津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■細川藩の郡政機構

2018-07-31 15:06:02 | memo

           +--根取
           |
           +--吟味役
           |
           +--上内檢ーー地内檢ーー副内檢
           |
           +--郡横目ーー在中横目
           |
           +--杣方ーーー杣人
           |
           +--井樋方ーー大工
           |
           +--惣塘支配役
           |
   郡方奉行ーーーー+--蔵方
    御郡間    |              +--手代ーーー下代ーー小頭ーー走番
           |              |
           |      +ーー惣庄屋ーー+--庄屋ーーー+--帳書
           |      |       |       |
           |      |       +--給人庄屋 +ーー組頭
           |      |               |
           +ーー郡代ーー+ーー横目ーー村横目      +ーー役頭
           |      |               |
           |      +ーー山支配役ーー山之口    +--蔵頭
           |      |               |
           |      +ーー地方普請方        +--五人組頭(伍長)
           |
           +--鶴崎會所根取

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(11)

2018-07-31 07:26:12 | 史料

 六二五
   覺
一開之田地は理にしたがつて年季を定可申候、定候理熊本
 之郡奉行え可申候、尋候て年季を定候事仕間敷事
一或ハ土免二定候上、百姓を書物ニ定之ことく免をさけ候
 事、郡奉行見計次第たるへし、但横目をこひ可申候時分
 かけおそく熊本より横目申付候ハヽ不苦候間、郡奉行と
 して可申付候事
一畠ハ開取ニ加申付候、但鍬目計を付、我畑ニ定候儀ハ法
 度ニ候、鍬先次第ニ開取ニ可申付候事、幷古作をあしく
 仕間敷候事
一郡中之儀ハ可然と見切候儀は熊本へ尋ニ不及、如此申付
 候との儀迄可申届候事
一たとひ熊本奉行より申付候儀もわろきに定候ハヽ申付間
 敷候、扨其段熊本へ可申候、其上は熊本次第我等申付候
 と申事も、事により郡迷惑仕候儀ニハ理可申候、とかく
 郡中悪敷儀ハ郡奉行ニ定候上は無理悪事を其まゝ置候事
 曲事候、横目をまハし、悪事申來候とも不遂穿鑿申付候
 事有間敷候、其段氣遣仕間敷候事
一口々ニ地侍抱可申候口上ニ有、幷有付候儀ハ百姓ハ不及
 申、侍・商人・鍛冶・はんしょうの類も有付候様ニ可仕
 候、幷右之知行遣候者え役者其身めしつかひ様、迷惑不
 仕候様似合敷儀迄可申付候、又知行之分ハ役申付間敷、
 年頭ニ一度又郡へ出候時目見可申付、其次を又可申付
 候、地侍と名付可申候事
一内々他國へ之通路之儀、是又可承候幷自然之時他國より
 けいさく候ハヽ何様にも申談、何も取かへ扨内談可申候
 随其他國之褒美より過分ニ可申付候事
  以上
  寛永十一年十月二日     御判妙解院様
                  小野 又兵衛殿      寛永十四年十一月~寛永十五年二月 山鹿郡奉行
                  佐藤七左衛門殿      不明

 六二六
   肥後國幷豊後國之内私領分作毛之覺
一辰ノ年之作毛ハ能御座候事
一巳ノ年之作毛ハ辰年之物成三分可有御座候事
一午ノ年之物成は巳之年之一倍御座候事
  以上
  寛永十九年十一月廿ニ日    細川肥後守         (光尚)
            板倉周防守殿
            永井信濃守殿
            永井日向守殿
            久貝因幡守殿
            曾我丹波守殿
            石川土佐守殿
            小堀遠江守殿
           五味金右衛門殿

 六二七
一三ノ口米之事、御物成百石ニ付三石宛ニて御座候、前稜
 は五ノ口米ニて御座候由、此五ノ口米之内を御代官口米
 其外御免方御役人一切之諸入目被渡下候段、尤御免之内
 ニ積込、御物成外之様ニは相成居候得共、御物成之内之
 物ニて御座候、計直り之節より三ノ口米ニ相成候由
  但、此算用合釣懸舛壹升貮合ニ五ノ口米を入壹升貮合
  六勺、是に四ッ成懸五拾石四斗に成る、又是を京舛壹
  升六勺四才二て割四ッ七分三朱六厘八毛四弗になる、
  是を三ノ口を除候跡四ツ五歩九朱八厘八毛七弗二成
  り、前かとの四ツ六分の算用相ハ此御免二て御座候、
  右之通ニて後ノ口米・三ノ口米ニ成申候も、米之減方
  は無御座候

 六二八
一享保二年より二ノ口米被召上來候處、近年御赦免被仰付
 候、此二ノ口米之發りハ御勝手被指支候付て、何そ御為
 ニ相成候儀は有之間敷哉と惣躰御僉義有之、御郡方ニも
 御讃談有之、御郡頭より根取約へも存寄御為可申上由
 ニ付、吉海忠之允より相達候ハ此以前之五ノ口米を三ノ
 口米ニ被仰付、米之減方ハ無御座算用相にて御座候得と
 も、下方之者只今ニ押移り候てハ右之算用相は存し不
 申、以前之五ノ口米三ノ口米ニ相成、米之減方相成候と
 迄心得居可申候ニ付、前かとの五ノ口米以前之筋ニて、
 只今三ノ口米之上に二ノ口米を暫被召上候と御沙汰御
 座候ハヽ違背仕者有御座間敷候、左候得は二ノ口米大概
 一ヶ年五千石程は相納り申候段、右之算用合等之趣委細
 申上候處被及御讃談、右之二ノ口米被召上候得とも忠之
 允存寄之通下方違背不仕出來仕候由、承及申候事

 六二九
一御侍衆へ被為拝領門松之儀、立山所持被仕候衆ニは不被
 為拝領筈に先年相極候處、今日於御花畑御家老中御讃談
 之上、向後ハ大前之立山所持被仕候衆ニも、尤所持不被      鎌田杢之助 詳細不明
 仕候衆ニも可被為拝承旨、鎌田杢之助方へ長岡佐渡殿被      長岡佐渡  松井豊之・松井家八代‐家老職
 仰渡候事、御目附ハ留嶋猪兵衛                 留(富)嶋猪兵衛 詳細不明
  延享五年十二月廿五日
 

