津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(12)

2018-11-17 14:11:40 | 史料

 四四八
小國杖立温泉入湯之衆中、是迄差紙ニ不及銘々勝手ニ罷    小国杖立温泉
 越來候、右之通ニては一同ニ入湯人多所柄及迷惑筋も有
 之儀、依之以來士席以上は栃木入湯同前ニ、一廻宛之差
 紙を以客屋相渡申筈候、左候て上通り之湯坪一ヶ所士席
 以上之湯ニ被極置筈候間、杖立入湯被致度衆中は前以被

 相達候得は、鬮を以次第を極、御郡代へ差紙を付申筈ニ
 候、尤上下多人數の衆中右客屋迄ニて差支、下宿を取被
 申候ハヽ、彼表ニて宿賃之極り有之候間、其通ニ宿賃相
 渡し相對ニ借受被申筈ニ候
  但、輕輩以下は差紙ニ不及、宿之儀は前條之通究り之
  宿賃を以相對の宿いたし、平湯ニ入湯之筈ニ候
一入湯之衆中所柄産物等調被申面々、間ニは御惣庄屋幷村
 役人等へ被相頼、下方及迷惑様子ニ相聞候、以來産物た
 り共相對ニ調被申儀ハ各別、會所役人等被相來間敷候、
 且又入湯之人躰ニより内證之會釋ニ掛り、御惣庄屋以下
 會所役人等罷越不申候ては難相濟様ニ成行、繁雑之役人
 及迷惑、第一御用之妨ニ相成候事ニ付、以來會尺等敷儀
 堅不仕様及達候、以上
  右之通被相心得、被召連候家來末々至迄堅可被申付置
  候、以上
   十月

 四四九
  安永元年十二月御達
一地居奉公人近年人置處より割渡候得共、此以後右割渡被
 指止候間、來春出代りより相對ニ可被抱候
一旅へ連被申候下々抱方、今迄之通
一増奉公人望差出ニ、抱主屋敷何方と申儀被書記候様及達
 置候處、不被書出面々も有之、割渡候ても奉公人尋當不
 申由、右之通ニては割渡差支候條、無間違可被書出候
一増奉公人之人柄望は彌以難叶候
一増奉公人割渡、二月二日以後五十日之内人柄等差戻候ハ
 ヽ替柄相渡可申候、尤右日數之内たり共及三度候ハヽ容
 易ニ代柄不相渡筈ニ候、五十日以後之暇ハ無餘儀子細も
 有之候ハヽ跡柄相渡可申候、六月以後は惣て跡柄相渡不
 申筈ニ候
一奉公人抱差出は、被抱候日より二十日を限人置處へ可被
 指で候
一暇差出も早速/\同所へ可被差出候
一増奉公人暇差出ニ、當年地奉公ニ罷出、或は在所へ引込
 候等之儀被書記候得共、來年よりは右等之儀被書記候ニ
 不及候、一通り可被相調候
一今年増奉公人へ罷出候者は來年は不被差出、雇柄ニも不
 致筈ニ候條可被承置候
   十二月

 四五〇
  安永二年二月御達
一旅詰衣服之儀ニ付書抜相渡候
 一於御當地着用之衣服品分り之儀、先年被仰出置候通候
  處、婦人之衣服又は櫛笄之類、間ニは紛敷様子有之哉
  ニ相聞、右品分り之儀熟得無之故ニ候哉、左候ハヽ其
  不審之ヶ條被相伺、所詮紛敷儀無之様頭又ハ支配/\
  より屹ト可被附心得候、以上
 一旅詰之節、士席以上縮緬之衣服着用不苦候
 一右同輕輩之内諸役人段以上幷御家中若黨、日野・加賀
  絹類之上着は不苦候處、右類ニても織紋有之衣服は被
  禁候
 右之通可被相心得候

 四五一
  安永二年五月御達
一輕輩陪臣或は町在之者等、御制度を犯シ候様子ニ相見候
 歟、或は紛敷旅人等御城下徘徊候歟、惣て疑敷風躰之者
 は姓名承届可申旨兼て廻役共へ申渡置候、依之面躰不見
 知普請ニ存候仁は、姓名無遠慮不承届候ては分り不申事
 ニ付、御侍之内たり共稀ニは尋掛り候儀も可有之候、然
 處右之趣不被存知衆は不審も可有之候條、私共より寄々
 知せ置可申旨候間、御仲間中え御通達、御組々えも寄々
 御知せ歟被置候、以上
   五月十日        御奉行中

 四五二
  同年同月御達
一御家中之面々幷支配浪人等、又ハ家来/\至迄若盗ニ逢
 候節は、年月日付、且盗賊入込候節之様子、被盗候品共
 ニ委書附、士席以上は御刑法方御奉行え可被相達候、左
 候ハヽ追て其盗賊被召捕、御吟味之上右書附ニ相違無之、
 其品々盗賊手前ニ有之分は勿論、其主/\え可被返下候、
 且又質入賣拂其質屋買主相知レ候得は、主人/\とり都
 て半銀鷹を以受取來候得共、此以後其筋次第ニは請代銀
 なしニ取上可被返下候、尤質屋幷買主ともより質取買取
 いたし候節より十三ヶ月内ニて、賣拂有所不相知候ハヽ、
 是又筋次第ニは代錢被返下筈ニ候事
   五月廿五日 

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■お安く読む・中公新書「日本史の論点・邪馬台国から象徴天皇制まで」

2018-11-17 09:09:39 | 書籍・読書
  日本史の論点-邪馬台国から象徴天皇制まで (中公新書)
 
           中央公論新社

内容紹介

「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」。しかし鎌倉幕府の成立を1192年とする見方は今や少数派だ、といった話を聞いたことがある人も多いだろう。日本史の研究は日々蓄積され、塗り替えられている。 「邪馬台国はどこにあったか」(古代)、「応仁の乱は画期だったか」(中世)、「江戸時代の首都は京都か、江戸か」(近世)、「明治維新は革命だったのか」(近代)、「田中角栄は名政治家なのか」(現代)など、古代から現代まで各時代の重要テーマに豪華執筆陣が迫る。 
いま日本史の世界で注目されている論点は何か、どこまで分かっているのか、この1冊でつかもう。

執筆分担:古代・倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)、中世・今谷明(帝京大学特任教授)、近世・大石学(東京学芸大学教授)、近代・清水唯一朗(慶應義塾大学教授)、現代・宮城大蔵(上智大学教授)

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■女性上位?

