津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

白州正子

2006-02-28 23:43:20 | 熊本
NHK教育放送22:20からの「知るを楽しむ」は、細川護煕氏の「白州正子を語る」の最終回だった。よかった・・・。白州次郎・正子夫妻に関する本は、何冊か読んだ。手許にも白州正子の著作「西行」がある。今日の布団の中での読書はこれにしよう。
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行動再開

2006-02-28 10:29:09 | 徒然
 内容の重たい本は、今の私は読む気がしない。軽いエッセーがいいなと思って、本棚から大好きな佐々木久子の「酒縁歳時記」を取り出してみた。ページをめくると、火野葦平の突然の死に遭遇した、佐々木氏の悲しみの文章があった。(訃報を電話でうけた)「妹はワナワナとふるえながら駆けつけ、しどろもどろで知らせてきた。私は絶対に嘘だ、と叫んだ」・・・・全く同じ状況が数日前の我が家にあった。 
佐々木は葦平を想い、次の句を紹介している。
          風花と 共に旅立つ 酒徒善人

 初七日の席に私も一句ひねって、墓前に供えようと思い苦闘を始めた。
そしてそろそろ「歴史散策」の勉強を再開しようと思う。
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筋萎縮性側索硬化症

2006-02-26 10:14:20 | 徒然
 筋萎縮性側索硬化症という国が指定する特定疾患がある。発症のメカニズムが分らない治療法もない難病である。七つ違いの姉は、身体のあちこちの痛みを訴えていたが、原因が分らない為、適切な治療がなされず数年を過ごしてきた。二年ほど前、漸く知らされた病名が「筋萎縮性側索硬化症」という不治の病であった。筋肉を動かす運動神経細胞が死んで行くため、手足・のど・舌などの筋肉がやせていく。「治療法がない」それは近い将来の死を意味している。
 22日夜、涙声の姪の電話で姉の死を知らされた。前日まで、いつもと変わらず元気だったと聞いた・・・・。二人の姪は二年前、父親を見送っている。姉が発病を知らされた頃だった。気丈に振舞う姪達に、姉の子育てが素晴らしかったことを窺い知った。通夜・葬儀を終え、深い悲しみと孤独感、疲労感、無力感が身体に充満して気分が重く晴れない。

 発症は毎年十万人に一人くらいだと言われる。どのような研究がなされ、どのように進捗しているのか知る術もないが、治療法が一日でも早く確立されることをひたすら念じるしかない。
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熊本弁

2006-02-22 21:19:04 | 熊本
 細川護貞氏は司馬遼太郎氏との会談の中で、「細川家は肥後弁を使っていた」と語っておられる。時折「古語辞典」に出てくるような言葉が存在することに気付く。熊本弁はどのようにして形成されたのか・・・言葉も「音」と同じように、音源(京都)から波のように地方へ伝わったとされる。音源に近い所では新たな音が度々伝えられ、言葉も新陳代謝されるが、遠い所では波が伝わらなかったりして、古い音(言葉)が残されたと考えられている。戦国期、熊本にはいろいろな地方から人が集まった。加藤時代には名古屋弁だったろうし、細川の時代には丹後、丹波、若狭その他地元の言葉も混じり、いろんな言葉が飛び交ったのだろう。熊本と八代では、随分言葉やイントネーションが違うけれど、松井家の侍衆の関係もあるのだろうか。バッテン荒川に代表される熊本弁は、「新町言葉」などと言われるが、熊本中があんなではない。祖母たちが話していた熊本弁を、今一度きいてみたい。
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堂本印象と司馬遼太郎

2006-02-21 18:13:24 | 徒然
 このお二人、共にガラシャ夫人を主題とした作品を手がけておられる。
司馬遼太郎の、「胡桃に酒」を読んだとき「違う」と思った。どうもガラシャ夫人のイメージがしっくり来ない。フイクションだからとはいえ、小笠原少斎の描写等を含め気に入らない。この本を読んで、堂本印象氏の「ガラシャ夫人像」を見ると、もう別人である。ガラシャと言えば、必ず顔を出す名画だが、私はこれとて「違う」と思っている。人それぞれが抱くイメージは、十人十色だとは思うけれど・・・「違う」 (堂本先生、司馬先生御免なさい)

 「功名が辻」に登場するガラシャは、長谷京が演ずるらしいが、案外そんな感じなのかもしれないと思ったりする。楚々として憂いを含んだ、しかしながら気高い才色兼備の人を、我々にどう見せてくれるのか楽しみ・・・
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西の正倉院

