津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■殉死を拒否した人

2024-05-20 08:58:59 | 人物
  山鹿素行という人は「殉死」に対しては批判的な人であったという。
彼の著「山鹿語録」に細川忠利の死後、阿部弥一右衛門同様殉死すべき人物と陰口をたたかれた人物について取り上げている。
加々山主馬可政の次弟・加々山(奥田)権左衛門なる 2,080石を領する上級家士である。

  主人へ殉死致さずと云て、其家中にあしく云けるもの多かりしものあり。此者、主人の忌日に惣家中寺へ参詣仕りけるを、用所候
  由にて留め置きて、惣衆相あつまれるとき罷り出て申しけるは、私事殉死仕るべきことなりと、此座中に入来候歴々にも御沙汰こ
  れあるの由承り及び候。定て殉死仕るべき子細を御存じにてこれあるべし。吾等ことは殉死仕り御奉公に罷り成るべきの見付けこ
  れ無く候。主人御取り立てのものは必ず殉死いたすはずと計の儀は、我等合点には及ばず候ゆへ殉死仕らず候。唯今にも其道理を
  承り届けば、御奉公のことに候間、則ち殉死仕るべしと云けるに、座中一言の返答にも及ばざるに付きて、(後略)
  此のごとく理りを尽すの処、とかくの仰せもこれなき上は、定めて各の御沙汰にてはこれなくと見え候。此上は、已来うしろにて
  殉死の批判あられん方は、侍の本意にあらざる間、この心を得られ玉はれ。

 まことに小気味よい話で、こう詰め寄られると陰口をたたいていた人たちも口をつぐまざるを得ない。
阿部弥一右衛門は殉死を選んでいるが、こちらは庄屋あがりの大出頭の人であったから、陰口もさることながら自ら深く思うところがあ
ったのであろう。

私は弥一右衛門の殉死と阿部一族の誅伐事件は別のものとして考えるべきだと思っている。
後者は嫡男・権兵衛の不届きなる行いによって引き起こされたものである。

          

        

 

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■細川家臣・朝山家と陽明学徒追放事件

2024-05-19 09:51:42 | 熊本史談会

 今回は「朝山家」について触れたい。
熊倉功夫氏の著「後水尾天皇」を読んで知ったことだが、御光明天皇の侍講となった朝山意林庵は慶長15~17年にかけて細川家に仕官していたらしい。朝山亀太郎家の初代、斉助はその意林斎の弟だという。
お若い御光明天皇に意林庵は「中庸」を講じたとされる。承応二年のことであり、その折弟の斉助にあてた書状が熊倉氏の先述の著に紹介されている(中公文庫p185)
2代目次郎左衛門は陽明学に親しんだために、綱利代、その故をもって寛文九年に「御暇」となっている。初代斉助の長兄幸綱の孫だとされるから、朝山家は幸綱ー意林庵ー斉助(景吉)の兄弟であったことが判る。
 昨日は熊本史談会で「儒学、そしてその変遷」をお聞きしたが、綱利の御小姓頭を勤めていた2代目次郎左衛門が、異学とされる陽明学に親しんだために同志と共に追放された。
質疑の中で「何故朱子学が幕府に重要視されたか」という質問があったが、まさに「封建的支配を理論づけるのにふさわしく学問」として位置づけられるに及んで、陽明学は異学として排斥された。
多くの人々が禄を離れたり離国したりしている。不幸な事件であった。
 長い徳川家による支配が、幕末陽明学を信奉する人々によって覆されることは必然であったのかもしれない。
熊本に於いては実学派の誕生が見られるが、これとて米田監物の「坪井派」、横井小楠の「沼山津派」に分派するなど、学問の変遷の中の一端を見る思いがする。

■ 朝(浅)山亀太郎   (南東43-13)
    1、斉助・景吉 
       原城にて武功之面々御褒美被下候 寛永十五年九月朔日 千石加増
        (1)側小姓・御扈従役歟 五百石 (於豊前小倉御侍帳)・・斉 
        (2)御児小姓并御伽衆共 五百石 (肥後御入国宿割帳)
        (3)御詰衆 弐千八百弐拾石一斗三升 (真源院様御代御侍名附)
        (4)二千八百二拾二石        (真源院様御代御侍免撫帳)
        (5)御小姓頭    同上
     2、次郎左衛門(養子・斉助長兄幸綱の孫) 
        (1)有吉頼母允組 御小姓頭 弐千八百拾石余 
                         (寛文四年六月・御侍帳)・・次郎左衛門

