「御国追放被仰付候面々」 に、「貞享三年正月・五百石 大塚喜兵衛」とある。
何故また?と思うとともに、後はどうなったのかと心配になる。
この貞享三年の事件は「江戸二御使者被仰付、於道中不慮之儀有之、其裁判不宜二而御暇被下候」というもので、御国追放となったものだが、大塚家はこの喜兵衛の事件後、養嗣子・半兵衛(実・佐野半兵衛)をもって初代とし、百石にて明治に至っている。
家祖ともいうべき同名・喜兵衛という人物は忠利公に殉死した人物である。
その召しだしの詳細が 寛永七年六月「日帳」に詳しいのでご紹介するが、このことが殉死につながっているのではないかと考えている。
寛永七年六月「日帳」より
6/8:田川郡木代村之甚右衛門尉子供走候而、筑前之内ニ居候つるか、木代村へ参、いとこノ久左衛門尉を、去ル六日ノ夜打果候而、いずくとも(なく)参由、郡奉行より申来候、仁躰ハ見届不申候へ共、定而、右ノ兄弟(喜兵衛、五郎、仁右衛門)参候而可仕と存由、いのひさ(猪膝)太郎左衛門尉申候由ノ書状ニ候也
6/9:河喜多五郎左衛門尉并猪膝太郎左衛門尉罷出候、木代村之久左衛門尉を打果申候ものハ、いとこの喜兵衛ニ相究候、昨日かの喜兵衛状を調、猪膝太郎左衛門尉ニ立置申候、文躰は久左衛門尉儀ハ親之かたきにて候ゆへ、夜前一刀うらミ申候、乍去、夜中之儀ニ候ニ而候故、果申たる儀ハ不存候、もはや本望ハとげ申候間、然上ハ、御間悪敷国へ参居申候も、公儀を憚さるにて御座候間、ニ三日中ニ其地へ罷越、如何様ニ成共、御意次第ニ可仕とかき候而、文をたて置申候由ニ而、右両人持参被仕候、御年寄衆へ被申候へと、申渡候事
6/22:
■木代村ノ喜兵衛、兄弟三人ともニ被成御赦免、一命扶被下候事
■右喜兵衛ニきられ申七(久)郎右衛門尉せかれ、四つニ成申ニ、喜兵衛親甚右衛門知行其まヽ被下候事
■木代村ノ喜兵衛ニ御知行三百石、弟両人ニ百石宛被為拝領候、左候而御前ニ被 召出、喜兵衛さかつきを 殿様被 召上、御帷子弐つ宛・御肩衣・袴弐下宛被為拝領候、左候而、忝 御意ともヽヽ御前之衆いつれもかんるいをなかし申候事
■右喜兵衛重而被 召出、御腰物壱腰被遣候、左候而、御感状被遣候事
その弟二家(五郎家)(源次郎家)もともに明治に至っている。
そして喜兵衛は殉死となるわけだが、「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には次のようにある。
●五百石 大塚喜兵衛
右之女房
喜兵衛嫡子歳九ツ 大塚半四郎
同人二男歳七ツ 大塚七郎
むすめ壱人歳十五
百五十石 喜兵衛弟・大塚七兵衛
百五十石 同人弟 ・大塚仁右衛門尉
「喜兵衛知行、家屋敷共ニ無相違せかれ半四郎ニ遣也 印」
■ 大塚 貞 (南東14-20)
甚右衛門
喜兵衛(嫡子) (1)側小姓・御扈従役歟 組無衆 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御側鉄炮頭并組外衆 三百石 乗物昇小者頭 (肥後御入国宿割帳)
寛永九年豊前召出三百石・入国後五百石
【細川忠利公殉死】大塚喜兵衛尉種次 寛永十八年四月二十六日 介錯・鎌田源太夫
半四郎 跡式 寛永十八年六月十七日嫡子半四郎(五歳)知行百五十石・家屋敷
十一歳ニ而病死
七郎(実・弟 喜兵衛) 半四郎弟七郎(当時九歳)跡目
(1)八番藪図書組 五百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
猪右衛門(養子 実・甥、中路勘太夫嫡子 喜兵衛・植甚右衛門)
沢村宇右衛門組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
五百石 貞享三年正月十九日・御国追放被仰付候(於江戸御追放) (※)
(江戸二御使者被仰付、於道中不慮之儀有之、其裁判不宜二而御暇被下候)
1、半兵衛(養子 実・佐野半兵衛)
2、八平(甚右衛門・藤右衛門) 御番方・続繁弥組 高百石之御擬作
3、七郎右衛門 御穿鑿所御目付御者頭列 百石
細川斎護公御書出(弘化四年)
4、貞之允(貞)