津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■肥後墳墓録-(8)宗岳寺

2024-01-05 07:08:39 | 掃苔

 熊本市中央区上林町3-45にある、泰雲山宗岳寺は長門の大寧寺を本山とする曹洞宗のお寺である。
開山は加藤清正の一族とされる田寺久太夫、その法号・泰雲宗岳大禅定門から山号寺号となった。

 ■松野家 大友義統の弟・親家を祖とする松野家の墓地がある。一族四家のお墓は春日寺に存在している。
                                参考 松野親英の転び証文
              今度、切支丹衆(宗)躰之儀ニ付、忠興様ころひ(転び)可申由、
              御諚被仰渡候間、ころひ申候、禅衆(宗)ニ罷成申候、
              為後日如件
                 慶長拾九年
                     三月廿五日     松野織部
                                  親英(花押)
                 松井式部少輔殿

 ■三渕家 肥後三渕家の祖は足利氏分流、細川晴員で嫡男が藤英、二男が細川幽齋である。初代はその末弟・好重である。
      従五位下、3000石で備頭を勤めた。尚、山名、前川などの名乗りもあった。

 ■稲津家 伊東家家臣で日向・紫波洲城主であった。加藤清正に仕えたが、二代頼次が細川家肥後入国後忠利により召し出された。
      四代・彌右衛門は、八代の球磨川氾濫による川塘決壊に際し、自ら名乗り出て復旧の指揮をとり「神様」とたたえられた。
      特に池田町富尾山に葬られている。

 ■堀家  越前の出身、初代・平左衛門は忠利代召し出し、忠利亡き後は光尚に仕え、光尚死去後殉死した。宝暦の改革で著名な大
      奉行・平太左衛門は四代目、市営花園墓地の最上段部にもお墓がある。

 ■町 家 長曾我部元親二男の吉良左京進がのち「長=ちょう=町」と姓を変えた。御留守居役を勤めたが、光尚室の死去に伴い忠
      興の不興を買いのち離国した。二代目以降は鉄炮頭そのた要職を務めた。著名な町愚山は七代目である。

 ■久武家 長曾我部一族・久武家  数年前墓終いをされて、現在は存在しない。

 ■不破家   (準備中) 

 ■井澤蟠龍の墓
      名は長秀、通称十郎左衛門、亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、抜刀、柔術をも能くす、好んで長さ三尺三寸
      も長刀を帯び、質性朴実にして邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂加流の奥秘を究め、神道に関する著作少
      からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就かざるを以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述
      極めて多し(中略)享保十五年十二月三日歿す、

 

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■肥後墳墓録-(7)往生院無量壽山泰安寺

2023-12-19 07:14:34 | 掃苔

 「往生院」の名前で慣れ親しんでいるが、正式には「往生院無量壽山泰安寺」という。
熊本市西区池田1丁目2-50にある、浄土宗・善導寺末寺である。度々移転を余儀なくされたが現在地に移転したのは享保9年(1724)のことである。

 ■正清院(蒲生秀行室・徳川家康八女振姫)供養塔
 正清院は夫・蒲生秀行没後の元和2年(1616)浅野長晟に再嫁し世子・光晟を出生後死去したため、加藤忠廣夫人である娘の崇法院が
供養のために建立したものとされる。蒲生秀行供養塔は横手の安国寺にある。

 ■井口家 (南東2-1)井口忠三郎家
 初代井口荘左衛門は寛永10年の召し出し、200石。5代荘左衛門は奉行職を勤め800石。宝暦12年自害したが、これは家老松井営之と論争になり、営之が「庄左衛門身柄を下され候様」と藩主・重賢に申し出た。重賢はこれには応ぜずその晩荘左衛門に盃を与えた。これにより荘左衛門は自害したが「乱心」として取り扱われている。 

