津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(8)

2018-11-14 09:56:36 | 史料

 四ニ六
  明和七年入藥ノ儀ニ付御達
一御家中寺社支配幷町在之醫師共、間二は在中ニ所縁を求、
 村役人抔へ相頼致入藥、或ハ賣子と名を付振賣ニ事寄せ
 在々に致入藥置、夏秋諸作出來候上右之價を受取候族も
 有之様子相聞、不埒之至候、賣藥御免之族迚も所望之者
 へ相應之價を取遣候儀はヵ有之候得共、此方より申談右
 躰之儀堅仕間敷候、勿論俗家二て賣藥御免被置候類も同
 前之事ニ候、以來心得違之者も有之候ハヽ吟味之上被仰
 付之筋も可有之候間、支配内右之類有之面々は夫洩様可
 日申付旨候、以上
   八月

 四二七
  明和七年在中地筒方之儀御達
一知行所之者を地筒ニ申付候上は在人數を離レ候得共、其
 村ニ差置候ニ付、御郡一統之御法を堅相守、御郡代は不
 及申、惣庄屋以下在役人之申付を致違背間敷旨、主人よ
 り稠敷申付候事ニは候處、萬一心得違ニて在方之紡ニ相
 成申候者候ハヽ、主人/\ニ不及案内急度被遂糺明、或
 ハ喧嘩口論之節は百姓同前ニ方申付置、右之次第主人    扌偏に乄=
 /\へ申達、御奉行中えも可申達旨御郡代へも申渡置候
 間、主人/\よりも右之趣地筒之者へ屹ト可被申付候、
 以上
   三月朔日

 四二八
  明和八年日田金相對借之事ニ付御達
一町在之者共、日田表御用助合、穀銀を相對ニ借受返辨相    天領日田
 滞候者間々有之、不届之至候、重キ御用銀之事ニ付、相
 對ニ借受候儀決て不仕、勿論他所之者致借用候節之受人
 ニも立申間敷候、自然心得違之者有之、相對を以致借用
 返辨於相滞は、其身は闕所不及申、其餘は五人組に掛り、
 其上及不足候ハヽ在は村限町は一町限ニ懸取、屹ト返納
 被仰付筈ニ候、以上
   十二月

 四二九
  明和八年公義御儉約御觸
一去寅夏中御領所旱損之國々多、御収納高格別相減、御勝
 手向御入用御不足二相成候二付、當卯年より五ヶ年之間
 格別御儉約被仰出候二付左之通
一諸拝借之儀、所司代幷大坂御城代は勿論、遠國奉行・諸
 小役人等御役被仰付候節は、是迄之通拝借價被仰付候、
 其外萬石以上以下共不依何事拝借相願候共、當卯年より
 五ヶ年之間容易ニ御沙汰ニ被及間敷候、尤去年は諸國一
 統旱損ニ付、銘々儉約を専ラニ可被致候事
  但、公家衆・門跡方其外寺社等、江戸遠國に不限拝借
  之儀、勿論堂社御寄附等も五ヶ年之間御沙汰ニ不被及
  筈ニ候事

 四三〇
  明和八年六月御達
一失火之節、馬上ニて火事場え入込候面々有之、防火等之
 支ニ相成候間、向後消方往來等之障ニ不成儀可被相心得
 旨、寛延元年九月及達置候、然處近來は又々馬上之面々
 多相見候條、彌以先年及達候通相心得候條、觸之面々へ
 も寄々不洩様可致通達旨御用番被申聞候條、左様可有御
 心得候、以上

 四三一
  明和八年
一於御不中末々博奕等敷儀有之、右付ては烏亂躰之者も入
 込申候様子ニ相聞候、依之居屋敷長屋/\之儀は主人よ
 り彌以堅申付價有之候、在宅ニて熊本屋敷え屋敷借躰之
 者迄被差置候面々は、申付居兼候儀も可有之候ニ付、右
 躰之屋敷不審之所ヘハ廻役共入込見届候様、右之通及達
 可申旨御用番被申聞候間、左様御心得、御同役中へ御通
 達、御組々えも御達可被成候、以上
   七月          御奉行中

 四三二
  明和八年十二月御達
再春館之儀、只今迄之所柄ニては不便利之儀も有之候ニ     
 付、今度山崎え所替被仰付、來正月より開講有之筈候事    山崎・再春館の場所
一右開講前、御國中醫者不洩様ニ再春館へ懸名可致候、其    図面最下部に表示有 熊本市中央区通町37
 内掛名難成分も候ハヽ其旨趣書付を以、師役合志杏庵迄       
 可相達事
  但、無據故障ニ付て出席難成分は、是又杏庵迄可相達
  候、委細之儀は出席之上銘々へ右杏庵より直ニ可申聞
  候間、其旨相心得可申候事
一療治方之儀付ても、田中柳庵幷右杏庵より館ニおいて申
 聞候筋も可有之候間、其旨相守可申候事
   十二月         御奉行中

 四三三
  明和八年
一御家中乗馬所持之面々糠藁代之儀、三歳以上之鞍を敷候
 迄ニ被渡下筈ニ候間、乗馬所持之儀達之節々其旨委ク可
 日相達候、右之趣可及達旨候間、此段御組中へも可有御
 達候、以上
   十二月廿三日      御勘定方御奉行中

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■北村甚太郎覚書(十)~(十七)

