津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■暑中お見舞い申し上げます

2018-07-19 17:18:55 | ご挨拶

      クリックすると新しいウィンドウで開きます                                               毎日新聞2017年8月26日記事から「菊池渓谷」

                                                             暑中お見舞い申し上げます

                           猛暑が続いておりますが、ご無理をなさらぬようお過ごしください。
                  76爺は朝の散歩以降は、ただひたすら家に籠りクーラーの下で過ごしております。
                     読書三昧、古文書三昧で乗り切り、涼しい秋を迎えようと思います。

                            2018年 盛夏    津々堂 敬白

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■井田衍義・寛永年以後 郡中法令 十四(4)

2018-07-19 06:45:53 | ご挨拶

 二一七
   覺
一御蔵納ニ掛り候物ハ何ニても、御代官衆村々え割賦ニて
 可被相調候、同代米、當時/\ニ渡し、重て代米之本切
 手御代官衆より可被調候事
一人馬其外何ニても御郡中より出候物は、惣庄屋手永切之
 割賦は御郡奉行衆より割賦被仕、可被申觸候、惣庄屋出
 合、郡中之出物之割賦仕儀、可為停止事
一御郡中より出可申銀米、幷惣庄屋手永之墨紙筆代米、其
 外何ニても割賦仕、村々より可出米銀、惣庄屋手永限ニ
 何宛之出米何程と書立、御郡奉行衆御吟味之上判形ニて
 御惣庄屋へ可被渡候、其判形之書立之奥ニ、村々之割
 賦惣庄屋より仕申觸、可相調候、然時は御郡奉行判形不
 見届米銀一切出申間敷候、度々村々小庄屋・百姓書付可
 有御取置事
一惣庄屋・小庄屋役高引様之儀、前廉御郡奉行中相談ニ
 て被相定候由ニ候、然とも其定のことく無之所有之由ニ
 候、向後ハ小百姓迄も合點仕候様、庄屋高何程引候との
 帳を、庄屋手永限ニ調、庄屋・百姓之判形を加有御取置
 候事


一竹木之山之儀は、御山奉行・山口捌、惣庄屋は不存候様
 可仕候事
 右前廉より如此旨候得共、在々ヶ様無之所有之由申候間
 申觸候、末々迄承届候様可被仰付候、恐々謹言
   寛永十二年四月廿日        乃 美 主 水
                 河喜多五郎右衛門
                    沖津作大夫
                    瀬戸五兵衛
          御郡奉行中

 二一八
 為御意申觸候、各支配之御郡廻在之時、泊々ニて薪幷乗
 馬之糠・草・藁、其所より出可申候、代銀無ニ取可被申
 候、尤荷物付馬一疋宛賃銀無村継馬被渡下候、則皆共
 り差紙相渡申候、挟箱・笠箱等ハ、日雇夫ニ為持日申筈
 二候、御定之賃銀を遣し雇可被申候、且又其所有合之野
 菜等にても取被申間敷候、相應之直段にて買調可被申
 候、詰御郡の面々自然病中等ニて、宿駕を借日罷通候時
 も可有之哉、御定之賃銀夫を雇可被申候、其砌無支様、
 兼て宿筋致沙汰置可被申候、恐々謹言
   寛永十二年六月十日        乃 美 主 水
                 河喜多五郎右衛門
                    沖津作大夫
                    瀬戸五兵衛
          御郡奉行中

 二一九
 一筆申入候
一御免定候事、土免或は毛上ニて相定、御免請状差上候は、
 御蔵納ハ御郡奉行より相定御物成を書付、判形候て、一
 村切ニ可被相渡候、御給知は定物成を書付、其給人或は
 下代判を仕、庄屋被相渡候得と可被申候、此儀小百姓迄
 承届度可存儀候間、如此ニ候、勿論水損・風損・旱損・
 蟲喰・鹽入・穂枯出來候ハヽ、御蔵納は御郡奉行可相理
 候、熊本へ被申上候ハヽ、則御内檢奉行を被出、毛上相
 應ニ定可被遣候、御給知は其給人有躰ニ定可被申候、前
 廉も被仰付儀ニ候得共、彌下々迄可被申渡候事
一御國中借物、米は三割・銀ハ貮割、此内歩合輕分は相對
 次第之事
一往還の旅人・人馬幷渡舟、風雨・夜中たり共無滞様ニ可
 被申付候
  附、道橋修理不可有油断候事
一御惣庄屋・小庄屋墨紙筆等之代米、所ニより多少有之由
 ニ候、然間疑敷可存候様、員數を定、別紙ニ書出候様可
 仕候事
一御郡役の事、人馬多少、又ハ所ニより指引吟味ニ可被申
 付候事
一御惣庄屋・小庄屋、非分の儀を御百姓ニ申懸候ハヽ、則
 御郡奉行え可申達候、其理を被聞届、正敷可被申付候、
 誰人不寄、理不儘成儀を御百姓ニ申懸仁有之候ハヽ、小
 庄屋・惣庄屋を以、随分理を申、無承引候ハヽ御郡奉行
 所え可申達候、其上於無裁許は、其趣書付を以御奉行所
 え可申上候、勿論御郡奉行・御代官・御内檢奉行被申付
 儀ニ候、御百姓迷惑仕儀有之候ハヽ、是又奉行所え可申
 上候、其理を糺可遣事
 右之條々前廉も被仰出候儀に候間、下々迄堅可申渡候事
   寛永十三年正月十一日    河喜多五郎右衛門
                 椋 梨  半 兵 衛
                 堀 口  勘 兵 衛
                 沖 津  作 大 夫
        御郡奉行中

 二二〇
 一筆申觸候、五月朔日御觸候大庄屋・小庄屋刀脇指差可
 申候、其砌此方よりも相觸候、百姓は脇差迄を差候筈、
 不持者は急度求候て指可申候、若差不申者ハ、小庄屋は
 拾五匁宛の過料、百姓ハ五匁宛か申付旨、急度容易被仕
 尤二候、先日御川狩二被成御出、脇指差不申庄屋被成御
 覧、殊之外御立腹にて候間、十五日より内、悉用意可被
 仕候、為後日候間各名印形・判形候て留所より此方へ差
 返可給候、以上
   寛永十年七月一日         沖津作大夫
                    林 次兵衛

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■井田衍義・寛永年以後 郡中法令 十四(2 )

2018-07-17 07:12:59 | ご挨拶

 二〇八
 急度申觸候
一御浦而ニて田畑之役儀は、其御郡之井手・堤・道普請可
 被申付候、餘之御郡へ参候筈ニてハ無之候事
一夫米・薪米何ニても、出る物は上村同前可被仰付候事
一船にて通し候ハて不成所は、舟加子共召仕可被申候事
 右之外ハ諸役被仰付間敷候、恐々謹言
   寛永十年八月十六日        田中 兵庫
                    宗像清兵衛
                    牧 丞大夫
          御郡奉行中 

