津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

二つのエッセイ

2006-08-31 17:59:55 | 徒然
 K氏から「06年版ベスト・エッセイ集 カマキリの雪予想」をお贈りいただいた。氏はサラリーマンエッセイストだが、昨年も「警視総監賞」が05年版に掲載されており、二年連続の快挙である。今年は「昆布干しの夏」が掲載された。この作品はすでに「第十回小諸・藤村文学賞」を受賞している。平成十六年の事である。氏の出身地、北海道様似の海岸に展開する、昆布の収穫についての人々の豊かな表情や暖かい触れ合いが、氏のユーモアあふれる筆致で紹介されている。掲載されている方々を見ると、錚々たる人たちでこのエッセイ集への掲載が、いかに困難であるかが伺われる。氏とのご縁は、氏が肥後藩士米良市右衛門(赤穂浪士堀部弥兵衛切腹の介錯役)のご子孫という事に始まる。わがサイトでも「コーヒーブレイクエッセイ」としてご紹介しているが、ぜひ掲載本でお読みいただくことをお勧めする。(ちなみにK氏のお名前は、わがサイトではバレバレであるが、ここではあえて伏せておいた) http://www.kitanihon-oil.co.jp/essay/tuguo01.htm

 熊本を愛してやまない「大江戸バッテン人」岡崎弘明氏のサイト「21世紀の幻視者」にリンクさせていただいた。「熊本に長年住み、就職や進学その他の理由で熊本を離れて上京してもなお、熊本が大好きで、異様に熊本にこだわる人達」を「大江戸バッテン人」と云うのだそうな。一連のエッセイは、このような異常な郷土愛があるのかと、頬の筋肉が緩むのみである。 http://www.linkclub.or.jp/~yes/no/21C.html

 奇しくも北と南、北海道様似と熊本の豊かな方言を駆使した二つのエッセイを、偶然同じ日にご紹介できるのを幸せに思う。
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宇土細川藩家中先祖附・抄録

2006-08-30 15:14:59 | 歴史
 光永文煕氏の「宇土細川藩家中先祖附・抄録」は、あの太田道灌の末裔宇土細川家の太田家に由来するものだそうだ。慶安五年及び寛文年中の書出しの写しとある。この先祖附の面白いところは、本人の年齢がわかることや、奥方の出自が記されていることだ。丹念に見ていたら、わが一族と思われる人の名前を二人見つけた。一人はまさしく我が家の姓●と同じで、●源左衛門の娘が橋本彦左衛門という人に嫁いでいる。しかし、我が家とのつながりは判然としない。もう一人は、我が家の初代磯部庄左衛門の妹?(磯部市右衛門娘)が、山上四郎左衛門という人に嫁いでいた。(四郎左衛門の妹が見崎与次右衛門に嫁ぎ、弟三郎兵衛は谷三之丞の養子となり渡辺権太夫の娘を貰っている。)初代・庄左衛門の父磯部市右衛門は、周防国下松に浪人していたと我が家の先祖附には有るのだが、亡くなりでもして兄をたよって肥後に来たとでも言うのだろうか。しばし空想の世界に導きこまれてしまった。
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ここ数日

2006-08-27 09:15:27 | 徒然
 ここ数日メールで問い合わせが続き、確実な返事を差し上げる為に資料をひっくり返したり、照合したりで結構忙しかった。ブログの休みはこれが原因だとしておこう。問い合わせをいただくと、忘れかけていた事を思い出したり、新たな発見があったり大変刺激を受ける。進行が激しい脳細胞の欠落にブレーキが懸かるとありがたいのだが・・・

 ここ数日道路の塵あくたを大掃除するような夕立に見舞われている。雷鳴と共に約一時間ほど、ものすごい大雨を降らせあとはさっと晴れ上がる。あちこちの道路で排水溝があふれて、車も徐行運転を余儀なくされる始末だが、最近洗車していない我が家の車は埃落しに相成って結構結構。

 ここ数日我が家の愛犬ごえもんの調子がすこぶるよい。満17歳になってこの暑い夏を乗り切れるかと心配していたが、まだまだという感じ、頑張れ。
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「これ何と読む・・・」

2006-08-23 22:53:14 | 歴史
 こんなフレーズで質問するクイズ番組が有るようだけど、我が家の先祖附にある次の文字には頭を悩ましている。四代目が亡くなった事を記す記述に「病気ニ而寸七枚仕候事」とある。この「寸七枚」がどうしても読めない。訓下しが間違っているのではないかと、原本を確認しても間違ってはいないし・・・さてさてどうしたものやら。
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福岡市立図書館蔵・S家文書