 ■生駒家 (南東2-11)生駒新太郎家
 祖の次左衛門は尾張国人にして蒲生飛騨守に仕えた後浪人し、京都に於いて細川忠利に召し出された。
天草島原の乱で手疵を負った。その子・新九郎が300石拝領し奉行や鉄炮頭などを勤め、以降明治に至った。

 ■岩崎家 (南東1-6)岩崎直衛家

 ■上村家 (南東30-11)丹後以来 上村甚之助家
 丹後に於いて忠興に召し出された上村孫三を祖とする家が4家あるが、その中の嫡家である。
2代目・甚五左衛門は御暇となったが、天草島原の乱に参加し帰参が許された。

 ■江嶋家 (南東42-5)江嶋 傳家
 大友家浪人にて親族・財津氏を頼った。初代から3代までは坂梨口御番を勤めた。8代傳右衛門は川尻町奉行を勤めた。500石

 ■柏木家 (南東16-19)柏木荘九郎家
 平成肥後国誌には往生院に墓所があると記されているが、実は京町の西方寺にある。

 ■竹原家  (南東22-12)竹原東彌家        
 竹原家は阿蘇家の分流で、上総助宗守は嶋津氏に仕えた。その子市蔵惟成は細川幽齋が薩摩を訪れた際、その才を認められ幽齋がもらい受けて臣となした。玄可と称す。
綿考輯録は次のように記す。
    藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)
    御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日連歌御興
    行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に応し竹原市蔵とて九
    歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に叶ひ頻に御所望にて被召連、御
    帰洛被成候
6代・勘十郎(玄路)は細川重賢に用人として近侍し、宝暦の改革に多大な業績を上げた堀平太左衛門を大奉行となすべく推薦した。

 ■早川家 (南東6-4)早川助作家
 祖は毛利家小早川一族、初代は小早川主膳で黒田家に仕えた後、寛永3年に150石で細川忠興に召し出された。
2代目から姓を早川と改めた。8代十郎兵衛は近習役を勤め650石を拝領した。号鶴隣。

 ■松岡家 (南東36-22)松岡八郎家
 加藤家家臣であったが加藤家没落後は浪人し、初代藤右衛門が細川家に召し出されたのは遅く、元禄11年綱利によってである。
3代目八郎平(八嶽)は養子で、一宮九郎兵衛四男、時習館句読師を勤めた。

 ■真野家(南東37-2)真野冨弥家
 旧中村一氏家臣、同家重臣で細川家に仕えた藪内匠(12,000石)を頼り元和年間に300石で仕官した。
 8代源之助は大奉行職となり、禄高15,000石を拝領した。

 ■横井太平之墓
 横井小楠の兄・時明の二男で、兄左平太とともにアメリカに留学した。帰国後洋学校設立に及び洋学教師ジェーンズの招聘に尽力した。22歳の若さで死去した。

 

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■肥後墳墓録ー(6)流長院広徳寺

2023-12-16 06:59:45 | 掃苔

 流長院広徳寺は、熊本市中央区壺川一丁目4-23にある曹洞宗のお寺で、慶長5年伝志麟的和尚の開基により建立された。

 ■下津家(安国寺にも墓地あり)

    ■大河原家
 近江松平氏に仕えていたが浪人し、寛永11年熊本召し出し、代々要職を勤め1,000石を領し明治に至った。

 ■境野家
 妙應院(綱利)時代の召し出し。400石。5代嘉十郎は「犬追物」を復活させて著名である。 

 ■松下家
 初代・市之進の父松下清蔵(壱岐守三綱)は加藤家家臣で、清正女・搖林院の紀伊大納言頼宣輿入の際 附人を勤めた。
初代・市之進一意は春日局の兄・斎藤利宗(清正臣)の女婿で、父没後忠広により跡式知行千石、加藤家没落後牢人、豊前にて忠利に依り召し出し1,000石。
熊本に配流となった春日局の息・稲葉正利の世話役を務めている。(大日本近代史料・細川家史料十五) 

