津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

書状を読む(十一) 振姫の死

2012-05-31 13:53:53 | 歴史
 徳川家康の三女振姫の死去に係ることが元和三年(九月)書状(141)にみえる。
        *1                         *2                   *3      *4
   一 浅野但馬所へ被遣候 姫君様御遠行ニ付 采女殿・肥後所へ人を可遣之由意得候
     遅候而もくるしからす候
 
 紀州和歌山藩主浅野長晟(*1)に嫁いだ振姫(*2)が亡くなったため、長晟弟長重(*3)と振姫の娘婿である加藤忠廣(*4)に対して弔問の為の使いを出すように指示した書状である。
         
 蒲生秀行亡き跡、父家康の命により幼子を残して浅野長晟の元に再嫁した振姫であったが、後に安芸広島藩主となる光晟を出産後しばらくしての死去である。
ウイキペディアは「高齢出産」などと紹介している(38歳)が・・・
長晟の先代である兄・幸長は、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させた人物として知られるが、秀吉夫人高台院の身内として豊臣家に対する思いは深いものがあったと思われる。長晟の元に高齢の振姫を嫁がせたのは政略結婚の一面を垣間見せる。

蒲生秀行の遺児二人はそれぞれ継嗣がなく蒲生家は断絶、加藤忠廣に嫁いだ娘には嫡子光正が誕生するものの加藤家は断絶し蒲生の血は途絶えた。
一方わずか十数日で生き別れとなった光晟の血筋は、営々と明治に至っている。分流に三次藩があったが後に断絶した。
長重(*3)の血が赤穂藩へと続いている。 

      蒲生秀行 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E7%A7%80%E8%A1%8C_(%E4%BE%8D%E5%BE%93)
      浅野長晟  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%99%9F
 
 熊本においては安國寺に蒲生秀行、往生院に振姫の立派な供養塔がある。忠廣室・崇法院が父母を偲び建立したものであろう。
一方浅野家は細川家と因縁浅からぬものがあり、その交流の次第は多くの文書でうかがうことが出来る。 
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忠興公・一点 重賢公・二点

2012-05-31 08:52:41 | オークション

【ひょうたん】細川三斎(忠興) 掛軸 書 大名 箱付☆_画像2    【ひょうたん】細川三斎(忠興) 掛軸 書 大名 箱付☆

現在三齋公の書状にチャレンジしているさなか、こんなものが出ていることに気づきました。クローズアップで見てみると、まさしく三齋公の筆跡ですね~  

そして重賢公の扁額二点も出ていました。

希少!貴重!《 細川重賢 書 扁額 ① 》肥後熊本藩 古書 掛け軸
希少!貴重!《 細川重賢 書 扁額 ② 》肥後熊本藩 古書 掛け軸 

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加藤忠廣(清正息)の結婚

2012-05-30 09:03:09 | 史料

 大日本近世史料・細川家史料に加藤忠廣の結婚の記事がみえる。父・清正は慶長十六年六月に亡くなっており、加藤家にとっては大いなる慶事である。
相手は蒲生秀行と家康女・振姫の間に生まれた息女・琴姫である。
蒲生家に於いても、去る慶長十七年五月には秀行が亡くなっており、琴姫の結婚を経て振姫は父家康の命により浅野長晟に最嫁する事になる。(元和元年)
このような中、国許での婚儀の予定が家康の意向により江戸で行われることになった。

    加藤忠廣  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83

慶長十九年二月十四日書状(62)
  月中ニ可為御渡海候 然は木近所もり江ニ御舟かゝるへく候間 御舟かゝり中 可成程
  馳走せらるへく候 不及申其方付テ可被居候 振舞以下之様子式部(松井興長)所へも
  申遣候間 呼寄談合せらるへく候 若我等下はやく候ハゝ我等付テ可居と存候 以上

慶長十九年三月二日書状(64)
  其方叓當地(江戸)へ不被下候ても不苦様ニ本多佐渡殿と談合究候而其由申遣候 定
  而可為参著候 然處今度加藤肥後祝言之儀 於駿苻ニ被得御意候ヘハ 大御所様御
  諚ニハ 江戸之御普請事外大惣成儀ニ候條 肥後守幼少ニ候共 付テ被居可然被思召
  候 其上姫君御幼少ニ候間當分遠路被遣候事も御母儀(家康女振姫)様御迷惑がりニ
  候 旁江戸ニ而之御祝言ニ相定候へと被仰出 俄肥後守よひニ被遣候 定而近日可被
  上候事 


