津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川刑部殿・八代城主を御辞退

2009-09-30 21:43:08 | 歴史
 正保三年光尚は長岡佐渡守に対して、八代城に差置く旨の書状を発しているが、この書状からこれらの措置が事前に全く相談がなされていないことが伺える。

    貴殿八代へ召置候事、かくし申事ニ而ハ無之候得共、八代向之事未被
    仰出候間、其方迄内証申遣候間、可得其意候、其方外聞無残所候、此
    段式部少江可有物語候、八代向之儀、四五日中ニ被 仰出可有之候間、
    其刻一度ニ急度可申遣候条、それ迄ハ不存分ニ可被仕候、謹言
                         肥後
       五月廿六日              光尚
             長岡佐渡守殿

 此のことを紹介している綿考輯録巻61(p324)に於いては、「三齋君御逝去後、刑部殿を被召候て、八代城二可被差置旨、被仰出候得とも、堅く御辞退有と云々」とある。
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遠坂次郎兵衛殿切腹

2009-09-30 09:30:16 | 歴史
 天草嶋原乱に於いて、岩越惣右衛門与の遠坂次郎兵衛なる人物の記録がある。
その苗字から遠坂越後の一族であろうと思われる。正保二年次郎兵衛は切腹を言い渡されている。
                       (綿考輯録巻61 p319)
   追而申候、遠坂次郎兵衛切腹申付候二付、縁者親類之書付越候様ニと
   申遣候二付、元田彦丞縁者ニ而候故、書出候書付弐ッ差越候、妻子に
   かゝる事ニ而無之候間、差ゆるし候、妻子いつれも彦丞心次第ニ可仕
   候、男子之儀ハ我等仕間敷候間、以後はいつかたへなり共遣候得と、
   是又彦丞二可申渡候、其外親親類以かまい申事ニて無之候条、可有其
   心得候、謹言

十月廿三日、光尚から佐渡守、監物、式部少、米田与七郎、沢村宇右衛門にあてた書状の追而書である。この文面からすると、次郎兵衛の娘が元田彦丞に嫁いでいるのだろう。次郎兵衛の妻子に罪は及ばないが、男子については召し抱えることはないのでいずかたへ行こうが自由であると言っている。娘婿である元田彦丞に任せるとしている。「其外親親類以かまい申事ニて無之候」という文言から、遠坂越後の親族であるという確証は得られないが、私は二男とか三男ではないのかと考えている。
切腹の原因については、上記五人は衆知のことであろうから、この文面に記されていないのは当然である。綿考輯録の編者・小野武次郎は如何であったろうか。この類の文書では、その原因については言及していないので、なんともわからない。切腹という処分についての基準というものについても良く判らない。

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花散里

2009-09-29 14:48:29 | 徒然
                      源氏香紋「花散里(はなちるさと)」

 細川家家臣では、森崎家がこの家紋を使われている。先のブログでご紹介した冨田家は、「隅入り角に花散里」紋である。私は香道については全く知らない。お香は「聞く」のだそうだが、五鉢を一回としてこれを聞き、同じ香りがしたものは縦棒の頭の部分を横線で繋ぐのだそうな。「花散里」は1番目と3番目、2番目と4番目(右から)が同じ香であったことを示している。香図というのだそうだが、これが源氏物語の帖に連動しているのである。なんと風雅な事か・・・

    源氏香紋 www.e-sozai.com/mon/zuhu/701.html
           www.e-sozai.com/mon/zuhu/701_2.html

    源氏物語「花散里}
           ja.wikipedia.org/wiki/花散里
           attic.neophilia.co.jp/aozora/genjimonogatari/htmlfiles/hanachiru.html

 「香道」も「源氏物語」も全く門外漢の私だが、この家紋のお陰でいささかの勉強をしたので、脳みその襞が一本くらい増えたかもしれない。
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細川家家臣・冨田(小左衛門)家

2009-09-29 11:30:08 | 歴史
 有吉興道・英貴の甥(姉の子)冨田小左衛門は、寛永十九年13歳で御児小姓召出され、新知三百石、慶安元年二百石加増(19歳)、光尚の死去(慶安二年)にあたり殉死した。当時は「御前を損シ外様に居りたり」状態であったが「御病中ニ御看病被仰付」られ、これを有り難く思っての殉死だとされる。兄・有吉雅楽も共に殉死を願い出たが、小左衛門のみのお許しと成った。妻が有ったがこれは加来佐左衛門に再嫁した。跡式は堀新五左衛門の二男藤松(殉死時生まれる)が4歳に成るのを待って行われた。有吉一門にたいしてのこまやかな配慮が窺える。