2018-11-14 06:01:53 | 史料

(十)寄手陳取乃次第人数壱萬五千騎也
一城より西の方にとひとりと云山有高き山なり 城より三拾町余
 有之 是ハ小野木縫殿介陳取那り
(十一)
一同方少後ロ尓より愛宕山有 城より四拾予有之 其山下
 下(重複ヵ)に桂林寺と云禅寺有 小野木縫殿介本陳なり
(十二)
一同方桂林寺より南尓圓浄寺と云大寺有 此邊尓陳取衆
 有 石川備後・谷出羽・川勝右兵衛・藤懸三河守なり
(十三)
一圓浄寺より南尓引出と云在所有 生駒雅楽頭陳取なり
 城より五拾町余有之
(十四)
一城より申酉の方に柳の水と云池有 城より三町七八反有之
 生駒雅楽頭者とも竹把付寄此池を取なり
(十五)
一同方東へより七日市と云う在所有 城より廿七八町程有之
 源仁法印又御使番二頭の陳取なり
(十五ノ二)
一同方東江より九文明と云在所あり 城より三拾四町有之
 木下右衛門・赤松左兵衛陳取なり
(十六)
一夫より東の方若狭海道尓大内と云在所有 其並尓平城の
 古城あり 城より二拾四五町有之 其邊尓小出大和・山崎左馬・
 杦原伯耆・別所豊前陳取那り 其陳と北の方ハ平地
 田地大川なり
(十七)
一北の方阿ごと云在所有 城より三拾町計有之海邊なり
 阿ごととびとり(十)の間ハ入江海手明なり 後尓ハ敵番船を
 付置申なり 竹中源助・早川主馬・毛利勘八・高田川内
 陳取れり 此人々の下知尓て大勢竹把を拵へ東西
 南北手分して責寄申候 城中方角ハ絵圖有之事


               海上番船  左・小出大和  中・毛利勘助  右・高松左兵衛

    田辺城籠城之図     

            西側(図左)上より  
                     長谷川鍋・石川備後・遠藤三河・小野木縫殿介・川勝右兵衛・生駒雅楽・御使者番
              南側(図下)左より
                     谷出羽守・木下右衛門・源仁法印・山崎左馬介・別所備後
              東側(図右)下より
                     赤松左兵衛・杦原伯耆・小出大和・村中源助・早川主馬介・毛利勘助・高田河内



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■回想・細川家のぶどう酒製造

2018-11-13 13:47:32 | 徒然

 ちょうど11年前の今頃、細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーを書いた。そのご数年前に「小倉藩のぶどう酒」の史実をメディアが取り上げるようになり、最近では小倉で「がらみ」を使って葡萄酒の復元がされるという賑わいぶりである。大いに結構なことでる。
私の場合、忠利公の命を受けて製造に携わった上田某が、遠い先祖との関りある人物であったことも興味の一端であった。

今年の春、熊本大学の後藤典子氏の論考「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」が「永青文庫研究・創刊号」に発表され、全く同時期「北九州市立自然史・歴史博物館研究報告・B類 歴史 第15号」に、永尾正剛氏の論文「細川小倉藩の『葡萄酒』製造」が発表された。後者についてはまだ一般には手に入れることが出来ないが、ご無理を申し上げて入手することが出来た。
これにより細川家に於ける葡萄酒造りに関する研究は大方の結果が得られたのだろうと理解している。
それぞれの皆様に深く感謝申し上げる。

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(7)

2018-11-13 06:39:08 | 史料

 四ニ〇
  明和五年十二月御達
一御銀所より相渡候半銀、缺銀等無之様ニ入念候事ニハ候
 得共、數多の懸分に付少々宛之違も可有之哉、缺銀有之
 候ハヽ封之儘御銀所へ被差出候様兼て相達置候、両替屋
 共へも別帋之通追々及達置候間、封之儘改候ても缺銀之
 有無ハ相分り候事ニ付、以來彌以缺銀有之候ハヽ風之儘
 可被差出候、左候ハヽ御銀所之印ニ不障様ニ其包紙ニ印
 形を加へ可被差出候此段御仲間中へ御通達、御組々へも
 御達可被成候、以上
   十二月         御勘定所御奉行中
 御銀所より相渡候銀子包方之儀左之通
 一銀壹匁より百目迄之間下包無
 一同百目より貮百目迄之間下包漉返紙壹枚          漉返紙→リサイクル紙
 一同貮百目より五百目迄之間右同貮枚
 一同五百目包ハ都て判銀渡
 右之通包方相定、封印之外御銀所受方渡は受方と記シ、
 拂方渡りハ拂方と記、印形を用相渡申候、右之包銀両替
 等付て各手前貮て銀高相改候ハヽ、開封無之内殘數之目
 方を積り、先ツ上目相改、銀高相違有之間敷様子ニ相見
 候ハヽ開封可有之候、萬一餘計過不足有之様子相見候ハ
 ヽ開封無之、其段先々え相断可申候事
 右之通寶暦五年亥正月被相定、各方え可申渡旨御達有之、
 其節廻状を以及達候得共、其後程隔り近年新規之両替商
 賣も有之様子ニ付、猶又右之趣可申渡旨候條、左様可被
 相心得候、以上
   子四月          御銀所
        両替屋中

 四二一
  明和六年正月御達
一地居・旅詰召仕候下々奉公人給銀之儀、寶暦五年相觸置
 候通候處、其後も餘計之増銀申出候奉公人も有之、自然
 と高給にて無之候てハ難召仕程ニ成行候由、依之以來餘
 計之給銀望不仕様、於人置所屹ト申渡せ候筈候條、居續
 奉公人ニても人置所より呼出次第罷出候様ニ可被申付
 候、勿論主人/\よりも其心得有之、餘計之給銀を以被
 抱間敷候、此段可及達旨候間左様御心得、御同役中へ御
 通達、御組々へも可被及御達候、以上
   正月           御奉行中

