津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■The pet rabbit is somewhere in the house

2022-12-07 08:46:04 | 徒然

                     奥さんの嫁入り道具            高村光太郎作品

皆さまは年末の大掃除はお済になりましたか。
我が家では20日過ぎ頃にやろうと思っていますが、そんな中、一干支が廻り来年は飾ろうと思う「黒兎」が、地震以来見つかりません。
どこに紛れ込んだやら・・・これは奥さんの花嫁道具?、多分思い入れがあるのでしょう。早く見つけてくれとせがみます。
鋳物の10㎝立方程のものでずっしりとしていますが、本当に真っ黒で材料が何なのか見当がつきません。
高村光太郎の木彫の「兎」にすごく似ている感じがして、光太郎の別作品を鋳造して売り出したのかとさえ思いましたが、少し雰囲気が違ってますね。
この兎、家の中のどこかにいます。これは大掃除前に見つけ出さなければなりません。

 

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■熊本史談会12月例会の御案内

2022-12-06 08:31:48 | 熊本史談会
                        記
 
          期日:令和4年12月17日(土)午前10時~11時45分
          場所:熊本市民会館 第6会議室
          演題:清正公さんの夢の具現に努力した男の記録
                   「御大工棟梁善蔵より聞覺控‐第二回目」
          講師:熊本史談会会員、「サイト・肥後細川藩拾遺」主宰
                               眞藤國雄             
 
          一般参加自由:
                  参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
            資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
            尚、開会前に当会例会を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
            又、当日はコロナ対策の爲、マスクの着用とご記名をお願いいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 不肖津々堂が「御大工棟梁善蔵より聞覺控‐第二回目」をお話しすることになりました。
一度では終わらないなと思い、運営委員会に「二度で」とお話しておりましたので8月に続いてのお話です。
一度目はとりとめのないお話でしたが、今回は資料8ページを順に追って御話しようと、又資料に目を通しています。
少々体力も落ちて、以前のような活動もなりませんし、最後の講演のつもりで臨みたいと思っています。
 
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■旧・金屋町(紺屋町3丁目)

2022-12-06 07:06:17 | 熊本

 熊本地名研究会編の「くまもと城下町の地名」を読んでいたら、「金屋町」という項が立てられている。
知らない名前がまた出たぞと思い説明文を読むと、紺屋町3丁目の一部を指すとある。
その名前は全国に10数か所あり、そのほとんどが川沿いにあると説明されている。
渡し場に由来するのではないかと、編者は言われるが、名前がぴったり来ない。
ぐぐってみると、熊本市南区城南町に金屋町が存在するが、ここも川沿いである。渡し場があったかどうかは定かではない。
船場町からやや喰い違いになるが、紺屋町1・2・3丁目と一本道で清正公の町割りから現在まで変わっていない。
そして白川右岸の川岸に下りる石段があった。慶長五年にはやや上流部に「長六橋」が架けられた。
大きく蛇行する白川の右岸は広い河原で下河原とよばれ、金屋町から川岸へ石段で降りると処刑場があった。
磔付けの刑や、火付け犯の火あぶりの刑が執行されたとの記録が残る。
そんな場所だが上流部には上芝居懸り、下流部には下芝居懸りがあって、日ごろは庶民の芝居見物で賑わった。
私はそのあたりの文書を所有しているが、それが下の図、よく見ると上の方に「金屋町構口」の書き込みが見える。
罪人は馬に乗せられて引き廻しされ、高麗門から新町・法華坂・二ノ丸・京町・瀬戸坂・坪井・上通・下通・唐人町・細工町それから石塘口へ廻り川に沿って構口へ向かった。
磔付けや火炙りの刑は、鎌田浩氏著「肥後藩の庶民事件録」を見ると結構多かったらしい。
いつの時代も物好きは多いもので、長六橋のうえには是を見ようと多くの人で埋まったらしい。
そんな暗い時代を共にした古い町名だった。

    

