津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御礼

2007-12-31 11:17:15 | 徒然
 お正月を迎える準備はお済になられましたか。私のデスク周りは相変わらずで、本や史料のコピーなどで散らかり放題で、手のつけようがありません。多分このままの年越しとなりそうです。いろいろ史料をお送りいただいた皆様に、改めて感謝申上げます。また来年も何らかの形で、当サイトが皆様のお役に立てれば望外の幸せと思っております。訳もなく猪突猛進で駆け抜けた一年でしたが、来年は歳の事も考え身の丈を小さくして、「ちょろちょろ」と参ろうと思います。ブログの方は何とか皆勤で行きたいと思っていますがどうなります事やら・・・こりずにお付き合いいただきますようお願いします。

   ありがとうございました。
                 平成十九年大晦日 津々堂・敬白
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予感

2007-12-30 10:24:36 | 熊本
 熊本城築城400年祭りは、春絵巻・夏絵巻・秋絵巻と開催してきたが、明日から新年一月三日まで冬絵巻が開催される。肝心の熊本城天守閣での例年の「初日の出」を拝む催しは、天守の「鯱」の破損の為の工事に伴い登城禁止となり、水を差した感じ。復元が進められてきた「本丸御殿」もいよいよ完成、4月20日から一般公開される。そして400年祭りも最終章、3月22日から5月6日まで「エピローグ・未来」が予定されている。一連の催事で熊本城入場者が100万人を越えたと報じられているが、むしろ今後どうするかが問題だろう。新幹線開通も間近となってきたが、政令指定都市問題は先が見えない。行政の力強い施策と誘導が必要だ。

 さて「藩校サミット・熊本大会」は来年6月21日開催へ向けて、関係者の熱い意気込みが集約されつつある。藩校時習館がもたらした多大なる成果を再認識し、雄都熊本の更なる飛躍へ結び付けなければならない。「永青文庫」の常設展示も始まる。熊本人にとって心豊かな「子の年」の予感・・・。
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年末行事

2007-12-29 18:04:54 | 歴史
 「大日本近世史料・細川家史料」に登場する人物の、「人名索引」を作っているが、面白い事に気が付いた。武家に対する叙位・叙任の殆どが十二月の二十九日に行われている。この細川家史料の人名一覧は、「寛政重修諸家譜」によるものであるから信頼性は高いと考えてよい。殆どが「従五位下」からスタートしているが、御三家や有力大名になると、四位・三位ということになる。ちなみに幽齋は19歳で従五位下・兵部大輔、忠興は22歳で従四位下侍従越中守となっている。幽齋は従二位法印、忠興は従三位参議まで上り詰めた。その他の当主の殆どは従四位下とまりである。
 現代の世の中は仕事納めとなる此の時期だが、当時は叙位叙任という重要なことが行われていた事を知って「目からうろこ」。ちなみにお公家さんはお正月の六・七日が多いように思われる。
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改悪・建築基準法の行方

2007-12-28 09:13:23 | 徒然
 肝炎訴訟は福田首相の政治決断により、一転議員立法による全員救済の道が開けて、福田さんの点数稼ぎだろうが先ずはよかった。一方経済界あたりからも指摘を受けている「改悪建築基準法」に対して、福田さんが口を開いた。国交省は冷や汗ものだろう。

 談合事件などが報道されるたびに悪者呼ばわりされてきた建設業界だが、その殆どは汗水たらして一生懸命に頑張っている。公共事業の落ち込みが著しいここ数年だが、良く持ちこたえている。そんな中で「構造計算書偽装事件」が勃発して世間を震撼させた。国交省がどのような手を打ってくるかと思っていたら、先の建築基準法の改悪である。
住宅着工件数が発表され、「建築確認」の厳格化の影響が顕著に示されている。福田首相は「経済的影響を及ぼした事は、良く反省しなければならない」と発言した。大形建築物の落ち込みは更にものすごく、不況時代を身を削って堪えてきた業界に多大の影響を与えている。予想されていた事だがこれほどの数字になるとは思わなかった。法案を作った国交省の役人達は現状をどう認識しているのか、庶民の味方のはずの「公明党」出の大臣はどう思っているのか・・・「改悪・建築基準法」がもたらした影響は不況時代への再突入を予感させる。再改正されるのだろうが、それまでお互い飢え死にしないようにしなければ成らない。
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金気とり