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■不思議な台風

2018-07-30 09:11:35 | 徒然

 誠に不思議な経路をたどった12号台風は、北九州に上陸すると天草西方に抜けての海上を南下していった。
予報ではくるりと輪を書いて西方に進むとしているが、何とも不思議な台風であり、気象の異常化を思わせる。

                    ウェザーニュースから


台風に備えようという訳でもないが、昨晩は少々早めに就寝した。途中で二三度目を覚まして外を眺めるが、大風のきざしも、大雨の降る様子もない。
そんな感じで一夜が明けた。現在は雲の多い空だが、青空ものぞいているといったところだが、風鈴が「チン」ともならない。
誠に不思議な台風ではある。

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(10)

2018-07-30 08:27:07 | 史料

 六二四
   御國中御供衆幷不時之御用被召仕御役人幷相
   渡申人馬之記録
一歩御使番
 但、元文三年八代御出之節、依願馬壹疋宛被渡下候事
一歩御小姓 一御茶道 一御物書 一御音信仕出奉行
一御側弓鐵炮之者 一表御納戸奉行 一御臺所之者
一御鷹匠 一御大工 一御船頭 一諸奉行役人
 右之分三人相ニ夫壹人、先様逗留中五人相ニ向方仕夫壹

 人相渡候事
一御右筆 一御兒小姓横目 一御馬醫 一御料理人 一御
 細工人
 右馬壹疋宛、仕夫ハ五人組ニ壹人相渡候事
一御大工棟梁 一御疊刺棟梁
 右五里内ハ三人相ニ夫壹人、仕夫ハ五人相ニ壹人、五里
 外ハ馬壹疋宛仕夫ハ右同断
一外様足輕 一御持筒之者 一御昇之者 一御掃除坊主
 右四人半相ニ夫壹人、向方仕夫ハ七人相ニ壹人相渡候事
一御長柄之者 一御小人 一御小道具之者 一御駕之者
一御仲間 一御草履取 一御路地之者 一御掃除之者
一御餌刺 一荒仕子 一御加子 一又小者
 右之類ハ七人半相ニ夫壹人、拾人相ニ仕夫壹人相渡候事
一御兒小姓
 右は荷馬貮疋下々之食焼夫壹人相渡候事
一御醫師
 右は御知行不被下分ハ、馬壹疋・薬箱持夫壹人・仕夫壹
 人相渡候事
一山瀬検校 馬壹疋仕夫壹人
 星野勾當
一小坊主 馬壹疋食焼夫壹人
一御次相詰申御切米取
  但、前廉ハ三人相ニ夫壹人、仕夫ハ五人相ニ壹人渡候
  得共、寛文九年十月山鹿御出之節より貮人相ニ馬壹疋
  相渡、仕夫ハ右同断
一御兒小姓部屋口之番 一同下横目 一御納戸手傳
 右外様組同前ニ四人半相ニ夫壹人、仕夫ハ七人半相ニ壹
 人相渡候事
一御免奉行・御横目ニ被差出御知行取、先様村継馬壹疋幷
 乗馬之糠・藁・草・薪相渡候事
一御奉行役・御目附役御國中え早使ニ被遣時、自身下々迄
 御郡馬壹疋宛相渡申候、尤各別之沙汰ニて乗物舁夫相渡
 申時も、荷馬壹疋ハ相渡申候、常々御使ニ被遣時は自身
 迄ニ荷馬壹疋宛相渡申候事
一御役者御郡馬壹疋宛食焼夫ハ相渡不申候事
一在々御茶屋作事幷所々奉行に被差出御中小姓、御郡馬貮
 疋・仕夫壹人宛相渡候事
一御郡横目被差出歩御使者幷歩御小姓
一御内檢 一穴生 一御郡間算用之者
一御作事所會所之者 一井樋奉行 一野開改ニ被差出御鐵
 炮之小頭
 右之類壹人ニ馬壹疋、仕夫ハ壹人宛相渡候事
一御代官ニは其御郡中継馬壹疋相渡、尤野津原・鶴崎両所
 之御代官ニは熊本より往來馬壹疋相渡候事
一御作事所小奉行
一御疊奉行
 右五里内は三人組ニ夫壹人、食焼夫壹人宛相渡、五里外
 ハ継馬壹疋宛往來渡ス、仕夫ハ右同断
一歩御小姓浦々御番所へ觸状持参申時、文箱持夫壹人相渡
 着替持夫・食焼夫は相渡不申候事
一締奉行着替持夫・食焼夫は相渡不申候、先々鳥持た差出
 候夫戻りニ着替取越申筈ニ御座候、仕夫ハ夫銀受取申候
 ニ付相渡不申候事
一諸奉行幷所々御番代ニ妻子引越参候節、自身・女房・子
 共・下女迄馬壹疋宛差出取置相渡、男子ハ四才より十四
 才迄ハ馬相渡、四才より内十五才已上ハ相渡不申候、女
 子ハ四才以上相渡申候事
一高瀬・八代・鶴崎御蔵奉行熊本へ御算用ニ罷出候節、帳
 箱附馬往來相渡申候、御算用之外御用ニ付罷出候ニハ着
 替持夫壹人相渡申候事
一鶴崎用水奉行・御作事奉行御用ニ付罷出候時は、往來馬
 壹疋相渡申候事
一杣奉行御郡馬壹疋相渡、仕夫ハ荒仕子相渡候ニ付不申
 候事
  附、手傳之御鐵炮之者夫銀受取候ニ付夫相渡不申候事
一十五人巻御鐵炮之者 
  是ハ穴生え被仰付置所々石垣石割所々御用相勤申候
 右は四人半相ニ夫壹人、仕夫七人半相壹人渡來候處、寛
 文九年より御普請奉行衆御断申上候ニ付、一人御普請所
 へ被差出候ても、着替持夫仕夫共ニ壹人宛相渡申候事
一御鐵炮小頭諸小奉行役ニ被差出候時、往來共着替持夫、
 仕夫壹人相渡申候事
一御内檢之者手傳被差出、御鐵炮之者着替持夫相渡不申、
 御内檢へ馬壹疋被渡下候間、付合ニ仕筈ニ候、然共御内
 檢不参時ハ着替持夫壹人相渡申候、仕夫は相渡不申候事
一町大工・左官・屋根葺・樋屋・疊刺之類、三人相ニ道具
 着替付馬壹疋相渡申候、仕夫ハ相渡不申候事
一御兒小姓・小坊主・女中方ニ付被遣役人ニハ、馬壹疋宛
 相渡申候事
一用水奉行之御切米取ニハ、馬壹疋・仕夫壹人相渡申候事
一八代御普請奉行衆、寛保三年正月出府之節馬壹疋宛被渡
 下筈相極、出府之節は彼地より答候ニ付受取被申、罷歸
 候節は差紙出申候事
一同書類族奉行衆も継馬壹疋宛被渡下候事
一白茸萱拵奉行被差出御鐵炮之者、夫銀受取候ニ付、着替
 持夫ともニ相渡不申候事

