津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣--大塚家

2013-01-31 18:16:53 | 歴史

「御国追放被仰付候面々」 に、「貞享三年正月・五百石 大塚喜兵衛」とある。
何故また?と思うとともに、後はどうなったのかと心配になる。

この貞享三年の事件は「江戸二御使者被仰付、於道中不慮之儀有之、其裁判不宜二而御暇被下候」というもので、御国追放となったものだが、大塚家はこの喜兵衛の事件後、養嗣子・半兵衛(実・佐野半兵衛)をもって初代とし、百石にて明治に至っている。

家祖ともいうべき同名・喜兵衛という人物は忠利公に殉死した人物である。
その召しだしの詳細が 寛永七年六月「日帳」に詳しいのでご紹介するが、このことが殉死につながっているのではないかと考えている。

 寛永七年六月「日帳」より
6/8:田川郡木代村之甚右衛門尉子供走候而、筑前之内ニ居候つるか、木代村へ参、いとこノ久左衛門尉を、去ル六日ノ夜打果候而、いずくとも(なく)参由、郡奉行より申来候、仁躰ハ見届不申候へ共、定而、右ノ兄弟(喜兵衛、五郎、仁右衛門)参候而可仕と存由、いのひさ(猪膝)太郎左衛門尉申候由ノ書状ニ候也
6/9:河喜多五郎左衛門尉并猪膝太郎左衛門尉罷出候、木代村之久左衛門尉を打果申候ものハ、いとこの喜兵衛ニ相究候、昨日かの喜兵衛状を調、猪膝太郎左衛門尉ニ立置申候、文躰は久左衛門尉儀ハ親之かたきにて候ゆへ、夜前一刀うらミ申候、乍去、夜中之儀ニ候ニ而候故、果申たる儀ハ不存候、もはや本望ハとげ申候間、然上ハ、御間悪敷国へ参居申候も、公儀を憚さるにて御座候間、ニ三日中ニ其地へ罷越、如何様ニ成共、御意次第ニ可仕とかき候而、文をたて置申候由ニ而、右両人持参被仕候、御年寄衆へ被申候へと、申渡候事
6/22:
■木代村ノ喜兵衛、兄弟三人ともニ被成御赦免、一命扶被下候事
■右喜兵衛ニきられ申七(久)郎右衛門尉せかれ、四つニ成申ニ、喜兵衛親甚右衛門知行其まヽ被下候事
■木代村ノ喜兵衛ニ御知行三百石、弟両人ニ百石宛被為拝領候、左候而御前ニ被 召出、喜兵衛さかつきを 殿様被 召上、御帷子弐つ宛・御肩衣・袴弐下宛被為拝領候、左候而、忝 御意ともヽヽ御前之衆いつれもかんるいをなかし申候事
■右喜兵衛重而被 召出、御腰物壱腰被遣候、左候而、御感状被遣候事

                   その弟二家(五郎家)(源次郎家)もともに明治に至っている。

そして喜兵衛は殉死となるわけだが、「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には次のようにある。
              

    ●五百石 大塚喜兵衛
         右之女房
         喜兵衛嫡子歳九ツ 大塚半四郎
         同人二男歳七ツ  大塚七郎
         むすめ壱人歳十五
  百五十石 喜兵衛弟・大塚七兵衛
  百五十石 同人弟 ・大塚仁右衛門尉
  「喜兵衛知行、家屋敷共ニ無相違せかれ半四郎ニ遣也 印」


 大塚 貞  (南東14-20)
     甚右衛門
     喜兵衛(嫡子) (1)側小姓・御扈従役歟 組無衆 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
               (2)御側鉄炮頭并組外衆 三百石 乗物昇小者頭 (肥後御入国宿割帳)

            寛永九年豊前召出三百石・入国後五百石
   

            【細川忠利公殉死】大塚喜兵衛尉種次 寛永十八年四月二十六日 介錯・鎌田源太夫
            

     半四郎   跡式 寛永十八年六月十七日嫡子半四郎(五歳)知行百五十石・家屋敷  
                                              十一歳ニ而病死