        (2)寛文九年十一月御暇遺候 (※) 陽明学徒追放による
           寛文九年十月七日 御暇 (※)寛文元年八月~寛文九年(御暇)小姓頭
                                      讀史総覧より   

           朝山次郎左衛門 名は幸和、自全と号す。年三十六にして致仕し、洛西嵯峨に隠棲す。
                      篤く聖学を信じ、就中王陽明良知の学を尚べり。
                      天和二年四月十二日歿す。年四十九。

    3、斎之助(次郎左衛門子主膳の子・景隆) 細川斉茲公御書出(天明八年)百五拾石
         朝山静全 名は景隆、斉之助と称す。藩に仕へ京都留守居役を勤む。
                  文化三年九月歿す年九十三。
          参考:朝山斎之助覚書(上妻文庫-144)(雑撰録-巻19 一名見聞雑記)
          参考:肥後畸人伝・先哲偉蹟拾遺
           (以下略)

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■腱鞘炎?

2024-05-19 07:59:26 | ご挨拶

 齢を重ねるという事はこういう事かと最近つくづく感じている。
身体にガタがきて、コロナ以来の左肩・腕の痛みがとれないし、左腕の腱鞘炎に悩まされている。
タイピングもままならず、右手だけで打ったりすることも度々である。
昨日は史談会の例会に出かけたが、講演を拝聴するまさにその時間中、腱鞘炎の痛みが出て、左手の五本の指が固まってしまい、下腕部の筋肉痛にいためつけられた。
「指が固まる」と書いたが、両手指を交差させてづっともみほぐしていたが、一時間ほどは講演内容が身に入らぬありさまである。
考えてみれば、わがブログ人生もそろそろ20年になるから、タイピングで指や腕も酷使しており、その代償が表われたようだ。
今日はPCを離れ、資料を読んだり整理したりで一日を過ごそうかと思っている。
バンデリンを塗りたくって、今日も何とかしのいでいるが、なんだか指が固まりそうな予感がある。

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■鳥を食らう

2024-05-18 06:39:37 | 徒然

 昨日は病院へ薬を貰いに行った帰りに、近くの川の川沿いの道から川面をのぞき込んでいたら、大きなアオサギを見かけた。
近所の人たちも気が付いているらしく、驚かせないように気を使っている様子である。
数日前に雨が降った名残で、水無川(健軍川)にわずかながらも細い流れが続いている。
わずか上流に堰があり、水はせき止められていて、ほんのわずかの水が下流へと向かっている。
カモの親子らしい姿も時折見かけられる。
雨が降った日に押し流された小さな魚の一群が群れており、サギはこれを狙って飛来したのだろう。
一両日雨がなければ、流れは分断され、そのうちには干上がってしまう。小魚たちの運命も見えている。
先日は大きなシラサギが5階の我が家のベランダから目の前に見えて驚いたことであった。

 「鷹将軍と鶴の味噌汁」という本が面白いが、江戸時代の「鳥の美食学」とあるが、カモは良く食されているが、サギ類はあ
まり出てこない。

むしろ、雀やつぐみ・ひよどり・はと・やまどり等が多いようだが、何といっても食する鳥のキングは「鶴」である。
鷹狩で捕獲された鶴は「御鷹の鶴」と称されて、将軍家に献上される。
細川家の小倉時代の記録には鶴の捕獲が良く出てくるが、熊本に於いても現在の鶴屋デパートがあるあたりが勝手は鶴屋敷と呼
ばれたことが、デパートの名前の由来になっている。

他にも「鶴」を冠した地名は多く見られ、熊本に於いても鶴の飛来はあったのだろう。
時折、将軍家から「御鷹の鶴」のご下賜があると、名誉なこととして記録されている。

 冬から初春にかけては、江津湖にたくさんのカモが戯れている。これは捕獲など思いもよらぬが、カモをとらえるには、ほそ
い水路を作って導き込み、これに網をうってとらえるらしい。