2018-11-17 07:39:31 | 人物

◆明治古写真◆肥後熊本藩主・細川護久◆写真師昔幕末藩士鶏卵美人物肖像台紙武士侍松平春嶽

   ◆明治古写真◆肥後熊本藩主・細川護久

                 【肥後熊本藩主・細川護久正室「鍋島斉正の娘・宏姫(宏子)」】古写真◆明治大正昭和戦前戦後美人物昔幕末鶏卵手札台紙肖像女性武士古文書

                   
肥後熊本藩主・細川護久正室「鍋島斉正の娘・宏姫(宏子)

 細川護久公並びに同夫人宏子の写真がヤフオクに出品されている。
両方ともフローリングの上に置かれており、出品者は同じところである。

同じところと言えば、この二枚の写真は同じ場所で撮影されている。バックの腰壁の模様や、絨毯などからもそれが確認される。値段を見ると女性上位で護久公が19,999円、御夫人が49,999円と断然高い。

ところで随分以前、細川韶邦公の写真だとしてヤフオクに出品された。
「違うでしょう」とちゃちゃを入れたが、明らかに護久公だと思われる。
そのブログからは写真が消えているが、内田九一の撮影だとされ、上の写真と全く同じものであった。
和服と洋装の違いはあるが、顔つきはどう見ても護久公だ。そして撮影場所も同じで、身体がぶれないようにもたれかかっている柱状の物も全く同じである。

          クリックすると新しいウィンドウで開きます 

 
こういう写真も残っているが、どうやら同じ日同じ場所で撮影されたもののようですね。子供さんは宏子夫人の実娘と考えると明治7年9月22日生まれの輝様(22歳没)でしょう。
だとすると、これ等の写真は明治9年ころの写真でしょうか。

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(11)

2018-11-16 19:25:38 | 史料

 四四五
  明和九年公義御觸
    「明和九年 南鐐」の画像検索結果

             なんりょう
一此度通用之為吹抜候上銀、
南鐐と唱候銀を以貮朱之歩判      
 被仰付候間、右歩判八つを以金壹両之積り、文銀幷錢共
 時々之相場之通無滞可致両替事
一右貮朱銀両替ニ付、切賃之儀是又金と同様相心得取遣可
 致事
一貮朱銀包之儀は、文字銀と違於銀座包致候間、其通相心
 得可申候事
 右南鐐貮朱銀之儀、金と同様通用之為被仰付候間、無滞
 通用可致候事
  右之通國々えも可觸知者也
   九月

 四四六
  安永元年十月御達
一熊本町馬之儀ハ、町中惣割賦を以建方被仰付置宿役之外
 は、御用たり共賃金被渡下致召仕事ニ付、御家中之面々
 地廻り私用付て相對雇之節は、不及迷惑様程能賃銀相渡
 雇被申筈候處、間ニは御用同前會所ニ差紙を付、私用之
 荷物或は米穀付馬、或は在宅往來幷遊獵等之節、入用馬
 半駄賃を以被受取、其上家來/\よりは強儀之筋も有之
 様子ニ相聞、心得違之事ニ候、依之以來左之通及達候
 一御用付て他所旅行、又ハ私用ニても譯立候儀ニて、御
  定之賃銀を以町馬雇被申度面々は、佐貮役歟町方根取
  役ニ被申達候ハヽ差紙相渡歟申候間、右差紙ニ御定之
  賃銀相添、人馬會所へ差越受取可被申候、右差紙之外
  は御定之賃銀ニては決て町馬差出間敷旨、馬指へ申渡
  せ候事
 一相對ニ雇被申面々は、馬主共不致迷惑様ニ賃銀相極雇
  可被申候、尤馬主共も渡世相應之賃銀受取、法外之駄
  賃受取申間敷段、馬指え申渡せ候事
 右之通被相心得、家來/\へも堅可被申付候、以上
   十月

 四四七
一御家中之面々、就私用御定之賃銀を以在中より継人馬出
 せ候儀は難叶事ニ付、兼て其趣及達置候處、前々より自
 分/\書付を以継人馬出せ來候由被相達輩も有之、不都
 合之至候、已來御郡間差紙之外、御定之賃銀を以一切継
 人馬差出申間敷旨及達候間、若無據筋ニて御定之賃銀を
 以継人馬受取不被申候て難叶面々は、其譯御郡間へ被相
 達候ハヽ、其様子ニより私用人馬差紙、御郡間より向々
 え相渡可申候間、右之差紙ニ御定之賃銀相添、人馬會所
 へ差越人馬受取可被申候、尤参掛り無據人馬入用之節
 は、相對賃銀を以雇可被申候
  但、相對雇之儀は渡世相應之賃銀受取、莫大之賃銀受
  取申間敷旨、在中へも及達候
一牛馬は兼て人馬不
寄置様子ニ付、参り掛りニ人馬差出候
 様ニと有之候ては速ニ出方成兼可申候、依之右差紙被受
 取、若急成用事ニて滞候て難成面々は、自分/\より先
 觸可有之候、左候得は人馬致手當、無支様差出申筈ニ候
一八代・佐敷詰其外在宅之御侍中、幷在役ニ被差出置候御
 切米取・在御家人共、御用筋付て出府之節は今迄之通ニ候
一右之面々私用ニ付出府之節、入用之人馬は其所々詰合之
 御郡代承届、若御郡代詰合無之節は御惣庄屋承糺、御定
 之賃銀受取無支差出申筈候、且又熊本より歸之節は御郡
 間へ承届、私用差紙相渡申筈候、右之外は都て相對賃銀
 ニて雇被申、賃銀之儀は前條之通可被相心得候
一栃木・杖立其外共入湯より被罷歸候節、於向方駕夫・荷
 馬等御定之賃銀ニて押て受取被申趣ニて、在中敷時分
 ハ甚及迷惑由相聞候間、荷物之輕重ニ応し、人馬數幷賃
 銀ともニ湯亭へ被申談、相對次第其時々相応之賃銀相渡、
 下方及迷惑不申様相心得可被申候
一諸御郡え就御用被指出候面々、於村々宿を取、粮米幷人
 馬・明松をも取、紛敷躰之者多有之由ニ付、先達て御郡
 間印鑑村々え被渡置、人馬・明松差紙ニ右之印鑑引合粮
 米又ハ人馬・明松等も相渡候様、若差紙持参無之紛敷躰
 之者有之候ハヽ追立候様、其上ニて兎哉角有之候ハヽ、
 押置キ相達候様村々え被仰付置候處、今以往還村々其外
 ニも、参り掛り明松を出し候様申者有之候ニ付、差紙見
 届可申由申聞候得は、却て強儀之申分いたし、打擲をも
 可致躰ニ付、不得止明松なとをも出候儀間々有之様子相
 聞、不埒之至候、彌以御郡間より之差紙持参不致、人馬・
 明松等受取可申と申者は相渡間敷候、若差紙無之強儀な
 る申分
等仕、理不儘之躰有之候ハヽ押置、其段相達候様
 可被申付段、猶又御郡代へ及達候條、御家中支配/\家
 來末々至迄其段可被申付置候、以上
   十月