 忠廣はこの時期14歳であるが、幼少ながらも江戸城普請の最中であり、現場を離れることは成らないと家康が命じている。 

 水野勝之氏・福田正秀氏共著「加藤清正妻子の研究」によると、種々史料をあげて二人の結婚は慶長十八年だとされるが、婚約ということであろうか。  

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生誕450年記念展 加藤清正

2012-05-30 08:27:59 | 展覧会

 平成24年7月20日(金)~9月2日(日)熊本県立美術館で催される、「生誕450年記念展 加藤清正」がようやく美術館のサイトに登場しました。
いつUPされたのか良くわかりませんが・・・・・( 少し前ちょっと言い過ぎてしまいましたが 
生誕450年記念 加藤清正展 )

     http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20120720-0902_katokiyomasa/images/exb_katokiyomasa.pdf

熊本に是だけのものが集まるのはもうないでしょうし、何度か足を運ぶことになりそうですね。そして講演会も楽しみ・・・・・                        

    • 特別講演会①「加藤清正の生涯」
      7月21日(土) 13:30~15:00
      稲葉 継陽 氏(熊本大学文学部附属永青文庫研究センター教授)

 

    • 特別講演会②「「清正公」信仰の成立と展開」
      8月11日(土) 13:30~15:00
      福西 大輔 氏(熊本博物館学芸員)

 

    • 特別講演会③「加藤清正と文禄・慶長の役」
      8月25日(土) 13:30~15:00
      中野 等 氏(九州大学大学院比較社会文化研究院教授) 

 

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写本ですが・・阿部茶事談

2012-05-29 18:56:04 | オークション

「阿部茶事談」 写本 古文書 安部一族 熊本藩 細川_画像1  「阿部茶事談」 写本 古文書 安部一族 熊本藩 細川

森鴎外の名作「阿部一族」でおなじみの誅伐事件の様子を、隣人・栖本又七郎が記録した「阿部茶事談」の写本らしい。

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書状を読む(十) 江戸の辻切

2012-05-29 18:08:32 | 歴史

 寛永六年、江戸に在る三齋から忠利(熱海にて湯治治療)に宛てた書状である。
江戸に於ける辻切事件に係る件である。武江年表には「今年より武家かた辻番を置かる。端々に於いて辻斬ありし故とぞ。」とある。
家光弟・忠長ではないかとされるが、東大史料編纂所による解説によるとそれは寛永八年の事とされる。
            http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/09/pub_kinsei-hosokawa-04.html

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七月十六日書状(759)
   (前略)
    其元昼夜さかいなく辻切在之ニ付 町々ニ御番被仰付 大小名屋敷ニも番屋誘 昼夜
  番を被付置之由 案外之儀候 我々弓之者罷上候て承候ヘハ常之辻切にて無之様ニ聞之
  候 加様ニ番なとすハり候は 手柄ニ猶々切可申候哉 如何様辻切之申付て在之様ニ思ひ
  なされ申候 絶言語候事

七月十六日書状(762)
  追而申候 辻切ノ儀ニ付うた殿(酒井忠世)へそうようノるすいとも御よひ候て 此あんもんのこ
  とく御申ハたしの由申候て 我々るすい共よりもたせ越申候 此丸でんの所々ノもんごんめ
  つらしき儀候 これハ事之外之分別有へき事かと存候 其元にてハなにとかとりさた申候や
  あまりニふしん成事共にて候 じひつにて御返事可給候 已上

                    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E7%95%AA

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目をつけていた人

2012-05-29 12:05:41 | 史料

かって大坂牢人、小河四郎右衛門 ・熊谷権大夫・長屋安左衛門の三人の召出しについて書いた。
    三人の大坂浪人--(1) 小河四郎右衛門  三人の大坂浪人--(2) 熊谷権大夫、長屋安左衛門


元和九年閏八月廿八日、「幕府は慶長・元和大坂合戦に籠城の新参牢人を赦免」いわゆる大坂浪人の仕官が解禁された。これを受けて忠興は三人の召出しを忠利に告げている。九月廿一日書状(386)のことである。財政逼迫のおり新規召し出しをしぶる忠利に対しての返事(九月廿三日書状・387)においては、以前からこの三人について目をつけ、隠居の際にはこれを報告し忠利から了解を取り付けているといっている。

