ではないことはお断りしておかなければならないが、何となく親近感を持つのである。
この「獄中忌」をよむと、「一途」という言葉が一番似合いそうな「稚気愛すべき」人のように思える。
銃殺されるときには「天皇陛下万歳」は叫ばなかった。

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■水道橋

2023-02-25 07:18:08 | 熊本

 かって白川には、二ノ井出の水を取り込んで花畑邸に送り込んだ木樋が横断していた。
いわゆる水道橋だが、場所を記す資料は見受けられるがその詳細をまだ知らないでいる。
その経路は白川を横断すると追廻田畑の低部を通って花畑邸の東側から入れ込まれたものと考えられる。
江戸のお茶の水の水道橋(懸樋)みたいな上等なものではなかったかもしれないが、それに類似する設備が白川を横断していたのだろう。
但し、長さはもっとあったろう。

       東都名所 御茶之水之図     
               歌川広重 東都名所‐お茶の水の図                                     同左模型(左右逆か?       

 このお茶の水の「水道橋」懸樋はサイホン式だと聞くが、白川は自然勾配の落下型とはとても思えないし、それとてサイホン式とも思えない?二ノ井で側で水車でも使ったのだろうか。
一方追廻側の方はどういう設備があったのか、水道自体は「水道町」の名が残る様に、その敷設技術は確かなものであったろうから、木樋の埋設管などで取り込んだものと思われる。
詳細を知りたいと思うが、資料の存在さえ知り得ない。ご存知の方がおられればご教示賜りたい。

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■「熊本ん水道水」はミネラルウォーター

2023-02-24 15:41:19 | 熊本

 来週は定期の病院検査を受けるが、糖尿病状態も随分摂生しているから少しは改善していると思うのだが、一方、相変わらず足のこむら返りが続いている。
一昨日・昨日と急襲を受けた。その間悶絶しそうな痛みに襲われて、一秒・二秒と過ぎる時間が凄く長く感じられる。
ベッドから出るのももどかく飛び起きて、伸びきった足先を床に就けて体重をかけるが、これを戻すのが簡単にはいかない。
寒く暗い中数分立ち尽くして、痛みが過ぎるのを待つ。
寒さに負けて早々に布団の中に戻ると、また襲われるからただひたすらに我慢しなければならない。

 ある方からメールで、水の飲み方が足らないのではとご指摘いただいた。この方はミネラルウォーターのペットボトル2㍑を毎日飲んでおられるらしいが、「費用が毎月10,000円近くになるから熊本の人は羨ましい」と仰る。
仰せの如く、熊本の水道はミネラルウォーター並の美味しい阿蘇の伏流水の湧き水で、一軒家にお住まいの方ならば厳冬のころでも水道をひねれば温かい水が味わえる。
マンション住まいだと高架水槽に水を上げるからそうはいかず、手の切れるような冷水を味わうことになるが・・・。

 そんな恩恵を仇や疎かにはしてはなるまいと、何とか2㍑を飲もうと努力しているが・・・
なかなかそんな目標は達成されないでいるが、こむら返りの激痛を思い出して頑張らなければなるまいと反省しきりである。

             健軍水源地の自噴井

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■消えた地名「ウスナシ丁」

2023-02-24 12:33:20 | 地図散歩
  1.  熊本地名研究会の編著による「熊本の消えた地名」にも登場しない、「消えた地名」が、「明治初期‐熊本町名」地図にあった。
    その名を「ウスナシ丁」と記してある。この地図は明治6年の「白川縣肥後国熊本全図」と明治13年の「熊本全図」で校合され編集されている。
    まだ「大甲橋」が存在しないから道筋をたどるのが大変だが、下流部にはこの時期安巳(安政)橋が存在しているから辿っていくと元新屋敷の先でクランクしている。
    手元にある昭和4年の「地番入り早わかり熊本市街地圖」を見ると、「白川小学校」の書き込みが見える。
    この当時は小学校前の通りはまだ一直線ではない。その小学校の前を進みクランクに沿って右折すると今度は左折し北へ延びる道がある。これがどうやら「ウスナシ丁」らしい。この地図ではこの道筋は明五橋通りまで伸びているが、現在は手前とこの「丁」の先が途切れているが閑静な御屋敷町である。「丁」とあるようにここが侍屋敷であったことを物語っている。
    現在の地番で言うと熊本市中央区新屋敷1丁目10番地のブロックではないかと思われる。
    熊本地名辞典を見ても、なかなか地図上の位置を確定することが出来ないでいるし、またこの「ウスナシ」というカタカナ表示の名前の由来も伺えない。
    ご存知の方のご教示をお願いしたい。
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■本能寺からお玉が池へ ~その⑫~

