津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

島田美術館では

2011-03-31 19:30:35 | 熊本

 (財)島田美術館では戦国に鍛えられた用と美 「三斎細川忠興の遺産-越中具足と肥後拵-」が、2011年4月1日(金)ー7月31日(日) 開催されます。

         http://www.shimada-museum.net/event.html

すばらしい展覧会に成りそうです。桜の季節どうぞ足をお運び下さい。

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幽齋公の墓所・南禅寺

2011-03-30 10:05:06 | memo

 昨年幽齋公の没後400年の祭事が、熊本の菩提寺泰勝寺・御祠堂にて執り行われた。
京都における菩提寺・南禅寺の墓所の地は、幽齋公生誕の地だとされる。綿考輯録からそのことについて抜書きする。

【慶長十五年 庚戌 夏之比より、何となく御煩被成候処、八月ニ至り次第に御容体悪しく成、同廿日末の下刻三条車屋町之御屋敷ニ而御逝去、御歳七十七、忠興君・忠利君も御上洛御愁傷甚敷、瑞龍山天平興国南禅寺の天授庵に御葬送 後御廟造営、前豊州太守兵部侍郎二位法院泰勝院殿徹宗玄旨大居士と奉諡】

 綿考輯録は「御遺言にまかせ南禅寺北門前吉田と黒谷の間にて荼毘して、御遺骨を天授庵と豊前小倉に御痤被成由」と記す(一部編集)
【一書、此地則幽齋君御誕生の所ニ而、于今御屋敷跡の石垣等も残り有之候 所之者長岡屋敷と唱候由(中略)乍然此所以前ハ三淵宗薫翁之屋敷にて、則幽齋君御誕生之事所之者申伝(中略)】(p285-286)

【細川幽齋公天授庵の御檀那被為成候由来は、天授庵ハ南禅寺の開山塔にて、寺中第一番の塔頭にて候得共、去頃住持無之及大破候処に、幽齋公被聞召、左候ハヽ御建立候而圭長老を住持に御居、細川永代の御位牌所に可被成由にて三長老肝煎被申、右の首尾相調唯今方丈庫裏門等迄みな/\幽齋公御建立にて候、圭長老は幽齋公御室光寿院殿御甥にて、三長老弟子に被成、万事御取立候、承長老は圭長老弟子にて、俗縁の甥にて候事】(p388)

         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%8E%88%E5%BA%B5
         http://syoindo.noblog.net/blog/r/10262667.html

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大馬印「有の字」

2011-03-29 08:59:07 | 歴史

関ヶ原合戦の図をみると、白地に黒の九曜紋の幟とともに大馬印として白地に「有」の字の四半旗があることにお気付きであろう。
この由来について綿考輯録が記している。(藤孝編p376)

      御指物ハ有吉立言か四半ニ「有」の字の差物を永禄の初比被召上候由
      後ニ忠興君御竜ニ被成候 立言ハ其以後茜の鮹の手をさし立物は黒熊
      毛の天衝の由言伝 以下略

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いま一人の先祖召出しの恩人、清田石見

2011-03-28 11:21:41 | 歴史

 いま一人の先祖召出しの恩人は、清田石見殿である。大坂の陳に於いては功名第一の鑓働きをし、忠興はその働き振りを「鑓つき申候者共、一番ニ七助」をあげ「七助鑓ハさきをつきまげ申候」と称え、後日「御饗応、御褒美被下候」と綿孝輯録は記している。「知行二千五百石・御腰物(直綱)-清田七助(乗栄後号石見)鑓を合高名は無之」と記録に留められた。 

 三齋の江戸や京への上下には、槙嶋云庵(雲庵とも)と共に清田石見がお供している。祖は清田掃部鎮忠、その妻は大友宗麟女ジェスタ(元・一条兼定室)とされる。詳細を知りえないが、ジェスタは長崎で殉教したと伝えられる。父の主計鎮乗・入道寿(素)閑の代に細川家に仕官した。一方石見は、忠興四男立孝・五男興孝の生母圓通院(幾知)の兄(弟?)であり、忠興妹伊也(初・一色義有室、吉田兼治再嫁)の女婿(米田家臣中山宗俊覚書より)という立場もある。石見・幾知の母親は元切支丹信者で勤談跡覧によると、寛永十三年改宗した(転切支丹)とされ、その後の宗門を改める為、詳細な系図が認められ残されている。隠居後の忠興に仕えていたが、寛永三年忠利に附属せしめられた。
「清田七助を殿様ニ御奉公申候へと、三齋様御意ニて、(吉住)半四郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく、三齋様より付遣候事」とある。(日帳五月八日) 又幕府に対し證人を上げるべき家臣・八家の中にもその名を留めているが、誰が證人として江戸へ赴いたかははっきりしない。