今でも皇室のご猟場があるが、何本かある水路に導かれたカモを大きな差又網をふるって捕獲する。
現在でも行われていて、愛子さまはどうかは知らぬが、秋篠宮家の真子様・佳子様なども経験されている。
動物愛護の意味からとらえた鳥はすぐに放鳥されるらしいが、大事な外交の為の皇室行事であるらしい。
       たばかって(あざむいて)鴨を導く水路かな  という句は私の駄作なのだが、そんな意味の句があるのをどうしても思い
出せない。

 江戸時代、熊本には鳥町・新鳥町などという町名の町があり、鳥を商う店が多く存在したらしいが、鳥をかって楽しむという
余裕も生まれていたようだ。

食用として扱われていたのかもしれない。

 ふと、サギは美味くないのだろうかと思ったり、五位の位をもつサギもいることだからご禁制だったのかと思ったりする。
当方、焼き鳥屋さんで「すずめ」等が、在りし日の姿をのこしたまま出てくると、もう手が出ない。
手羽先なら食えるのに・・・???

 

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■四賢夫人横井つせ子と矢嶋楫子の苦労

2024-05-17 06:00:45 | 徒然

 資料を整理していたら、映画「われ弱ければ」のパンフが出てきた。
主演の常盤貴子さんの舞台挨拶があるということで、公開当日は前から5~6列目に陣取って、お美しい姿を拝見した。
主人公の矢嶋楫子は、「四賢夫人」の一人として著名だが私は詳しく存じ上げなかった。
映画を拝見するとともに、三浦綾子氏の著書も購入して精読した。
                 われ弱ければ(小学館文庫) (小学館文庫 R み- 1-4)

 今日改めて本棚から取り出してななめ読みをしたところだが、横井小楠夫人・つせ子に関わる記述に目が留まった。
その文章をご紹介してみよう。
 
  つせ子の夫は天下に名高い学者横井小楠である。部屋住みの身は、晴れて結婚することができなかった。ところが、長男の兄が死に、
  その子供も幼くして死に、小楠が横井家を継ぐこととなった。百五十石の武家だった。小楠はその以前に内縁の妻を迎えてはいたが、
  男児を出生すると同時に、母子ともども死んでしまった。その後妻に、楫子のすぐ上の姉つせ子が嫁いだのは、小楠四十八歳、つせ
  子二十六歳の時であった。兄も姉たちも、天下の小楠の妻になることを喜んだが、楫子は喜べなかった。年齢差がありすぎるという
  理由からではなかった。百五十石の家に、惣庄屋の娘は正妻として嫁ぐことができなかったのだ。嫁いだとしても、それはあくまで
  も妾であって、正妻ではなかった。しかも小楠には寿加という女がいてひとつ屋根の下に住んでいた。部屋住み時代の、三十代時
  代からの女であった。十何年ともに夫婦のようにしてきた寿加と、つせ子は同じ扱いを受けるわけなのだ。いかに事実上の妻だと言
  いくるめられても、楫子にはもろ手を上げて賛成し得ぬ縁談であった。が、ついにつせ子は小楠に嫁いだ。嫁いだといっても妾の身
  分であったから、婚礼は略された。つせ子は夫を「殿」と呼び、生まれたわが子を「さん」づけで呼ばねばならず、子供たちから、
  「お乳」と呼ばれる存在だった。十年以上も前からいる寿加のほかに、きびしい姑もいた。