   御返事披見候
一 小河四郎右衛門・熊谷権大夫・長屋安左衛門事 四年以前隠居仕候刻 江戸ニて魚住傳左衛門・
   續少介(重友)・長船十右衛門を以 若以来大坂牢人御免之時分も候は知行被遣様ニと頼申候處
   被心得之由返事ニ候つる事
一 去廿一日之御状ニ自板倉周防殿大坂牢人何ものニても抱可申とノ状参候由候而寫給 自
   然召寄度ものも候ハんかと被存 しらせらるゝの由承候條 右三人之者如約束知行遣給候は
   可呼下候 返事次第と申候處 先被相心得之由候 然共古借銭を其まゝ置當借銀千貫目ニ
   餘ニ付彼三人之事も無失念候へ共不被申越候由 此處存之外ニて行あたり申候 此比事之
   外高知行之もの其外も御抱候間 人ニ御やり候知行も在之かと存 申進候而令迷惑候 右三
   人之者へいかにも小身者共ニ候間 我々無役之内ニ而知行可遣候間 御気遣有間敷候事 

 



 

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嘉永六年のほうき星

2012-05-28 18:25:29 | 徒然



 故鈴木喬先生所蔵の上田久兵衛に関する史料を整理している。ダンボール箱二つのわたるもので、この史料の将来の為にも詳細な仕分けをしてリストを作る必要があると思い作業をしている。先生がお書きになった原稿やその史料なども見受けられるのだが、そんな中に嘉永六年に出現したらしいほうき星について調べられたらしく、返事の書簡が四通見つかった。今であればインタ-ネットで簡単に調べがつき、お手伝いが出来たものをと悔やまれるのだが、当時は伝手をたずねてののことであり、先生のあくなき探究心に驚かされる。どうやら久兵衛の父の日記にこのほうき星が書かれていたらしい。当時細川家では多くの藩士が相州警備の為に出張している。そんな中での出来事である。先生のお書きになったものの中には見受けることが出来ないが、このことをなんらかの原稿に生かしたいとお考えになっていたのであろう。改めて頭のさがる想いである。

              http://www15.ocn.ne.jp/~kagaku/ocn/tsu_wkk/wakayama/hayamagdaigaku/hayamadaigaku.htm

              http://kikuchinokoto.blog88.fc2.com/blog-entry-538.html

 

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書状を読む(九) 寛永五年江戸・京都の珍事

2012-05-28 08:22:26 | 歴史

寛永五年夏江戸と京都で珍事が起こっている。(676)の事については、細川護貞様の御著「魚雁録」において、「忠興の書状に見る寛永時代のトピック」
の中で紹介してあり「UFOか」とされている。 

七月十七日書状(662)
     六月廿六日之夜事々敷大成ひかり物飛申候由候 六月九日之日付ニ而候か江戸ハ
     寒候而小袖二ツ著て状をも書候由被申越候 不思議成儀候事

八月廿九日書状(676)
     今朝上より舟参候それニ申来候 餘不思議成儀と書付進之候 板倉(重宗)所ニねこおどり候事
     ひかり物之事取々申候へ共 そ似たる事を取付申候かと存候處 板倉下屋敷ニ而ねこ
     多クおとり申候 何もあかき手拭をかつき候由にて候 見申たる者の口にて候 又修學寺
     邊より七月廿五日之暁 大から笠程なる火出候て内裏之上へとび 落候かと見候ヘハ
     引返しひゑの山へ帰候を三條之橋から見申たる者是も直口之由候 きとく成事共候
     右之事とも見申候者両人 名書付て参候 ふかく隠密と申来候ニ付書中ニ不申候事 

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書状を読む(八) 烏丸一家を歓待す

2012-05-27 09:43:43 | 歴史

                                         (657)

寛永五年三齋は愛娘万(烏丸光賢室)一家を中津に招いて歓待している。
その経過を書状により追ってみる。

・正月廿九日書状(620)
    万三月初京を立候て當地へ下ニ付 迎船二月廿二三日之比上せ申候 五十丁立之舟ニ屋形
    ノ御入候を船頭一人のせ候て借可給候 櫓を一はい御たてさせ有へく候 水夫ハ此方
    ニ存之事

・二月廿五日書状(630)
    万迎ニ遣候五十丁立之船給候 一段能舟ニ而祝著候

・三月二日書状(631)
    (前略)烏丸宰相殿京を来八日ニ発足之由候 此分ニ天気能候は 當中旬比可為著船と存候
    期面之時候 

・三月十五日書状(632)
        (山田)喜齋事去一日二日之時分京を出候由于今不下候 ふしんニ存候 上関まて迎
        舟を出し置候へとも其左右も無之候 已上
    万下候事侍従(資慶)疱瘡故延引候 はや験にて去八日ニ湯をかけ候由注進候 来廿日
    ニ京都可有発足由候 當月合時分可為下著と存候 廣嶋より参由候て 西條之枝柿一箱給候
    則賞玩申候 味勝候 満足申候