 二〇九
   被仰渡候御印之寫
一兵粮を遣し國中を召仕候人足之事、兵粮を遣し候儀、郡
 御奉行加判形、其者/\之手前え慥ニ届候様、加申付候
 事
一我等取候て以來一國豊前ニてのことく、墨・筆・紙・油
 惣庄屋手前其郡より割賦仕候様、又山札ニ至迄申付候日
 限、目録ニ仕候て可申上候、印を可遣候、扨郡役仕様之
 上中下可為存候、毎年如此可申付候、以上
   寛永十年八月十六日        田中 兵庫
                    宗像清兵衛
                    牧 丞大夫
          御郡奉行中

 二一〇
一百姓六ヶ敷無之様ニ可仕候、隙をふさき候様仕間敷事
一百姓走申候事、隣ニ参候て居可申候、此御意少も疑申間
 敷事
一御所務之時無油断様、奉行を堅可申候事
一御百姓彌一人も不召仕候様、可申付候事
一來年より物成口米を納可申由、被仰出候事
一鐵炮札銀ニて、はをりを彌誘置可申候事
一御國中、夫米・薪米迄可被召上候、來年之所務より被召
 上間敷事
一諸御郡河札銀被成御赦免候、其段可申渡候、但託麻郡江
 津之池・玉名郡丸池・川尻御茶屋之前川、此三ヶ所は御
 慰被成所ニて候間、堅留可申事
一御小物成、當年も如去年半分被成御赦免候、彌此以後も
 半分被成御赦免候間、此旨御百姓中へ可被申渡候事
   寛永十年八月十六日        田中 兵庫
                    宗像清兵衛
                    牧 丞大夫
          御郡奉行中

 二一一
   浦而被仰出御肩書寫
一肥後御國中御浦々御加子被召仕候時、水夫ハ河尻え寄夫
 より壹人一日ニ貮人扶持被下、其跡妻子共一日ニ三人扶
 持宛時々ニ可被下候由被仰出候、ヶ様ニ御座候得は、御
 浦痛申儀無御座候、御米渡様は、荒瀬・小林・福田切手  
 ニて浦奉行判を加、水夫勝手之御代官より右之兵粮被下
 候ハヽ、算用は御船頭より仕、切手引合に私手前より御
 算用仕候得は、支申儀無御座候事
一上方より戻船御荷物は、無逗留候ハヽ、何程も可被仰付
 候、御用ニ付て逗留仕候ハヽ、壹人ニ貮人扶持か被仰付
 候、其船ニ有所之外、脇より之分は、日限次第麥之兵粮
 可被仰付候事
一御下向之砌、大阪ニ御國船御用程居不申時は、他國船
 被成御借、登御米御積被成候分は各別之儀ニ御座候間、
 御國之船持共申分無御座候事
一御國之御米登り候時は、今迄届百石ニ拾三石之運賃被下
 候、此後は拾貮石被下、他國船ニ御米無御積様ニ御座候
 得ハ、浦々舟持共辱奉存候通申上候所ニ、申上候ことく
 被仰付、忝奉存候、御國中之船不殘登候へハ、一立ニ四
 萬貮千石餘登申候間、他國船不参候迚も御事闕申儀無御
 座候事
   寛永十一年九月五日        片岡新兵衛
 右之通御印私手前ニ頂戴仕置候間、寫進之候、以上
   九月五日             片岡新兵衛
       右之通候間可被得其意候、以上
          牧 丞大夫殿
          浦手御郡奉行中

 二一二
 急度申觸候、御國中又上方え被参衆、所々ニ留り、薪銭
 不遣候て通り候衆有之由ニ候、何も御組之御侍衆・御鐵
 炮者・各被召仕候下々ニ至迄、此通堅可被申觸候、宿主
 之切手ニて取候て罷通候様可被申付候、恐々謹言
   寛永十一年正月十八日      沢村宇右衛門
                   長 岡  監 物
                   有 吉  頼 母
          御組頭衆中 
                   

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■あと三回のその先

2018-07-13 12:56:17 | ご挨拶

 今ご紹介している藩法集7・熊本藩の「井田衍義・歛法條諭 十二・十三」があと三回で終わりそうである。
よくやったとも思うが、少々疲れたというのが現在の正直な感想である。
悪友にいわせると「ご苦労なこったい」ということになるが、始めた以上途中で投げ出すわけにもいかない。
井田衍義は残り125頁ほど残っている。

             十九  書抜しらへ     郡府舊記   p326     
             二十  垣塚しらへ     郡府舊記   p360     
             廿一  御惣庄屋十ヶ條   縣令條目   p387     
             廿ニ  十四ヶ條      會所定法   p414     
                             了    p451

一日2頁のペースでタイピングすれば二月ほどで終わる計算だが、休憩したい気持ちが勝っている。
休憩したら次をどうするかというのが厄介な問題である。ない頭を振り絞らなければならない。

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■井田衍義・歛法條諭 十二・十三(31)

2018-07-13 07:18:53 | ご挨拶

 一九〇
一諸御郡手永/\より仕出候御損引一紙帳之儀、御徳懸相
 濟次第、帳面達方致延引候儀も有之様子相聞、右之通帳
 面達方及延引候てハ、此元しらへ方甚混雑いたし候間、
 御徳掛濟次第、早々帳面相達候様可有御達候、尤宇土・
 八代ハ相濟候二付、右之外御同役中へ可有御通達候、以上
   九月十四日         御郡間
        内藤儀左衛門殿

 一九一
 〇天明四年閏正月、見圖帳・名寄帳之事ニ付御達之事
一諸御郡村々見圖帳古ヒ損、且又名寄町出入有之付送多取
 扱成兼候ハヽ、御惣庄屋より致吟味調替可申候、左候て
 何村二見圖帳・名寄帳調替願出、則帳面も出來いたし候
 二付、御内檢役被差出、調方被仰付被下候様二と相達候
 上ニて、御内檢役差出しらへ方有之、右御内檢しらへ方
 相濟候ハヽ其段御役所へ相達候上、上内檢被差出一ト通
 り見しらへ候て、印形を用可申候
 右之通上地御内檢へ及達候間、左様御心得、可有其御達
 候、右之趣御同役中へも可有御通達候、以上
   閏正月          御郡間
           當番當り

 一九二
一諸御郡御徳掛相濟候上、早速/\建札引候所も有之様子
 相聞候、以來建札ハ苅上候迄建置候様、御徳懸相濟候て
 も御吟味役打廻致見分候節、坪々毛上見合ニ相成候間、
 左様及達置候様、九月廿八日當番國武十之進へ澤田氏よ
 り申聞有之候事