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■木賊(とくさ)色

2018-07-30 06:44:56 | 色・いろいろ

 これも昨日の散歩の途中で見かけたのだが、地下茎が伸びて道路近くに数十本群れをなしていた。よく和風庭園の植え込みに使われている植物「木賊」である。
日本の伝統色にある「とくさ色」は、この茎の色に由来している。
径が5・6㎜ほどで茎は中空になって、すっくとまっすぐに立っている。簡単にぽっきり折れるから取扱い注意である。
これを適当な長さに切りお湯でゆでて、カッターで開いて広げて乾燥させ平たくなるように軽く重石をしておく。
これを板などに数枚はりつけると、天然やすりの出来上がりである。故に砥草とも呼び、木工芸家等が作品の仕上げなどに今でも使われると聞く。
一本だけ茎を頂戴して木賊やすりを作ってみようと思ったら、根っこ事抜けてしまった。差し当って鉢に植えておいた。

       color2.php?color=_22825D&fb=1&read=Tokusa-iro&text=%E6%9C%A8%E8%B3%8A%E8%89%B2   「木賊」の画像検索結果   「木賊やすり」の画像検索結果

 色としては、史料によると元文期の流行色らしい。

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(9)

2018-07-29 09:04:31 | 史料

一乗馬所持之面々ハ、壹疋ニ付飼料大豆拾俵宛右之通被渡
 下、代米ハ手取米之内より差引被仰付、右望差出ハ六月
 廿九日限惣銀所え被相達、乗馬所持之面々飼料大豆之儀、
 銘々より惣銀所え望差出被相達、馬數何疋所持との儀銘
 々より書付一組限被取揃、頭々より各別ニ御奉行所え可
 被相達候事
一御郡代中出在之度々被渡下候御加扶持米幷勤渡之儀、寶
 暦三年八月より左之通
 拾人扶持
  但、五人扶持被渡下候處、已後右之通被渡下候
 拾枚
  但、七枚宛被渡下候處、向後右之通被渡下候
一御郡代在役料之儀、本知貮百石内之面々ハ貮百石迄被足
 下、貮百石以上ハ都て右役料ハ不被渡下候事
一江戸幷御當地御用雑穀品々割賦之内、向後大麥・上大豆・
 中小豆・粟・蕎麥・同干大米・黑大豆ハ割賦被差止、上
 小豆・白小麥・稗・十六寸ハ已後共割賦被仰付筈候事
一御郡間納之新地山方御年貢御開徳米、畝物上り開野開米
 銀等、前々より二季御算用帳幷皆濟目録、正月十一日目
 六共調出候、外ニ在中より相納候稜々を別帳ニ〆、皆濟
 目六差出候様達之事
一御郡奉行之儀、寶暦六年八月より御郡代と役名被改候事
一御山奉行之儀、同年同月より御山支配役と役名改候事
  塘方助役之一領一疋・地侍之儀も右ニ准し支配役と改
  可申候
一野方へ被遊御出之節、御郡代御供罷出來候得共、御免方
 御用等差支候ニ付、此已後八月より十二月迄ハ御郡代御
 供被成御免、御惣庄屋も罷出候ニ不及、一領一疋之内壹
 人罷出御用筋は承り加申旨被仰出候事
一寺社幷町在共見せ物芝居依願被成御免興行之儀、時節無
 構興行仕來候得共、向後十二月より明ル三月迄四ヶ月ノ
 間興行可仕候、右之時節外ニは都て興行難成候事
一右御免之見せ物芝居、又ハ神事祭禮の芝居共、夜芝居興
 行之儀遠在たり共向後被差止候事
一御國より他所へ出候女、御境目罷出候出切手之内自餘之
 女紛無之段、書付出候上其趣を以出切手調相渡來候得共、
 相改、自餘と申儀調不申、御國者ニ紛無之と出來之筈ニ
 候間、受人立之書物、且又添手形等も僧俗男女共ニ右之
 通調加候事
一諸御浦々御番所御番宅等御繕之儀、且又所々御茶屋其外
 御客屋又ハ寺社方之儀、支配方々々より達有之候へハ、
 御繕之儀及達、御郡拂之品々も其時々ニ割賦ニ相成候得
 共、在中間敷時分ハ速ニ拂込も難成、自然と其分ニて押
 移候儀も有之候付、御郡拂有之所々ハ、御繕之儀急成儀
 は格別、其外ハ霜月比より翌三月比迄之内御繕被仰付度、
 秋在中間敷時分ハ御郡拂之沙汰用捨仕、御繕之儀、十月
 比ニも被相達候ハヽ見分等及達、冬春之内致出來候様可
 仕候、御郡拂之品々差紙前無滞拂込候様可有之候事
一御隣國之御衆様御領内御通之節、御宿拵等ニ御役人被差
 出來候、然處相改、右御宿拵之儀ハ一式御郡受被仰付
 候、且又浦御番御用間又は遠方御番所御繕等之儀も、御
 郡受被仰付、右御繕之儀御惣庄屋引受、御入目等積書小
 前等相調差遣加申事
 託麻郡春竹村穢多共、牢舎之掃除幷御仕置者有之節、井
 手口・下河原両所之御用其外一切勤來申候處、近年及
 零落候ニ付遠在之穢多共も御用向一統ニ相勤候様、若遠
 在之者とも右之御用難罷出候ハヽ、御國中穢多村々より
 一竈ニ付五匁宛之出銀、四月八日両度ニ受取候様被仰付
 被下候様、願之書付託麻御郡代より被相達及参談、五匁
 宛之出銀は難叶、一竈ニ付貮匁宛受取様及達、依之春竹
 村穢多共在々打廻申談候處致納得候村も有之、一向受付
 不申村も有之候ニ付、一統ニ出銀相渡候様被仰付被下候
 様、尚又春竹村穢多頭書付託麻御郡代より被差出候ニ
 付、寶暦四年四月左之通相究
 鯰手永    中嶋手永   甲佐手永   上同     坂下手永
一中六ヶ村 下大川村 仁田子村 下早川村 川崎村
 小田手永   上同     荒尾手永  中富手永  上同
 東北帳村 下坂下村 増永村 藤井村 久野村
 右村々穢多共ハ、御年貢幷諸公役共惣百姓並ニ相勤候ニ
 付、貮匁宛出銀ハ不申筈候事
 高田手永   上同      野津手永
一宮地村 一上白置村 一宮原村
 右村々穢多共、八代御城下一切之御用相勤候ニ付右同断
 中山手永     佐敷手永
一中小路村 一白岩村
 右貮ヶ所村へハ穢多共纔ニ居申候得共、無高者ニて百姓屋
 敷内又は高地之端差置、乏敷様子ニ付右同断
 上益城     同     下益城     同      葦北
一馬水村 一平田村 一水上村 一下宮地村 一濱村
 同      山本     山鹿     同      同小字田村之内
一馬場村 一宮原村 一松原村 一國瀬村 一嶋村
 同下吉田村之内 合志            同               同                    同
一嶋村  一原田村 一弘生村 一南弘生村 一中代出分村
  内牧            坂梨             高森            布田            下益城
一穢多村 一穢多村 一穢多村 一穢多村 一巣森村
 宇土     菊池
一高良村 一西寺村
 右村々穢多共之儀、前々より御年貢上納等も致來候穢共、
 諸公役は相勤不申由ニ付、春竹村穢多共へ之出銀相渡申
 筈ニ候事 