有吉立行---+--興道-------貞之・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉本家
        |
        +--英貴---+--英安・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉分家・英貴流
        |       |
        |       +==市郎兵衛(雅楽)・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉分家・市郎兵衛流
        |
        +---●
            ∥---------+--有吉助之進 有吉家士
     冨田与兵衛重冬     |
                    +--●(松野亀右衛門・嫁)
                    |                 二男
                    +--●(堀新五右衛門・嫁)---藤松
                    |                   ↓
                    +--戸田吉十郎 有吉家士
                    |
                    +--有吉雅楽 有吉英貴養子となる
                    | 光尚殉死           堀新五左衛門二男藤松
                    +--冨田小左衛門========小左衛門・・・・・→冨田家
                           ∥ 
                           ●
                           ↓ 再嫁
                       加来佐左衛門
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佐田家文書・抜粋 「日記及び紀行類」

2009-09-29 09:52:09 | 歴史
                         嘉永七年甲寅日記
                この日記の記録者・吉左衛門はこの年に亡くなった。

【佐田文書-5】 1799年  東行日記 寛政十一年    
 
【佐田文書-39】  1814年   鄙日記 文化甲戌年夏卯月         
1815年   御参勤陪駕途旅中日記 文化十二乙亥二月 
【佐田文書-16】  1817年   途旅中日記 文化丁丑秋七月  
【佐田文書-37】    同   宇佐紀行 文化十四年       
【佐田文書-53】    同   豊前紀行                
【佐田文書-21】  1823年   □禄日記 文政六年         
【佐田文書-41】  1830年   日簿 文政十三年庚寅正月  
       
【佐田文書-51】  1832年   日表 天保三年壬辰正月    
【佐田文書-22】  1834年   日載 天保五年            
【佐田文書-49】    同   日記 天保五年甲辰        
【佐田文書-30】  1835年  日記 天保六年           
【佐田文書-27】  1936年   日々禄 天保七年正月元日 佐田愛景(勝彦)/著
【佐田文書-48】    同   日記 天保七年丙申        
【佐田文書-52】  1838年  日記 天保九年戊戌          
【佐田文書-25】  1839年  日記 天保十年己亥         
【佐田文書-43】  1842年   天保十三年壬寅目録 玖瑰園   
【佐田文書-31】  1846年   日記 弘化三年丙午       
【佐田文書-50】  1847年   日記 弘化四年丁未 玖瑰園      
【佐田文書-42】  1848年  日記 弘化五年戊申 (嘉永元年)     
【佐田文書-45】  1849年  日記 嘉永二年己酉 壽永閣  
【佐田文書-47】  1850年   日記 嘉永三年庚戌 玖瑰園    
【佐田文書-44】  1851年   日記 嘉永四年辛亥 玖瑰園    
【佐田文書-46】  1853年  日記 嘉永六年癸丑 玖瑰園   
【佐田文書-4】  1854年  日記 嘉永7年甲寅  (安政元年)
      
【佐田文書-20】  1862年  東都白銀邸日記 文久二年正月  佐田淑景/著  
【佐田文書-102】 1864年  小倉大里滯陣中記 佐田彦之助 写    
【佐田文書-29】    同    豊前国小倉在陣中日記 元治元年十月一日   
【佐田文書-18】  1866年   日記 慶応二年丙寅 

    記録した人たち
7代・宇兵衛  
  佐田谷山 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。
  藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。
  春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の
  時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。
  墓は本妙寺中東光院。

8代・右十(造酒助) 百五十石
      享和二年十一月~文化二年二月 川尻町奉行
      文化二年二月~文化八年九月   中小姓頭
      文化八年九月~文化十四年十一月 小姓頭
      文化十四年十一月~文化十四年十二月(病死) 留守居番頭
  佐田右州 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小
  姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、
  蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。
  文化十四年十二月五日没す。享年五十九。

9代・右門(右平・吉左衛門) 右門-御目付 三百石
              右平-旧知二百五十石
              吉左衛門-旧知三百五十石
             
      天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
      天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
      天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名
  佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百
  五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を
  廃せず。安政元年八月弐拾日没す。享年七十四。
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細川家家臣・遠坂氏