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■北村甚太郎覚書(十八)

2018-11-16 08:37:37 | 史料

 (十八)
一九月末尓丹後籠城為御見廻として忠興公・与十郎殿より
 津海五郎右衛門小崎六左衛門と申者関東より御立せ被成候
 両人急き田辺尓着候へとも敵の番所堅固尓候故 城へ入
 可申様無之候へとも案内を能存候尓付あごと申所海
 邊北の口より夜半時分忍入関東よりの御書差出
 関東の様子具尓言上仕候 此事如何して敵の方へ聞へ
 ける哉 城より五丁計置て一夜の間尓東西南北尓壱間

 /\尓柱を立もがりを結ひ廻し一町/\尓番屋えお立てきひし
 く番仕候 海手と磯辺尓ももがりを結ひ廻し沖尓は番船          もがり(虎落)→竹矢来
 数多敵方より置申候 城中よりハ雲龍齊と申出家東を
 志此程を 忠興公・与十郎殿江申上度存候て罷出候処番
 所稠敷候て出申間敷の由候を色々断を申出家の儀敵
 尓も味方尓も成る者尓て無之候間是非とも慈悲とも思召候 出候て給候へ
 無左候ハヽ是尓て被打果候へと申尓付各其理尓免し出し
 申候 敵の前を多ばかり夫より関東へ参り 忠興公へ御目見仕
 籠城の次第具尓申上候 関東御利運尓て御帰陳の砌な
 連ハ弥 越中守殿・玄蕃頭殿・与一郎殿・与十郎殿急御登被成      与十郎→細川孝之
 候由尓て寄手の人々も関東の御(様・欠ヵ)子御利運の由を聞百         細川藤孝三男。天正十三年生る。中務少輔。
 日余相詰居候敵次第尓退散せら連候なり                    剃髪後休齋宗也。正保四年七月七日歿。年六三。
  旦夕云 関東より田邊の城へ被差遣候両使之内小崎六左衛門と有     旦夕堀内傳右衛門
  之候此仁の咄と老父三盛度々咄申を覚申候                        旦夕覚書を書残す
  三齋様八代尓被成御座候時御目之御用とて熊本より参候
  刻何角御意之内尓小崎忠三郎子供ハ定て越中か不
  便がろうと御意被成候へとも志かりと様子不存候由申上候ヘハ
  いか尓もわ連ハ前の儀存ましく候 田辺御籠城の聞へ有之
  関東より御書持を被遣候持様萬事御おしへ被遊候所々
  尓て難儀仕候へ共無恙田辺の御城尓参り申骨を折たる
  ものヽよし其時ハ定て小崎次郎左衛門同孫右衛門親の由三盛
  咄申候 慥尓覚申ゆへ書付置申候 

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■今朝の空

2018-11-16 07:18:31 | 色・いろいろ

                          6:20頃        自衛隊の大木越しに明けの明星が輝いていました。
                          乱視の私にはカメラの撮影は向いていないようです。


                 6:40 我が家のベランダから

               
              6:50 雲が朝日を受けて金色に輝きを変えていきました。
                 これも段々白い雲へと変わってきました。

 実はこの左手に空を切り裂く傷口のようにジェット機の軌跡が輝いていたのですが、残念ながら撮影できませんでした。
 多分宮崎の新田原基地から飛んできたのでしょう。日本でただ一人の女性戦闘機パイロット(26歳)が居られるそうですが、ひょっとしたら・・・・

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(10)

2018-11-15 21:38:13 | 史料

 四三九
  明和九年
一御家中乗馬所持之儀、頭々より書付取揃四月廿九日限被
 相達候事候處、以來右書付は頭々手前ニ受取被置、頭々
 より一紙帳面ニ相記可被差出候、尤一疋/\何毛何歳と

 申儀書記可被申候
  但、右月限以後馬被求、或は放被申候節之達ハ、今迄
  之通其時々相達、且又毛付年付書記可被申候
   四月

 四四〇
  明和九年
一於追廻馬場御侍衆騎射稽古之節、為見物男女群集不形儀            追廻馬場→藩主居館花畑邸の裏手にあった専用馬場 
 之様子ニ付、自然と稽古之妨ニも可相成候條、以來御侍     
絵図の上部に見える。
 中之外猥ニ見物人集り不申候様ニ、押之者を差出制せ可
 申候條、稽古定日之儀永井平右衛門へ被相達、且又不時
 ニも稽古日相催候節は、前日/\右同人へ可被相達候事
一急用之節は格別、熊本中早乗は不被致筈ニ候間、其通可
 被相心得候、尤遠乗等ニて専ラ往來之遅速試有之節は、
 熊本中より早乗も可被致事ニ付、其前日永井平右衛門へ
 可被相届置候事
一屋敷前/\ニて責馬被致候節、往來之妨ニ不成候様可被
 相心得候事
  右之趣觸之面々へも可被相達候、以上
   五月八日

 四四一
  明和九年
一御家中乗馬所持之面々、糠藁代渡方之儀ては追々及達
 候、然處、當八月渡より以來は御郡間より被渡下筈候、
 依之左之通
 一糠藁代被受取候面々、印鑑壹枚宛當月中銘々より御郡
  間え可被差出置候、尤以後印形被改候ハヽ其趣を以改
  候印鑑可被相達候事
   但、新二乗馬被求候面々も同前之事
 一八月・十二月両度ニ半分宛被渡下候ニ付、右印鑑之印
  帋は其時々銘々より直ニ御銀所へ差出受取可申事
   但、當八月之儀はしらへ方濟兼候條、十五日以後よ
   り被渡げ筈候
 一右之外之儀は追々及達置候通候事
   六月

 四四二
  明和九年
一御家中乗馬飼料大豆之儀、五月以後十二月迄之内新二馬
 被求候段被相達候得は、其時々拂方達事ニ候、然處右之
 通ニては際限無之、在中及迷惑候様子ニ付被改、今年よ
 りは年々九月廿九日限達有之候分は及其達、十月朔日以
 後ニ相達候分はたとひ九月中馬被求候共、其年分之大豆
 は不被渡下、翌夏より被下筈候事
   七月廿日