     七郎(実・弟 喜兵衛) 半四郎弟七郎(当時九歳)跡目
               (1)八番藪図書組 五百石 (真源院様御代御侍名附)
               (2)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)

     猪右衛門(養子 実・甥、中路勘太夫嫡子 喜兵衛・植甚右衛門)             
                 沢村宇右衛門組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳) 
            五百石 貞享三年正月十九日・御国追放被仰付候(於江戸御追放) (※) 

            (江戸二御使者被仰付、於道中不慮之儀有之、其裁判不宜二而御暇被下候)

    1、半兵衛(養子 実・佐野半兵衛)
    2、八平(甚右衛門・藤右衛門) 御番方・続繁弥組 高百石之御擬作
    3、七郎右衛門   御穿鑿所御目付御者頭列 百石
                 細川斎護公御書出(弘化四年)
    4、貞之允(貞)

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諸肌脱ぎ・・・?

2013-01-31 09:23:07 | 徒然

 赤星閑意の画く「義士切腹之圖」をよくながめてみると、内蔵助は諸肌脱ぎになっていることが判る。
私たちがよく承知をしている、裃をひざ下に巻き込み、三宝を尻の下に置き、着物を左右に押し広げて切腹に及ぶという図とはいささか異なっている。
切腹の作法がいつのころ確立されたのか知らないが、裸の状態と云うのは上使・検使に対しても如何かと思われるのだが・・・如何
ご存知の方が居られればご教示いただきたい。切腹の日まであと四日・・・・・


 

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「義士十七人於肥後侯亭割腹検使之圖」

2013-01-30 19:00:01 | 史料

           この図は「赤穂義人纂書」にある「義士十七人於肥後侯亭割腹検使之圖」である。
           義士研究家で近世史に詳しい、東京在住の佐藤誠氏が送って下さったものである。謹んで御礼申し上げる。
           先にご紹介した大野瑞男氏所蔵の「細川家御預義士十七人切腹之畧図」が底本となっているものと思われる。
           下の白金邸平面図と比べると、まさにそのままである。(泉水の形に違いがあるが・・・・・)
           大石内蔵助はすでに切腹を終え、戸板に乗せられて運び出されている。
           四ツ時過(10時過)から七ツ半過(5時過)までかかったとされるから、約7時間に及んでいる。
           後日ご紹介するが、堀内傳右衛門の「旦夕覚書」や「御預人記録」などと併せてご覧いただきたい。 

 

           

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御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世忰被召出候面々

2013-01-30 07:57:55 | 年表

御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世忰被召出候面々
       
ここに記載ある500石以上のものについて列記する。陽明学徒の内西川与助の扱いはその由緒によるものか? 

寛文元年閏八月
  ・千石     堀江勘兵衛    四拾人扶持被下置、病死 
       綱利の側近、綱利の初入国に際しその行列の華美に過ぎるのを咎められたという・・・・?          断絶カ

寛文五年六月
  ・五百石   平野三郎兵衛   躮三郎兵衛ニ元禄三年三拾人扶持被下之     平野弥平家

寛文九年十月
  ・五百石   西川与助      元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付、躮弥右衛門御勘気被成御免、
                       五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ召加候
       秀吉から感状を賜った高名の士、陽明学徒追放により国内宇土に閉居した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西川均家 

寛文十一年八月
  ・五百石   佐分利兵大夫    躮佐分利七兵衛ニ元禄四年三十人扶持被下候   佐分利彦右衛門家(弐百石)

延宝六年七月
  ・六百石   大河原治部進    元禄三年妙解院様五十年御忌之節御勘気御赦免被成、十人扶持
                        被下之、元禄五年甥大河原源八養子ニ被仰付右之御扶持方被為
                        拝領、側御中小姓与ニ被召加候            不明

延宝六年九月
  ・千石    丹羽亀之丞      元禄三年妙解院様五十年御忌之節御勘気被成御赦免、三十人扶
                        持被下之                           不明

天和三年六月

  ・五百石   佐藤八郎右衛門  元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付、躮団之允御勘気被成御免、
                       五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ被召加候    不明   