2023-02-24 06:57:01 | 歴史

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:7:30日発行 第68号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑫~        医師・西岡  曉


     さざ波や 風の薫りの 相拍子  (芭蕉)

 風薫る夏が来ました。・・・かと思えばもう盛夏です。自ら「納涼」と謳い、芭蕉さんらしく琵琶湖の波音を詠んだ句は、芭蕉さんが近江で詠んだ最後の句になりました。

 [14] 無縁坂

 「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、玉という名の3人の女性に縁があります。
初めは、勿論(?)「本能寺の変」を起こした明智光秀の三女・玉(後のガラシャ)。次は、明智光秀の末裔・三宅艮斎と織田信長の末裔・坪井信道(二代目)たちが「力をあはせて」開いた江戸の種痘所の建つ処にその(百年以上)昔あった池に入水し(て池の名前になっ)た茶屋の娘・玉。そしていま一人の玉は、和泉橋から本郷への(大学東校→東大医学部)の流れ(?)の中に居るのですが、実は彼女は実在の人物ではありません。では一体何者?
 それを知るには、(一昨年[4]で登場し、今年が没後百年の)森鴎外(1862~1922)に訊かねばなりません。

 「古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事と云う事を記憶している。」と始まるのが鴎外の小説「鴈」なのですが、この小説のヒロインが「玉」という名前なのです。「鴈」はこう続きます。
 「・・・その頃僕は東京大学の鉄門の真向かいにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって・・・」
「東京大学の鉄門」は、お玉が池種痘所の正門が(転じて種痘所全体も)「鉄門」と呼ばれたことに始まります。種痘所の鉄門がそのまま大学東校→東京医学校の正門として使われ、1876年、東京医学校が加賀藩上屋敷(=現在の東大本郷キャンパス)に移転した際には鉄門も移築され、翌年「東京大学医学部」が発足すると、鉄門は東京大学の正門になります。尤もこの時本郷には医学部だけしかありませんでした。東京大学発足の2年後(1879年・明治12年)、鉄門は(老朽化のため?)母児通りの鉄(製)の鉄門に生まれ変わりました。その「鉄門」は1918年に撤去され姿を消しますが、90年後に「東大医学部創立150年」を記念して復元されました。ただ、元々鉄門があった場所には現に東大病院の建物が建っていましたので、復元後の校門は元の場所から少々東にあります。
 「この話の御主人公」の住む下宿屋は、今は東大病院の「南研究棟」が建つ処です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、この南研究棟は通称「赤レンガ」と呼ばれ、20年前まで精神科病棟がありました。
 森鴎外の「鴈」が棲む「不忍池」はその昔琵琶湖に見立てられました。そして「おかだの日々の散歩はたいてい道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、愛染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野山をぶらつく。   ・・・狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な枳殻寺の角を曲がって帰る。」そうです。
「お玉ヶ池種痘所」を源流とする東京医学校は、1867年(下谷和泉橋通から)本郷台地に移転しました。東京医学校は翌年東京大学医学部となります。台地なので、周りの道は坂だらけです。北から、新坂、異人坂、弥生坂、暗闇坂、無縁坂、と五つある坂の中、医学部所縁の坂と言えば異人坂と無縁坂です。その「無縁坂の南側は岩崎の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍々たる土塀では囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石の間から、歯朶や杉菜が覗いていた。」
「岩崎の邸」は、元々越後高田藩の江戸中屋敷だったのを、「鴈」の年(1878年・明治13年)に三井財閥(初代)岩崎弥太郎(1835~1885)が購入したものです。「鴈」から16年の後、ここに三井財閥3代目・岩崎久弥がジョサイア・コンドル設計の洋館を建て、「巍々たる土塀」は赤レンガの塀になり、今でもその洋館は都立公園「旧岩崎邸庭園」(@台東区池之端1丁目)の中に堂々と立っています。
 この「岩崎の邸」は、ほんの少し「本能寺の変」と関りがあります。1685年(貞享2年)からの16年間越後高田藩主だった稲葉正往(1640~1716、明治維新時の藩主は榊原政和)は、「本能寺の変」当時明智光秀の重臣だった斎藤利三の三女・福の曾孫です。斎藤福(1579~1643)は、皆様ご存知のように後の春日局です。曽孫・稲葉正往の正室は保科正之(家光の異母弟)の四女・石でした。
 岡田が散歩の終盤に見る「臭橘寺」は、「岩崎の邸」以上に「本能寺」と関りがあります。この寺は、(開山以来260年の間)枳殻の生垣を廻らしていたので「からたち寺」と呼ばれていますが、本名(?)は、「天澤山麟祥寺」(@文京区湯島3丁目)と言います。「本能寺」との関りと言っても、本能寺は法華宗で麟祥院は臨済宗妙心寺派なので、宗教上の
関りは有りません。麟祥院の開基が、「本能寺の変」の主役の娘・春日局であり、その墓所が麟祥院にあるのです。
 小説「鴈」で「九月の或る夕べ」、岡田は無縁坂の「岩崎の邸」の辺りで「一人の湯帰りの女」が「寂しい家に這入る」のを眼にします。女は後に岡田と少々親しくなるのですが、女の名を岡田が知る事はありませんでした。

