津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川忠興譜 ・・ 9

2010-03-31 17:19:30 | 歴史
閏三月七日三成伏見ヲ立テ居城佐和山ニ蟄居ス 先是太閤在世ノ内ヨリ三成専横ノ擧動ノミニテ
諸将不快ノ事多シ中ニモ忠興・池田・両加藤・浅野・福嶋・黒田等ハ三成カ擧動終ニハ天下ノ亂ト
ナルヘシ依之日比ノ積悪内府へ訴へ誅スヘキトノ僉議アリ其外同意ノ輩多カリシケレハ三成既ニ
危カリシニ佐竹義宣カ計ラヒニテ三成伏見ニ逃上リ我屋敷ニ籠ル七名ノ人々ハ跡ヲ慕ヒ頓テ内府
ノ屋形ニ集リ三成カ罪科十一ヶ条ヲ書立テ明日三成ヲ召サレナハ忠興讀聞セ清正・嘉明ハ両手ヲ
トラへ刺殺スヘシト啇議シ七人共ニ明朝罷出へシトテ丑刻ニ退出セリ 其跡ニテ内府本多正信ニ
密談アリテ赦宥セラルゝニ極リ翌朝七人出仕セシ時内府諭シテ申サレケルハ昨夜啇議ノ趣熟考
スルニ兎角家康ハ我儘ナリト世上ニ物議アル由然ルニ太閤五奉行ノ一ニ抜擢セラレタル三成ヲ七
人ノ談合ニテ刺殺シテハ彌専横ニ歸スルヘシ三成カ命ハ我等乞受ント懇ニ申サレケレハ餘リ慈悲
スヘキ是非ナキ事トテ各退散ス 其後右七人ノ邸第へ三成一味ノ輩襲来ル由風説アリケレハ諸
将皆各邸ヲ守備シテ殊ノ外騒シカリケリ 此時分内府申サルゝハ三成世間ニ交リ各ヲシテ快カラ
サラシムレハ彼ヲ佐和山ニ屏居イタサスへシ 是ニテ各怒ヲ止目ラルへシト有ケレハ何レモ領掌
シ御為メアシク存シケル故色々相談ヲモシテ佐和山ニ引籠ラシム 夫ヨリ伏見大坂稍ク静ナル事
ヲ得テ内府伏見城ニ移居セラル 忠興暇ヲ乞テ丹後ニ下國ス
三成佐和山ニアリテ百方奸謀ヲ廻シ密ニ内府へ使ヲ遣ハシテ曰ク忠興佯テ味方フリセシカトモ皆
陰謀ノ調義ナリ其故ハ忠興カ大坂屋敷ノ造築シ人ヲ遣ハシテ探見レハ詰リ々々ニ銃眼ヲキリ野心
ノ企テ明白ナリ又加賀利長モ歸國ノ後武具ノ用意ノミ致シ居城ヲ堅固ニシ忠興ト牒シ合セ頓テ討
テ登ルヘキ催ナリト讒シケル 内府大ニ驚キ即チ丹羽五郎左衛門ニ越前ノ兵ヲ加ヘ木目峠ニ番所
ヲ建テ利長ヲ防キ忠興ノ抑ヘニハ丹波ノ兵ニ命シ内府モ加賀ヘ出陳セラルトノ催ナリ 其比忠興ハ
丹後ニ在幽齋及ヒ興元ハ大坂ニアリ松井康之ハ伏見ニアリ内府幽齋ヲ召テ誠トシカラストハ思ヘ
共忠興利長ト謀ヲ通シ異心アル由聞ヘタレハ疑イナキニシモアラス父子ノ間虚實ヲ審ニセラルヘシ
敢テ異圖ナクハ其趣誓詞ヲ認メラルヘシトアリケレハ忠興ニ於テ素ヨリ反心ナシ誓書ヲ献シテ他ナ
キヲ明スヘシト答フ 是ヨリ先キ榊原康政并金森・有馬両法院ハ兼テ忠興ト睦ク此事ニ付テ互ニ相
談シ榊原氏ヨリ興元・康之両人ヲ招キ内府ノ趣意ヲ懇ニ申諭シケルユヘ幽齋初メ三人乃チ連署ノ
誓詞ヲ進呈ス 内府疑ヒ晴レ幽齋出仕シケレハ別テ懇ニセラレ又忠興モ十一月丹後ヨリ出テゝ誓
詞ヲ呈シケレハ愈以喜悦セラレナリ
【慶長五年】
慶長五年庚子二月内府ノ命ニ忠興連々貧困ノ由承ル些少トイヘトモ豊後ノ福原直高但馬ノ出石ニ
易封ノ跡六萬石アリ之ヲ大坂ノ厨費ニ充テン受取人差下スヘシトナリ 忠興拝謝シテ松井康之・有
吉立行等ヲ以テ杵築ニ赴シメ有吉ヲ杵築ノ城代トシ松井ハ検地済テ丹後ヘ歸ルヘシト命ス 其後
忠興モ丹後發足杵築ニ赴有吉先導シテ領分ヲ巡見セリ

四月廿八日玄蕃・助右衛門ヨリノ報告杵築ヘ達ス 其趣ハ上杉景勝異志アルニ付秀頼ノ名代トシ
テ内府親ヲ兵ヲ帥テ發足シ大坂ヨリ先鋒ハ福嶋正則・加藤嘉明・忠興三人ニ相定ルトノ事ナリ 之
ニ依テ早速杵築を出舩シ大坂ニ至リ即刻登城ノ處先鋒ノ命アリ直ニ丹後ヘ歸國シテ出陳ノ用意シ
廿三日忠隆宮津ヲ發シ忠興ハ廿七日ニ發ス 朝妻ニテ忠隆待合セ七月十六日下野宇都宮到着
同所ヨリ二里程北ノ在所ニ至リ全軍那須野原ニ野陳ヲ設ケ諸勢ヲ待合スヘシトテ小屋カケ等ノ用
意シケル内大阪ノ第ヨリ飛脚到来シ関東下向以後石田カ黨蜂起シ内府ヲ敵ニナシ丹後ヘハ丹波
但馬ノ兵ヲ以テ押寄セ諸大名ノ内室は大坂城中へ人質ニ取入ルヘキ巧ミノ由ナレハ其段内室へ
言上ノ處決シテ登城ナサレマシキトノ事ニ付留守ノ儀ハ気遣ヒアル間敷トノ旨小笠原少齋ヨリ注進


六月十六日内府ハ景勝退治トシテ大坂ヲ進發七月二日江城ニ入廿一日同所を發シ廿四日野州
小山ノ舊城ニ着此處ヲ本陳ト定メラル 其晩伏見城代鳥井彦右衛門ヨリノ飛脚参着翌廿五日諸将
ヲ本陳ニ集メラレ石田三成異謀ノ趣告来レリ此儀ハ景勝ト牒シ合セ置キケルト見ヘタリ然レハ其外
ノ大老奉行中モ大概一味タルヘシ各ハ大坂へ人質コレ有ル事故勝手次第馳上ラルへシトアリケレ
ハ福嶋正則進ミ出旗下ニ属スヘキ旨ヲ申ス 其外諸将何レモ見方仕ルヘキ旨言上ス 之ニ依テ諸
将ハ是ヨリ直ニ先駈尾州清須ニ軍ヲ次シ内府モ繼テ出軍上方ニ進發アルヘシト軍議相決セリ
廿六日忠興ハフキト云フ驛ニ一縮廿七日上蓑ニ着此時内室自害ノ事報知アリ 此事後條ニ詳ナリ 然處
小山ヨリ飛脚ノ趣ニ因リ加藤嘉明同道ニテ本陳へ歸リケレハ内府ノ命ニ最前は上方出馬ト申ケレ
共上方一統セシ上ハ先ツ江戸二在城シ今マテノ領分ヲ持固ムヘシ各大坂ノ人質ヲ敵方ヨリ害シテ
ハ末代マテノ恥辱ナリ急キ馳登り進退ヲ定メラルへシ是マテノ志忘レ難シト申サレケレハ忠興進ン
テ申スヨウ當陳ニ相従フ輩ハ常ニ懇意ノ面々ナレハ此期ニ臨ミ爭テカ心變リスへキ忠興カ妻ハ去
ル十七日大坂城内ニ取入ントセシユヘ自害ニ及ヘリ何ノ面目有テ上方ニ属スヘキヤ諸将残ラス上
坂ストモ忠興ハ何時モ先鋒ヲ勤へシト申ケレハ正則ヲ初メ人質ノ儀此方ヨリハ出サゝル事ニテ敵奪
取リナハ是非ナキ次第ナリ急キ上方へ發向アラハ先鋒シテ軍功ヲ顯ハスへシト有ケレトモ内府猶
モ同意ナキ躰ナレハ忠興重而左程ニ疑心有テハ大事成り難シトテ異心ナキ旨何レモ誓詞ヲ呈シケ
レハ内府喜悦アリテ此上ハ諸将追々ニ攻上ラルへシトテ井伊直政・本多忠勝ヲ先鋒ニ加ヘラレ内
府ト秀忠ハ先ツ江戸へ歸城アリテ直ニ出馬有ヘキトナリ
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のぼうの城

2010-03-31 16:16:50 | 書籍・読書

のぼうの城


著者:和田竜 著
出版社名:小学館
価格:1,575円(税込)

【本の内容】
時は乱世。天下統一を目指す秀吉の軍勢が唯一、落とせない城があった。武州・忍城。周囲を湖で囲まれ、「浮城」と呼ばれていた。城主・成田長親は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁も勇もないが、しかし、誰も及ばぬ「人気」があった-。

【著者情報】
和田 竜(ワダ リョウ)
1969年12月大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。2003年に本作と同内容の「忍ぶの城」で、脚本界の大きな新人賞である「第29回城戸賞」を受賞。小説は、『のぼうの城』がデビュー作となる
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言葉のゆりかご

2010-03-31 09:13:18 | 新聞
 明日から新年度となる此の時期、メディアの改変期に伴い親しんできた番組や連載の記事がなくなり、淋しい思いにさせられる。熊本日日新聞に平成16年1月から連載されてきた、「言葉のゆりかご」が今日で完了した。毎回熊本に関係する一人の人物を取り上げ、解説がなされていたが、大変興味深く勉強させられた。筆者にはしょっちゅう熊本県立図書館でお目にかかった。以前も書いたが、「近代肥後異風者伝」も終り、筆者には肩の荷を下ろされたことだろう。連載は1535回に及んだというが、同様の作業を続ける私としては目標を失った思いがする。御礼を申上げたい。
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細川家譜--細川忠興譜 ・・ 8

2010-03-30 15:57:39 | 歴史
【秀吉死す】
三年戊戌八月十八日太閤伏見城ニ於テ薨ス 歳六十三 後ニ遺物ヲ利家ノ館ニテ大小名ニ頒チ賜
フ 各差アリ 忠興ヘハ體捨正宗ノ脇差松井康之ニ藤島ノ太刀ヲ賜ハル