・四月三日書状(633)
    (前略)侍従殿船中にて風邪ひき候てハとの用心ニ相延 今日三日京発足之由候

・四月九日書状(634)
    海上仕合能昨日八日宰相殿(光賢)御著候 然は内々申候 能来十四日ニ興行可申候條 其方
    次第来儀待入候 為其申候 

・六月廿五日書状(650)                  
    如承 宰相殿上ニ天きよく喜悦候 上ノ関まて送ニ遣候者帰申候 二日めニハとも(鞆)
    かしもついまて可為著と申候

・七月七日書状(656)
    (前略)                 今夕御慰と申候へ共 當地ニハ乱舞之事なく候へ
    ハ別ニ何事も無之候 花火仕候者給候 烏丸殿へ此よし申候ヘハ満足かり不大形候 
    我々も見物可申と喜悦候 小倉より参候舟も帰朝之由珎重候 めつら敷花鳥参候由候侍従
    殿逗留之内ニ参候ハゝ鳥を見度由にて候間少之間御かし有へく候 (以下略)

・七月七日書状(657)
    追而申候 車火・りうしや・ねすみ火初ニ見申候 事之外慰申候侍従殿(資慶)其外子たちの面
    白かり無申計候 此地ニハ何も見せ申遊無候 此比ハ徒然處持給候 満足申候

・七月八日書状(658)
    (前略)   万宇佐へ社参申度候間明日召連参候  

・七月十八日書状(662)
    (前略)   万遣舟之祝儀ニ来廿五能興行可申候間 加平次・かすや新九郎・狂言兵吉
    廿三日ニ當地(中津)へ著候様ニ可給候事

・七月廿六日書状(666)
    万上ニ付色々子たちまて被遣一段満足かりにて候 珎鳥とも御みせ候 かうちのきし
    めつら敷候 侍従殿へ鳥三ツ御やり候 禁中へノ進物ニ可仕との事にてをとられ候
    残ハもとし申候

・八月十二日書状(667)
    万は九日ひる時分大坂へ著候由申来大慶候 よろこひ事ニ四五日中ニ能可仕と存候事

                            (完)

 

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書状を読む(七)  上級家臣閨閥誕生の経過

2012-05-27 09:30:28 | 歴史

 細川家代々三家老の一有吉家四代目興道は、元和四年九月二日三十六歳で亡くなっている。この書状に登場するのは有吉家を相続した弟・立道
(後・英貴)のことについてである。  

     元和八年五月十四日書状(338)

         已上
  小倉より幸便之由候間申候 有吉平吉(立道・英貴)女房共煩候て相果候 然者藪小吉所へ遣候
  伊賀殿(三渕好重)むすめ之いもと候て それを遣度候 但其方無用と被存候ハゝ遣ましく候 六兵
  (朽木昭貞)むすめ果候てから十日之内にて候間 もちろん平吉ニも又いか殿むすめかたへも何
  共不申候 同心ニ候ハゝ来冬之時分可申出候合點之上なりとも先々さためられ候ましく候 無同心
  ハ不及申候 恐々謹言      
                          三齋

          五月十四日           宗立 花押
              内記殿
                 進之候  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 元和七年十月十八日書状(319)において三齋は「家中縁邊之事我々可存わけにて無之候事」と書き、関知しないといっている。
ところが有力家臣の独り者のリストを準備させるなど、この書状はまったく反故にされている。
隠居して暇をもてあましている三齋は人事や家臣の縁辺(結婚)について差配している。

上記書状も「 其方無用と被存候ハゝ遣ましく候」と書いてはいるものの、忠利の反対はないことを見越してのことであることは自明のことである。
立道の奥方がなくなってからわずか十日後のことであるが・・・・よほどお暇と見える。

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三渕好重(元和三年九月十五日・没)には今一人の娘がある。母恵光院(細川藤孝女・栗)も、寛永二年二月(カ)亡くなった。
同年二月八日書状(790)
  恵光院むすめの事しんるい共ニ可然と存ものを書上候へと被申付由尤候 恵光院かきを
  かれ候文進之候 如此被申置候ニ付て申たる儀候事 

妹・恵光院の思いを入れての三齋の寛永七年三月廿一日書状(800)が有る。
  恵光院(好重室・藤孝女 栗)娘之事申置之通かたり候處 右馬助(三渕重政・好重嫡子)・
  頼母(有吉立道)夫婦ニ被申聞 谷内蔵助(衛長)所へ被有付由珎重候