 石見の行政官としての顔は伺えないが、戦場を縦横に馳せ巡った猛将の存在は忠利の元でも重きをなしたのであろう。
島原一揆にも出陣したが、流れ矢にあたり負傷した。傷を癒す為の温泉療養を願う資料なども散見される(*細川家文書・御印之物、寛永十八年二月)。 後知行地・菊池に在宅し病死している。

 嫡子外記は病身の故を以って家督は次弟主馬に譲り帰農した。主馬室は沼田延之女・国、二男は沼田延春の養子となった(元春)。石見家は先祖付けによると、主馬乗治--石見弟(寿閑四男)左近右衛門--主馬の子・源左衛門と引き継がれた。

 石見の次弟・与三右衛門は、忠興により細川刑部の目付けを仰せ付けられ、後代々刑部家家臣である。姉・幾知の子・刑部の面倒を見たという事である。

 石見の伯父(父鎮乗兄)五郎太夫は中津や八代に於いて、忠興の側近として働いた。ご子孫のお宅(富合町釈迦堂にある)に「ふるさと生活資料館」が平成十七年開設され、諸資料が公開されている。

 細川宗家、宇土細川家に幾知を通して清田家の血が脈々と生き続けている。

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史談会三月例会

2011-03-27 14:54:40 | 徒然

 今日は「史談会」一ト月お休みをはさんでの久しぶりの例会である。会場は熊本市中央公民館、お隣の白川公園の桜も美しく咲き誇っている。お天気もよく花見客もちらほら、例年に比べるとやはり地震津波・原発被害者の皆さんをおもんばかって、静かな花見である。

 家老・有吉家文書の勉強がまだ続いている。初出の資料だから大変興味深く、藩主周辺での御禮式の様々な有様が事細かに記されており、歴史を覗き見する様などきどき感を味わっている。その他「肥後孝子傳」を現代風に読み直して現代教育に役立たせようと頑張っておられる、80余歳の高本先生(高本紫冥御子孫)の出版原稿のご紹介などに耳を傾ける。

 いろいろな行事が紹介される中、今年の「藩校サミット」は水戸の予定であったが、地震に伴う被害により中止に至ったことなどの報告も有った。
会員関係者には特に深刻な被害に会われた方などは報告も無く、安心するとともに改めて被災者の皆様に安らぎの日が一日も早いことを思わずには居られない。

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先祖召出しの恩人

2011-03-26 17:02:16 | 歴史

 周防で浪人を余儀なくされた我が先祖は、二人の男子が三齋公のお召しにより豊前へ下った、その折肝煎りをいただいたのが清田石見と槙島言庵両人であると我が家の先祖附は記している。兄・長五郎については「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(三)」の元和九年閏八月七日の「御用覚書之帳」に、「磯部長八郎(知行高弐百石)此地罷越居候儀 此中不存候而 何も御小々性衆御目見ニ被罷出候せんさくニ付 しれ申候事」とあった。

その言庵槙島昭光について、綿考輯録は次のように記す。

 (天正元年)七月、義昭公信長との和順破れ宇治槙島に楯籠給ふ 上野清信・飯河山城守等を先として、宗徒三千七百五十余人なり
 槙島城は一色信濃守輝光居城なり 槙島に在城故称槙島氏其子槙島孫六重利この時の城主也 玄蕃頭昭光と申候 後秀吉公・秀頼公につかへ大坂にても無二の士なり 虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之大坂落城已後忍て豊前に来候間忠興君より家康公に御断有て無役の知行千石被下剃髪の名言庵(云庵・雲庵とも)と云 今の槙島多次郎祖なり 槙島家記に槙島玄蕃頭儀幽齋様・三齋様御懇意被思召上候訳ハ、幽齋様公方義昭公江御奉公被遊候時分玄蕃頭ハ将軍家執権職を勤め義昭公今出川の館を修造有し砌、幽齋様御家人と上野清信か家人を論争の事有 其後清信右之儀を鬱憤に含ミ幽齋様御逆心有之旨を讒す 義昭公御信用あり 依而玄蕃頭幽齋様御逆心之旨を諌、しかれ共讒口猶不止と云々 京乱之節幽齋様御家人屏裡にて旗を振、敵を招き御逆心之体と見申由横目言上す
其節玄蕃頭義昭公の御前に居候て幽齋様兼而之御忠誠何事に依て唯今御別心可被遊哉と申上玄蕃頭直に攻口に参御様子見届御別心無御座むねを言上す 其節幽齋様急難御遁れ被遊候よし、右体の訳を三齋様委御存知被成玄蕃頭儀至て御懇意被仰付候 右義昭公御逝去已後太閤様・秀頼様江御奉公仕候 秀頼公御生害以後正覚院と申寺中に浪人仕居候を、三齋様・加藤左馬介殿御両名にて権現様江御免之儀御願被遊、正覚院江三齋様直ニ御出被遊御国江被召寄候旨申伝候 右上野清信其後逆心仕義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙島玄蕃頭両人ニ而討果申候と云々 以下略(綿考輯録・藤孝編p69~70)  