 四四三
  明和九年
一御家中家來/\諸事相慎候様、主人/\より被申付候儀
 は勿論之事候、別て御家老中之儀は御役柄之儀ニ付、家
 來へも兼て稠敷御申付有之事ニ候得共、間にハ心得違之
 者も可有之哉、外向ニて之儀は、右屋敷/\へハ不相知
 儀も可有之候條、右家來/\町在其外何方ニても萬一法
 外之事有之候ハヽ、下々は不及申刀指たり共都て無用捨
 其筋ニ随ひ手強取計、殊ニより候てハ其所ニ押置、右屋
 敷/\え相知候ハヽ早速役人罷出引取せ申ニて可有之  
 候、其外輕キ事たり共相變儀は善悪ニよらす、其所々役
 人方より内々相知せ候様、御役柄と申とて遠慮可仕譯は
 無之事ニ候、此段内意申聞候様御家老中比仰聞候旨ニ付、
 右之趣寶暦九年月司え書付相渡、別當・町頭幷組頭共
 奉承知居候様申聞置候、然處今以間ニは酒店等ニ御家中
 手廻躰之者入込、理不儘之取計有之甚迷惑之筋有之候得 
 共、屋敷柄ニ對内分ニて押移、屋敷/\え不相答様子相
 聞、先年被仰付置候處ニ相背心得違之事ニ候、右躰之儀
 致増長候ては一統之風俗引亂候事ニ付、以來理不儘之仕
 形等有之候ハヽ、先年被仰付候通相心得、何レ之屋敷
 柄たり共無遠慮相答候様、若又其節之趣次第ニハ町方根
 取迄申出候様ニも可仕候、此段猶又可申聞旨ニ候
  右之通候條、先年之趣を以別當・丁頭・組頭共奉承知、
  組内之者共えも不洩様寄々申聞候様ニ、懸/\へ可
  被達候、以上
   八月

 四四四
  明和九年
一道方之儀、以前は受込被仰付置候處、寶暦六年比指止候、
 然處今度道方之儀御掃除方分職之皆共幷御掃除頭へも兼
 帯被仰付候、依之、御曲輪内道筋之損所或ハ往來之障ヶ
 間敷儀有之所々ハ、其屋敷/\へ御掃除方より直ニ相答
 申筈候間、被任其旨候様及達可申由御家老中比申聞候
 間、左様御心得、御仲間中え御通達、御組々えも御達可
 被成候、以上

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(9)

2018-11-15 09:37:25 | 史料

 四三四
  右同年(明和八年)
一日田表助合穀銀之儀、御領内之者拝借不仕様去年十二日(月ヵ)
 一統被仰出置候、然處右之通ニては御用銀之捌方ニ差支
 り候ニ付て、以前之通被仰付置候様、日田御代官所より
 内意之趣も候得共、以前之通ニハ難被仰付候、然處御用
 銀之捌方差障候由ニて、其筋を被立手堅キ趣を以借方仕
 候ハヽ勝手次第二被仰付候、依之助合穀銀借用仕度者は
 其段支配方え申出、在々は其所之御郡代、町々は御町奉
 行より右願之旨趣、先佐貮役中津佐左衛門え可有掛合候、
 左候て佐左衛門より應對之趣二應取計可有之候、勿論強
 て借用仕候様との事ニてハ無之、自分/\勝手ニ宜様可
 相心得候、右之趣支配/\え不洩様可被達候、若右申達
 候筋々え不申出助合穀銀借用致候者有之、相願候ニおゐ
 てハ其者は不及申、受人共ニ屹ト咎可申付候條、下方得
 斗致懸合居候様精々可被達候
一去年十二月右之通不相觸以前、助合殻銀之内借用致居候
 者有之候ハヽ、其節加申出儀ニ付、定て右懸合之者ハ無
 之とハ存居候得共、萬々一其以前致借用今以不返濟者候
 ハヽ、返濟何程相殘居候との儀書附、早々支配/\より
 可被相達候、尤支配之内右之儀無之候ハヽ、其段書附可
 被相達候、以上
   十二月         御奉行中

 四三五
  明和九年
一歩御使番以下刀脇差、金拵等用申間敷旨被仰付置候處、
 心得違之者も有之様子ニ候條、頭支配方より心を附被申
 候様可及達旨、御用番被申聞候條、左様御心得御同役へ
 御通達、御組々え可被成御達候、以上
   正月廿二日

 四三六
  同四年
一切レ金通用相滞候ニ付、小判壹歩判共切レ疵・へけ疵大
 小無構切放レ候迄、輕目金之儀は小判は四厘迄輕分、壹
 歩判は右之量を以無滞可致通用旨先達て相觸候處、右切
 レ金多キ分世上ニ流布致シ、右躰之切レ金受取候得は受
 取候者難儀之筋ニ候、依之自今小判は五分迄之切レ金幷
 輕目ハ四厘迄無滞可致通用、但五分以上之切金は勿論、
 五分以下之疵金共、輕目は四厘内ニても形かけそこね穴
 明キ候歟、又は疵數ヶ所有之類は、金座へ差出、定法之
 通ニて直せ可申候、若五分以下之疵四厘内之輕目ニて形
 かけそこねさるを、武家方幷町方・百姓等不受取もの有
 之ハ、両替屋より其支配々々え可申候、且又此類之通用
 可成金より歩合取之候両替屋有之候ハヽ、其所々支配え
 早速可訴出、吟味之上急度可申付候、右之通寛延三年相
 觸候處令忘却、近來大坂表別て通用差支候趣相聞候、午
 年相觸候通五分以下之疵、四厘内之輕目金、武家方・町
 方・百姓等不受取者有之歟、又は歩合等取候両替屋共有
 
之は其支配え早速可訴出候
  右之趣、江戸・京・大坂は勿論、御領ハ御代官、私領
  ハ領主・地頭より急度可申付候
   卯十二月

 四三七
  明和九年公義御觸
   日本橋坂本町一丁目           大坂嶋町壹丁目
     岸 重右衛門        扇屋三郎右衛門
   本八丁堀壹丁目             坂本町二丁目
     藤白矢卯三郎          辻 傳次郎
                   