そしてその慶事については寛永七年四月十七日書状(807)でわずかに触れられている。
  藤十郎(三渕重政弟・宗由)妹 谷蔵人(衛長)へ被申合由 親子共可為大慶事  


 
細川・三渕(朽木)・有吉・藪・谷家 略系図

      +---三渕藤英----朽木昭貞----------●
    |                          :
    +---細川幽齋----忠興            :                                        
    |                                        有吉平吉(立道・英貴)
    |                          :
    +---三渕伊賀守好重 ------+---------●妹
                              |
                        +--------●姉
                       |       :
                       |   藪 小吉(市正)        
                       |
                       +--------●末妹
                              :
                       谷 衛長           元和八年忠興の意により小倉に下り忠利に仕う。知行千石・番頭
                                       寛永八年五百石加増。寛文四年致仕、同閏五月没         
                                       参考:丹波山家藩・谷家の跡目騒動

 

 

               +--大隈       +--右衛門==丹左衛門---兵左衛門---丹左衛門---源太---隼之允 (九十郎家)
               |           |
  藪伊賀守----内匠--+--図書--------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允 
(一家)
               |           |
               +--三左衛門    +--熊之允(御暇)
               | (紀州藪家)   |
               |           +--丹左衛門(兄・左衛門養子)
               |
               |           +--源太左衛門(男子なく断絶)
               |           |
               +--市正--------+--惣左衛門----弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎  
(市太郎家)
                            |                        (槙庵)  | (槐堂)
                            |                              |
                            |                              +--茂次郎  
(小吉郎家)
                            +--権左衛門(男子なく断絶)               (孤山)

                          

                                 
                      

                               

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上田秀人の「奥祐筆シリーズ」

2012-05-26 10:30:13 | 書籍・読書


  

                                     密封 (講談社文庫)
 
       講談社

 大日本近世史料・細川家史料を見ると、その量の膨大なことにびっくりするし、その内容の緻密さ、また重要案件が余すところなく記されている。
近世初頭の歴史研究の上で必要不可欠な一級史料である。
これらの書状がすべて自筆で書かれたものでない事は、その内容からうかがい知ることが出来るが、祐筆によりかかれたものが殆どであろう。
忠興は息忠利に対して、「隠密なる事は自筆にて」と諭している。家中の重要事項をつぶさに承知する事になる祐筆は、単なる書記という職務に留まらず、
政治の裏舞台のみならず藩主の私的な部分、内証事を含め極秘事項を扱う特殊業務でもある。信頼をベースに君側にあるということであろう。

 ここに紹介する本はシリーズで数冊が出ているものらしい。悪友からの推薦もあってちょっと読んでみようかと思っている。
日ごろは裏舞台にある人が、事件に巻き込まれることもあるであろう。小説の世界ではあるが教えられるものも多いかもしれない。 

 

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書状を読む(六) 忠興の眼病・二

2012-05-26 08:54:59 | 歴史

 八月二日の書状(168)では、去月廿六日の忠利からの書状は光壽院危篤の報であり、併せて土井大炊から帰国を勧められていることをうけ、是に対し
 苦労をして廿九日に吉田に着いた事を記し「死に目二も逢申間敷との儀候哉」と辛い心情を吐露すると共に、「我等心中御推量候而可被下候 取乱申候
 間一書ニ申入候」と曽又左・谷羽州・内記(忠利)・玄蕃・木右衛門宛(連名)に書状を発している。
 じつは七月二十六日に光壽院は逝去しており、この書状を発する時期はすでに五六日ほど経過しているのである。

 八月四日将軍秀忠は一色左兵衛尉範勝を使として豊前に差下し忠興に対し御書を賜っている。(綿考輯録)

   光壽院死去之儀愁傷之段察入候 委細相含使者口上候 恐々謹言
      八月四日                   秀忠 御判
              豊前宰相殿

 又江戸屋敷には上使土井大炊頭が訪れ弔問した。 将軍秀忠は七日の間御目見を止め、囲碁・将棋などさえ慎んだとされる。

 家臣道家傳三郎により光壽院の逝去の報がもたらされての返報が八月十八日書状(169)である。(抜粋)