2007-12-27 20:08:23 | 歴史
 鍋釜を買ったら「細川」とかいた紙を貼り付けると良い・・「金気がとれる(金気がない)」というのが落ちだが、なんとも寂しい話しではないか。何時頃からそのようになったのだろうかと考えると、光尚の妾・清高院や、その子綱利などが原因ではないのか。綱利は自分の子を跡継ぎにする事は出来なかったが、女子は沢山あって嫁に出した。松平豊後守頼路室・菊、酒井左衛門尉忠眞室・光、松平志摩守直近室・楊、久我右大臣惟通簾中・具のほか、熊本において細川采女正利昌に吉姫、清水靭負勝貞に伊津、有吉大膳立貞に國姫などである。熊本以外の4人はお大名とお公家さん、これは物入りだ。松井興長の諫言13ヶ条の内に「昼夜之御酒宴・・」「不相応之金銀を以、踊子被召抱・・」「御奥之女中、御寵愛に任せ、我儘・・・」とあり、「近年之御物入、御代々無御座候故、御勝手向及困窮候事」と手厳しいのだが、興長が亡くなると歯止めが外れた感じがする。これじゃ借金の山も簡単にその高さを増していく。金気とりの張り紙もこの頃からの話しだろう。
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爺域

2007-12-26 22:16:27 | 徒然
 小田和正は還暦だそうな。あの透明感のある歌声は一向衰えを見せていない。TVでの彼の二時間番組は珍しく昨日から今日へかけて、TVの前に陣取った。東北大学の建築科をでた学士様は、180度方向転換してミュージシャンとなった。年が五つほどしか違わないこともあって、彼の楽曲には親しみを持っている。齢を重ね声量がなくなり、「懐かしのメロディー」を引っさげて、歌番組に時折元歌手(?)のお歴々が登場したりすると、居たたまれなくなってTVのスイッチを切ってしまうのだが、和正さんは将に現役である。若い女の子に涙させる実力をお持ちだから恐れ入ってしまう。
こっちときたら行きつけの床屋さんで「年をとったら身嗜みをちゃんとしなきゃダメですよ」とお説教を食らうくらいに、爺域に深く足を踏み入れている。
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現実

2007-12-26 21:05:58 | 徒然
 当サイトでご紹介しているエッセイストK氏から薦められて、南木桂士氏のエッセイにはまり込んでいる。信州佐久の総合病院の医師である氏は、また鬱病という病歴を持つ患者でもある。病歴は長い。其の病歴ゆえに信州から外へ足を向けることはなく、心豊かに患者に対応し、満ちみつ自然の豊かさの中に身を委ねて、そんな患者や自然を題材にして癒しの文章を届けてくれる。

 銀行へ5・6分、郵便局へ10分、100台ほどの駐車場を持つ24時間営業のスーパーは2分ばかりの所に住んだのは、段々齢を重ねる私たち夫婦には最適の場所だと思って生活してきた。しかし便利さだけが「住」の条件ではない事にすぐ気づいた。スズメは飛んでくるものの、これは妻が毎日与える餌につられてやって来るもので、自然には程遠い。田舎に引っ越したいなーという思いが深まっていた時に、このエッセーに出会い心が揺れている。数年前一度その気になって、妻と二人あちこち見て回った事がある。俗な世界に未練がある優柔不断な私は、「図書館が遠くなるよなー」と変な理屈をつけてご破算にした。ご近所の庭先の花を愛で、スズメが飛び去る事がないよう、餌をやり続けて「街中の生活」をつづけるのだろうか。夢のない話しではある。
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御預け人

2007-12-26 20:01:22 | 歴史
 寛永十九年八月細川光尚は、幕府からのお尋ねに付き「御預ヶ人之覚」なる書類を提出している。これによると
1、最上義俊家来楯岡甲斐守
1、駿河大納言(徳川忠長)家来伊藤権兵衛
1、稲葉正勝弟内記(稲葉正利) の三件について記載されている。

 楯岡甲斐は元和九年1624)に預けられ、寛永六年(1629)に小倉で死んでいる(65)。二人の息子(21・15歳)は細川家に仕えた。娘があり44歳と記されていて、村井なる人に嫁いだとされるが絶家したものだろうか。

 伊藤権兵衛は妻子もなく、寛永十年供の者二人とともに預けられた。綱利時代の幕府への報告書はどうも誤記だと思われ(誤植?)、三十数年後に亡くなっている。供の二人も開放される事なく、夫々承應元年、万治四年に亡くなっている。

 稲葉正利は母親(春日局)の願いも有ってであろう、寛永十三年細川家に預けられたが(39歳)、奇行が多くてこずらせている。88歳と長生きした。側にあった女子に子を成させたが亡くなっている。藩士・松下市之進が縁戚の故を持ってせわをした。

 夫々が連座の罪であろうけれど、長い艱難の末の寂しい死を迎えている。
 その後も越後事件に連座した小栗氏の幼い兄弟や、赤穂義士を預かるなど「御預け人」が続いて行く。 
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慶長五年夫々の人質