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■「日本切支丹宗門史」と細川家(2)

2018-07-29 06:55:19 | 史料

   1602年(慶長七年)
    ・或日御殿の中で、天下の大々名二人、即ち豊前の大名越中殿(細川忠興)と、長崎奉行カンズエドノ
     (當時の長崎奉行は寺澤志摩守にしてカンズエドノとせるは誤なるべし)との間に、大喧嘩がもち上がった。カンズエドノは、越中殿が領内で
     イエズス會の神父等を優遇し、種々便宜を與へたことを特に非難し、キリシタンに對して嘲罵を
     浴せた。豊前の大名は、カンズエドノの無法を憤り、刀に手をかけるに至り、若し大々名の一人が中に入
     つて両者を宥めなかつたら、修羅場を現出したに違ひない。
    
    ・豊前と豊後の一部を領有する長岡越中殿(細川忠興)は、己が本城であり常住の治であつた小倉に、司祭一
     人と修士二人を置いてゐた。京都付近では、越中殿の息子二人があり、各々一國の大名で、其夫
     人と共に洗禮を受けたが、公方様故にそれは秘密であつた。

   1603年(慶長八年)
    ・二年前から城下町に定められ、人口六・七千人あつた豊前の小倉では、長岡(細川忠興)は、常に好意
     を寄せていた。この町には、イエズス會員が三人ゐる一つの駐在所があつた。四百人の生年の受
     洗者があつた。
      長岡の女二人は、キリシタンであつた。彼女等は、母の勧めによつて、秘密に洗禮を受けてゐた。
     彼女等は、父の取締が厳重なので、宣教師には一切話が出来なかつたが、堅く身を守つて日
     を送り、聖靈が彼女等を導き守つてゐた、といふことであつた。彼女等は、キリシタンの人々の
     仲介で、神父と往来した。長岡は、彼女等の生活の安全なことで、彼女等がキリシタンであると
     判つたが、黙認した。

   1604年(慶長九年)
    ・豊前の小倉には、三人の修道者がゐた。漸く二年前に出来たばかりで、而も既に七千戸もある
     この町には、四百人の成年者が洗禮を受けた。この町のキリシタンは、支那船の難破のために宣
     教師が文なしになりはせぬかと懼れ、彼らのために米六百俵の喜捨を集めた。
      陰暦七月十七日にドンナ・ガラシアの年忌が行われた。この機會に越中殿は、素晴しい
     慈善を行った。彼は、死刑の宣告を受けた者七人を特赦して神父に引渡し、なほ之でも足らず、
     翌日更に、他の死刑の宣告を受けた者二十人を全部釋放した。教會に感謝してゐた之等憐れな人
     々は、説教を聴くことを願ひ、そして洗禮を受けた。越中殿も、キリシタンになりそうに見え
     た。然し、政治的の利害關係と、第六戒(貞節)を守ることの困難とが、この大名の改宗に何時も邪
     魔になつた。

   1605年(慶長十年)
    ・豊前の小倉には、一人の司祭と二人の修士がゐた。大名長岡越中殿は、若し第六戒がなか
     つたならば、キリシタンになつたことだろう。十九歳になる彼の子供内記殿(忠利)は、随分好意を寄せ
     てゐた。     

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■少年時代

2018-07-28 11:36:27 | 徒然

                 吹き井戸や ぽかりぽかりと真桑瓜  漱石

 私が少年期を過ごした熊本市出水の家には、自然湧水の井戸があった。出水町はあちこちに清冽な湧水がみられ、町名の由来もここからきているのだろう。
昭和28年の水害で、私の家の前の三軒程が流失したが、水が引いた後、地中に差し込まれていた竹筒から清らかな水がこんこんと湧き出ている風景は強烈で、私の脳裏から消え去ることはない。
我が家には地中に井戸側が三本ほど生けこまれている井戸があって、こんこんと水が湧いて満水状態だったが、溢れることはなく水位は一定であった。
私が釣ってきた小さな魚たちもここに放り込まれて成長した。冬は暖かく夏は冷たい有り難い湧き水であった。
夏になるとキュウリやトマト、時折西瓜やまくわ瓜も浮かんでいた。