                         
    無縁坂                               映画「鴈」より岡田(芥川比呂志)、お玉(高峰秀子)

 後日「鴈」の「僕」が語るには、「まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。」「寄宿舎には小使がいた。」「小使の一人に末造と云うのがいた。」「金がない時は未造が立て替えてくれると云うことをぼくはきいた。」「・・・次第に五円貸す十円貸すと云うようになって、・・・とうとう一人前の高利貸しになった。」「学校が下谷から本郷へ遷る頃には、もう未造は小使ではなかった。しかしその頃池の端へ引っ越してきた未造の家へは、無分別な学生の出入りがたえなかった。」そうです。
 この「学校が下谷から本郷に遷る」話は、去年[8]でお話ししました。そして「無縁坂の女」は「未造の妾」になるのですが、女の名前が玉なのです。「鴈」のヒロイン「玉」が何故「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れの中なのか?と言うと、「無縁坂の女」=玉を妾とした高利貸・未造の客の医学生の「学校」こそは「東京大学医学部」であり、「種痘所は東京大學醫学部のはじめにあたる」(お玉ヶ池種痘所記念碑)からです。ただ、「大学医学部が下谷にある時」と言うのはちょっと違います。「学校」が下谷和泉橋通の「藤堂屋敷」にあったのは、「お玉が池種痘所」を源流とする「医学所」が「大病院」「医学校兼病院」「大学東校」と5度も名を変えた8年の間のことで、「学校が下谷から本郷に遷」った翌1877年(明治10年)になって始めて「東京医学校」は「東京大学医学部」になったので「大学医学部が下谷にある」ことは無かったのです。
 「鴈」の未造には、モデルがいます。三宅秀を初代とすると9代目(種痘所時代からすると22代目)の東大医学部長である入江達吉(1865~1938)の文にこうあります。「その頃(明治10年頃)の本科性は皆、大学の小使上りの岡田元助という医学生専門の高利貸、『癌』という綽名があったその男から高利の金を、背負いきれない程借金して・・・    」
この「岡田元助」が未造のモデルです。『癌』の元助が「鴈」の未造になったという訳です。
 「鴈」の主人公・岡田にもモデルがいて、それは緒方洪庵の六男・収二郎とされています。収二郎の兄・緒方惟準(洪庵の次男で、「大病院」の二代目取締役。なお昨年述べたように大病院は、大学東校、東京医学校、を経て東大医学部へと発展します。)は帝国陸軍軍医になり、麦飯で脚気を予防する業績を上げるも森鴎外ら上層部と対立して軍を去り、大坂に帰って(妹・八千代の夫=)拙斎と共に緒方病院(現・くりにっくおがた)を開設し、収二郎はその二代目院長になりました。
 「鴈を肴に酒を飲む」(医学生ではない)東大生・石原のモデルは嘉納治五郎(1860~1938)だという説があります。語り手の「僕」のモデルは、勿論(?)鴎外自身でしょう。
 そして肝心の「玉」のモデルは、「鴈」の2年前に発表された小説「ヰタ・セクスアリス」に書かれた三ノ輪の古道具「秋貞」(当時は実在したが、その後閉店)の娘、とも言われますが、鴎外の(赤松登志子と離婚後荒木志げと再婚するまでの)愛人だった児玉せきの方が相応しいようです。
 森鴎外は、東大医学部を卒業した8年後に赤松登志子と結婚しますが、都志子は順天堂学祖・佐藤泰然の曾孫ですから、この時、泰然の養子・尚中の娘・藤が妻である三宅秀と(登志子と離婚するまでの一年半の間、義理のではあれ)姻戚になっています。
 [9]で述べたように、三宅艮斎の長男・秀は(東大医学校の後身=)東京大学医学部の初代医学部長になり、「古い話」(「鴈」)の時代(1880年)も鴎外の在学(1881年卒業)中も学部長の座に居ました。ですから、作中の「岡田」も「僕」も、種痘所時代から「鉄門」と呼ばれ、明智光秀末裔の三宅艮斎が「開基の大功労者」になり、その息子の三宅秀が学部長になった東京大学医学部で学んでいた訳です。余り知られていませんが、鴎外は東大卒業時の席次は30名中8番目で、希望していた国費留学の枠(=席次1or2番)に入れませんでした。すると鴎外は、何を思ったか医学部長の三宅秀に直談判に及びます。勿論三宅秀は、鴎外の妄言(?)を毅然として撥ね付けました。