2007-12-25 16:22:26 | 歴史
 慶長五年七月石田三成は東軍諸将の夫人を人質に取り、西軍有利に導こうと画策する。忠興夫人はその申し出を蹴って自害するとともに、守将たちも屋敷ニ火を放ち殉死して果てる。このことによって、「三成は他の大名夫人を人質に取る事を断念した」とするむきがあるが、これは大きな間違いである。
 池田輝政・藤堂高虎・有馬豊氏・加藤嘉明らの夫人が人質とされた。この時期加藤清正は熊本に在る。夫人清浄院(家康養女=水野忠重女)や、黒田長政室(徳川家康養女=保科正直女)などにも同様の要求がむけられる。黒田氏の対応は素早く、細川夫人の死の報と同時に脱出の行動を取っている。長政夫人・如水夫人ともに十二日ほど後には所領地に帰っている。清正夫人の逃避行は大変を極めている。黒田氏の多大な援助を受け、護衛の人数をつけられて熊本に到着したのは、九月一日である。(『加藤清正「妻子」の研究』から)
 同書にも紹介されている本妙寺所蔵の清正文書は、清正の喜びにあふれた素直な気持ちが伺われる。新熊本市史・資料編・第三巻にはもうひとつ九月七日付の本多正信らに当てた文書が紹介されているが

  女共罷下ニ付、其注進として大坂への便宜ニ遣候、大坂より才覚候へと申遣候
   跡書
 態致言上候、何方迄被成御馬候哉、承度存申上候
一我々女房共、今月朔日熊本ニ至而召寄候、若御機遺ニ召候ハんかと存申上事
                              (以下略)

 加藤・黒田・池田・有馬の夫人はすべて家康の養女である。藤堂・加藤(嘉)氏は有力大名である。ガラシャ夫人の死をもってしても、三成の暴挙は止められて居らず、三成が猛反発を受けたのは当然のことで、「人質作戦失敗」(ウィキペディア)もまた当然の事であった。
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細川家縁戚のお公家さん

2007-12-24 11:42:26 | 歴史
 中院通勝と烏丸光廣に共通するのは・・・幽齋の田邊籠城の際開城の使者であり・・、細川家の縁戚であり・・、共に勅勘を蒙っている。通勝は天正8年(1580・24歳)に正親町天皇の勅勘を蒙り慶長4年(1999・43歳)まで丹後・舞鶴に配流されているが、19年のながきに渡るとはいえ、幽齋の保護の元にあった。孝似はその時の子で、幽齋の女・千と婚し長岡姓となっている(後・嵯峨氏)。
 時代はずっと下るが(慶長14年・1609)、光廣は猪熊事件に連座した。この公卿衆のご乱行事件は、後陽成天皇の逆鱗に触れ、のち朝廷に対する幕府権力の介入を許すという深刻な事件である。二人の死罪(斬首)と、十人の配流、二人の恩免という幕府の処置についても、天皇は不満であった。そして徳川家康女・和子の入内問題が出るに及んで退位される事になる。そう考えると、烏丸氏の罪は重い。光廣の子、光賢に忠興女万が嫁ぎ(元和元年十月)、その娘禰々が光尚に嫁いだが(寛永十一年三月)、忠興は喜々としている。光廣と忠興の間でこの事件は、どう認識されていたのだろうか。
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ふと気が付くと

2007-12-23 12:31:09 | 熊本
 一週間ばかり家を出ていない。最近は愛犬が「足萎え」状態なので散歩もしないし、塵だしに出かける事しかなかった。愛犬ごえもんはどうやら年を越せそうだが「要介護一級」という感じで、24時間目が放せない。真夜中に悲しい力ない鳴き声をあげる時は、わずか数センチのくぼみに足を取られて、あおのけにひっくり返って起き上げれずにいたり、僅かの隙間に首を突っこんで抜けなくなったり(バックが出来ない)だ。ご近所に迷惑を掛けない用に、即起きて面倒を見なければ成らないが、真夜中三四度となり、夫婦二人して睡眠不足が深刻である。「人名索引」を一段落させてほっと一息ついて周囲を見回すと、お隣の生垣のサザンカが一気に開いていたり、金柑の実が黄色くたわわに成っていたり・・・そんな景色が突然目に入ってきた。どうやらお正月前のお掃除に入られたお宅もあるし、静かな住宅街も「市中も人それぞれの師走かな」という風情である。
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人名索引-「自賛」