 一九三
 〇天明五年七月十七日、當番益田慶次え於口之間御奉行
  藪市太郎え、平太左衛門殿より直ニ御申聞有之筈之由
  申聞、書付被相渡左之通
一諸御郡御徳懸之節、御吟味役見分として罷出來候處、去
 々年以來ハ何となく跡見分ニ相成候、畢竟御人足り不申
 故ニ候處、只今之通にてハ肝要之場之見聞届兼候間、當
 秋よりハ右手足不足所へハ御郡横目差出候筈ニ候間、御
 徳懸之法に拘り申儀ハ無之候得共、見聞之儀は不洩様可
 被申談旨、御郡代へ可有通達候、以上
  右書付之趣寄合申談有之候處、見聞之儀ハ不洩様可申
  談と申儀熟談支候處、同役中心得方區々有之、御惣庄
  屋へも委ク申聞、見聞方ハ押除置不申様相心得候様ニ
  との儀と奉存候へ共、又相考候へハ、見聞ニ拘候儀ハ
  従此方夫是と知せ候様ニも相聞、左候へハ甚意味違候
  付、右文意如何相心得可申哉之由、藪氏へ内意を得申
  候處、被致承知、得斗文武解せられ候迄可被申聞由ニ
  て書附受取被申、追て罷出候様申來、則當番益田出か
  た有之候處、藪氏被申聞候ハ、先刻内意之趣被申談候
  所、見聞筋付て彼方より尋候ハヽ有前之趣申聞候様、
  此方より申談知せ候譯ニては無之由被申聞候事
  同役之内三人程罷出可申旨ニ付、内藤儀左衛門・林七
  朗右衛門・益田慶次罷出候處、平太左衛門殿より被仰
  聞候ハ、御免方之儀御郡御吟味役被指出來候處、人數
  少ク手足り不申候へハ、罷出候所も有之、又罷出不申
  所も有之、何となく跡見分相成、左候へハ何方ハ御免
  ゆるみ候なとゝ跡ニて評判も有之候、依之當秋より御
  吟味役被差出、手足り不申所へハ御郡横目をも被指
  出筈、付てハ各受方間違候ては不相成候付、被申聞候
  由、惣躰見聞之御役人引受候て取計候得は善悪共さつ
  はりと有之、何そ御郡代私ハ無之候得とも、跡見分ニ
  ては右之通ゆるみ候なとゝ事申哉、引受候て取計被申
  儀候間、此意味受方違不申様ニ同役中へも委ク申通、
  御惣庄屋へも申聞候様
  天明五年
    七月十七日

 一九四
  前條之趣ニ付申談ニ相成、猶又御惣庄屋中へ書付を以
  申達候趣左之通
   覺
 御免方之儀去々年御仕法被改、當秋よりハ見聞之御役人
 被差出候段、御達之趣ハ追々申達候、損高之分り方下見
 之仕法、至て廉直ニ無之候ては難叶事ニ候、此儀ハ連々
 申達候事ニて改申入候ニハ不及候へ共、御免極方之土臺
 に相成候儀ニて、猶以甲乙無之廉直ニ有之候様、猶以可
 申聞候、右之通廉直有之候ヘハ高割を受可申様無之處、
 村役人幷小百姓共之内以前之氣習を免レ不申所ヘハ、高
 分之節も兎哉角決兼、數日押移候儀有之歟、扨又下見も
 所ニより屹ト改候様子も不相見、不都合之至ニ候、各よ
 り委ク被申聞御法之趣を以夫々被相糺、下方不埒之儀無
 之様別て意を用候様存候、御免極之根元ニて候へハ至て
 不容易事ニ付申達置候、此上ニも下方不直之筋有之候ハ
 ヽ、屹ト被仰付筋も有之候條、前以委ク小百姓共へも可
 被申付候、以上
  天明五年
   七月            御郡代中
        御惣庄屋中

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■清田凉泉院とは

2018-07-12 17:31:41 | ご挨拶

 ある方から清田氏・凉泉院についての問い合わせをいただいた。私のブログでも清田石見・母としてご紹介してきたが、石見を主計と間違えて頓珍漢なご返事をしてしまった。
凉泉院は転び切支丹であり、上妻博之先生が指摘される貴重な資料を持っているのだが、これが行方不明になり、数日にわたり発見に相勤めたが、つい先ほど見つけ出したのが下の図である。
石見とは七助乗栄の事、大坂の陳では一番槍の高名を上げた。細川忠興の妹・伊与(吉田左兵衛督卜部兼治室)の娘を娶っている。
鎮忠の男子二人は先妻(一色氏?)の子で、三人の女子はジェスタの連れ子だとする。
凉泉院とは主計鎮乗・室であり、殉教列福したマグダレナ清田の妹であり、忠興の側室・幾知の母か?
主計鎮乗は実は養子で、実兄の志賀親次(豊後・岡城主)も切支丹で、霊名・ドンパウロ、母親は大友宗麟娘(奈多夫人と先夫・服部右京亮の娘)とされる。これでどうやら清田家の略系図の再修正と相成った。

          清田掃部鎮忠----+--鎮隅
             ‖     | 
        大友宗麟-----ジェスタ    +--五郎大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・直家)
                 |
                 +--マグダレナ(殉教・列福)
                 |         

                 +-------
                     ‖       大坂陳一番槍高名・石見
                   主計鎮乗---------+--七助乗栄(室・忠興妹伊与の娘)・・・・・→(二百石・弥八郎家)
                                   |                    

                               +--与三右衛門(刑部家附)
                               |   
                               +--左近右衛門
                                                
                           +ーーーー幾知(圓通院)      +--立孝・・・・・・→(宇土細川家)
                                                                     ‖ -----------------|
                                                               細川忠興             +--興孝・・・・・・→(細川刑部家)


              

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■井田衍義・歛法條諭 十二・十三(28‐3)