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■正月飾り

2022-12-05 07:24:08 | 徒然

                 花畑邸裏御門の門松

 この時期になると、お正月に関する各地の準備の模様などが報じられてくる。
農家では正月飾りを作ったりだとか、吊るし柿作りだとか、漁業の方では養殖海老や檜扇貝出荷のニュース、又川沿いの地方では焼き鮎作り等々である。
もう12月に入って5日も過ぎてしまった。まだ各家庭での準備は未だだろうが、カレンダーを見ながら思案する。
処で藩政期時代の師走の模様などを知る史料はなかなか見えてこない。
ただ、侍の家の門松については、知行地に頼み込んで調達する様子が書かれている。
上の図は花畑邸裏御門の門松、五段構えの松がただ植えられているだけである。
侍の家も五段もしくは三段の松が許されたが、神社やお寺、商人や豪農の家などはどうであったろう。
現在は切竹を三本立てて小さな松が添え物になっているが、この形は明治になってからの事らしい。
しめ縄飾りも当然つけられたのだろうが、これもいつごろから始まったのかよく判らない。
山東弥源太(山東彦右衛門清秀といわれる)が米田邸の飾りを盗み家来衆に追いかけられ、「えいもさいさい」と、百閒石垣を飛び降りたという話が残るから、この時代にはあったという証明にはなる。

それ以降、ならって「わるこつ」をする輩が出たのであろう、奉行所はお達しを出している。

   年頭門/\ニ有之候飾縄、若年之者共忍々ニ煎取候儀有之、小児之致方とハ乍申、右躰之儀堅不仕様、
   尤以来右躰之儀有之候ハゝ捕候て其名を承届相達候様、廻役之者へ申付置候段追々及達置候處、近年
   又々相弛候様子ニ相聞不都合之至候、彌以先年及達置候通相心得候様、且又近来御府中於近邊子供之
   遊事ニ藁芥を集、左義長躰之儀をいたし候様子ニ候、所柄又は風立候節は火用心無心元候間、有来候
   左義長之外右躰之儀不仕候様、右之趣家来末々迄不洩様可申付旨候様、左様御心得、已下例文
             正月十一日                   御奉行中
                           (度支彙函・寛政元より文化七迄法令條論682) 

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■鏡子夫人と光琳寺の家

2022-12-04 06:52:37 | 地図散歩

                             

 何気なく藩政時代の熊本所分絵図を眺めていたら、夏目漱石が「涼しさや裏は鐘うつ光琳寺」と詠った光琳寺に蛍光ペンでマーキングしていた。
よく見ると現在ある「光琳寺通り」は存在していない。絵図では西に光琳寺、東に武家屋敷の二区画であり武家屋敷は下通りに面している。
その西側の現・栄町通りをかっては光琳寺通りと言っていた。
ふと鏡子夫人の「漱石の想い出」(松岡譲・筆録)の記事を思い出し、本を取り出して読んでみる。
漱石と鏡子夫人の結婚式が行われたこの光琳寺の家は、裏手にはお寺の墓地が並び、あまりお気に召さなかったのかしばらくすると合羽丁に引っ越すことになる。
鏡子夫人の語る処によると、「この光琳寺町の家というのは、なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした。この間熊本へ参りましてさがしてみますと、入り口が反対の下通りに面していて、熊本簡易保険健康相談所というものになっていて、新しい部屋のつけたしなどがありましたが、大体は元どおりでした」とあり、かってのその妾宅の部屋の数とそれぞれの大きさが記されている。
ちなみに、簡易保険健康相談所は大正11年に逓信局所在地7か所に設置されたという資料がある。


 処が上記の記述によると入り口下通には面しておらずかっての光林寺通り(現・栄通り)にあったことになるが、当時は光琳寺の脇あたりを通る路地でもあったのだろうか。維新後武家屋敷は分割されたのかもしれない。
光琳寺自体は太平洋戦争で焼失した後再建されることもなかった。

今では光林寺通りと命名され、夜には歓楽街となるこの道はいつできたのだろうと思って、昭和4年の地図を見てみるとまだ存在していない。
終戦後の都市計画図に於いても存在しない。
絵図と夏目鏡子夫人のお話からすると、答えが出てこないが、娘婿の半藤一利さんに謎解きをしていただければと思うが鬼籍の人になられた。

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■江戸煩い

2022-12-03 13:07:48 | 徒然

 「一人扶持」という言葉があるが、これは米が一人一日五合宛支給されることをいう。味噌も併せて支給された。
年360日、年間一斗八升にあたるが、俵にすると5俵である。
江戸時代中期迄は二食であったから、一食2.5合が食べられることになる。俸給制度として、家族が5人いるから必ず5人扶持が与えられたかというと、必ずしもそうは言えない。
切米と併せて支給されることが多い。

