津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■ハヤの大群

2022-10-06 11:20:42 | 徒然

 数日振りに朝散歩に出ました。コピー用紙が切れたこともあって、いつもとは違う短距離です。
近所の丘の上に、でかいスーパーが出来るというので現場見学、傘寿となっても建築屋の興味はつきません。
帰りに水無川の上流部の堰の上の水たまりを見ると、水面がキラキラしています。
目を凝らしてみると、ハヤの群れが二つ大騒ぎ状態です。
以前14~5㎝ほどのフナが流れのドン詰まりであるこの堰の上まで下ってきているのは見かけましたが、こんな大群は初めてです。
こんな風景を見ると、つりをしたくなりますね。二段構えの下の段は御花畑状態です。
この間アオサギが飛来してきましたが、これだけ魚がいればなんとなく頷けます。
熊本はどうも今日あたりが夏と秋の境目のようです。気温も25~6度で大変過ごしやすくなりました。
季節の変わり目、風邪など召しませんように・・・

                                     

   

            

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■書籍終活・ごみだし四回目

2022-10-06 06:57:59 | 徒然

 昨日は終活書籍ゴミ出し4回目の日で、段ボール3箱約150冊ばかりを準備していたが、あまりの肩の痛さに断念。
「買取送料無料」という案内が来ているのでこちらに送ろうかと考え始めた。
それでも、まだ処分したい本があるが、その前に一読と思って色々読み始めたら面白くなって捨てるどころの話ではなくなった来た。
また本棚に逆戻りするものが数冊出てきた。
問題は資料の方だ。本の量と同じくらいに場所を取っている。粗方は目的物ごとにA4封筒に入れこれをジュース缶の段ボールケースを利用して入れている。
本棚の上やサイドテーブル、足元に数十箱ある。
紙資料が数十センチ山を為していて、これが時折山崩れを起こすから、これを片付けようと頑張っているが、殆ど二三枚一組になった資料で、これも一々チェックしている。
7・8年の間御世話した史談会の配布資料や原稿などが顔を表し、必要のないものは処分しようと脇に寄せるとすぐさま5・6㎝の山となった。
行方不明だった資料、面白い史料が出てくるとついつい見入ってしまい、瞬く間に時間が過ぎる。
ご先祖探しにご協力した折のいろんな資料や、御礼状などが出てくるとその時代を振り返って懐かしさを感じる。
郵便物も多くありこれも捨てられず小さなダンボールに納め直した。

 多くの資料を残されて亡くなられた方を幾人も存じ上げているが、その後始末は拝見していると種々雑多で、明日は我が身と覚悟しているが、せめて処分しやすいようにはしておかなければならない。
中々やっかいな作業ではある。今日もせっせと作業に励まなければならない。

 ある方から、「息子の時代には皆んな廃棄ごみ・・」と言われたが、・・・・仕方がない。

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■ご紹介「忍者研究 第3号」

2022-10-05 17:27:51 | 書籍・読書

忍者研究 第3号
2020年8月31日 印刷・発行

【目次】

論文
戦国時代の忍びの実像(平山優)

熊本藩細川家の忍び(上田哲也)
「忍者・服部半蔵」の誕生(田村梨沙)
息長と簡易マインドフルネス訓練の比較(西村誠)

報告
書籍紹介:尼子騒兵衛「落第忍者乱太郎」とそのシリーズ(井上直哉)
二〇一九年の忍者界動向(福島嵩仁)
2019年忍者作品一覧(福島嵩仁・中津珠梨)
第3回国際忍者学会大会の講演・発表要旨
今号掲載の論文要旨

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■御侍帳・家紋から考える(45)

2022-10-05 06:39:37 | 家紋

                                         

              肥後細川藩侍帳の部

藤本伊右衛門は、(南東39-12)藤本吉太郎家の7代目・伊衛門(治部左衛門)か? 家紋は「隅立角に■■」
藤本八助は、(南東39-7)藤本九左衛門家の7代目・添(八助)。家紋は同上  
藤本亀之允は、(南東39-11)藤本学之助家の6代目。家紋は同上  

福田勝助は、(南東39-17)福田権兵衛家の7代目・勝之助、文化十一年一月~文政十年十二月 用人 文政十年六月杢平ト改名。
       家紋は「丸に浜洲」「隅切り平角に浜洲」紋。  