 四二二
明和六年
一南郷湯谷温泉ニ今度湯小屋建方被成御免候、依之入湯被
 罷成候面々小屋等左之通
 一六疊二間宛二小屋 但、臺所付
  右は御侍中幷寺社附之寺院住居之筈ニ候
   但、一同に大勢被罷越候得は小屋差支候間、二小屋
   之内明ル日限手寄を以、追々湯元之様子承合被罷越
   筈ニ候
 一七疊之間 三小屋
  右は獨禮以下諸役人段迄住居之筈ニ候
   但、右三小屋え打込二居、宿有之筈ニ候、大勢二成
   候ては下々惣小屋へ宿可申儀も、勝手次第
 一七疊敷之間 一小屋
  右は阿蘇宮地坊之寺社方居住之筈候
 一右小屋へ入込候面々は、御侍中・御切米取・右之寺方
  共湯坪壹ヶ所に入湯之筈候間、相互ニ申談有之、多少
  無之様代り合可有入湯事
   但、湯坪之證之儀は銘々より灯申筈
 一入湯之面々、上中下之無差別一廻り壹人前何程と湯錢
  之究有之筈ニ候間、於彼方承合、湯亭ニ可被相渡候、
  尤右湯錢は召連候家來も人數ニ加へ候筈候
   但、湯小屋道具ハ鍋・水田子・行燈等之外無之候間
   其外入用之品は銘々ニ持越、又は湯亭方へ有合之品
   は損銀を以借用有之筈候
 一御侍中其外共、湯元より歸之節人馬雇方之儀、賃銀は
  相對之筈候
 右之通ニ付可被承置、尤湯元見
之役人幷湯亭ニも右之     扌偏に乄=
 趣申付置候、以上
   六月

 四二三
  明和六年焼米被指止候御達
一當秋より焼米拵候儀差止可申旨ニ付一統及達候間、給人
 /\も右之趣被承置、彌以堅被申付候様可相達旨御用番
 被申聞候、此段御仲間中へ御通達、御組々へも御達可被
 成候、以上
   七月           御郡方御奉行中

 四二四
  明和六年秤改之儀に付公儀御觸
一神善四郎秤相用候國々え、善四郎方より役人廻秤改候    秤座
 節、秤數多所持之者も不隠置不殘出し見せ改受候様可被
 致候、尤紛敷秤は取上候筈ニ候、此旨急度可相守者也
   二月
                                                       秤の管理は徳川家康の命により神家が日本全国の秤を管理していたが、家綱の時代
                         に至り、西日本33ヶ国を神家、東日本32ヶ国を守随家が管理することになった。
                         その権利による利益は膨大なものであったと言われる。
                         現代においては現在まで使われてきた㎏の定義が変更される予定であり、来年五月
                         には㎏原器が廃止されることになった。
                         参考:日本キログラム原器紹介

 四二五
  明和七年天草御手當被仰付候二付御達
一天草表萬一唐船漂流之節之為御手當被仰付置候、付ては
 有前之外推量之浮説不致様、末々迄堅可被申付旨先達て
 相達候、然處此間二至末方二ては間違之評判も致候様子
 二相聞、畢竟夫々申付行届不申候故と存候間、彌以先達
 て相達候通堅可申付候、若此以後間違之風説相聞候ハヽ、
 其評判之面々相糺せ申二て可有之候條、此等之趣委敷可
 被申付候、此段觸支配方へも可被相觸候、以上
   三月八日         奉行所

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■北村甚太郎覚書(八)

2018-11-12 09:53:39 | 歴史

  少々お休みが過ぎましたが、引き続きご紹介します。

 (八)七月廿六日北村甚太郎城内ノ人々ニ射撃術を教ユ 又竹束ヲ
    貫被銃丸ヲ工夫セシヿ
一明ル廿六日よりハ何の沙汰もなく竹束尓て付寄昼夜精を
 入申尓付城中少しも無油断鉄炮つるべはなし申候 殊尓夜
 竹把精を出し仕寄申尓も左る火を出し阿やうき所へハ鉄炮を
 打懸申候 関東へ歴々被召連候ゆへ稲富鉄炮の弟子四人ならでハ
 城中尓無之候 大野弥十郎・篠山五右衛門・村野庄助・北村甚太郎
 なり 此外町遠物奈と打候もの無之候 夫尓ついて
 幽齋公より大野宗次・松田中右衛門を以被仰出候ハ城中尓居
 申候鉄炮初心の者共尓ハ能々教へ打せ候へいか様大事なり共
 今度の儀尓候間随分おしへ可申宗北村甚太郎へ被仰付候
 間被申付候の宗申渡され候条奉得其意 城中を走り廻り其大筒尓は薬何程
 等み何丁尓てハ何と見て放候へと打て見せ玉行合点いた
 させ申候 右之様子松山ゴン部・佐方宗佐・同与左衛門・少左衛門
 存生尓て候間御聞可被成候 然とも敵方猛勢尓て夜昼軍役
 尓して夜ハ何間昼は何間寄候へと問積尓仕候と見へ候て
 はや堀際間近く竹把仕寄申候 我等存候間ハ兎角常々の玉

 尓てハ竹束通り申さぬと見へ申候と存 いぬき玉をこしらへ
 分別して杦勘四郎・松田忠右衛門を以 幽齋公被懸御目候へ
 者 殊之外御感被成何連もへ相渡し打せ候へと被仰付候間勘四郎
 忠右衛門玉くすりなれ者渡候様子を遠ひ打せ候へハ其後ハ輙
 く寄事不仕候 此儀松田忠右衛門・竹原庄左衛門なと存生尓て
 候間可被存候 後尓竹束裏尓死人多く有之候て何とも
 不成之由井門龜右衛門被召抱候て物語尓て聞申候 其後
 豊前尓ても度々此物語被仕候 城中尓て赤き装束ハ甚ン
 太郎尓て有之候 又白赤の段々の母衣武者は貴殿龜右衛門尓て
   有之候ひ事候か かたのことく城よりねらひ鉄炮打懸候へとも
 當り不申候と申候へハいや當らぬ尓てもなく候甲の立物又母衣
 の出し母衣尓も少し玉の當りたる跡有之つると語り申
 され候事

