津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■花押の風格

2018-11-01 09:53:11 | 花押

 サイト「首相官邸」を除いてみると、代々の首相の花押が紹介されている。
それぞれ個性があって興味深い。細川護熙様の花押はどういう意図でこのような形になったのだろうか。
いろいろ推理してみるが、とんと分らない。
安倍晋三氏の花押は一次内閣時代と二次内閣以降では相違しているが、心機一転を期しての変更ではないか?
現代においてこれらの政治家を含め花押をお使いになる方を時々見受ける。時を経てまだ生息しているようだが権威の象徴の残骸か?

細川家の家臣の皆様の花押はこの時代は必需品、眺めているとこちらも色々個性的でどういう筆順で書くのか首をかしげるようなものもあれば、「一」とか「五」とか「メ」とか単純明快なものもある。

          
  1    2     3    4     5     6    7     8    9    10

          

 11  12  13     14    15    16     17   18     19   20    21

       1 文久三年 佐分利又兵衛
     2 天保七年 岩崎武兵衛
     3 弘化四年 岩崎物部
     4 文政四年 林 平格
     5 安政五年 嵯峨熊十郎
     6 天保七年 嵯峨次八郎
     7 弘化五年 津田平助
     8 元治二年 横山助之進
              9   安永五年 服部武左衛門
     10 文政十年 加賀山隼之允
     11 文政八年 三宅藤兵衛
     12 文久三年 源野佐十郎 
     13 文政十年 堀尾彦左衛門
     14 慶應三年 神谷矢柄
     15 文久二年 芦田七左衛門
     16 文久三年 木下嘉納
     17 弘化五年 鎌田平七
     18 弘化四年 山戸七左衛門
     19 天保三年 氏家甚左衛門
     20 文政六年 沢村才七郎
     21 文政八年 陳 半太左衛門

 貴方のお宅に御先祖様の花押が残されていましたら、是非共お教えください。

コメント

■花押四氏

2016-12-21 09:05:12 | 花押

          

 


       ■藤崎作右衛門(初 喜八郎) 藤崎作右衛門家2代  
        
原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
              (1)御詰衆 八百石 (真源院様御代御侍名附)
              (2)有吉内膳組 八百石 (寛文四年六月・御侍帳)
              (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)

       ■松野又右衛門(善右衛門)大友宗麟を祖とする松野織部流松野一葉家5代  
               下馬久馬組御番方二番組 五百石
 

       ■宮村益太(平馬)   宮村典太家(2,000~1,200石)6代

       ■宇野忠左衛門 300石宇野一之助家5代

コメント

■宇土軍記 肥後・下 (廿八)1

2016-04-14 11:40:28 | 花押

      廿八、三宅喜蔵と南条元宅勝負の沙汰説々の事
              付 福田九郎大夫走廻の事、飯田角兵衛鑓を入るヽ事、関九左衛門走廻の事、
           於搦手旗本の若侍走廻の事、三宅伝記の事、南条伝記之事