2009-09-28 18:13:35 | 歴史
 一昨日のブログで書いた「春木氏」のことを色々調べている内に、春木七郎左衛門の二男が遠坂家に養子として入り、六代関内を名乗っていることが判った。遠坂家は「丹後以来」(青龍寺以来とも云う)の古い家柄で、初代助左衛門(関内・越後)は田辺城籠城衆として知られる。 
於豊前小倉御侍帳には「越後」と記され、馬廻組六番 千五百石とある。 
 
  ■初代 助左衛門(関内・越後)   
  丹波国物部之地侍にて、河北石見か甥なり、忠興君、荒木山城に被仰候ハ、若不慮之儀
  有之節、御見方をも仕、御用に立可申もの御隣国に有之候ハゝ、承立候へとの御事ニ付、
  丹波のはそうち村ニ、遠坂助右衛門と申す者、自然の御用にも立可申と申上候ゆへか、丹
  波御通之節、助右衛門宅江御立寄、自然之儀候ハゝ、御用をも御頼被成度旨にて、連々
  之御懇意有難く候間、心の及勤上可申旨、御役諾仕、夫より御出入仕候 田辺江人数押
  よする風聞承候間、則田辺へ申上候は、忠興君江御契約申上候筋御座候間、一門之者共
  并諸浪人内々手ニ付候もの数多居申候、後詰又は兵粮の御用等候ハゝ、御城に入可申哉
  と申上候、依之田辺への御使、森三左衛門を中宿させ、御城にも手引して入れ、又関東江
  差下候、此様子粗敵方へしれ、押寄るなといふ沙汰有しかハ、其内に関原落去、寄手退散
  し、事故なかりし也 (中略) 田辺の様子を助右衛門方より家来、上原長寿と申ものを以て、
  忠興君江御注進仕候、赤坂御陳所にて、書付差上候、長寿を御庭江被召出、様子御尋被
  成、今度助右衛門、御忠節之儀、御満足被成候、則御感状被下候間、慥二渡候様ニと被
  仰付候 (中略) 其後関ヶ原御合戦御勝利、幽斎君は亀山に御移被成候付、忠興君は直
  に福知山江御よせ被成候時、御立寄候へは、御膳を差上候、城攻にも、御人数ニ被加罷越
  候 豊前御拝領ニ付、助右衛門儀御知行千石にて可被召出旨、被仰出候、住所立去申儀
  迷惑ニ候段、御断申上候へとも、今度之御忠節被捨置かたく思食候間、先千石にて罷越可
  申由ニ付、豊前江相越、関内と名改申候其頃竜王の御城を妙庵主江御預被成候、御病気
  に御座候間、関内竜王江罷越、支配可仕旨ニ而、御加増五百石被下、名を越後と改可申旨、
  仰付られ、御持鑓拝領、自然の時に此鑓を枕にして、討死仕候得と、御意被成候、此鑓今
  に所持、竜王城御解被成候時、又小倉江罷越候 肥後にて御番頭、寛文十一年病死

  ■二代 関内      
     別禄二百石・父遺領千石拝領 島原一揆ニ而(原之城本丸・水の手口)討死
        供之者・御扈従与也「青龍寺」 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
        御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
        御詰衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
        御側者頭衆 歩御小姓頭 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
  ■三代 孫九郎・直房
     御児小姓被召出、無程御暇被下候(綿考輯録・巻五)
        十一歳跡式拝領(千石)、十四歳光尚君御前ニ而虚言--御暇被下候
        弟三五郎十歳ニ成候ヲ御召出・新知五百石拝領(四代)
     細川光尚殉死・千石被下置候処此節ハ浪人 廿二歳
        慶安三年四月二十七日 於・熊本泰陽寺にて切腹 介錯・大村猪右衛門

 四代目以降番頭、大奉行、中老等を輩出、家禄千石を変わることなく拝領し明治に至った。
家紋は「赤鳥」だと思われる。この紋は今川義元一族の家紋だとされるが、遠坂氏の出自は如何なるものか、未だ判明しないでいる。