2018-07-10 07:12:38 | ご挨拶

   
 御免方之儀ニ付各内達之趣有之、先達て相達候通ニ候、
 畢竟近年之通ニては歡農之節ニ戻候由ニ付、此所を改可
 申為ニ候處、只御弛メ被下候計之事と在役人を初萬一心
 得違仕、偏ニ上ニもたれ候様にて其儀又風をなし候ハヽ、
 各野教諭も給ニハ行届申間敷候條、不及申事ニ候得共、
 只今之内より御惣庄屋以下村役人共へも委ク可被申聞
 候、天災等ニて不作有前之損引な不及是非儀候處、左は
 無之兎角損引を心懸候様ニ候てハ、豊作之年柄迚も其分
 ハ相劣り候道理ニ候、既ニ村所ニより數十年土免ニ通候
 村々間々有之、又は下見等丁寧ニ仕出候村も有之候ニ付
 此風儀一統ニ行レ候様有之度候、所詮下見帳之儀百姓共
 見積候野帳之儘仕出候得は、徳懸之節入組も何も無之等
 と存候様、精々可被申付候
一徳掛ニ付ては、諸帳面之取扱は委敷無之候ては叶かたき
 候儀、右帳面之仕立様近年八代郡ニて仕立候帳面案、此
 間各も披見有之、存寄無之由ニて何れ之御郡も其通仕立
 候様可被申付候
一苅揚遅々ニおよひ候ては立損も有之事ニ付、徳懸之儀片
 時も早ク相濟、諸事遅滞無之様取計可被申候、依之田方
 及熟候ハヽ御内檢・御惣庄屋共於村々壹歩試舛を入、土
 免ニ合候分ハ勿論通り方ニ相極、損引分ハ下見帳之程々
 ニ應し、御内檢・御小庄屋銘々之存寄を以割を極、双方
 より御郡代へ差出相極候趣下見帳ニ書入、諸候分ハ早速
 苅揚せ、受不申分ハ御法之趣を以可被相極事
  但、先年見積徳懸之節、御内檢・御惣庄屋積を御郡代
  見届之上、願米等有之候得は被相達、其願相濟候上苅
  揚被申付候處、左候ては苅揚及延引候條、今年ハ御内
  檢・御惣庄屋双方之積を被見届、各別之違も無之候ハ
  ヽ御郡代存寄を以被相極、直ニ苅揚等可被申付候、若
  又御小庄屋・御内檢見積各別ニ違候所も候ハヽ、其趣
  被相伺候て極可被申事
   飽田・託麻御惣庄屋伺之付札
  此御ヶ條願米之儀、當時迄ハ餘計之米高ハ不被為叶趣
  に御座候、米高之多少不限願米可被為叶哉、又ハ手永
  内ニて村を引分、御損引願米と積を分申儀支申間敷哉
  奉伺候
   此儀申談ニ成候趣奥ニ記置候、山本・山鹿願米伺之
   所ニ付札用置候同様之事
一土免を受候百姓は、村庄屋へ相答候計にて見合なく苅揚
 候様可被申付候、御内檢畝懸之儀は跡達て極可申事
   飽田・託麻御惣庄屋伺之付札
  此御ヶ條畝懸之儀、當時之御仕法ハ田方一坪/\之畝
  懸を書ならへ、下ヶ名、番付、石前等も一坪/\ニ記
  左候て村一紙仕帳面仕出畝懸を受來申候、然處右之通
  ニてハ村々諸しらへ繁雑之中、帳面仕立手入ニて、坪
  數餘計之村方ハ別て迷惑仕候、依之御百姓一人ニて受
  持居候田畝數は束候て一稜ニ立、村一紙を仕畝懸被仰
  付被下候へハ、帳面仕立手數抜、村々勝手相成申儀ニ
  付、宜敷被仰付被下度奉存候
   此儀御惣庄屋達之通ニて可然由ニ候事
一早田之儀も壹歩内舛を以試、毛上有前極可被申候、御内
 檢へも及其達候事
   飽田・託麻御惣庄屋伺之付札
  此御ヶ條之儀、上地御内檢衆村毎に内舛を入被申候
  御仕法にて御座候哉、御ヶ條私共落兼申候ニ付奉伺候
   但、當時迄ハ村々より下見帳差出候儘にて、上地御
   内檢・私共内舛無ニ御徳懸受來申候、内舛入型被仰
   付候へハ及熟不申内ハ内舛入兼か申候、當時迄半熟
   位ニて下見仕御徳懸相濟申候、右之通ニては只今迄
   之通より先徳延引可仕と奉存候
[付札]「此儀山本・山鹿早田伺之所ニ用置候付紙同様」
一前條ニも申達候通、各より諸事正敷被申付事候得は、例
 抔と申段ニは至り申間敷候處、萬一餘計見下候分割増を
 受不申例願出候節ハ、先是迄之趣を以取計可被申事
一諸事正敷被申付候上は、御内檢被差出ニも不及同るニて
 候得共、向ニ相立候御内檢被仰付置候儀も御法之一ツニ
 て候、此儀不及申於各も其心得とハ存候得共、右之趣を
 以御内檢共へも申聞候ニ付、為念申達置候事、以上
  
六月

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■井田衍義・歛法條諭 十二・十三(28‐2)

2018-07-09 06:59:22 | ご挨拶

 六月廿七日、帳口之同役三人ニ當番相添、御家老間へ罷出
 候様御郡頭衆より被申聞、内藤勘左衛門・中嶋傳九郎・
 内藤儀左衛門・當番小野武次郎四人罷出候處、平太左衛       小野武次郎=細川家記「綿考輯録」編者
 門殿御申聞候は、當秋御免方之仕法先達て一通及達、猶又
 三ヶ條之儀付て覺より被申達候趣も有之、いつれも存寄
 之通相濟候、然處早田御徳懸唐時迄ハ毛上よりもはり上
 候を毛上有前ニ極、扨、籾干減之事等いつれも御免ハ下
 り方ニ可相成ヶ條迄にて候得共、徳懸隙取不申候ヘハ中
 損之憂なく速ニ苅揚、御蔵拂も手はやく、諸作仕付等之手
 廻能、彼是上下之益有之意味合等委ク被申達候、左候へ
 ハ早田も無躰之上り方無之様毛上有前ニ極、若難受合所
 ハためしも可致候、所詮むつかしきハ例之いたし方ニて、
 鬮あたり之坪可然と御郡間よりも申達有之候得共、是ハ
 各不同意之由、左候得は外ニ各別依存も無之ハ、不相應
 成たとへにてハ候得共、於江戸越後屋店なと現銀懸直な
 
と有之候得は、ねきるのまけるのと言事なく、扨其品

 かつて高直ニも無之候、大概如此の心得ニて有前之下見
 ニ成候得はむつかしき事も有之間敷候へ共、左様にハ成
 申間敷か、いかゝ致候て可然候ハんやとの儀相談之様御
 申聞有之候間、勘左衛門より申達候ハ、私共も追々申談
 候趣有之、先達て御郡頭迄内意申達候段申候得共、不被聞
 届との事候間、左候ハヽ一通可申上段申候て、先例しニ
 付て之難澁は餘計之延畝ニて御座候、依之一割二割位ニ
 延之かきりを仕可然歟、又ハ其村之延かね一統しらへを
 も仕置可然抔申談候得共、未熟シ不申、急ニは難調可有
 御座候、毛上無不同見揃候儀ハ相前ニて、重疊委敷入念
 候事勿論ニ候へ共、損高餘計ニ出候事一村ニても五日も
 七日も下見ニ懸り、初日見置候坪後にハ、目かね違候様な
 る儀も有之、纔にても風雨之難等も有之、御内檢之しら
 へ濟、立合見分ニ成候迄之内にハ、彼是を以餘計之坪々少
 も不同不見様4にとの事は、至てかたく決て相成申間敷歟
 と奉存候、然るニ鬮極仕候て萬一見おとしのツボ、又は延
 縮ニ寄候ては甚タ難澁之儀出來仕、不意之御所務抜も有
 之、村方不意之難儀も出來仕、人により及潰申程之者も
 可あり御座候、乍恐一村之御免下り候迚、押撫候ハヽさま
 て上之御損ハ見へ申間敷歟と奉存候へ共、下方様子ニ寄、
 及潰候程之者多候へハ惣市村之勤ニ相成、詰る所は御難
 題ニも相成申候、例しの儀上毛・下毛・毛上不同之坪な
 とハ、私共よりも存寄を加へ申事も御座候得共、畝之延
 縮は竿えお入不申候而は難分候間、いか様ニも心底ニ任せ
 不申、依之以來は先竿を入候て多ク之延縮有之候ハ差留、
 程能坪ニ可申付候、左候へハ下方之例坪も望候儘ニ仕せ
 可申様無之、不都合之儀有之候ハヽ是又夫々申付差替さ
 せ可申候、當時迄は左様之儀強て難申付勢ひ自然と有之
 候へ共、御内檢之仕方廉直ニ有之候へハ、下方之教示も
 随分仕よく御座候、其上にも萬一不直之儀有之候ハヽ、
 先ツ例之儀ハ只今迄のかたちにて相濟可申との儀、内意
 申達置候段申候處、左様之委儀ハ初て承候と有之、受方
 悪くハ見へ不申、左候て御申聞候ハ、猶又書附御渡被有
 筈ニて、被認候前以各へ申入、存寄をも聞しらへ可然と
 の説も有之候得共、左様ニ致候ては此方之意立不申、折
 角相渡し候詮も無之、存寄有之候ハヽ少も無遠慮可申達
 候、此通ニ書附被渡候間、もはや難申達なとゝの儀決て
 無之様、手前ニも徳懸の仕法不案内故、功者之御役人を
 相手ニいたし、タ表之様子繪圖にあらわし、立札等を先
 として地方引合之様子迄漸々致合點候、乍然是迚も耳學
 文ニて各野様に可有之様も無之、此書附も各披見有之候
 ハヽ、相知候事をくとき事之様におかしくも可被存候得
 共、書立見候へハ連續不致候てハ難成、相知候事も書付
 置候、所詮少ニても存寄有之候ハヽいつにても可被申聞
 候、扨、追々被相達候趣をを(ママ)以夫々被仰付候故、猶又委
 敷教示も可有之と存候、其上にも不都合之下見不直之筋
 なと有之候ては、各も恥辱之事ニ候間、とかく厚ク被申
 談候様ニと有之、左之書附御渡し被有候、勘左衛門より
 委細被仰渡趣奉得其意、同役中通達仕、追て御受可申上
 談申達候、右之外ニも御申聞候事も有之、自是も申達候
 へ共、繁雑ニて旦は枝葉のミニ候間、肝要ハ大概右之通
 と覺申候

