津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

キンキラキンのがねまさどん

2009-10-31 12:09:45 | 歴史
 熊本の俗謡「キンキラキン」である。
細川家藩士・衣笠十兵衛が作ったとされるが、衣笠家歴代当主の中には名前が見えないところを見ると、二三男の「厄介叔父」かもしれない。

 軽妙なメロディー・リズムに乗せて、軽く「宝暦改革」で締め付けをくう庶民の感情を、鬱憤晴らしに唄っている。

  一、肥後の刀の 下げ緒の長さ 長さバイ ソラ キンキラキン
    まさか違えば 玉襷(たすき)それもそうかい キンキラキン
    (キンキラキンの がねまさどん がねまさどんの 横バイバイ)

  二、おらが稚児さんば こなさば こなせ こなせばい ソラ キンキラキン
    腰の朱鞘は 伊達じゃない それもそうかい キンキラキン
    (キンキラキンの がねまさどん がねまさどんの 横バイバイ)

  三、肥後の熊本 キンキラキンな御法度 御法度バイ ソラキンキラキン
    キンキラキン唄えば 首がない それもそうかい キンキラキン
    (キンキラキンの がねまさどん がねまさどんの 横バイバイ)

【重賢の時代にはやったという肥後民謡「キンキラキン」の一節。キンキラとは錦綺羅で着物の事。当時上下をあげてぜいたくに流れているのを戒するため、大奉行の堀平太左衛門が断固として絹物の使用を禁止したのを風刺したものだ。肥後の刀は緒の長いのが特徴。これはいざという時にタスキにするためだったが、そのころはまったくの飾り用になり、みな派手な絹物を使っていた。重賢時代のきびしい治世を象徴するうたである。】

 補足説明をすると、ご家老堀平太左衛門は背が低く、がに股であったらしい。
歌詞の中の「がねまさ」はがに股をもじったものだろうし、「横バイバイ」とは蟹が横に這う様子を平左衛門の歩き方に重ねて居る。コミカルな調子で、座敷歌として披露されたようだが、平太左衛門殿にとっては迷惑な話である。最近では歌える人もそうはいない。
コメント (2)
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えーも斉・斎

2009-10-31 08:49:11 | 徒然
 熊本弁に「えーもさいさい」という言葉がある。「えーい成るようになれ」という意味のようだが、私は「えーも再々」つまり又やってしまったという意が含まれているように思う。 
 ある正月の事、山東弥源太なる「悪ごろ」が、熊本城内の家老長岡監物の屋敷の注連縄をいたずら心で盗んだが、見つかって追いかけられ「百間石垣」というところに追い詰められ、「えーいもさいさい」とうしろ跳びに飛び降りた。熊本では思いがけないことをすることを「百間石垣うしろ跳び」という。「えーいもさいさい」は掛け声のようなものだ。(とても飛び降りれる高さではないですけど・・)
     www.infobears.ne.jp/athome/fukusuke291/5hyakkenisigaki.htm

 もう何度も幾人かの人にご指摘をいただいたものに、「斉(齊)」「斎(齋)」の使い分けがある。私の完全な間違いもあるし、タイピングの時の変換ミスもある。時折気がつきながら「えーも斉・斎」とばかりに、そのままでやり過ごすという確信犯的行為もある。特に殿様の名前に多い文字だから厄介である・・・
藤孝は幽齋、忠興は三齋斎(齋)、それから斉茲、斉樹、斉護は斉(齊)が正解である。齊(斉) 茲・齊(斉)樹は、徳川家斉より偏諱を賜わってのことのようだが、細川齊(斉)護は祖父・父の諱を使ったということのようだ。

「以後気を付けます・・・・・」
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細川家家臣・木野氏

2009-10-30 12:54:08 | 歴史
 侍の新規召抱えがどのような経緯で行われたのかは、いろいろなケースがあるようだ。
 木野家は召出しから明治維新まで三百石を拝領しているが、その召出しの経緯を詳しく知る資料が残されていて興味深い。
それは木野家初代・左兵衛についてである。