福田久右衛門は、(南東39-17)福田権兵衛家の6代目・勇記(久右衛門)。家紋は「丸に三つ柏紋」  

福田一八は、【丹後以来】 (南東39-14)福田平八家の8代目。家紋は「隅切り立角に隅切り陰井桁紋」  

福田平左衛門は、(南東39-16)福田抱一家の 8代目・平左衛門(十郎右衛門・十郎左衛門)。家紋は「違い角紋」  

福田次左衛門は、(南東39-15)福田三郎右衛門家の7代目・寿八郎(次左衛門)  
         文政十一年三月~天保三年七月 八代郡代 家紋は「隅切り立角に左三つ巴紋」 

不破万平は、(南東39-5)不破源次郎家の5代目、名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
       江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。 
       家紋は「杏葉紋」「丸に不文字紋」 

不破大作は、同上分家、(南東39-6)不破小兵衛家の3代目。文政五年頃葦北郡代を勤めた。家紋は同上。  
不破兵太夫は、(南東39-4)不破太直家の9代目・数太(平大夫・太直)
          文政十一年十二月(三拾挺頭)~天保十一年九月 中小姓頭
          天保十一年九月~天保十二年十二月(病死)小姓頭 家紋は「丸に不文字紋」
 

不破五郎右衛門は、(南東39-3)不破仁三郎家の6代目・大次郎(五郎右衛門)。家紋は「   」「伍文字紋」  

福間恵迪は、御医師 (南東56-25 医)福間東海家の5代目、御用人支配・外科、金瘡師役兼 百石御蔵米
       家紋は「■■文字紋」

古庄角之允は、(南東39-9)古庄三郎家の5代目、もしくは7代目。家紋は「三つ星紋」  

古庄養拙は、御医師(南東56-23 医)古庄養拙家の5代目。家紋は「隅切り立角に二つ丁子巴紋」    

古市宗庵は、御茶頭(南東59-4 茶・鷹・馬)古市宗安家の7代理庵(宗庵)。千利休の女婿・円乗坊宗圓の女婿・宗庵
       を初代とし、利休正統のお茶道を伝えた。後・茶道肥後古流・家元の家であるが、後高弟、武田智徳に継
       承せられた。家紋は「   」「上り藤に一文字紋」    

古屋十次郎は、(南東64-10 *)古屋台輔家の2代目重次郎。古屋昔陽 名は鬲、字は公款、重次郎と称し、昔陽と号す。愛日斎の弟
       にして江戸に住し子弟を教授す。後兄の後を継ぎ細川藩に仕へて食禄百石を賜り儒臣となる。
       家紋は「六角に唐花紋」  

古山常助は、(南東39--26)古山文内家の6代目。家紋は「隅切り平角に蔦紋」  

船津猪平太は、(南東39-27)船津東平家の2代目・猪平太(喜右衛門)か。家紋は「丸に隅立角紋」  

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■アオサギとカラス

2022-10-04 10:45:02 | 徒然

 ここ数日、肩の痛みと右足のこむら返りがあって散歩に出ていない。こむら返りで脹脛に張りがあって歩行がままならないし、肩の痛みで左手は振る事も出来ない。
実質身体障碍者状態である。
家を出るのは、ゴミ捨てで往復200mばかり、運動にはならない。
今日もゴミ捨てで出てみると、いつの名残か水無川のくぼみに水が溜まっている。
そんな中にアオサギが佇んでいて、大きなカラスと対峙している。いつも思うのだが、水無川だから日頃は川底は干上がっており、雨が降ると近くの排水溝の水が流れ込んで大濁流となる。
アオサギは下流の江津湖あたりから飛んできたのだろうが、魚はいないし早くお帰りと言いたいところだ。
カラスとみらめっこしていたが、私の気配を感じたのか更に上流部へ飛んで行った。
5~60mほどの上流の所に堰があり、それより上はよほどのことがない限り水が枯れあがる事はない。魚も多分いる事だろうからアオサギは良い選択をした。
そのアオサギが居た水たまりはどうも最近川底がえぐられたらしく、堆積物がなくなってASO4という溶岩流台地らしきものが露出していた。
先の大雨は一時間に満たない時間に40㎜程の大雨が降って、水無川(健軍川)は大濁流となった。
一面お花畑状態だった川底は、その時に川底がえぐられたらしい。