一、九月廿清正西岳え着陳の日、寄手三宅喜蔵 後号国左衛門 と城方南
   条元宅と出合鑓を合たると云説有り、或は組合たりと云説も有
   之、又初鑓を合其後組たりと云説も有之、又大手黒門口にての
   事と云説も有之、又搦手馬場口にての事と云説も有之、右の説々
   後人の取沙汰故不分明、何れも難捨置候ニ付一々此次に記之置
   申候、是ハ目録の心にて候間引合候て一覧可有之、弥追々可考
   事也
一、清正記亦続撰清正記に云、寄手の内大手石瀬口より寄たる一番
   備の頭加藤百助、大手塩田黒門口へ押寄ける折節、城方南条元
   宅家来福田九郎大夫と云者を壱人召連、塩田口前出シ 前出とハ大手黒門前ゟ
    三宮山山下迄の惣名也 に出見物仕居たるに、寄手三宅喜蔵是を見て只壱人進
   ミ出、一ノ鑓可仕と言葉を掛大身の鑓を持来り暫迫合しが、喜
   蔵、元宅が口の外レ左りの頬耳の際まで突外しけるを、元宅、
   喜蔵か鑓の柄に取付引合ける所に、福田刀を以喜蔵を切らんと
   せしかば、喜蔵勝負難叶思ひ鑓を捨て 有説に云、於戦場為武士者兵具を捨て 引退事いかヽ、此批判無
    之ヤ、後ノ勝負の時鑓を取返したると見へたり 引返所に、跡より寄手飯田角兵衛義、家来
   関九左衛門と云者を壱人召連 関義、後忠利公之御奉公申上子孫今に在之 進ミ来るを見
   て、喜蔵これに刀を得取て返しける所に、元宅是を見て少も不
   引退、主従弐人にて能こたへて待請たり、国兵衛主従弐人・喜
   蔵、都合三人にて又迫合有之、此時は国兵衛間先に進ミ鑓を入
   たるに付、南条を無難城中え突退たりと云々、右の趣は角兵衛
   直の物語を以為記のよし、右は寄手の先手を以城の大手へ取寄
   たる時の趣也
   右ノ勝負至両度暫間為在之義、日中と申眼前の事にて両味方跡
   に続申候処、互助候て不出来不審、併古ハ加様の一騎合の勝
   負には、残る味方は何れも跡に扣へ見物して居たる事多義のよ
   し申伝候、
一、又云、所にての云伝には三宅ハ栗崎の方より縄手を馬に乗来、また
   馬場口の縄手にて下立、南条と出合たると云々
一、此次に元宅か若党此節壱人討死と有之候ヘハ、元宅ハ上下三人
   か其外数多召連出申候歟、此段不分明候なり
一、又云、敵味方共に於同日同敵同所に両度の働、古より珍敷義共
   也、城大剛強英雄の武士是也 又鑓を入り合て、これに心違たる也
一、又云、熊本勢俄に寄来ニ付、元宅塩田口の門外へ走出、籠城の
   士卒の妻子共を急に城内へ取入させ申時節に、元宅と喜蔵出合
   たるとも申伝候也、其時右に有之飯田か家来関九左衛門刀にて
   南条か内甲を切ル、頬に当と也、清正これを聞給い甚感悦之也
一、又云、元宅を初に喜蔵か鑓付たる共有之、又後関か刀にて切付
   たるとも有之、疵所ハ両説共に同所也、至両度引所に手負たる
   にてハ有之間敷、何等を証とすへきか、
一、又云、有時塩田口馬場村搦手の門へ旗本組の若手の諸士押寄申
   候内に、庄林与力に井村彦右衛門・佐分利作右衛門 後改作左衛門 其外 
   三宅喜蔵・飯田国(角)兵衛并家来関九左衛門等門外に扣たる、然処
   に城内より歩行士弐人出て井村と暫太刀打せしか、何とかした
   りけん、塩田縄手の深田に井村落入たり、此時二人敵競ひ懸り
   て切付たり、井村数所手を負なから相働て(くとカ)いゑとも、深田の中
   にての事故働事不自由にて危かりける所に、佐分利勘左衛門跡
   より是を見付て馳来り、彼敵壱人を刀にて切倒し候所に、飯田
   家来の関九左衛門へ首を取せたり ヶ様の時不案内成武士ハ大集首抔迚論不事有之可取事の場
    中の高名と是を可申候、扨勘左衛門ハ残一人の敵を追ちらし井村を沼田より
   引揚助たり、其時勘左衛門か又作右衛門其廻に出て有りけるか、
   件の働を見て傍輩共に向申様ハ、唯今井村を助ハ我等か此倅勘
   左衛門とハ、各以後の証拠に見届給候へと詞をつかい申由、右
   働に付従清正井村え感状を給ハるとなり、佐分利父子共に其節
   ハ未タ無足にて罷在候処、従宇土開陳の後父子共に知行七百石
   宛に感状を相添給りたる由、此両人其以後豊前小倉へ参三齋公
   え御奉公申上候由也
   無足というに二足あり、切米取の奉公人を無足と云家中を在之、
   四国松平土佐守殿家中なと如是、又熊本御家中有馬の時、御家
   中の子供御目見へハ仕、未不被召出、何をも不取侍を無足の中
   にに(小歟)姓とて一組御仕立被成候、本文に無足と有之ハ家中の子供
   の類
一、右の時元宅城内より門を開突出寄手を退散す、此時喜蔵脇より
   元宅を目にかけ進ミ出勝負を仕たるとも申候、右は旗本の勢を
   以搦手者取寄たる時に働の趣なり 