 つせ子の苦労は大変だったとは伝えられるが、それは三浦氏が指摘するようなことは違った形で受け止められているのではなかろうか。
寿加という女性がいたことは確かだが、徳永洋氏は「女中」だとされている。姑は結婚から2年後に亡くなっているが、家族は亡くなっ
た兄の嫁と二人の男子(左平太・太平)がいたし、時雄・みや子も生まれ賑やかな一家となったが、いわゆる「士道忘却事件」により帰
国したのち、士席をはく奪され知行も召し上げられたから、無収入となってしまった。
この時期が、つせ子には一番苦労した時期ではなかろうか。
そんなつせ子の苦労と並行して、楫子は酒乱の夫に仕えた。義兄・小楠の死については著者三浦綾子は全く触れていない。
小楠の死から五年後、楫子は夫を捨てて東京にいるあに矢嶋直方の元へ向かうのである。
キリスト教に目覚め、女子教育に携わり名を遺した楫子が賢夫人と称えられるのは、女性の地位向上に大きく寄与したという事であろう。
開明的な思想の持ち主で明治維新の立役者であった小楠だが、こと女性解放については思考がついていかなかったようだ。

 甥の徳富蘆花は、楫子が不義(?)の子を為したことにたいして言葉を極めて痛罵している。その著「竹崎順子」に詳しいが、またい
つかこちらも改めて読んでみようかと思うが、何せの大部であるから心して臨まなければならない。

 

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■泰勝寺・長岡度世さまのご先祖様

2024-05-16 06:44:54 | 人物

 「開かずの段ボール」ならぬ「開けずの段ボール」を久しぶりに開けてみたら、朽木家の史料や古文書が顔を出した。
ひところヤフオクで朽木家や朽木定彦なる人物に関する文書を五点ほど手に入れたものである。
一緒に朽木家と長岡與三郎家の先祖附も出てきた。

そのころ一生懸命これらの文書を読んだのだが、定彦氏が刑部家に入ったいきさつが解明できないままでいた。
この朽木定彦なる人物は朽木昭信なる人物の嫡子である。「細川藩主要家臣」をみると、この朽木昭信は朽木家7代・昭恒の
養子として朽木家に入ったが「病身につき実方に引取る」という記載がある。

それゆえ8代は、八代松井家から営之の末子・昭久が入っている。
昭信の実方とは宇土細川家であり、「細川和泉守の伯父」とあるが和泉守とは宇土細川家の8代目の「立之」のことである。
つまり、7代細川立禮(宗家相続して齊茲)の末弟・左膳である。

定彦は朽木昭恒の娘である生母と共に朽木家に残ったらしい。
そして、父が朽木家当主を継いでいないために、他家に養子に出ることを望んだらしい。
それが、数年前ヤフオクで手に入れた朽木家関係の文書にいろいろ書かれていたのである。

 結果として定彦は刑部家に入っている。しかし嫡家ではない。
実は刑部家の6代は細川重賢の末弟・隼人が入って興彰を名乗っている。5代に男子があり興禎という人があってこれが嫡家
の後を継いでいる。

一方6代興彰の後は惣領の興度が別家を興した。定彦はこの別家の2代目となったのである。
細川宗家・宇土細川家の濃いDNAがこの別家に入った。
半世紀ほど前、泰勝寺にお住まいになっておられた、長岡度世様がそのご子孫であった。
私の姓が少々珍しいから、祖父のことを御存知で親しくしていただいた。

 長岡與三郎家の先祖附を精読してみると、朽木定彦氏が大叔父・細川齊茲公の配慮によって、宜紀公の末子(重賢公末弟)
である與三郎家の2代目として養子となったことがよく理解できた。

略系図にしてみると以下の如くである。

       +ーーー細川重賢ーーー治年==齊茲     
       +ーーーーーー左膳
                                ⇩  分家創立・初代
 細川刑部家5代・興行==興彰ーーー與三郎ーーー●
                                                       ‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川與三郎家                                   
                  定彦                           

             7代
  宇土細川家6代・興文ーーーー+ーーー立禮(宗家に入って齊茲)     
            +ーーー昭信(病身ニテ実家へ引き取る)
              ‖-------定彦 細川刑部家・分家-與三郎家に入り2代      
     朽木昭恒ーーー+ーーーーー女
            +ーーーーー女
              ‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朽木家
      松井営之・弟 昭久 