   光壽院殿之儀心中可有推量候 乍去我々在世之内ニ御遠行ぬしの御ためニハ御果報と存候
                         (中略)
一 御顔かゝせ給候此方にてはや申付候事
一 我々事葬禮過五十日明次第京都迄上り 目之養性仕候てから其地へ可下候 とても百ケ
   日之内ハ 御前江罷出候事不成候間右之分ニ存候事
一 我々目之儀かくのことく能候つる間舟ニのり候共起り候間敷と存候處ニ 今度之気遣 又
   鹽風事之外毒ニて目少おこり候 先書ニ如申候 左之能方之目大法印療治之内より ひとみ
   の玉上下へ長ク両わきへほそく成 事之外かすみ出候處大坂之慶圓療治ニにて十之物九ツな
   をり丸ク成申候 其位ほと見え出候處ニ今度之上下ニ又上下へ長ク成申候 前之程ニは無
   之候へ共又かすミ出申候 只今無養性ニ候はなおりかね可申之由申候條気遣可有推量候
   如此ニ候間當國にて養性可仕きり上度候へ共 事を左右ニよせ在國仕度様ニ申なし候てハと
   存候間 法夏過次第上り吉田にて養性可仕と存候 只今之醫師申候ハきりやきの療治不
   仕度は悪く罷成候由申候間吉田ニ逗留之中ニ見合きりやきを可仕と存候 此ケ條能々大炊
   殿へ其方物語之様ニ可被申候 目之次第此紙面不違様ニ可被申候事
                         (以下略) 

 八月廿八日書状(173)においては(抜粋)

一 我々事一昨廿六日にて法事申付 廿七日可出船と存候處ニ不寄存儀出来ニ付一両日
   相延候 いかさま頓而出船候事
一 右ニ如申候我々目いまた十分ニ無之候間京にて養性仕それより可致参上覺悟ニ候 同は
   當地にて目のきりやき仕罷上度候へ共 さ候ヘハ國を出候事遅様ニ候條 先いそき可令上洛
   と存候 此由大炊殿江参會之刻物語之様ニ可被申候事

 十月二十三日書状(175)

一 先書ニ如申候當月上旬上洛申候 目之事別ニ発不申候間来廿七日當地(京都)を立可下より存候
    處ニ 此比又目かすミ出申候間前かと自豊前如申遣候きり焼きを不仕候てハおこり可申
    より存ニ付大坂江眞嶋(慶圓)よびニ遣候 目を見せ候てくるしかりましきと申候ハゝ来ル廿
   七日當地を可出候 又療治不仕候は悪候ハんと申候ハゝつくろひ候てから可出候 前かと
   切々如申候當地にてきりやき仕候てから其地へ可参と存候つれ共上洛之時分又當地へ
   著候ても目能候つる間急可下より存候處ニ右之分候間眞嶋ニ見せ候ての事ニ可仕と存候
   今日眞嶋上り著可申より存候事 

 十月廿七日書状(176)
  
  永良先へ下候間申候 先書ニ如申候 目少かすミ出候間 大坂目醫師よび寄せきりやきを
  もさせ可申より存 ミせ申候處ニ きややきニハ及間敷候 其上きり申候は跡三十日程養性
  仕候ハて下候は結句療治不仕ニはおとり可申之由申候間きりやきハ不仕候 今度かすミ
  候分は五日十日之内ニ前のことくなるへき由申候間其養性只今仕候 近々可罷下候 大
  炊殿へも別ニ用所も無之候間書状を以も不申候 右此地にての養性之次第 大炊殿江物語
  可被仕候 猶永良可申候 恐々謹言

 十一月八日書状(178)によると、忠興の江戸行に供する家臣が豊前から九日に到着するので、十一日に出立するとのべ
 目が悪いので「いつものことく道をありき候事ハ成間敷」到着は遅れるだろうとしている。
 その十一日忠興は近江の草津という処で忠利に暇が与えられたことの連絡を受ける。そして自分が江戸に到着するまで江戸に留まっているように
 指示している。その理由は「其地に質物無之候間・・・」つまり人質が居なくなるからだとしている。忠興の大変細やかな心配りが見て取れる。
 十一月廿四日無事江戸に到着した忠興は、廿七日には将軍に御目見、晦日には茶入れ開きの御茶の席に招かれている。(十二月三日書状・181)
 これ以降書状に目に関することは出てこない。元和四年も暮れようとするこの時期、完治したのであろうか。
 閏三月二日書状に始まった忠興の眼病との経緯は、生母光壽院の死去などを含めまことに壮絶であったことが伺える。
 忠利が家督する元和六年閏十二月まで、約三年のことである。 

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 追記 5:27 am10:23

 このブログを御覧いただいて、S様がブログ「徒然なか話」で取り上げていただいていた。
  目薬のはなし ~ 向台寺目薬 ~ というものだが、西方寺は我家の菩提寺でもありチョッと驚いてしまった。
 それにしてもメグスリノキというものがあるとは始めて知った。いつか御住職にお尋ねしてみたいと思っている。 