                    竹屋清右衛門
 右之者共山城・大和・河内・和泉・攝津・因幡・伯耆・
 出雲・石見・隠岐・播磨・美作・備前・備中・備後・安
                     (讃岐脱ヵ)
 藝・周防・長門・紀伊・淡路・阿波・伊豫・土佐・筑前
 ・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・
 右三十三ヶ國え朝鮮種人参相對直段を以賣引候様申渡
 候、書面之國々にて右人参賣引望之者は、京・大坂朝鮮
 種人参賣引會所へ申込、相對直段を以買受賣捌可申候、
 且又右人参御拂元代金上納月延有之ニ付、溜り金集候分
 借用望之者えは、相對を以借付度段相願候ニ付、願之通
 申渡候
 右之趣御領は御代官、奉行支配之所は其奉行、私領は領
 主・地頭より寺社領共城下幷在町迄不洩様可相觸候
   卯十二月

 四三八
  明和九年大豆拂之儀ニ付御達
一御家中望之大豆飼料共前以拂方支有無問合有之、支不申
 所柄決定之上望差出歟被相達儀付ては追々及達置候通ニ
 候處、去年も差懸り所替又は御蔵渡等相願候輩も間々有
 之甚及混雑候、畢竟、前以在方へ之約諾不委候故、拂方
 之時節至り難澁之様子ニ相聞候間、今年よりは所々承合 
 へも掛合有之、拂方支無之段決定之上、被究置候月限望
 差出可被相達候、右之通ニ付御蔵渡幷差懸所柄願とも以
 來難叶候事
  但、御擬作被下置候面々御蔵渡望勝手次第之事
一右之通所々受合有之候ても、相對被申談ニて拂方差支候
 輩ハ、其旨幷承合候所付共前以可被相達候、其分は拂方
 之儀格別ニ及達筈候事
一今迄下大豆望被申面々も有之候得共、以來大豆拂之儀御
 蔵納共都て中大豆拂ニ被仰付候間、一統中大豆望可被相
 達候事
   四月

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■独学で歴史家になる方法

2018-11-15 06:39:19 | 書籍・読書
  独学で歴史家になる方法
 
   日本実業出版社

 別段私が歴史家を目指そうという訳ではない。しかし独学で人様はどういう勉強をしているのかを知るうえでは面白そうではないか。

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【内容情報】(出版社より)
  ◆独学で歴史を学んで「学問」へのリベンジをしよう
定年を意識し出した中高年、あるいは現役でバリバリ活躍している人たちに、歴史の独学を勧める指南書。
物知りレベルを超えた「歴史家」への道筋を示す。
世に問うに値する研究であると認められ(リスペクト)、「学生時代に勉強しておけばよかった」「上の学校へ行って学問をやりたかったのだが、さまざまな事情でそういうチャンスがなかった」という方々の学問への新たな取組み(リベンジ)、その成果としての論文の専門誌掲載や出版(自分や社会へのリペイ=お返し)のノウハウを示す実践的ガイド。

  ◆著者は在野史家のレジェンド~研究のイロハから論文作成までをガイド
著者は知る人ぞ知る在野史家。都立高校に奉職するかたわら、「歴史民俗学研究会」を立ち上げ、定年後に在野史家として独立。
『サンカと説教強盗』や『史疑 幻の家康論』など、当該ジャンルの必読書ともいえる書籍をものした。
足で稼いで史料(資料)を発掘し、希少な文献の博捜と歴史探偵ばりの推理力を駆使しての著作は、まさに独学者のレジェンド。すべて著者自身の長年の単独研究に基づく、
史料の探し方・読み方、フィールドワークの手法、研究のまとめ方、発表のノウハウなどを描き尽くす。

  ◆歴史好きから歴史家を目指すチャレンジャーへ
読者対象は歴史に関心のある中高年、向学心の高い現役世代。
独学本ブームのなか、独学で学問に触れたいという層に答えるマニュアル本であり、歴史を学ぶ実用書でもある。
始めるのに遅いということはない!

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(8)

2018-11-14 09:56:36 | 史料

 四ニ六
  明和七年入藥ノ儀ニ付御達
一御家中寺社支配幷町在之醫師共、間二は在中ニ所縁を求、
 村役人抔へ相頼致入藥、或ハ賣子と名を付振賣ニ事寄せ
 在々に致入藥置、夏秋諸作出來候上右之價を受取候族も
 有之様子相聞、不埒之至候、賣藥御免之族迚も所望之者
 へ相應之價を取遣候儀はヵ有之候得共、此方より申談右
 躰之儀堅仕間敷候、勿論俗家二て賣藥御免被置候類も同
 前之事ニ候、以來心得違之者も有之候ハヽ吟味之上被仰
 付之筋も可有之候間、支配内右之類有之面々は夫洩様可
 日申付旨候、以上
   八月

 四二七
  明和七年在中地筒方之儀御達
一知行所之者を地筒ニ申付候上は在人數を離レ候得共、其
 村ニ差置候ニ付、御郡一統之御法を堅相守、御郡代は不
 及申、惣庄屋以下在役人之申付を致違背間敷旨、主人よ
 り稠敷申付候事ニは候處、萬一心得違ニて在方之紡ニ相
 成申候者候ハヽ、主人/\ニ不及案内急度被遂糺明、或
 ハ喧嘩口論之節は百姓同前ニ方申付置、右之次第主人    扌偏に乄=
 /\へ申達、御奉行中えも可申達旨御郡代へも申渡置候
 間、主人/\よりも右之趣地筒之者へ屹ト可被申付候、
 以上
   三月朔日

 四二八
  明和八年日田金相對借之事ニ付御達
一町在之者共、日田表御用助合、穀銀を相對ニ借受返辨相    天領日田
 滞候者間々有之、不届之至候、重キ御用銀之事ニ付、相
 對ニ借受候儀決て不仕、勿論他所之者致借用候節之受人
 ニも立申間敷候、自然心得違之者有之、相對を以致借用
 返辨於相滞は、其身は闕所不及申、其餘は五人組に掛り、
 其上及不足候ハヽ在は村限町は一町限ニ懸取、屹ト返納
 被仰付筈ニ候、以上
   十二月

 四二九
  明和八年公義御儉約御觸
一去寅夏中御領所旱損之國々多、御収納高格別相減、御勝
 手向御入用御不足二相成候二付、當卯年より五ヶ年之間
 格別御儉約被仰出候二付左之通
一諸拝借之儀、所司代幷大坂御城代は勿論、遠國奉行・諸
 小役人等御役被仰付候節は、是迄之通拝借價被仰付候、
 其外萬石以上以下共不依何事拝借相願候共、當卯年より
 五ヶ年之間容易ニ御沙汰ニ被及間敷候、尤去年は諸國一
 統旱損ニ付、銘々儉約を専ラニ可被致候事
  但、公家衆・門跡方其外寺社等、江戸遠國に不限拝借
  之儀、勿論堂社御寄附等も五ヶ年之間御沙汰ニ不被及
  筈ニ候事