コメント

■閑話休題・・小西行長時代の宇土

2016-04-11 07:37:53 | 花押

 

 

     

コメント

■宇土軍記 肥後・上 (ニ)(三)

2016-04-04 06:59:38 | 花押

    二、太閤秀吉公九州へ御進発之事 付 宇土ノ城主之事 佐々陸奥守切腹之事

一、薩摩の国主嶋津修理太夫義久ハ対秀吉公逆心ニ付、為御退治秀吉公は天正十五丁亥年二月朔日京都御出馬ニて九州へ御下向と
   云々、有説ニて其比嶋津家の領地は薩摩・大隅・日向・肥後四国の由、扠嶋津と大友と豊後の国を争ひ合戦止時無之、是皆国
   争ひせし故、秀吉公御下知を被相加しても此儀不相止、依之御進発、嶋津家ハ降参、大友ハ不覚悟故中国筋へ御改 易ニ付牢々
   と也
   又云、右嶋津義久入道龍伯は幽斎公歌道の御門弟、殊に古今御伝授故別て御入魂の由也
   右大友ハ義鎮入道宗麟事也
一、嶋津降参ニ付薩摩・大隅・日向・肥後の領地は被下、残ル分ハ被召放候て其々(ママ)に御仕置被仰付御開陳の由也
一、同年四月日、佐々陸奥守成政肥後国拝領ニて熊本ニ在城、依之宇土の城従清正陸奥守へ被相渡候、併陸奥守仕置悪敷いまニ一
   ケ月も不在に一揆蜂起申、此旨を達秀吉公の上聞ニ甚御機嫌不宜候所ニ、上意も無之ニ為御断推て罷登り申す、摂州尼ケ崎に
   着舟の旨先達て達上聞の所に、上意ニハ仕置悪敷上押て上洛の段不届ニ被思召候由ニて、同年五月十四日為検使清正を尼ケ崎
   へ被指遣、肥後国は召上、陸奥守切腹被仰付候也
   有説ニ云、天正十五丁亥年六月六日ニ肥後国を佐々え賜候と云々、是を考ふるに同年五月十四日佐々切腹と云也、閏五月十五日に
   佐々跡を加藤・小西に被下候と云々、此等を考候ヘハ六月六日ニ肥後国を佐々ニ被下候と有之ハ相違虚説と見えたり、併為心
   得記置候
   佐々ニハ信長公御代丿節ハ内藏之助と云、切腹の時は七十余と云々
   秀吉公御下向の節肥後国中の城不残明退申候ニ付一戦ハ無之、国士共ヘハ本知を被下置案(安)堵仕罷在候、其已後佐々を肥後の国
   主ニ被仰付候、先知の高は不相知候へ共、立身ニ付家来共を取立て領地遣度候へ共、戦無之ニ付明知無之故、兎角の事を寄
   せ国侍共丿領地を召放家来共に遣
候由、依之恨そなし、国侍五十壱人敵戦申国乱レ申候、此旨達上聞佐々へ為御加勢諸大名衆
   四、五頭被仰付候、忠興公も其御内ニて候処、御軍の御用意有之候処に一揆も鎮り申候ニ付相止申候由也、其後頭取の者共ニ
   は切腹被仰付候由也