 「江戸煩い」という言葉がある。扶持米は現米(当時は玄米とは表記されない)で支給され地方ではこれを白米として食するのは高禄の人に限られた。
処がある時代から江戸参勤をした侍たちが次々に病気になる。原因が判らないから治療の方法も判らない。
それでも江戸での勤番を勤め足を引きずりながらなんとか帰国することになるが、国許で玄米食にもどると病は快気した。
それゆえにこの病気を「江戸煩い」と称したが、いまでいう「脚気」である。
「江戸煩い」が発生した時期の江戸に於いては、国許では玄米食の者が江戸で白米食になったことによるといわれる。

 現代においては多様な食事形態が有り、米の消費量はくらべようがないが、現代では「茶碗1杯に使われる米の量は0.5合(75g)程と言われる。二膳食べても一合だから、江戸時代三食になっても5合/3=1.66合だから、粗末な食事の中米で腹を満たしカロリーを確保していたと考えられている。
白米の時代になると脚気と共に糖尿病も多く成ったことだろう。

 考えてみると、昭和の時代の「一汁三菜」の食事が、健康には一番良かったように思える。
糖尿病宣言を受けて、今しみじみと感じている。

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■御侍帳・家紋から考える(64)

2022-12-03 07:19:54 | 家紋

                     

                             新・細川藩侍帳【ひ】の部

平井左大夫は、(南東53-6)平井太郎八家の8代目・左大夫(典助)。用人などを勤めた。前回(63)に登場した平井氏の一族、家紋は「陰丸に五つ木瓜紋」

平井伝十郎は、【丹後以来】(南東53-21)平井甚十郎家の8代目か。家紋は「隅立角に三つ引き紋」 

平山亘理は、(南東53-18)平山伊一郎家の5代目・藤五(亘理)。家紋は表示がない。
       このお宅の家祖は、豊臣秀吉室・高台院の兄・木下家定系の足守藩主・木下家の分家である。
       以前、この事実を発見して
細川藩士平山氏の出自は足守藩主木下氏を書いた。

平川伝左衛門は、(南東53-22)平川貞四郎6代目・傳吉(傳左衛門)、家紋は「鬼菊紋」?「亀甲紋」

平川丈助は、(南東53-17)平川弥丈家の5代目・名は惟延、武勇にして忠孝を心とし邊幅を修めず、気象灑然、桜花を絶愛し咲花居士と号す。
       頗る狂歌を善し、口を衝いて出づ。嘉永五年二月二十日没す。年七十八。家紋は「丸に■文字紋」「舵紋」

平塚孫四郎は、(南東53-15)平塚孫四郎家の7代目。家紋は「陰隅切り角に■■紋」

東 尉左衛門は、(南東53-12)東 太郎平家、同名名乗りのものが多く人物の特定に至らない。家紋は「六つ丁子紋」「蕨桜紋」

日隈助之進は、(南東53-8)日隈次雄家の7代目、北条流兵法師範を勤めた。家紋は「隅切り平角に浜洲紋」

樋口元貞は、御医師 (南東57-36 医)樋口立卓家の6代目、家紋は「壽文字紋」か

久武喜内は、(南東53-16)久武白川家の8代目、家紋は「三つ茶の実紋」「鬼浜洲紋」
       喜内の父が久武綺石 名は兼者、権之助と称し、致仕して綺石と号す。藩に仕へ小姓組を勤む。
       禄二百廿石。叉俳諧を善くし其流を汲む者頗る多し。  
久武太郎右衛門は、同上分家、(南東53-14)久武卓爾家の4代目大助(太郎右衛門)、家紋同上

久光八助は、(南東53-23)久光善太家の6代目、家紋は「丸に一文字紋」

東 英助は、(南東53-35)東 英四郎家の6代目か、家紋は「子持ち隅切り平角に丸紋」 

平野源左衛門は、平野甚兵衛家の6代目・源左衛門(甚兵衛長金)、家紋は「一つ左巴紋」

久野立玄は、御医師(南東57-34 医)久野主敬家の7代・太郎次(玄碩・玄立)。家紋については表示がない。  


        新・細川藩侍帳【も】の部

元田尉大夫は、【丹後以来】(南東24-7)元田貞太家の8代目・尉太郎(尉大夫・八右衛門)、家紋は「隅立角に登り藤紋」 

元田弥一兵衛は、【丹後以来】(南東24-7)元田岳人家の5代目。家紋は「隅立角に登り藤紋」「子持ち隅立角に剣唐花紋」

諸井景淳は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は不表示。

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■オートミルを食する

2022-12-02 09:28:03 | 徒然

 糖尿病宣言を受けた時のDrの「入院しますか?」の言葉で、深刻さを実感し本当に身に応えた。それから2週間がたつ。
とにかく炭水化物を減らすことと運動を厳命された。朝はトーストは1/2枚、昼の麺類は取りやめ、晩の御飯は小さな茶碗に軽めにと変更した。 
お八つもとりやめ、果糖が駄目だという事で、大好きなリンゴも梨も柿も一かけらだけにした。
水分を取る事を心掛け、毎食前・毎食間にコップ2杯(400ml)を摂る。