漱石の俳句集からこのような句を見つけたが、熊本に於ける漱石の邸宅ではこのような「吹き井戸」の風景は見られなかったのではないか。
水前寺や江津湖周辺でしかお目に掛れなかったと思うが如何だろう。

井上陽水の「少年時代」などが聞こえてくると、思い出す私の少年時代である。

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(8)

2018-07-28 07:08:08 | 史料

 六二三  (二回に分けてご紹介する)
一用水御普請之節竹木入申所ハ御山支配役立合積可仕、山
 出夫積等入念、御普請損所繕之所々一ヶ所切諸品入用夫
 積等之書付、一手永限例年十一月十五日迄御郡方へ調出
 右積書出揃候上御郡代中へ相渡、無支所ハ年内より取懸
 翌年三月中に不殘相仕廻可申候、右普請之砌ハ御郡代中
 罷出、出夫之着到を以夫仕仕廻之上、右積書夫方幷諸品
 入用増減之儀御郡間へ差出候事
  但、右普請之品二より出方をいとひ不丈夫繕置、御損
  失ニ相成候儀入念候様
一所々塘之儀、御本方・新地都て御用之外ハ在方出夫を以
 普請等仕間敷處、近年は御家中開所之塘も御用同前ニ取
 計候由、上り塘と有之分ハ元々之通差戻、御用之外ハ一
 切不審不被仰付候事
一潮塘、川塘筋修復之儀、高潮風前ハ彌以入念手弱處ハ急
 度取繕、海邊御郡ハ常々明俵・竹木等圍置申候得共、不
 足ニも候ハヽ早々寄置可申事
  但、大風高潮之節鹽圍丈夫仕、大破無之様相心得、兼
  て夫割等手賦仕置、海邊無之所も破損手永より注進有
  之候ハヽ、早速其場へ馳付相働可申候事
一夫仕之儀御格も有之候得共、夫仕相増百姓共及難儀候ニ
 付、公邊ニ懸り候御用筋ハ各別、御自分方夫仕之儀、毎
 年四月より十月迄之間ハ堅不被召仕、給人夫仕之儀も右
 同断致用捨候様之事
一夫仕之儀、極り候用水方幷塘筋御普請ハ、十一月より翌
 三月迄之間手廻相仕廻、四月より十月迄ハ一切夫仕不被
 仰付候事
  但、大風・洪水または高潮等之切所普請ハ各別之事
一小頭給米多少有之、諸手永共ニ貮百宛ニ相究、御用ニ
 付他御郡へ罷出候節は一日壹升、銭貮分五厘に相極相渡
 可申事
  但、貮百目已下給銀抜來候所ハ相改貮不及、走り番も
  右同断
一惣小頭給米六石五斗宛相究可申事
一會所番給銀貮百目宛相究可申事
一同所走り番給銀口米共百七拾目宛相究可申事
一雇小頭召仕候儀一日を在夫三人役に立來候處、近年ハ給
 銀ニて相究候由、前々之通夫引ニて召仕、給銀ハ相渡申
 間敷候事
一御普請抱夫之儀、御普請之多少ニより毎年積帳ニ應抱夫
 被仰付候事
一乗馬所持之面々、知行所より糠藁代受取被申候員數増減
 有之趣ニ付、馬壹疋ニ付貮百目宛被相究、所持馬數貮應
 右之當を以受取可申候、飼料大豆も惣銀所へ被相達候、
 已後馬求被申分ハ、糠藁代之儀其月より右貮百目之割合
 を以受取被申筈候事
一在中貮て商賣仕品前々より御免左之通
  鹽 農具 雑候 鰯 油 木綿
 右之品々貮て其外ハ御停止候處左之通
  苧 麹 氣付蟲藥類 綿
 右四品前々より御免之外ニ此節より御免被仰付候事
一開立山譲渡之儀、御中小姓幷又内之侍・一領一疋・地侍
 之開を御知行取へ譲渡難成候處、双方より譲受渡共支不
 申様被仰付、今迄之根帳被改候ニ付、開立山所持之面々
 え畝數書付を根帳割印を用、後年為證跡銘々え被渡置候、
 譲受渡節ハ双方より願書ニ割印相添、其所之御郡代え
 被相達候を及参談、右割印書付調直御郡代え差越、譲受
 之面々へ御郡代より被相渡す筈之事
一御知行取之内在宅之面々、居屋敷年貢高百石ニ貮石五斗、
 四百石以上ハ都て拾石宛、手取米之内より御取立被仰付
 候段、寛永三年四月及達候處、右御年貢米之儀大小身共ニ
 都て壹人ニ付貮石五斗宛、貮千石以上之面々ハ壹人ニ付
 三石五斗宛御取立被仰付候事
一御合力御切米取地子内作年貢、寛延三年迄ハ地居拾石高
 ニ壹石宛、旅詰ハ拾石ニ壹石五斗宛ニて候を、已來地
 居・旅詰之無差別、拾石高以上は壹石宛御取立被仰付、
 其已下ハ拾石高ニ壹石宛之當を以御取立被仰付、足輕已
 下ハ少々増方ニて御取立被仰付候得共、是又地居・旅詰
 之無差別、拾石高ニ壹石之當を以御取立被仰付候事
  右ハ銘々より證文五月廿九日限惣銀所御切米所え被差
  出候様、右證文御惣庄屋取集候上一紙之帳面ニ仕立、
  右一紙之小前帳六月廿九日限差出筈之事
一御家中へ被渡げ候大豆員數差之通
 一千石以上高百石ニ六斗宛
 一九百石より七百石迄拾貮俵宛
 一六百石より四百五拾石迄拾俵宛
 一四百石より三百五拾石迄六俵宛
 一三百石より貮百五拾石迄五俵宛
 一貮百石より百五拾石迄四俵宛
 一百石以下は三俵宛

