津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

今日は天草・島原の乱終結の日

2011-02-28 19:02:22 | 歴史

 原城攻撃は28日総攻撃が予定されていたが、27日鍋島藩の抜け駆けがきっかけとなり決戦の火蓋が切られた。態勢はほぼその日のうちに決した。28日の早朝陳佐左衛門が誰とは知らず首をとり、これが大将天草四郎のものであった。この日を以って天草・島原の乱は多くの犠牲者を出して終結した。363年の刻を刻んだ。
細川家は多いに面目を施すことと成るが、膨大な戦費がその後の藩の経済を苦しめることとなる。

 この戦がもたらした悲喜こもごもを、諸家の先祖附などでうかがい知った。

 天草島原の乱は、徳川家による天下平定後の始めての内戦であり、一方徳川家が倒れて日本最後の内戦(西南の役)を熊本はその舞台として経験している。
これらの戦いの結果として、安定した新しい時代が訪れた。多くの犠牲者に想いを致さなければならない。
                             (今日は妻の60うん歳の誕生日でもあります)

コメント

今日は利休忌

2011-02-28 13:49:26 | 歴史

 天正19年2月28日の今日、千利休が自刃する。久しく利休最後の手紙として、二月十四日付の松井康之に宛てたものが紹介されてきた。忠興と織部が十三日淀の船着場で利休を見送ったことに対する、お礼とも言うべき書状である。その後発見されたという芝山監物宛ての手紙が、現況利休最後のものとされる。利休の心の奥底が伺える、悲しい文面である。

         「〆 芝監物殿まいる 尊報」

            御詠に、又一入涙斗ニ候 返し
               おもひやれミやこをいでゝ今夜しも
                 よどのわたりの月の舟路を
          
            返々御詠ながめ返し仕かね候まゝ御使を待せ申候
            いつもと申候ながら今夜又宮古の名残旁々ニ候
            宮古出ての淀の川舟とよミ候をいもひだすにも猶々
            なミだに候 やがて/\待申候/\ ことさら天き
            も能成候 かなしく候/\ かしく
               十五日

 427年の刻を経てなお、我々の心情を揺さぶる文面である。
綿考輯録は巻十に、「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」と記す。蒔田淡路守が介錯役を勤めたとされるが、これは単なる検死役ではなかったのか。忠興の深い愛情が見て取れる。

利休忌としてのお茶会は新暦に近い3月28日、各地で行われるという。

                            (今日は妻の60うん歳の誕生日でもあります)

コメント

細川家家老・有吉家の史料公開

2011-02-28 10:13:05 | 新聞

今日の熊本日々新聞から

      細川家の250年詳細に 三家老・有吉家所蔵品 一般公開へ準備すすむ
  
 熊本藩主・細川家の家老を務めた有吉家の22代有吉登聖さん(53)が、同家に伝わる文書や美術品を一般公開する準備を進めている。関ヶ原の戦いや細川家の肥後入國に関する記録などほぼすべて初公開の史料で、細川家と側近の足跡の一端がうかがえる。有吉家は松井、米田家と並ぶ細川家三家老の一つ。明応六年(1497)から細川家に仕え始めたという。有吉さんは陸上自衛隊第八師団副師団長。昨年三月、熊本に赴任したのを機に自宅に保管している文書など25点の公開を思い立ったという。「先祖以来覚書(三冊)」は、関ヶ原の戦い直前の細川家初代・幽齋の田邊城籠城戦など、明応六年から寛延元年(1748)まで約250年にわたる細川家と有吉家など家臣の動きを詳細に伝えている。城中や大広間で行われる礼式の重臣達の席次などを記した「年中行事抜粋」、軍令や隊列の組み方、軍役を記録した「家記」、蒔絵装飾箱に納められた源氏物語五十四帖などもある。美術品では網田焼や古小代焼の茶わんなど。所蔵品は北熊本駐屯地(熊本市八景水谷)内も3月24日オープンする郷土資料館に展示される。
                                    (全文引用)

         お話はかねがね伺っていたがいよいよ資料館がオープンとなる。
         記事の中にある「年中行事抜粋」は、熊本史談会で現在も勉強中の
         初出の第一級資料である。皆様もお気軽にお出かけになられ、直接
         御覧になられるようおすすめ申上げる。

 

上記記事の内容について、訂正方のご連絡を頂戴した。(コメント一部再掲)3/2記

家老展として有吉の文書類を展示するのは、3月19日~26日昼までです。それ以降は企画展示コーナーの内容が入れ替わってしまいます。入れ替わった後は、梅津美次郎大将(最後の陸軍参謀総長)の関連資料になる予定です。