 これだけ食事制限をしているから、少しは体重が落ちそうだがそうはいかない。
一時期すごく身体がだるい時期があり数日散歩をさぼってしまった。
そこで、オートミルを食べてみようと思い立った。
それというのは、私が最初に勤めた設計事務所の所長が、朝昼オートミルに牛乳をかけて食べていた。
ちょっと小太りの体格だったが、今にして思うと糖尿病持ちではなかったのか。
早速オートミルを購入して牛乳をかけて食してみたがなかなか受け入れられない。
今では電子レンジという文明の利器があるから、水を入れて2~3分待てばご飯状のものが出来上がる。
決してうまいという感じではないが、いろんな美味しいフリカケを乗せて食している。これならなんとか行ける。
あと2週間後に再び受けるHgAc1の検査の結果を待ちたい。正月のお節もお餅も程々にしなければいけない。

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■御恵贈御礼「家系研究」

2022-12-02 07:19:50 | 書籍・読書

 家系研究協議会様から会報「家系研究・第74号」をご恵贈いただいた。厚くお礼申し上げる。
何時もながらの会員諸兄の真摯なご研究の成果に対し敬意を表するとともに、会のますますのご発展をお祈り申し上げる。
最期の「表紙家紋について」では「丸に帆掛け舟紋」が紹介されており、主なる使用家に天草五人衆・大矢野家をご紹介いただいている。感謝。

  

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■師走かな

2022-12-01 10:45:00 | 徒然

             植木屋のハサミせわしく師走哉   津々

 11月は大変温かく下旬でも夏日が数日在りましたが、師走に入ったとともに急な冷え込みで慌ててヒートテックのインナーを着込みました。
私が住む町の御近所には、もともとは農家であったろうと思われるお宅が数件あります。
周辺にはマンションが建ち、新興住宅地が広がりますがもともとこれらの土地の地主さんではかいか
と思われます。
散歩に出ると、植木に囲まれたそんなお宅では、植木屋さんが入って正月を迎える準備が始まりました。
何時もと変らぬ近所の静けさの中に、植木屋さんのハサミの音が聞こえました。
今に時代、重機が入ったり電動ハサミ?を使ったりと、随分様変わりしている植木屋さんです。
しばらくあるくと、石たたきが一羽少々流れを作っている水無川の石の上を忙し気に尾羽を動かしていて歩き回っていて、「おまえさんも師走かい」と思ったことでした。

熊本の紅葉はまだまだという感じ、此の冷え込みで紅葉も足早に進むことでしょう。
それでもケヤキ並木の道では、風に吹かれて落ち葉が乾いた音を立てて走り回っています。

             店先の落ち葉を掃けば又落ち葉  津々

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■御侍帳・家紋から考える(63)

2022-12-01 08:44:09 | 家紋

                               一時不手際にて説明文が削除されておりました 。お詫び申し上げます。12:11再掲

                           

            新・肥後細川藩侍帳「し」の部

生源寺助之允は、樹下氏一族【青龍寺以来】(南東51-5)生源寺 市家の9代目・角平(助之允)。
     初代は田邊城に籠城した樹下大炊介である。家紋は「丸に山の字紋」「隅切り立角に左巴紋」 

庄村五郎右衛門は、【丹後以来】(南東51-9)庄(荘)村省三家の8代目・新平(五郎右衛門)か?、家紋は「四つ石紋」

重田九一郎は、御船頭 (南東58-22 船)重田九一郎家の6代目。家紋は「梅鉢紋」     

嶋永重蔵は、       不詳          家紋は「三つ菱紋」

            新・肥後細川藩侍帳「ひ」の部

平野九郎右衛門は、北條氏、相模二郎時行を遠祖とする(南東53-1)平野九郎太郎家、代々九郎右衛門の名乗りで人物の特定は出来ない。家紋は「三つ鱗紋」
平野七兵衛は、同上分家、(南東53-2)平野七角家の4代目、家紋は同上。
平野作大夫は、同上分家、(南東53-7)平野弥平家の6代目、作大夫(善左衛門)。家紋は同上。

