津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鳩野宗巴の西南の役観察‐田原坂戦況

2023-04-10 07:06:05 | 熊本

                               

                 挑みあふ         挑みあふ
                   田原乃          田原の
                   丹者能          にはの
                  いふな紀茂        いふなきも
                 花丹忘るゝ        花に忘るゝ
                  大和たま         大和たましひ
                     しひ

                     相達 

 戦い合う田原坂の戦場では戦況は優勢ではないが、桜の花を見れば、本のひと時戦いを忘れてその美しさに心満たされる。やはりこれが大和魂というものか。 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長八年」を読む

2023-04-10 07:04:42 | 史料

忠興文書-慶長八年

 25、正月廿日書状
  ・江戸の町普請の手伝いを命ぜらる
  ・その普請奉行が誰なのか判らない、調べて入魂になり、近い場所に小屋場を確保できるように
   66ヶ国に普請が仰せ付けられ、国名を町の名にする由豊前の名前が知られるようになる
  ・普請の役儀300人との事だが、4・500の人を出そう、その兵糧の用に米600石を用意する、先ずは金子5枚を遣わす
   自分は月相(二月は既昨)に伏見を立ち2月14~5日ころに江戸へ入る予定
  ・自分の江戸入りには、いつも言うように迎えはいらない
  ・当春の祝儀に対し礼
  ・江戸入りの供連れ約200人、馬乗り10人ほど
  ・中嶋・松山へも別紙にて申し遣わしたが、小屋場や兵糧のことなど申し付けられたし

 26、正月廿七日
  ・伏見を二月朔日二日に出発する、宿はその方へ参る、進物の鯛の用意すべし
  ・浅野幸長江戸参勤す、浅野その他の大名衆の進物を知己の旗本衆をたのみ調べておくこと、この事第一儀
  ・この手紙を榊原康政に持たせられること
  ・自分たちの江戸入りの日にちについては秘しておくこと、廿日~廿三日ころとしておくよう、供の者が申してきたとしておくこと

  (2月12日、徳川家康征夷代将軍に補任さる、この日を以て江戸幕府開府とす)

 27、二月十八日書状(1)
  ・昨日江尻、今日駿河駿東郡の三枚橋に着く予定、鎌倉を見物して廿一日の夜に到着する、こちらから召し連れた者共草臥れているので、
   道具持ち4・5人、乗り物かき10人、馬3疋を六郷あたりの川端まで迎えに遣わされたし
  ・22日はかくれ居りて、進物の様子など申し付ける。忠利は迎えには及ばない、ひっそりとしておきたい

  28、二月十八日書状(2)
  ・浅野幸長の進物を一つ書にして江戸参着をまつこと

  29、二月十八日書状(3)
  ・書状ともども川北平十郎を迎えに寄越し祝着、来る21日夜に江戸へ入る、この事は誰にも言っていない
  ・この手紙を榊原康政に持たせられること

 30、三月六日書状
  ・普請の小屋場を建てて急ぎ着工する事
  ・普請のことについては鵜兵・岡田太郎右衛門の指図を受ける事
  ・津田信成に「甲」を拵えて下すことにする

 31、四月二日書状
  ・去月廿五日家康参内に供奉したこと (実際は二月十二日‐将軍宣下のとき)
  ・津田信成が兜を受け取った、「甲」はあとにて届ける
  ・普請については油断なきよう
  ・馬具を送る
  ・近日帰国する

 32、四月廿一日書状
  ・丹後の祝儀として秀忠・岡田利治などに帷を贈るべく、そちらへ送った
  ・津田信成の甲を忠利に送る
  ・かるさん・なんばん鏡・扇・なんばん手のこい(手拭い)伽羅一包忠利へ送る
  ・加藤左馬・金雲・ツ長州が江戸へ下った、似合いの馳走を振る舞うように
  ・我々は二三日中に下國する予定
  
 33、四月廿七日書状
  ・そちらの普請の状況はどうだろうか、奉行に御礼申したることは尤もである
  ・忠利の屋敷のこと岡太郎右・兵庫肝煎で相済んだことに満足す、屋敷普請の為の銀子・大工など下す
   手間入らぬように申し付ける事
  ・中嶋備中に替り住江小右衛門を江戸へ下す、来月十日小倉発足、大工も下す
  ・津田信成のかぶと受取、忠利の兜も申し付けた、出来次第下す
  ・毒消薬并毒害の予防薬を送る
  ・物書きを江戸に下す、
  ・あをり三懸、ほうき五本下す
  ・岡田利治子息へ贈る予定の鷹、目の煩い他を理由に延ばしてきたが、江戸へ送るので遅くなった理をよくよく説明してほしい
  ・犬二匹、大納言(秀忠)へさしあげる、逸物の旨をよくよく説明されたし

 34、八月朔日書状
  ・大久保忠隣などの意見により豊臣秀頼の婚儀には賀使の派遣はしない

  (以下、この年の書状ナシ)

  (慶長八年)九月廿九日、前野出雲守後室忠興君御女御名お長安昌院殿御卒去、法号月心妙光

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