今朝ほども「生きとるね」「散歩はしよるね」と電話があった。
あと数日したら、お昼も27~8度くらいには落ち着くようだから、体の具合を見ながら散歩を再開しようと思っている。
皆様もお元気にお過ごしください。

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■Congratulations! 56号HR+三冠王

2022-10-04 06:43:56 | 熊本

 夕食後自分の部屋に入った奥方が手を叩き声を上げている。村上選手がHRを打ったなと瞬時に理解した。
「TV・TV・・・■■チャンネル」と騒がしい。  
打った瞬間は見れなかったが、両手を上げてパネルをかざしている姿を確認して、奥方に「良かったネ」と声を掛ける。
最近の奥方は村上宗隆・大谷翔平命と言った感じである。

 実は村上選手は東区御領(託麻南小→御領中)の出身でまさに地元の人である。
私流の興味としては、村上水軍の末裔で、細川藩士・村上氏の血族の人ではないかとひそかに思っている。

3年前■ヤクルトスワローズ・村上宗隆をかいた。違ったら大恥ものだが「熊日なんでも相談室」に連絡してみようか等と思ったりもした。
村上選手もいずれはアメリカに渡り、大谷選手と争うような大選手になるのではないか。
地元熊本は大いに沸いている。Congratulations! 56号HR+三冠王 

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■武衛とか羽林とか

2022-10-03 10:12:57 | 歴史

 どうも今年のドラマは人殺しの話ばかりだし、三谷幸喜のおふざけが過ぎてあまり見る気がしない。
我が熊本の偉人・横井小楠先生がまさしく北条の血を引いていることを想ったりしている。
小楠先生は北条時行の子孫、諱は「時存」(ときひろ・ときあり)、北条四郎平時存と名乗っていたようだ。

 さて最近のドラマでは、「武衛」「羽林」という言葉が登場していた。
武衛」という言葉が出てきたのは、佐藤浩市が演じた上総広常が酒の席で頼朝の名前を呼びたくなくて「武衛」と三谷幸喜は叫ばせている。
「武衛」とは右衛門府の長官、すなわち天皇をお守りする最高位の者を表す「唐名」である。もう大分以前「知ったぶりが金魚みて・・」ではないが、或るコメントをかいたら、「武衛」ではなく「武」が本当だから覚えておきなさいと注意を受けたことがあった。「近衛の衛も「衞」だからね・・」と言われたことを思い出す。
「衞」は「衛」の旧字だから、今日では残念ながら「武衞」「近衞」で検索しても引っかからない。
細川家家臣・津川家の初代・四郎右衛門辰珍は武衛家最後の当主・斯波義近銀(近)の二男である。

 昨日のドラマでは「羽林」が出てきた。実朝の仲良しの和田義盛が「羽林と呼んでいいですか」などと軽々しく声を掛けていたが、これも三谷流。
此方は「近衛府」の長官を唐名で「羽林」と呼んだことによる。
「羽林」といえば、細川忠利を思い出す。その法号が「妙解院羽林臺雲宗伍」。この「羽林」がどこに由来しているのか承知していないが、「侍従・少将」に叙任されているからか・・・?

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■半病人

2022-10-03 09:36:52 | 徒然

 コロナワクチンの二回目終了後あたりから、左肩から腕・手首にかけて痛みが続いている。
左の方へ寝返りでもしようものなら、痛みが消える迄小一時間は眠れない。
それに加えて「こむら返り」が相変わらずで、これをやるとまたしばらくは寝付けない。
毎日睡眠不足で、午睡が欠かせなくなった。
昨晩は奇跡的に寝返りの痛みも、こむら返りもなかったが、夢ばかり見ていたから睡眠は相変わらず浅い。
手を振って歩くことが出来ず、最近は散歩も控えている。冗談ではなく三角巾で腕をつろうかと思うくらいである。
気が付くと右手で左の手首を握って引っ張り上げたりしている。
幸いタイピングには今のところ支障はないが、長い時間がたつと左手首に痺れが来る。そのためにサポーターをつけたりしているが手首が温まってしばらくすると治まってくれる。
肩の痛みよりも、毎日の様に起こるこむら返りの方が悶絶するような痛さで、一昨日はこれを二度やってしまい悲惨極まりなかった。
奥方からは「半病人」といわれ、「病院に行きなさいよ」と再三言われるのだが、これだけ痛めつけられるとさすがに重い腰を上げずばなるまいと思いだした。