コメント (3)

松江城秘録(八)

2011-02-28 09:43:29 | 歴史

        (八) 庄林隼人新美八左衛門御暇被遣候

  一、庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候 
     閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
     則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
     衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
     八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
     共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
     丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
     候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
     尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
     御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
     頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
     へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
     御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
     へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
     脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
  一、此衆相易儀無御座候御國中御城内一段御無事御座候此
     中雨ふり不申てりつゝき申候ニ付在々田畠はし/\いたミ申
     候由申候處ニ此四五日少ツゝ夕たち仕候熊本廻ハさしたる
     夕たちにても無御座候得共在々ハ所ニより田畠ノたりニ成
    申候不とハふり申候所も御座候由申候如何様雨を催申候間
    ふり申にて可有御座と申儀水之御座候處ハ無残世の中之由
    申候當國ハ少てり申分いよ/\御座候由何も申候此等之趣
    宜預御披露候恐惶謹言    
       六月十九日                松井佐渡守
              林 外記殿


コメント

松江城秘録(七)

2011-02-27 23:46:57 | 歴史

      (七) 三齋様御老忘世情之聞無是非候

     光尚君へ寄之より言上之留書
     私煩寒気之刻如何御座候哉と養生千要ニ所仕旨
     平左衛門口上ニも被仰下間所承届被仰下則御口上之趣
     謹而承届候處私煩之儀色々御懇之御諚共誠ニ有難
     仕合ニ奉存候差立候て打臥申程之煩ニても無御座ふら/\
     と久々相煩罷在御用等迄も然■相調不申迷惑千萬
     ニ奉存候処却而先度も如被仰下弥御用なと相調不申段も
     心ニ懸不申保養仕者種々忝仕合冥加至極ニ奉存可申す
     上様■御座候
  一、今度刑部少三齋様へ御目見仕儀最前之首尾相違仕

     弥三齋様御老忘世上之聞無是非被思召之旨乍憚御
     尤至極ニ奉存候刑部少方へ被遣候御書則持せ指越申
     候今度之御書頂戴仕私へも頂戴仕候ヘケ様ニ被仰段
     御期限之程も如何ニ御座候哉と奉存迷惑仕候三齋様御
     前なをり申候ても殿様御前不被然候而ハ何とも可仕様も
     無御座迷惑ニ奉存候と被申越候先日も状を被越候右
     指上候其上相届候哉御返事も未参候御機嫌いたく無心
     元奉存よし私かたへ被申越又八代より被罷帰候時も直ニ
     被参候て刑部少方より色々手入も仕三齋様御前なをり申
     様ニ殿様可被思召処何共迷惑ニ奉存候左様ニて無御座   

     段誓言ニて被申私ニ承置くれ候へとの被申分にて御座候
     八代へ被相越与■可被召出候御諚ニ付忝と被存候計
     にて無十方御目見被致唯今茂最前之首尾御誓言之所
     なとも被存弁哉と奉存候へとも私かたよりハ兎角之儀を不
     申遣候今度之返事ニも御書面之通三齋様御老耄之段
     を被仰越と相見候を計申遣候今度三齋様之御目見被
     仕様子も荒増被承候刑部少ハ不被存寄様子之様ニ承
     候此段弥承届置御帰國之上可申上候自然刑部少所存
     之通御意得ニも成可申哉と奉存其上仕并刑部少状ニ通
     掛御目候三齋様御撰言之様子私なと承ことハ相違候

     様ニ奉存候
  一、佐渡守隠居仕度と申上候由就夫平左衛門ニ被仰下御
     口上之趣一ニ謹而承届候佐渡守隠居之儀讃岐様へ委曲
     御内談被成首尾能様ニ可被成と被思召之旨被仰下先
     以忝奉存候此段ハ御参勤度私存知通乍恐申上候頼
     母儀も相果又佐渡守儀も隠居仕様ニ御座候而ハ世之聞へ
     如何可有御座候哉私儀乍恐多儀御身之はしニ而御座候ヘハ
     弥以如何敷奉存候其上又存寄通も御座候間此度御在江
     戸之内讃岐様へ被仰達儀ハ有無ニ差延被下候は重畳
     可奉候迚一両年之内佐渡守へ被下御知行被為拝領候とも御