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「寛文元年以来御追放御暇并知行被召上候面々之覚」から

2013-01-29 14:57:14 | 歴史
先のブログ「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」にある藤田助之進の「御暇」の理由は、次のような事件が原因である。
 
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 
  「寛文元年以来御追放御暇知行被召上候面々之覚」というものの中に藤田の名前を含め三名の名前が見える。
  沢与次兵衛は助之進の娘聟である。

● 前川勘右衛門  三百石 延宝元年七月二十日 御暇

○ 藤田助之進 有吉頼母允組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
             五百石 延宝元年七月十九日 御暇被遣候 

○ 沢 与次兵衛   三百石 延宝元年八月二十一日 御暇

 「延宝元年癸丑七月廿三日、於筑後北の関、肥後の士前川勘右衛門と藤田助之進同嫡子縫殿之進意趣有て及闘争、前川勘右衛門従兄十左衛門助力して藤田父子を討取」ったという、北の関事件に関する処分である。
同事件については、北関始末記、北関物語、北関聞書、北関秘録など詳しい報告書が残されていて、その詳細を知ることができる。

 藤田助之進の娘と三渕家一族の前川勘右衛門の結婚話が、三渕家一族の反対で頓挫したことに対し、藤田側がいろいろ申し立てた事に三渕家側が気色をなし、事件が起っていく。
先ずは前川勘右衛門が御暇を願い出、相手方藤田家も御暇となる。私闘の形をとりたいとする山名(三渕)十左衛門の策略だとされる。ところが上の「覚」を見ると、藤田家が十九日、前川家が二十日となっており、藩庁の作為が伺える。沢与次兵衛は、当日家来を派遣したということで処分を受けるのだが、上記「覚」では事件前の処分となっている。

 他国領で鉄炮を打ち放しての大騒動にしては、なんとなく穏便に事が終息しているのは、山名十右衛門を取り巻く長岡佐渡、津川次郎左衛門、藤崎作右衛門、細川修理、長岡興知など早々たる縁戚の顔ぶれをみると、納得させられる。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 この事件の全貌についてはこのブログで19回にわたり、「北関始末實記」をご紹介したのでご覧いただきたい。
そして(島田美術館館長)島田真祐氏が上梓された小説「身は修羅の野に」は、この事件を主題にして書かれ、平成九年熊日文学賞を受賞された。
御一読をお勧めする。

                                                                                                    
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本にだって雄と雌があります

2013-01-29 09:21:57 | 書籍・読書

 

  本にだって雄と雌があります
 
             新潮社

内容紹介

旧家の書斎に響く奇妙な羽音。そこでは本たちが「結婚」していた! 深井家には禁忌(タブー)があった。本棚の本の位置を決して変えてはいけない。九歳の少年が何気なくその掟を破ったとき、書物と書物とが交わって、新しい書物が生まれてしまった──! 昭和の大阪で起こった幸福な奇跡を皮切りに、明治から現代、そして未来へ続く父子四代の悲劇&喜劇を饒舌に語りたおすマジックリアリズム長編。
 
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慶安三年以来段々御暇被遣候面々

2013-01-28 17:30:42 | 徒然

慶安三年以来段々御暇被遣候面々

 承応弐年三月
    ・五百石     赤埴八郎左衛門
    ・六百石     長谷部文左衛門  (二百石・長谷部才三郎共)
   
 同 弐年九月
    ・千石      陳 吉大夫

 同 弐年十月
    ・八百石    林 孫助
    ・弐千石    早川弥五右衛門

 明暦元年五月 
    ・五百石    井上勘左衛門

 同 元年七月
    ・五百石    山田三郎右衛門   

 同 元年八月   
    ・千石      小崎五郎左衛門

 万治弐年八月
    ・五百石    江口角右衛門

 寛文五年六月
    ・三千九百石 平野茂左衛門

 寛文九年十月
    ・二千八百弐拾石余  浅山次郎左衛門
    ・五百石    湯浅角兵衛
    ・五百石    小笠原勘介
    ・五百石    金子十郎兵衛