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■「大凡荘」の集合写真と、山藤章二

2023-02-23 06:52:35 | 熊本

 先の史談会で会員のN氏が「大凡荘」があった場所について語られた。
その際、その大凡荘(柴垣隆邸)に集合した67人の著名な方々の集合写真を会員にお知らせした。右翼と言われた大物が熊本の地に集結した写真である。
      写真をクリックすると大きくなります。

    この写真は随分以前捜し出したものだが、どこから見つけたのかと思いインターネットで調べてみたら、ヤフーの画像検索で見つけ出したものと思われる。
当時は出元までは調べていなかったようだが、この写真は大凡荘主人・柴垣隆氏の御子息・達郎氏(水盤の後ろ、右手の学生服の方)が、出席者の寄せ書きと共に蜷川正大氏に贈られたものであることが氏のブログ「白雲去来」に紹介されていた。
蜷川正大氏とは「大悲会」の二代目の会長を務められた方である。達郎氏との関係はよく判らないが、達郎氏は映画のプロヂューサーとして、我々が良く知る往年の日本映画を多く作られている。

 大悲会と言えば、初代会長の野村秋介氏の名前が忘れられない。
大悲会については詳しい事を知らないから、安直なコメントはここでは差し控えたい。
1992年野村氏は、漫才師の横山やすし氏らと共に「たたかう国民連合・風の会」から参議院選挙に出馬した。
当時、週刊朝日では、漫画家の山藤章二氏の「ブラックアングル」が評判を呼んだ。独特のデフォルメで要人の似顔絵を書いたり、時には物議をかもす絵で世論を揶揄した。
そんな折、山藤氏はこれを「蚤の党」と評して物議をかもした。そこで野村氏は朝日新聞社に出かけ、大いなる抗議を行っている。その結末は、野村氏の朝日新聞社内での拳銃自決というショッキングなものだった。
30年以上経過するが、横山やすしの選挙出馬や野村氏の拳銃自殺事件はよく覚えている。
山藤氏はこの事件に大いなるショックを受けて、しばらくこの「ブラックアングル」はお休みになったそうだ。
言論の自由はあろうが、少々度が過ぎたという事か?
この「ブラックアングル」は2,260回に及んだというからものすごい。そしてこれは単行本として数えきれないほど発刊されている。
私も愛読者の一人であるが、何ともこの才能には畏れ入る。
最近の氏は、頭髪はさることながら、鼻髭・あごひげを延ばされて、まるで仙人と言った風情である。
つい二日前がお誕生日であった。86歳。まだまだご活躍いただきたい。

「蚤の党」事件については何か特別にコメントされたのかは良く知らないが、山藤氏も事件の当事者の一人ともいえる。

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■ここで限度?・・・

2023-02-22 12:40:09 | 古写真

 過日の熊本日日新聞では、熊本城の石垣に張り付いた人型のようなものについて、読者の疑問について応えている。
「えっ、人がいる!?」明治初期の熊本城の写真パネルをよく見ると石垣に… 天守閣内の展示で読者発見 正体は?

 実は私は、富田紘一先生の「古写真に見るー熊本城と城下町」を購入して暫くしてからこの事に気付いた。
どうも人間ではないかと考えたが、写真が小さくてよく判らない。そこで写真をスキャンして部分的に拡大したのが下の写真である。
印半纏のようなものを着て石垣に張り付いていて、石の大きさからするとやはり人間だろうと考えていた。

         こちらはクリックしてください。何処だかお判りですか?