 ■佐々布家

 ■佐分利家

 ■深野家

 ■本庄家(2・3代は柴任氏)

 ■嘉悦家
 加藤肥後守家臣1,500石加藤家没落後、細川家に召し出される。

 ■松山家    松山繁家【丹後以来】(南東(38-4)
 初代は加納曲斎、相国寺の首座であったが田辺城籠城に参加、豊前にて1,500石・町奉行。二代目兵左衛門代から松山姓を名乗る。代々1,000石要職を勤め明治に至る。

 ■蒲池家
 筑後国山下城城代を勤めていたが秀吉の九州征伐により筑前にて麾下となりその後浪人、後細川家召し出し。五代喜左衛門が奉行職を勤め、中老・大奉行職兼職に上り詰めた。

 ■高本家
 家祖・李宗閑は朝鮮王族で文禄の役の折捕虜として日本にいたった。初代慶宅は熊本城内に住して、慶宅坂の名を残している。
5代慶順(号・紫溟)は養子だが藩校時習館の3代目教授を務めた。銀台遺事の著者。

 ■山内家

             (只今書き込み中)
 

 

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■肥後墳墓録-(5)愛染院東長寺

2023-12-13 06:41:39 | 掃苔

 「愛染院」の名で知られる宝聚山 愛染院 東長寺は、高野山真言宗の寺院で、細川忠利が肥後入国に当たり小倉より
宥伝和尚を招聘して開基祈祷所とした。

熊本城から新堀橋を渡るとすぐ左手(熊本市中央区京町1丁目2番36)にある。

 1、国友家           国友儀兵衛家(南東33-9) 
 1、松岡久左衛門之墓   
    右仕寄番之内、或夜余寒甚敷風つよく有之候ニ、松岡久右衛門生膚に甲冑を帯し、
    当番にてふるひ居候を、門司源兵衛是を見て、拙者ことき若者さえ下着を用、寒気
    を防ども堪かたきに、老人のふるまひを見て恥入候也と云けるを、久左衛門聞て甚
    悦ひ、御存之通七十に余り寒気を好、如此の事二ハ無之候、平成高禄を貪、殊に
    大勢の組をもあつかり、何の奉公も不仕候へハ、幸の死時と存候也、今にても城乗
    といわむに各のことき壮勇の輩ハわれ先とすゝミ入らんに、老体中々及かたき事必
    然也、責てハ少にても身をかろくせんため寒気をたへて如此也と云けれハ、門司甚
    感心し、二十七日城乗の時ハ松岡を目当としてすゝミ手に合、松岡ハ組を励し、本
    城の下にて鉄炮に中り死す、此松岡勇名高き事、三斎君被知召、慶長六年豊前にて
    被召出三百石被下、弓足軽廿人忠利君より御預ヶ被成候(綿考輯録・巻四十五)
 

 

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■肥後墳墓録ー(4-2)禅定寺・細川家臣

2023-12-12 07:19:10 | 掃苔

 ■槙嶋家
 足利将軍家家臣・槙嶋昭光を祖とする熊本槙嶋家、真木嶋城主で最後の将軍・義昭を迎え入れ信長と戦うも力及ばず、義昭をもって
足利将軍家は絶えた。
細川忠興の豊前入国後召し寄せられ、終生忠興の側近として仕えた。号・云庵。1,000石。
旧段山に槙嶋邸があったあたりに「槙嶋坂」があったが、現在では藤崎台童園敷地となり現在は通れない。
禅定寺住職・最勝林家のご先祖である。

 ■木下家
 豊臣秀吉の正室・高台院の実兄・木下(杉原)家定の三男・日出藩主木下右衛門大夫延俊の末子・木下三郎左衛門を祖とする肥後木下
家歴代の墓所である。
家定嫡男は木下勝俊(長嘯子)二男利俊(足守藩主)四男小早川秀秋)因みに、延俊室は細川忠興妹加賀。
かって屋敷があった場所は木下町と呼ばれていたが、新町3丁目9番にある胃腸外科あたりであった。