    ・千百石    竹内五郎左衛門

 寛文十一年八月
    ・六百石    速水助兵衛

 延宝元年
    ・五百石    藤田助之進

 同 弐年十一月
    ・弐千石    浅山清右衛門

 同 五年十二月
    ・千石     小池弥七

 同 六年三月
    ・五百石    山路新太郎

 同 六年七月
    ・七百石    平野貞右衛門

 同 六年九月
    ・六百五拾石  永良長兵衛  

 

御国追放被仰付候面々

 貞享三年正月
    ・五百石    大塚喜兵衛 

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真源院様御代御侍名附

2013-01-27 21:47:07 | 年表

真源院(光尚)時代承応年間の侍帳とされ、天草島原の乱後のもので、これらの褒賞により高禄取りの家士の数が急激に増加している。158人
一方三齋の側近であった10,000石の長岡(村上)河内その他の人の離国などのより、非常に出入りが激しいことが判る。

同じく光尚代の侍帳に「真源院様御代御侍免撫帳」があるが、これは高禄の方から順次並べられているが、この時期の500石以上の家士が177人は尤も多く、以降数は減っていくことになる。
 又「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」や。「御国追放被仰付候面々」「御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世倅被召出候面々」その他の資料によると多くの高禄の家士が、禄を召し上げられたり、其の為に離国したり、落席したり大変大きな動きが認められる。綱利代の陽明学徒の追放などもその因の一つである。

 人持衆併組迯衆
   30,000石  細川帯刀
   25,000石  細川刑部少輔
   30,000石  長岡(松井)佐渡守(興長)
   28,500石  有吉頼母佐
   10,000石
                 少輔(行はずれ、まま)

    5,000石          (氏名なし)
    6,000石  小笠原備前
    6,000石  志水伯耆
    5,000石  平野弥次右衛門
    3,000石  南条大善正

    3,000石  佐久間半丞
    3,000石  上月長(文)右衛門
    3,435石余 大木与平巳
    2,000石  早川弥五左衛門    承応弐年十月・御暇
    1,500石  長岡(三渕)道伯
    1,500石  松野右京
    1,000石  長岡与八郎(忠恒・・内膳家)
    1,000石  長岡半左衛門(忠春・・内膳家)
    2,000石  藪 市正

    1,000石  平野九郎右衛門
    3,000石  長岡(沼田)右馬助

    1,000石  丹羽亀丞         延宝六年九月・御知行召上、元禄三年御勘気被成御赦免
    1,500石  有吉内膳正
    2,000石  西郡要人佐
    1,000石  槇嶋半丞
     700石  筑紫左近
    3,000石  尾藤金左衛門
     800石  小笠原民部少
    2,000石  平山三郎左衛門     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1,000石  牧 平左衛門
    1,000石  下津清吉
    5,600石余 平野茂左衛門
    1,000石  沢村八良左衛門
    1,000石  尾池傳右衛門
    1,000石  尾池藤左衛門
     550石  津川次郎左衛門
    1,000石  松野采女

    1,000石  楯岡孫市郎
     500石  後藤与兵衛
     650石  竹内七郎右衛門
    1,500石  三宅藤右衛門
     500石  上田新兵衛
     500石  河方安右衛門
     800石  上月源介

     500石  沼田半之助

     506石余 平野三郎兵衛
     500石  沼田小兵衛
    1,000石  平野源太左衛門
    1,000石  長谷川仁左衛門

  御鉄炮頭衆
    3,008石  奥田権左衛門
    1,050石  寺尾九郎左衛門
    2,500石  伊丹半弥
    1,000石  芦村十郎左衛門
    2,000石  浅山修理亮
     500石  西川与助
    1,500石  長尾伊織
    1,000石  住江甚兵衛
     800石  佐分利加左衛門
     900石  山田新九郎
     600石  田中又助
     700石  木戸与五右衛門
     700石  野田安兵衛
    1,000石  中根平兵衛
     650石  河喜多九太夫

     500石  平野治部左衛門
    1,000石  谷 忠兵衛
     500石  奥田藤左衛門
     600石  早水助兵衛
    1,000石  小崎五郎左衛門