         ■定彦さん、順養子なるか
         ■定彦さん、順養子なるか・2
         ■その後の定彦殿
         ■定彦さんのこと、謎解き  
         ■定彦氏のこと
         ■定彦さんにこだわって
         ■定彦殿のこと・1「朽木内匠書状」
         ■定彦殿のこと・2「文化十四年七月十日付・米田監物書状」
         ■朽木家の血脈
         ■八代朽木家取扱之扣写(一)
         ■朽木家のこと「閑話休題」
         ■朽木内匠・定彦関係略系図
         ■八代朽木家取扱之扣写(ニ)
         ■八代朽木家取扱之扣写(三)
         ■先祖附にみる定彦殿
         ■八代朽木家取扱之扣写(四)御尋ニ付口上覚(一)
         ■懐具合と相談の上・・・    

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■熊本地震後の引っ越し

2024-05-15 07:58:56 | 自分史

 8年前の2016年の今日は、熊本大地震後大被害を受けたAPから引っ越した日です。
私の部屋の20センチほどの厚さのコンクリート壁が、外が見えるほどの亀裂が走りましたから、建築を生業とする私としては、地震のただならぬ威力を痛感しました。
当日のブログ■さて引越しです・・・・・を読み返してみると、感慨深いものがあります。
PCもWi-Fi環境が整わないため使用できず、3日ほどブログを休んだようです。
昭和28年の水害で財産の粗方が流失し、熊本地震でも多くの思い出の品を失いました。
命あっての物種で、それから8年たちましたが気が付けば82歳の爺となりました。
街中にはまだまだ地震の爪痕はそこかしこに残されています。
益城町の方へ出かけてみると都市計画の変更に伴う道路の拡幅工事などがまだ途半ばで、街並みもまだ歯がかけたような状態です。
能登地方の被害の状況を見るにつけ、皆さんのご苦労が伺えてかってのわが身を見る思いですが、まずは健康に留意されて頑張りすぎないようにお過ごしいただきたいものです。
梅雨の季節から本格的な夏へと自然は過酷です。ただただ平安をお祈り申し上げます。

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■「清高院」様の回答

2024-05-15 06:26:54 | ご挨拶

 派手な生活ぶりに対し国許の重役から痛烈な諫言を受けた生母・清高院の回答の書状がある。
先にも書いたが、その諫言の書の内容はまだ私は承知していない。

    佐渡興長殿より清高院様御物入多候ニ付十三ヶ条之諫言
    御老女海津を以進られしにご返事

  一筆申まひらし候先々その屋しきニて御六殿一たん御きけんの事めて度存候 此屋しきニ而七之助との御そくさひニ御座候まゝ
  御心やすかるへく候 扨ひとつ(書、欠ヵ)の書付のおもてくわしく見申候事ニ御座候 万御六殿御ためと御さ候而のいけんう
  け玉らぬはいかゝと存候而はんし(万事)かつてんいたし候事ニ御座候
 一三千石ニていかやうといたし申へきよし御申給候 おゝかたの事ハもと/\の十歩一(十分の一)ほとニ申付候ハんと存候 臺
  所むきも左やうニいたし候はんと申事ニ御座候 左様ニてハ中々成間しきよし申候てせうし(笑止)に存候 此上ハセひにおよ
  はぬ御事ニて御入候まゝ両人の御相談被成給へく候 くわしき事ハかいつ(岩間六兵衛室・海津)へ申候まゝ左様ニ御心得候
  へく候 御ふたり御年より候てかやうニいけん御申とそんし うけ玉はり候まゝ 今よりさき/\もあしき事御座候ハゝ御申候て
  玉るへく候 めてたくかしく
    返々くわしき事ハ かいつへ申候まゝ左様ニ御心得候 かしく
     五月十七日             清高院
       長岡さとのかミ殿
       沢村うへもん殿

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■御仕着せのこと

2024-05-14 14:23:13 | 歴史

 寛永十七年、光尚に仕えていた御児小姓がどういう不都合があったのか、誅伐にあっている。
詳細はうかがい知れないが、その人物「浅井三郎四郎」なる人物に関するニ三の記録が残されている。
召し出しは寛永十三年八月であったようで、「六人扶持、切米廿四石」を頂戴している。
そして面白いのが「お仕着せ」に関する記述である。私はこのような記述に触れるのは初めてなのだが、若殿様側近の「役徳」が見て取れる。