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■戦艦ポチョムキンの反乱

2022-10-02 10:37:36 | 歴史

 乃木希典という人物は、明治10年(1877)の西南の役に出陣し、軍旗を失くすという大失態を為した。時に28歳である。
そして28年後、日露戦争(1904)に於いては将軍として、莫大な死傷者をもたらしながらも、なんとか日本軍に勝利をもたらした。
「露」とするのは当時の帝政ロシアである。ポーランドやウクライナなどを含む膨大な領土を有していたが、190余年に及ぶ帝政の終焉の13年前のことであった。
日露戦争に於ける敗戦は、帝政ロシア崩壊の一因となったことは間違いない。
後にサイレントの映画「戦艦ポチョムキン」で知られる「ポチョムキン号の反乱」が起ったのが、日露戦争終結の1905年の事だ。
2月革命(1917)によりニコライ2世が退位して帝政ロシアは亡びた。
今般のプーチンによるウクライナ侵攻は、かっての帝政ロシア時代の残影である「大ロシア」構想によるものであろう。
映画「戦艦ポチョムキン」は1925年に作られた、帝政ロシア崩壊後の共産党のプロパガンダの作品だと言われるが、帝政ロシア崩壊のエネルギーを見事に映像化している。

 映画好きの方ならとっくに御存知の、ケビンコスナーの「アンタッチャブル」の乳母車が駅の階段を落ちていくシーン、大変印象的だがこれも「戦艦ポチョムキン」の二番煎じである。
オデッサの階段で、多くの民衆に帝政ロシア軍の兵士が発砲する中に、若い母親が優雅な乳母車に赤ん坊を乗せていて巻き込まれる。「撃たないで」という彼女の哀願の表情が印象的だが、容赦なく撃ち殺され、赤ん坊を乗せた乳母車は階段を弾むように下へ落ちていく。周りの人たちも銃弾の餌食になり、乳母車を止めようという人はいない。
反乱を起こしたポチョムキン号から発せられた砲弾が、帝政ロシア軍の牙城に着弾する。
圧政の下、市民たちの考えが変化して解放の原動力となっていく。

 この映画を見ていると、ロシアの中でまた「ポチョムキンの反乱」が起るのではないかという予感めいた気持ちが湧いてくる。
帝政ロシアの終焉がプーチン政権の終焉に重なってしまう。そしてあの長い/\オデッサ(ポチョムキン)の階段は今どうなっているのかと想像している。

 

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■ネズミが一匹死にまして・・・

2022-10-02 08:35:54 | 徒然

 終活を進めている中で、古いPCとかマウスとか処分してしまおうと思うが、何か捨てきれないでいる。
私のPCへの入り込みは、CADからスタートしている。建築設計のアイテムの変化は私の現役40年ほどの間で劇的に変化してきた。
製図板にT定規から出発して、ドラフターが出現、しばらくすると左右にスライドするアームに上下する定規がついたドラフターがでた。その後プリンターに連動するに及んで製図機械は小型自動車が買えるような価格のものになってきた。
PCが登場するとCADが普及し、ソフトがいろいろ開発され、やや大きめのデスクトップの画面をみながら仕事に励んできた。
PCもいろいろ使っては処分してきた。今では15インチのノートPCがあれば十分事足りる。
データの保存も随分変化してきたが、私が設計に携わった作品のデータ保存も多岐に亘っている。
これらも、すべてUSBに変換して保存し処分しようと思っている。

話がそれてしまったが、マウスも随分買い替えた。現在有線2と無線2のマウスが4種類あるが、無線マウスが壊れてしまった。
どうも電池の接触部分が痛んだらしく、使い慣れていたので現在のマウスにしたが、親指の少々上に変な機能を持つボタンがあって、時々意に反してこれに触れ作業に支障をきたしている。
又、買い替えようと思ったりするが有線のマウスもある事だから、しばらくは我慢しようかとも思う。シッポ付き、シッポなしを一つづつ残して古いPCとともに処分することにした。

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■かにかくに・・

2022-10-01 15:17:01 | 徒然

 処分しようと古い大学ノートをめくっていたら、下の歌が書かれてあった。なんで又という思いがある。           

           かにかくに渋谷村は恋しかり おもいでの山おもいでの川   啄木

石川啄木の「一握の砂」にある有名な句、中学時代「かにかく」つて何?と思いながらも諳んじていた。この歌が好きだという友達の影響を受けている。
内容的にはなんでもない望郷の歌のように思えるが、とにかく「かにかく」が効いている。意味は「あれこれと。何かにつけて。」