    1,200石  斉藤又太夫
     700石  横井牛右衛門
    1,300石  松野亀右衛門
    1,500石  出田作左衛門

  御弓頭衆
    1,000石  中路内蔵介
     500石  黒部孫丞

  御買物奉行衆
     600石  小笠原宮内少  
     500石  藤懸蔵人
     500石  金守外記
     500石  吉弘嘉兵衛
     500石  山尾又作
     500石  貴田角右衛門
    1,000石  坂崎金右衛門

  一番長岡右馬助組
     700石  佐藤安太夫
     500石  松崎伝介
  二番谷内蔵允組
       なし
  三番丹羽亀丞組
    1,000石  国友半右衛門
  四番有吉内膳正組
    1,000石  春木主税
     500石  山川平兵衛
    1,500石  奥田源左衛門
     500石  中村市郎右衛門
     500石  水野善左衛門
  五番西郡要人佐組
     800石  林才兵衛
     500石  赤埴八良左衛門
     500石  小笠原勘介
  六番槇嶋半丞組
    1,000石  嶋又左衛門
      500石  佐分利兵大夫
  七番筑紫左近組
    1,000石  小坂新八
     500石  濱田新蔵
     500石  井上勘左衛門
  八番藪図書組
     500石  大塚喜兵衛
    2,000石  藪 図書
  九番小笠原民部少輔組
     500石  松野善右衛門
     600石  長尾清右衛門
     500石  冨田藤松
  十番平山三郎左衛門組
    2,000石  藪 市正
     500石  湯浅三大夫
    1,000石  陳 吉大夫
  十一番氏家志摩守組
     600石  吉見内蔵助
    1,000石  志方半右衛門
     600石  吉住伝右衛門
     500石  上月十郎
  十二番牧平左衛門組
     なし
  
  御詰衆
    3,066石余 坂崎兵庫
     500石  山田三郎右衛門

    1,356石余 横山五郎大夫
     700石  堀 太兵衛

     600石  小笠原隼人正

    2,822石余 朝山斉助
     500石  金子十郎兵衛
     500石  仲光半助

     500石  山路新太郎

     800石  住江求馬助
     500石  佐藤八郎右衛門

     800石  藤崎作右衛門
     500石  遠坂関内

  御小児性衆
    1,000石  有吉市郎兵衛
     500石  高木吉右衛門

  御側物頭衆
    1,000石  柏原新右衛門
    1,000石  寺本久太郎
    1,000石  奥村安大夫

    1,000石  田辺平助
     500石  芦田与右衛門

  御使番衆
    1,000石  津田三十郎
     821石余 高見権右衛門
     500石  続 次大夫
     568石余 生田又介
    1,000石  乃美市郎兵衛
     800石  林 孫介
     600石  落合勘兵衛

     500石  服部武右衛門
     700石  上月八右衛門
     500石  丹羽源兵衛
     500石  山内八大夫
     500石  佐藤小右衛門
     800石  芳賀助右衛門
     500石  加来佐左衛門
     700石  三宅藤兵衛
     500石  兼坂藤右衛門
     500石  戸川貞右衛門
     500石  上条又十郎

  御医師衆御伽衆御茶道衆
     600石  片山自庵
     600石  明石玄碩

  御側組外衆
     500石  志水久馬
    1,000石  須佐美権之丞
     650石  永良長兵衛
    1,000石  大河原仁右衛門

     500石  阿部主殿助

  組外衆
    1,000石  松下市進

     800石  河喜多五郎左衛門

  八代与力衆
    1,500石  立石市兵衛
    1,500石  岩越惣右衛門

 

   計158人 

    

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史談会新年会

2013-01-27 16:07:35 | 徒然

 今日は講師の花岡先生もご出席いただいたのだが、お話を伺うのは一回だけ御休みして、新年会と称して御城のすぐ下のホテルでお昼をいただきながら二時間ばかりの楽しい団らんの会となった。
 熊本史談会も8年目に突入する。ここで勉強したことが随分身になったし、私が歴史狂いの下地ともなっている。考えてみると私がサイトを立ち上げてからの年月にほど近い。最近会員の皆様の出席が少なくなり、会をゟ発展させるための知恵が必要な時となった。今後皆さんのご意見などを頂戴しながら、歴史を積み重ねていかなければならないと感じている。