    六二三 つづく

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■「日本切支丹宗門史」と細川家(1)

2018-07-27 15:03:25 | 書籍・読書

 日本切支丹宗門史」にとりつかれている。下手な小説よりもずっと面白く、真実が紡がれた歴史の迫力を感じる。
 その中から細川家に関わる文章を抽出してご紹介する。

 1600年(慶長五年)
  ・内府様の旗下には、丹後の長岡越中殿(細川忠興)がゐた。其夫人ドンナ・ガラシヤ(忠興夫人、明智光秀の女、秀林院)は、
   典型的のキリシタンで大坂に滞留し、夫の家老之一人小笠原殿(小笠原少齋)が護っていた。此家老は、
   若し夫人の名誉が危機に瀕した場合には、日本に習慣に基いて、先づ夫人を殺し、次いで他の家
   臣と共に切腹せよとの命令を受けてゐたのであつた。奉行達は、人質の名義で夫人の引渡しを要求
   し、且つ其邸宅を圍んで、夫人を奪取すると脅した。小笠原殿は、夫人に夫の命令を傳へた。
   ドンナ・ガラ̪シヤは運命に忍従して祈禱所に入つて祈り、次いて侍女達には、後に残るやうに言
   含めた。事實、侍女達に館を引下らせた。一方家臣の面々は、誤つた武士の面目といふ事に心
   を惹かされて、自殺すると言つて聞かなかつた。ガラ̪シヤは、跪いて劔の前に首を延べた。家臣
   達は、隣室に行つて、城に火をかけた後に切腹した。總ての物が皆灰になつた。
    ガラシヤ夫人は、總ての道徳の完全な鑑であつた。彼女は前から如何なる事變に遭はうとも、
   それに對する覺悟が出来てをり、又神の思召に從つて死ぬ事を一種の贖罪として進んで受け容れ
   たのであつた。彼女は、息子と二人の娘をキリシタンの教の中で育てゝ來たのであつた。彼女は、
   若干の棄子を邸内に引取り、又常に五六人のイエズス會の會員を世話すると申出ていた。
    心から彼女を愛していた夫は、何時までも深く心残りがしてならなかつた。オルガンチノ師は、
   夫人の遺骨の一部を集めさせて、彼等に荘厳な葬儀を執行はせた。為に領主は、この慈愛に満ち
   た行為にいたく感激した。

 1601年(慶長六年)
  ・長岡(細川忠興)は、丹後を譲つて、豊前とそれに隣接する豊後三分ノ一を拝領した。彼は、ドン・ヒ
   エロニモとその子ドン・トマス、並にその子達、平戸の追放者達を召抱へた。この大名は、快く
   グレゴリオ・デ・セスペデス師の意見を容れた。夫人を思ふにつけ、當時彼が宣教師に對して抱
   いてゐた感謝の念は、盡きる處を知らなかつた。彼の弟や息子並に女二人は、皆キリシタンであ
   つた。
  ・オルガンチノ師は長岡越中殿の希望に依り、其面前で夫人ドンナ・ガラ̪シヤの靈魂のために
   荘厳な葬式を營んだ。それは、特に必要の場合か或は讒誣を避ける為に、教皇廳から與へられた
   特権によつて、未信者の面前で聖なる祭式を執行する事が出来たからであつた。式後、殿は引出
               (一クルザドは約三フラン)
   物として黄金五枚、即ち二百クルザドスを贈つたが、師等はそれを貧しい人々に分けてやった。

                  「加賀山隼人」の画像検索結果

 1602年(慶長七年)
  ・豊前の傳道所には、四人の宣教師がをり、之等の宣教師が三百人の人に洗禮を授けた。そして
   二年前よりも更に厳粛に、ドンナ・ガラ̪シヤの三年目の記念祭が執行された。

                  (つづく)

 

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(7)

2018-07-27 07:07:24 | 史料

 六一〇
  明和八年三月
  飽田       八代      八代     葦北
 立田山御山 松求麻御山 高田御山 茂道御山
  山本     玉名     玉名     玉名     玉名
 植木御山 長須御山 晒御山  半高御山 臼間御山
  阿蘇谷
 小代御山
 右之山々前々より御留山と申傳候得共、屹ト御留山と申
 儀相分不申、彌以御留山被仰付被圍候旨、萬一杣取不
 仕候て難叶節は相達差圖を受、立枯不時折木は今迄之通
 相心得候様、尤御山々々差繁候様、容易ニ御惣庄屋・御
 山支配役幷村役人共取計不仕様御達ニ成候事
  奥物書所覺書有之ス郎事
 外
  小田手永   水俣手永   菅尾手永             水俣手永
 杉ノ谷御山 櫻野御山 馬見原御山之内二ヶ所 大崎御
    湯浦手永
 山 湯沼御山

 六一一
  明和九年十一月
 右両所御郡代衆、依願御留山被仰付奥物書所日帳ニ扣有
 之候事

 六一二
  寛政三年六月
一在中之者共訴訟之筋有之儀ハ何品よらす筋々可申出儀、
 有前ニ候得共上ハ役/\訴訟之筋を差押候歟、又は非
 分を申出候歟、何分村庄屋へ達難成譯候ハヽ御惣庄屋へ
 申出、右も難成候ハヽ御郡代へ申出、夫も難成候ハヽ御
 郡間又は御奉行所え相達候様之事

 六一三
  同五年正月
一御郡代直觸無苗之者、天明六年已來ハ村人數日差加置候
 處、已來其身迄村人數日差放、附属ハ村人數日召加置候
 段達之事

 六一四
  同年七月
一御郡間御米銀鹽御算用之儀、是迄小物成方へ所々御蔵よ
 り御算用仕出來候を、以來御本方同様御算用所へ仕出方
 被仰付、手永御算用も是迄御郡間へ仕上來候も、本方同
 様ニ御算用所へ仕上候様被仰付候事
  右は御郡間當用方大覺帳之内書抜候也