2006-02-20 18:11:56 | 徒然
 宮崎県の山奥・美郷村(みさとむら)南郷地区に、西の正倉院がある。           (美郷村は西郷村、南郷村、北郷村が合併して今年誕生したらしい)
資料を漁っていたら「西の正倉院」のパンフが出てきた。数年前、妻の故郷延岡に出かけた折、一人車を飛ばして(延岡から片道・二時間弱)見に行った。その時のものだ。当時南郷村と言ったこの地区には、660年頃百済の王族が逃れてきたと伝えられている。正倉院が所蔵する銅鏡と同じものが30面ほど残されている。そのため、「百済の里」という韓国風の施設を作って観光客を招いていた。当時の南郷村は、竹下総理の「故郷創生資金」を利用して、東大寺正倉院と同じものを作ろうと考えたのだ。すごい発想。宮内庁などへ陳情を重ね許可を得て、建設の運びとなった。私の友人が勤めていたゼネコンが、数年掛りで苦労を重ね建設していることを知っていたから、是非工事途中で見てみたいと考えたのだが、何せ遠い。熊本から車で四時間ほど掛る。ゆえに完成後と相成った。あの校倉造であるが、輝くような檜の肌合いと、心地よい匂いが何ともいえない。寸分違わないというこの建物を見ると、いにしえ人の技術力の素晴らしさに圧倒される。各市町村に配られたあの「故郷創生資金」の使われみちは当時いろいろ議論された。南郷村の「正倉院」は千年も、二千年も残るのだろう。素晴らしいことだ。願わくば、沢山の皆さんに見ていただきたいと思うのだが・・・・何せ遠い。
ちなみに、私は東大寺の校倉は見たことがない。
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一押し番組

2006-02-19 23:57:01 | 徒然
 読売TVが放映する、「たかじんの、そこまで言って委員会」という、政治バラエティ番組が、熊本人の心をつかんでいる。関東地方には放映していないらしいが、毒舌の出演者が本音で発言し、「たかじん」と「辛坊アナ」の名コンビの司会が、これも本音で発言を誘導して行く。熊本が視聴率一位らしい。日曜日の午後は、これを見る為に外出もままならない。血の気の多い熊本人にはたまらないのかもしれない。最近の一押し番組である。
http://www.takajin.tv/
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コピー

2006-02-18 22:56:02 | 徒然
 熊本県立図書館で、先祖附その他100枚余をコピー、1時間ほどコピー機を占領してしまった。(御待ちの皆さん、御免なさい)四境戦争に係る、肥後藩國事史料の該当項もコピーしたかったが、土曜日の時間制限に間に合わず断念。該当項を探し出すのも大変だし、この史料買うとなると古書籍店では十万円程だと云うし・・・・死傷者を出している戦いだし、其の後豊前小笠原は藩主以下落人五六千人が熊本に避難してきたといった事を、史料から紹介したいと思うのだが・・・
事は中々思うように運ばない。64爺にはコピー1時間は一寸こたえた。
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文書の信憑性

2006-02-18 18:37:05 | 徒然
 細川家を知る上では、「綿考輯録」は絶対欠かせない資料ではあるけれど、その内容が100%信頼がおけるかというと、そうとも言えない。(詳細の指摘はさておく)
編者小野武次郎は、いろいろな資料や家記から、極めて詳細に記述しながら「いぶかし」と言う言葉を使って、疑問ある事柄を半ば否定している。ところが研究者によっては、この「いぶかし」き文章が本物となって一人歩きを始めている。しかしこの「いぶかし」き文章は、ちゃんと該当する家の「先祖附」などで裏は取る事ができる。小野武次郎の苦労が分る。おかしいと思うけれど「先祖附」などの資料がでてくると、「いぶかし」とでも書かずば事は収まらない。先祖附の記述の信憑性は、どのようにして確かめられているのか・・・我が家の先祖も「○○守」などと名乗っているけれども、本当かしらん。
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丸目蔵人の墓

2006-02-17 17:42:56 | 徒然
 丸目蔵人のお墓が、宇城市不知火の松合の山中にある。もう四五年前だが、友人の杉山を見に行く途中で偶然発見した。もっとも表示板が有ったからなのだけれど。丸目蔵人は球磨郡錦町に居住していたようで、役場の近くにお墓がある。遠く離れた松合の山中のあのお墓は何故あそこに有るのだろう。

 海音寺潮五郎の「おどんな(私は)日本一」という、蔵人を主人公とする小説があるそうだが、未読である。今般渋谷敦氏の「新説・剣豪丸目蔵人佐」が、新聞小説として熊本日日新聞夕刊に連載が始まった。郷土の著名人「蔵人」なのだがよく知らない。小説を読みながら合わせて勉強したいと思うのだが、松合山中のお墓についても触れていただけるだろうか。
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大宅壮一著「天皇実記」