 今回の熊日新聞さんの解説で長年の疑問が氷解した。写真師・富重利平の車夫だそうな・・・
どうやら、上司命令で上らせられたらしい。登れるのは、さすがにこの辺りが限度でしょう。
精しくは熊日さんのサイトからどうぞ・・・・

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■那に登なく・・

2023-02-22 09:28:48 | オークション

           

            法印玄旨(細川幽齋)の「詠萩風告秋和歌」(写)である。

            那に登なく 古登とひ         何となく 言問ひ
             行者 お保かた乃あ気を       行かはおほかたの 秋を
             徒気野濃於気能う者         つけ(告)の ゝ おぎ(萩・荻?)のうは
             加勢                    かせ(上風)

      万葉仮名は大いに苦手で読むのに大変苦労したが、後で判ったのだが実は出品者により読み下しが為されていた。
   (参考:字一音万葉仮名一覧
   一応間違いなく読めていて一安心。写しではあるが、このような品を座右に飾るとさぞ心豊かになる事だろうと思う。

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■明暦の大火と細川家

2023-02-22 06:42:16 | 歴史

 熊本では一昨日「春一番」が吹いたとか言っていた。
どうやら今頃の時期、気温が上がり南東寄りの強い風が吹く頃を指すようだが、366年前の明暦3年の1月18~20日の江戸はまさにそんな季節の中ではなかったのだろうか。
但し、風向きは北東の風だったらしいが・・・
グレゴリオ暦でいうと1657年3月2日~4日である、江戸本郷丸山の本妙寺より出火して、強い風にあおられて飛び火し新たな火元を作りながら三日に渡り江戸の町を舐め尽くした「明暦の火事」が起きた。
死者は数万から十数万に及んだと言われる。「振袖火事」とも言われるようだが、これは俗説だろう。
本妙寺が火元だとされるが、これとて「火元引き受け説」などが存在して火元論争は未だ闇の中である。
江戸大改造のために、幕府が仕掛けた放火説まであるようだが、これは論外だろう。
大名屋敷の多くも被災しているが、上屋敷・下屋敷とも焼失し避難場所を求めてさまよった大名もあったとされる。
細川家はどうか。当時の藩主は細川綱利、まだお国入りをしていない若干15歳のまだ前髪をたくわえた若さである。
18日に昼頃本郷で出火した火事は江戸城の北側から北東面に沿うように江戸の町をを焼き尽くした。
猛火を背後にして追われた江戸の人々は大川にいたり逃げ場を失い多くの死者を出した。両国橋が出来るのはこの火事を反省して架けられた。
 18日、細川藩上屋敷(辰ノ口邸)はまだ無事であった。父光尚夫妻はすでに故人であり、綱利と生母・清高院が江戸在であるが、白金の下屋敷に避難した。
翌19日新たな火元、小石川・伝通院表門下の屋敷から出火、前日同様強い風にのり猛火となりこの日は江戸城二の丸、三の丸も焼失、大手門前・大名小路の細川家下屋敷は焼失した。
史料は「七つ」とあるが、「夕七つ(16時前後)」だろう。
20日には、更に麹町の町家から出火、江戸城の反対側に火が至り、増上寺なども延焼した海に至ってようやく止った。

 藩は、家臣に辰ノ口邸を新たに建設するために「二分役」の負担を求めた。
又幕府からは、所々の御門(大手門・二ノ丸門・中の門・蓮池・喰違)の再建を指示されている。
江戸では材木の調達は難しいから、熊本では急遽あちこちの山で木々が伐採され大阪へ送られている。
大坂で「切り込み」行われて江戸へ運ばれてすぐさま建築に取り掛かった。
藩邸が完成を見て綱利が龍ノ口に戻るのは10月23日だとされるが、完全復旧していたのだろうか。

 綱利や生母・清高院の驕奢な生活や、江戸城構築の手伝い、藩邸の再建、地元での火災や干ばつなどが重なり、細川家の財政の悪化が始まる。

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■参戦・キュレター・バトル

2023-02-21 18:34:16 | 徒然

 コロナで全世界で行動が制限されると、例えばジャズ・ミュージシャンがPC画面を通じて演奏をしたり、某美術家のキュレーターが博物館や美術館に対して「キュレータバトル」と称してツイーターで不思議な所蔵品を見せ合ってバトルをしようと持ち掛けたりした。
これが受けて世界の博物館・美術館が共鳴、珍奇な絵や品物が紹介され大うけして広がったらしい。
目ざとくNHKがこれを見て、日本でTV番組にしたいと申し出ると快諾されて出来た番組が「キュレーターバトル」である。
タイピングに疲れてたまたまTVのスイッチをいれたらこれが放映されていた。
今回放映分は2022年2月4日分の再放送である。 オンライン展覧会 #ナゾすぎる