 六一五
   小物成方覺帳之内抜書
  寶暦五年三月
一御郡奉行衆へ五枚宛被渡下候造作銀月限之儀、二月より
 三月限相渡、以後所替又は御役替被仰付候ても、跡役へ
 ハ譲ニ不及候、年内より正月之内先取仕候衆、二月より
 前御役替又は所替仕候ハヽ先取分も跡役へ譲渡筈ニ候、
 尤二月已後被仰付候衆ハ其年之渡方不及、翌年より被渡
 下候事

 六一六
  同六年正月
一御奉行所ニ手調脇々え仕出候紙面之内、御一門方・御家老
 中は今迄何某殿と書來候得共、此已後御一門方ハ何かし
 殿、御家老中ハ何ノ何某方と調加申候由、尤殿文字ハ此
 を書、御家老中ハ手ニ葉ニより方ノ字をも差除、何ノ
 何かしと調申候由候事

 六一七
  同年八月
一御郡奉行之儀、御郡代と役名替改、座席外様御醫師觸役上
 座被仰付候事

 六一八
  寶暦六年閏十一月
一再春館居寮賄米拾八石、御郡間御米之内年々相渡候事
  右之通候處、寛政九年より御本方渡相成候事

 六一九 
  同七年正月
一諸御郡御代官御算用之儀、三月十三日両度仕上來候處、
 御年貢米十二月廿日限皆納被仰付、皆濟目六差出、受米
 は利境御算用相立申品迄ニ候、依之三月中御算用被差止
 利境御算用迄被仰付候事

 六二〇
  同年四月
一獨禮已下御奉公差出ハ不被相達事候得共、當六月朔日よ
 り御奉公之趣、銘々より六月朔日より三日迄之内、分職
 又ハ御頭名當にして封印を以相達候様ニ成候事

 六二一
  同九年十月
一判屋共金子包判賃下方二ては百両ニ貮匁五分宛受取、御
 用金子は包方被仰付候ても判賃不被渡下候得共、向後包
 金被仰付候節は百両ニ壹匁宛被渡下候事

 六二二
  同十二年二月扣・同九年正月相究
一御用貮付在中へ被差出候外様足輕・御長柄之者へ晝飯米
 差別有之候得共、已來は足輕已下無苗之者共壹人半扶持
 宛被渡下候事

  右小物成方覺帳之内書抜也
 

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■落雷のお土産

2018-07-26 20:36:06 | 徒然

 午後三時前から降り出した雨は、大雨となったが一時間ほどで小降りとなった。
それでも雷がゴロゴロとなっていたが、わがAPの上あたりで強烈な雷鳴がした。
停電することもなく、気にもしていなかったら夕方になって突然水道が出なくなった。
どうやら揚水ポンプの電源が落ちたらしい。不動産屋に連絡を入れるが退社後で連絡が付かない。
上の階の方がなんとか連絡をつけられたらしく、約一時間後に業者がブレーカーを上げて一件落着。
奥方は、シャワーが出来ない、トイレに行けないと大騒ぎしたところだが、本当に人騒がせなことであった。

今月に入って35度以上の日が18日、そのうち37度が4日、灼熱の日に慈雨とおもったが、とんだお土産を置いて行かれた。
明日も暑そう・・・

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◆新発見一級史料◆一橋徳川家◆二代藩主徳川治済公書状◆初の花押確認史料◆一位様◆細川越中守宛

2018-07-26 10:20:38 | オークション

    ◆新発見一級史料◆一橋徳川家◆二代藩主徳川治済公書状◆初の花押確認史料◆一位様◆細川越中守宛◆大名/将軍家/慶喜/古文書/消息/松平

一橋徳川家の治斉から細川越中守に宛てた書状、出品者が「新発見一級資料」とか「初の花押確認資料」とか記されているように、珍しい書状である。
越中守とは細川斉樹の事であろう。治斉の娘・紀姫(蓮性院)が斉樹に嫁いでいる。将軍家斉の実父だから、徳川家斉と斉樹は義兄弟という事に成る。
治斉は文政3年(1820)4月21日、従一位に昇叙されている。斉樹が文政9年2月(正月とも)2日に亡くなっているから、この間の書状である。
斉樹の継嗣については、江戸に於いて一橋家からの養子話がすすんでいたが、国許に於いて血脈が途絶えることを憂い、先代当主・齊茲の意を以て宇土支藩の立政(斉護)をして後嗣とした。

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(6)

2018-07-26 07:06:23 | 史料

 六〇一
  明和元年八月
一諸御郡手永々々へ手代・小頭・村庄屋・御山ノ口等相勤
 候者、病氣等申立役儀相断、追て病氣快申立御家中幷寺
 社方之家来等ニ相成候儀難成候得共、退役之上無據子細
 有之、報告ニ罷出不申候て渡世之筋も無之者ハ、其子細
 ニよつて御免被成候事

 六〇二
  同六年六月
一在人數之内御家中寺社方へ給知ニ地筒等仕立候儀、高地
 等ニ障り又は其村ニて障り候得は難叶、無高者を専ニ撰
 可申、高地之者無據筋地筒被申付候ハヽ、子弟之内高地
 家屋敷農具ニ至迄引譲可申、無高とても御郡公役は相勤、
 其村高人數過分程ニ無之候ハヽ、譯立候共難叶、地筒ニ
 候得は、兼て鐵炮手練ハ無之候て難叶、歩段以上ニ抱候
 ハヽ其屋敷へ引拂可申、根元地筒之儀は軍役用意迄ニ付、
 萬一地筒之内より歩段以上ニ申付候節は屋敷々々へ引拂
 可申段達候事
一御奉行所之儀、御役所と唱來候、已來御役所と唱候儀ハ
 相止、御奉行所と被唱、御郡間・御勘定所、其外之所々
 を御役所と唱候様口達之事
両御寺・神護寺・往生院近火之節、飽田御郡代ハ馳付被     両御寺=細川家菩提寺、泰勝寺妙解寺
 申候譯吟味有之候得共相分不申、古役より被相達候ハ火
 を消方ニては無之、御位牌御除被成候節、御案内之為と
 申傳候由被相達候事
  但、継夫も無之事