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忠興姪=木下右衛門大夫延俊の息女の縁談

2012-05-25 15:23:47 | 歴史

 木下右衛門大夫延俊の息女の縁談話が元和六年正月十日書状(199)にある。忠興妹・加賀の娘(於岩)のことである。

(1) 木右衛門殿息女縁邊之事 曽又左へ具ニ申遣候 其内阿部備中殿子息へ之事調申度候 右衛門殿も
    其方へ可然様ニ申候へと被申候事

 元和六年三月十九日書状(205)には状況が変わった記事がある。

(2) 右衛門殿息女縁邊之事 松平大膳殿一段可然候 又左相談候て可被調候 右衛門殿書状遣候
    又右衛門殿より我々への返事も進之候 又左ニも可被見せ候 年いくつニなられ候哉是も承
    度候事 

(1)が不成立であったから改めて(2)の話が登場してくる。その後の経過は二三の書状に散見される。
 そして「祝言(元和八年)七月廿日ニ相調候由珎重候事」とみえる、八月十六日付書状(343)がある。 

(1)の阿部備中守子息とは相模小田原城主・阿部忠次息政澄のこととされる。
 実はこの人物は、加藤清正の息女・古屋姫を正室として迎えた人である。
 畏友・福田正秀氏の著「加藤清正妻子の研究」によると、其の結婚は「元和八年からすぐの頃」「将軍家の計らい」によるとされている。
 つまりは(1)の話は早い段階で終わっていることになる。

(2)の話はどうやら成立している。松平大膳とは遠江濱松城主松平忠頼息忠重である。
                http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%87%8D

 歴史は面白い巡り会わせを見せてくれる。松平忠重夫妻の嫡男忠倶は正室に松平定行の養女を迎えたが実は阿部重次の娘である。
 阿部重次とは阿部正澄の弟であり、正澄がなくなった後阿部宗家を継ぎ老中をも勤めた人物である。


       加藤清正--------古屋                      
                    : 
 
  +----細川忠興  +--阿部正澄
     |                        |
  +------- 加賀  +--阿部重次--------●
          :                   :
                    :-----------於岩       :
          :          :        :
              木下延俊        :--------忠倶
                                   松平忠重                        参考: もしかしたら

                         
書状から垣間見られるちょっとした情報を追いかけると、誠に不思議な人間関係に出くわして思わずガッツポーズをしてしまう。

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5:12am10:50 追記
寛永五年八月十九日書状(670)に次のような記事があった。

一 乍次而申候 阿部備中殿(正次)殿子息(正澄)當月上旬(四日)病死之由候事

加藤清正女古屋姫が嫁いだ阿部正澄の死去の記事である。その結婚生活がわずか六年ほどであることが判る。 

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書状を読む(五) 忠興の眼病・一

2012-05-25 08:50:54 | 歴史

 随分以前だが熊本大学医学部の眼科教授から、細川忠興の眼病に興味を持たれていろんな史料を読んでいる旨のメールを頂戴したことがある。
忠興に限らず眼病にかかった人のことについては数多く記録に見える。重賢公夫人由婦姫は光を失われたとも言う。
考えてみると私の子供の頃も「目やに」をつけた子が沢山見受けられたし、ホウ酸を水で溶かしてガーゼに浸して目を洗うということをやっていた。 
眼病に限らず、虫による諸病、結核、疱瘡などの疾病が、現代に至りようやく治療が容易に行われるようになったことを思うと、これらの病による恐怖の程は如何ばかりであったろうかと推察される。