四年己亥正月十日秀頼太閤ノ遺言ニ依リ伏見城ヨリ大坂ニ移ル 此砌伏見・大坂ノ間何トナク物騒
シク其子細ハ太閤薨後内府権リニ天下ノ事ヲ決シ威権獨熾ナルヲ以テ石田三成等之ヲ妬ミ種々姦
計ヲ廻ラシ内府ヲ殪サン事ヲ謀ル故ナリ 於是内府ニ心ヲ歸セシ人々ハ織田有樂・京極高次・伊達
正宗・最上義光・加藤清正・福嶋正則・浅野幸長・池田輝政・藤堂高虎・黒田如水・同長政・森忠政・
有馬法印・金森法印・新荘直頼等ナリ 毎夜家康ノ館ニ集リテ守護ス 忠興モ其列ニ加ハル 堀尾
吉晴ハ此事ヲ深ク歎キ和順ノ事ヲ勧觧シ双方ニ往来して稍ク事調ヒ二月五日互ニ和睦ノ誓詞ヲ出ス
忠興ハ利家ト縁者ナレハ 利家ハ四老ノ一ナリ且忠興嫡男忠隆室ハ利家ノ女 特ニ苦心シテ同ク和睦ノ事ヲ取結
ヒ松井康之ヲ内府ノ館ニ参候セシタテ色々心ヲ盡シケリ 其後内府ト四老五奉行ノ和議破レ又伏見
大坂ノ騒キトナリ其故ハ今度和睦ノ禮謝トシテ孰モ内府ノ館ニ至リケル時利家ハ大病ナルユヘ内府
大坂へ下向アリテ利家ヘ對面之アルヤウ各申置キケレ共種々嫌疑ノ事アツテ遅滞ニ及ヒケレハ
書ニ詳ナリ略之
又各憤リヲ含ミ三成殊更言ヲ巧ニシテ利家ニモ内談シ色々奸謀ヲ構へ内府ヲ斃スニ決
セリ 依之内府へ心ヲ寄ル 人々営中ニ馳参リテ守護セリ 利家ノ嫡子利長ハ忠興カ縁者ノミナラス
日比睦シカリケルニ此一大事ヲ告知セスハ後日恨ミラルへシトテ密ニ来リテ前後ノ子細ヲ忠興へ委
シク物語ノ中ニモ三成カ謀ニ家康ノ邸地狭隘ナレハ向ノ高邸ヨリ火箭ヲ以テ焼立前後ヨリ挟ミ討取ル
ヘシト巧ミシヨシ具ニ語リケレハ忠興之ヲ聞テ如此ナレハ足下家ヲ滅スノ機ナリ三成カ例ノ表裏ヲ知
リナカラ箇様ノ事ニ與ミセラレシハ觧シ得スト云ケレハ利長眼色變リ後悔ノ躰ナリ忠興又云此儀破レ
ニ成モ無事ニ成モ足下父子ノ思慮ニテ済ムヘシ 想フニ三成今ノ世ニ恐レ憚ル者ハ大納言殿 利家ノ
事ナリ
ト内府ナリ 然ルニ大人大病ユヘ在世ノ内其威ヲ假リテ内府ヲ殪シ大人捐館ノ後ハ巳主ニナラ
ントノ巧ナリ 近比申カタケレ共大人死去アラハ足下モ今ノ如クハ人ノ用ヒマシ 向後内府ト三成トイ
ツレヲ戴ント思ハルゝヤ治部ヲ戴ン事我等ニ於ハ能ハサルナリ 其上内府異心ナキ事能ク存セシナ
リ 大人ニ異見アリテ和睦然ルヘシト申シケレハ利長得心アリテ貴諭一々尤至極ニ存スルナリ 若
此異見ナクンハ果シテ三成カ謀計ニ陥ルヘシ貴殿家君ニ見ヘテ説諭シ賜ハルヘシトナリ 忠興肯ハ
ス昨今ノ縁者イカテ異見ハイタスヘキト答へケレ共利長強テ同道ヲ請ヒケル故直ニ行テ次ノ間ニ扣
先ツ利長ノミ奥ニ入テシカ々々ノ趣諌メケレハ大納言疉ヲ扣キ怒リケルユヘ此事ニ付テハ越中ヲ同
道イタシタリ直ニ様子聞召サルへシト申ケレハ是へ通ラルへシトテ忠興ヲ通シ則内府違背ノ箇條指
ヲ折リ此通リニテハ往々秀頼ノ為メニ宜シカラス我等在世ノ内ニ内府ヲ打果スヘシトナリ此時忠興
ハ内府ノ罪ナキ條ヲ一々懇ニ分疏シケレハ利家大ニ驚キ暫ク黙然タリシカ始テ三成カ奸計ヲ悟リ此
上ハ兎モ角モ然ルヘク取計ヒ頼入トノ事ナリシカハ忠興喜悦シテ夜ヲ侵シ伏見ニ赴キ翌日早天内
府ノ館ニ出テ前件利家過テ悔シ旨有ノマゝニ申述ケレハ内府大ニ愕テ先ツ足下ハ我命ノ親ナリト喜
悦アリ 忠興偏ニ天下静謐ノ為メニコソ告申タレト答へ又大坂ニ赴キ内府和睦有ヘキトノ旨ヲ利家ニ
告ケレハ利家モ悦ヒケリ 此前後大坂伏見ノ間ニテモ街説多クシテ騒カシカリケレハ忠興ハ人ノ知
ラン事ヲ恐テ蓑笠ヲ被リ自ラ小舟ニ棹サシ淀川往来セシ事數回ナリ 猶外ヨリハ加藤 清正 浅野両
氏ヲ加へ彌和睦トゝノヒ廿九日利家川舟ニテ伏見ニ赴キ内府ノ邸ニ至ランレ加藤・浅野ト忠興同道
セリ 内府饗應心ヲ盡シテ懇ニ歓待シ忠興等モ接伴ス 此時利家申述ケルハ過日會議シテ憚ヲ申
入タル事聊カ私ノ宿意ニ非ス偏ニ秀頼ノ為メヲ思ヒテノ儀ナレハ必懸想アルヘカラス然ルニ貴邸端
近ニテ住所ニ宜シカラサレハ向嶋ノ第二移居然ルヘシト勧メラレ内府モ同意アリケリ

三月十一日内府大坂へ下リ利家ノ邸へ入ラル 先是忠興内府へ言ケルハ大納言ニ和議ハ相済ケ
レ共病ヲ一度モ訪ハレスシテハ情義薄キ二似タリ冀ハ日ヲ定メラレナハ忠興モ随従致スヘシト申ケ
レハ内府モ得心アリテ其後伏見ヨリ川舟ニテ大坂へ下向利家ノ邸へ入ラレ利家饗應アリ 此時接
待ニハ浅野長政集會ノ人々ニハ池田・福嶋・黒田・加藤・堀尾・藤堂等ノ數氏及忠興ナリ 内府其
夜ハ藤堂氏ノ邸ニ止宿ノ處三成カ黨與襲来ルトノ風聞シケレハ一味ノ諸大名内府ヲ守護シテ事故
ナク翌日伏見へ歸ラレタリ
廿六日内府向嶋ノ邸第 伏見城ノ出丸ノ心ニテ南ノ方ニ當ル ニ移居セリ 是ヨリ先キ三成以為ラク忠興ヲ我
黨與ニ摟スシシテハ内府ヲ滅ス大事成難カルへシトテ百方盡力シ一日前田玄以ヲ招キ我等忠興ト
不和ナル事甚謬レリ何卒和睦調フヤウ依頼スト頻ニ懇請シケレハ玄以来テ其趣ヲ述ケレ共忠興許
容セス 玄以重テ云故太閤ノ洪恩忘却ナクハ私ノ恨ヲ捨石田ト和睦セラルへシト再三説諭シケル故
佯テ之ヲ許ス 長束大蔵太輔是ヲ聞大ニ悦而申シケルハ忠興ヨリ石田へ行ンモ石田ヨリ忠興へ行
ンモ如何ナレハ先ツ我亭ニテ共ニ會シ和議然ルヘシト玄以ヲシテ申入ケルユヘ日ヲ定メテ赴シニ
三成は疾クヨリ来リテ手ニ盤上ノ乾柿ヲ捧ケ語リ接スルニ及ハス忠興ノ前ニ置キ前カタヨリ嗜好ノモ
ノ故持チ参リタリ先ツ食セラルへシト申ケレハ即チ一禮シテ食シケリ 其座ニテ三成内府ノ専横ヲ
數へテ云ケルハ此儘ニテハ天下穏ナラス終ニ内府ヲ主トスルニ至ルヘシ豈遺憾ニアラスヤ何卒秀
頼ヲ翼戴セント欲スルニヨリ内府ヲ斃スヘキニ決シタリ太閤ノ洪恩忘レナクンハ偏ニ一味希フナリ秀
頼へ忠節盡サルニ於テハ望次第何方ニテモ二ケ國ノ領知必周旋スヘキト誓言イタシケレハ忠興我
カ不肖ヲ棄ス斯ル一大事ヲ依頼セラゝル事満足之ニ過ス 此上ハ一味致スヘキナリサテ内府ヲ討
ツヘキ方略ハ如何ト問ケレハ三成斯ル時ノ為ト存シ太閤在世ノ内ヨリ内府ノ邸ヲ纒ヒ此方一味ノ軰
ノミ比隣セシメタリ 乃チ今夜々討ニ究メ其手立ニハ宮部善祥坊・福原右馬助カ邸第高ミナリ此等
ノ處ヨリ齊シク火箭ヲ射カケ焼立ル程ナラハ必ス辟易シテ避出ン其時井摟ヨリ悉ク鉄炮二テ討取ル
ヘシ彼僅二千ノ人數ト聞スレハタトヒ逃ル者アリ共味方ノ多兵ヲ以テ之ヲ鏖ニスヘシ足下ニモ出兵
セラルへシ何ノ手間モ入マシモ合点ナキ躰ニモテナシ否左様ノ事ニテハ成リカタシ火箭ヲ放ツハ地
ノ高下ヲ論セス 内府ノ方ニモ塀裏ニ走リ矢倉ナトヲ附ケ火箭ノ備モ兼テ有ルヘシ其上近邊諸将ノ
方ヘハ常ニ間諜入置トノ事ナレハ今夜ノ巧ミモ疾ク知レテ此方ヨリ火矢ヲ十發射出ス時彼方ヨリハ
百發モ射懸ヘシ 然ラハ敵ノ屋敷ヨリモ味方ノ屋敷早ク焼立ラルヘシ 内府ハ數度武名ヲ著シタル
老功ノ勇士多ケレハ二千ノ人數心ヲ一ニシテ突テ出必死ノ働ヲナサハ輙クハ討得難シ 其内彼ニ
親シキ諸大名聞付テ馳来ラハ却テ味方敗北セン事疑ナシ 假令一應勝利ヲ得ル共怯弱ノ巧ミナト
ゝ後日嘲ヲ受ンモ口惜キ次第ナリ去ナカラ夫程マテ思ヒ定メラレシ事ナレハ爰ニ一策アリ先ツ今夜
ノ先鋒我等ニ委任セラレナハ無ニ無三ニ切入ルヘシ其上ニテ各ハニノ目ヲトラルへシ 左アラハ内
府ヲ討取ル事アルヘシ假令忠興敗死ス共潔キ英名ハ後代ニ残ルヘシト申述ケレハ三成之ヲ聴カス
是非々々焼立ント申ケレ共忠興同意セス互ニ諍論シケル故越中殿ノ如ク氣セキテハ如何ナリ殊ニ
時刻モ移リタリ旁今夜ハ延引然ルヘシトテ各退散シケリ 小西行長此次第ヲ聞テサテ々々口惜キ
事ナリ五奉行等世事ニハカシコケレ共軍事ニハ拙ナキ越中ニ誆誘セラレ最早内府ヲ討ン事思ヒモ
寄ラスト頭ヲ掻テ悔ケルトナリ 忠興其夜父幽齋ヲ以テ事ノ由ヲ告ケ向嶋へ立退ルへシト申向ケレ
共内府答テ彼等何程ノ事仕出スヘキト申サレケリ 翌日忠興自カラ至リテ右ノ次第詳ニ物語シテ
早々向嶋へ立退キ然ルヘキ由促シケレハ内府大ニ愕キ箇様ノ計ラヒナクハ乍チ命ヲ隕スヘキトテ
急ニ向嶋へ立退カレケル
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おしゃべりな喪主