 (九)敵ヨリ石火矢を懸候ヿ
一右のことく竹把尓ても寄兼申候故か八月中比まてハ責申事
 も那し 八月中比より東西尓大石火矢を志かけ申候 西の方石
 火矢ハ本町筋中程より松山権兵衛預り申大草矢倉と申
 矢倉尓當て仕懸申候 西は小野木縫殿介大将分尓て
 (前に火)打申候後ハ矢倉越打破申候 東乃方の石火矢ハ二ッ橋と
 云橋の少城の方尓當て仕懸申候 是ハ諸勢替る/\打申候と
 見へ申候 差物かゆるほとを見て城中合点仕用心仕候
 是ハ矢そく矢倉と申候へ當て仕懸申候 數度打申候へとも皆
 越し候て只一ッ中り塀を破幾重尓も打貫後の塀扣柱尓當候ててき
 玉當り申候 其玉■■三百目有之由之事




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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(6)

2018-11-12 06:40:20 | 史料

 四一ニ
  明和五年十二月公儀義御達
一文字銀同位を以懸目五匁ニ定り御銀吹立被仰付候間、有
 來丁銀・小玉銀取交可致通用旨、去々酉年相觸候得共、
 以來右五匁銀之儀は銀相場ニ不拘、金一両ニ六拾目替之
 積を以金壹歩ニ銀三枚、金壹両ニ銀拾貮枚之積渡方無滞
 可致通用候
  右之趣國々えも可觸知者也
   十二月

 四一三
  同年四月御達
一御家中之面々、京都・大坂・長崎より自分調之諸荷物
 取越被申節は、右御留守居え加印之證文見届、陸口・湊
 口差通候様元禄十一年及達候處、當時ニ至候てハ區々ニ
 相成候様子相聞候、彌以證文被相添候様、右御留守居/\
 へ及達候、且又江戸より大坂え差廻候自分荷物も同前ニ
 候
一右之外他所より荷物取越被申候節は、荷主より御奉行え
 差出被仕候得は、津口・湊口通り手形を其御番所へ相達
 申筈ニ候
一御領内何方より取越被申候荷物も右同断
   四月

 四一四
  明和五年六月公義御觸
一眞鍮吹方被仰付、通用之儀付て従大目附中様被差廻候御
 書付之趣、御國中不洩様可相觸旨被仰出候間、右御書付
 寫相添候間、被奉得其意觸支配方へも可被相觸候
   六月廿日         奉行所
 世上通用之寫、於銀座眞鍮錢吹方被仰付候ニ付、右眞鍮
 錢壹文ニ付並錢四文之代りに相用ひ、國々至迄無差支様
 可令通用者也
   四月

 四一五
  明和五年公義御觸
一五匁銀之儀、壹枚ニ付目方四分迄之輕重は無構渡方受取
 方共可致通用候
一五匁銀両替屋共多集り金子差支候儀も有之節は、為替相
 勤候両替屋共より御蔵え相納、金子引替候筈ニ候
 右之趣、國々えも可觸知者也
   九月

 四一六
  右同年
一運上梁場・同筌場・瀬張場・縄場・川上用捨間敷、且
 船通明ヶ候儀ニ付御郡代より達有之候事

 四一七
  右同年
一御家中御渡方之節、印紙差出候様ニとの儀付てハ、其時
 々及達申事ニ候、然處當時迄惣銀所へ印鑑無之候付てハ、
 間ニは切手間違も有之様子相聞候間、以來惣銀所え印鑑
 帳仕立置、諸御渡方之節被差出候印紙右印鑑引合、切手
 濟方有之筈ニ候、依之惣銀所へ印紙被差出來候面々、銘
 々より印鑑頭支配方へ差出置候様、尤右以後病死或ハ御
 役替等被仰付候面々、組支配達候とも其時々付答ニは不
 及、代替り其外印形改り候節は其度々頭支配え相達被申、
 頭支配方より惣銀所へ可被相達候、右之趣可及達旨ニ候、
 以上
   九月            御勘定方御奉行中
一明和五年十一月十九日、御役付之面々ハ御役料之見合成
 候付、猶又壹枚か差出旨達有之事

 四一八
  明和五年十二月御達
一御上下之節、南關筋・鶴崎筋其外御滞留御出之節御供之
 面々、且又平日御用ニ付出在之面々於在中止宿之節、木
 賃宿賃今迄存寄次第被相渡候間、不同二有之様子相聞
 候、依之以來左之通
 一主人    木賃宿賃    四分
 一家來一人  右同      三分
   但、何人ニても右之當りを以壹人前三分宛
  右一宿分
 右之通可被相渡旨、尤所ニ見合之野菜類直賣被仕節は入
 用分宿主より差出可申候間、代銀承り早速/\相渡可被
 申候、右之趣は在中へも及達置申候事ニ付、右之通可及
 達旨ニ付、左様ニ御心得候様存候、以上
   十二月         御奉行中

 四一九
  明和五年十二月
一在中より差出候増奉公人給銀之儀、先年増方相成五拾目
 宛相渡來候處、來年よりは拾匁減四拾目宛相渡可申筈ニ
 候、此段可及達旨ニ候、以上
   十二月十三日      御奉行中

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■忠利公殉死者・田中意徳妻子のその後

2018-11-11 13:26:05 | 歴史

 細川忠利公の殉死者の中に、忠利公幼少のころの学友・田中意徳がいる。殉死時に六十三歳であったと記録されている。
綿考輯録・巻二十八は、田中意徳(以得)について次のように紹介する。

  元来上方出生之者ニ而、いまた御家に不被召出幼少之節、妙解院様(忠利)於愛宕山御学文被遊候節(文禄三年五月愛宕山福寿院に
  御登山、慶長三年二月御帰国被成候--吉山市右衛門家記)御一同ニ学文仕候処、昼夜御出精被遊、意徳儀段々心を付奉り御介抱仕上
  申候、或時御側近被召寄、御出家可被遊旨御内意被成下候間、乍恐最三御留申上候、右之儀共後ニ御満足被為思召上、以後被任御心
  候節は御知行をも被下、御懇ニ可被召仕之旨、度々御意被成下候、然共御互ニ幼年之儀故其後意徳は存懸も無御座候処、於豊前御代
  に成早速意徳を上方より被召寄、御知行弐百石被為拝領候