平野太郎右衛門は、太郎左衛門の誤植か?、(南東53-13)平野 大家、代々太郎左衛門を名乗り人物の特定は出来ない。家紋は「陰隅切り立角紋」
平野軍次は、同上一族(南東53-25)平野嘉門家の4代目、家紋同上
平野太源太は、同上一族(南東53-20)平野甚九郎家の6代目、家紋同上
平野源吾は、同上一族(南東53-24)平野角蔵家の4代目、家紋同上
平野藤助は、同上一族(南東53-9)平野太郎四郎家の4代目。家紋は「三つ角紋」?  

平野十郎右衛門は、(南東53-19)平野膳内家の7代目・傳太郎(養子 十郎右衛門・十郎)。家紋は「蛇の目紋」  

尾藤多賀丞は、尾藤知宣の息を初代とする(南東53-3)尾藤閑吾家の7代目・波枝(多賀丞)。家紋は「違い鉞紋」「桔梗紋」 
      比着座、留守居番頭、番頭、佐敷番頭、留守居大頭を勤めた。

尾藤市左衛門は、同上分家、(南東53-4)尾藤九平家の8代目。家紋は同上。

尾藤九郎兵衛は、【丹後以来】(南東53-10)尾藤友雲家の7代目。家紋は「隅入り平角に六曜紋」  

平井貞之允は、(南東53-5)平井清九郎家の7代目で400石、何が理由か判らないがこの代に御家断絶10代目に至り再興し五人扶持、家紋は「丸に■文字紋」「五つ木瓜に桔梗紋」  
平井丹左衛門は、同族、(南東53-26)平井井平家と思われるが該当年代に名前が見えない。家紋は「丸に■文字紋」「竹輪に■紋」

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■延寶八年正月仰渡之事

2022-11-30 13:53:50 | 史料

                                   

                                         一延寶八年正月七日御備頭衆御用ニ付御奉行所へ罷出
               候儀延寶六年六月佐渡殿奉ニ而右之衆へ被仰渡之
               趣御事付ニ而御奉行所へ御渡候 然處ニ組付衆願之書
               付相組之者を使ニ被仕又ハ手紙を添家来ニ為持被差
               上候衆有之候為様之御用迄を自身被出能可有御座哉
               達 御耳申御用之儀ハ被罷出候様御座候而ハ為可有
               御座哉
              一養子願之事      一役儀御断申上候事
              一在宅願之事      一縁組願之事
              一世忰 御目見願之事  一屋敷拝領願之事
              一名を改申度由願之事  一前髪取之願之事
              一他国ゟ使者飛脚差越候付届之事
               右之書付仕御家老中へ入御披見候處ニ書付之内達
               御耳候儀者不残自分罷出候様ニ可申候旨佐渡殿
               被仰儀候事

 延寶八年であるから藩主は綱利、佐渡殿とあるのは筆頭家老で松井家5代の松井直之のことである。
過ぎる六年六月藩主から御備頭衆に対し、仰せの趣を御奉行所で申し渡しをしようとした所、組の者や家来を代理で出す者があった。
今般の仰せ出については、備頭本人が出頭することを申し渡している。
当時の備頭を調べてみると、松井直之・沼田延将・志水伯耆・沢村友雅・有吉貞親・小笠原長英・木下三郎右衛門・尾藤知英である。
上記の諸届があった場合は、家老中へ備頭本人が届ける様に即している。

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■「朱三」とは何・・?

2022-11-30 06:13:29 | 家紋

 先に■下津家-有吉家-加々山家を書いたが、これに関連する加賀山家の史料「奥田権左衛門家由来記」を過日図書館でコピーしてきた。
下津家女が三卿家老・有吉家の養女となり、加賀山家流奥田家に嫁いだが、5代目当主が家来を殺害して絶家となった。そのことを知りたいと思ったが故だ。
その他「加賀山家由緒略記」「加賀山氏画傳」も併せてコピーしてきたが、その一族でキリシタン(初代の長兄)として誅伐され殉教した加賀山隼人正興長などにも触れられている。
その隼人正興長の家紋は「隅立平角に三つ星」であることがスケッチされている。
                                                               
その後、奥田姓を名乗る家もでたが、この加賀山家の史料や、細川家の切支丹関係を詳しく調べられ、膨大な記録を上妻文庫として残された上妻博之先生は、この奥田家の血を受け継がれていることによる。 