■「大日本近世史料・細川家史料 8-13」は、元和六年三月廿二日忠利が三斎(長舟十右衛門宛)に宛てた書状(抜粋)であるが次のようにある。
   妻吉左(妻木之徳)内々被申候ハ、主女之親類ニ、歳廿計なるもの御座候、吉左衛門肝煎候
   ハてかなハぬ様子共御座候而、只今も吉左衛門所ニ養て被置候、然故御次而も御座候ハゝ、
   何とそ申上、知行弐百石被遣、被成御抱候様ニ仕度候由被申候、され共、我等者加様之儀申
   上たる儀無御座候間、正源院まても談合可仕とまて申候而置申候、如何可有御座候哉事

■又その後の経過として元和六年五月十九日の書状、「大日本近世史料・細川家史料 8-25(抜粋)」がある。          
   先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、被仰下候間、只
   今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上候様にと被申候事。
 

 妻木吉左衛門の、奥方の親類である木野左兵衛を召し抱えて欲しいという要請に対しての、忠利→三斎の書状であるが、左兵衛が三百石を拝領しているところを見ると、三斎の指示があったのだろうか。
 妻木吉左衛門とは「妻木貞(美濃國妻木を領す)の二男。文禄三年家康に初めて目見。慶長十八年五百石、のち千石。正保四年一月廿六日歿。」

 妻木貞徳は「天文十三年(1544)~元和四年(1618)二月十三日。源二郎、伝兵衛。致仕号伝入。いは「貞行」とも。藤右衛門の子。明智光秀の妻の従兄弟という(寛永伝)。美濃妻木村の領主。信長に仕え、馬廻(寛永伝)。本能寺の変後、さいちを子頼忠に譲って隠居。だが、慶長五年(1600)の動乱の時、東軍として西軍の田丸直昌(直息)と戦った(重修譜)。元和四年没、七十五歳という(寛永伝)。」
                       (戦国武将列伝より引用)

 妻木氏はガラシャ夫人の生母の家系である。その故の召出しである。

   
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細川家家臣・臼杵氏

2009-10-30 11:54:49 | 歴史

 大友義鎮(宗麟)に仕えて「豊後三老」と呼ばれた、吉弘鑑理・吉岡長増・臼杵鑑速らの子孫は、石垣原の戦いで大友義統の負け戦に伴い牢人したが、揃って細川家に仕官している。臼杵氏の仕官が何時の頃かはっきりしないが、「於豊前小倉御侍帳」に、臼杵半左衛門(200石)、庄大夫(150石)の名前が見える。又、「寛文四年六月・御侍帳」が初出の源兵衛は、原城武功にて被賞 新知弐百石を得ている。(綿考輯録・巻五十) 息・杢之介の消息が、(1)御詰衆・一番奥村安左衛門組 金右衛門組 二百石(御侍帳・元禄五年比カ)(2)三百石 御鉄炮三十丁頭 屋敷・京町 と見えるが、以降どうなったのか資料が見当たらない。
   
           ja.wikipedia.org/wiki/臼杵氏
           www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_usuki.html
           www.e-obs.com/heo/heodata/n59.htm
           http://www.e-obs.com/heo/heodata/n63.htm

 有禄士族基本帳には、臼杵彦九郎・蟠蔵・慎真・朝光・清太郎・勝太等の名前が見えている。
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ジオパーク ってご存知ですか

2009-10-29 17:49:46 | 熊本
 熊本の「阿蘇地域」及び「天草市御所浦地域」が、ジオパークに認定された。聞きなれない言葉だが、日本地質学界のサイトによると、「科学的に見て特別に重要で貴重な、あるいは美しい地質遺産を複数含む一種の自然公園」とある。
        http://www.geosociety.jp/geopark/geopark.htm
        www.geopark.jp