 ■田中家
 柳川藩主・田中久兵衛吉政(豊臣秀吉に仕え従五位下)の弟・与左衛門氏次を祖とする肥後田中家の墓所である。
豊前小倉に於いて細川忠興に召し出された。鉄炮頭・番頭などを勤めた。2,000石。

 ■志方家
 播州志方之城主志方左馬介の子孫。初代六兵衛(のち半兵衛)十五歳にて丹後召し出し。
初代半兵衛は、天草島原の乱に際して在京していた細川三斎に、その戦況を報告した「志方半兵衛言上之覚」を著した。

   ■下津家
 熊本城内・棒庵坂に名前を残す下津棒庵は、久我右大将晴通の息で、幼少時には金閣寺の僧となったが、加藤清正に還俗を勧められ
て下津宗可と名乗り、清正家臣となった。2,027石。一方加藤家の「牛方・馬方騒動」の告発人としても知られる。

棒庵の嫡男、初代・将監が細川家に仕えた。1,083石。9代久馬は、実学党の雄として肥後の維新に尽力した。

 ■平野家
 鎌倉幕府最後の得宗、北条時行の後胤。「平野右京■入道万休と申者之養子二而実者船橋二位業賢次男ニ而御座候 右業賢妹者三渕伊賀守様之御内室ニ而御座候 此御由緒御座候故か平野大炊助子孫 御家ニ被 召出候者共多ク御座候」と先祖附にしるす。

                                                        +--仙右衛門
                                |
                                +--弥五右衛門
                                |              細川家家臣・御擬作
                +---長時---源太左衛門---+--茂兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→五郎家
                |
                | 甚左衛門 九郎右衛門   九郎右衛門              細川家家臣・2,000石
                +---長景-----長之--------+--長是・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→九郎太郎家
                |             | 庄大夫              細川家家臣・200石
                |             +--長直・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→七角家
       万久入道  大炊頭(介)   | 賤ヶ岳七本槍
           賢長===長治---+---長泰------長勝・・・・・・・・・・・・・・・・・→交代寄合衆・明治に入り田原本藩
                |
                +---長重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本
                |
                | 弥次右衛門  茂左衛門   知行召上               細川家家臣・20人扶持
                +---長知---+--長秀---三郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→弥平家
                      |
                      +--弥平太 島原の乱討死
                      | 元右衛門                      細川家家臣・300石
                      +--元弥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→甚兵衛家                                       
清原宣賢---+--業賢---+--枝賢
     |    |
     |    +--長治 平野家養子
     |
     +----女
         ‖-------細川藤孝-------忠興-------忠利
     三渕晴員

 
 ■藪家
 旧姓中村、駿府145,000石の城主・中村一氏の一族で中村家の没落後、藪内匠が細川忠興の客分12,000石で召し寄せられた。
 図書家・市正家からそれぞれニ家、計四家が明治に至った。

        +--大隈   +--右衛門==丹右衛門---兵右衛門---丹右衛門---源太---隼之允----吉三----徳次----九十郎(九十郎家
        |      |
藪伊賀守---内匠--+--図書-------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允----庄次郎----三左衛門---- 一(一家)
        |      |                                                                 政純(墓地・四方池)
        +--三左衛門 +--熊之允(御暇)
        | (紀州藪家)
        |      +--丹右衛門(兄・右衛門養子)
        |
        |                     +--源太左衛門(男子なく断絶)
        |                     |                                                                      養子・同姓茂次郎二男     
        +--市正------惣左衛門----+-- 弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎----英次===輝吉===藤右衛門---市太郎(市太郎家)
                                                           |         (槙庵)  | (槐堂)                                     養子・実渡邊善右衛門二男
                              |              |
                              |              +--茂次郎---+---泰記----助作----小吉郎(小吉郎家)
                              |                (孤山)   |                              初名・作右衛門                                                                              +--権左衛門(男子なく断絶)        +---輝吉(英次養子)         