    1、板橋美術館    五百羅漢図
    2、国立科学博物館  ヘビのへミペニス
    3、山種美術館    裸婦図
    4、静嘉堂文庫美術館 地獄極楽めぐり図
    5、北九州市立美術館 マネとマネ夫人像

それぞれが大変面白かったが、1の五百羅漢に大変興味をそそられた。クローズアップ写真をご覧いただくと、法華経の経典が一筆書きの如くに綴られている。ある方が半年がかりで一筆書きの様に途切れのないその経典の動きを解明されたというから恐れ入った。
「参戦」としたのは、永青文庫に7代藩主・宗孝夫人静證院が書いた自画像があるが、この絵は南無阿弥陀仏の六字名号で輪郭線や打掛の模様などが描かれているものがある。(細川家の700年・永青文庫の至宝 掲載)
参戦されないかなと淡い期待をしながらご紹介申し上げる。次の放映は予定されていないようだが年1位なのかもしれない。

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑪~

2023-02-21 07:00:25 | 歴史

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:2:22日発行 第67号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑪~        医師・西岡  曉


     桜ばな いのち一ぱいに咲くからに 命をかけて
        わが眺めたり   (岡本かの子)

 春がまた廻って来ました。日本の春と言えば、桜ですね。岡本太郎の母・かの子(1889~1939)も桜が大好きで、桜を詠った歌を数多く遺しています。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、岡本かの子には精神疾患の既往があり、精神科の入院歴もあります。入院したころの桜(の幻覚)を詠んだ歌があります。

     ふたたびは 見る春無けむ 狂人のわれに咲きけむ
        炎の桜   (岡本かの子)

これらのかの子の歌に加えて、ここでは俳句「桜」を味わってみましょう。何と言っても(?)「お玉ヶ池」は元々は「桜が池」だったのですから・・・・・

             花の雲 鐘は上野か浅草か   (芭蕉)

 この句は、芭蕉さんが江戸・深川の芭蕉庵(その北西3Kmほどに後年、「お玉ヶ池種痘所」が開かれます。)で詠んだもので、「上の」は「寛永寺時鐘堂」、「浅草」は「浅草寺弁天山鐘楼」を表しています。「時鐘」の文字でお解りと思いますが、当時江戸市中にあった「時の鐘」に中の二つを芭蕉さんが実際に聴いて詠んだ句です。何とその鐘は、二つとも(300年以上経った)今でも現役(毎時ではなく、日に2,3度だけにはなっています。)なので、私たちも聴くことが出来ます。

                                              上野寛永寺時鐘堂

 余談になりますが、江戸の「上野」という地名は、芭蕉さんの故郷である伊賀上野から採ったものだというのを御存知ですか?「そんな馬鹿な?」と(またもや)言われそうです(し、伊賀の他の地域では勿論異説があります。)が、藤堂高虎(1556~1630)が江戸下屋敷を建てた際、その地「忍が丘」(の地形?)が伊賀の上野に似ていたので、地名を「上野」に改めたと言われています。藤堂高虎の墓所は、江戸下屋敷内に造られ、今では(余り知られていませんが、その周りは)何と上野動物園(?)になっています。
寛永寺は、高虎の江戸下屋敷の敷地に建てられ、そのことは芭蕉さんの耳にはどのように響いたでしょうか。