    三、加藤主計頭清正・小西摂津守行長肥後国拝領之事

一、秀吉公一度朝鮮国へ御出陣被成度御心願有之候よし、其節は加藤秀吉公と清正譜弟・小西を御先手ニ可仰付候の思召ニ付、同年壬五月十
   五日清正・行長両人へ佐々跡肥後被下城主ニ仰付候也
    
    弐十五万石ハ    熊本城主加藤主計頭
    弐十四万石ハ    宇土城主小西摂津守
    五万石ハ         御蔵入右両人へ御預ヶ候
     内 弐万五千石ハ  主計頭分
         弐万五千石ハ  摂津守分

    合五十四万石なり 

コメント

■なんでも鑑定団「細川忠興宛 伊達政宗書状」

2016-04-03 13:02:22 | 花押

              熊本では4月3日に放映された「なんでも鑑定団」、伊達政宗が細川忠興にあてた書状、鶺鴒の花押がすばらしい。

                     明朝藤泉へ御出候哉拙者も
                     可参候御供可仕候御暇之由
                     何比御下向候哉萬々明日
                     可得御意候恐惶謹言
                       正月廿八日  政宗(花押)


                               松陸奥守
                     細越中守様人々御中

コメント (2)

■解析:木簡・くずし字解読システム

2016-03-27 18:51:14 | 花押

 奈良文化財研究所と 東京大学史料編纂所の共同開発で、 解析:木簡・くずし字解読システムの運用が25日から(?)始まった。
一字分の文字画像をドラッグすると、たちまち解析してくれるという優れものだ。
少々意地悪だとは思ったが、の文字をドラッグしてみた。これは熊本独特の文字で、やはり反応してくれない。(御免なさい)
しかしこのシステムは大変有難い。今後多いに御世話に成る事と思う。
皆様も多いに活用下さい。

                    崩し字の解読システムの仕組み(朝日新聞デジタル)

 


 

コメント

■県知事選挙

2016-03-27 11:08:04 | 花押

 熊本は今日は県知事選挙、現知事・元熊本市長・新人の三巴である。歩いて五分ばかりの所にある小学校が投票所、朝食後出かけて投票をすます。
あまり出足が良くなさそう、現職有利の報道が成されており、報道のあり様も如何かと感じる。

小学校の南側の道路添いには桜の木が植えられており、足をのばしてまだ三分咲きほどの花を鑑賞・・・・
二三日少し気温がさがり、花の命も永らえそうで結構なことではある。

コメント

■四つの「三宅家系図」

2016-03-25 12:40:37 | 花押

「明智一族・三宅家の史料」から引用させていただいた、細川家家臣三宅家の四つの系図である。同じお宅に内容の異なる系図が四つも有るという事に驚かされるが、この事はまさに明智一族の出自の不確実さを物語っているといえる。
左馬助の存在については、将軍家光の病気の平癒の使者を三宅重元が勤めた折、榊原飛騨守に対し細川光尚が書状で「重元が左馬助の孫である」と書き記していることを以て証明されるとして居られる。

             此度差下申候使者
             先年天草ほんど
             ニ而討死仕候三宅藤兵衛
             子ニ而御座候 寺沢手ニ而夜
             うちの時も 此者手ニあい
             申候 明知日向守ためニひ孫子
             明知左馬介孫子ニ而御座候
             ゆへ 我々とものがれさる
             者ニ而御座候 不調法ニ
             五座候へとも つらを御
             ミしり候て可被下候 以上
                    肥後守
              ひた様 

これらの系図の異同について、ある時期訂正方を藩庁に申し入れをしたがそれが認められず「四つ」の系図の存在に至っているという。
今となっては如何ともし難いことであるが、いずれにしても「四つ」が並存していたことも事実で誠に不思議な事ではある。
 

