津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御恵贈御礼「大日本近世史料 細川家史料 二十八」

2023-04-20 11:36:09 | 書籍・読書

                                                         

 東京大学史料編纂所(財務・研究支援チーム)様から、頭書の書籍を御恵贈給わった。誠に有難く、伏して御礼を申し上げる。
地方の、それも一介の市井の歴史好きにすぎない老人にとっては、これに過ぎる名誉はない。
今回の内容は、細川光尚公の公儀御案文(6月15日~9月26日)の533件の書簡が掲載されている。楽しみに拝見させていただく。

すでに、ご恵贈給わった同資料は「24巻」以降これで5冊目となり望外の喜びで、只々感謝申し上げる次第である。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十六年~十八年」を読む

2023-04-20 07:01:12 | 先祖附

忠興文書-慶長十六年
 (二月小倉に幽齋君御墓所建立、瑞雲山泰勝院と被号候)
 (忠興文書-慶長十年 40、三月三日書状」内容以下のこの書状については綿考輯録では慶長十六年のこととしている・・忠興公‐上、p455)
  ・三日兵庫に到着、明日大阪に着、五日秀頼に謁見の予定、六日に出発して吉田(京都)へ)

 45、三月十六日書状
  ・忠利の徒士を本多正純の使いの如くして書状を届けられたい
  ・未だ上洛せざる衆への書状は留守居に預け受取と取る事

 (三月十七日、家康公御入洛、忠興君此比御所労ニ付、忠利君御迎として伏見辺迄御出候・・以下四月十八日書状へ)
 (三月廿七日御譲位、秀頼公御上洛家康公御対面、加藤清正・浅野幸長御供)
 (四月十二日、後水尾院御退位)
 (四月十八日、家康京都御發駕、万病圓を拝領す)

 46、四月十八日書状
  ・秀忠より本多正純をもって「万病圓」を拝領する、夜分であったため御礼を申し上げていない
   山科で正純に遭ったら御礼申し上げてほしい
  ・蜂須賀至鎮(忠利相婿)はいつ来訪されるか時刻を知りたい
 47、 同日  書状
  ・蜂須賀至鎮の御捻拝見、四つ過ぎに御出候様

 48、(四月)廿一日書状
  ・忠興建仁寺に在り、平野長泰・谷衛友に帰国の暇乞い
 
 (五月忠興下國、忠利これに先立ち下國)
 (六月廿四日、加藤清正死去)

 49、七月四日書状
  ・鮎一籠・高麗胡桃一折到来の礼

 50、九月廿日書状
  ・忠興、蜂須賀至鎮より贈与の鷂三つを忠利に預ける 生育を依頼す

 51、十二月六日書状
  ・忠利目を患う
  ・鴨のしろ川狩りの事
  ・十月八日、藤堂高虎が幕命により(加藤清正死去後の)肥後へ下り途中小倉へ立ち寄る

 (この年、長岡主膳信友(織田信雄二男・薮内匠聟・竜王城主・後高長と改名、従四位下侍従)御家を被立退
 (この年、幽齋室光壽院證人として江戸へ御出、長岡右馬介重政は豊前へ帰国)
 
 52、(慶長十六年頃ヵ)十二月七日書状
  ・注文の寝具が到来した、礼状

忠興書状‐慶長十七年

 (正月廿三日、松井康之於小倉卒、63歳)
 53、九月廿五日書状
  ・見舞いに雲雀200到来の礼
  ・一両日中に下國予定(京都在?)

忠興書状‐慶長十八年

 54、(慶長十八年頃ヵ)四月廿四日書状
  ・大学(?)ニ遣候脇差三、一・親父、ニ・惣領、三・舎弟に配分
  ・同上二番目の子息にもわきざし可然候
  ・同上鵜殿氏長の指図次第のこと
  ・土井利勝忠興の為に懇ろのことを満足す

 55、(慶長十八年頃ヵ)五月五日書状
  ・忠利のため伊藤金左衛門上る
  ・巣鷹を所望す
  ・良馬を買いたい、金は鵜殿氏長より借用すべし

  (六月十八日、忠興叔父、大徳寺僧・玉甫紹琮遷化68歳)

 56、十一月六日書状
  ・石川康長の改易は是非もない、小笠原秀政の移封大変結構なること
  ・津田秀政の折紙請取候

 57、十一月廿三日書状
  ・故松井康之代官所豊後速水郡の幕府領の三洋については本多正純と談合済のこと
  ・わなで取り候鶴拝領、見事で一入満足
  ・忠興来廿八日江戸参勤出発のため出船
  ・青鷺取りの隼を送る

  (十二月、耶蘇宗門堅禁止之旨被仰出)

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■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る

2023-04-20 06:59:44 | 古写真

         

 初めて見た風景写真である。こんな時代があったのだ、
熊本市電の草創期、大正11年に計画され大正13年8月1日、幹線(熊本駅前~浄行寺町4.7km)と、途中の水道町から水前寺線(水道町~水前寺2.2km)の二系統が開通した。
その当時、幹線の電車はこの写真の様に坪井川(洗馬川)沿いを通っていたのだ。
   (熊本市交通局のフォトサイトには反対側から撮影した写真が紹介されていた 坪井川長塀通りを走る市電

又、資料 市電の現状と課題等について‐熊本市 というPowerPoint資料があるが、ここに紹介されている大正13年開業当時のルート図は明らかに間違っている。(今と同じ)
私が所蔵する昭和4年当時の地図を見ると、坪井川沿いを走る開業時のルートはなくなり市電は現在のルートに替っている。
何故変えたのか?いつ変わったのか、熊本市交通局のサイトを眺めているが、なかなかはっきりした時期が見いだせない。
わずか数年間の間の貴重な写真であることが判る。
左下の敷地がかっての御厩があった場所、監獄になり昭和期になると熊本市役所のモダンな庁舎と大きな遠景の入り口が特徴的な逓信局庁舎が左右に並んで建てられた。
左側の森はかっての花畑邸、かっては鎮台があった処だ。写真のこの時期、この場所は何に使われていたのだろう?
「く」の字状態の線路は直進し、川沿いは今ではご存知のプロムナードになり、散策の人たちでにぎわっている。

開業時のルート図を知りたい。そしてこのままの状態であった方が良かったのではないかと考えたりしている。

    追記:4月20日13:32  次の記事を見つけ出しました。ただしルート図が見つかりません。
          ●
1923年大正12年)12月15日 - 熊本市役所(二代目)落成(白川公園前から手取本町に移転)
          ●1928年(昭和3年)3月3日 花畑町 - 市役所前間路線変更
          ●「熊本逓信局」の局舎(1928(昭和3)年完成)
    追記:4月23日7:32
            ついにルート図発見 第一期線の工事開始

コメント (5)
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