又、殉死の記録としては次の様にある。
  寛永十八年(1641)六月十九日 五人扶持廿石 六十三歳
       於・坪井泰陽寺 介錯・加藤安太夫 
       跡式妻子に五人扶持家屋敷  忠利代豊前召出、忠利愛宕山学文の時に附らる  

妻と女子が残された。しかしその家系は途絶えることなく、意徳の実弟・永野一閑(絵師・狩野甚右衛門)の嫡子・甚左衛門(初名・田中作丞)が継いだ。永野一閑は豊前中津で亡くなっているが、転び切支丹であり死後数代に渡って穿鑿されている。

妻子の其後が気になる処であるが、思いがけないところから意徳の女子の嫁ぎ先が判明した。
これは宝暦十三年に飽託郡御惣庄屋に召出された横手(右田)金兵衛の先祖附によるものである。
意徳については田中長太夫という名前で記されており、死亡時七十四歳ともある。
それによると意徳の追腹の際八歳であった娘が成人の後、右田又左衛門なる人に嫁いでいる。
この人物は綱利公代御書奉行などを勤めたと記されているが、侍帳ではその名前が確認されないところを見ると、御扶持蔵米取の身分であったのだろうか。又左衛門夫妻の子・又兵衛は父の病死後浪人し不勝手になり、老母(意徳女)を連れて浪々、八代高田の惣庄屋の世話を受けている。老母(意徳女)は元禄十七年(1704)に死去したというから、苦労の多い人生であったようだが、七十余歳の生涯であったことが判る。殉死者の残された家族の其後が判明するのは非常に珍しい例である。(資料・近世大名の領国支配構造)

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(5)

2018-11-11 05:57:30 | 史料

 四〇八
一祝事之節は相應之祝會格別之事ニ候、乍然分限不相應之
 振舞無之様質素ニ可致候事
  附、年頭幷五節句之祝日は、相應之集會ニて祝儀有之
  儀不苦、其外無故振舞・酒宴等堅可為無用事
一音信・贈答或は餞別・土産、輕品を以身近キ親類之取遣
 等勝手次第、其外一切可為無用候、若無據子細ニて右親
 類外取遣有之度方も候ハヽ、其段兼て組頭・支配頭へ相
 断被置、猶臨時之事は其時々か被相断事
  附、時分/\殺生之品、又ハ手作菜・菓之類・親キ輩
  之取遣は勝手次第、勿論、師家・醫師等え之謝禮は各
  別之事
一惣て之儀不失分限事候ハヽ、如何様とも輕心得候儀勝手
 次第之事
 右之通五ヶ年中可被相心得候、尤組々支配中ニも委細被
 申渡、平日共可被心得候、若列々之申談ニて難決程合は
 此方ニ可被相尋候、五ヶ年以後は猶又其節ニ至可申達候、
 以上
   十二月

 四〇九
一祝事は年始・五節句集會之節、料理等出候共一汁二菜
 不過、吸物肴三四種を限り可申候
一外向え顕れ候程之祝事は何方二も届ニ不及事ニ候得共、
 内祝等にて集會いたし候節は、來ル何日ヶ様/\之致内
 祝候段、相互二届置可申事
一身近キ親類之外、何とそ譯有之親類同前之交りニて音信
 可致取遣相手之事ハ、兼て其名付互に届置可申事
  但、同役中は相互ニ可致取遣候、乍然吉凶ともニ輕キ
  事ニハ相互ニ付届無用可致事
一親類之外たり共、火災其外不慮之災有之節ハ難儀致可申
 儀格別之事ニ付、其程合次第ニ取計、其段追て総合ニ届
 可申事
一屹ト振廻となく、稽古事ハ不及申其外咄一通り之出會ハ
 不苦、此節は一汁一菜、酒ヲ出シ候ハヽ肴二種を限可申
 事
一家内之者野方等ニ罷出候儀は其通り候得共、於向方酒宴
 等不可致事、惣て奢美等敷躰無之様可申付事
   十二月

 四一〇
  右ニ付御家老衆内證申談、左之通
一祝事は年始・五節句料理等出候節は、一汁二菜、吸物
 肴之事、士席以上ハ吸物肴三種、客躰ニより一種増可申
 候、獨禮以下は吸物肴二種ニ限可申事
一稽古事其外咄一通り之出會ハ、名付之外一汁一菜、酒肴
 二種を限り吸物ニ不及候事
一身近キ親類之事、忌懸り之間柄幷聟・舅・同姓を限り、
 其餘縁類無據子細有之面々ハ名付ニ加可申事
一同席取遣之儀、吉凶之輕重ニ應し左之通可有御座哉、吉
 事ハ隠居・家督・嫡子・元服・婚禮・御目見・仕官は家
 之重キ事ニ付、祝物取遣有之、其餘は使者口上計ニて祝
 物ニ不及、凶事は父子・妻・嫡子之死、喪家之大憂ニ付、
 見廻之使者口音物有之、其餘同居之親族死喪ハ葬場え挑灯
 出候儀は今迄之通、見廻使者口上計ニて音物ニ不及、當
 忌年囘、寺へ之付届ハ一切相止、若死者ニ交情厚キは佛
 事相濟候以後、使者代香可有御座候事
  但、右之通ニては今迄より重り可申候得共、死葬之事
  ハ諸人感化仕ものニ御座候間、厚キニ従ひ可申事
一祝物之事、惣て干肴二枚ニ究、又御向方御両所ニて別々
 ニ可遣所は組合にして三枚ニ成可申事
一祝事之節御祝物持参之使者、同返禮之使者え酒出候事、
 無人之内甚人力之費ニ成申候ニ付相止可申候事
一親類幷名付之外は、吉凶之節祝儀弔儀使者計、併人躰よ
 り葬場之付届可有御座事
一小姓頭共働申候使者之事、無人多用御座候ニ付、御花畑
 幷上え御禮筋之使者は小姓頭共相勤、御連枝様其外え之
 使者は無役給人之内、若者共相馴候ため代合相勤可申事
一惣躰省略筋之事、前々申談も有之たる事候得共、其内ニ
 取計人心得違、又は不案内ニて間違申候事御座候得共、
 右間違を例ニ仕、双方自然と破り申候事タ御座候間、此
 度相極候ハヽ、脇々を見合不申、手前之規矩を堅相守候
 様ニ仕度候事