 

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■安国寺慰霊祭と津軽承昭

2018-07-07 09:08:19 | ご挨拶

細川家と安国寺では、毎年七月六日四つの戦役で亡くなられた方々の慰霊の供養が行われる。
山門を入って左手に四つ戦難供養の碑が祀られている。 

     ■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)
     ■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
     ■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
     ■東国戦死之碑   (戊辰戦争)

此の日は毎年雨に見舞われるようだが、今年はことのほか強い雨の中であった。
今年も細川護光様のご出席のもと、滞りなく挙行された。
毎年ご遺族の出席も減少気味と聞いていたが、今年は少々多かったようにお聞きする。

ハーマン号沈没事件は津軽承昭(細川韶邦異母弟)の要請を受け、細川藩士がハーマン号で向かう途中上総沖で座礁し大勢の人たちが溺死した事件である。
           明治二年一月二日 ハーマン号沈没事件
            官軍塚沖に眠る米国蒸気外輪船「ハーマン号」

全く偶然だが慰霊式の前日、東京で茶道に関するお軸その他を扱って御商売なさって居られるF様から、この月の御品の型禄をお送りいただいた。
そのカタログの中に、津軽承昭公のお軸があった。

       青 松 多 壽 色 (常緑樹である松は常に緑色をしており、それこそが変わらぬめでたい色である。 出典 唐 孟郊)

ハーマン号沈没事件後も細川藩は津軽藩に援護の兵を送っている。五稜郭の戦いは既に終わっており、細川藩士は敵兵の江戸護送に当たった。
実家である細川家藩士に多くの死者をもたらしたハーマン号事件は、承昭にとっては一生の痛恨事であったことだろう。
津軽家の曾孫が常陸宮妃・華子様である。


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■地震御見舞い申し上げます

2018-06-18 15:01:44 | ご挨拶

   大坂北部地震の御見舞いを申し上げます。

 阪神淡路地震の強烈な被害状況は21年たった現在でも、忘れるものではない。
あの時のような被害には至らなかったものの、最悪の状況が脳裏をかすめた方々も多かったであろう。
全国あちこちで地震が多発し、火山の噴火も多くて日本列島は活動の最盛期とさえ思える。
熊本地震の体験からすると、ここ数日は十分注意されることだ。ご安全をお祈り申し上げる。

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■井田衍義・歛法條諭 十二・十三(1)

2018-06-11 06:59:44 | ご挨拶

「井田衍義・歛法式令 十・十一」が終了しましたので、新たに「井田衍義・歛法條諭 十二・十三」をご紹介します。
全68頁、一ト月ばかりかかりそうです。又お付き合い下さい。

 一二六
 〇寶暦二年徳懸之節試例有之、地惣上見込之入札致し置、
  例相濟候上、開封有之候様達之事
一諸御郡田方徳懸之節、見分初ニ試之例有之度候、上地御
 内檢手傳役御惣庄屋迄、銘々見込之割増入札ニ仕、封印
 を以各え相違置、試相濟候上、各尾開封ニて目録に御引
 合有之候ハヽ、不都合之御徳懸も無之、尤何れも勵ニ相
 成、手傳付之者共役功ニも相成可申候間、左様御心得右
 之通可有御沙汰候事
  但、前々より例無之所柄ハ、只今迄之通可有御沙汰候、
  已上
  八月             郡 方