2010-03-30 09:03:57 | 随想
 娘婿の祖父にあたる人が亡くなった。正式には祖母の連れ合いである。喪主であるこの祖母殿は、娘婿の母親の実姉というややこしい関係である。つまり姉が妹を養女にしているわけである。祖父なる人は多彩な病歴を持ち、ガンを患っての生涯であったが享年82歳であったから、祖母殿にいわせると、「よう長生きした、天寿じゃ」ということになる。二三度しかお目にかかっていなかったが、お通夜・お葬式に参列した。お通夜の席で一言お悔やみをと思い声を懸けると、速射砲の如きおしゃべりが始まった。ご亭主の病歴から臨終までが時系列で詳細に、それも口を挟む間もないほどの速さで語られる。娘からきいていた「おしゃべりおばあちゃん」が喪主殿で有ることを忘れていた。和室の式場で膝が悪い喪主殿は椅子に腰掛けていたが、妻の「お膝がご不自由のようで」の一言を聞くや否や、今度は主題がそちらに移りとうとうとその予防策についての講義が始まった。まわりの人たちは、喪主殿のおしゃべりについてはとっくにご承知らしく、時折被害者たる我々の方を眺めてくる。お気の毒にといった感じである。一歳二ヶ月の孫(祖母殿から玄孫)が会場を走り回り、参列者に体当たりしていく。笑い声が上がり祖母殿の話が一瞬途切れた。ここぞとばかりに挨拶をして席を離れた。孫の頭をなぜたのは、さよならの挨拶と共に感謝の気持ちを添えてである。祖母殿は二つ三つ作られている話の輪から取り残されて、淋しい喪主の顔に戻っていた。
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細川家譜--細川忠興譜 ・・ 7

2010-03-29 11:14:01 | 歴史
十一月太閤ヨリ松井康之ニ領知を賜ハル 康之陪臣ナレ共多年ノ忠義ヲ嘉セラレ石見半國賜ハリ
直臣トスルノ命アリシカ共 松井家記ニ今度晋州ニ於テ一番乗ヲ感賞ニテトアリ 康之數年幽齋父子ノ殊恩ヲ受
タレハ是ト列ヲ同スルニ忍ヒスト辭シケレハ太閤彌感心セラレ康之ハ常々茶道ニ志深キ故茶料ニ
スヘキトテ城州神童子村并以前母へ與ヘタル八瀬村ノ領知トモ賜ルトノ證書アリ
【忠興、秀次謀反の連座を問はれる】
七月十五日関白秀次異志アツテ自裁ス 此時諸将改易等有ル内ニ忠興ノ女壻前野出雲守父但
馬守モ切腹シ出雲守室ハ忠興へ預ケラル 此頃伏見普請ノ事ニ付加茂三カノ原ハ石取場ナル故
忠興ハ奈良ノ如意院ニアリケルカ太閤ノ召ニヨツテ伏見ニ登リケル時藪ノ内ヨリ歳ノ程五十計リナ
ル者出テ與一郎サマニテ有リケルカ密ニ言上致シ度事アリト申ケル故傍ニ立寄リケレハ彼者申
様フ今度太閤ヨリ君ヲ召サル子細ハ秀次へ一味セラレシ由三成讒シケル故切腹セラルヘキトノ事
ナリ是ヨリ丹後へ歸國セラレ然ルヘキヨシ申述フ 忠興聞テ身ニ於テ罪ナケレハ直ニ伏見ニ至リ其
旨條陳スヘシ其方ハ如何ナル者ソト問ケレ共何ノ答モナク逃去リヌ 夫ヨリ直ニ伏見ノ屋形ニ赴キ
歸着の趣言上シケレハ太閤ヨリ秀次へ一味シ黄金百枚貰ヒ受タル由實否分明ノ間ハ閉門致スへ
シトノ命アリ 或日石田・長束・増田・徳善院ナト啇議シ太閤ヨリ忠興ニ死ヲ賜ハルトノ書簡相調へ
ケル由徳善院は忠興ト交リ深カリケレハ手ヲ拍テ坊主衆茶ヲ持チ参レト申セシカハ竹田永翁持来
リシヲ一口飲テ熱シトテ返シサマニ屹ト睨ミケレハ永翁心早キ者ニテ是ヲ悟リ急キ松井康之方へ
行キ奉行衆ヨリ忠興君へ死ヲ賜ハルトノ状来ルヘシ是奉書ニテハ無ク石田等四人ノ偽状ト見ヘタ
ルトテ徳善院ノ風情モ語リシカ評議替リケルニヤ其状ハ来ラス 其後モ永翁ヨリ石田カ讒口頻リナ
ル由康之ニ告知セタリ 忠興大ニ憤リ年来ノ戦功モ恩賞アルヘキ共日比三成ト不和ナル故支ヘテ
僅ノ恩補モナケレハ有功ノ家臣ヲ賞スヘキヤウ無シ此上彌讒言ヲ信シ死ヲ賜ハラハ容易ニ腹ハ切
ルマシ三成ヲ襲ヒ伏見ヲ黒土ニシテ自ラ首ヲ掻落スヘキト申シケレハ康之諌テ尊父母ヲ安穏ニ宥
免アラハ孝行ノ為ニ何事無ク切腹シ玉フヘシ介錯相勤メ殉死仕ルヘシト申シケレハ忠興深ク是ヲ
感シ夫ヨリハ切腹命セラルゝ時ノ用心ニ毎日沐浴シ白キ肌着ヲ着用セリ 米田是政ハ命ヲ受テ聚
楽ノ私邸ニ赴キ伏見ヨリ左右次第ニ忠興カ妻子ヲ殺シ家ニ火ヲ放チ切腹セント其期ヲ待居タリ 忠
興又徳善院玄以・醫師壽命院悰以ヲ頼ミ黄金ノ儀ハ手前不如意ニ付施薬院 全宗 ヲ頼ミ秀次へ借
用セシ事其隠レ無シト云ヘ共全ク賜リタルニテハ之レ無ク一味ノ儀ハ素ヨリ思モヨラスト條陳シケ
ルヲ両人ヨリ反復言上シケレハ太閤ノ命ニ先年明智光秀サヘ與ミセサレハマシテ黄金百枚ノ事ニ
謀叛ニハ與スマシ然レ共前野出雲守縁者ナレハ疑ヒ無キ二シモアラス先ツ黄金百枚ヲ返シ娘ヲ
出スヘシトナリ 折節黄金無カリシ二太閤ノ金奉行ヨリハ返納ヲ促ス事頻ナリ 忠興加賀大納言へ
子細ヲ告ケ娘ハ出スマシケレト黄金ハ返納ノ覚悟ナリ然レ共當時拂底ユヘ恩借ニ預リ度ト乞ヒケ
レ共折節金乏シク米ノミ少々所持セリトノ返答ナリ 之ニ依テ日頃懇意ノ市人ニ頼ミケレハ五十枚
ハ調達スヘケレ共残リ五十枚調ヒ兼ヌル由申出ケル故松井康之ヲ使トシテ事ノ顛末ヲ家康へ告テ
依頼ス 家康風邪ニテ紙幮ノ内ニ居ラレシカ康之ヲ呼ヒ紙幮ヲ揚ケ對面セラレ五十枚トアレ共如何
程ニテモ貸スヘシトテ鎧櫃ヲ取寄セ黄金百枚ヲ康之ニ授ケ息女ヲ出サレ間敷トノ事ハ吾觧シ得サ
ルナリ士ノ恨ハ言時カアルモノナリト申サル 康之畏テ領掌シ金子ハ丹後ヨリ取寄次第返上スヘ
シト云ケレハ家康夫ハ心得違ナルヘシ是程ノ黄金ハ越中殿ノ為ニナラス此三人 此時両本多列座ナリ
ノ外知ル者ナシ心易ク思フヘシトアリケル故康之再三拝謝シ雀躍シテ馳歸リ委細報シケレハ忠興
感喜骨髄ニ徹ス 斯ニ於テ黄金ハ直ニ納ムヘシ然レ共息女ハ出スマシ是非殺害ノ命アラハ死ヲ倶
ニセント覺悟シテ助命ノ事ヲ乞ヒケレハ則赦免セラレタリ サテ黄金百枚ニ宇治ノ川鱸ヲ添ヘ康之
ヲ以テ太閤ニ呈シケルヲ徳善院具サニ啓達シケレハ忠興ハ吾曽テ慈愛シ近畿ニ置ケリ讒スル者
アリ共用ユヘキ事ニアラス先二信長弑セラレシ時明智光秀ニ與セサレハマシテ金子如キヲ秀次與
フ共豈逆徒ニ加ルヘケンヤ此金子ハ直ニ忠興ニ與フヘシトテ康之ヲ座前ニ呼ヒ手ツカラ瓜ヲ與ヘテ
喰ハシメ此程ノ辛苦察セリトアリテ因州鳥取以来ノ軍功等ヲ擧ケ様々懇命アリテ忠興ニモ登城ス
ヘキトノ命アリ 康之復命ノ後忠興忽チ閉門赦免アリテ登城シケレハ奥ノ間ニ延カル太閤ハ床ヲ枕
ニシテ居ラレケルカ三成カ訴ヘ捧ル處ノ一味連判帳ヲ出シ是ハ汝ノ判ニテハナキカト問ハル 忠興
之ヲ見テ如何ニモ能ク似タル判ナレ共筆畫違ヒタル由答フ 左コソ有ルヘシ近ク寄レトテ忠興カ懐
口ニ手ヲ入レ探ラレケレ共匕首如キモ無カリケレハ彌心觧テ此程ハサソ氣詰リタラン茶ノ湯シテ慰
ムヘシトテ有明ト云茶入ヲ賜ハル 忠興畏テ拝謝ス 近侍ノ人サテモ結構ナルモノヲ拝領セラレケ
ルヨト申セハ太閤夫ヨリモ大事ノモノ遣シタリト申サル 忠興暫ク思案シテ誠ニ此以前モ時雨ノ茶
壷ヲ拝領仕リシト答ヘケレハイヤ夫ニテハナシ一大事ノ命ヲ遣ハシタリト申サレタリ