 四三〇
  明和八年六月御達
一失火之節、馬上ニて火事場え入込候面々有之、防火等之
 支ニ相成候間、向後消方往來等之障ニ不成儀可被相心得
 旨、寛延元年九月及達置候、然處近來は又々馬上之面々
 多相見候條、彌以先年及達候通相心得候條、觸之面々へ
 も寄々不洩様可致通達旨御用番被申聞候條、左様可有御
 心得候、以上

 四三一
  明和八年
一於御不中末々博奕等敷儀有之、右付ては烏亂躰之者も入
 込申候様子ニ相聞候、依之居屋敷長屋/\之儀は主人よ
 り彌以堅申付價有之候、在宅ニて熊本屋敷え屋敷借躰之
 者迄被差置候面々は、申付居兼候儀も可有之候ニ付、右
 躰之屋敷不審之所ヘハ廻役共入込見届候様、右之通及達
 可申旨御用番被申聞候間、左様御心得、御同役中へ御通
 達、御組々えも御達可被成候、以上
   七月          御奉行中

 四三二
  明和八年十二月御達
再春館之儀、只今迄之所柄ニては不便利之儀も有之候ニ     
 付、今度山崎え所替被仰付、來正月より開講有之筈候事    山崎・再春館の場所
一右開講前、御國中醫者不洩様ニ再春館へ懸名可致候、其    図面最下部に表示有 熊本市中央区通町37
 内掛名難成分も候ハヽ其旨趣書付を以、師役合志杏庵迄       
 可相達事
  但、無據故障ニ付て出席難成分は、是又杏庵迄可相達
  候、委細之儀は出席之上銘々へ右杏庵より直ニ可申聞
  候間、其旨相心得可申候事
一療治方之儀付ても、田中柳庵幷右杏庵より館ニおいて申
 聞候筋も可有之候間、其旨相守可申候事
   十二月         御奉行中

 四三三
  明和八年
一御家中乗馬所持之面々糠藁代之儀、三歳以上之鞍を敷候
 迄ニ被渡下筈ニ候間、乗馬所持之儀達之節々其旨委ク可
 日相達候、右之趣可及達旨候間、此段御組中へも可有御
 達候、以上
   十二月廿三日      御勘定方御奉行中

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■北村甚太郎覚書(十)~(十七)

2018-11-14 06:01:53 | 史料

(十)寄手陳取乃次第人数壱萬五千騎也
一城より西の方にとひとりと云山有高き山なり 城より三拾町余
 有之 是ハ小野木縫殿介陳取那り
(十一)
一同方少後ロ尓より愛宕山有 城より四拾予有之 其山下
 下(重複ヵ)に桂林寺と云禅寺有 小野木縫殿介本陳なり
(十二)
一同方桂林寺より南尓圓浄寺と云大寺有 此邊尓陳取衆
 有 石川備後・谷出羽・川勝右兵衛・藤懸三河守なり
(十三)
一圓浄寺より南尓引出と云在所有 生駒雅楽頭陳取なり
 城より五拾町余有之
(十四)
一城より申酉の方に柳の水と云池有 城より三町七八反有之
 生駒雅楽頭者とも竹把付寄此池を取なり
(十五)
一同方東へより七日市と云う在所有 城より廿七八町程有之
 源仁法印又御使番二頭の陳取なり
(十五ノ二)
一同方東江より九文明と云在所あり 城より三拾四町有之
 木下右衛門・赤松左兵衛陳取なり
(十六)
一夫より東の方若狭海道尓大内と云在所有 其並尓平城の
 古城あり 城より二拾四五町有之 其邊尓小出大和・山崎左馬・
 杦原伯耆・別所豊前陳取那り 其陳と北の方ハ平地
 田地大川なり
(十七)
一北の方阿ごと云在所有 城より三拾町計有之海邊なり
 阿ごととびとり(十)の間ハ入江海手明なり 後尓ハ敵番船を
 付置申なり 竹中源助・早川主馬・毛利勘八・高田川内
 陳取れり 此人々の下知尓て大勢竹把を拵へ東西
 南北手分して責寄申候 城中方角ハ絵圖有之事


               海上番船  左・小出大和  中・毛利勘助  右・高松左兵衛

    田辺城籠城之図     

            西側(図左)上より  
                     長谷川鍋・石川備後・遠藤三河・小野木縫殿介・川勝右兵衛・生駒雅楽・御使者番
              南側(図下)左より
                     谷出羽守・木下右衛門・源仁法印・山崎左馬介・別所備後
              東側(図右)下より
                     赤松左兵衛・杦原伯耆・小出大和・村中源助・早川主馬介・毛利勘助・高田河内



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■回想・細川家のぶどう酒製造

2018-11-13 13:47:32 | 徒然

 ちょうど11年前の今頃、細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーを書いた。そのご数年前に「小倉藩のぶどう酒」の史実をメディアが取り上げるようになり、最近では小倉で「がらみ」を使って葡萄酒の復元がされるという賑わいぶりである。大いに結構なことでる。
私の場合、忠利公の命を受けて製造に携わった上田某が、遠い先祖との関りある人物であったことも興味の一端であった。

今年の春、熊本大学の後藤典子氏の論考「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」が「永青文庫研究・創刊号」に発表され、全く同時期「北九州市立自然史・歴史博物館研究報告・B類 歴史 第15号」に、永尾正剛氏の論文「細川小倉藩の『葡萄酒』製造」が発表された。後者についてはまだ一般には手に入れることが出来ないが、ご無理を申し上げて入手することが出来た。
これにより細川家に於ける葡萄酒造りに関する研究は大方の結果が得られたのだろうと理解している。
それぞれの皆様に深く感謝申し上げる。

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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(7)