2006-02-16 21:52:30 | 徒然
 紀子様のご懐妊で、「皇室典範」改正問題は一気にしぼんでしまった。
案外宮内庁などは、愛子様のお相手探しを「そろそろ始めなきゃ」と考えていたかもしれない。それも元皇族のお血筋の方などに狙いをつけて・・(女性女系天皇が容認されても、男系の継承で頑張るのではないかなー)

 天皇家というものの内実は、本当に雲の上なのだが、大宅壮一の「天皇実記」はいろんな疑問に答えてくれる歴史ルポルタージュとして秀逸である。
後の評論家・草柳大蔵が出版社に勤めていた頃、大宅の手伝いをさせられて、資料収集にあたった経緯が、あとがき風に書かれていてこれが面白い。

 門跡寺院というのがある。大宅は「早世というのは自然の淘汰、出家や独身は人為的淘汰」とする。門跡寺院もその部類である。戦国から江戸にかけての大名家にしても、まったく同様なことがいえる。細川家も例外ではない。

 岩倉具視の妹が、天皇のお子を二人も産んでいなかったら、明治の誕生も形を変えていたかもしれない。孝明天皇は恫喝され、幼い明治天皇は何もわからぬまま、安月給の公家たちは金に踊らされ・・・・辛辣な大宅の言が小気味いい。
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Conguratulasions

2006-02-16 13:41:44 | 熊本
 建築家・伊東豊雄氏が王立英国建築家協会から、ゴールデンメダルを授与された。丹下健三、磯崎新、安藤忠雄に続く四人目。氏設計の、八代市立博物館「未来の森ミュージアム」に、一段の箔がついた。
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中村一氏から

2006-02-15 00:10:08 | 歴史
 「功名が辻」で、細川藤孝、明智光秀、堀尾茂助、中村一氏など、後の細川家ゆかりの人たちが登場して、ちょっと目が離せない。中村一氏のご子孫にはご厚誼をいただいているが、お一人は在熊の肥後金春流十三代M氏、もうお一人は田辺城籠城で城を脱出して禁裏への使いを果たした中村甚左衛門のご子孫TS氏である。中村氏の枝葉は大きく広がっているが、歌舞伎の中村勘三郎も一族である。「赤穂義士資料館」のS氏からのご教示によると、赤穂浅野家の臣奥野氏も中村一族だそうだ。中村奥右衛門が主君の命により、奥右衛門の「奥」に浅野家の「野」を拝領して、奥野と名乗りを替えたのだそうだ。

 肥後金春流中村家には、皆伝を得るための大名等の起請文が数多く残されている。赤穂奥野氏の関係ではないが、浅野長矩の爺さまや、あぐり様のお父君の物等も残されている。(血判が押されているから、血液型が分るかも知れない。)

 話は飛ぶが、吉良上野介の次女の名は「あぐり」、奇しくも浅野長矩室と同名である。旗本津軽采女の奥方だそうな。采女は風流な人であったらしく、釣りの書「何羨録(かせんろく)」を著している。「津軽」というからには津軽の「津軽」さんの一族だろうか。幕末の「津軽」さんは細川の血で繋がっている。
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不飲酒戒(fuonjyukai)

2006-02-14 00:21:04 | 徒然
 我が家は浄土宗である。法然上人百四十五箇条問答に「不飲酒戒」と云うものがある。凡夫が問う「酒飲むは罪にて候か」と。答えは「凡夫のならい力及ばぬことに候之」と。「本当は飲んじゃいかんが、しかしこの世の習いだから(どうぞ)」と云うわけである。この懐の深さはどうだ。

 焼酎を飲みながら、ふと思い出して「浄土宗徒」であることを、有り難く思った。
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そのきさらぎの望月のころ

2006-02-13 23:16:12 | 徒然
 夕方愛犬を連れての散歩、雨が降ろうが、風が吹こうが欠かすことの無い日課である。
ふと空を見上げると、大きなまんまるのお月様が輝いている。「如月の望月」じゃないか・・・・。西行法師の「願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」という歌が大好きで諳んじている。西行法師がいう花とは、櫻ではないのか。よくよく考えたら如月とはいうものの、旧暦では一月だった。旧暦如月の望月の日は三月の十四、五日当たりのようだ。再び外に出て寒天を見上げると、月は天頂にあって冴え渡っている。お向かいの梅の木は、沢山の莟をつけて太陽の恵みを待っている。今日の朝は、久し振りに霜がたつ厳しさだったが、さて明日の朝はいかが・・・
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