 「かにかく」といえば、京都祇園を愛してやまなかった吉井勇を偲んで、京都では「かにかく祭」なるものが催されるそうだが、勇の句碑に舞妓さんがお詣りするのだそうな。
それこそ一昨日のブログ「徒然なかはなし」にあった「だらりの帯の家紋」の舞妓さんたちが沢山集われたのだろう。京都の文化は豊かで羨ましい。

              かにかくに祇園は恋し寝る時も 枕の下を水の流るる   

こちらの「かにかく」は啄木とは随分様子を異にしている。啄木は苦学生、勇は華族さま、しかし二人は同時代の人で啄木が命尽きる迄のわずかな時期、大変親しかったという。
また、勇が通ったという「喫茶ソワレ」には、店先に彼の歌が表示されているそうだ。

              珈琲の香にむせびたるゆうべより 夢みるひととなりにけらしな   勇

これはもう10年以上前、ご厚誼いただいていたがお会いした事のないY氏が奥様と京都を旅し「ここを訪ねてひと時を過ごしてきました」とメールをいただき、そのことを知った。
良いご趣味だ。某藩主家の御一族だと御見受けした。
10年前のニュースだから確認してみると、まだ営業を続けて居られるらしい。文学趣味の方で大賑わいのお店らしい。
          

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■會(会)氏の出自

2022-10-01 06:25:34 | 人物

 落語家の三遊亭円楽さんが亡くなった。ご冥福をお祈り申し上げる。72歳は早すぎるし、落語会統一という夢が潰えた。
円生の名跡を継ぎたいと公言して憚らなかったが、これ叶わなかった。円楽も円生もしばらくは落語界には存在しないことになる。

 私は時折ユーチュブで落語を楽しんでいるが、円楽さんの「芝濱」はよく聞いた。
処で、円楽さんの姓は「會(あい)」氏である。NHKの「日本人のお名前」に出演して、自ら語られていたのを思い出す。
ご本人は東京の生まれだが、お父さんが「隠岐」のご出身という。某メディアが「江戸っ子」と書いていたがそれは違う。
その時の話をメモしていいるが、「かいさんですか」と電話がかかると「違います」と言って切ったり、長男にお嫁さんが来るとき「まずいんじゃないかい」と言ったと言う。お嫁さんの名前は「愛さん」、「あいあい」はまずいだろうという落ちがあった。
日本姓氏語源辞典というサイトがあるが、1・東京都(約10人) 2・神奈川県(ごく少数)などとしていて、円楽さんがその「會」氏である事を御存知ないらしい。(この際慌てて書き込みがあるかもしれない)
円楽さんはまだ「楽太郎」時代、お父さんやその出自である島根のことに就いて語る「私と島根-父の島・隠岐」という貴重な一文がある。

 志ん朝や談志亡き後、落語会をけん引してきた名人がまた一人消えた。

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■突囲隊と木山街道

2022-09-30 08:52:30 | 地図散歩

 資料整理をする中で、いろんな地図をまとめるために大袋を作って収めたりしている。
江戸期のいわゆる絵図から近代に入ってからの地図、高速道路の地図とか、観光地の地図など雑多である。
そんな中に水前寺から砂取に至る、いわゆる木山街道の七曲りを歩いた時の絵図が出てきた。
その後、健軍神社脇から木山に至る道も自転車で確かめた。(一部は団地となり道路は消滅している処あり)

 昨晩になり今度は甲斐青萍の西南の役当時、白川を渡河する「突囲隊」が描かれた図のコピーが顔を出した。
橋の上では陽動のための「侵襲隊」が薩摩軍と激突している中、「突囲隊」が上流部を渡河していった。
そして木山街道を下って行ったのであろう、あの七曲りの道を通ったのだろうか。


             

 実は突囲隊はここで薩軍を振り切って水前寺→中牟田→健軍→隈庄(城南)をへて衝背隊が陣する宇土に達した。
突囲隊が宇土に達し連絡に成功したことにより、衝背隊が熊本城下を目指し、薩摩軍は敗走2ヶ月に及ぶ籠城軍も解放された。