 [13] 本郷(3)
 余り知られていませんが、春日局は徳川家光(1623~1651)の生母(異説の筈の浅井江(秀忠のの正室。信長の姪)生母説が通説になっています。)であり、家光の小姓に先夫との子・稲葉正勝を付け、家光を将軍に就けるのに尽力し(たことはよく知られています。)、そのことによって父・斎藤利三(家光が春日局の子なら利三は祖父)が主君・明智光秀と共に目指した天下泰平を成し遂げました。それこそが「本能寺の変」で斎藤利三を始めとする明智一族郎党が掲げた旗幟でもあったのです。
 1625年(寛永5年)、家光が痘瘡に罹ると、春日局は(日光)東照宮に詣でて「家光の病気平癒の暁には、その後一切薬を服用しない。」と誓いを立て、程なく家光が回復したため、局は本当に終生一切の薬を飲まなかったそうです。
「本能寺の変」から280年近く後、明智光秀末裔の三宅艮斎が発起人(の一人)となって、「お玉ヶ池種痘所」が開設され、更にその18年後、その種痘所を源流とする「東京医学校」が、春日局が眠る枳殻寺((からたちでら)とよばれる麟祥院)のほど近くに移って来たことは、何か不思議な深い縁を感じずにはいられません。
「お玉ヶ池種痘所」の発起人(の一人)坪井信良の長男・坪井正五郎(東京帝国大学初代人類学教授:1863~1913)は、母が坪井信道の娘なので、織田信長の末裔になりますが、「本能寺の変」の斎藤利三の娘・春日局の眠る麟祥院の境内にあった湯島小学校に通っていたことがあります。東京23区内で最古(都内では2番目)の小学校である湯島小学校は、その後1876年(明治9年)に(麟祥院の南西約400mの)湯島新花町(現・文京区湯島2丁目)に移転して現在に至っています。
 その同じ齢に東京医学校は本郷に移転しましたが、その時の校長は長与専斎(1838~1902)です。専斎は、肥前大村城下に生まれ緒方洪庵の適塾に学んだ大村藩医で、適塾では福沢諭吉の次(11代)の塾頭を務めました。そして東京医学校が「東京大学医学部」に(なった時の「医学部綜理」は池田謙斎(適塾、西洋医学所出身。三宅秀と同時に日本初の医学博士になったひと。)ですが、)なると、最初の「学部長」には三宅秀が就任しました。

                                      本能寺焼討之図(楊斎延一)

 さてここで、「本能寺の変」で坪井信道の先祖・織田信長を槍で突き、森乱丸を討ち取った安田国継が後に仕えた乱丸の兄・森長可(ながよし:1558~1584。美濃金山城(@岐阜県可児市兼山)主。実は[2]で既に登場されています。)にお出まし頂きましょう。長可の「長」を頂戴した主君・信長と血を分けた弟・乱丸の仇である国継を雇うという器量の大きさに関心させられる人です。森長可は、「本能寺の変」の2年後「小牧・長久手の戦い」で羽柴秀吉に与して徳川家康と闘い、その戦に敗れて討ち死にしました。享年27。
話は変わりますが、長可・乱丸兄弟の末の弟・森忠政(津山藩祖;1570~1643)の正室は、大蔵姫と呼ばれる姫です(森家や明智一族・三宅家の記録にはありません。)が、(創建1200年超の)世界遺産・春日大社の摂津での荘園目代(≒代官)である今西家の記録によれば、「第36代今西春房(ときふさ)と明智光秀の娘・美津([1]で挙げた光秀の娘たちには含まれていません。)との娘」となっています。それが史実であれば、長可の弟・忠政もまた、主君信長と兄・
乱丸の仇の孫娘を妻にするという器の大きな人だったのです。
 一昨年[3]で「各地の町で教会の鐘が鳴り響いていたことが、・・・無かったことにされた」とぼやいたことがありましたが、森忠政の築いた津山城(@岡山県津山市山下)は、天守の南蛮鐘を徳川幕府の終焉の日まで鳴らし続けた唯一の処とされます。その南蛮鐘は、1616年(元和2年)に城の新築祝いとして細川忠興(=ガラシャの夫)から贈られたもので、今では大阪の南蛮文化館に在って、開館期には当時の鐘の音を聞くことが出来ます。忠興が忠政に南蛮鐘を贈ったのは、忠政の正室が妻ガラシャの姪だという縁からなのでしょうか?(裏付けとなる史料はありません。)津山と言えば、お玉が池種痘所資金據出者筆頭の箕作阮甫は、津山生まれの津山藩医です。
 森忠政の兄・森長可の遺言状が、名古屋市博物館に遺されています。そこには「おこう(長可の娘とされています。)は武士ではなく、京の町人、例えば医者のような人に嫁がせるように」という意味のことが書かれています。「人間無骨」(その槍で突けば人の骨など無いに等しい、の意)と彫られた槍を振るい、「鬼武蔵」と呼ばれた長可ですが、その長可が、娘を医者(のような仕事の人)に嫁がせたかったというのは、戦国武士の人生が如何に厳しいものだったかを物語っています。
 戦国時代ではありませんが、大高源吾(=討ち入りの後切腹した赤穂浪士の一人)の介錯人を務めた松山藩士・宮原久大夫は、高名な俳人・子葉でもある源吾を討たなければならなかった武士という職業を儚んで藩を辞して武士の身分も捨てて酒屋に転職したそうです。武士の身分を捨てて作家になった人もいます。越前吉江(現・福井県鯖江市)藩士の三男(で母の実家が医家)の杉森信盛は、27歳頃に浄瑠璃作家・近松門左衛門(1653~1724)となりました。ご存知のように近松は「曽根崎心中」で有名で、その忌日は巣林忌、近松忌として冬の季語になっています。