     理を可申上候間今度ハ先讃岐様へ被仰儀御止被成候
     様ニ奉存候佐渡守先日隠居之儀申上様ニ承候間此段
     可申上と奉存候へとも御上洛前具ニ申上候付其儀無御座候
     処平左衛門ニ様子被仰下候ニ付幸と奉存是又乍憚唯今
     言上仕候返々讃岐様へ之御内談は今度ハ被為差延重
     而之御在江戸之刻ニ被成下候様ニと申上度奉存候
  一、平左衛門口上ニ私相煩罷在候間為養生鷹野なとをも仕
     可■と被思召之間御鷹場之由をも赦免可被成と被思召
     候へとも今程ハ三齋様御病中之儀ニ候鷹なとも仕間敷候
     条此度不被仰旨誠以有難仕合奉存候

  一、御参勤前被成御意とも御借銀大分御座候間庄林形斎
     外ニも少身成衆をも少々御暇をも可被遣哉之様ニ被成
     御諚被成候今度之御仕置ニ而大形ハ事済可申候へとも御下
     國被成御借銀之様子も被聞召又御家中之様子も被聞
     召候者少身成衆少々御暇を可被遣様ニ被思召儀も可
     有御座様ニ奉存候間被心安御老中へ加様之儀此度卒度
     御内談をも被成間敷哉推参存寄通ニ言上仕候
  一、長岡勘解由儀若三齋様御不慮も御座候ハヽ八代へ被遣
     いかゝ可在御座哉と申上候内々思召所もかけゆ可被遣と被
     思召候通平左衛門口上ニ被仰下是又謹而承届候

  一、私煩之様子荒増平左衛門ニ物かたり仕候恐ケ間敷申
     上事ニ候得共被聞召被下候者尚以忝可奉存候言上ニ書
     上申度奉存候へども弥以憚至極ニ奉存其儀無御座候
     右ニ如申上ふら/\と永々敷相煩諸人存所もケ様と迷惑
     無御座候乍去頃は此上気色も能御座候
  一、右之御書被遊被下御封め之御印判差上ケ申候御國中御城
     内相易儀無御座此等之趣宜預御披露候謹言    

コメント

松江城秘録(六)

2011-02-27 07:32:52 | 歴史

      (六) 刑部二三齋様御對面之段弥御老忘無是非候

       追而さとへ申候おくかたより其方へ之状并道家状茂
       見届候帯刀へも此よし可被申候式部儀心安存候中へ
       八代表之様子か様ニたち申事候条弥其心得尤候
       以上則火中/\

     九月廿五日之連状令披見候
  一、八代表之儀書中之通可被得其意候左様可有之と存最
     前佐渡一人江之状三齋様若御不慮も候ハヽ長岡勘解
     由申儀其間まゝ八代へ遣可置候由申遣候き我等存所少も
     相違無之候事
  一、御老躰之儀候間よきが能ニも立申間敷候間若御不
     慮茂候ハゝ弥右之通ニ勘解由召置さて帯刀か又ハ鉄炮
     なとのうち志かと仕たるものを両人程そく爰元より
     の一左右まてハ道具ニ至まてもむさと成不申様ニと我等
     申遣候由申候而八代中へ目付を廻惣様めを御けかへ候様
     ニ可仕候其段存候而公儀へも可然儀ニ候事
  一、刑部ニ今度三齋様御對面之段弥御老忘無是非候刑部
     部覚悟候而三齋様へ者ぢたかゝせ申事とかう別而申候事
  一、右之様子重而刑部所へ申遣候様有之候此度いそき
     申付不申遣候事
  一、式部于今八代へ不被参候由得其意候さりながら被参
     候而も不苦儀是ハ存候事
  一、弥彼地之様子具ニ承度候長兵衛物毎直なるものゝよし我等聞及
     きどくニ存候河内如何様之さいばん仕候哉にか/\事候三齋の御た
     め笑止ニ我も存候なとゝ申候か長兵衛ニ様子承候さい/\被成間
     敷候哉其外誰ニ而も此方へとりこミ候様其方両人談合尤候以
     来も心得有之事候
  一、八代領地行ヘり候事わき/\のために候間八代えものとも御書置
     なと仕度まゝニこしらへ可申此段無心元候もし左様之事も候ハヽ
     きゝ出候様ニ仕度候恐々謹言
          十月十一日                肥後 御判
                   佐渡守殿
                   式部少殿 御返事
     猶々万事を心付可と申候 已上