 阿蘇はなんと言っても雄大なカルデラだが、御所浦は恐竜の化石が次々に発見される「恐竜の島」である。それぞれ「阿蘇くじゅう国立公園」、「雲仙天草国立公園」に入っている訳だが、阿蘇市・天草市は今回の指定を大喜びしている。
        www.env.go.jp/park

 雲仙の普賢岳は世界のジオパークに指定されているが、これも「雲仙天草国立公園」に含まれており、観光面での連携が求められよう。二つの国立公園を有する熊本だが、観光集客のでは今ひとつ力がない感じ・・さてどう展開していくのか、楽しみではある。
       阿蘇・くじゅう www.npaj.or.jp/parks/np/aso.html
       雲仙・天草  www.npaj.or.jp/parks/np/unzen.html
       御所浦    www5.ocn.ne.jp/~g-museum
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明和九年--行人坂の火事

2009-10-29 10:40:38 | 歴史
 昨日のブログ「安永二年重賢公御参勤」で一部修正をした。八日に白金邸に着き、翌日老中宅を挨拶廻りした重賢公は竜口邸に入られたものと思っていたら、安永元年の行人坂を火元とする火事で竜口邸は類焼しており、この時期まだ完成をしていなかった。細川家においては、白金が燃えなかったのは幸いであった。

 この火事は「明和九年」の火事として紹介されることが多いが、実はこの火事をきっかけとして改元されている。江戸庶民は「明和九年」を「めいわく とし」と呼んで嫌ったらしい。この火事は江戸三代火事に上げられるが、三日にわたり燃えつづけたという。目黒行人坂の大円寺が火元だされるが、大円寺の隣には細川家の大崎御屋敷があり、少し離れて白金邸があり、又細川山城守屋敷も近い。江戸の1/3が燃え、大名屋敷168軒が焼失したとされる。
       orange.zero.jp/kkubota.bird/gyouninzaka.htm
       ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
 
江戸防災博物館のサイトの「目黒行人坂火事絵」37葉は、大変興味深い。
       bousaihaku.com/cgi-bin/...?ac1=R204&ac2=R20403&ac3=1791&Page=hpd_view

 細川家竜口邸が完成し、引越しが行われたのは安永二年十一月だという。
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菊池雄星くんの御先祖

2009-10-28 15:37:22 | 熊本
 今年のドラフトの目玉、花巻東高の菊池雄星君は、ご先祖をたどれば菊池一族の後胤であることは間違いなかろうと、密かに思っている。いわゆる陸奥菊池氏の一族であろう。家紋はどちらだろうかと考えたりしている。
           ja.wikipedia.org/wiki/菊池氏
 地元菊池市はどう思っているか知らないが、これは応援しなければまずいだろう。まずは菊池神社の御守りを贈って、怪我などしないように祈らなければならない。イチロー並みの大スターになって欲しいものだ。まずは日本の野球界に身を置くことを決意したこと、何所のチームでも良いという潔さがなんとも嬉しいではないか。そして名前が「雄星」とは、まさにスターに成ることが約束されているようなものだ。ドラフトが楽しみである。

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安永二年重賢公御参勤

2009-10-28 13:51:30 | 歴史
 安永二年重賢公は参勤の年である。発駕は二月廿七日、鶴崎着は三月朔日、海路はあいにく悪天候に見舞われ都合九日ほど足止めを余儀なくされている。四月八日白金邸に御入、旅程41日の長い旅であった。