2018-11-13 06:39:08 | 史料

 四ニ〇
  明和五年十二月御達
一御銀所より相渡候半銀、缺銀等無之様ニ入念候事ニハ候
 得共、數多の懸分に付少々宛之違も可有之哉、缺銀有之
 候ハヽ封之儘御銀所へ被差出候様兼て相達置候、両替屋
 共へも別帋之通追々及達置候間、封之儘改候ても缺銀之
 有無ハ相分り候事ニ付、以來彌以缺銀有之候ハヽ風之儘
 可被差出候、左候ハヽ御銀所之印ニ不障様ニ其包紙ニ印
 形を加へ可被差出候此段御仲間中へ御通達、御組々へも
 御達可被成候、以上
   十二月         御勘定所御奉行中
 御銀所より相渡候銀子包方之儀左之通
 一銀壹匁より百目迄之間下包無
 一同百目より貮百目迄之間下包漉返紙壹枚          漉返紙→リサイクル紙
 一同貮百目より五百目迄之間右同貮枚
 一同五百目包ハ都て判銀渡
 右之通包方相定、封印之外御銀所受方渡は受方と記シ、
 拂方渡りハ拂方と記、印形を用相渡申候、右之包銀両替
 等付て各手前貮て銀高相改候ハヽ、開封無之内殘數之目
 方を積り、先ツ上目相改、銀高相違有之間敷様子ニ相見
 候ハヽ開封可有之候、萬一餘計過不足有之様子相見候ハ
 ヽ開封無之、其段先々え相断可申候事
 右之通寶暦五年亥正月被相定、各方え可申渡旨御達有之、
 其節廻状を以及達候得共、其後程隔り近年新規之両替商
 賣も有之様子ニ付、猶又右之趣可申渡旨候條、左様可被
 相心得候、以上
   子四月          御銀所
        両替屋中

 四二一
  明和六年正月御達
一地居・旅詰召仕候下々奉公人給銀之儀、寶暦五年相觸置
 候通候處、其後も餘計之増銀申出候奉公人も有之、自然
 と高給にて無之候てハ難召仕程ニ成行候由、依之以來餘
 計之給銀望不仕様、於人置所屹ト申渡せ候筈候條、居續
 奉公人ニても人置所より呼出次第罷出候様ニ可被申付
 候、勿論主人/\よりも其心得有之、餘計之給銀を以被
 抱間敷候、此段可及達旨候間左様御心得、御同役中へ御
 通達、御組々へも可被及御達候、以上
   正月           御奉行中

 四二二
明和六年
一南郷湯谷温泉ニ今度湯小屋建方被成御免候、依之入湯被
 罷成候面々小屋等左之通
 一六疊二間宛二小屋 但、臺所付
  右は御侍中幷寺社附之寺院住居之筈ニ候
   但、一同に大勢被罷越候得は小屋差支候間、二小屋
   之内明ル日限手寄を以、追々湯元之様子承合被罷越
   筈ニ候
 一七疊之間 三小屋
  右は獨禮以下諸役人段迄住居之筈ニ候
   但、右三小屋え打込二居、宿有之筈ニ候、大勢二成
   候ては下々惣小屋へ宿可申儀も、勝手次第
 一七疊敷之間 一小屋
  右は阿蘇宮地坊之寺社方居住之筈候
 一右小屋へ入込候面々は、御侍中・御切米取・右之寺方
  共湯坪壹ヶ所に入湯之筈候間、相互ニ申談有之、多少
  無之様代り合可有入湯事
   但、湯坪之證之儀は銘々より灯申筈
 一入湯之面々、上中下之無差別一廻り壹人前何程と湯錢
  之究有之筈ニ候間、於彼方承合、湯亭ニ可被相渡候、
  尤右湯錢は召連候家來も人數ニ加へ候筈候
   但、湯小屋道具ハ鍋・水田子・行燈等之外無之候間
   其外入用之品は銘々ニ持越、又は湯亭方へ有合之品
   は損銀を以借用有之筈候
 一御侍中其外共、湯元より歸之節人馬雇方之儀、賃銀は
  相對之筈候
 右之通ニ付可被承置、尤湯元見
之役人幷湯亭ニも右之     扌偏に乄=
 趣申付置候、以上
   六月

 四二三
  明和六年焼米被指止候御達
一當秋より焼米拵候儀差止可申旨ニ付一統及達候間、給人
 /\も右之趣被承置、彌以堅被申付候様可相達旨御用番
 被申聞候、此段御仲間中へ御通達、御組々へも御達可被
 成候、以上
   七月           御郡方御奉行中

 四二四
  明和六年秤改之儀に付公儀御觸
一神善四郎秤相用候國々え、善四郎方より役人廻秤改候    秤座
 節、秤數多所持之者も不隠置不殘出し見せ改受候様可被
 致候、尤紛敷秤は取上候筈ニ候、此旨急度可相守者也
   二月
                                                       秤の管理は徳川家康の命により神家が日本全国の秤を管理していたが、家綱の時代
                         に至り、西日本33ヶ国を神家、東日本32ヶ国を守随家が管理することになった。
                         その権利による利益は膨大なものであったと言われる。
                         現代においては現在まで使われてきた㎏の定義が変更される予定であり、来年五月
                         には㎏原器が廃止されることになった。
                         参考:日本キログラム原器紹介

 四二五
  明和七年天草御手當被仰付候二付御達
一天草表萬一唐船漂流之節之為御手當被仰付置候、付ては
 有前之外推量之浮説不致様、末々迄堅可被申付旨先達て
 相達候、然處此間二至末方二ては間違之評判も致候様子
 二相聞、畢竟夫々申付行届不申候故と存候間、彌以先達
 て相達候通堅可申付候、若此以後間違之風説相聞候ハヽ、
 其評判之面々相糺せ申二て可有之候條、此等之趣委敷可
 被申付候、此段觸支配方へも可被相觸候、以上
   三月八日         奉行所

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■北村甚太郎覚書(八)

2018-11-12 09:53:39 | 歴史

  少々お休みが過ぎましたが、引き続きご紹介します。

 (八)七月廿六日北村甚太郎城内ノ人々ニ射撃術を教ユ 又竹束ヲ
    貫被銃丸ヲ工夫セシヿ
一明ル廿六日よりハ何の沙汰もなく竹束尓て付寄昼夜精を
 入申尓付城中少しも無油断鉄炮つるべはなし申候 殊尓夜
 竹把精を出し仕寄申尓も左る火を出し阿やうき所へハ鉄炮を
 打懸申候 関東へ歴々被召連候ゆへ稲富鉄炮の弟子四人ならでハ
 城中尓無之候 大野弥十郎・篠山五右衛門・村野庄助・北村甚太郎
 なり 此外町遠物奈と打候もの無之候 夫尓ついて
 幽齋公より大野宗次・松田中右衛門を以被仰出候ハ城中尓居
 申候鉄炮初心の者共尓ハ能々教へ打せ候へいか様大事なり共
 今度の儀尓候間随分おしへ可申宗北村甚太郎へ被仰付候
 間被申付候の宗申渡され候条奉得其意 城中を走り廻り其大筒尓は薬何程
 等み何丁尓てハ何と見て放候へと打て見せ玉行合点いた
 させ申候 右之様子松山ゴン部・佐方宗佐・同与左衛門・少左衛門
 存生尓て候間御聞可被成候 然とも敵方猛勢尓て夜昼軍役
 尓して夜ハ何間昼は何間寄候へと問積尓仕候と見へ候て
 はや堀際間近く竹把仕寄申候 我等存候間ハ兎角常々の玉