コメント

春なれや・・・

2011-02-26 10:19:24 | 俳句

                            クリムト「接吻」

            つれづれに書き留めた駄句を書き改めてみると・・・・駄句ですね~         

                       春なれや山辺の里のいも水車

                       野せり摘む老女の夕餉のおもわるる

                       クリムトの絵のある珈琲店のテラスかな
                             すごい字あまり、季語もなしどうしましょう・・・・・

                       パレットに色とりどりに春の校庭

                       御意のまま孫のお相手春うらら

                       みじんこの上り下りて春うらら

                       関石に歩みとむれば落ち椿

                       腹へりて一人留守居の余寒かな

              

コメント

松江城秘録(五)

2011-02-26 08:52:32 | 歴史

         (五)八代之儀兎角宮松を置申事ニ而無之被

    正保二年十二月廿一日之御書平野九郎右衛門藤崎作右(ママ)衛門持参
          猶々伊良子喜左衛門かたより内膳かた迄差越候
          状見届候由可申越候以上
          又佐渡へ申候北ノ丸より奥かたへ参候様其方より差越
          見届候以上

    平野九郎右衛門藤崎作左衛門差下候間申候
  一、八代向之儀ニ付此中切々指越候状共可披見得其意候
     最早別ニ替儀茂無之候間具ニ不及返事候事
  一、八代之者共より餘宮内魚住萬五郎差下法事何々の儀此方
     へ相尋候其内ニ三齋様被仰置候儀在之由ニ而河内与
     左衛門両判在之書物指越候惣而此儀最前堀平
     左衛門ニ申遣候首尾今以無相違候委敷ハ作右衛門
     口上ニ申候事
  一、横山五郎大夫八代ニ付居候内諸事念入彼地之様子其方
     両人迄申越候状并書付爰元へ差越候前後首尾無相
     違候其上堀平左衛門ニ五郎大夫差渡候書付茂見届候
     此段両人ニ而可申渡候事
     堀平左衛門罷下り候砌申越候儀共并状披見候事
  一、八代之儀兎角宮松を置申事ニ而無之候間其段御老中迄
     可申与存候左候者宮松儀いつかたニ屋敷構を仕置可然
     候哉其方両人并式部相談之上ニ而存寄所書付差越
     可申候其上此方ニて吟味可仕候委敷作右衛門口上ニ申遣
     候謹言
         十二月廿一日             肥 光尚御判
                    長岡佐渡守殿
                    沢村宇右衛門殿

    追而さと(佐渡)へ申候おくかたより其方へ之状并道■状も見届候帯刀
    へも此よし可被申候式部儀心安存候申也八代表之様子か様ニ
    うち■候て条弥其心得尤候以上則火中/\

コメント

松江城秘録(四)

2011-02-26 08:43:51 | 歴史

     (四)新美八左衛門等今度ノ仕合奉公振気二入不申扶持を放候段可申者

    正保弐年七月十九日之御書御飛脚持下八月三日ノ夜頂戴仕候
        猶々馬場三郎左より其方迄きり志たん改之儀諸
        事ニ至迄心入之段満足申候通礼状を遣申候き
        り志たん仕置之儀ニ付何とそ替様子も候ハヽ被
        仰聞候様ニ天野かたへ其方より申遣可然候以上

    追而之状披見候道家帯刀八代より罷帰候由ニ而帯
    刀状披見候其方内見候由尤候
 一、新美八左衛門妻女長崎へ遣其身ハ上方へ罷上江戸
    へも可罷越之由得其意候庄林義者筑後立花
    殿領内ニ居候由是又得其意候兎角今度之
    仕合常々奉公振気ニ入不申候而扶持を放レ候段
    迄を相尋候かたへ被申可然候事
 一、其元世中可然候ハん由珍重候其中ハ日でり候得共そろ/\
    と雨ふり候由得其意候事
 一、爰元御前■き別条無之候讃岐殿加賀殿其外御老中
    前々より我々別而申談候事候間其段気遣有間敷
    候謹言
        七月十九日               肥後 光尚御判
                  長岡佐渡守殿

コメント

松江城秘録(二)(三)

2011-02-25 17:03:52 | 歴史

 (二)
  一、此状其方とくと披見之上八代へ遣シ勘解由ニ見せ被申
     返事之通急度飛脚ニ而可被申越候此段者其方迄内明證
     ニて申遣候事以上
           正月十一日             肥後
                     長岡佐渡守殿