■二月廿七日 五時熊本御発駕 八時大津御着 (御放鷹)
■同  廿八日 五時大津御発駕 的石御休-(御放鷹) 七半時内牧着
■同  廿九日 五時内牧御発駕 坂梨御休-(御放鷹) 夜五時半久住着
■同 晦日  五時久住御発駕 七半野津原着
■閏三月朔日 五時野津原御発駕 九半鶴崎御茶屋着 (御放鷹)
■同   二日 夕七半被遊御乗船
■同   三日 五半鶴崎御出帆 九半豊州深江御船繋 行程五里
■同   四日~十日 風悪敷御滞船 (七日・九日木下左衛門様御茶屋江被為入)
■同  十一日 暁八時深江御出帆 七時半竹田津御船繋 行程十七里
■同  十二日~十三日 疾風雨御滞船
■同  十四日 四時半竹田津御出帆 暮前防州上ノ関御船繋 舟行十五里
■同  十五日 九時上ノ関御出船 暮前加室御船繋 舟行七里
         bun.dokidoki.ne.jp/users/jr5epq/mikame/simodomari2.html
■同  十六日 六半加室御出船 夜四時芸州御手洗御舟繋 海上十九里
         www.yutaka-kanko.jp/mitarai.html 
■同  十七日 六半御手洗御出船 夜五時過備後白石御舟繋 海上十八里
         www.pref.okayama.jp/kikaku/chishin/ritou/16shiraishijima/index.html
■同  十八日 六半白石御出船 平島ニ暫汐繋 暮時分備前牛窓御舟繋 海上十七里
         www.ushimado.info
■同  十九日 八半牛窓御出帆 昼八時播州御着船 御本陣名村左大夫所着
                                       細川家家臣:播州室津御宿100石
         kobe-mari.maxs.jp/tatsuno/murotsu.htm
■同  廿日  五時室御発駕(これより陸路)御昼休・姫路 暮前・加子川
         kaidoaruki.com/area_chugoku/sanyodo/sanyoudo03.html
■同  廿一日 五時半加子川御発駕 御昼休・大蔵台 七半兵庫着
■同  廿二日 六時兵庫御発駕 西宮御休 七時大坂着
■同  廿三日 (御家中・諸町人御礼等例之通)今晩淀川船ニ被遊御乗船
■同  廿四日 夕八半伏見御着船 (京都・伏見詰之御礼被為受・・その他)
■同  廿五日 六時伏見御発駕 京都御会所へ被為入(諸用)四半御立
          御休・大津 御宿・守山 十一里
         ja.wikipedia.org/wiki/守山宿
         n-minoji.hp.infoseek.co.jp/moriyama.htm
■同  廿六日 六半守山御発駕 武佐御休 暮前醒井御止宿
         n-minoji.hp.infoseek.co.jp/musa.htm
         www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phsamegai1.html
■同  廿七日 五時醒井御発駕 今須御休 七前墨俣御止宿
■同  廿八日 五時墨俣御発駕 清須御休 七半宮御止宿
■同  廿九日 六時宮御発駕 御昼休大濱 暮比御油着 十ニり半丁
■四月朔日   六半御油御発駕 荒井御休 七半浜松着 十一里余
■同   二日 五時浜松御発駕 見付御休 七半過日坂着 十り余 
■同   三日 五時日坂御発駕 嶋田御休 七時過丸子着 八里半十六丁(大井川越)
■同   四日 五時(丸子)御発駕 江尻御休 七時蒲原御止宿 (安倍川越)
■同   五日 五時蒲原御発駕 御休吉原 八半三島着
■同   六日 六時前三島御発駕 箱根御休 暮過大磯御止宿
■同   七日 五時大磯御発駕 藤沢御休 五半河崎御止宿
■同   八日 五時河崎御発駕 四半過白金御屋舗ニ御着 (御老中様方御廻勤)


     中仙道 http://n-minoji.hp.infoseek.co.jp/index.html
     東海道 ja.wikipedia.org/wiki/東海道五十三次

10/28一部訂正:安永元年二月廿九日竜口邸は、目黒行人坂より出火した火災により類焼。
     完成は安政二年十一月であり、白金邸に入られた。



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細川家家臣・竹田津氏

2009-10-28 10:42:22 | 歴史
 
 細川公が参勤の際、豊前の竹田津から出航されることがある。防州の上の関まで舟行十五里とある。記録には「帆或押舟」等の文字がみえ、海路の旅も数隻の舟が取り巻きながら、押したり曳いたりしての事で在ったようだ。