ちなみに「赤鳥紋」は【実際は馬の毛を漉く「垢取り」のことで、「赤鳥」はその当て字である。】とされる。

             
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細川家家臣・陳氏

2009-09-28 08:31:40 | 歴史
                        丸に割菱紋(丸に武田菱紋)
 陳氏の読みは「陣氏」と記す文書が残されており、「じん氏」であることが判る。
陳氏といえば初代佐左衛門が挙げられるが、嶋原一揆の総大将・天草四郎の首を挙げた人である。綿考輯録はその様子を次のように記している。

陳佐左衛門走廻り首二ッ討取候か、四郎か居宅の焼落る比煙下をくゝり其屋の内にかけ入る、佐渡か軽卒三宅半右衛門もつゝいて入に、創を被りたる者かと見へ、絹引かつき臥居ける側に女壱人付添泣居たり、佐左衛門つと入足音に驚き、かつきたる絹を押除る所を透かさす一刀に斬て首提け走出る、女驚き引留んとするを、三宅是を切捨にして走出ると忽棟を焼落し候、寺本久太郎ハ先時夜明ると早速忠利君の御意を蒙り、今日討取所の首をも拾せ、本陳前の堀に集め候に夥しく有之候、佐左衛門も其所に至るへきと思ひ、右の首を提、忠利君の御目通り近くを行くを急き行を屹と御覧被成、其首見所有、大将四郎なるへし、念を入候へ、扨々冥加の者哉と御意候か、果して四郎首也、御近習の輩驚き奉感候、扨佐左衛門惣首の所に至始終を語候へハ、久太郎猶も委しく様子を尋ね聞、陳か高名を感し候

佐左衛門はこの時、相手が天草四郎であることを知らない。
2007-09-14のブログでは、幕府軍総大将・松平信綱の、総攻撃前日の「天草四郎生け捕り」を指示する文書が発見されたことを書いた。これは直接の指示書ではないが、細川忠利が「生け捕り」を提案した手紙に対する返書で、全軍に「生け捕り」を指示したい旨の同意を求めるものであるらしい。果たしてこれが全軍に通達されていたか、佐左衛門が手柄し、「有馬之役武功・陳中専一の勲功 四郎首討取、別ニ争無御座候 寛永五年五月五日於本丸被仰渡 新知千石御鉄炮廿挺頭--右大将四郎首討取功」(綿考輯録)という経過を見ると、これは間に合っていなかったと考えるのが妥当であろう。(間に合っていれば重大な軍令違反である)

いずれにしても、この一事で立身した佐左衛門は、まさに羨望の的であったろうし時代の寵児であったろう。
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細川家家臣・春木氏

2009-09-27 15:14:34 | 歴史
                            三つ盛木瓜紋

 「肥陽諸士鑑」を見ると、春木家の項には二つの家紋が紹介されている。
 一つは「丸に金文字紋」だが、これは嫡家の当主が金大夫を名乗ることが多かったからではないかと思われる。今一つが、三つ盛木瓜紋で、細川家家中では大変めずらしい家紋なのでこちらをご紹介してみた。

熊本城の北側に連なる台地を京町台とよんでいるが、かっては侍屋敷が大路を挟んで並んでいた。その大路が国道三号線となり、熊本城の真下を通って(城内である)熊本市役所前に出ていた。現在では三号線は場所を変え大きく迂回している。東及び西側は10数メートル落ち込んで平地となっている。その京町台と東側の寺原・壷井地域は、現在ではその高低差を急勾配の長い坂で繋がれている。江戸期その途中にあった春木家が敷地を提供して道路をつくり、住民の通行の便を図った。急な坂道であるが現在も「春木坂」として親しまれている。

嫡家は家禄1,000石、番頭や御町奉行・寺社奉行等を勤めた(春木熊四郎家)。分家(春木七郎左衛門家)は「木瓜紋」を家紋としているところをみると、本来の家紋は「木瓜」であったと思われる。
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ちょっとこだわってみる

2009-09-27 08:17:50 | 書籍・読書
 「山頭火 虚子 文人俳句」という著作がある。ここに先にご紹介した、虚子の「小国町南小国村芋車」という句ができた経緯、その他の考察がなされているらしい。
じつは此の句を地元の人が意外と知らない。何となく稚拙で言葉遊びにも思える句だが、私は名句だと思っている。それは小国町やお隣の南小国村(現在は町)の関係や、地理を承知していなければ理解が及ばないかもしれない。もう少し勉強をして、あちこちで薀蓄を垂れようと考え、いろいろ見つけていたら、お隣大分県の古本屋さんに安くてあったので早速注文を入れた。