 ■上田久兵衛の墓・顕彰碑
 幕末期京都留守居役を勤め幕閣・諸藩重役・公卿間を奔走し公武合体に尽力したが、藩是の変更に伴い離任帰国、後玉名奉行・川尻奉行などを歴任した。西南の役勃発に当たり、川尻町民の乞いに応じて鎮撫隊を形勢して町の安寧に勤めた。
後、西郷隆盛に加担したとして罪を得て斬首刑となった。後名誉回復された。
川尻の町民は久兵衛の徳を偲び、禅定寺境内に顕彰碑を建立した。

 ■雲林院(うじい)弥四郎の墓

 ■久野(くの)家      (南東33-4)久野孤松家
    初代・次郎左衛門は、元佐久間右衛門(信盛)家臣で三斎公代豊前にて召出・三百石(先祖附)町奉行
などを勤めている。
佐久間信盛の嫡男・信栄は剃髪して不干斎と名乗る高名な茶人だが、そののちも次郎左衛門との交流を示す書簡が久野家に残る。

 ■藤村紫朗男爵の墓
 熊本藩士・黒瀬家の二男。菅野家の養子となり、尊王攘夷運動に加わる。明治6年山梨県権令(のち初代知事)となり、葡萄酒の醸造
や開拓事業などを推し進め、特に教育環境などの整備に当たっては疑洋風建築(藤村式建築)を建設したことで知られる。
のち愛知県知事、貴族院議員を勤め男爵を叙爵された。

 ■藤本家
 藤本勘助なる人物を祖とする藤本家が3家存在するが、こちらは藤本吉太郎家(南東39-12)、9代目の直次は奉行職を勤めた。
   名は正心、津志馬と称す。世禄三百石、使番、目附役、奉行副役、奉行、作事頭、中小姓頭等を勤む。明治三年五月廿七日没す、
   年五十七。墓は高麗門禅定寺。
その息・10代目吉太郎の写真が存在している。平成14年6月8日付・熊本日々新聞に掲載された記事が存在する。
「明治4年4月14日、東京浅草通於瓦町寫眞之 藤本吉太郎 熊本藩」と記されている。
大正13年82歳で死去。

   

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■肥後墳墓録ー(4-1)禅定寺・加藤家臣

2023-12-11 06:41:38 | 掃苔

 ■並河志摩守氏則(宗為)
 加藤家重臣、10,297 石で禅定寺の大檀越である。寛永7年7月25日歿。月秋院要津一玄。
宗為の嫡子である金右衛門(志摩守宗照)は、加藤忠広廣配流の後牢浪、のち土佐藩主・山内忠義に2000石で仕えた。
熊本に残った子孫は米村氏を名乗り細川家に仕えた。

 ■三宅角左衛門 ? ~1631 
 加藤家の先手三組の大将としての活躍する一方、特に普請奉行として活躍。築城工事については石垣つきの名人との評が高く、飯田覚(角)兵衛とともに加藤家の両角と呼ばれた。朝鮮役の際には豊後杵築城救援を命じられたが、渡海を望み出兵を渋って清正の怒りに触れ知行を召し上げられる。のち宇土城攻めの際に小西の勇将南条元宅との一騎打ちを演じるなど奮戦、この功により再び知行を得た。
「八代切支丹史」によると、当時角左衛門は八代奉行であり、加藤清正の切支丹迫害により殉教しのち列福した南五郎左衛門(シモン・ミナミ・ゴロザイモン)、竹田五兵衛(シモン・タケンダ・ゴヒョウエ)の二人の内、竹田五兵衛は心の友であり改宗を勧めこれがかなわぬと国外逃亡さえも勧め助けようとしたとされる。