 主題からいささか脱線したが、この竹田津に在ったのが竹田津氏である。
大友氏の没落後、豊前に在った人たちが多く細川家に仕えた。
竹田津氏もその一人である。詳細はサイト「武家家伝」に詳しい。
              www2.harimaya.com/sengoku/html/takedatu.html
「肥陽諸士鑑」には次の記録がある。
    1代、野添弥五右衛門
    2代、竹田津儀右衛門(後・忠助)
    3代、    次左衛門(養子)百五十石 
                   御馬方馬医・御馬方支配 屋敷・内坪井

 これ以降の記録がなく、絶家したのであろうか。

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永蟄居--有吉大膳(立邑)殿

2009-10-27 17:33:50 | 歴史
 細川重賢と堀平太左衛門により、宝暦の改革が成されている最中、誠に不幸な事件がきた。
「家老有吉大膳といふあり、堀平太左衛門と意見を異にし、其の國政を談ずるに、毎に論破せられて、不平禁ずるに能ず、遂に憂鬱食を絶するに至る。是に於てその臣某、為に謀りて、公(細川重賢)と平太左衛門とを呪咀し、事露顕せしが、公の寛洪なる、有吉は累代の功臣たるの故を以て、特に宥恕して、大膳を幽居せしめ、其の臣某等を死に處せられしのみなりき」

 三卿たる家老が藩主を呪咀するというのは前代未聞の事件である。どうも大膳殿はノイローゼ状態であったのだろう。宝暦十二年のこととされるから、27歳位の年齢であったろうと思われる。跡式は弟立喜が継ぎ、それ以降は夫々の子供達が交互に跡を継いだ。

 寛政八年の大水害の時には大膳六十八歳、「有吉大膳殿兼て竹部屋敷の茶屋に蟄居にて御座候処、彼辺一入水深く候故、上屋敷より早速迎えとして船を被差越候。彼家に古より相伝にて一駄船と云物あり。急に取出し取組被差越由。(中略)此節も数艘取立て、大勢の家中を無難に取救被成候よし。世以て大に美談せり。扨付々の女童迄も是に取乗りこぎ退候処、坪井内は一入水勢強く候故、坪井広町の様に乗廻り被申候を、小原屋見受候て、水勢甚敷危く候間、是非粗宅の二階に被滞候様留め申候に付、其旨に任せ、翌朝に至り、上屋敷に着致候由」とある。このような時には流石に蟄居も一時解除という事になるらしい。四年後の寛政十一年死去した。七十一歳。
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引越し

2009-10-27 12:32:35 | 歴史
 あるサイトを見ていたら、我がサイトが「間違っている」との指摘があった。元・長曽我部氏の「町氏」についてである。当サイトの侍帳は川口恭子先生の「細川家家臣略歴」をベースにしているし、遡ると永青文庫の「先祖附」の編集に準じておられる。
長曽我部氏の「ちょう」を「町」とするようとの仰せで「町氏」を称したとされるが、「まち氏」と読むことは充分承知している。典拠を重視してきたが、しかし人様から間違っているといわれると片腹痛い。ならばと「ち」の項から「ま」の項に引越しすることにした。
 引越しの跡、少し大人気なかったかな~と、いささか反省である。
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寛政八~九年揺台院様

2009-10-26 19:27:40 | 歴史
 揺台院とは細川治年室・埴姫である。治年亡き後(天明七年)は、揺台院の実弟立礼が宗家を相続(斎茲)した。揺台院はその後、二本木御邸で生活したらしい。そして斎茲の二男煕吉を預かっている。煕吉は寛政二年の生まれだが、生母の芳澤氏が翌年に亡くなっている。そんなこともあっての事かと思われる。