 山頭火も熊本にはなじみ深い俳人である。この著作で虚子や山頭火について「目から鱗が落ちる」ような真実を知るような気がしている。

その著作について次のような解説がなされている。著者は斉藤英雄。
「三人の俳人の“阿蘇”行と三人の小説家の句作時代について詳しく論じた興味深い書」とある。
第1部 山頭火(山頭火と井泉水の“阿蘇”行について―日付を中心に;山頭火と井泉水の“阿蘇”行について―その実情;山頭火「まつたく雲がない笠をぬぎ」考―場所を中心に)
第2部 虚子(高浜虚子の「芋水車」の句について;高浜虚子の「大観峰」の句について;高浜虚子の「龍膽」の句について)
第3部 文人俳句(俳句とSF―眉村卓の場合;俳句と時代小説―藤沢周平の場合;俳句と推理小説―結城昌治の場合)

まさに時は秋、ちょっとこだわって読書をしようという次第である。
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きぬかつぎ

2009-09-26 14:18:16 | 徒然
 衣被(きぬかつぎ)という言葉がある。皮をつけたままふかした里芋(小芋)のことだが、古の風雅な言葉として今に伝えられ、俳句の秋の季語になっている。お月見の夜には、きぬかつぎを盛ってお供えをするのだそうだが、一般のご家庭ではもう見られない風景だろう。
 今日は妻が小芋を買ってきた。このきぬかつぎは私の好物で、妻も承知していて時折食膳に並べてくれる。皮を指でおすと、白い身がぬるりと顔を出し、塩をつけたり、醤油をつけたりしていただく。日本酒があれば言うことは無い。妻の祖母は茹でた里芋の食感を「にとん・にとん」と表現していた。結婚したての時その言葉を始めて聞いて思わず笑ってしまった。「それじゃー熊本では何と表現するの」といわれると、確かに熊本にはそれに変わる言葉が無い。以来我が家では「にとん・にとん」である。
 熊本で「だごじる」と呼ばれる「団子汁」には、小芋が欠かせない。阿蘇の小国地方ではかって、小川の流れの「芋水車」をつかっていもの皮を剥いていた。
小国の地を旅した高濱虚子は
           小国町南小国村いも水車
                                  という名句を残している。 

小国の里に至る阿蘇外輪の草原は、そろそろ銀色のススキが一面風に揺れる壮大な景色を見せることになる。案外小国地区あたりでは、「きぬかつぎ」が盛られたお月見の風景が残されているかもしれない。今夜は日本酒で一献とまいりたい。
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芸術新潮10月号

2009-09-26 10:42:57 | 書籍・読書
 芸術新潮の10月号は「出雲大社」が特集されている。
私は一時期、梅原猛の「神々の流竄」に、面白い解釈だと思いながらはまり込んで、何回と無く読破したものだ。その折買い込んだ読んだ「古事記」や「日本書紀」が今では本棚でごみを被っている。出雲は不思議なロマンを感じさせる場所であり、出雲大社は建築史の上からも興味ある建物である。美しい写真で親しむのも良かろうと、「こいつあ買わずばなるまい」とおもっている。

今ひとつ期待しているのは、「聚楽第行幸図屏風」が紹介されているようだ。
現物が上越市立総合博物館で公開されているようだが、これはとてもお目にかかることが出来ない。せめて写真ででも拝見したいという次第だ。

新潮社から毎月案内メールをいただいているのだが、本屋さんに走ったほうが手っ取り早い。足をひきずって(今日はとくに調子が悪い)出かけねば成るまい。
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竹田家の「稲妻紋・・?」

2009-09-26 08:30:44 | 歴史
 足利将軍家家臣・竹田梅竹軒の子孫は、細川家と松井家の家臣として脈々と続いた。
神紋ともされる稲妻紋を家紋とする竹田氏だが、そのデザインは本来、中央から右周りに四角い渦を巻き、最後は真下で終わっている。(上図) 処が細川家家臣竹田家の稲妻紋は少し様子を異にしている。中央から左回りに渦を巻き、最後は左脇で終わるというデザインである。(いろいろ探したが見つからず表示できない)