 六〇三
   御領内宿驛人馬賃銭之儀ニ付御達左之通
 私領内驛場人馬賃銭之儀、享保之比銀壹匁ニ銭相場八拾
 銅ニて通用仕候時分、本馬壹疋ニ付壹里三拾貮銅、人足
 壹人ニ付壹里拾六銅ニて致継合、右人馬賃三拾貮銅は四
 分、拾六銅は貮分と數年來唱來候内、元文之比より壹匁
 ニ銀七拾銅と相場を以致通用候得共、其以後之銀目之積
 ニて四分貮厘と唱來候故、人馬賃共三拾貮銅は貮拾八
 銅、拾六銅ハ拾四銅ニ相減、尤坂有之所ハ坂賃も右割合
 ニて受取來候由、其節右之儀可相糺處下役人共無心付、
 人馬賃銭相減宿驛之者共難儀仕候段申立候、依之西國中
 國筋人馬賃之儀為承候處、私領之通少分之駄賃銭ハ無之
 趣ニ付、享保年中之通、銀相場不拘、本馬壹疋三拾貮
 銅、人夫壹人拾六銅之積相定候様仕度候、尤西國筋駄ニ
 同様之賃銭ニ罷成候儀故、往來旅人之難儀と申筋ニも有
 御座間敷候間、先規之通可申付儀、此段奉伺候、以上
   安永三年也
   四月十日        御名
[付札]「伺之通人馬賃銭増可被仰付候」

 六〇四
 御領内駄人馬賃銭、數十年間違ニて銀目を唱來候故、自
 然と相減宿駄之者及難儀候ニ付、先規之通本馬壹疋壹里
 三拾貮銅、人足壹人壹里拾六銅ニ被仰付度旨、公邊え御
 伺被成候處、今度御伺之通御差圖相濟候條、此節より本
 馬壹疋壹里三拾貮銅、人足壹人壹里拾六銅御定被仰付候
 間、其通可相心得事
一旅人より相尋之儀も候ハヽ、公邊え御伺被成御差圖相済
 候趣、前條之通申達人馬賃銭受取可申事
一今迄坂増等受取來候所々ハ右割合を以受取可申事
一右之外御定之上之増賃銭堅受取申間敷候
一後年若銭つかい之數相替、其節之銭數銀目ニ合ひ候共決
 て銀目ハ不相唱、何十何文/\と唱可申事、以上
   七月

 六〇五
   覺
 御國中人馬賃銭今度増方被仰付候ニ付、前々より被渡置
 候所々人馬會所懸札調替ニ成候間、今迄之懸札早々差出
 被申候様、尤右懸札ニ相見え候輕尻馬賃銭ハ壹里貮分六
 厘六毛と相究居候を、此節改候割合を以、來月朔日より
 ハ壹里貮拾壹文宛受取候様可被申付段、御郡代中え可有
 御達候、以上
  七月廿八日         御郡方御奉行中

 六〇六
  安永五年三月
一身代銀幷馬代銀滞候節、拂方本人差支候節は受人手前よ
 り相拂候儀、勿論受人差支候ハヽ親類共より相拂、其儀
 も難成候ハヽ、其五人組より相拂、尚又其儀も難成候ハ
 ヽ、其村中より相辨申筈、御郡代同役中申談相成沙汰ニ
 相成候事
  右は前々より極居候を、尚又元文三年午七月御郡代寄
  合之節申談相成候由、右之書付御郡代より被差出候を
  扣ニ成居候也

 六〇七
  安永六年酉三月小野武次郎へ問合ニ成候扣          小野武次郎細川家記「綿考輯録」編者
一寛永九年肥後國熊本・八代両城被引渡候上使衆
                   板倉内膳正殿
                   仙石大和守殿
             御代官 小林十郎左衛門殿
 十一月下旬熊本ハ米田監物是季、八代ハ有吉頼母英貴受
 取候由、忠利様十二月五日小倉御發駕、同九日熊本御入
 城之節迄ハ、御城番ハ石川主殿頭一人慥相知其餘ハ不
 慥、同年六月加藤忠廣御改易上使數多故不知、右三人ハ
 三齋様・忠利様御取合之御書ニも合候由也

 六〇八
  安永九年二月
一往還筋其外在端々共ニ止宿、又は通り懸り之旅人改國
 之類道心は物貰躰ニ至迄、病人有之節は其所之役人立合
 醫者を懸、其段筋々相達取計候様、明和五年公義より一
 統御觸之通相心得候様口達之事

 六〇九
  天明八年七月
一出京町構外池田五町支配之出小屋之者共、出京町人數ニ
 被差加候事

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■日本の伝統色「肥後すす竹色」

2018-07-25 19:50:33 | 色・いろいろ

 「肥後すす竹色」という色があるが、地名由来なのか、人名由来なのかは良くわからないのだそうな。
随分前に「肥後」というワードでサーフィンしていたら、着物の色としてこの色があることを知った。

永青文庫と毎日新聞社が昭和56年に、名古屋三越で「利休・織部・遠州茶道展」を開いているが、その図録に細川重賢公の「細工茶杓未完成品」が八本紹介されている。長さ30余センチで中央にお決まりの節がある。未完成というよりもこの長さに切りそろえて、何時の事かお作りになるために準備されているものであろう。時を経て味のある色になったのか、煤竹なのかよくわからない。

            ◆東北古民家 解体品 本物完全保証品③古材◆すす竹◆煤竹◆竹細工◆茅葺屋根 囲炉裏 茶室 茶道具 明治時代 田舎 雪国 床の間 和  「肥後のすす竹色」の画像検索結果

上の写真(左)は東北の民家の解体に際して出た古材を売り出しているのだが、これで6,000円程だそうだ。
高いのか安いのか判らないが、年季の入った色に仕上がっている。ちょっと癖もあって「茶杓」を削り出すには格好の材料と言える。
しかし「日本の伝統色」の「肥後すす竹」とはいささか趣を異にする様だ。
昔は近所に竹山があり、簡単に手に入れることが出来たが、最近ではそうはいかない。
お茶を習っていた時、「茶杓を削る」機会があり作品が残っていたのだが、地震のどさくさで行方不明と相成った。
上の写真のような材料が手に入れば、チャレンジしてみたいと思う。

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