 尓てハ竹束通り申さぬと見へ申候と存 いぬき玉をこしらへ
 分別して杦勘四郎・松田忠右衛門を以 幽齋公被懸御目候へ
 者 殊之外御感被成何連もへ相渡し打せ候へと被仰付候間勘四郎
 忠右衛門玉くすりなれ者渡候様子を遠ひ打せ候へハ其後ハ輙
 く寄事不仕候 此儀松田忠右衛門・竹原庄左衛門なと存生尓て
 候間可被存候 後尓竹束裏尓死人多く有之候て何とも
 不成之由井門龜右衛門被召抱候て物語尓て聞申候 其後
 豊前尓ても度々此物語被仕候 城中尓て赤き装束ハ甚ン
 太郎尓て有之候 又白赤の段々の母衣武者は貴殿龜右衛門尓て
   有之候ひ事候か かたのことく城よりねらひ鉄炮打懸候へとも
 當り不申候と申候へハいや當らぬ尓てもなく候甲の立物又母衣
 の出し母衣尓も少し玉の當りたる跡有之つると語り申
 され候事

 (九)敵ヨリ石火矢を懸候ヿ
一右のことく竹把尓ても寄兼申候故か八月中比まてハ責申事
 も那し 八月中比より東西尓大石火矢を志かけ申候 西の方石
 火矢ハ本町筋中程より松山権兵衛預り申大草矢倉と申
 矢倉尓當て仕懸申候 西は小野木縫殿介大将分尓て
 (前に火)打申候後ハ矢倉越打破申候 東乃方の石火矢ハ二ッ橋と
 云橋の少城の方尓當て仕懸申候 是ハ諸勢替る/\打申候と
 見へ申候 差物かゆるほとを見て城中合点仕用心仕候
 是ハ矢そく矢倉と申候へ當て仕懸申候 數度打申候へとも皆
 越し候て只一ッ中り塀を破幾重尓も打貫後の塀扣柱尓當候ててき
 玉當り申候 其玉■■三百目有之由之事




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■度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(6)

2018-11-12 06:40:20 | 史料

 四一ニ
  明和五年十二月公儀義御達
一文字銀同位を以懸目五匁ニ定り御銀吹立被仰付候間、有
 來丁銀・小玉銀取交可致通用旨、去々酉年相觸候得共、
 以來右五匁銀之儀は銀相場ニ不拘、金一両ニ六拾目替之
 積を以金壹歩ニ銀三枚、金壹両ニ銀拾貮枚之積渡方無滞
 可致通用候
  右之趣國々えも可觸知者也
   十二月

 四一三
  同年四月御達
一御家中之面々、京都・大坂・長崎より自分調之諸荷物
 取越被申節は、右御留守居え加印之證文見届、陸口・湊
 口差通候様元禄十一年及達候處、當時ニ至候てハ區々ニ
 相成候様子相聞候、彌以證文被相添候様、右御留守居/\
 へ及達候、且又江戸より大坂え差廻候自分荷物も同前ニ
 候
一右之外他所より荷物取越被申候節は、荷主より御奉行え
 差出被仕候得は、津口・湊口通り手形を其御番所へ相達
 申筈ニ候
一御領内何方より取越被申候荷物も右同断
   四月

 四一四
  明和五年六月公義御觸
一眞鍮吹方被仰付、通用之儀付て従大目附中様被差廻候御
 書付之趣、御國中不洩様可相觸旨被仰出候間、右御書付
 寫相添候間、被奉得其意觸支配方へも可被相觸候
   六月廿日         奉行所
 世上通用之寫、於銀座眞鍮錢吹方被仰付候ニ付、右眞鍮
 錢壹文ニ付並錢四文之代りに相用ひ、國々至迄無差支様
 可令通用者也
   四月

 四一五
  明和五年公義御觸
一五匁銀之儀、壹枚ニ付目方四分迄之輕重は無構渡方受取
 方共可致通用候
一五匁銀両替屋共多集り金子差支候儀も有之節は、為替相
 勤候両替屋共より御蔵え相納、金子引替候筈ニ候
 右之趣、國々えも可觸知者也
   九月

 四一六
  右同年
一運上梁場・同筌場・瀬張場・縄場・川上用捨間敷、且
 船通明ヶ候儀ニ付御郡代より達有之候事

 四一七
  右同年
一御家中御渡方之節、印紙差出候様ニとの儀付てハ、其時
 々及達申事ニ候、然處當時迄惣銀所へ印鑑無之候付てハ、
 間ニは切手間違も有之様子相聞候間、以來惣銀所え印鑑
 帳仕立置、諸御渡方之節被差出候印紙右印鑑引合、切手
 濟方有之筈ニ候、依之惣銀所へ印紙被差出來候面々、銘
 々より印鑑頭支配方へ差出置候様、尤右以後病死或ハ御
 役替等被仰付候面々、組支配達候とも其時々付答ニは不
 及、代替り其外印形改り候節は其度々頭支配え相達被申、
 頭支配方より惣銀所へ可被相達候、右之趣可及達旨ニ候、
 以上
   九月            御勘定方御奉行中
一明和五年十一月十九日、御役付之面々ハ御役料之見合成
 候付、猶又壹枚か差出旨達有之事

 四一八
  明和五年十二月御達
一御上下之節、南關筋・鶴崎筋其外御滞留御出之節御供之
 面々、且又平日御用ニ付出在之面々於在中止宿之節、木
 賃宿賃今迄存寄次第被相渡候間、不同二有之様子相聞
 候、依之以來左之通
 一主人    木賃宿賃    四分
 一家來一人  右同      三分
   但、何人ニても右之當りを以壹人前三分宛
  右一宿分
 右之通可被相渡旨、尤所ニ見合之野菜類直賣被仕節は入
 用分宿主より差出可申候間、代銀承り早速/\相渡可被
 申候、右之趣は在中へも及達置申候事ニ付、右之通可及
 達旨ニ付、左様ニ御心得候様存候、以上
   十二月         御奉行中

 四一九
  明和五年十二月
一在中より差出候増奉公人給銀之儀、先年増方相成五拾目
 宛相渡來候處、來年よりは拾匁減四拾目宛相渡可申筈ニ
 候、此段可及達旨ニ候、以上
   十二月十三日      御奉行中

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