 一二七
 〇同年御徳懸之儀ニ付達之事
   覺
 諸御郡當作毛之儀宜様子相聞候、當時之御勝手向不輕御
 支之儀ハ、委細不及申達、各御存知之通之御様子候、御
 免方之儀付てハ毎歳申達候通之事ニ候、御所務方之儀は
 御勝手向之根元ニて候、御免方宜無之候ては如何様共難
 被押移、御大切之御事ニ候、追々御沙汰之趣付てハ、各
 御油断は有之間敷候得共、別て被入御念、能々御工面候
 て、随分御為宜様御出情(精カ)肝要候、追々御徳懸之節ニ相成
 申儀候間、下見之儀及延引不申様、御内檢役よりせり立
 可申候間、遅滞無之様ニ、未熟ニ相見候ても早々相究、
 くたれ不申内刈揚候儀下方之為ニも相成可申候間、無油
 断相究可申候、見分を受不申候てハ下方落付不申様子有
 之候ハヽ、下見帳早々仕出候様、急度可有御申付候、只
 今之通ニてハ惣躰順能田畑共作方宜キ様子相聞申候付、
 諸御郡共御土免通受除可申と存候、若見へ來り候天災等
 ニて、御損引相成不申候て難叶所柄も有之候ハヽ、随分
 御吟味候て、無間違各御立會上内檢・地内檢役坪ためし
 等入念可被申候、下見之節、毛上不相應ニ見下不申、一
 歩ためしを以有躰ニ仕出、徳を受候様、若坪替畝隠等、
 其外紛敷儀仕候ハヽ被指通間敷段、彌以可有御沙汰候、
 下見帳差急候付てハ、御内檢役之者前以罷出、せり立
 候様及沙汰候、尤下見帳之儀、村々揃候上ニて御徳懸仕
 懸候てハ、向々支成申事ニ付、一村ニても下見出來次
 第、御徳懸け随分せり立伺目録無遅滞可被相達事
一例年申達候通、御徳懸之は節御代官役立會見届、一品限
 取立、随分せり立御蔵入仕候様可有御申付候、かね合ニ 
 かゝわり不申、随分年内餘計相拂候得は、御手賦ニも相
 成、且又下方之為ニも取後ニ相成不申、御算用指支候節 
 ニ至、高利成才覺等ニて償申候ヘハ、御百姓自然と及困
 窮申事ニ候、尤前々如御格、御年貢皆濟不仕内諸勸進村
 方へ入込不申、相對借物等堅相拂不申様可有御申付候事
  但、諸色相拂候代銀、差継を以受取候ても、品ニより
  下方へ行届不申、所ニより候ては、入組致出來申分も
  有之様子ニ相聞、此以後諸色代御年貢差継相濟候趣、
  委細申聞承届、相違無之候との書付、其者共より仕出
  せ、御惣庄屋手前ニ受取、右書付各方へ相達候様御申
  付、夫々御見届候様委敷可有御沙汰候事
一畔苅之儀、馬道・水通之所ハ、御内檢・御惣庄屋見分之
 上畔苅申付、其外ハ堅畔苅不仕様可有御申付候事
一種子籾利米之儀、無間抜取立相納候様、可有御沙汰候事
一御百姓共請持居り田畑之儀、従先祖代々連續仕、又ハ質
 地ニも取持傳居候事ニ付、地味之甲乙、只今改ニハ不
 及事ニ候、然處近年潰百姓之高地、又ハ上高之内を直ニ
 其村方相殘御百姓共分限ニ應シ配當仕、夫々受け持ニ差
 加候儀も有之由ニ候、左様之節、地撫甲乙村中及熟談、
 無片落受付申筈候處、村庄屋頭百姓又ハ小百姓之内ニも
 村役人共之内、由緒有之者共ヘハ地味宜敷畝廣の地方を
 相渡し、左様の手寄無之小百姓共ヘハ悪地を割付候て、
 致迷惑由相聞候、一村御百姓共依怙贔屓なく申談、廉直
 取計可申所、右之通不直之仕形不届之儀ニ候、左様之配
 當有之節ハ、村方随分申談候て、地味之善悪撫合候て割
 合可申候、若相改不申不法之儀有之候ハヽ、小百姓共よ
 り筋々へ可訴出候、御吟味之上急度可被仰付候事
一御免相究候上、各寄り下方へ委細御申渡有之、御免差紙
 も御渡し、御土免通之村々ハ、其村々御土免幾ツニ何分
 と古來より究居候故、小百姓共迄能存居候付、銘々抱高
 ニ應し御免引合、其年之御年貢何程御免ニ懸候、諸出
 米何程と申儀、明白ニ相知レ候事ニ付、自分/\ハ不及
 申、妻子等迄よく合點仕候事候、然共損引ニ相成候節之
 御免ハ、段々高下も有之儀ニ付、小百姓共へ委細不被申
 聞候てハ得斗不存候、村庄屋共之内ニも、其年之御免諸
 出米等、小百姓共へ不洩様申聞、小札等も入念相渡候も
 有之、又大様ニ心得委く不申聞、書附も不相渡、下方よ
 り尋候ても得斗不申聞、自分平頭百姓・帳付共迄存居候
 ヘハ濟候様心得居候者も有之由連々相聞、無筆無算之者
 共、其年之御免身前之上納等呑込不申所より疑をなし、
 何角と申分も出來候様相成事候、畢竟、村庄屋共より委
 細不申聞故之事候、随分明白ニ小百姓共へ申聞候様可有
 御沙汰候、若其年、其村之御免相不存と申者有之候ハヽ
 御吟味之上村庄屋、其外村役人共急度可被仰付候事

        (一二七後半へ つづく)

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■井田衍義・歛法式令ー十・十一(20‐了)

2018-06-10 07:22:15 | ご挨拶

 一二五 つづき
一石詰ニ有躰ニ見申候ハヽ、所ニより御免大分ニ上り可申
 候、御百姓共其様子を前以了簡仕、偏ニ御免上り申儀を
 相心得申候ハヽ、何角と支申儀も可有之候、御免之儀は
 此中より段々如申渡、徳懸有躰究置、其上ニて其所之様
 子萬事吟味仕、御惣庄屋・御内檢衆・各尾郡奉行衆皆共
 立合、讃談仕候上ニて下ヶ申所ハ吟味次第何程ニても下
 ヶ可申候、此様子能々可被申聞候、兎角何之道ニも上下
 共有躰ニ相心得可被申候事
一諸損毛下見何レも石詰ニ仕せ可申候、然共當年は初之儀
 候間、畑方之分ハ如前々位を取遣可申候、夫ニも庄屋・
 百姓能合點仕候て、石詰ニ見可申と申候ハヽ其通可然候、
 田方之分ハ不殘彌石詰ニ見申様可被申付候、見様之様子
 前以書付能合點仕候様、兼々可有沙汰候事
一新地出高畝物等、御百姓働ニて仕立候分ハ、其地之様子
 次第、本方よりハ一割・二割之間徳懸さけ候て、懸可被
 申事
一御百姓之内相煩候歟、何とそ不慮之損を仕候歟、何之道
 ニも當年潰可申と見立候者は、御惣庄屋前以吟味仕置可
 申候、此段去年より申渡候處、其役人之心得ニは手前有
 徳成者計を除置、村中大形書出申様仕候者も有之候、其
 譯ニてハ無之候、是ハ必至度當年潰レ可申と脇よりも見
 立申様成者迄之儀ニ候、ヶ様之者ハ大勢ハ無之筈ニ候、
 此上ニてもむさと書出申分ハ、御惣庄屋不心得ニて候間
 用申間敷候、尤假潰レ申ニ極候共、常々奢を仕耕作も無
 情(精カ)ニ仕候て逼塞之ものハ、曾て構申間敷候、左様之者を
 救ひ申候ヘハ御百姓之風俗悪敷罷成候、此段御惣庄屋中
 能々相心得申候様、左太可被仕候事
一前々御惣庄屋中ハ御免之儀しらへ不申候、當年より御惣
 庄屋御免積をも見可申候間、兼々能々相心得御免積仕候
 様可仕候事
一當春被仰渡候ニ、向後御惣庄屋申候儀を疑申間敷由被仰
 渡候、此段能々相心得可申候、此中之心得は以不吟味ニ
 仕、相違之儀を申候ハヽ可為越度候、能々下を吟味仕、
 有躰ニ可申上候、惣て御惣庄屋中能心懸申様沙汰可被仕
 候事
一御所務方之肝要、根元ハ御土免ニて候、只今迄之御土免
 之究メ様如何と存候儀多く候、假ハ御百姓有付候ヘハ、
 其地不相應之土免を下申候、如此心得悪敷候、土免ハ永
 々御所務之かねニ成申候ニ付、左様ニ仕譯ニてハ無之候
 事
一御百姓有付申候迚、地不相應之土免上置申村、重て御給
 知ニ成り其百姓からけ申候村は、御給知免大分下免可罷
 成候、然は撫ニ被仰付詮無之候事
一御百姓草臥申候とて、其地不相應ニ土免を下ヶ申候時
 ハ、其地御給人渡御百姓仕立申候ハヽ、大分高免ニ可罷
 成候、是も詮無之候事
一御土免は田畑共ニ地吟味之位を能見合、反別相應ニ相極
 申度候、尤御百姓之強弱ニより御土免ニ高下仕事ニは候
 得共、是ハ秋免之事ニて候、假ハ御内檢衆徳懸有躰に相
 極候上歟、又ハゆるみを遣候ても壹分貮分三分之間、其
 様子次第ニ仕申候、御百姓草臥申村ハ五分七歩壹ツ成ニ
 ても下ヶ申事ニ候、秋免ハ如何ニも御百姓之強弱見計無
 之候ては不成事ニ候、御土免ハ此譯ニてハ無之候事
一御百姓有付申候迚、地子不相應之土免を必多度上申候時
 ハ、其村之風俗能かせきを以身上仕立之甲斐も無之候、
 其上後ニハ下免罷成候事
一御百姓草臥申候迚免をむさと下申候ヘハ、反別不相應之
 外下免ニ罷成候付、其村々百姓其地を脇へ米定之出作ニ
 入、相渡米を取、耕作ニ精を入不申由ニ付、彌下見ニ罷
 成候、假此村ハ五ツ之土免ニて反別地位ニは相應仕候得
 共、人畜無之候ニ付田地作り立申事不成と見及申候ハ、
 人畜を入申様ニ仕、村を仕立可申候、其段急ニ不成候ハ
 ヽ土免之極を有躰之面ニ極置、其村之草臥ニ對、格別ニ
 赦免を遣可申事
一右之通御土免之根を極置候ハヽ、後日御知行割有之候て
 も、各別ニ下免之衆も高免之衆も無之筈ニ候、此段肝要
 候事
一新御蔵納之分は、地味反別之様子何も不存事ニ付、前々
 より之如御法度、十年之高免之大格を相極、其内之高下
 ハ御惣庄屋見計次第申上候様ニと申付、御惣庄屋存寄相
 極申候、此段も段々高下可有之と存候、御國中惣くヽ
 り、前々より之御免ニは大分下り居申候、是ハ御國中大
 かたハかしけ申候ニ付、右之通百姓之強弱之了簡にて如
 是と存候、當秋より地内檢衆・御惣庄屋各土免之所ニ能
 心を付、其地相應之御免を能々念を入相究可申候、其上
 ニて皆共了簡ニ引合可申候、是も急ニ成可申様ハ無之候
 得共、皆共も御國中随分心を付可申候得共、第一各心付
 無之候ヘハ不成事ニ候、右存寄之通り書附申候、右之通
 ニ付各存寄候ハヽ、尤可被申聞候、又其所/\ニより此
 格違申所も可有之候、次ニ山奥人多候間御年貢少宛納申
 所なとハ、定免ニ仕心持ニても可有了簡候、惣て御郡之
 儀ハ何方も御郡奉行衆得斗被申談、御惣庄屋・小庄屋其
 末々迄譯を呑込申様ニ可被相心得候、御免方御所務方少
 も下へ隠し可申譯無之候、もし此方之道理あしき事小庄
 屋存寄候て申出候とも、其譯此方へ可被申聞候、然上は
 其外役人衆之儀ハ不及申、能々萬事心を付可被申候、此
 書付御惣庄屋中・御内檢中いつれも寫置候様、沙汰可被
 仕候、尤御郡奉行衆へも可被入御披見候、以上
   延寶八年七月          野田 與兵衛
                   高原小右衛門
                   牧野安右衛門
        御取立奉行衆