 慶長二年八月廿八日昌山公(足利義昭)薨、六十一歳、秀吉公より其旧臣槙島玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送、霊陽院殿昌山道休大居士一ニ道桂昌山と号せらる。(綿考輯録・藤孝編p189)

 我が先祖のお墓も在る禅定寺に槙島雲庵は眠っている。一説に136歳という。
このような人の肝煎りにより召出しが在ったと事を、私は密かな誇りとしている。

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雑感・一被災者として

2011-03-26 09:54:46 | 徒然

                 再生を願うように、「はなニラ」がまた健気にきれいに咲きました。

 何度も書いたことだが私は昭和28年の熊本大水害で被災した。小学校六年生だった。からくも生き残ったが今でもトラウマとなっている。その後高いところへ高いところへと転居して今に至っている。

 鴨居(床上1.8㍍)まで水が上り、前の道は急流と成り避難が困難になったころ、当時大学生だった従兄弟が駆けつけてくれて、命からがらの脱出を図った。
翌日すっかり水が引くとお向かいの家三軒が流出、我が家といえば家の中はがらんどうに成り、あちこちの木材など流失物が家を覆い、後では襖や障子の立て付けが上のほうで7・8ミリ隙間が開くほどに家が傾いてしまった。その後傾いたままのその家で10数年を過ごした。

 翌日は晴天だったように記憶している。流失したお向かいの家は、見事といっていいほど何もかもが流されていた。昔の家は基礎というものが無かったから。柱の下のいくつかの礎石が残されただけである。
出水(いずみ)町という地名のその場所は、その名前の通り1メートルも掘れば清冽な水が湧き出した。そのお宅の突き井戸の跡からは地上の大惨事を全く知らぬげに、清らかな水がこんこんと湧き出ていた。忘れられない強烈な印象である。

 当時はトイレといえば汲み取り式であり、水は潤沢であり煮炊きは薪がわりの流木が沢山有り、現在の様な不便さは感じられなかった。
小学校の仲間が沢山死んだ。校庭の中央に在る榎木の下で夏休み前の暑い日に、慰霊祭が催うされた。何本もの橋が流失、熊本市内の膨大な量のヘドロは熊本城の堀を埋め、あちこちの低地を埋め立て現在は住宅地になった。お住まいの若い方たちは、そんな歴史もご存じない。熊本城のお堀も旧に復することも無いのだろう。

 東北の被災地で屈託も無く遊んでいる子供達も、この恐ろしい経験は一生忘れられないものになろう。家族を亡くされた方は又一段である。暖かい支援の手が差し伸べられ、その辛さが少しでも和らぐことを心から願わずには居られない。

 自然は無常である。怒りのもって行きようが無い。しかしながら原発の危険性を我々はいやというほど知った。効率のみを追求する現代の生き方を反省しなければいけない。
やがてやってくるであろう東海・南海地震にたいして、今回の災難は教訓と成りうるのだろうか。九州も最近地震が多い。             

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新版・完全 「東海道五十三次」 ガイド

2011-03-25 22:33:04 | 俳句
  新版・完全 「東海道五十三次」 ガイド (講談社+α文庫)
 
          講談社

Webでみる安政の大地震」を書き出したのだが、手元に適当な資料がないといけないなーと思い、これなんぞどうだーという訳で手配。
類似の本がいろいろあるがさて「当り~」となるかどうか・・・

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九州も・・・??