 ■南條元清(元宅)
 伯耆羽衣石(うえし)城主・南條元続の弟・元清。左衛門督のち伯耆守を称し、元宅と号す。初め伯耆岩倉城主、羽衣石城代。朝鮮役の際に甥元忠の名代として出兵したが、元忠の家臣の讒言により失脚、小西行長に預けられた。関ヶ原の際には行長の弟・行景の下で宇土城を守備、攻め寄せた加藤清正の豪将三宅角左衛門と槍を合わせた。小西家改易後は加藤清正に仕え伯耆守を称し、六千石を領した。
慶長19年(1614年)没、法名は「惟安元宅居士」。

 ■南條(藤八郎)元信
南條元宅の嫡孫。南条元宅は嫡子が病気であり嫡孫・藤八郎に跡目を継がせる意向をもって死去したが、側室の子作十郎周辺の者が動いて元宅の意向は成就しなかった。
藤八郎は加藤家を去り、細川三齋を頼り、「南条家は名高き家ニ付」の故をもって細川家(小倉藩、のち熊本藩)に「三千石可被下由ニテ被召抱」られ、「成長之上ニ而与五郎様御女お鍋殿を藤八郎へ被遣、五百石御知行御添被下候」

「於豊前御侍帳」には頭衆として「三千石 加茂 南條左衛門元信」とある。また鍋については「五百石 なべ 廟所禅祥(定)寺 忠興公御二男也長岡與五郎興秋女・南條大膳元信妻円乗院 大膳后改左衛門」と記す。「福岡県史・近世史料偏-細川小倉藩」所載の「日帳」によると寛永三年(1626)七月「鍋」の結婚話が記載されている。「おなへ様御祝儀ノ御使者」が「御乳人」に書状を届けた記録である。この年内に結婚したのであろう。

元信については「藤八郎名を大膳と改め、其後御国へ御供ニ而罷越唯今木下屋敷被為拝領」と「藻塩草」は記す。寛永二十年(1643)細川忠興末子勝千代(三歳)を養子とする。元信は万治三年(1660)隠居、寛文九年(1669)キリシタンと疑われ長崎に送られたが無実で帰国するも、城内竹之丸質屋に留め置かれた。天和二年(1682)死去した。室・鍋は元禄二年(1689)まで長生きした。

 ■庄林隼人佐
隼人佐の先祖は粟田関白道兼の三男の従五位下丹波守藤原兼信にさかのぼるという。その一族小山権太郎兼凞という人物が足利尊氏の許で軍功を上げ庄林の姓を賜った。庄林隼人はその権太郎の後胤で加藤清正に召し出された。

一方、東京大学には、隼人佐について詳しく紹介する「庄林氏由来」という文書が存在する。
これによると、隼人佐は摂津国多田の人で高槻城主・高山右近に16年間奉公し、その後仙谷秀久につかえた。佐々成政が肥後国の治世に失敗して、小西行長・加藤清正がそれぞれ肥後半国を拝領した時、隼人佐は加藤家に仕えたとされる。天草攻めや文禄・慶長の朝鮮の役などで功名を上げた。宇土城攻めに当たっては「大手堀田黒門口は寄手一番侍の頭加藤百助持口也、武者奉行庄林隼人相添也 」という記録が残る。

庄林家資料としては「 庄林曽太郎家・先祖附」と「庄林氏由来」が存在するが、内容を異にしているのは生母を異にしていることによると思われる。
「曽太郎家・先祖附」によると、隼人佐の嫡男・淡路が病没したため、妹に益田家から婿を迎え明治に至っている。                   
一方「庄林氏由来」によると、初代・隼人佐は加藤清正の妊娠している妾を召し下され、男子であれば跡を継がせよとあったものの女子が生まれたので、これに後加藤与三右衛門の嫡子太郎平を養子となし二代目隼人(一方)とした。
この太郎平は中川壽林に育てられているが、父与三左衛門は亡き人であったのかもしれない。
又、太郎平の姉(妹?)おこうは、加藤清正の養子であった「百助=水俣城代」の室となり「若上様」と呼ばれた。
初代・隼人佐は加藤家の没落を悲しむように、寛永八年死去した。尚、屋敷は城内二の丸、現在の熊本県立美術館の場所にあった。