 「肥陽諸士鑑」で家紋を眺めていたら、同じ稲妻紋があった。我が侍帳には竹田氏は一軒しか記載していなかったのだが、いま一軒先祖を同じくする竹田家(早之允)があった。私の完全な見落としである。家紋が記されていなかったら、気が着かなかったかもしれない。別家をたて御小姓役を勤め200石を拝領しているが、その後の事は判らない。絶家したのだろうか。

 今年の7月29日のブログで「細川家家臣・竹田氏」を書いたが、その折の略系図に加筆してご紹介しておく。


 梅松軒---+--松井織部---松井角左衛門・・・→松井家家臣竹田家
        |
        +--源助長勝
        |
        +--永翁
        |         初代
        +--半左衛門---平大夫---安右衛門--+--平大夫・・・→細川家家臣竹田家
                                 |
                                 +--早之允
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新熊本市史 別編 第1巻 絵図・地図 編

2009-09-25 15:51:34 | 徒然
 一年以上になるらしい、ある方から「もし先祖の屋敷の場所が判れば教えてほしい」旨のお手紙をいただいていた。過日久しぶりにお手紙を戴き、最後の最後に「申し訳ないけれど・・判らないんでしょうね」とあり、しまった忘れてたと思わず声を上げてしまった。良く覚えていないのだが、判ったら熊本の地を訪ねて先祖の屋敷跡を見てみたいといった趣旨の事が書かれていたように思う。昨晩から「新熊本市史 別編 絵図・地図 編」と、虫眼鏡を取り出して「屋敷探し」を始めたが、まだ成果が上がらないでいる。なんとか今週中にと思うのだが、とにかく絵図の量が多く記入されている文字が小さいので・・・見つからなかったらどうしようと、不安で仕方が無い。

      http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/history/shokai/beppen/ezuchizu/index.html
          別編 第1巻 絵図・地図 編  B4判(上下巻)定価10,300円
■絵図・地図 上 【中世・近世】 
肥後の国絵図をはじめ、城下の武家屋敷と新発見の町絵図を克明に解読し、原図と併104点を収載。
本文246ページ
■絵図・地図 下 近代・現代 
置県後の郡村図・郡村誌を一括収載。明治~平成に至る市街図及び土地分類図など多彩に204点を収載。本文376ページ
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会津百万石

2009-09-25 13:36:43 | 歴史
 細川家記に「天正十八年庚寅七月東奥ノ鎮トシテ会津百万石ヲ賜ウノ命アリ、辞シテ受ケズ」とある。
この話はどれだけ真実味のある話だろうか。

 天正十八年(1590)の豊臣秀吉の動きを観ると、七月五日小田原の北条氏を滅亡させ、同十七日小田原を出発同二十六日宇都宮に到着、白河を経て八月九日会津黒川に入っている。そして「奥州仕置き」がなされ、伊達政宗から受渡された会津領には蒲生氏郷が配置された。秀吉のこのような多忙を極めた中で、どのような状況でそのような話がなされたのだろうか。勉強不足の小生は、史料ももたず「ほんまかいな」とあたふたしている。
 慶長三年(1598)には上杉景勝が会津に転封となったのは、大河ドラマでも知るところである。秀吉が亡くなり、慶長五年天下分け目の関が原の戦は、徳川家康の上杉攻撃が発端となっている。
 加賀百万石+細川会津百万石ともなれば、ひょっとしたらひょっとしたかもしれないが、「辞シテ受ケズ」が大正解である事は歴史が証明している。
詳しいことをご存知の方が居られれば、ご教示賜りたい。
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西郷忌

2009-09-24 22:25:41 | 徒然
 今日は西郷隆盛の祥月命日、西南の役の終結から132年経ったことになる。鹿児島はいうに及ばず西郷さんのフアンは熊本にも多い。考えてみればこの戦がなければ、玄祖父上田久兵衛もいわれのない罪で首をはねられる事はなかったし、熊本の城下も54万石の風格在る面影が残った事だろう。しかしながら、西郷さんに対してとやかく言う者はいない。
西郷さんの先祖を遡ると、勤皇の名家菊池氏に行き着く。菊池一族の祖・菊池則隆の子政隆を初代として三十二代目に成るのが、西郷隆盛である。菊池市七城町西郷地区に居を構えたことから、西郷氏を名乗った。西郷さんは一時期「菊池源吾」という変名を使っていた。先祖を思う西郷さんの心情が窺える。そしてそんな西郷さんを熊本人は敬愛しているのである。
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