    降りそめし 浮世の雪や 近松忌  (茂野六花)

 茂野六花は、新潟医大卒業の法医学者で新潟大学医学部長→学長を務めた茂野録良(1926~1985)のことですが、その俳号は、法医学と俳句双方の師匠・(俳句雑誌「ホトトギス」の)高野素十(1893~1976)から戴いたものです。
 また、武士の身分を捨てて絵師になった人もいます。「江戸琳派の祖」と言われる酒井抱一(1761~1829)です。抱一は、大名家(祖父や兄が姫路藩主)に生まれながら、37歳の時武士を捨てて出家し、後に絵師となって活躍した人で、大高源吾の師・宝井其角を敬愛する俳人でもありました。ただ、抱一の場合、武家を捨てた理由は、(長可や久大夫のように)武士という職業を儚んでという訳ではなかったようですが・・・
娘を医者(のような仕事の人)に嫁がせたい、と言う森長可の遺言は、坪井信道の先祖である織田信長が好んで(大河ドラマ「麒麟がくる」でも)舞った幸若舞「敦盛」の原作とも言うべき「平家物語・巻第九」に書かれている「・・・あはれ、弓矢をとる身ほど口惜かりけるものはなし、武家の家に生れず、何とてかゝる憂き目をば見るべき。」(【現代語訳】ああ、弓矢で戦う武士ほど嫌なものはない。武士の家に生まれなければ、今頃こんな辛い目に遭うことはなかった筈だ。)という台詞に重なるものがあります。
 そしてそれはまた、光秀の子孫(である三宅重之の娘聟・休庵、元哉、玄碩、英庵、艮斎(やその兄たち))も、信長の子孫(である坪井信道、(二代目信道=)信友、信道長女・牧の夫・信良、信道次女・幾の夫・為春)も江戸時代には医業を生業としたのを知っている私たちには(そして、こちらで知って頂いた読者の皆様にも、恐らく)酷く重く響いて来ます。更には、光秀の子孫との家伝を持つ者がこの時代に医師として暮らしていることにも、ずっしりとした重み、歴史的運命とでも言うべきものを感じずにはいられません。(大袈裟ですか?ならば、お口直しに酒井抱一の句を・・・ 抱一は、絵のみならず宝井其角の流れを汲む江戸座俳諧の俳人でもあり、狂歌や戯作の作者としても盛んに活動したマルチタレントでした。)

    晴れてまた しくるゝ春や 軒の松   (酒井抱一)  

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■山上三名字

2023-02-20 09:55:14 | 熊本

                                                

    これは熊本人にしか判らない言葉だが、熊本市西北部にそびえる金峰山周辺に古くから勢力を張った、田尻・内田・牛島三氏のことをいう。
この名字の人に出合ったら「もしや山上三名字の・・?」とお尋ねする必要がある。
田尻氏は後漢《帝》の後裔とし、阿智王の祠を岳村に祀り、大蔵氏・原田系の古い家柄で、肥後田尻氏もその別れだとされる。途中で豊後の緒方氏が田尻家に入ったため、大神氏をも名乗られる。
菊池氏と共に南朝方に属し、支配地の「嶽」地区には「岳の御所」があったと伝わる。

熊本史談会のO氏が現在、古文書「田尻善左衛門覚書」「山之上三名字ノ由来并覚書」「山上三名字伝」(上妻文庫)の読み下しをされている。全58頁に及ぶ膨大なもので一応の読み下しを終えられた。
判らない部分に目を通してほしいというご依頼を受けて、眺めているが、読み始めると大変面白い。
いろいろ忙しい身だが、古文書を読むという事は苦しいながらも大変楽しく、お預かりしている期限まで時間をやりくりして頑張っている。
刊行物からではなく、古文書からまた新たな知見を得るという喜びは代え難いものがある。

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