2011-03-25 08:31:20 | 徒然

 今夏九州でも計画停電が実行される気配が見えてきた。九州には長崎の玄海原発(4基)、鹿児島の川内原発(2基)があり、現在点検停止中の原発の再運転を控えるというのである。改めてわれわれも原発の恩恵に浴してきたことを思い知るのである。九州の夏、特に熊本の夏は大変厳しい、冷房が駄目なら扇風機・・・とはいかないのだからこれは地獄だ。
わが身に降りかかるかもしれない事の報道を得て、改めて現在計画停電中の各地の皆様のご苦労を感じるのである。

 原発事故による水の問題や農作物被害は、のちには漁業関係にも被害が及ぶのではないのか、一日も早い終息を願わずにはいられない。被災しなかった各地も色々な行動を控え手詰まり感に満ちている。そろそろ行動を起こし活力を得て、被災地への援助へと動くときではないか。60Hz地域が頑張らなければ成らない。

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長岡の御称号

2011-03-24 22:21:27 | memo

 藤孝が桂川西に領地を得るのは、元亀四年(天正元年)七月のことである。

               今度彼対信長彼抽忠節誠以神妙之至ニ候
               仍而城州之内限桂川西地之事一職申談候
               全領地不可有相違之状如件
                   元亀四
                      七月十日        信長朱印
                         細川兵部大輔殿

 この桂川を限りとする西の地を領地としたときに、この地が旧都にて城州の名所歌枕の地である所から、御称号を長岡と改められた。

【長岡の都は桓武天皇延暦三年に奈良の京を移され十三年に及ひて今の平安京に遷都あり、此所樫木原の南より山崎の北迄南北長き岡山なれは長岡と号るもの歟、捴名を西の岡と云て東之方桂川を限り西は丹波の山に至、南は山崎、北は嵯峨を境とする由、城地は青竜寺村・神足村ハ勿論上野村迄も御郭内にて有之たるとなり】 綿考輯録・藤孝編p72~

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幽齋と麝香の縁は・・

2011-03-24 18:48:57 | memo

 細川幽齋と麝香の結婚の期日ははっきりしないが、この結婚は将軍義晴の命であった。

 沼田家記(綿考輯録・藤孝p5)
      上野介光兼将軍家近習之時分依台命光兼息女幽齋様ニ御嫁娶御座候
      其訳ハ幽齋様御妊胎之時分将軍家より上野介江御内意御頼之趣有之
      奉補育候由依之以後右御嫁娶之台命御座候由云々
      御嫁娶之年月知不申候

 藤孝が誕生の前、沼田光兼が築山弥十郎と共に、将軍義晴から生母の世話役を
 おおせつかったことは、築山家記にも記されている。
      天文二年十二月朔日、船橋宣賢様之御息女御着帯ニ付
      義晴公より沼田上野介と築山弥十郎貞俊御附被成・・・

 

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Webでみる安政の大地震-1

2011-03-23 19:50:00 | 徒然

先の安政の大地震に関するブログを御覧いただき、埼玉県にお住まいの荒木村重のご子孫Dr.A様からメールを頂戴した。かって静岡の蒲原の病院にお勤めで、興味深くお読みいただいたという。そして是に関するコメントやWebをご紹介いただいた。(感謝)

【富士近辺の地震の被害については、『東海道筋大地震大津波大出火』に、「よし原丸やけ 不二川(ふじがわ)水無之歩行成」、また、『東海道地震津波末代噺(はなし)種』には、「富士川 大ぢしんにて川上の山くずれてせき留し故渡し場水なく川原と茂る往来の人歩行(かち)わたり」と書かれています。吉原が火事により丸焼けのような被害を受けたことや駿河トラフに沿う富士川の上流の芝川町の白鳥山(しらとりやま)が崩れて川をせき留めて、富士川を歩いて渡ることができた様子がうかがえます。断層に沿った富士川の西側の蒲原町東蒲原付近では土地が隆起し、「蒲原地震山」とよばれる山が出現したそうです。この地震山について、蒲原の『渡辺利左衛門守亮(もりあき) 嘉永寅年日記』には、「この地震により富士川の西岸が三丈程隆起し富士川の流れが大きく変わり、蒲原側は洪水災害を免れるようになった」ことや、蒲原の人たちはこの地震により恵みを受けたので、「地震さん、地震さん、またおいで」という歌もうたわれたそうです。】

 そしてご紹介いただいたサイトは、ディアナ号が、下田に来航し、第一回目の交渉が行われた翌日(11/4日)に大地震がおきた時の様子である。
    http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00561/contents/0008.htm

 その11月4日荒木慶右衛門の一行は亀山で地震に遭遇している。Webを探して当時の様子を追ってみようと思いついた。(私が得意とするところの他力本願です)

 11/4 亀山→郡山→桑名
    www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=94
    http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kouhou/tektek/000330.html
      
 11/5 名古屋
    http://www.agu.ac.jp/news/file/lib070821.pdf#search='名古屋 安政の大地震'

                            (続く)    
   

   