慶長元年丙申八月明ノ勅使揚方亨・沈惟敬朝鮮國使黄慎朴弘長ト倶ニ和泉ノ堺ニ来リ九月二日
伏見城ニ至リ勅書金印封王ノ冠服等ヲ獻ス 忠興是時ノ奏者役ヲ勤ム故ニ参議ニ任セラレル 
是ヨリ先キ太閤諸大名ヲ集メ明使来朝ノ節奏者ヲ勤ムヘキ人ヲ選ハレシニ容貌威儀武勇辨舌故實
等兼備ハラスシテハ叶フヘカラス誰カ此器ニ當ルヘキト申サレシニ誰答フ人モナシ 太閤又指ヲ折
テ誰彼ト數ヘラレケル時内府家康與一郎忠興然ルへカラント申サレシ詞ノ内ヨリ太閤尤ト申サレ利
家モ亦同意ニテ此後命セラシナリ
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細川一門 ―宇土・高瀬・茂木の細川家―

2010-03-29 09:05:13 | 歴史
 熊本県立美術館「永青文庫展示室」で、4/8日から【細川一門 ―宇土(うと)・高瀬(たかせ)・茂木(もてぎ)の細川家―】の展観が始まる。支藩三家については、なかなか揃っての展観の機会がなく、今回は楽しみにしている。

  【期間】  前期:4月8日(木)~5月16日(日)
        後期:5月18日(火)~7月4日(日)

  【出品予定作品】
        永青文庫所蔵品を中心に、宇土・高瀬・茂木の細川家ゆかりの美術工芸品
        及び歴史資料を約60点展示予定

  【関連講座・イベント】
        講座 細川コレクション① 「細川家分家の深層を探る」
            ・日時:5月29日(土) 13:30~15:00
            ・本館講堂 聴講無料 (事前申込不要)
            ・講師 熊本大学文学部教授 吉村豊雄氏

       

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細川家譜--細川忠興譜 ・・ 6

2010-03-28 10:56:13 | 歴史
【利休の死】
十九年辛卯二月十三日茶師利休宗易秀吉ノ旨ニ忤ヒ勘気ヲ蒙リ堺へ蟄居命セラレ俄カニ聚楽ノ
不審庵ヲ出ツ 日頃懇ナル大小名多ケレ共憚ツテ訪フ者ナシ 唯忠興ト古田織部両人ノミ淀マテ
見送ル 秀吉猶モ憤リ深ク終ニ死ヲ賜ル 忠興ハ山本三四郎ヲ介錯人ニ申付ケ神戸喜右衛門ヲ
葬禮奉行ニ遣ハス 廿八日切腹ノ期ニ臨ミ懐ヨリ羽與サマト筒ニ記シタル茶杓ヲ取出シ茶杓ハ是
ナリト忠興公へ申テ給ハルヘシトテ喜左衛門ニ渡シタリ 茶ノ湯印可相傳ノ心ニヤト人々申セシ由
忠興多年志シ深キ故利休ヨリ茶道ノ奥儀悉ク傳授シ又古来香炉ノ茶ノ湯ト云事其故實ヲ知ル人稀ナリシヲ宗易ヨリ忠興ニ傳フ
然ルヲ三宅亡羊は香道ノ達人ナルニヨリ忠興ヨリ相傳ヲ受ケ亡羊ヨリ藤村庸力軒ニ傳へ田子浦ト云香炉ヲ與ヘテ印證トセシ由
ナリ右羽與サマノ茶杓ハ丹後守行考へ傳リタルヲ綱利へ贈リケルカ享保年江戸龍口邸ニテ焼失ス

サテ切腹ノ上三四郎介錯シ首ヲ検使ニ渡シタリ舊記二利休逼塞ノ節忠興蒲生氏郷ト尋問セシ事ヲ石田三成秀
吉へ訴ヘケル處何トモ答ヘナク其後大勢見舞致シタルヲ又言上シケレハ灸ハ初メカ熱キモノナリ人モ皮切カ大事ナルモノソ
氏郷利休弟子故見舞セシ事尤ナリ其方心得悪敷ト申サレシヨシ

【文禄の役】
文禄元年壬辰是ヨリ先キ秀吉関白職ヲ義子秀次ニ譲リ自ラ太閤ト穪ス 太閤朝鮮征伐ヲ諸将ニ
命シ戦艦ヲ造リ兵粮ヲ蓄へ軍勢ヲ募リ三月朔日ヨリ先鋒ノ諸将出馬アリ 忠興モ發向ス 太閤ハ
廿六日京ヲ發セラレ是時朝鮮渡海及ヒ名護屋守護ノ人數共凡三十餘萬ナリ 四月十ニ三日ノ頃
先鋒小西行長・加藤清正ヲ初メ名護屋ヲ出舩ス 太閤モ廿四日筑前深江ニ着舩忠興ハ名護屋ノ
旅館水走ニ居ケルカ宰相秀信ト倶ニ壹岐國風本ノ湊ニ旅館造営ノ事ヲ勤ム 其後對馬へ渡海ス
ヘキトノ命アリ先驅ノ諸将ハ小西行長ヲ初メ軍功ヲ勵ミ所々ノ城ヲ屠リ都へ攻入リ清正ハ朝鮮ノ王
子ヲ生捕リ各威ヲ振フ 六月太閤又六萬ノ人數ヲ朝鮮へ遣ハス 是先キ二渡海ノ軍勢ノミニテハ
若シ明ノ援兵来ル事アラハ合戦難儀ニ及ヒ彼地王城ノ制法モ行レ難カルへシ 因テ三奉行 石田・
増田・大谷
ヲモ渡海セシメントテ参列ノ人數を遣ハサル 忠興一列諸将ノ勢合テ二萬五千四百七十
人三組合テ六萬三千餘ナリ 忠興カ従軍ニハ興元・孝之・長岡好重・松井康之・同興之・有吉立
行・米田是政ヲ先トシテ都合三千五百ナリ 十七日釜山浦ニ看ス 先達テ渡海ノ諸将ハ都城ニ在
ル由鳴れハ今度ノ人數互ニ待合セ廿六日釜山浦ヲ發シ七月廿三日都城ニ至リ諸将ト會ス 八月
七日忠興王城ヨリ打出慶尚道ノ内岩山城ヲ攻ム 敵ハ李光源ト云者大将ニ數千人楯籠ル 先鋒
松井康之其外興元ヲ初メ各進テ砲丸ヲ飛ス 敵城門ヲ開キ出戦フ 興之衆ヲ抽テ進ミ向フ者ヲ突
伏セ首級ヲ獲タリ 敵叢リ進テ興之ヲ圍ムヒルマス戦テ三ケ所創ヲ被ル 松井家士松井仁平次等
能ク働テ興之ヲ助ク 是ヲ見テ興元・好重継テ攻寄セ自ラ敵ヲ討チ首ヲ取リ有吉立行・澤村才八
等モ各功アリ城兵散亂シテ城ニ入ルヲ忠興下知ヲ加へ攻入リシカハ城兵後ノ山ヨリ逃去ル 此時
味方ニ打取ル首千餘級城ハ火ヲ縦チ焼棄ツ 此由名護屋ニ聞へ太閤ノ感賞ニ與ル 同時慶尚道
仁道縣ノ領主李連宗朝鮮王ヲ奉シテ義州ニアリ其子李宗閑一城ヲ構ヘテ守リケルヲ忠興聞テ同
十日彼城ニ向ヒ攻ム 南條元信援兵トシテ千五百人ヲ卒シ馳加ハリ両国合テ五千人ニテ攻寄タリ
城中寡兵ニシテ防難ク逃出ルヲ尾撃シテ過半討取ル 李宗閑ハ元信ノ手ニ生捕ケリ 忠興所々
巡見シテ不堅固ナル所ヲ修補して暫ク是城ニ據ル
二年癸己三月十日晋州鎮守城攻トシテ忠興ヲ初メ後ニ渡海ノ将七人ニ萬ノ兵ニテ發向ス 先鋒ハ
一日更番ニ定メラレ翌十一日東菜城ニ續キタル高山ニ敵兵多ク陳ヲ列子道ヲ取切ル事一里計リ其
日ハ忠興前軍トナリ康之先鋒ニテ攻懸ル 立行組ヲ進メ中ニモ菅野勝兵衛等ヲ初メトシテ各奮戦
シテ首ヲ取ル 敵軍遂ニ散亂シケレハ忠興兵ヲ整ヘ野陳ヲ設ケタリ 明ル十ニ日人數押ケルニ二
里計リ傍ニ昌原城見ヘタリ 忠興是ヲ攻ント云ケレ共木村常陸直ニ過通ル 忠興ハ後害アラン時
太閤ノ譴責何ト答フヘキトテ十三日他ノ兵ヲ交ヘス部下ノ兵ヲ率テ打向ヒ城門ヲ攻破リ火ヲ縦テ之
ヲ焼ク 残兵城ヲ棄テ晋州ノ方へ走ルヲ追討シテ斬首百級ヲ獲直ニ晋州ニ赴キ十四日鎮守ノ城ニ
向フ 残ル六人ノ大将ハ同日晨ヨリ攻寄スル 此城ハ朝鮮第一ノ名城ニテ王城ヲ距ル事四日程三
方ハ絶壁ニテ前ニ大江アリ所々ニ矢倉ヲ揚ケ石火矢ヲ仕カケ牧使官金時敏トテ無雙ノ大将ニ六萬
餘ノ兵ヲ添へ籠置ケリ 味方ハ二萬ニモ足ラス殊ニ嶮岨ニ里ヲ凌キ敵ヲ異國者ト侮リ法令ヲモ定メ
ス我先ニト押寄セシニ敵城門ヲ開キ一萬計リ突出ル 其勢ヒ強クシテ味方散々ニ追立ラル 諸将
案ニ相違シ乗廻リテ士卒ヲ勵マシケレ共歴々ノ物頭等多ク討レ入替ル勢モ無ケレハ軍ヲ引揚クヘ
キト騒キ立シ二城兵四萬四方ノ門ヲ開キ打テ出レハ名ヲ得タル勇士討ルゝ者數ヲ知ラス 忠興ハ
途中ニテ先驅ノ味方利ヲ失フト聞キ馬ヲ早メテ駈付タルニ早敗續ニ及フ砌ナレハ遥カニ麾ヲ振テ味
方ヲ進メ忠興唯今駈付タリ志アラン者ハ返シ戦テ討死セヨト高聲ニ呼ハリ近寄ル敵五六人切倒シ
ケレハ興元・康之・立行・是政ヲ初メ各手ヲ砕キ戦ヒ敵數多討取タレ共味方死傷モ少カラス 立行・
是政モ手負忠興モ秘蔵ノ黒鹿毛毒矢ニ中リ副馬ニ乗替へ猶モ諸勢ヲ勵マス 城兵モ寄手ニ新手
ノ加ハルヲ知リケン静カニ軍ヲ引アクレハ少々追討シテ相引ニ兵ヲ揚ケ後殿シテ退キ斬首六十餘
級ヲ獲タリ 今日忠興駈付スハ晋州ニ滞陳ハナルマシキ二忠興カ軍功ニ因テ各安穏ナリト悦ヒ夫
ヨリ諸軍皆忠興カ指揮ニ随フ 此城要害ヨリ思ノ外ノ強敵ナル事ヲ都城ニ報告シテ應ヲ請ヒ其内ニ
モ敵出ル事アラハ危カルヘシト忠興下知シテ虎口々々ヲ堅固ニ抑ヘ竹把ヲ付柵ヲ振テ援兵ノ来ル
ヲ待ツ
六月太閤ヨリ下知ニ晋州ノ城ヲ屠リ城主牧使カ首ヲ斬テ見セヨトアリ浮田秀家・毛利秀元両大将ニ
テ總軍六萬餘同月中旬鎮守ノ城邊ニ着陳ス 然ニ誰云フト無ク城兵悉ク出奔セシトノ風聞故へ諸
将ヨリ武功ノ勇士一両人宛召連レ城ノ上ナル牧場山ト云フ山ニ登リ見計フヘキ胸秀家ヨリ觸レケル
故忠興ハ松井康之ヲ出シテ窺ハシムルニ城兵雲霞ノ如ク見へケレハ諸将各攻口ヲ定メ攻具ヲ調
へ押寄スル 忠興等ハ坤ノ方ニ向ヒ毎夜仕寄ヲ附ケ堀際マテ攻近ツキ竹把ノ内ニ井樓ヲアケ頻リ
ニ鉄炮ヲ放チ敵少シ 辟易シタル躰ナレハ猿猴梯ト名付ケタル結橋ヲ石垣ニ打カテ當手ノ先鋒興
元之ヲ擧テ堀ニ取付先登シケル處ヲ敵長戟ニテ堀越ニ突落シケレハ家士肩ニ懸ケ堀ヨリ引揚ル 
相續テ興元カ家臣是政カ隊等一同ニ押登ルニ階子中ヨリ折レ堀ノ内ニ落重リ後軍再ヒ登リ得ス 
時二敵城戸ヲ開キ一萬計リ突出ス 忠興ト加藤光泰ノ軍勢真先二馳向フ 康之・立行隊下ヲ進メ
忠興モ自ラ鑓ヲ合セ挑ミ戦フ内日既ニ暮ニ及ヒケレハ敵ヲ討拂ヒ軍ヲ引揚ケタリ 廿八日又總攻ト
相觸諸軍一同ニ進ミ寄ル 城兵烈シク矢石ヲ飛シ火箭ヲ放テ防キケルニ加藤清正亀甲楯ト云モノ
ヲ以テ石垣ノ根ニ近寄リ隅ノ大石ヲ堀抜キ飯田角兵衛・森本儀太夫・黒田家ノ後藤又兵衛等乗入
ル 忠興ハ又坤ノ方ヨリ懸リケルニ今度ハ結橋ヲ多ク拵ヘ興元・康之・立行・是政ヲ初メトシテ各結
橋ヨリ乗入リ力戦ス 城兵怺へ兼テ北門開キ居タルヲ幸ニ此口ヨリ遁レ出康之相継テ下知ヲ加へ
尾撃シテ判官守ト云者ヲ始メ數多討取リ牧使モ創ヲ被リ城外ノ川岸ニ至ル 折節舟モ無ク部下
三百計リ従へ立歸ラントシケルニ味方透間ナク追懸ル故藪ノ内ニ隠レ居タルヲ秀家ノ家士岡本権
之允索出シ首ヲ取ル 當千ノ斬首七百餘級諸手ノ首級一萬五千三百ナリ 其外岩ニ中リ水ニ溺レ
死スル者ニ萬五千餘ナリ 是年冬和議成リ忠興モ諸将ト倶ニ歸朝ス 朝鮮陳中當手ノ斬首ニ千六
百八十四級忠興家臣軍功アルモノニ褒賞ヲ行フ各差アリ
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曾我尚祐と沼田家