 四一一
  明和四年十二月
一御知行取・御扶持方幷大豆望之儀、前以拂方支有無承合
 有之、支不申所柄決定之上被究置、月限之通望差出可被
 相達儀は兼て委細及達置候通候處、今以聢と支有無不被
 承合面々も有之由相聞、間違候村々ハ拂方難澁甚以致迷
 惑候間、彌以得斗承繕有之候上望差出可被相達旨候、尤
 知行所遠方其外無據拂方差支候子細有之、他村より受取
 被申度面々ハ、以來其村々拂方支有無之儀、御惣庄屋え
 直ニ問合有之候上差出可被相達旨候間、左様可被有御心
 得候、以上
   正月          御奉行所

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■興味ある史料

2018-11-10 14:24:10 | 歴史

 一領一疋の佐田家の先祖附(佐田才助)を興味深く読んでいる。
このお宅の遠祖は、楠木正成から「坂東一の弓取り」と賞されたという宇都宮治部大輔公綱であり、祖はその十二代の後胤・勘右衛門なる人物だという。長曾我部盛親に仕え、佐田庄を賜ったので佐田姓にしたという。長曾我部家の没落と共に肥後に下り、加藤清正に仕え(200石)たが忠広改易に伴い浪人した。細川忠利公の熊本入国に伴い、かっての朋輩・立石助兵衛や小崎太郎左衛門を頼み、宇土郡中村の石打という処に永荒地を拝領して居住したという。

立石助兵衛もかっては長曾我部家家臣であり、「長元記(長曾我部元親記)」を残した人物として知られるが、ここでいう「かつて」という関係は共に長曾我部家臣だという事であろう。

一方小崎太郎左衛門との関係は、細川家家臣としてのものであろう。
小崎家に関しては御当代のご子息(教師・当時アメリカ留学中)から、先祖探しの依頼を受けて色々調べたことが有り、現在もご厚誼をいただいている。
小崎家は旧姓岡部氏で、祖とする兵次郎長豊(太郎左衛門)は、細川幽齋公の田辺城籠城に当たり密使・中津海五郎右衛門を手引きするなどの功により、後忠興より感状を受け、五百石拝領した。
実は私はご子息のお誘いにより、ご当代(夫君)のお宅を訪ねたことがある。
旧家らしくいろいろ古いものが残っており、御先祖様や雇人のお墓などが屋敷の近くに在った。
その場所が、佐田甚右衛門が入ったとされる宇土郡中村であり、石打ダムが間近にある。
三角半島の山中と言ってもよい。

佐田家はこの荒地に入り、その御赦免開地は二町五反八畝余となり、三代に亘りこの地に居住したが、享保三年に至り一領一疋に仰せ付けられ、後「飽託郡正院手永(現熊本市植木町)」の惣庄屋を仰せつけられこの地を離れている。
後、中村の地は小崎氏が納めて居られるが、小崎氏と佐田氏のかっての縁により、小崎家が跡を継がれたのであろう。

このような史料に出会うと、思いがけない色々なつながりが見えてくる。だからこそ史料散策がやめられなくなる。



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■貴理至端之精華 伽羅奢細川玉子夫人

2018-11-10 07:35:20 | オークション

キリシタンの精華 ガラシア細川玉子夫人貴理至端之精華 伽羅奢細川玉子夫人

ガラシャ夫人に関する著作はあらかたわが本棚に並んでいるが、熊本女子短大(現・熊本県立大)教授の宮島眞一氏のこの著作は持っておらず、以前から気にはなっていた。
現在ヤフオクに7,500円で出品されているこの本、Amazonでは1696年版1977年版が10点ほど出品されていて、安いものは1,800円~2,000円位である。勝負は自ずから決まったも同然である。

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(4)

2018-11-10 06:02:10 | 史料

 四〇一
  寶暦十三年九十才達御觸
一組中支配方は不及申家來末々至迄、年九十歳以上之者有
 之候ハヽ、男女無差別十二月中御奉行所え可被相達候、
 組支配方有之面々は一組限一紙ニ可被相達候、家來之儀
 は主人より書出可有之候
一此以後は面々右同断九十歳ニ相成候者有之候ハヽ、其前
 年之十二月中ニ書附御奉行所え可被申達候
 右之通候間組中えも可被相達候、以上
   正月

 四〇二
  寶暦十三年正月
一御曲輪内屋敷/\え、鳶鳥之巣有之候ハヽ取除可申候、
 若大木にて取除成兼候分は、御掃除方會所へ申達有之
 次第彼方より取除申筈二候、尤以來共右之通被相心得候
 様二と可相達旨、御仲間へ御通達、御組々えも御達可
 被成候、以上
   三月

 四〇三
  明和二年二月
一御領内之者用事二付長崎え罷越候得は、今迄ハ往來手形
 持参相濟來候、然處彼地え罷越候旅人は去年より各別御
 改有之候二付、此方様彼地御屋敷御留守居役判鑑御奉行
 様え被指出置、御領内より罷越候者は御國者ニ紛無之と
 の趣判形を用ひ、時々御奉行様へ被差出、右之判鑑ニ御
 引合有之筈ニ候、右之通ニ付、往來迄致持参候得ては、
 右手形仕出入之印鑑等無之見合難成候ニ付、御奉行様え
 之達方差支申候、左候得は往來手形迄持参長崎え罷越候
 ても宿等及難澁可申候、以來は往来手形之外同役中より
 添手形歟、又ハ添状渡遣候得は、判形等被見合御奉行様
 え被相達筈ニ候、依之、向後御家中之家来又ハ支配之者
 等長崎へ罷越候節は、添状渡遣、往來手形一同ニ持参、
 於彼地兼て相究居申候御國問屋共之内引取致宿筈ニ御座
 候、尤往來手形仕出之儀は今迄之通候間、向後家來又は
 支配之者等右之通之節は、來ル幾日罷越候との儀、前以
 同役中え被相達候様、此段御仲間中へ御通達、御組々へ
 も御達可被成候、以上
   二月          御奉行中