部屋の窓から大天守・小天守が目の前にそびえ、時折小雪がまいなかなかの景色となった。
かっては下津棒庵の屋敷があった由緒ある場所である。しばし目の保養もさせてもらった。
              http://www.kkr-hotel-kumamoto.com/

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於豊前小倉御侍帳

2013-01-26 20:55:47 | 史料

かって500石以上の禄を拝領している御家を 文化十三年御侍帳 から調べたことがある。これらの方々は、まさに当時のセレブだという事ができるが、それぞれの御宅の出自についてはよく承知していない。
三齋公は何方かを高禄で召し抱えるに就いては、「由緒」が必要だといっておられる。ならばその由緒を知りたいと思っているのだが、この500石以上の御宅と云うのは意外と出入りがある。侍帳から時代をおって眺めてみようと思っている 

於豊前小倉御侍帳                                       

   30,000石  細川中務大輔立孝                    
   25,000石  細川刑部興孝            

  御家老衆
   30,000石  長岡(松井)佐渡守興長     
    3,200石  長岡(三渕)右馬之助重政
   15,000石  有吉頼母英貴             
    6,500石  長岡(米田)監物是季
    5,000石  長岡(沼田)勘解由延元 

  頭衆
    5,000石  志水伯耆                
    1,000石  志水新之丞
    5,000石  小笠原備前               
    3,000石  氏家志摩高光
    3,000石  南条左衛門元信
    1,000石  松野半斉
    3,000石  澤村大学吉重
    2,155石余 道家帯刀
    2,500石  清田石見乗栄
    1,250石  津川四郎右衛門
    1,500石  谷 内蔵允
      700石  細川七左衛門
      500石  三渕藤十郎
      500石  黒田蔵人
    1,000石  牧 善太郎
      500石  横山藤右衛門
      500石  津川数馬
      500石  後藤又市郎
      500石  松野長蔵

  御鉄炮(弓)頭衆
   (鉄炮30挺頭)
    1,500石  寺尾左助
      500石  荒木助左衛門
      600石  国友半右衛門
    1,000石  井門亀右衛門
    1,000石  伊藤金左衛門
      800石  佐分利兵大夫
      700石  芦田与兵衛
      950石  田辺主水
    1,000石  竹内吉兵衛
      800石  佐分利作左衛門
      500石  山路太郎兵衛
      500石  牧 尉大夫
      700石  友田次郎兵衛
      550石  不破平大夫
      500石  寺本八左衛門
      500石  山川惣右衛門
    1,000石  小坂半之丞
   (鉄炮20挺頭)
      500石  松山源之丞
      800石  谷 忠兵衛
      650石  西沢久左衛門
      600石  坂崎半兵衛
   (弓20挺頭)
    1,000石  神西与三右衛
                                       
      500石  黒部吉兵衛

  物奉行

      600石  長谷部文左衛門
      500石  金森杢左衛門
      500石  一尾伊織
      500石  西川与助
      500石  藤懸蔵人

  馬廻組(一番組)
    3,000石  三渕内匠昭正
      700石  魚住嘉助
      500石  黒田次左衛門
  馬廻組(二番組)
    1,000石  筑紫大膳
    2,500石  谷 主膳
  馬廻組(三番組)
    1,000石  嶋 又左衛門
      800石  西郡刑部
  馬廻組(四番)
    2,000石  藪 図書
      700石  筑紫左近重門
      500石  小笠原左京
  馬廻組(五番組)
    1,000石  松野左京
    2,000石  藪 市正
      500石  吉田縫殿
  馬廻組(六番)
    1,500石  遠坂越後
      500石  志賀左門