2010-03-27 15:18:55 | 歴史
先に「色・いろいろ」にHN・代書屋さんから「平川口と曾我尚祐」というコメントを戴いた。
私は全く知らなかったが「曾我尚祐の母は沼田常陸介某女」とある。以下全文をご紹介すると・・

幽斎公が慶長12年2月15日に室町家式三巻を進上した事にも永井直勝と共に関わるとされる方です慶長6年に秀忠公に奉仕し「常に御夜詰に候す 尚祐かってより足の疾あるがゆえに 営にのぼる毎に乗輿して平川口より御臺所のほとりに至ることをゆるさる」と…
尚祐は慶長五年仕官で采地千石を賜る 嫡男古祐(母は瀧川雄利女)は三千石を知行するが末弟の包助の母は継室酒井忠次養女(山岡景友の兄 景佐が実父)であり幕府実力者の後ろ盾か 分家して五千石を知行することになる 「曾我流」の書礼は奥祐筆の必携として伝授されて行く事になる たまたま平川門の事で 曾我兄弟にゆかりの曾我氏が思い浮びました…


 忠興・忠利代細川家と曽我氏は大変緊密な間柄である。「尚祐の母は沼田常陸介某女」とある沼田常陸介とは、藤孝(幽齋)室・麝香の父・光兼の弟、沼田光宗(常陸介・甲斐守)であろうと考えているが詳しい史料をもたず、その人となりを承知しないでいる。

              藤孝(幽齋)
                ∥
     +---光兼----麝香
     |
     +---光宗------●   
                ∥---尚祐---古祐---近祐
              曽我某  


曽我家三代について、大日本近世史料「細川家史料」によると、次のようにある。

■曾我尚祐 
又六郎、又左衛門。織田信雄・豊臣秀次に歴任。文禄四年細川幽齋の推挙により秀吉に謁し足利家の舊式を言上。四百石。慶長五年徳川家康に召され千石。慶長六年秀忠に仕へ夜伽衆。寛永七年五月廿五日歿。尚忠興は尚祐女(丹波守・妹)を養女として松下民部少輔述久の嫡男・掃部助に嫁がせている。

■曾我古祐
曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。

■曾我近祐
又左衛門。権左衛門。古祐の子。寛永三年西丸小性組(二百俵)。五年十一月六日(寛政重修譜には四年としているが誤)当番の夜、楢村孫九郎某と木造三郎左衛門某と争論して刃傷に及ぶ。近祐、倉橋忠尭と共に、暗中疵を負ふも楢村を組留む。この時、父古祐書院番にて他席にありしがその状を見て加勢す。依って、二百石加増せらる。八年五百二十石。十年書院番(七百二十石)。明暦元年先手弓の頭。万治元年大坂町奉行(二千二十石余)同年六月相続(三千石)寛文元年九月十三日歿。年五七。
 
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細川家譜--細川忠興譜 ・・ 5

2010-03-27 11:21:58 | 歴史
十六年戊子四月十四日秀吉参内聚楽亭へ行幸ヲ催シ奉ル 諸侯各供奉忠興モ亦與ル 十六日
和歌ノ御會十七日舞楽獻上モ數アリテ十八日還幸
十月朔日北野松原ニテ秀吉茶ノ會ヲ催サル コレ都鄙茶ヲ嗜ム者ノ風情道具ノ善悪一覧スヘキ為
ナリ茶ヲ嗜ム輩歓テ■集ス徳善院玄以・千宗易奉行タリ 来會ノ諸士三百五十餘人右近ノ馬場左
右松ノ下梅ノ陰岩ノ間ニ數寄屋ヲ構ヘ秀吉ニ茶ヲ獻ス 忠興茶屋ヲ影向ノ松ノ本ニ設ケ松向庵ト名
付ク 秀吉モ茶寮ヲ三ケ所軽ク構ヘラレ名高キ器物ヲ飾リテ手ツカラ茶ヲ點シ諸将ニ賜フ分テ三列
トス 世ニ是ヲ北野大茶ノ湯ト云フ
此年忠興左近衛少将ニ任セラル 松井新助康之従五位下ニ叙セラレ佐渡守ト號ス

十七年己丑五月秀吉聚楽ノ門内ニ金銀三十六萬七千両ヲ中将二人少将五人侍従十三人都合ニ
十人ニ賜フ 忠興ハ少将ノ列ナリ
九月秀吉諸大名ノ領地ヲ改メ丹後一國領地高十一萬七百石ノ事父子一職ニ扶持セシムトノ證書ヲ
賜フ
此年城州淀城普請ニテ秀吉縄張アリ 忠興モ此役ヲ勤ム 従者有吉四郎右衛門立行右ノ縄張ヲ悪
シク存シケルニ秀吉一覧アリテ忠興へ其子細ヲ尋ラレケレハ立行傍ヨリ君ノ縄張通ニテハ悪シク存
シ奉ケル故斯ク改メント委細存寄ヲ申述ケル處秀吉何ノ返答モナク四郎右衛門縄張ノ通ト命セラレ
忠興殊ノ外懸念シケルカ其後秀吉下知ニ四郎右衛門普請場へ笠ヲ冠ルヘシ我等目前ニテモ苦シカ
ラスト命セラル