2006-08-22 12:47:40 | 歴史
 我が家の家祖磯部氏については、皆目分らない。周防国三尾の小城の城主だったと先祖附は記しているが、これとて判然としないし眉唾くさい。二代目が母方の苗字を継いで現姓となったが、これがまたよく分らない。同姓の、かってNTTの社長を勤めたS氏(刑事事件で失脚したあの方)は九州久留米のご出身と聞いたが、遡ると同根かもしれない。福岡市立博物館に同姓S家の、S家文書というものがある。秋月種実に仕えた矢野藤兵衛を家祖とされるS家の文書で、家譜や系図が納められているというから、是非見てみたいものだと思っているが、そう思いながら数年を経過してしまった。妻の母方の実家は秋月氏で高鍋秋月氏の枝葉らしいが、これとて親族が皆黄泉の人となってしまった今となっては闇の中である。歴史を闇の中に葬らないためには、即行動が必要のようだ。即行動が一番苦手な私なのである。
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田辺籠城衆・一人発見

2006-08-21 10:35:33 | 歴史
 我が家の先祖附を熟読している。初代庄左衛門の兄磯部長五郎は、三斎公に殉死した蓑田平七正元の介錯を勤めた。綿考輯録にも当然記載されており、森鷗外の小説「興津弥五右衛門の遺書」にも登場している。先祖附を読むと、取って付けたように「久野与左(ママ)衛門相役二而相勤候」とある。我が家の先祖附は「御毒見役」としている。この久野(ひさの)氏も又、三斎公に殉死している。その事を言外に伝えたかったのだろうか。

 田辺籠城衆については、其の方に関する資料を盛んに調べて来た。もう出てこないだろうと思っていたら、この久野与右衛門も又籠城衆の一人だった。三斎公殉死の面々を紹介する綿考輯録に「与右衛門儀於丹後歩小姓被召出、幽齋君田辺御籠城之節心繰有之ニ付、為御褒美新知百五十石拝領御側ニ被召仕候」とあり100%間違いない。

 何度も目を通したつもりでいたが、こんな事もある。籠城衆の一人として追記したのは当然である。
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先祖附への興味

2006-08-20 10:49:35 | 歴史
 我が家の先祖附への興味を一気に開花させたのは、「水戸様御家来佐々助三郎 丸山雲平御国内被罷通候ニ付・・・」という一行だった。「助さん、格さんじゃないか、何でご先祖に関係あるんだ」という訳である。貞享二年六月、熊本に入った二人は薩摩に向かっている。その帰り途、再び熊本に入り八月十四日筑後瀬高に向かったらしい。その行き帰り「御附被成」役目を仰せつかっていた。TVドラマ的幼稚な発想がスタートで、今日の歴史狂いの私を育んだという訳である。
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讃州江之浦にて死去、その後・・・

2006-08-19 17:23:44 | 歴史
 我が家の六代目は江戸出府の帰途、讃州江之浦で亡くなったと先祖附は記している。天保五年秋の事である。讃州江之浦とは、現在の丸亀市広島江之浦である。いわゆる塩飽諸島の広島で、ここで病死したとある。遺骸は火葬されることもなく、熊本に帰ってきている。海路はともかく、鶴崎辺りに上がってからの陸路は、さぞかし大変であったろうと思うのである。遺骸が火葬されていない証拠があった。1997年、お墓を改葬するにあたり、地下1.5mのところから現れた甕棺の中から、白蝋化した六代目様が出てきた。首は落ちていたが、完全な形で残っていた。まったくと言っていいほど恐怖心は無かった。(作業に当たったお一人は、恐怖の余り現場を離れられた)新聞種ものだったが、即断で土に還っていただくことにした。大変な作業だった。そのことを書き残しておきたいと思うのだが、筆は全く進まない。

(火葬しようと思ったのだが、火葬は死亡診断書がないと出来ないことを知った)
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江津湖散策

2006-08-16 00:40:50 | 徒然
 15日夕刻前所用で妻と出かける。時間を調整しようと、久し振りに江津湖に立ち寄る。水前寺公園の湧水が水源となっている上流部だが、水深が浅くなって藻が繁茂している。私の子供の頃の遊び場だった所だが、その面影はない。木陰で二人アイスクリームなど食べながら、タナゴやアブラメ釣りをする子供達や、ボートで遊ぶ親子連れをみていると、にわかに上空が真っ黒になってきた。ちょうど時間も来たので車で放れると、突然のすごい夕立、みんなずぶぬれになったことだろう。僅かな時間だったが、爽やかな命の洗濯。
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読書三冊