 寛政八年熊本は未曾有の大水害に見舞われている。(昭和28年の大水害よりひどいのかもしれない)揺台院と煕吉が住まいする二本木御邸の消息が分からないため、游泳に巧みな加来衛門七が命じられて、泳ぎだしその安否を尋ねられた。彼は二本木御邸の無事を確認すると、高橋まで泳ぎ下り救助の為の舟の手配をすると、濁流の中を泳ぎ帰ったという。(往復10キロ程か)

 その翌年煕吉が亡くなっている(七歳)。若くして治年と死別した揺台院は、煕吉を我が子の如く育んだものと思われ、その死は大きな衝撃であったと思われる。七年後の享和三年、揺台院もこの二本木御邸でなくなった。(四十九歳)
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百石取一ヶ年暮方大数見積

2009-10-26 08:01:07 | 歴史
以下は文化11年(1814)6月における、百石取の家庭に於ける一年分の家計見積もりである。
この時期、藩財政は最悪の状態にあり、四百石取が六十九石余が四十三石に、三百石で五十四石余が三十五石に、二百石で三拾六石が二十三石に、百石で二十七石が十八石に減額された。主食は米と粟が半々であることがわかる。

(一)弐人・隠居夫婦、(一)弐人・自身夫妻、(一)三人・子供、(一)壱人・小者、合八人。
右之人数にして、一ヶ年暮方見積左之通。
(一)米七石壱斗、八人分粮米一之年分拾四石二斗之内、半方粟にて取続申にして残分。
(一)銭四百四拾八匁、右半方分粟弐拾八俵代。(一)米七斗五升、味噌・醤油用大豆三俵代。
(一)銭四拾八匁、右同麦三俵代。(一)銭弐拾目、塩置物・漬物用之塩四俵代。
(一)銭四拾八匁、燈油一ヶ月壱升宛にして一ヶ年分。(一)銭弐百六十目、万小遣、一ヶ月
弐拾目宛にして。(一)銭拾五匁、漬物大根代。
(一)銭弐拾五匁、焼炭一ヶ年七俵にして代銭。(一)銭五拾目、一ヶ年薪代山薪残買入候分。
(一)銭百五拾目、暮仕廻・医師・師家付届、其外万払方分。(一)銭四十目、増奉公人給銀。
(一)銭五拾目、臨時之手当。
合米七石八斗五升、銭壱貫百五拾目、此米拾三石弐斗三升米、合弐拾壱石八斗

百石取一ヶ年分入方見込
付箋
「此節しらべ帳面減候所にて、(一)米十八石、百石取十人扶持宛手取可相成分。本行差引、
米三石八升不足、此銭弐百六十目余。此分一躰之所猶省略を以取賄可申哉」
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嘉永七年相州陣屋へ指越候惣人数附 -- Ⅰ

2009-10-25 16:48:33 | memo
  御人数之儀、最前御届ニ茂可相成哉之模様ニ付、御役所打合、同書ニ而、左之通しらへ立ニ相成、嘉永七年三月廿八日被指越候、其後追々御国より被指下、段々打替、当時本文之通相成候、見合之為配置、相州御陣屋江指越候惣人数附