 甲斐青萍が描く所の多くの絵図は2017年、熊大の伊藤重剛教授により「甲斐青萍・熊本街並画集」として発刊された。
しかし、この「突囲隊」の図は掲載されていない。
著作権があってご紹介は難しいが、同じ場所は、明治33年7月の白川大水害の図として二枚が描かれている。
いずれも府中から対岸の大江方面を描いている。橋の上流部に流木などから橋を守るための構造物が共に描かれている。
また、マンスフェルトは「水前寺道の大川に架かる橋」とネーミングされた写真を残しているがこれも府中側から・・・
小泉八雲は「橋の上で」を書き残したが、まさにこの橋の上で車夫に往時の熊本城を語らせている。

 安己橋上流100mにある「熊本城突囲隊出撃の所」表示板

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■熊本の纏

2022-09-29 14:02:09 | 史料

                      
       

  平成17年(2005)6月24日付けの熊本日々新聞が顔を出し、「探訪・江戸文化 in 熊本」に「火事と纏」という文章が掲載され、この纏も紹介されている。
これは熊本市立図書館藏の「中根家文書」に紹介されている、手控えと思われる熊本の夫々の町の「纏」の図である。
江戸期、熊本府中には、新町一丁目(1町)・新町二丁目(6町)・新町三丁目(4丁)・蔚山町(1町)・職人町(4町)・西古町(11町)・中古町(11町)・東古町( 町)・紺屋町(7町)・京町一丁目(1町)・京町二丁目(1町)・今京町(1町)・出京町(3町)・新坪井町(12町)・細工町(7町)・本坪井町(6丁)など計86の町があった。
(但し、資料に依り異同がある)
それぞれの町が単独であったり、またいくつかの町が合わさったりして消防の組織・鳶役が作られていたことが判る。

熊本に於ける火消しの制度は、安永10年(1781)12組の火消し組が編成されたという。
     ■円居(まといと読む)
これは、熊本の火事では1,778軒が消失したという一番被害の大きかった安永7年(1778)閏7月28日の娯楽寺丁より出火した火事を受けてのことであろう。
細川藩政期に於いて、寛永16年から大きな火事が67件に及んだ。細川家の入国は寛永9年だが、何故16年からとするのは、別の資料に依ると花畑邸で「ボヤ火事」が起きていることによるのだろう。■花畑御屋敷・今昔
以下、大きな火事について触れた過去のブログである。

     ■宝永四年山崎町の火事-焼けだし

     ■享保の火事(1)
     ■享保の火事(2)  
     ■享保の火事(3‐了)

     ■享保十四年・藪の内火事

                     火の要慎さっしゃりませ



 

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■不思議な家紋の正体

2022-09-29 06:32:59 | 家紋

                        

    細川家家臣のお宅の家紋をご紹介しているが、何とも名前が判らず、またヒントにも行き当らずというものが幾つかある。
昨日の■御侍帳・家紋から考える(44)でご紹介した藤懸家の家紋も、その際たるものであろう。
一つは「丸に三文字紋」これは、藤懸氏でググってみると「武家家伝_藤掛氏」に尾張織田氏庶流としてこの家紋が紹介されている。
もう一つがこの不思議な形の家紋で、原寸8㎜×5.5㎜をスキャンして拡大してみると、不思議な形の紋に白地で切り抜かれているのは「結び雁金」か?
手元にある数冊の家紋帳を一頁づつめくりながら確認しているが、基本になっているのは「舵紋」だろうか?

                          舵紋 – 家紋DB
 本来はこういったものだ。もう捨てようかと思っていた丹羽基二氏著の「家紋」(昭和51年7月発行の22版)に出ていたものだが、その説明に「舵紋の使用家は寛政重脩(修)諸家譜では、織田家から出た藤懸氏・・・」とあった。
調べてはみるものだ。
とすると、「結び雁金抜き舵紋」とでもいうのだろうか。

また、「肥陽諸士鑑」にも諸家の家紋が紹介してある。ここにある藤懸氏の項の家紋を先に見ればよかったと悔やまれるが、これはまさに「舵紋」である。今一つ小さい不思議な家紋が描かれていたが、非常に小さいので何が何かわからない。これもスキャンして拡大してみた。
                      
 ここまで大きくすると、下の家紋は丹羽基二氏著の「家紋」に類似の紋  三つ舵紋(みつかじ):家紋のいろは  「三つ舵紋」が紹介してあり、それから類推すると「丸に三つ結び雁金抜き舵紋」とでもいう事に成ろうか。
只々感嘆するばかりである。
 

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