2006-08-14 18:46:40 | 書籍・読書
1、「日本のいちばん長い日」角川文庫・昭和48年初版 大宅壮一編
    この本は当時文芸春秋の副編集長であった半藤一利(現作家・夏目漱石
    女婿)等が編集に当たったもので、大宅壮一を編者として発行し大反響を
    得た。大宅壮一亡き後、遺族の了解の下半藤の著作として発行されてい
    る。ポッダム宣言受諾の為にいわゆる天皇のご聖断を得た後の昭和20年
    8月14日正午から、翌15日の玉音放送に至るまでの24時間のドキュメント
    である。61年前の今日のことであるが、歴史の転換期の生みの苦しみが
    ひしひしと伝わってくる。歴史の真実を心に留め、平和のありがたさを後世
    に伝えるためにも、若い人たちに是非読んでいただきたい著作である。

1、森鷗外著「堺事件」
    慶應四年に堺で起きた土佐藩士によるフランス艦乗員襲撃事件を題材にし
    た著作である。フランス艦乗組員の上陸は無許可のものであり、警戒に当
    たった土佐藩士との間にいざこざが起こり、逃げ帰る短艇に対しての射撃
    が悲惨な結果を招いた。フランス公使の強硬な申し入れにより、土佐藩士
    20名に切腹の沙汰が降りる。従容として死に臨む藩士たちに対し、立ち会
    った公使以下のフランス兵士たちは、恐れおののき途中で退座してしまう。
    このために数名の藩士が命を永らえることになるのである。
    鷗外の一部の作品は、乃木希輔将軍の明治天皇殉死後にいわゆる「殉
    死」を賛美する形で書れ、いろいろ論議されている。とくに「堺事件」は真
    実と異なることが多く(らしい)作家大岡昇平が痛烈な批判をしている。
    読者はこれらの著作を歴史の真実として読んではならない。
                             (ということか)

1、切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩 人文社
  桜田門外の変 杵築史談会刊行
    現在の警視庁辺りに杵築藩松平中務大輔の屋敷があった。桜田門が目の
    前である。安政6年3月3日杵築藩士たちは、節句の美麗な大名行列を見よ
    うと、お長屋の無双窓を少し開いて外を覗いていた。そとは雪である。武鑑
    を手に同じく行列を待つ人たちの姿が見える。国会議事堂前庭あたりに有
    ったのが、時の大老彦根藩井伊家の藩邸である。大きな扉が開き行列が
    進んでくる。そして杵築藩士たちは、事件の一部始終を目の辺りにすること
    になるのである。「桜田門外の変」はその中の一人が書き綴ったものであ
    ろう。底本は写本であるらしく、編者はそのことを強調されている。
    しかしながら、臨場感に満ちた筆致にしばし引き込まれてしまう。事件後
    浪士たちは大手門の方へ逃走する。幾人かは途中で自害。大老の首も誰
    の者かもわからぬままに、一人の浪士の遺体とともに若年寄遠藤但馬守の
    屋敷に運び込まれる。和田倉門の前辺りである。一部浪士は細川家にも逃
    げ込んでくる。現在の東京駅前(丸の内1丁目)である。
    史料も切絵図を手許において眺めると、又一段と面白い。
    ちなみにこの本は、M氏からお贈りいただいたものである。深謝。

    過日「桜田門外ノ変」の著者吉村昭氏が亡くなった。ご冥福をお祈りする。
    浪士達の苦悩が見事に表現された素晴らしい著作だった。
  
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「十八万石の壺-松井康之」終了

2006-08-09 20:39:22 | 歴史
 ブログ「細川藩MUDA蔵」を主宰しておられるO氏が、同ブログに掲載されていた小説「十八万石の壺-松井康之」が終了した。わざわざメールでご報告をいただいた。O氏は当サイトに「御家草創、松井佐度守康之・長岡佐度守興之」と「松井家御給人先祖附の人々」を寄稿していただいている。ブログ「細川藩MUDA蔵」を始められてから、大変詳細な資料を公開されてきたが、我々にとって貴重な資料であるばかりではなく、なにか目論んでおられるのではないかと考えていた。かってお手紙を頂戴したとき、いつか小説にチャレンジしてみたいと仰っていたからだ。そして「十八万石の壺-松井康之」の連載が始まったというわけである。毎日が楽しみで拝見させていただいた。細やかなディティールは、膨大な資料の読破がそれを可能にしている。まだまだチャレンジは続くようである。早速「武将の茶の湯」の掲載が始まっている。その後もまだ企画があるらしく、新たな作品に御目にかかれることを楽しみにしている。
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縁あればこそ

2006-08-01 23:56:55 | 徒然
 お寺様から頂戴した浄土宗の月訓カレンダーの八月には「縁あればこそ」とある。このサイトを始めてそろそろ三年になろうとする。その間沢山の方々とご縁を得た。私の財産である。いろいろな活動にも、身体を動かしてお手伝いをしていこうと考えていたが、身を引こうと思う。今後はただただ読書を友として、このサイトを続けることができれば、望外の幸せであると思っている。感謝。
コメント (11)
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