十八年庚寅三月秀吉北条退治トシテ出馬アリ 總勢ニ十萬騎ヲ九段ニ分チ忠興ト丹羽五郎左衛門
溝口伯耆守羽第八陳ナリ 忠興兵凡ニ千七百ヲ帥テ出陳幽齋モ秀吉近侍ノ為メ出陳ス 北条父子
ハ小田原城ニ據リ箱根ノ山中ト云所ニ砦ヲ構ヘ北条氏勝ヲ籠置テ之ヲ防ク 韮山ノ城ハ北条氏規數
千ノ兵ヲ以テ之ヲ守ル 其外堅固ニ手當有リ上方勢ノ先鋒ハ秀次ヲ總師トシ中村式部少輔等五萬
餘山中ノ砦ヲ攻メ同廿九日之ヲ陥ル 韮山城攻ニハ内大臣信雄ヲ将帥トシテ蜂須賀・福嶋・蒲生・森
戸・田中川ノ數氏忠興等ナリ 諸将齊シク進總郭ヲ敗ル時城将氏規等出迎へ寄手ヲ多ク討取ル 味
方生兵ヲ入替へ攻シカト城兵能ク陥ラス 忠興ハ何トソ城ヲ攻破ル術アルヘシト思ヒ元来水練ニ達シ
ケレハ入江平内一人召連レ密ニ堀ノ内ニ入リ浮藻ヲカツキ流レ寄リ城中ノ形勢ヲ熟覧シテ歸リ一策
ヲ定メテ此上ハ南方ノ出丸ヲ詰旦ニ攻破ルヘシ 出丸ヲ攻破ラハ速ニ引退クへシト下知シ一手ハ興
元一手ハ松井康之ト軍列ヲ分テ夜ニ乗シ山ヲ廻ラシ押向フ其道荊棘茂リ堀溝多ク石高クシテ難儀ナ
リシ二松井康之鍬ヲ多ク持セケレハ是ニテ道ヲ直サセ黎明頃各出丸ニ付キ鉄炮ヲ發カケ一度ニ鬨ヲ
揚ケ肉薄シテ仰キ攻ム 出丸ノ兵共力ヲ竭テ苦戦シケルニ澤村才八先登シテ火ヲ縦チ高股ニニ箇
所創ヲ被ル 有吉立行モ早ク城ニ入テ火ヲ縦チ手摶シテ首ヲ取ル 其外各柵ヲ破リ塀ヲ越ヘ多ク首
級ヲ獲タリ 残兵ヲ城ニ追込ミ凱歌ヲ揚ケ兵ヲ収メ首百餘ヲ本陳ニ贈リ秀吉ノ感賞ニ與ル
四月朔日上方勢足柄箱根ヲ越へ箱根山東ノ麓ニ陳列シ同ク五日小田原城ノ攻口ヲ定ム 韮山ハ堅
固ニ籠城スルヲ以テ福嶋・蜂須賀両氏ヲ残シ餘ハ悉ク此表ニ向フヘキノ旨下知有リテ秀吉ハ箱根ノ
東面石垣山ニ本陳ヲ居へラル 忠興ハ韮山攻手ナル故小田原ニ来ル事遅カリシ二秀吉申サレケル
ハ我前軍ノ諸将早川口ノ松山ヲ望ム者多シ然レ共大事ノ處ト見ユレハ其方ニ渡スヘキト思ヒ許サゝ
リシトアレハ忠興即チ陳ヲ取ル 又夫ヨリ押詰メ土豚ヲ設ケ柵ヲ構テ城ニ通ル處ニ城中ヨリハ夜討ノ
支度ト見へテ人數ヲ出シケルヲ直ニ城内ニ追込首三ツ討取秀吉ノ本陳ニ贈ル 翌夜忠興城際へ忍
寄リ堀ノ内ニ入リケレハ内ヨリ猿火ヲ出シケル故目ヲ見合セ歸テ語リケルハ城ノ形状ヲ見ルニ此方
ニ口アリ夜討ニ出ル事モ測リ難シトテ即チ士卒ニ令シ元ノ陳所ニ遣シ両手二松明ヲトモシ城近キ陳
所ノ邊ニテ火ヲ打消シ又立戻リ火ヲトモサシム 如此スル事両面此計策ニヨリ寄手悟リケルト存シ
夜討ノ思ヒ止リシ由落城ノ後知レケルトナリ 次ノ夜忠興自ラ手ヲ砕キ土俵竹柵ヲ以手堀際六七間
程ニ押詰ム 翌日秀吉一覧有テ向フ大松ノ際ニ見ヘタル昇ハ敵カ味方カト尋有ケルニ大谷刑部少
輔承ハリ忠興昨夜自ラ労苦シテ堀際六七間程ニ仕寄タレハ今晩ヨリ堀ヲ埋ルニテ有ルヘシト言上
セリ
六月十六日北条氏直ノ臣松田尾張守秀吉ニ内應シテ忠興ト堀左衛門督・池田三左衛門三家ノ兵ヲ
小田原城中ニ引入ン事ヲ約ス 二男松田左馬助潜カニ氏直ニ告ケ知ラスルニ依テ其謀遂ル事ヲ得ス
忠興等之ヲ知ラス期ニ及テ兵ヲ帥ヒ松田カ持口ノ前ニ至リ其旗幟變リタルヲ見テ尾張守カ謀計露顕
シ此と持口ヲ別人守ルト知テ各兵ヲ返ス
七月北条氏政降参ニ決シ七日ヨリ九日ニ至リテ城受取相済ミ十一日氏政并弟氏照ト倶ニ切腹氏直
ハ助命アリテ高野山ニ入リヌ 十四日秀吉小田原ヲ發シ東國ニ赴ク 伊達南部ヲ初メ降服スル者或
ハ本領安堵或ハ減知改易等各差有リテ東國悉ク平定ス 尤伊達氏ハ押領分ヲ没収シ會津百萬石
ヲ忠興ニ賜リ東奥ノ鎮トスへキ旨浅野弾正少弼ヲ以テ野州小山ニテ命セラル 忠興曰ク政事ナラハ
命ノ儘ナリ恩賞ナラハ小國ニテモ都近クニ在ラン事ヲ請フ 父幽齋モ老年ニ至リシ故旁辞退セシナリ 
依テ會津ヲ蒲生氏郷・木村伊勢守ニ賜リ秀吉八月十五日會津ヲ發シ九月朔日歸洛アリ 忠興ハ検
地ノ事ヲ命セラレ奥州ニ残石田三成ト倶ニ田賦改定ノ事終リ十月初旬歸京ス 此以前奥羽両國ノ検
地浅野・石田・大谷へ命セラレケル時秀吉ヨリ朝の長政へ此陳中ヨリ望ノ者ヲ連越スヘキトノ旨ニテ
乃チ長政望ニ任セ松井康之ニモ命セラル 依テ康之ハ長政ニ相従フ サテ長政ハ大谷・石田ト三手
ニ分レ検地アリ其後一揆起リ又兵亂ニ及ヒ伊勢守難儀ノ躰ニテ氏郷モ出軍アリ長政ハ駿遠甲信等
巡見ノ為メ残リ康之ハ十一月下旬ニ駿府マテ赴キケルカ右一揆ニ付テ長政ト倶ニ奥州ニ打向ヒ二本
松ニテ越年シケル處一揆ハ氏郷ノ武勇ニテ静リ伊達政宗モ上洛シテ赦免ヲ蒙リ奥州静謐康之モ丹
後ニ歸ル
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「香木」 細川家 と 伊達家

2010-03-26 17:35:43 | 歴史
森鷗外の「興津弥五右衛門の書」に登場する伽羅木、弥五右衛門は買い入れに反対する相役横田清兵衛を殺害してまで、
この香木を手に入れている。さてこの香木、綿考輯録には、寛永三年の項に次のように紹介されている。
    「去々年、交趾江渡海せしもの帰国、伽羅持参いたし候、三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
      寛永元年交趾江渡船同三年ニ来伽羅白菊と名之
        たくひありと誰かはいはんすゑにほふ
          秋より後のしら菊の花
     箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、
     外ニ三四寸之木懸目三百目余有之、添居申候由なり」

森鷗外の「弥五右衛門」によると、三斎は「初音」と名づけている(古歌略す)寛永三年息忠利がこの香木を天皇に献上、その時
上記の古歌により「白菊」の銘を下賜されたとしている。事実は違うようだ。 (再掲)


   東京の山本様から、伊達家に於ける「香木」に関する資料をメールでご連絡いただいた。
   ご了解をいただき爰にご紹介する。

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伊達氏治家記録 貞山公 巻三十二 

寛永三年九月二十六日
豊前少将忠利朝臣細川越中守ヨリ書状到来御返書進セラル今朝ヨリ御客来御取紛故ニ御挨拶延引セラル伽羅御存分ノ如ク御取ラセノ由方々ヨリ可申参處ニ別テ辱ク思召サル旦又御暇仰出サルノ由珍重ニ思召サル何比御下リ有ルヘキヤ聞セラレタシ御逗留中御會面ヲ以テ仰セラルヘシ伽羅ノ價ノ事今晩遣サルヘシ若シ日暮レハ明朝進セラルヘキ旨著サル

( 此節 公 名香ヲ買求メラレ柴舟ト名ツケラル 世中ノウキヲ身ニツムノ倭歌ニ因リ玉フ 越中守殿ニハ白菊ト名ツケラル禁中ニ於テハ蘭ト名ツケ玉フ他家ニハ初音初雁ナトト名ツケラルト云フ )
※ 上記括弧内は補記であるが 以下 MARSHALL氏の説

寛永三年極月朔日の政宗より嫡男忠宗への書状(「伊達政宗の手紙」佐藤憲一著)

      追って申し候
      其元にて約束申し候 伽羅 遣はし申し候
      かやうのは稀にて候
      心よはくむざと人に遣はしまじく候
      名は柴舟と付け申し候
      兼ね平のうたいに うきを身に積む柴舟の
      たかぬさききよりこがるらん
      たかぬさきより匂ふと云う心にて候
      よびごゑはよくなく候へども
                  恐々謹言
          ・・・中略・・・
       極月朔日    政宗(花押)
        松越前守殿              」

※政宗は「柴舟」という銘を 謡曲「兼平」の「焚かぬ前から匂う」からとったとしている
※政宗の長男秀宗(宇和島藩)にも柴舟を贈り「近頃この様な香は無いだろう」と書状に記す
                                   (正月三日付)
※平成二十一年徳川美術館「大名の数寄」展には香木四種「白菊」「柴船」「蘭」「初音」が
  出品され「白菊」を後水尾天皇勅銘としてある
※一木の伽羅を加賀前田家・伊達家・細川家で分けたという説もある

 なお伊達政宗は寛永十一年七月十五日付 西洞院時慶卿松庵から名香両種贈進の御返書(礼状・和歌を添え)があったと記しており さらに同年八月六日には前日御見廻りとして御出になられた門跡一乗院尊覚法親王と聖護院道晃法親王より名香両種の御返書を賜ると記し 尊覚法親王からの文には「柴舟・太子屋」と香名を表記した礼状であった

 さらに将軍家光公より寛永十二年一月十一日に御数寄屋にて政宗と毛利宰相秀元が御茶を賜った時に伽羅を献上したと思われる このことで十六日に福阿弥を上使として御自筆の御書(礼状)を賜う

      柴舟の香 贈り賜り 珍しく思候
      万事念の被入心さしのとをり祝着事候
        恐々謹言
         正月十六日    家光(御書判)
        せんたい
          中納言殿

※参考 正月十一日
    御数寄屋御飾
     掛軸…圓悟墨蹟  茶入…投頭巾    花入…鶴一声
     釜…信濃     茶碗…織部割高臺  水指…烏帽子箱
     茶杓…二尊院