  供之者(一番)
    1,300石  坂崎清左衛門
  供之者(二番)
    1,000石  加々山主馬可政
      600石  村井内蔵
  供之者(三番)
      571石余 道家左近右衛門
  供之者(四番)
    2,050石  松井宇右衛門
  供之者(五番)
    1,000石  平野九郎右衛門
  供之者(六番)
      なし

  側小姓
      500石  朝山 斉
      500石  明石源右衛門
      700石  坂崎内膳
  江戸江相詰衆
      800石  松野織部

  持筒頭
      500石  加々山権左衛門
  側鉄炮頭
      500石  横田権之助
      500石  湯浅角兵衛

医師并伽之者(17人)
      600石  山田竺印

  留守居組(62人)
    1,000石  浅山修理
    1,000石  田中兵庫

  留守居組 従是巳下(163人)
      600石  松山彦右衛門
      500石  岡村十兵衛

  三齋様御附中津ニ相詰候衆(137人)
   10,000石  長岡(村上)河内景則
    1,000石  中路宗悦
    1,000石  蜂屋隠岐
    1,000石  一色杢之助
    1,000石  小川四郎右衛門
    1,000石  槇島雲庵
    1,700石余 魚住傳右衛門
      700石   佐方与左衛門
      600石  長船十左衛門
      500石  福知平左衛門
      500石  熊谷権大夫
      500石  貴田権内
      500石  志方半兵衛
      500石  永良宗茂
      500石  山本宗覚(三郎左衛門)
      500石  高島兵助
      500石  神戸喜右衛門
      500石  清田五郎大夫 


   500石以上の士 104人 合計知行高 218,276石 

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赤穂義士切腹之図(二)

2013-01-26 09:07:13 | 史料

 切腹の場に臨んだ右田才助が描いたとされる「切腹之図」である。
説明によると「右田才助(御奉行所物書)ひそかにその場の全体を視、上検使より下卒徒の吏に至るまで排列(ママ)階級を混ぜず審らかに警衛諸士の多少を弁別し、およそ目に触れる所の者し悉くこれを暗記し、事終わるに及び憤慨の志を発し、直に真を写し・・・・・」とある。
先の「白金邸」の平面図と比べていただくと、役者之御間と書院との関係も確かなものであり、まさに間違いない配置である。上検使の位置を見ると書院のはずれ近くであり、これは切腹の場が能舞台があるためにその位置が制約されていることがわかる。

この絵図では内蔵助はすでに切腹を終わり戸板に乗せられて運び出されている(中央下)。切腹の場所には吉田忠左衛門がすでに控えている。正面には屏風が置かれているが、切腹の時には移動するのだろうか。なるほどと思わせる臨場感あふれる絵図となっている。もっと鮮明なものをみてみたいのだが、この絵図をもとにしたものが「赤穂義士纂書」(赤穂義士資料大成, 第 2 巻)に附図として載せられているらしい。熊本県立図書館はこれを所蔵していない。悲しい・・・・・・ 

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絶版勢揃い

2013-01-25 21:59:17 | オークション

細川ガラシャ 上下巻★小山寛二 装丁:棟方志功

細川ガラシャ 上下巻★小山寛二 装丁:棟方志功

 

絶版『戦国細川一族 細川忠興と長岡与五郎興秋』(細川幽斎)

絶版『戦国細川一族 細川忠興と長岡与五郎興秋』(細川幽斎)

 

細川藩史料による 天草・島原の乱  キリシタン 天草四郎_画像1

細川藩史料による 天草・島原の乱  キリシタン 天草四郎

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赤穂義士切腹之図(一)

2013-01-25 08:43:32 | 史料

             大石良雄 - Wikipedia    大石内蔵助義雄切腹之図  クリックすると大きくなります。

 ご存じ、細川家に預けられた赤穂義士の切腹之図である。右は赤星閑意が描いたものだが微妙に違う。その他にもいろいろ伝えられているが
  (参考図 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_01955/chi04_01955.pdf)ベースは同じものであろう。
吉良邸討ち入り以来細川家に留め置かれた17人が、2月4日細川家白銀邸において切腹することと成る。 