■庄林淡路
 庄林隼人佐の嫡男である。(庄林曽太郎家・先祖附)
 「熊本県史料・近世編二 p403」で忠利が三家老に宛てた書状
    (初代隼人嫡男)庄林淡路相果候由不便成儀候 跡職知行等無相違隼人ニ遣候間可得其意候

    いまたせかれ之事ニ候間縁者・親類之内萬事肝を煎申候而遣候様ニ申付可然候 左様之者無
    之候ハゝ皆として申付可遣候 隼人(2代目)所へも跡職無相違申付
段遣候事

      (寛永十弐年)二月廿九日          忠利
 尚、屋敷は城内二の丸、西大手門正面の場所にあった。 

 付け足し:2代目庄林隼人について
 寛永九年、細川忠利の熊本城入りを案内した隼人は2代目である。翌十年に至り細川忠利によって召し出された。
     寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
        庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
                            (綿考輯録・巻三十五)
 正保2年に細川三斎が亡くなると、時の藩主光尚から召し放ちとなり熊本を離国した。

 

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■肥後墳墓録-(3)岫雲院春日寺

2023-12-09 07:12:40 | 掃苔

 熊本駅・新幹線口近く(熊本市西区春日3丁目2)にある細川忠利公が荼毘に付されたお寺として知られる。
臨済宗大徳寺派の寺院だが、菊池氏初代菊池則隆春日大明神を勧請し、その神護寺として建立したと伝わる。
地元では親しみを込めて「かすがんじ」と呼ばれている。一時期御堂は荒廃していたが、再建された。
大友宗麟家系三家のお墓があることで知られる。

 1、松野右京家
    宗麟の嫡子・大友義統の嫡家とする家で、嫡男が死去したため三男・右京を祖とする一族の墓地である。
 1、大友親家之墓
    利根川道考の名で知られる大友宗麟の二男である。細川家には客分として仕え、嫡子・親英が召し出され初代とする。殉死者のお墓が並ぶ。
    初代・親家以降のお墓は、上林町・宗岳寺である。
 1、大友親盛家(東松野家)
    大友宗麟の三男の親盛は、細川家に召し出されて松野半斎と名を改めた。その一族の墓地である。
    2代目は兄・大友義統の庶子・正照を育て養子とした。12基のお墓がまとめられている。

          かっての岫雲院春日寺

 参考:松野一族略系図

                              義統五男        再興 
 大友宗麟---+---大友義統---+--- 義乗---+---義家(無嗣断絶)==*義孝・・・・・・・・・・→ (旗本大友家・高家)
                  |        |              |
       |        |           +---義親ーーーーー縫殿介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣五百石・吉田淳家)
       |        | 義統三男
                  |       +----松野右京---+----主殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 二千石・松野孫三郎家
       |               | 
       |               +---*義孝(嫡家相続)
       |               |
       |               +---義冬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ (旗本松野家)
       |
       +---利根川道孝---松野織部---+==亀右衛門==亀右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 千五百石・松野亀治家
       |             |           
       |             +----善右衛門----又右衛門・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 五百石・松野一葉家)
       |
       +---半齋--------八郎右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・-→ (細川家臣 千七百石・松野八郎家

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■肥後墳墓録-(2)阿弥陀寺

2023-12-07 07:16:10 | 掃苔

 浄土宗・阿弥陀寺熊本市中央区細工町3-34
 天正の頃(1573~1592)、清正公領国の時、飽田郡南阿弥陀寺村より白川のほとり(今の東・西・紺屋阿弥陀寺町付近)に移転し建立された。
しかし度々の洪水から、慶長の頃(1596~1615)に現地に移った。
遊行上人の来遊に当たってはその宿所とも成っている。

