宝暦の改革に際しては、財政面で大阪の鴻池が堀平太左衛門の直接の懇願にもかかわらず、細川藩の用達を辞退した。
その折家業の飛躍を志していた、長田屋作兵衛なる人物が名乗り出て救世主となった。一時の急を救われるとともに、細川家の
米銭の取り扱いを一身に受けて尽力した。
その後、「世減の規矩」や「地引合せ」などの積極的施策により、財政的のも好転の兆しに向かった。
世減の規矩に於いては新知の士の家禄が大幅に削減された。地引合せはいわゆる検知である。農民のささやかな開墾などが隠田
として摘発された。この改革は旧知の人々は家禄の削減を免れているが、これは反対の声が上がるのを抑える為でもあったろう。
忠利公が定めた「世録制」が崩壊の形となったが、綱利公の放漫な金遣いが大いに影響している。
その後のなすすべもなく宝暦の時代に入り、重賢公による大ナタが振り下ろされた。
好転の兆しが表れると、名君・重賢公、賢才・平左衛門の文教・刑法・衣服の制度を改め、奉行所を建てて役人の出仕を定めた。
これらの成果は、重賢公を「肥後の麒麟」と天下に知らしめた。
しかしながら、その後の財政面に於いては暗雲が立ち込めてくる。平太左衛門の後を受けたのが大奉行・嶋田嘉津次である。
齊茲公の時代に入り、嘉津次は借銀の返済に大いに苦労するが、かっての恩人である長田家さえもが返済を促してくる。
条件の変更についても話し合われたが、細川家の財政は行き詰まりを見せていて、長田屋の姿勢は強力であった。
嘉津次はついに禁じ手を発し、交渉に当たった長田屋の番頭に不都合があると言い立て、用達の契約を破棄して借銀の返済を一方
的に停止した。平太左衛門につぐ名大奉行と云われた嶋田嘉津次でも、切り抜けることができない財政の破綻は、かって立ち直り
に力を貸してくれた恩人・長田屋に対しての背徳の行為となった。
【摂津国大坂玉水町加嶋屋長田家文書】
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