 四〇四
  明和二年三月御達
一御國之儀は養蠶之桑疎候ニ付、一統養蠶之儀在中え被仰
 付候趣有之、右付ては第一桑乏敷候得は難叶事故、専桑
 仕立方之儀を及達、尤桑仕立置自分之蠶不養者は、相應
 之價を取、桑之葉賣渡候様との儀をも及達置候間、御家
 中之面々桑の葉を取せ被申節は買取可被申候、近年右之
 趣を以下方之者より相断候得共、間ニハ代物なしニ理不
 儘ニ桑之葉を取候者有之由相聞候間、以來彌以右申達候
 通り家來/\迄も可被申付候、此段夫々及通達置可申旨
 御座候間、左様御心得御仲間中へ御通達、御組々へも御
 達可被成候、以上
   三月          御奉行中

 四〇五
  明和三年正月公義御達
一長柄傘相立為持候面々近比相見へ候、左候てハ立傘ニ紛
 敷如何候、主人/\敢て存候筋ニも有之間敷候、畢竟下
 々之者辨無之右之通相成候儀共相聞候、此段御沙汰有之
 候、御徒目附名前等承候儀も可有之候間、左様相心得可
 有之候、右之通向々へ相達候、依之家中之輩も、若心得
 違も有之候ては如何に付、為心得相達候
   正月

 四〇六
  明和三年十二月御達
一衣服御制度之儀は先年被仰出置候通候處、今度少々斟酌
 被仰付候趣別紙之通ニ候、此外之儀御制度之通彌以家來
 末々迄堅可被申付候
 一旅詰之セル、士席以上羽二重上着之事
 一右同・輕輩之内諸役人段以上幷御家中若黨、日野・加
  賀絹類之上着之事
 一於御當地、士席以上之妻子飛縫入之衣類之事
   但、歩行之節は今迄之通可為木綿上着事
 右之通今度被遊御免候事
   十二月

 四〇七
  明和三年十二月御達
一儉約之儀は改て不及被仰付、従前々被仰付置候趣何も可
 相守儀勿論候、然處近年大造之御手傳被蒙仰、其後も御
 物入之儀相續、御勝手向甚及難澁候ニ付、御省略之儀御
 内證向は不及申、他向へも來年より五ヶ年限を以屹ト被
 為仰断筈ニ候、依之御家中も右に准シ、五ヶ年中は彌以
 致省略候様被仰出候事
一御家中手取米之儀、數十年至て小手取被仰付置候、近年
 少々被増下置候處、此節ニ至候てハ猶又不被減候てハ難
 叶程之御勝手ニ候得共、何とそ不減様ニと被仰付、御難
 澁之内なから先其通被仰付置候事
   十二月

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■街角散歩・・コンクリート打ち放しの建物

2018-11-09 12:00:35 | 建築

 天気予報通り日にちが変わるころ随分雨が降ったらしい。いつもの散歩時間は少々の小雨で、雨が上がった朝食後に変更して出かける。今日は少々目的があってデジカメ持参。
数日前いつもは歩かない路地に入り込み、打ち放しコンクリートの見事な建築物を見懸けて、改めて眺めてみようと思ったからだ。
現役は引退したものの、まだこんな気分になることがあって自らおどろかされるが、それに値する建築だった。

 ひそかに、著名な建築家の作品ではないかと思っているが、確かめようがない。
角地に立つこの建物は、ゆったりとした凹凸のある平面から豊かな表情を見せている。
表面が滑らかな打ち放しや、杉板の型枠を使った面、打ち放し面を斫り仕上げにした広い壁面、玄関廻りの天井はキーストン状になって陰影をつけている。
腰回りとそれに続く低い塀は色合いの違う数種の荒い土を、細い目地を微妙に波うたせて塗分けている。
象徴的な大壁の縦方向の先端部分は、巾30センチほどアルミ板がコの字状に使われ、道路に面する部分はアクリル板が嵌められて表情を変え、見事な演出である。
正面左側の壁にはチャコールグレイの10×30センチほどの羽根状のパネルが、水平方向に日除け状に数段配置されているが、別段大きな開口部があるわけでもなく余裕に満ちている。

個人の住宅だと思われるが、素晴らしいクライアントであり、良い設計者と施工者にめぐり逢われた。
100点満点の作品と表しておきたい。写真も数枚とったが、無断開示は当然避けておくことにする。

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■「山本勘助の孫」つづき

2018-11-09 09:24:49 | 色・いろいろ

 もう10年ほど前、このブログで「山本勘助の孫」をご紹介している。
出典の明らかな記事で、勘助の孫とされる下村已安(300石)については、その子伝蔵と共に次の様に記されている。
「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳軽輩末々共ニ」によると、「三斉様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「弐百石・下村巳(ママ)安、百石・下村傳蔵」が認められる。肥後入国後の消息としては、肥後讀史総覧に掲載されている「八代分領侍帳 正保二年十二月」に、「下村伝蔵・弐百石」とある。
伝蔵の家禄に違いがあるのは、天草島原の乱での百石の加増によるものである。
そして「其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」という記録が残っている。

最近「近世大名の領国支配の構造」を精読しているうちに、「下村勘兵衛」なる人物の項目を見つけた。一領一疋・下村傳右衛門の先祖附が記載されており、これが山本勘助の血を引く子孫であることが判った。
已安を初代とし、2代伝蔵(後傳右衛門)・3代淳庵(初勘兵衛)・4代伝蔵・5代傳右衛門・6代勘兵衛(初伝太、平之允)・7代伝蔵(初傳太)そして8代勘三郎、9代伝之助は養子ながら脈々と山本勘助の血脈は阿蘇南郷の久木野(現・南阿蘇村)に続いていた。