       長岡監物(是容) 天保三年家督・米田家10代 家老職・大組預 嘉永六年二月軍備総師として浦賀出張 42歳
      嫡子
       米田壱岐(是豪) 米田家11代
      二男
       米田小源太(是保) 米田家12代
           従者三百三拾弐人
      御備頭
       三渕志津馬(澄潔)
           従者百拾四人
      御番頭
       長岡詮太郎 刑部家別家(初代・興恒)五代 上着座同列・番頭
           従者拾弐人
       松山権兵衛
           従者拾人
      着座
       木下伊織
           従者弐拾九人
       沼田勘解由(延裕) 沼田家10代 嘉永六年家督
           従者八拾壱人
      御鉄炮頭
       田中亀之助
           従者六人
       藪 助作
           従者五人
       野田弥三左衛門
           従者六人
       増田十郎左衛門
           従者七人
       上月十郎右衛門
           従者五人
       松本甚十郎
           従者五人
      御鉄炮副頭
       林九八郎
           従者七人
       尾藤貞右衛門
           従者七人
       小篠彦右衛門
           従者五人
      御物奉行
       横山藤七
           従者六人
      大組附
       生源寺市兵衛
           従者四人
       後藤尉右衛門
           従者五人
       木村十左衛門
           従者五人
       鎌田軍之助
           従者七人
       村川作蔵
           従者五人
       松見太郎八 父・卓右衛門名代
           従者壱人
      御番方組脇
       野田一之助
           従者四人
       横田治部右衛門
           従者四人
       上田源十郎
           従者四人
       岩佐俊助
           従者四人
      松山権兵衛組・御番方
       三拾九人
           従者九拾六人
      長岡詮太郎組・御番方
       四拾弐人
           従者九拾八人
      御番頭已下、御番方迄之子弟
       七拾四人
      炮術師役
       志賀何右衛門
           従者弐人
       財津勝之助
           従者弐人
       池邊次郎助
           従者壱人
       池部弥一郎
           従者壱人
       大島久平
           従者壱人
      志賀何右衛門門弟・大筒打方
       士席三拾六人
       独礼以下四人
           右従者四十壱人
      財津勝之助門弟・右同
       士席三拾人
       独礼以下拾壱人
           右従者三拾八人
      池部次郎助門弟・右同
       士席弐拾七人
       諸役人段壱人
       足軽段弐拾人
           右従者弐拾九人

      池部弥一郎門弟・右同
       士席三拾壱人
       独礼以下八人
           右従者三拾八人
      大島九平門弟・大筒打方
       士席三拾壱人
       独礼以下九人
           右従者三拾三人
      貝太鼓役
       諸役人段五人
       足軽頭段七人
      足軽外様
       百四拾四人
      御奉行
       荒木甚四郎
       荒木牛之助甚四郎・嫡子
          右従者五人
      御役所根取
       両角権助
          従者壱人
      御役所御物書
       弐人
          従者壱人
      札方外様足軽
       使弐人
      小使・右同
       三人
      下使百人者
       弐人
      御目附
       小川次郎助
          従者弐人
      御目附御横目
       弐人
          従者弐人
      御留守居助勤
       青地源右衛門
          従者五人

         
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憂世と浮世

2009-10-25 12:01:37 | 書籍・読書
 NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」というなかなか面白い番組だが、太田光なるタレントががなりたてるのが気に入らない。しかし頭の回転のよさには敬服して拝見している。10月20日のゲストは河竹登志夫氏、能や歌舞伎のお話しがあり聞き入ってしまった。             
          http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20091020.html
 その中に「能は憂世、歌舞伎は浮世」というお話しになるほどと思った。

 もしやと思いぐぐって見ると、「憂世と浮世 : 世阿弥から黙阿弥へ」という著作が在ることを知った。早速「日本の古本屋」のお世話になり注文する。昨日は鑑能に出かけよい時間を過したが、少し勉強をしようと思ってのことである。

  【憂世と浮世 : 世阿弥から黙阿弥へ 河竹登志夫著】
       日本放送出版協会 (NHKブックス ; 712)
【内容】
本書は、華麗な様式美の根底にある普遍的な人間のドラマ、科白と音楽と舞踊によって成る“総合芸術”の世界を、演劇論の碩学が、東西の作品の比較分析から解き明かす。
これは、日本人の“心”を綴り、“究極の美”を語り尽くすものである。

序章 日本の演劇伝統とドラマ
その1 憂世の悲劇—天上希求の世界〈世阿弥〉
その2 人間ドラマの成立—地上界の劇性〈狂言と近松〉
その3 愛別離苦の劇的展開—諒解の悲劇〈浄瑠璃全盛〉
その4 浮世の芝居—歌舞伎バロックの世界〈南北と黙阿弥〉
終章 究極の美境
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