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細川輝經について

2011-03-22 12:14:19 | 歴史

 忠興の養父とされる細川輝經についてしらべている。昨日図書館に出向き佐田文書の「細川輝經公」をデジカメ撮影をした。(和綴じの原本であるためコピーが出来ない。)これは松井家旧記という文書の抜書きであるらしい。何故松井家文書にこの記述があるのかというと、これは輝經の奥方が松井廣之女・清光院(康之・姉)であることによる。清光院の娘かどうかは判らないが、藤孝の弟・三渕好重に嫁いだ。
このように深い縁戚関係でつながれているのだが、養子関係は現実的には履行されていない。しかしながら忠興は、「私は大外様と申物ニ罷成候而幽齋と別家ニ罷成候 如是段々ニ御座候故三淵系図も又幽齋系図も私為には入不申ニ付一切不存候事」と言い切っている。(齋藤佐渡守宛て寛永十八年十二月廿日御書 抜粋)
 
                        +---藤孝(幽齋)----忠興
                        |
                        +---三渕好重
                             ∥
                        +-----●
                        |
                 細川輝經---+=================忠興
                   ∥
              +--清光院
              |
      松井廣之---+--康之     

 輝經について細川家の資料によると
       四郎、小四郎、中務大輔、陸奥守、大外様衆、従四位下、大外記衆
       将軍義輝ニ仕へ御供衆タリ、薙髪後意齋、卒年不詳、宗賢榮久院トス
       室松井山城守廣之女
 ja.wikipedia.org/wiki/細川輝経

綿考輯録によると幽齋の田邊城籠城のとき、敵に内通の疑いあって後自殺とする。
このことが災いしての事かとも考えられるが、これは慶長五年のことであり上記御書と整合しない。
自殺についてはウィキペディアもこの記事に準じて紹介している。
昨日から綿考輯録を読み返しているが、記載されている頁を見つけ出せないで居る。      

 

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春分の日・桜も開花

2011-03-21 19:22:18 | 徒然

                       これは去年の桜ですけど、こんな感じ
 今日はお彼岸・春分の日、東北の被災地は朝方はまだ寒さが厳しいようだ。一日も早く暖かさが訪れるよう願うばかりである。熊本はといえば時折小雨もあってどんよりした一日、「桜の開花」も報道された。全国的に観光地は閑古鳥状態のようだが、新幹線が全線開通した九州もご多分にもれない。原発の状態も気にかかり、ただただ状況の好転を願うばかりである。

 ベランダに置いたいろんな植物が時を知って芽を出し始めた。去年の夏の厳しさでやられてしまったものも在るが、紫や白のスミレが一輪ずつ花をつけた。
被災地に残った木々も、遅ればせながら美しい緑を取り戻すことだろう。
まちまちが復興の途に付くには、大変厳しい道のりだが、季節が巡って必ず美しい花々が咲き乱れることだろう。亡くなられた方々のご冥福を祈り合掌し、残された皆様のご健勝を祈るばかりである。

        22:30頃震度3の熊本を震源とする地震がありました。思わず立ち上がりました。

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実行されなかったのか?養子の約

2011-03-21 09:02:07 | 歴史

「細川忠興譜」は次のような書き出しで始まる。

細川越中守源忠興ハ藤孝カ嫡男ナリ幼名ヲ熊千代ト穪ス 将軍足利義昭ノ命ニ依テ細川中務大輔 陸奥守 輝経ノ養子トナスへキ約アリ 然レ共父藤孝カ許ニテ成長シ後信長ニ勤仕ス 天正元年七月義昭填島ニ籠城有テ信長ト合戦ノ時輝経モ籠城ノ處填島落城ニテ義昭落魄ノ節輝経モ共二牢浪ノ身トナリシユヘ遂ニ其約ヲ果サス

しかし一昨日のブログ「第八師団北熊本駐屯地・歴史資料館オープン」に記した、「細川家家老有吉家の文物」の展示物の中にあった細川家系図によると、細川輝経と忠興は一本の線でつながれており「養子」であることを示している。有吉様のお話によると、この系図は重賢公まで記されており、細川家により作成され三家老家に同様のものが下されたのではないかとのことであった。

「細川忠興譜」の記述は多いに理解できるところであるが、上記系図にあるような認識が存在したことが見て取れる貴重な資料である。

 細川輝経については、私はあまり知識を持たない。
奥方が松井廣之女(清光院)であること位である。その説明には「忠興養母」とあった。
松井家資料を読み込まねばならない。また熊本県立図書館の「佐田文書-66」に、「細川輝経公」があるらしい。また宮村典太の「吹寄木与勢-巻二」には、大変思わせぶりな表題「三齋公の御遊認候御先祖附」というものがある。この内容がどういうものなのか、確認する必要が在る。いよいよ明日は久しぶりに図書館に出かけようかと考えている。

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