 

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(3)

2018-11-08 06:49:11 | 史料

 三九二
  寶暦六年四月、開立山譲渡之儀ニ付御達
一御立山譲渡之儀、御中小姓幷又内之侍、一領一疋・地侍
 諸事之開を御知行取え譲渡之儀は難成、御知行取の儀は
 勝手次第之段、元文二年及沙汰候、然處右之通ニては、
 譲受渡之儀支ヶ間敷儀も有之候ニ相聞候、御赦免開之儀
 は、御知行取御中小姓・御家中又内之侍・一領一疋・地
 侍之儀は前々より御免被仰付置候儀ニ付、右御赦免開立
 山之儀は、何レより何レは譲渡又ハ譲受候儀共支無之様
 被仰付候
一御家中又内之侍所持之開立山之儀は、正徳三年及沙汰候
 通、暇を被出候歟又は果候節は、早速御奉行所へ開立之
 畝數等差出を以被相達、致病死候者跡目等被申付儀候ハ
 ヽ、其趣主人より被相達筈ニ候處、間ニは達方及延引、
 御郡方根帳直り不申内出入之儀等致出來候得は、甚以入
 組、しらへ方致齟齬候事も有之事ニ候條、時々無遅滞可
 被相達候、右之趣御同役中え御通達、組々えも御達可被
 成候、以上
   四月          御奉行所

 三九三
一寶暦六年六月十日非常之赦被仰出候御沙汰之事

 三九四
一御國中男子七歳以上、人別名付帳仕立可被仰付哉之儀ニ
 付、御家中え之沙汰筋御奉行より相達候、依之、各様よ
 りも人別名付帳御仕立被成、御用番方へ御取揃御奉行所
 へ可被指出と奉存候、尤毎歳人別増減之様子も右同前ニ
 可有御座と奉存候、譜代之御家中人數名付帳は、御家司
 /\より御奉行中へ相達可申奉存候事
   六月             堀 平太左衛門

 三九五
  寶暦六年十月
一母出奔いたし行衛不相知、其子家督等不相成候御沙汰之
 事

 三九六
  同年十二月
一宗門改差出御城代宛之所、類族改所當被仰付候事

 三九七
  寶暦八年
一刀を帯候奉公人之儀、譜代幷刀を帯候筋目之者は今迄之
 通被相心得、右之外町在又は寺社其外支配育之者小者奉
 公ニ罷出居候者共之内、當主又は舊主より名字刀を被免
 候奉公人ハ、何レも抱・暇・居續之差出、人置所幷可被
 相達候、尤暇被出候節本所へ引取候歟、又は何方へそ居
 住いたし候節は、名字刀帯候儀は難成譯ニ候、抱暇差出
 名付之所左之通
    何町何丁        何某事
                  何之何某
    何郡何手永       何之何某事
    何寺院又は何之何某支配   何之何某
  但、已來共譜代ニ被致候節、在中之者ハ今迄之通其所
  々御郡代え可被相達候、其外之支配ハ是亦其支配方
  /\え届可有之候事
   二月

 三九八
  寶暦八年
一御家中家來/\諸事相慎候様、主人/\より被申付候儀
 は勿論之事ニ候、別て御家老中・御中老は御役柄之儀ニ
 付家來/\ニも兼て稠敷御申付有之事ニ候得共、間ニ
 は心得違之者も可有之候、右家來/\町在其外何方ニて
 も、萬一法外之事有之候ハヽ、下々は勿論刀指たり共總
 て無用捨、其筋ニ随手強取計、殊により候ては其所へ押
 置如何躰ニも取計、右屋敷/\え相知せ候ハヽ早速役人
 罷出引取申ニて可有之候、其外輕キ事たり共相替儀有之
 候ハヽ、善悪によらす其所之役方より内々相知せ候様、
 御役柄と申候ても其所の御役人遠慮可仕譯ハ無之事ニ
 候、此段内意可申達置由ニ候間、支配/\えも寄/\可
 被相知せ置候事
   正月

 三九九
一道中人馬先觸之事ニ付、文案を以御觸有之候事

 四〇〇
 寶暦十二年閏四月公義御觸
一只今迄元來寺院ニて無之百姓所持之地所を寺院え寄附い
 たし、又は譲地等いたし候儀有之、右之地所をタ之寺院
 或は他寺之塔頭等へ譲渡し、右場所え引寺等致し、又ハ
 本寺離末いたし、願主勝手之宗旨ニ仕替引寺いたし、或
 は當時退轉之寺號計水帳等ニ有之を取立て引寺號致候儀、
 幷墓所詰り添地寄進境内へ圍込候儀、右之類自分可為無
 用候、百姓は勿論たとへ領主地頭たり共、田畑猥りニ寺
 院え寄附いたし候儀用意ニ難成事ニ候
  右之趣可被相觸候、以上
   二月
                  

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■爽やかな立冬の一日

2018-11-07 18:01:42 | 徒然

「今日は立冬」とメディアが報じてしている。随分暖かく「今日から冬です」という感じではない。
ベランダのサッシュを開け放って爽やかな風を入れ、Tシャツ一枚で過ごしている。
10月の末にメダカが水槽の中に入れてある水生植物の鉢に卵を産み付けた。
三世代目の先輩が三匹ほど生まれて元気に泳ぎ回っているが、冬に入る直前に先輩に弟妹が誕生することになった。
水温も自然の恵みを受けてよい按配、目らしい黒い点がはっきりしてきて、今か/\と気になっている。

こういう時期になると「歳時記」のページを開いてみようかという気にもなるが、感性のなさを痛感して唖然とするばかりである。こちらは真冬の真っ最中という感じ・・・

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