津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■浄勝寺のこと

2023-04-05 11:47:57 | 熊本

 ある方との電話の中で「浄勝寺」の話が出た。「浄勝寺」とは「角川日本地名辞典」には次のように記されている。
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熊本市本荘町の苗床にある寺。真宗大谷派。山号は勝軍山。本尊は阿弥陀如来。本堂前の大ソテツにちなんで蘇鉄寺の俗称がある。「肥後国誌」は慶長19年善慶の開基とし,享和2年の「浄勝寺善慶父子武功覚書」には善慶を対馬の領主宗氏の子孫とする。宗氏は盛実の時に託麻本山城主となり,盛実より13代目が,山本郡正院岩野山道祖城主の久隆で,久隆の次男が善慶となる。天文年間出家した善慶は,従弟の隈本城主越前守と同道して上京し,本願寺の門徒となり,善慶の号と浄勝寺の寺号を許された。一方,城越前守は行西の号と徳栄寺の寺号を許され,玉名郡中富手永の広村に徳栄寺を建立した。善慶は先祖の領地であった本山城の跡に浄勝寺を建立。その後慶長5年加藤清正により再興されたとある。寺蔵の開基系図には,久隆は享禄4年冬に肥後国を退去して長門国に向かうとあり,同年の春善慶が道祖城で生まれ,26歳で出家。慶長5年小西行長勢との合戦で加藤清正に仕えて戦功をあげ,慶長19年浄勝寺の開基となり87歳で没したと見える。「肥後国誌」の補説では,2世祐閑の代の寛文5年,法義の争論によって,それまでの西本願寺末を離れ現宗派へ転じた。宝永年間の大火で堂宇を全焼したが,ほどなく再興される。明治10年の西南戦争では薩摩軍戦死者の埋葬地とされ,481名が葬られたが,戦後数年間で遺骨の大半は鹿児島の遺族のもとに引き取られた。昭和20年8月7日暁方の爆撃で被害を受けたが,伽藍の倒壊は免れた。昭和42年,白川の改修工事に伴い本山の泰平橋際の旧寺地から現在地(熊本県熊本市中央区本荘町744番地)へ移転し近代風に改築された。

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 幕末の頃の絵図を見ると、古町地区の米屋町1丁目から3丁目へ真南に向かう道筋の白川を挟んでの対岸の川沿いに「浄生寺」の表記が見える。
上記説明によると「本山の泰平橋際の旧寺地」とあるから、昭和35年に建設された「泰平橋」には掛らなかった事になる。
開基の善慶は肥後宗氏の末裔だとされるが、宗氏は本山城の城主であった。後この地を離れて熊本市植木の道祖城主になっている。
そんな先祖を想い、本山城の跡に浄勝寺を創建したというが、この本山城が果たしてどこにあったのかは定かではない。
昭和4年(下図)当時の地図を見ると、本山地区には「城ノ本」とか「西小路」等の名前が残り、本丸ではないかと思われる周囲を道に囲まれた一画も伺われて大変興味深い。
昭和35年に鉄骨の現在の橋が架橋されたが、かっては「明辰橋」という木橋が架かっていた。故に「明辰通り」という名前も記されている。
一本の電話からいろいろ妄想し、古い地図を引っ張り出して見た。

                                     

                                                                                                                                         ⇧ 浄生(勝)寺

                                     

              

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長六年」を読む

2023-04-05 07:09:48 | 史料

慶長六年
  (3月17日、於大坂家康に謁す、秀忠より岐阜・関ケ原の軍功を賞して利休尻膨の茶入れを拝領す)
 6、四月十日書状
  豊前入国して三か月後、幽齋が病であるとの知らせに忠興は京に上っている。まだこの時期は幽齋は吉田にとどまっていたと思われる。(3月3日、幽齋の病気見舞いとして出船、風雨強い中尼崎上陸、10日吉田着)
  そんな京から江戸の忠利に宛てた書状である。
  忠利の帰国については徳川家の上杉景勝への対応いかんで遅くなっているが、證人を交代させることで願い出たいとしている。
  忠利はいろいろなものを所望しているが、その中の刀などは戦いの中で失なわれたものも多く、品定めをしたうえで後で送るとしている。
  景勝にたいして出陣があれば、榊原康政と行動を共にするように指示している。

 7、五月九日書状
  松田新七郎なる者を江戸へ遣わし、忠利宛に所望の道具を送ったことを記している。

 8、六月八日書状
  「三月三日之書状披見候」とあるが、随分返事が遅れている。
  ・会津への御陣(景勝攻め)があれば、榊原康政へ参るようにせよ。出陣はないようだが、もしもの場合は国元から人を遣わす。
  ・織田信雄(常真)の子・秀雄が江戸へ下るとの事で人を遣わしている。御用があれば忠利に申し付けられるようにと申し上げている。
   見廻をおこたらないようにせよ。
  ・江戸に在る「徒然草」を送る様に申し付けたが返事がない。急ぎ手配をして送るように。

 9、七月朔日書状
   引き続き会津出陣のことに触れて居り、出兵があるかどうかは不定だが、出兵に備えて諸道具を送るとしている。
   もし出兵があった場合、徳川秀忠の同意がなかったときは、御陣の先に先に廻って御見廻をする様にとしている。
   又、「徒然草」についてまだ返事がない、如何なっているのか急ぎ送る様にと催促している。

  (慶長6年7月7日、関ケ原や石垣原の戦いで活躍した有力家臣を招き宴を設け、無役の知行や長岡姓・御名の授与等がなされた。)       

 10、七月廿四日書状
   馬のこと、鉄炮ノ口薬入胴亂のこと

 11、八月十一日書状
   家康の命により上杉景勝が伏見に上ったので、忠利に御暇をいただき帰国できる様にしたい、
   中津は別条ない。
  (8月に奥羽に関する大名配置の決定をもって正式に景勝の処分あり、出羽国米沢30万石に減移封された。)
  (8月、御国政之事ニ付而、松井・有吉・加々山三人ニ被下候)

 12、九月廿五日書状
   伏見から家康が江戸に帰国した事、また具足や鞍など種々の道具が出来上がったが、やがて江戸へ送る事

 13、十月廿一日書状
   具足などを送ったこと、徳川家康に時々参謁する事

  (松井康之・興長に領地之御判物 25,994石余)

 14、十一月廿三日書状
   諸事秦宗巴の意見を受ける事、

 15、閏十一月廿一日書状
   家康上洛の時間を早飛脚で知らせる事、近江路・伊勢路迄も迎えに出る覚悟であること。
  (12月中旬、幽齋君初て中津ニ御下り被成候、所々の城代も中津ニ至り御祝儀申上候、翌日小倉より玄蕃(興元)殿御立退)
  (この時期、島津義久豊前に至り祝賀の席で一重切にて隆達節を披露す)細川護貞書「細川幽齋」
   

 


   

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