2007-12-23 10:49:49 | 徒然
 「亥」年の納めと思って、ここ一週間ばかり猪突猛進・飛ばしにとばして、「大日本近世史料-細川家史料」全20巻の人名一覧を、第6巻まで「人名索引」としてまとめ上げた。登場してくる名前には、それが果たして何者なのかわからない人物のものまで網羅されている。文書番号がはっきりしている訳だから、その人物に対してのどのような内容かがわかる訳で、改めてよみかえす事が容易に出来る。それを狙ってまとめて来たのだが、意外と早くここまで到達できたのは、巻が重なるにしたがって、登場人物も重なってくる事による。改めて細川家が、時代の動きにいかに敏感に反応していたかが、人名一覧からも窺がわれて面白い。余り為にはならないが、自己満足としては相当いいところをいっている感じがする。ウィキペディアにリンクさせたので、正月の間に一人一人追いかけて勉強しようと思っている。(副産物として、肩首のこりと運動不足で太ってしまった)
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明智の血

2007-12-22 14:26:18 | 歴史
 忠興の、女・万(烏丸光賢室)や、孫娘彌々(光尚室)に対する愛情は、他の子等に比べいささか頭抜けている。烏丸家への経済援助的扶持が万に対して行われている。中津時代には一家を招待して能興行や、花火を上げての饗応があった。万の生母は、忠興の妾・明智次右衛門女(小也)とされる。寛永十二年十一月八代で亡くなっている。次右衛門とは光忠の事だろう。光秀の伯父で妻は光秀女とウィキペディアは解説しているが、確かだろうか。真実とすると女・小也はガラシャの姪ということになる。ガラシャに近侍していたのか・・? 光秀の謀反に対しては、大変批判的であった忠興の光秀感は一貫していて、「常の御物語」に「明智光秀本能寺の変は不義之至、無道の極也」としている。その一方で明智一族に対する温情みたいなものを感じる。三宅氏の重用などもその一つだろう。明智のDNAは烏丸にも入っている。
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忠興の眼病

2007-12-21 11:47:15 | 歴史
 「大日本近世史料・細川家史料」を見ていると、医師の名前が度々出てくる。今大路氏や半井氏などの幕府にも仕える名医や、王珍・三官・少峰などの明国人、三盛・分清・玄也などとともに、眼科医の岡平兵衛、真嶋圓房(大坂)等の名前が見える。重病人が出ると早飛脚を立てたり、六十人ほどの加子による早船を仕立てたりして、京の名医を連れに行くということが度々行われている。眼が悪い忠興は、そういう意味でも京・大坂に在りたい気持ちは深かったであろう。その眼病は元和に入ってからの事らしいが、「此の節御家中ニ而も銘々祈願等仕候由・・・云々」とあり、深刻な状態が窺がわれる。元和二年二月廿九日の書状は「此比御眼病以野外ニ被差発候」として、本文には「我々儀此比目を散々煩候、今之分候は本復可仕か本復仕間敷かと申半ニ候」と失明の心配をしている。それは二月七・八日頃からの事で「両眼共ニひしと見へ不申候事」だとしている。

 その原因として記されている一文も興味深い。忠興が小倉で城普請をする時、小さな祠があったので「汚穢を如何」と思し召して「潔清の地」に移した。ところが此処で眼疾が出たので、周りのものが「これは神の祟りかもしれないので、祠を元の位置に戻しましょう」と言うと忠興は、「この神は邪神だ」と怒り出し、その祠を捨てさせたという。そうしたら完治したというのである。まずは目出度い話しだが、失礼ながら笑ってしまう。

 佐方宗佐の元和二年の「眼病平癒」の絵馬奉納の写しなどから見ても、家臣一同の心配も一方ならぬものであった事が窺がえる。
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新聞いろいろ

2007-12-20 09:03:27 | 新聞
■12/18熊本日日新聞
 花岡興文氏の「『天草四郎生け捕り』原文書の意義」が面白い。今まで紹介されてきた内容の訓下に読み違いがあり、意味があやふやであったものが、今回間違いが正されその内容もはっきり理解できるものになったものだ。わずか一文字の読み違いがこのような結果をもたらしていた事に驚く。ご一読を・・

■12/20熊本日日新聞
 お正月を前に二ページに渡る、おせち料理の華やかな写真が目に飛び込んできた。記事「美・齢・世・代」に目を通すと、家老・有吉家のお宅である。さすが旧家「恐れ入ります」。

■12/20日本経済新聞
 昨日「加藤清正妻子の研究」の著者・福田さんからメールを頂戴した。
今日の見本経済新聞に、共著の水野勝之氏(備後福山藩・下総結城藩水野家当主)の記事が掲載されるらしい。コンビにまで走らなければならない。
実は昨日の晩12時前「細川家史料・人名検索」のタイピング、「水野勝成」項10行を打ち込んで終了した処だ。最終行に曰く「妹は家康養女として加藤清正に嫁す」と・・
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