 元和四年忠興はほとんど視力を失うほどの眼病を煩い、随分苛立ちを見せている。同年閏三月二日の内記(忠利)宛書状(153)を眺めてみよう。
 

       (尚々書略)
   目相煩ニ付而土居(井)大炊殿・本上野殿迄様子申入候条令申候 両人への案河北ニ渡候間
   可有披見候
一 二月七日八日時分より目を煩出候事
一 同廿日時分より両眼共ニひしと見へ不申候事
一 安晴・利齋をはしめ爰元之目醫師數人ニ養性させ候へ共一切驗無之ニ付 従大坂眞嶋と申
   目醫師呼下 同廿八日より初三月十九日迄つくろはせ候ヘハ左之目ハ明申候て今ハ二間三
   間先ノ人をハ見知申程ニ成候事
一 右之目ハうハひ候て少も見え不申候 かけ薬にて養性申候は少ハ見え候ハんよし申候へ共
   一切驗無之候間初三月十九日ニ舟を上せ板伊州を頼京都にて上手之目醫師一人御下候        京都所司代・板倉勝重
   へと申遣候 定而可下候其醫師ニ逢候て重而様子可申事
一 只今ハ右之目ハすてニ仕 左之今能かたニをこりさめ御入候間 此かたのつゝき候様ニと養
   性半候事
一 此比當地を罷立其地(江戸)へ可致参上覺悟候處ニ目煩故遅参迷惑此事候 是ニ付國にて養
   性申候ヘハずいなるやうニ候間京へ上り養性仕度候 第一公儀又ハ京にて大勢之醫者ニ
   も見せ申度候條一日も早上度候へ共舟ニゆられ輿ニ乗候儀中/\念もなき事候間無其
   儀候 舟・輿ニ乗程ニ候は無由断上り吉田にて養性可申覺悟候事
一 初三月廿日時分迄ハ寝間を餘所へ出候事一切不成候而 京之醫師をも寝間迄呼申躰候つる
   あたまも右之かた半分はれ つらハ両方共ニはれ うつき申事中/\難盡筆紙候つる 此
   比うつきひしとやミ つらのハれあたまのハれも十之物七ツ八ツなをり申ニ付去月廿四日
   ニ表之居間まて出申候事
一 于今身をあらくあつかひ聲高ニ候ヘハ其儘目へ血さしこミ申躰候條ありき申事も于今自
   由ニ無之 如此候故舟輿ニ乗候儀念も無之候 此段土居大炊殿・上野殿・喜介殿・藤泉州其
   外我々無等閑衆ヘハ能々可被語候事
一 目之煩ニ付臥りてまて居申付 積差出申 万病圓呑申度候へ共 若目ニたゝり候てハと各申
   ニ付無其儀候 乍去いつものことく餘つよくハをこり不申候事
一 母にて候人ヘハはや目本復にて頓而下候由申入候間可被得其意候事

             (その他略)
        潤(閏)三月二日                     越 忠興 印

               内記殿
                  進之候

 閏三月廿四日書状には、将軍秀忠の見舞いの使者が小倉に到着「忝儀難盡筆紙候」と忠利に書き送っている。
 四月朔日書状には、将軍秀忠に対しての禮使を派遣したこと、又土井大炊の紹介で尾州真(馬)嶋大法院が遣わされることを喜び
 期待している様が伺える。
 ところが六月二日の書状(162)に於いては、又々症状が悪化していることが伺える。(抜粋)

一 尾州目薬師(馬嶋大法院)療治ニ而結句能方之目かすミ出候間法院はや上申候 大坂之目薬師又よび下
   はや下申候 此療治前かとよりやハらかに覺申候間能方之目今少かため候て吉田迄上養性
   可申覺悟ニ候 此由大炊殿をはじめ各へ此由可被申候事 

 その後状況も一進一退であるが、六月廿六日の書状(163)では良くなる験(しるし)を感じている。

一 我々目大坂真嶋慶圓療治にてかくのことく得験候間近日罷上吉田にて養性可仕と存候(以下略)

 そんな中「母にて候人ヘハはや目本復」と取り繕うほど気遣いしていた、母麝香(光壽院)が重篤となる。七月一日の書状(164)

一 (略)光壽院殿御煩之様子具被申越候 御老躰ニ候間気遣千萬ニ候 され
   共與安法印よりの書中其方よりの書中ニ今之分ニ候はくるしかるましきやうニ被申越候
   先以安堵候 我々目も先書ニ如申候大方得験気申候 然共道なとはやくありき候事ハ念も
   なく候ハぬ躰ニ候へ共重而之注進を待もし大事と被申越候はむりニも可下候 吉左右
   待申計候 其方より之注進由断有ましきと存候へ共餘気遣ニ候て先承かけニはや道進之候
                     (以下略)

 七月十日書状(165)抜粋

一 我等目先書ニ如申候 得少験候 其上光壽院殿御煩ニ候間来ル十三日當地を罷出候 (略)
一 我々事目も少験ニハ候得共 未散々ニ煩候 其上近年不覺程ニ積差出候間道をはやくあ
  りき候事成間敷候條光壽院殿御煩之様子替儀候は路次迄も切々可被申越候 為其早打下
  申候 此者(使者)ハ其方ニ置 其方之達者成者此状参著次第夜晝之無堺早々可被越候

 七月廿五日の書状(167)においては、十三日に出船したけれども向かい風になり十六日ようやく中国路に取り付たがその後の旅路も難渋していること をるる述べている。そして母親の臨終に間に合わずとも訃報あるまではなんとか下向するとしている。そして葬儀のことについて細かく指示している。
 目は再び悪化している

一 我々目  (中略)                   右之目は捨ニ仕左之方之ひとみ大法印 
  療治にて上下へほそ長ク罷成事之外かすミ申候を 大坂慶圓療治にて十之物九程迄丸ク成
  其位ほと見え出候處ニ光壽院殿之儀ニ気遣又は今日迄十三日舟ニゆられ申心候哉 無
  残所仕合悪無是非儀と存候

 と散々である。                   (つづく)

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