 加賀山家に嫁いだ有吉家養女はこれらの記録からすると。隼人正の三弟・権左衛門家の3代目に嫁いでいるようだ。
三代目夫婦に就いて若干の記述がある。
2代目権左衛門には男子がなかったとあるが、3代目がどこから来られたのかは記されていない。
「岩越惣右衛門宅にて魚毒にあたり即死」とあるから、フグにでも当たられたのだろうか。
奥方は元文2年に疱瘡で死去されている。62歳。高麗門外長國寺に葬られたとあり、墓石には「紋は朱三と四ッ目結の二ッ付有之」とある。
四ツ目結紋は有吉家の定紋だが、前者の「朱三」で考え込んでしまった。これは難問である。

 「重三」という言葉がある。三つ重なり、つまり三月三日とか、さいの目二つ振ったらぞろ目になったとか、縁起が良いことに例えられる。
加賀山家の家紋の三つ星もそのような縁起を担いだものと思われるが、上記家紋からするとこの家紋を指していると思われるが「朱」がよく判らない。
まさか「朱」を「じゅう=重」と読ませての事ではなかろう。いつか長國寺に出かけて確認しなければならない。

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■ドッグ・イアとワイ談

2022-11-29 06:53:31 | 書籍・読書

 私はいたって本は大事にする方で、書き込みをしたり、ページの端を折るいわゆるドッグ・イア(犬の耳折)をする事はない。
書き込みをしたいページがある時は付箋をつけて是に書き込む。読みかけの時は、栞を挟み込むことにするがこれはひっきれ紙が多い。
時折、新聞や折り込み広告のひっきれが挟まっていることがある。
師匠のDr・高田先生は、古本を随分購入されたらしいが、書き込みなどには頓着されず、かえって貴重な書き込みに教えられることがあると仰っていた。

 オークションなどで手に入れた本になると、しっかりドッグ・イアがされていることがある。
前の所蔵者が特別に挟み込んだのか、また後日読むための者なのかは判じかねるが、時折なるほどこの記事を読みたかったのかと合点することがある。
そんな中、古本で手に入れた半藤一利氏の「続・漱石先生ぞな、もし」という本、これにドッグ・イアがあった。
手に入れた時は、折りたたまれてはいなかったが、くっきりと折り目が残っていた。
このページを読んで私は思わず笑いだしそうになったことを思い出す。
p81に「●ワイ談にあらずや」という項が立てられているが、この中に英国のジョージ五世とメリー皇后の、くすりと笑わせる挿話がある。
ワイ談というよりも落語の艶笑小噺といった処だ。興味がお有りの方はご覧いただきたい。
また、吾輩は猫である中の六章に、苦沙弥先生と奥方の会話があるのを、半藤氏は目ざとく見付て紹介している。
この話もワイ談というのかどうかはよく判らないがだが、これにドッグ・イアをされているこの本の前の所蔵者のきもちをくすぐらせたらしい。
こういう時はドッグ・イアよりも付箋にしておかれるのが良かろうと、御忠告申しあげる。

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■厄落しには銭十二文

2022-11-28 09:00:38 | 徒然

               

 ヤフオクを眺めていたら達筆な一文を見つけた。特に右の「厄落の事銭十一文」とあるのが気に成った。
ググってみると、下松市の郷土資料・文化遺産アーカイブスに「下松市の風俗と生活・年中行事」について詳しい記述があった。
下松市は私の先祖の出自の地で偶然に驚いてしまった。
その史料にある「厄落シト云テ京大阪ニ専ラ至ス事 節分ノ豆ヲ年ノ数ニ銭十二文紙ニ包、男ハ左ノ肩ヨリ身ヲ擦、女ハ右ノ肩ヨリナデ懐ノ内ヨリ身ヲナデテ下ニ落シ居ル内ニ、厄払トテ非人ノ者参リ其豆ヲ申受テ祝言ヲ申、沖ノ海ヘ払捨ルナド イロイロノ詞ヲ申事ニテ面白キ事ナリ」という風習の事だろう。

 いろいろ調べてみると、歌舞伎の「三人吉三」の例の「こいつは春から縁起がいいわえ」の科白の中にもでてきているし、落語の世界でも語られている。
どうやらよく知られた言葉らしい。歌舞伎の模様をYoutubeで見られないかと思ったが、これは叶わなかった。(残念)

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