 

           (了)

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■侵入者

2018-06-04 20:19:10 | ご挨拶

                        「オケラ」の画像検索結果

 つい先ほど、床になにか落ちているというので奥方が箒ではわき寄せていたら、これが動き出したので大きな声を上げて大騒ぎ・・・
お借りした写真がほぼ原寸の「おけら」だった。なぜ今頃・・どこから入った??? 捕まえて外に逃がしてあげた。
私は奥方が今日買物をしてきた「キャベツ」とか「レタス」とかにくっ付いてきたのではないかと思っているのだが・・・
奥方に言うとみんな捨てかねないから黙っておくことにしよう。

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■井田衍義・歛法式令ー十・十一(5)

2018-05-26 07:59:35 | ご挨拶

 六九
   覺
一諸御郡御免方之儀、近年は毛上見積ニて、徳懸無シニ歩
 下を以御免極被仰付候、然處、右見積之不委所も有之、
 區々ニ有之候てハ所ニ寄御免極不同有之候ニ付、假令歩
 下を以御免相願候共、損方之分ハ徳懸を受候同前ニ下見
 帳仕立、上地御内檢立會見積候籾高之通ニて難受合所
 々、御法之通御徳懸願出候、左候ハヽ、其場より直二
 御徳懸取懸候様被仰付候間、早速御徳懸を受候儀、少も
 支ヶ間敷無之様相心得候様ニとの趣は、去ル辰年一統
 及達置候處、村役人とも下しらへ等委無之、毛上見積之
 帳面粗メニ有之故、御内檢より徳懸を受相極可申段申聞
 候ても、帳面出來不申、又ハ帳面出來居候ても、徳懸ニ
 は難用様子ニ相聞候、御惣庄屋を初村役人共心得違之事
 ニ候、今年も所ニより歩下願出候ハヽ、精々念を入、損
 方ニ出候分ハ田地一坪/\の毛上を下見仕、帳面等仕立
 置、上地御内檢見分之上、右見積を以御免極かたき所々
 ハ、其場より直ニ御徳懸を受候儀、彌以無支様帳面委相
 しらへ候様、下方へ不洩様申付可有之候
  但、見積ニて難決候節ハ、例様之儀ハ先年相極候通被
  仰付候間、例坪等之儀廉直ニ申談候様、是又可被申付
  候、已上
   六月
 御免方之儀ニ付、御中老より御郡代中へ被及御達候書
 附、各へも及達可申旨ニ付、右之通寫差越候間、被仰付
 候趣被得其意、委敷可被申談候、不及申村々毛上委致見
 分、下見帳之突合候て相極可申候、其上ニて下方受不申
 所ハ、直ニ御徳懸支不申候様ニと、精々被仰付置候事ニ
 付、各えも委敷心を付、右躰之所ハ其場より無味ニ徳懸
 ニて相極可被申候、畢竟、歩下之所ハ手數少ク、第一下
 方勝手ニ宜故、歩下を専ニ青心得、最初より是非歩下に
 て相極巧にて、下見等もしかと不仕様子ニ相聞候、去年
 も所ニより下見帳出來不申、其場より徳懸難成由申出候
 所も有之候、利欲ニ迷ひ申候とハ乍申、被仰付候趣忘却
 いたし候次第不届之事ニ候、御役人も其所ニ心付薄く、
 前後近村之見計も無之極方有之候故、立置候同毛同位之
 村々えも甚不同有之様子相聞候間、右之所ニ心を付、歩
 下ニて受不申所ハ、其場より直ニ徳懸ニて相極候様可被
 申談候、委細ハ猶又歸在之上可申入候
  六月廿八日            御郡間