       浅井三郎四郎御志きせ之事
一、重陽歳暮ニ    御小袖四ッ 袴肩衣弐具 帯壱筋
一、端午七夕ニ    御帷子四ッ 袴肩衣壱具 帯壱筋
一、者奈紙もとい帋  壱ヶ月ニ壱束壱帖宛
    右は 肥後様御小々性衆御志きせの奈ミ如此ニ御座候
    御印之儀可被仰上候 以上
       寛永拾三年九月十四日 御印 
                     横山助進
                     朝山修理亮

「御仕着せ」とは、本来は「しきせ」なのだそうだが「主人から支給されるもの」だから「御」が付けられている。
又、「四季施」とも書くが、上記史料でもわかるように、端午・七夕・重陽・歳暮の四季にわたっていることからも伺うことができる。
しかし、これは一部側近のまさに「役徳」のように思える。
この人物は選ばれて児小姓になったとされるから、光尚の思い入れも深かったであろうから、その不都合はかえって光尚には怒りとなったのであろう。
これとて、熊本藩年表稿でには記載がなされていない。こんな記事に遭遇するから私の歴史狂いは段々深みにはまる。

  

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■綱利周辺に対する種々の諫言

2024-05-14 06:51:00 | 史料

 「この事件は真実か」を二度にわたってご紹介したが、私は「真実だろう」と理解している。
光尚公の死去後の大国・肥後藩を誰にゆだねるのかという幕府内の思惑は、幼い六丸をもって継承せしめようとする細川本家家臣団との思いとはその考えにいささかのずれがあったことが伺える。
しかし、必死の交渉は「幼い六丸による継承」を勝ちとった。そんな中で起きた不幸な事件であった。

 54万石という大藩をわずか8歳で襲封した六丸が、初めて御暇をいただき帰国するのは寛文元年(1661)のことであり、12年間を国許から離れ江戸詰めの家臣に取り巻かれて成長した。
生母・清高院とともにその派手な生活ぶりは国許の重臣たちの眉をひそめさせた。
その結果として、松井興長の綱利や清高院に対する諫言や、田中左兵衛の諫言、また清高院御付の女性に対する服装に対する規定など枚挙にいとまがない。
松井興長の諫言については過去に御紹介した。

松井興長・諫言 1-1  

松井興長・諫言 1-2  

松井興長・諫言 2

田中左兵衛封事-1

田中左兵衛封事-2

田中左兵衛封事-3

田中左兵衛封事-4

田中左兵衛封事-5

 生母・清高院に対する諫言については、刊本で紹介されたことはないように思うが、これに対する返書は紹介されたものがある。
また清高院御付の女性たちの服装についての申し付けなどの書(こちらは古文書写)などが残されている。
こちらもご紹介しようと思っている。

 

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■この事件は真実か・そのニ

2024-05-13 06:41:14 | 史料

 先日ご紹介した、宇土支藩初代の行孝が牢人を使って、国元から江戸へ下ってきた家老の福知平右衛門を殺害したという話は
まさに秘事である。
この事は、宇土支藩は兎も角、本藩でも人口に膾炙することはなかったであろう。重賢代の総奉行・堀平太左衛門が書き記した
「堀家秘書」に書き残されたという。上妻文庫「梅原丹七・福知平右衛門一件畧記」より該当項をご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一此砌宇土丹後守様御手寄之御老中江御秘事之筋有之候 肥後半国御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣出来寄候由
 早打飛脚を以宇土到来彼御家老を初御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦至極歓候處 福地平右衛門ハ扨々是ハ大切至
 極之出来ニ而御家之滅亡此節ニ極り候 程次第ニて御本家ニも可被為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届き千万拙者直ニ奉諫候由
 然レ共曽て御承引無之小屋ニ引取居候様ニ被仰付候ニ付不得止引退キ翌日尚又出勤押而御目見奉願如前日強て御諫申上候処御立
 腹ニ而御手打被仰付候由
     但一説ニは翌日御呼出ニ而御手打被仰付候共申候 殺候人は剣術者 名を失念 兼々御意ニ叶御座之御側ニ罷在シ由其説も御
     差図ニ而右之浪人切候由初太刀ハ切損シニ刀ニ切留候由也