白い幕で囲まれた場所には今まさに切腹しようとする大石内蔵助と、介錯役の安場一平の姿がある。
左手の「大書院」入側の屏風に囲まれたところに、上使の荒木十右衛門(下)と久永内記(上)の姿がある。
縁側には幕府の関係者が列座し、庭には同じく幕府関係者と共に、細川家の関係者(上から)右田才助、留守居の勾坂平兵衛・堀内平内、小姓頭・平野九郎右衛門が居並んでいる。大石内蔵助の上部塀越しに見えるのが、新組之組脇の吉弘加右衛門、左手に五人の御番衆が列座、一番右手くぐり門の屋根越しに見えているのが、吉弘と同役の八木市大夫である。この二人は「御預人用聞挨拶」役を務めており、使番の堀内傳右衛門らとともに17名の人々と特に接していたものと思われる。右手上に順番を待つ16名の同志の姿が見える。文字の書き込みがあり「役者之御間」とあるが、実際はこのような間取りではない。実際には間に能舞台があり、相当デフォルメされて描かれている。

昨日ご紹介した白金邸の図面を見ていただくとこの絵図との相違がよく判るだろう。

下の図は「御預人記録」に附されているものである。
これによると幕府上使の上方に見える二人が、右手が坂崎忠左衛門、左手が三宅藤兵衛、その後ろ宮村團之進・鎌田権之允の名前が記されているが、上記絵図においては異同がある。 

                                                            

 これらの絵図はこの場に臨んだ右田才助が書き記したものがベースであるらしい。

2008年東洋大学の名誉教授・大野瑞男氏が、日本歴史(吉川弘文館)12月号で「大石内蔵助ら切腹の図の進出」として一文を懸れている中で、ご自身の所蔵になる右田才助自身の筆となる絵図を公開された。まさに真実はここにあるように思える。
絵図は次回にご紹介する。 

 

 

             

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大久保橙青という人

2013-01-24 09:45:05 | 俳句

 最近この人の句集「探海以後」をオークションで手に入れた。熊本人だが地元の人でもある程度年配の人でないとご存じないだろう。
海上保安庁長官を勤め、其の後衆院議員を七期つとめ田中角栄のもとでわずか28日間労働大臣をつとめた、大久保武雄氏の事である。
俳名を橙青といい、高浜虚子の弟子であった。 

 高浜虚子は昭和27年11月阿蘇を訪れている。

                     小国町南小国村芋水車
                     秋晴れの大観峰に今来り
                     小鳥の聲ポンプの音と明けそめぬ
                     散紅葉して暫くは何も無し
                     かけて見せ外しても見せ芋水車
                     わがために竜胆摘みくれぬ霧の中
                     竜胆を折り来て君に供えけり

虚子の弟子で、旅の半年ほど前に亡くなった熊本の俳人・宮部寸七翁の墓前に詣で、虚子は次の句を呈している。

                     君がため遠見ヶ鼻の竜胆を      (遠見ヶ鼻=大観望

その時虚子に同行していた橙青は、次の様な句を得ている。

                     手向けんと阿蘇竜胆を霧に摘む 
                     押花の竜胆色を失はず

私はある人の米寿の御祝いに出席した折に、橙青の句の複製の色紙をいただいた。
ご夫婦そろっての御祝い事であったがその句には次の様にある。

                     美しき男松女松のみどりかな

私のデスクの側に掛けている。手に入れた句集はまだ目を通す時間に恵まれなでいる。


 

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肥後銀行本店・起工式

2013-01-23 19:07:02 | 熊本

                       完成予想図①(辛島町交差点側)

                         今日肥後銀行本店の起工式が行われました。現在地の建物を完全撤去しての工事だそうです。
                         こちらが正面側、左手が日本銀行熊本支店、右手が路面電車の軌道を挟んで辛島公園側です。
                         産文会館などが取り壊され更地となり広場となるそうですから、この周辺は大変わりします。
                         再来年度の完工とか待ち遠しいですね。

                         肥後銀行サイトから  http://www.higobank.co.jp/home/news/12012402-image.html
                         熊本日日新聞     http://kumanichi.com/news/local/main/20130123005.shtml

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