     追而申候正月十二日別紙之状ニ式部少輔気色能候
     而元日之禮ニ茂登城候由被申越珍重候兎角薬之分
     ニてハ兼々としたる煩ハ者つ不参物ニ候間常々ニ養生
     肝要候一度無病ニなられ候様ニ随分保養可在之由
     我々申候通可被申候長病其心なが/\養生仕候はて
     ハ不成物ニ候間其段無退屈様ニ可被申候為其如
     此候謹言
                               肥後
        返事候間別紙ニ不及返事候以上


 (三)
  一、式部少輔煩小能候由相聞珍重候弥如何候哉承度候事
  一、長岡河内上方より罷下可申哉と其許へ相聞候由就其書
     中之通具披見候然共此度ハ八代へすくニ罷下候由其聞
     候事
  一、花畠ニ落文仕候由相聞候ニ付其段旧冬申遣候就其
     則其落文之うつし弐ツ差越何茂披見候此儀ニ付
     穿鑿仕替候事茂候ハヽ重而可被申越候事
  一、三齋様御存生之時ハ八代之用所監物帯刀両人ニて相調
     候得共今程ハ監物其方ニて被相調候由尤候事
  一、長岡勘解由儀ニ付其方ニて遣候状を勘解由ニ見せ候由
     ニて勘解由返事指越披見候我々内々存こと少茂無相
     違候誓紙見不及申ニハ儀と于今存候事
  一、我々も無事候間心易候猶追而可申候謹言
              
          二月廿一日         肥後 光尚御判
                   長岡佐渡守殿

コメント

松江城秘録(一)

2011-02-25 08:45:58 | 歴史

  (一)長岡勘解由八代へ被遣付自然世上(状)不慮之儀も候時ハ
      八代ニ居申間敷由佐渡監物へ充候而誓帋差上驚申候

一、追而申候長岡勘解由儀今度八代へ遣候付自然世上不慮
   之儀も候有之時ハ八代ニ居申間敷之ニ而其方并監物なと
   へ當候而誓帋を差上候由ニ而其方共なとより指越
   見届驚申候
一、惣而勘解由儀加藤肥後守没落之砌豊前より人数参事茂可
   在之哉と申候節小倉之城之留守ニ可被置之由妙解院殿より
   御申付候砌勘解由断を申候由其節重而御留守御申付間
   敷由被仰候然處ニ有馬一揆発起之刻人數入候節又勘解
   由儀熊本之留守ニ可被置之由妙解院殿重而御申付候其節
   最前之首尾ニ而候故達而断可申之由ニ而有馬へ勘解由方より

   使者を指越候陣中之事故兎角之儀不被申様ニと存我等
   かたより状を勘解由かたへ遣異見申候ニ付訴訟申儀存■
   候事
一、其以後熊本に而以来ハふつと留守を仕間敷旨勘解由誓文
   立候由ニ候主人ニ對候而ハ慮外之様ニ存候得共一陳茂不仕
   勘解由両度留守を御申付候間勘解由存分之通候尤之
   様ニ存妙解院殿へ我等茂達而勘解由儀取合なと申候つる
   ■と覚へ候其故ニ而候哉又自分ニ被思召直候哉其以後御帰国
   之砌者勘解由へ懇之様ニ粗及候事
一、右之通候故我等内存ニは勘解由儀以来とても留守居なと

   ニ置可申とハ聊不存候就其今度留守中之書附ニ茂不慮之
   事茂候ハヽ先手ニ加へ可申候若人数少入事候共勘解由なとを
   ハ先へ遣之与之内ニ書入置候此段少茂偽無之候帰国之上其
   方へ其書付見せ可申候其上異国船なと着岸之砌勘解由ニ平
   野孫ニ右衛門なと差加遣之由申渡候事
一、右之通ニ候故勘解由儀留守なとニ置可申とハ少茂不存候此
   度八代遣候儀ハ三齋御逝去之砌ニ候間萬事■かハしき儀も
   可有之候間目付心ニ遣候条諸事公儀へ聞へ悪さニ成事
   茂候ハヽ指引を茂可仕候為其勘解由召置候由御老中へ咄
   申候得者尤之由御申候つる其故右之段申遣候但最前

   之状ニ何事茂在之時留守ニ居申候様ニ書成候哉又長
   く城番可申付なとヽ申様ニ書中相聞候哉其段ハ
   覚へ不申候事
一、必竟勘解由内存ニハ此度八代へ遣候砌若不慮之儀有之時
   ハいつかたへも可参候當分目付心ニ遣候との儀此方より不入念
   ニ付唯今何茂迄申候と相見へ候此段者我等違ニ而茂可在
   之候乍去最前より勘解由留守ニ居候儀断申候通を我等
   茂渕底存候其断勘解由茂可被存候間誓紙ニ者及申間
   敷事之様ニ我ニハ存候但不慮之仕合存之時者とても八代ニ
   居不申候間仕置之心得ニも成可申と存候ての事ニ候ハヽ内