 七〇
 大豆畝之儀、前々より徳懸畝ニて相極來候處、右御仕法
 ニて上納餘分少ク銘々當用支候所より哉、畝方紛敷事も
 有之様子ニ付、近年畝懸ニて上納被仰付候得共、今以前
 格之通風儀不相改所も有之様子ニ相聞、不埒之事ニ候、
 依之、今年より大豆・胡麻共石數を極メ、年々常規上納
 被極置、畝懸をも不被仰付候間、向後色付帳随分入念、
 少も無間違書出可申候、尤大小豆・胡麻作畝付帳各手前
 ニ受取、青葉之内及吟味申筈ニ候、此上ニても自然心得
 違之者も於有之ハ、其者ハ不及申、村役人共急度被仰付
 筋有之候間、小百姓共委申聞せ、後年共違却無之様ニと
 御郡代中へ及達候間、左様相心得被申、畝付帳迄取、青
 葉之内遂吟味可被申候、以上
   寶暦十四年申四月        御郡間
            上地御内檢中

 七一
一私共今日御役所へ罷出申候處、清原藤蔵方より被申聞候
 ハ、惣躰御郡頭衆へ御郡代衆より御用達御座候節、御郡
 間へ被罷出候節、前廉と違申筋御座候付て、去十月御奉
 行衆より御郡代衆ヘハ直ニ被及御達候由、右ニ付上地御
 内檢中、此以後出在出入答ニ御郡間へ罷出申候節ハ、先
 敷居外ニ差扣へ、相伺申候て、御郡頭衆より御挨拶御座
 候上御間へ罷通り、相答申候様ニとの事ニ御座候、此段
 不洩様申通可申旨被申聞候間、左様御心得被成、御一手
 /\御内檢中へも夫々可被仰談候、以上
   明和四年亥五月十三日  市村辨助 宗村諫右衛門
        下益城上地御内檢え

 七二
一各儀在中へ被差出候節、慎方之儀付ては追々被仰付候趣
 有之、拙者共よりも不絶申達候通ニ候、然處、近年漸々
 と慎方疎ニ成行、飯米等も不被相渡候、間ニは此方より
 催促候て酒杯も給被申候様子ニ相聞、甚不埒之至ニ候、
 必多度出在有之候付てハ、厚キ御詮儀を以相極候御渡方
 之外、分限不相應拝借米も被仰付置候處、聊も其譯を忘
 却之躰ニ成行候てハ、奉對上如何被相心得候哉、誠以言
 語道断の様子ニ候、右之通有之候てハ、拙者共も支配も
 届兼、此節別て奉恐入候、尤各内ニも、是迄右躰之儀潔
 白ニ相心得居申族も有之様子ニ候得共、一統風俗之儀成
 行、存寄難被申達面々も可有之哉、此節存寄等も有之候
 ハヽ、銘々封印を以可被相達候、惣て在役人とも心得之
 儀ニ付、連々稠敷及御達候得共、間々行届不申、近年別
 てゆるみ候様子ニて、毎々ニ其御詮議も有之事ニ候、畢
 竟、御手元より被差出候御役人、前段之通心得違有之儀
 を見透候てハ、下方ニ至り可申様も無之候、左候ヘハ      ■扌偏に乄=締
 一分/\之心得違迄ニ不限、在中一統之風俗之害ニ相成、
 至て重キ事ニ候、此等之趣相心得、相互ニ心をも付、屹
 ト可被相改候
 右之段、先ス拙者共より屹ト可申達旨ニ候、萬一、以來
 右躰之趣相心得候ハヽ急度御糺明有之候様、拙者共より
 も可相達候條、此段も可被承置候事
   明和五年子三月
  右之通、御郡頭仁田市郎左衛門殿より三月廿四日書付
  渡口達候ハ、御國中一統ニ被申聞候由、依之差扣之儀
  相達候ヘハ左之通
 昨夕根取中より紙面参、喜三次罷出申候處、牧殿被申聞
 候ハ、頃日被仰渡之趣付て御郡頭より西村殿へ差扣之儀
 被相尋候處、御奉行衆へ被相伺候を御家老衆へ御伺有之
 候處、今度ハ其分ニて被差置候様ニとの儀ニ御座候、此
 段御奉行衆より作左衛門殿へ被申聞候、御郡頭ハ御両人
 ニて御手之届兼候様成儀、大切至極之事ニて御座候、此
 以後ハ右躰之儀有之候ハヽ、御郡頭衆より被差通間敷由
 ニ御座候、此段上地御内檢衆へ不洩様申通候様ニとの儀
 御座候、以上
  子四月八日 藤木・田代下益城地内檢中へ廻状
 

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■長岡五郎左衛門興就という人

2018-05-19 08:17:47 | ご挨拶

 長岡姓であり、幼名は與七郎、実名興就という人物がある。・・・こうくると細川家の一族を思わせる条件がそろっている。
亡くなった石牟礼道子の小説「西南役伝説」にこの人物が登場するが、出自などにはふれていない。
天草の大庄屋長岡五郎左衛門としてである。天草に於いてはこの家系は、細川忠興公の二男・興秋が切腹の命を受けたが逃れて天草に住み着いたと伝えられる。
(私は根拠は全くないが、興秋公のお子達が落ち伸びてこられたのではないかと考えているが如何だろうか)


 さて、享和二年壬戌六月五日、細川藩士斎藤權之助が書残した次の様な文書がある。
     天草郡御領の大庄屋長岡五郎左衛門興道が求めに應じて、其家傳等を聞きしまゝに、書寫しおくものなり。

             肥後高橋司市   齋藤權之助 書判印
             細川興秋朝臣七世孫長岡五郎左衛門
                             源興道謹撰之

 詳細は「細川興秋の子孫について (一)」の「細川同族天草長岡家系譜」をご覧いただきたい。
又、代々の系図は細川興秋の子孫について (二)」「同 (三)」「同(了)でご紹介しているのでご覧いただきたい。

その十一代九世が長岡五郎左衛門興就であり次の様に紹介されている。

     幼名與七郎、興生の嫡子なり。文政初年の生まれ家督を継いで大庄屋たり。性剛
     毅にして任侠あり。弘化二年小前百姓の意を躰して質地請返しの為め敢然江戸へ
     出訴の擧に出でしも、越訴の廉にて長崎奉行へ護送せらる。然も之が口火となり
     かの弘化打毀しの異変勃發するや、吟味の為長崎より富岡の獄へ投じられしが、
     嘉永二年江戸勘定奉行よりの判決にて、乱心の故を以て欫所仰付けられ、親類預
     けとなりて佐伊津村へ蟄居す。明治二年巳巳九月十五日卒。法名、興就院直宗英
     氣居士。
     妻は中村庄屋の別家波多野氏の出、俗彌ヨシ。明治廿二年己丑一月十八日卒。
     法名、戒光院賢室貞良大姉。

さて石牟礼道子著「西南役伝説」では、上記紹介文にもある弘化二年の事件「弘化年度打毀乱妨件」を取り上げ説明している。
上の文章では「乱心」とあるが、石牟礼氏が引用している史料では「発狂の躰」と書かれていて、勘定奉行への越訴後の取り調べが過酷を極めたものと思われる。
天保~弘化~嘉永にいたる天草地方の一揆の結果として、五郎左衛門の行動が讃えられている。

 

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