    御鎖之間
     小壺…珠光文琳  茶碗…シホケ  硯…フホク

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細川家譜--細川忠興譜 ・・ 4

2010-03-25 22:29:31 | 歴史
天正十三年乙酉三月秀吉紀州根来寺ヲ攻ム 僧徒且土寇ノ族處々二要害ヲ構へケレハ大納言
秀長・中納言秀次等ヲ先トシテ千石堀ニ向ヒ忠興・蒲生氏郷ハ積善寺ヲ攻ム 忠興カ攻口城兵頻
リニ鉄炮ヲ放チ進退自由ナラスシテ手負討死アリ 城兵大勢突テ出ルヲ有吉立行・米田是政等槍
ヲ以テ接戦シ城中ニ退却ス 各進テ斬首數級ヲ得タリ 蒲生ノ兵士モ劣ラス力戦シ両軍齊シク攻
付レハ程ナク城陥リ千石堀濱ノ城モ又降ル 廿日秀吉親(ママ)ヲ将トシテ根来寺ヲ攻メ是ヲ焼ク遂ニ
雑賀ノ土寇ヲ攻ム賊徒三千餘太田城ニ據リ要害堅固ナル故廿三四日ヨリ手々ニ堤ヲ築キ吉野川ヲ
決リ城ニ灌キ之ヲ攻抜キ渠魁百五十餘人ヲ誅ス 此段忠興勤労アリ
七月初旬ヨリ秀吉北國役ノ催アリ先是佐々成政信雄ニ與シ一旦前田氏ト挑ミ戦シ二信雄秀吉ト和
睦ノ後力ヲ失ヒ居城越中富山ニ楯籠ル 此時忠興ハ在國シケル處舩手ノ備ヲ命セラレ依之興元井
松井康之・有吉立行ヲ舩手ノ将トシテ加賀國宮腰マテ着舩スヘキ旨申付ケ忠興ハ米田是政等ヲ率
テ陸地ヨリ進ミ秀吉ニ随テ宮腰ニ至ル 興元等ハ舩ヨリ越前ニ廻リ處々放火シ苦戦シテ多ク首級
ヲ獲タリ
秀吉甚感賞シ此度ノ軍功抜群ノ旨口陳アリ サテ總軍冨山城ニ押寄大ニ鬨ヲ揚ケテ勢ヒ甚シカリ
ケレハ城兵漸々ニ逃散シ成政勢力屈シテ冨田平左衛門・津田四郎左衛門ヲ憑ミ降ヲ乞フ 廿九日
剃髪染衣ニテ秀吉ノ本陳呉服山ニ伺候ス 忠興・氏郷應接シテ秀吉殊ニ懇篤ノ命アリ

天正十四年丙戌関白秀吉藤原姓ヲ豊臣ト改ラレ忠興へ豊臣ノ姓ヲ與ヘラル 忠隆忠興嫡男并松井
康之ニモ豊臣ノ姓ヲ賜ル

十五年丁亥三月朔日秀吉島津氏ヲ攻ントテ京ヲ進發忠興モ先鋒ニテ出陳ス 是ヨリ先キ九州久シ
ク闘亂島津義久・大友義鎮弓箭ヲ取リ驕リテ自餘ノ輩両家ノ旗下ニ属シ亂撃止事ナシ 然ルニ大
友巴先達テ秀吉ニ従ケル故援兵トシテ毛利・小早川・黒田・仙石・長曽我部等ノ數氏差遣ハサル
然レ共猶是ヲ諭シ鎮ムヘシトテ義久ニ書ヲ給ハリ又幽齋ハ義久兼テ和歌ヲ好ミ家臣伊集院右衛
門大夫モ同ク門下ニ属シ連々好ミ有ルニヨツテ秀吉ノ命ニ任セ千利休ト倶ニ和議ノ事ヲ取扱ヒケレ
共義久承引ナキユヘ今度大軍ヲ催サレシナリ 先陳ハ前年ノ冬ヨリ二月マテニ追々出兵ス 秀次
以下ノ諸将ハ豊後ニ打向ヒ秀吉ハ肥後口ヨリ攻入ルヘシトテ忠興モ三千餘人ニテ先鋒シ豊前ニ
渡海ス サテ岩石城ニ熊井越中守數百騎ニテタテ籠リ秋月種實入道宗全ニ應援スルヲ攻ムヘキカ
ト秀吉へ亶議シケレハ別砦ノ事先ツ構ハサル様ニトノ下知ナル故秋月ノ居城筑前ノ小熊ヲ攻ントス
然ルニ秀吉廿八日長州赤間関ヨリ小倉ニ渡リ廿九日同國馬嶽ニ着陳四月朔日其邊杉原山ニ陳替
ノ處彼岩石城眼下ニ見へケレハ一時攻ニシテ敵ノ目ヲ驚カサントテ少将秀勝ヲ将トシテ忠興・蒲正
・前田・日野等ノ數氏ニ先駈ヲ命セラレ三萬餘兵にて攻懸ル 城中堅ク防キ味方死傷スル者甚多シ
秀吉使節ヲ以テ一挙ニ抜クヘキ旨屢下知アリ 依テ死傷ヲモ厭ハス諸将齊シク進テ三方ヲ圍ミ故ラ
ニ山ノ手ヲ開キ置キ火ヲ縦テ攻懸ケルニ敵城門ヲ開キ牛馬三百餘繋キ合セ其尾に炬火ヲ結ヒ付テ
追出ス 城主熊井久重鋭兵ヲ勝リテ討テ出ケレハ寄手驚テ擾亂シケル所ニ松井康之先ニ進テ衆ヲ
勵マシ忠興ノ昇少モ動カス物頭等下知ヲ加ヘ筒先ヲ揃テ牛馬ヲ打伏ケル故後ニ續ク敵兵猶豫スル
處ヲ並進ンテ奮撃シ首五六十級ヲ獲テ残兵ヲ城ニ追込シカハ秀吉ヨリ牧村利宣ヲ使ニテ今ニ始メヌ
長岡ノ筋違昇松井新助哉ト賞美セラル 蒲生・前田ノ軍士等我先ニト競ヒ進テ城ニ乗入ル 當手ニ
テハ有吉太郎助本丸ニ先登シ火ヲ放テ焼立城主熊井ヲ初メ之ヲ鏖シ二ス 秋月宗全・同三郎種永
之ヲ聞テ大ニ驚キ氣ヲ奪ハレ降伏シテ城ヲ渡ス サテ秀次以下諸将モ豊後ヨリ日向國ヘ亂入ノ旨
追々報告有ケレハ秀吉大ニ悦ヒ三日秋月カ城ニ陳ヲ移サレ此間ノ概略禁裡ヘ奏セラル 夫ヨリ筑
後ヲ経テ肥後ニ打入隈本八代等逗留ノ内九州ノ諸将追々ニ降伏シケレハ皆本領安堵ヲ命セラル
島津ハ漸々ニ與力ヲ失火本國ニ據テ堅ク守ル 秀吉降将ヲ以テ薩州討伐ノ先鋒に■ツ忠興ト蒲生
ハ島津ノ家老新納武蔵守カ居城大口ヲ攻ム、此城堅固ノ要害ニテ容易ニ攻抜カタク殊ニ上方ノ大
軍粮乏ク二三日諸軍飢二及ヒ忠興モ食ヲ絶事一日一夜ナリ 此時新納ヨリ粮米ヲ下人に齎ラセ小
苗代ノ河越ヨリ矢口止サセ使者一人差添忠興ニ贈ラシメテ申ケルハ昇筋違ニテ幽齋君ノ令嗣タル
事ヲ知ル 軍事ハ兵粮ヲ先二ス今諸軍粮竭キ士飢ト傳聞セリ幽齋君ハ寡君と舊識ナリ故ヲ以テ之
ヲ贈ト 忠興ハ床几二カゝリ居ケル處件ノ趣申述ケレハ恵情ニ於ハ感悦浅カラス然共兵粮ハ潤澤
ナル故返却スト答ヘタリ 島津ハ累代ノ國王ニテ下民モ其恩ヲ慕ヒ諸士志ヲ一ニシ殊ニ嶮岨ニ據テ
防ケレハ容易ニ攻入カタク見ヘケル處秀吉遠謀ヲ廻ラシ本願寺顕如ヲ先鋒ニ加ヘケル故國民顕如
ヲ拝シ防戦ヲナサス 依之思ヒノ外ニ難所ヲ越五月四日秀吉薩摩ノ内太平寺ニ本陳ヲ居ラレ川内河
ニ舟橋ヲ懸サセ往還ノ便ヲナシ先鋒十萬餘鹿児島ニ迫ツテ陳ヲ取ル 殊ニ兵粮舩數千艘着岸セシ
カハ諸軍ニ領チ與へ兵氣益壮ナル故島津家防術盡テ赦宥ノ事ヲ乞フ 秀吉許容アリ七日島津氏太
平寺ニ来テ禮謝シケル處本領ヲ賜ハルヘキトノ儀ニテ義弘昌之等ヲ初メ家老ノ面々秀吉ニ拝謁シ上
下安堵ノ思ヒヲシケルトナリ 日向大隈ノ内一揆處々ニアルヨシ聞へケレハ忠興等ノ諸将五萬餘ノ兵
ニテ廿日二手ニ分レ押向フ 先ツ野村兵部丞カ守ル山崎城ニ向ヒシ二降ヲ乞テ城ヲ渡ス 其外所々
ノ餘黨悉ク攻平ケ五六日ノ内日向平定シケル故秀吉諸将ノ功労ヲ賞セラレ肥後八代マテ還座隈本
南関筑後ヲ経テ七月関ノ戸ヨリ歸陳セラレ忠興モ歸陳ス
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本日多忙に付き・・・

2010-03-25 18:33:33 | 徒然
 終日孫を預かりうろうろしました。楽しいのですがやはり疲れてしまいました。

・東京の山田様から「白菊と柴舟について」という、「お香」に係わるレポートをメール
 で頂戴しました。皆様にご紹介すべくご了解を戴いた所ですが、編集に至っておりません。
 明日にはUPしたいと思います。

・「細川家譜--細川忠興譜」は数行しかタイピングが出来ておりません。
 本日はお休みということでご了解下さい。
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細川家譜--細川忠興譜 ・・ 3