 右之事御母公様被聞召以之外逆鱗ニ而御目通不被成様ニと 被仰一年餘御對面不被成由 左候而丹後守様従 公儀被為召候ニ付而
 御出仕之御支度ニ而御式臺迄御出被成候處平右衛門が亡霊切害を仰付候節之通ニ而屹ト御式臺之真中御通筋ニ座着罷在候を被成
 御覧候而忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分不被勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極々秘事乍ラ如何して式部殿
 被成御聞候歟其節段々御手前之御老中様江被仰達候とも有之 八代ニは委キ御記録も有之由咄
申候 左相当而其以後御末家ゟ御代替
 ニは奉對御本家隔意を企申間敷段八代江誓紙を被有御取之由承り傳候 勿論此儀者古老咄傳ニ而虚実之儀は存不申候
     但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて二十年迄者圍をチンチク竹垣にして明屋敷ニなり居申候
一近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭日ニは町在之者参詣被成御免由農証人も多参詣仕よし此相殿ニ福地を御祝被成由宇土
 町邊之下説之由ニ而是以虚実は存不申候事
 月翁様之御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名被仰付福永平太夫と申候 外ニ今一人地下何某と改名被仰付両人共百五
 拾石完ニ而(江戸・宇土ト分ヶ)新規ニ被召出候 福地名字をニッニ分其跡を成御立候思召之由ニ候事
 丹後守代ニ福地之霊を神ニ祝江戸日本榎下屋敷内ニ小社を建立霊神宮(社)と祟申候 宇土ニは無之候 祭日六月三日也
一福地之名跡壱人ハ柴崎勘右衛門二男ニ而地本常右衛門と申候 江戸・宇土ニ分相建申候 瀬兵衛・勘右衛門共ニ家老役也 以上

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■この事件は真実か・・?

2024-05-12 09:24:09 | 史料

  このようなコピーが顔を出した。
慶安三年綱利の遺領相続前、幕府内に於いては、宇土細川家に半国を相続させれという案が存在したらしい。
宇土支藩においては国許へ報告、家老福知平左衛門が急きょ江戸へ下り、宗家に対し恐れ多いこととして藩主をいさめたために殺害
されたという話が残る。その一端をうかがわせる史料である。   
 
          

           此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付紙之由
       一丹後守行孝丑ノ年ニテ慶安三年十四歳ニ當ル 未タ御貢献可仕御年
        齢ニ無之 公儀江秘事之手遣等可有之時節ニ無御座候 殊更
        綱利公御代ニ至候而ハ御本末之御間も 御前代より者振合宜敷候
        左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
        起り候事にても候哉之事
          圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名福知平左衛門勝定
            墓所ハ宇土泰雲寺ニ在り
       一綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候 福知
        命日者同年六月三日
          右之条々不審ニ付書付入置申候以上
            己四月          井戸一水
                           井戸一水ハ井戸亀右衛門
                                           子孫ニ而宇土御家司
                                           代々勤候井戸ト見へ候
          以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この話には前段があり、「梅原丹七・福知平右衛門一件略記」という記録が残されている。

そのうちのこの事件にかかわる福知平右衛門の件については過去ご紹介したように思うが、ブログ内検索をしても見つからない。
又資料そのものが現況行方知れずであるので、見つかり次第ご報告しようと思う。
蛇足ながら、井戸一水という署名があるが、通常は「井門」と記されていることが多い苗字で、なかには「いかど」と読まれる方がおられるが、ここにあるように「いど」が本当であることを記しておきたい。

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■祖父の雅号と父の花押?