  1、阿蘇惟光  阿蘇大宮司。文禄元年(1592)梅北一揆勃発の際島津歳久・梅北国兼等との結託を疑われ、同2年秀吉の命で12歳で命を落
         とした。

  1、飯田角兵衛 加藤清正公四天王の一人といわれ、築城の名人ともたたえられた。熊本城・飯田丸にその名を遺す。
  1、長尾豊前  加藤清正家臣で愛藤寺城代を勤めた。  

  1、梅原家   初代は高知の長曾我部一族の梅原九兵衛、柳生但馬守の許より細川光尚の招聘により召し出し。
         光尚亡き後の、嫡子六丸(綱利)の遺領相続に尽力した。
  1、大石家
  1、鎌田家
  1、清水家   細川綱利の生母・清高院の父・清水道是を初代とする。慶安2年肥後入り。
         2代目は嫡子、3代目は養子で清閑寺大納言国宗四男(又、妙解寺住職弟)で御一門扱いとなった。

  1、村井家
  1、野田家

                                             (内容については随時記入)

 

 

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■肥後墳墓録-(1)安国寺

2023-12-06 07:04:37 | 掃苔

 「肥後墳墓録」とは少々大げさなネーミングだが、まずは熊本市内各地のお寺様に存在する、細川藩士関係ほかの
お墓のリストを作ってみようと思い立った。
なんといっても師匠・高田泰史Drの「平成肥後国誌」にお世話になる事になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、蒲生秀行供養塔  安国寺は細川家の肥後入国以前は弘真寺であったが、これは秀行の弘真院殿覚山浄雲大居士と
          いう法名からきているとされる。
          秀行女・崇法院が加藤忠廣室であり、亡き父を偲んで供養塔を建立したものであろう。
          崇法院の生母・徳川振姫の供養塔は、出町・往生院にある。
          

1、利休居士塔  江戸期の肥後在住の茶道関係者が建立したものである。   

1、有馬陣戦死各霊之墳
1、上総沖溺死者供養碑
1、小倉陣戦死者供養塔
1、東国戦死之碑

1、高麗門連招魂碑 神風連の挙に参加した地元・高麗門連の方々の名前が刻まれている。
          植野常備・平上平馬・上野継緒・小篠一三・山田彦三郎・西川正範・大石虎雄・
          小篠清四郎・高田健次郎・小篠源三・井上豊三郎・兼松群起・米良亀雄・兼松繁彦

1、宇野家        
1、加賀山主馬墓 加賀山家3代主馬首可政のお墓である。初代加賀山源左衛門は元・高山右近に仕える。3代は初代の三男。
1、兼坂家  細川光尚代の召出し。9代兼坂止水は  
1、朽木家  細川藤孝の実兄・三淵藤英の五男・昭長を祖とする熊本朽木家の墓地である。  
1、小林家
1、住江家
1、続家   
1、長束家  豊臣家五奉行に一人、水口岡山城主・長束正家を祖とする肥後長束家の墓地である。
1、沼田家  旧熊川城城主で足利家家臣、細川藤孝の傳役を仰せつかり細川家の根本家臣となった。
1、乃美家
1、益田家       豊前召出、二代弥一右衛門が有馬陳で実質一番乗りを果たし、1,150石を拝領した。 
1、町家(長曾我部) 長曾我部元親の二男・源右衛門を祖とする。長曾我部の「ちょう→町=まち」を姓とした。
1、溝口家  初代蔵人は細川忠利室保寿院の弟、小笠原家家臣・溝口家の養子とり綱利代の召し出し。
1、弓削家  

   諸家の説明については順次書き込むことにする。まずはリストのみにて・・・

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