   證ニ而其方迄申候而事済ニ候于今誓紙ニ而理之段
   我等合点不参候此状之通具ニ勘解由へ申聞せ内存之通
   急度返事可被申越候為其如此段候謹言
         正月十一日           肥後光尚・御判
                   長岡佐渡守殿

コメント

松江城秘録索引

2011-02-24 16:27:12 | 歴史

 松江城とは八代城の別名、現在の町名の八代市松江城町に在る故である。「秘録」の名が示すように、細川三齋の死やこれに関連する情報がまとめられている。まさに秘録であり、余り知られていない細川藩の裏面史ともいえる。これは上妻文庫に所収されているものによる。

 三齋の要望通り本藩に於いても、八代の地で細川立允をして6万石の支藩を立藩する事が考えられていた。しかしながら、島原一揆、忠利の死、立允の死、そして三齋の死とめまぐるしく状況は変化していった。この「松江城秘録」に見られるように、三齋の死は本藩と八代御附衆との間に微妙な齟齬を生じさせた。
項目をおってご紹介しようと思う。

   一、二、三
      長岡勘解由八代へ被遣付自然世上(状)不慮之儀も候時ハ八代ニ居
      申間敷由佐渡監物へ充候而誓帋差上驚申候
   四、新美八左衛門等今度ノ仕合奉公振気二入不申扶持を放候段可申者
   五、八代之儀兎角宮松を置申事ニ而無之被
   六、刑部二三齋様御對面之段弥御老忘無是非候
   七、三齋様御老忘世情之聞無是非候
   八、庄林隼人新美八左衛門御暇被遣候
   九、三齋様御逝去
   十、三齋様へ刑部御目見之儀
   十一、立殿三齋様御一代ハ今之分已後ハ御加被置三万石
   十ニ、八代之儀とかく宮松殿を被召置儀二て無御座候
   十三、立允様御死去二付而八代之事
   十四、宇土屋敷割之事

 (以前のブログで一部を部分的にご紹介しているが、順を追ってすべてをご紹介する。重複するところが在るが、読み直して修正を加えご紹介をする。)

コメント

原作

2011-02-24 12:17:31 | 書籍・読書
   敵討 (新潮文庫)
   吉村 昭
   新潮社

          ドラマ「遺恨あり 明治十三年の仇討ち」の原作です。
          ぜひ読みたいと思っていますが、現在購入は不可能のようですね~。
          「日本の古本屋」でも見当たりません。さあ、どうしましょうか・・・・
コメント (1)

ドラマ「遺恨あり 明治十三年・最後の仇討」

2011-02-22 17:13:07 | 歴史

 明治六年にいわゆる敵討ち禁止令が発せられる。
その禁止令発令前、「日本最後の敵討ち」は熊本県玉名市で行われた。
         http://adauchi.masaji.info/

 禁止令発令後に行われたのが、有名な九州秋月藩の臼井亘理の息・六郎が明治十三年、父の仇討ちをした事件である。慶応四年臼井亘理は秋月藩にあって「公武合体派」として活動したが、尊皇攘夷派に惨殺される。幼いながら敵討ちを決意するが、その過程は艱難辛苦の道である。  2/26日テレビ朝日系列での放映を御覧いただきたい。 
         http://www.tv-asahi.co.jp/ikonari/

 

コメント

松井康之は松井友閑の甥って・・本当ですか?

2011-02-22 10:49:56 | 歴史

「松井康之は松井友閑の甥って、その説をWikipediaに載せるのはどうかと思うが…。」
「Twitter」にこのような書き込みがあった。
        http://twitter.com/noimago/status/26460306293

「何ィ・・・・」とウィキペディアで確認すると、「松井長之(越前守)の次男、松井正之(山城守)の弟、松井康之(佐渡守)の叔父。」とある。
        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%8F%8B%E9%96%91

当然のことながら、この影響は「松井康之」にも及んでいる。
        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B

「しらなかったよな~」と全文を読み、改めて「Twitter」の内容を振り返るといささかの疑問が生じるではないか。「どうなの、どうなの・・・・・」
出典を示して欲しいなーと痛切に思うことしきりである。

コメント