2024-05-12 06:38:06 | 徒然

 昭和27年の熊本大水害では、我が家は鴨居ぎりぎりくらいまで浸水したから、ほとんどの家財が水損もしかは流失してしまった。
わずかに残ったのはお位牌その他先祖附などが、天袋に入って助かった。
それゆえ、祖父や曽祖父の書なども無くなってしまった。
空襲の時は隣家が焼夷弾の被害を受けたが類焼は免れ火災の経験はない。
火災・水害でまたは地震・津波などで思い出をなくされた方々が多く居られ御同情申し上げる。
その後、親類から写真や祖父の書などが送られてきて、是がわずかに残されている。
祖父の書というのは掛け軸で「至誠」と書かれている。そして「羊我」という祖父の号と思われるものが記されているが、印はない。
羊我を縦書きにすると「義」という字になる。祖父の名前の一文字である。
見たときすぐ判って、思わず「ふっ」と笑ってしまった。
水害に遭遇したのは私が6年生の頃だが、流失した亡父の蔵書数百冊も流失したが、そんな本の中に父のサインなのか花押なのか判らないが記されていたのを思い出す。
これも同様名前の一文字「義」をアレンジしたもののように思うが、小6の幼い記憶力は残念ながらその残像が薄れてしまって定かではない。

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■「黒田蔵人知行召し上げ」の真相?

2024-05-11 09:05:11 | 人物

寛永六年五月十一日の奉行所日帳に次のような記録がある。

     (正直)               (正重)
一、河喜多五郎右衛門尉被申候ハ、黒田蔵人知行被召上候時、御借米滞分、村々百生未進分、到其時上納不相成ニ付、
                                                                                                                                                 五百石
       次第/\ニ取立申候、猶残分ハ蔵人へ被遣、五百石ノ御知行にて取立申候処ニ、蔵人被申候ハ、主知行所〇にて、
      弐千五百石二在ノ候未進分を被 召上儀候、御取立候て返し被下相当様ニと被申候、如何可在之哉と被申候、上
      知分ハ御蔵納二成申候、然上ハ御蔵米にて返し候ハねハ不成候、御蔵米を返候儀ハ成間敷由、申渡候事、 

頭注には「黒田正重知行召上ノ時ノ借米百姓未進分次第ニ取立ツ知行二五百石未進分二千五百石未進分ノ返弁ヲ望ムモ蔵納ハ返サズ」とある。
蔵人の知行は500石であったが、肥後入国後は知行の一部を召し上げられている。肥後入国前の寛永6年の借米の返済が滞ったのが影響しているのだろうか。
上記文章を読むと、百姓衆からの知行未進が影響しているが2,500石あるとしているから、知行の5倍にあたる。これでは借米に頼らざるを得ないだろうが、これも返すことができずに減知となったのだろうか。

さてこの黒田蔵人は肥後入国後は伊丹格助と名前を変えている。又、嫡男の伊丹半弥(黒田次左衛門)の項を読むと、「寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石」とあるから、蔵人(伊丹格助)も2,500石拝領していたことになる。

黒田蔵人(=伊丹正重・角助)
   豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂に
   て細川忠興に召出さる。寛永十八年六月八日没

●黒田蔵人  (1)本名伊丹  頭衆五百石  (於豊前小倉御侍帳) 
     (2)五百石  (肥後御入国宿割帳)
   参考:召し出しについて
      ・元和5年10月15日 大日本近世史料・細川家史料(1710)より
      ・元和6年正月10日、黒田蔵人召抱 (忠興文書・199)
      ・黒田蔵人事、抱可申由、得其意候事 (綿考輯録・巻二十 P95)
●伊丹角介 (3)人持衆併組迯衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)

       (4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
       (5) 長岡監物組・御中小姓頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
嫡男
●伊丹半弥(黒田次左衛門)
   伊丹次左衛門 景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重(のち伊丹角助)が嫡子。
   豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
   のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。  
     (1)御鉄炮頭衆  弐千五百石 (真源院様御代御侍名附)
     (2)弐千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・次左衛門
     (3)万治二年十一月知行被差上候 弐千五百石 (※)・・半弥之助
     (4)芦■  御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百石 (寛文四年六月・御侍帳)

 

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■熊本史談会・令和6年5月講演会の御案内

2024-05-11 06:31:03 | ご挨拶

        熊本史談会・令和6年5月講演会の御案内
                            熊本史談会・会長 毛利秀士
                    記

期日:令和6年5月18日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講師:儒学、そしてその変遷
演題:論語研究家・「出水論語講塾」講師  阿田俊彦氏

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。

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