2010-03-24 21:24:04 | 歴史
忠興申スヤフ秀吉ノ命ハ敵ヲ引カケヨトノ事ニテコソアレ是ハ北ルト云フモノナリトテ野中ニ青塚
トテ小高キ處有ルニ引上ケ備ヲ立堅メテ近ツク敵ヲ待ツ日根野備中守・同彌次右衛門徐々ト引
ケル内ニ忠興ノ備近クナリ見事ナル備カナト譽テ両人共ニ輪ヲ乗リ見合タリシカ慕イ来ル敵モ忠
興備ヲ見テシラミタル躰ナレハ忠興人數ヲ青塚ヨリ下シ敵ヲ追立返リ討ニス 有吉立行先ニ進テ
敵三人ヲ突退ケ一人ヲ突伏ル 日根野ハ此頃忠興ト睦シカラサリシカ共我勢ノ弱カリシニヨリ忠
興カ備近ク敵ヲ引受ケ忠興カ人數ノ威ヲカリテ乗込タルハ功ノ入タル勇士ナリ 秀吉井樓ヨリ一
覧有テ忠興カ働キヲ賞美アリ 同日家康長久手ニテ合戦池田父子・森長一等討死上方勢悉ク
敗軍ノ事午ノ刻樂田へ注進アリ 是ニヨリ忠興諸将ト共ニ秀吉見舞ニ出ケレハ勝入ニ敵ヲ侮ル
ナト云シヲ用ヒス如斯ノ次第若キ者共ノ後學ナリヨシ々々信雄若輩ナレハ氣遣ナシ家康ヲ小牧
ニカヘサス討留ヘシ砦々ニ有ル者ハ能ク其處ヲ守リ其外ハ時刻ヲ移サス小幡ヲサシテ打立ヘシ
ト下知シ金瓢ノ圓居ヲ庭上ニ押立一番貝ニ先手押出二番三番ヨリ十六番マテ押出サル サレ共
大軍故龍泉寺へ着陳アル頃ハ日モ西山ニ傾キシカ共尚小幡ヘト馬ヲ早メラレケン故稲葉一銕ヲ
初メトシテ最早日モ暮ニ及ヒ敵モ取合ハサル躰ニ見ヘタリ柏井マテ馬ヲ入ラレ然へシト諌メケレ
ハ其旨ニ任セラル 家康ハ晝ノ戦ヒ終リテ既ニ歸陳セシヲ味方之ヲ知ラス日暮道暗フシテ木ノ陰
草ノ原ヲ押行ク事ナレハ味方ヲ敵ノ慕ヒ来ルト心得崩レ立タル輩有テ旗本前後散々ニ成リケルヲ
忠興熟覧シ是ハ友崩ナリ騒クへカラストテ手勢ヲ立堅メ秀吉ノ本陳ニ至レハ旗本モ次第ニ静リス
秀吉甚感賞有テ今朝青塚ニ於テノ高名又今晩諸勢騒キ立タルニ一人ノ功ヲ以テ諸軍蹈留メ一日
ニ両度ノ勲功比類ナキ由感状ヲ給ハル 斯夜ハ龍泉寺ノ河原ニ野陳セラレ明日ハ彌合戦アルヘ
シト各先手ヲ望ム木村定光當家ニ於テ我ヲ差置キ先手ニ立ツハ笑フヘキ事ト申ケレハ秀吉慮外
者トテ太刀ニ手ヲ懸ラル 忠興蒲生氏郷先ツ木村ニ■ヲ立ツヘシトテ次ノ間へ退カシム 秀吉我
ヲ我ト思ヒ何レモ先手ヲ望マルゝ條甚満足ニテ誰ト差圖モ成リ難ケレハ鬮取然ルヘキト有テ忠興
ハ神子田半左衛門ト共ニ三番ニ當ル 翌十日未明人數押出タルカ向ニハ敵ニ三萬計リ立合タレ
共味方ハ近所ニ見ヘス 然處使番来リ今日ノ戦ハ止ラルゝニヨリ引取ルヘキ旨傳テ神子田方へ
往ク 其跡ニ又浅野長政来テ何トテウツカト居ラルゝヤ秀吉ハ夜ノ間ニ龍泉寺へ退キ玉ヒタリ早々
引取ヘシト申ス サテ神子田ヨリ忠興ノ人數先ツ引カルへシト使来リ忠興ハ先ツ貴殿引カルへシ
ト申ス 則神子田先キ二引退ス 忠興ハ跡ニ在テ人數立堅ムルマテ慕ヒ来ル敵ヲ鉄炮二テ打拂
ヒ徐々ト引ク 敵モ同シ位ニ附来ル 神子田モ手前ニ敵近キ時ハ忠興手ノ如人數ヲ立堅メ引取ル 
程ナク本陳近クナリ敵引色ニナリシ故忠興本陳ニ入ル 此陳立ハ忠興殊ニ自負シケルトナリ サ
テ秀吉犬山ノ本陳ニ引カレ忠興等モ同ク引取ル 秀吉重堀二附城三ケ所ヲ命シ忠興ヲ初メ諸将
ヲシテ守ラシム 小松寺山ヲ本陳トシ用心厳シク合戦ヲ待テ數日對陳アリ 

五月朔日秀吉ノ下知ニテ二重堀ノ砦三ケ所共ニ引拂フ信雄ノ勢共小牧山ヨリ討テ出木村定光・
長谷川秀一等ノ手ニ喰付芝手ノ内マテ駈込ミ両手ノ軍士散々ニ敗走ス 忠興手廻リ計リニテ走リ
出芝手ノ上ニアカリ手下知ス 旗下ノ者共居直リ能ク鉄炮ヲ發チ西川與助透間ナク下知ヲ加フ 
此時忠興槍取テ進ミケレハ諸士追々馳合セ勝誇リタル敵ニ突懸リ西川與助一番槍ニテ佐藤河
内ト云敵ヲ討取ル 忠興采弊ヲ振テ士卒ヲ勇メケレハ我劣ラシト奮戦シ首ヲ取ル 中ニモ信雄ノ
士大将大槻助右衛門ト名ノリ紙子ノ羽織ニテ真先カケ必死ニ成テ懸リ来ル 米田是政相カゝリニ
槍ヲ合ス 澤村才八槍脇ヲ詰メ鉄炮二テ大槻ヲ打倒ス時ニ敵方大原文蔵と云フ者母衣ニ黒キ吹
貫ノ差物ヲサシタルカ武者振勝レテ見へケレハ才八是ヲ目懸ケ脇在シ米田家士山本又三ニ向ヒ
大槻ヲ其方ニヤルトソ云テ文蔵ト打合ケル 文蔵槍ニテ打拂ヒシサリケルニ芝手ノ際ヨリ若黨両
人来テ馬ニ打乗セ引取リケルヲ追懸レトモ味方續カスシテ引返ス 山本又三ハ膝ノ皿ヲ切割レナ
カラ終ニ大槻カ首ヲ取ル 其餘ノ諸士モ爰ヲ専途ト相働キ有吉立行益下知シテ稠ク鉄炮ヲ打セケ
ル故小牧勢モ手軽ク物別シテ引返ス 忠興モ軍ヲ収メ松井康之後殿シテ兵ヲ引揚ル 家康高ミ
ヨリ之ヲ覧テ賞嘆セリトカヤ サテ長久手ニ三将討死秀次利ヲ失ヒ二重堀ニテモ既ニ敗軍秀吉氣
色悪カリシニ忠興手ニテ敵ヲ追返シ兵勢奮フノミナラス西川カ討取タル一番首ヲ實検ニ備へケレ
ハヤレ初ツ物到来セリトテ喜悦斜ナラス感状に熨斗附ノ刀脇差ヲ添テ給ハル 山本又三モ同様
ニ刀ヲ添テ給ハル 松井康之モ後殿ノ働キヲ賞セラレ則重ノ刀ヲ賜ハル 斯テ秀吉小牧對陳其
功ナキ故敵ノ進退ヲ察スヘキタメ犬山ニ加藤光泰學田ニ堀秀政ヲ残シ兵ヲ美濃へ引揚ル 忠興
相従フ 五月三日美濃國冨田ノ寺内ニ本陳ヲ居へ信雄方加々井彌八郎カ籠ル加々井城ヲ攻取
ントス 城ニハ信雄ヨリモ加勢アリ然レ共寄手大軍ナル故防キ難ク五日ニ城ヲ捨テ落ントセシヲ
寄手透間ナク攻附ル故城兵モ難遁ト心得テ必死ト成テ防戦ス 松井康之衆ヲ勵シテ之ヲ攻ム 
澤村才八ニ丸ニ先登シ槍ヲ合セ敵ト引組テ下ニナル處ニ城兵来リ助ケ誤テ上ナル味方ヲニ槍突
テ引取ル才八刎返シ首ヲ取ル 總テ忠興カ軍士諸手ニ擢ンテ相働キ遂ニ二丸ヲ乗取リタリ 才
八討取リシハ一番首故忠興カ下知ニヨツテ本陳ニ持参セシ處秀吉塚ノ上ニ座シテ此首ハ平井駿
河守トテ當城大将分ノ者ナリ其方名ハ何ト申ソト問ケレハ長岡越中守内澤村才八ト申セハ甚感
賞アリ褒美ヲ給ハルヘシトテ長持ヲ尋ラルゝニ未タ来ラサルヨシナレハ帳ニ記シ置クヘシトナリ才
八立出ケルヲ又呼返サレ今度越中守小牧ノ軍功且今日ノ働キ比類ナキ二ヨリ一方ノ大将トシ先
手申付ヘキ間其方モ立身致スへシトアリケレハ才八面目ヲ施シ退出シ其旨忠興ニ申達ス 忠興
ハ夜ニ入テ二丸乗堅メ直ニ秀吉ノ本陳ニ至リケレハ今日才八ニ沙汰アリシ趣ヲ忠興ニ直ト命セラ
レ松井康之ニハ腰物ヲ給ハル 城主加々井彌八郎ハ降ヲ乞フ 七日ヨリ秀吉不破源六カ竹鼻城
ヲ攻ム 忠興モ相従フ 此城要害ヨリ急ニ攻抜難ク見へタリ 有吉立行堤を築キ木曽川ヲ堰入然
ルヘキカト申ス 尤トテ其趣秀吉ニ達ス則チ四面二長堤ヲ築キ水攻ニス 城兵詮方ナク六月十日
降ヲ乞テ命ヲ助ル サテ秀吉以為ク徳川家トノ争戦急ニ其功アルマシキトテ十三日大垣へ馬ヲ入
ラル 忠興モ相従フ 
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細川家家臣・大里氏と阿蘇家

2010-03-24 08:24:35 | 歴史
 阿蘇神社では昨日勇壮な「火振り神事」が行われた。
       www.aso-hifuri.jp/aso_temple.html (動画をお楽しみください)
阿蘇家は戦国期には島津・大友等の勢力争いに飲み込まれ、戦国大名としての地位を無くしたが、天皇家や出雲国造家等に続く歴史ある名家として知られている。今日の阿蘇家にいたる大里家との関係をたどってみた。
    
 細川家家臣大里氏は、梅北の乱に連座したとして僅か三歳で殺された阿蘇惟光の弟・惟善の二男惟真を祖とする。阿蘇家の庶族大里氏を名乗ったが、阿蘇家四代友名の跡を真楫(五代)が継ぎ、六代目は甥の惟典が継いでいる。以降当代惟之氏(十四代)まで続いているが、まさに大里氏の血によるものである。大里氏三代代に惟正は町源右衛門(長曽我部氏)の二男である。細川重賢の元で宝暦の改革に尽力しその名が高い惟公はその嫡子である。家紋は阿蘇家の「違い鷹の羽」を輪に入れた「丸に違い鷹の羽紋」である。

+--惟光  ja.wikipedia.org/wiki/阿蘇惟光

阿蘇氏・1        2        3
+--惟善---+--友貞--+--友隆
        |      |      4
        |      +--友歳--友名
        |大里氏・1   2        3         4      5      6 
        +--惟真--惟仲--+==惟正--+--惟公--右金吾--永記・・・→(大里氏)
                    |      |  6     7               14
                    |      +--惟典--惟馨・・・・・・・・・・→惟之氏(当代)
                    |  5
                    +--真楫

        【阿蘇氏】
          ja.wikipedia.org/wiki/阿蘇氏
          www2.harimaya.com/sengoku/html/aso_k.html

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