コメント

■お問い合わせにより・・

2016-03-17 17:53:18 | 花押
東大史料編纂所データベース検索に付いてお問い合わせが有りましたが、次の要領でお願い致します。
全部で3,367頁有り、スクロールが出来ませんからなかなか大変な作業に成りますが、お楽しみ下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
東大史料編纂所データベース検索 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
  左上の「資料所在」の欄の一番上「所蔵史料目録データベース」をクリック
                   ↓
所蔵史料目録データベース 
  キーワードに「細川家記続編」と打ち込んで「検索」をクリック
                   ↓
目的の「ソート」に到着。表示種別で「全表示」をクリック
                   ↓
「冊データ」で見たい冊の「イメージ」クリック、これで目的の「細川家記続編」を見る事ができます。
 
コメント

■体調不良につき・・・

2016-03-12 17:02:04 | 花押

 風邪の具合がまだ宜しくない。昨晩も10時間睡眠したが、体がしゃっきりしない。
どうしても済まさなければ成らない用事があって4時間ほど外出、帰宅と同時に昼寝1時間・・・・・
明日当たりにはしゃっきりして、史談会の資料作りを本格化させねばならない。

今日はこの程度で失礼いたします。

コメント

■江戸の平和力―戦争をしなかった江戸の250年

2016-03-10 09:07:02 | 花押
 江戸の平和力―戦争をしなかった江戸の250年
           高橋 敏
           敬文舎

 

 紀伊国屋書店の書籍検索で、和本→人文→日本歴史でうろうろしていたら、高橋敏先生のこの御著を発見した。
ひょんなことからご厚誼をいただいている先生は国立歴史民俗博物館名誉教授、これは早々に読まなければならないと気がせいている。

内容紹介
   江戸の250年には、平和を創造していく時代の意志が力となってはたらいていた! 

  • ◉序章 乱世の記憶と平和への願い
    ◉第1章 田畑を所有し家を建て先祖を祀る
    ◉第2章 一人前と読み書き算用—後継者の育成
    ◉第3章 拝領と献上—贈答・互酬の社会
    ◉第4章 紛争とその収拾
    ◉第5章 支配秩序とアウトロー
    ◉第6章 結社とネットワーク社会の江戸
    ◉第7章 旅する人びと
    ◉終章 辞世を刻む


 

コメント (1)

■古い新聞の切抜きから「足利家の末裔を抱えた細川家」

2016-03-06 17:45:51 | 花押

                平成8年9月24日の熊本日日新聞に掲載された記事である。

■ 西山大衛  (南東8-1) 
    
 足利十三代将軍義輝 
     尾池玄蕃(足利道鑑)又(小池茂左衛門・入道道閑)
            女:桜井兼友・正室 水無瀬兼豊養女(足利義辰・女)
            女:小笠原長之・後室
     西山左京・至之(尾池伝左圧衛門)
            
後・息勘十郎とともに「御家御断申、京ニ被相越候由」(綿考輯録・巻五十二)
                   
細川忠利公御書出(寛永十五年)千石
                   
細川光貞公御書出(寛永十八年)千石
     西山勘十郎       
細川忠利公御書出(寛永十五年)五百石
                   
細川光貞公御書出(寛永十八年)五百石
    1、八郎兵衛(弟 山三郎氏房)             

    2、九郎兵衛・道可(養子 実・小笠原備前長之二男 初・八郎兵衛・氏清)               

    3、多膳・氏政

    4、大衛・氏章 

    5、多膳 (養子 実・田中左兵衛二男) 

    6、剤(多膳)       

    7、九郎兵衛(大衛) 

    8、直次郎(実・弟 八郎兵衛)         

    9、直太郎(実・九郎兵衛子 大衛)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

        西山道鑑消息
          1、寛永十五年十一月廿二日 忠利君御書
              信長様御所持之御甲鑓御見せ被成り、・・・・・・・・
                                         (綿考輯録・巻五十)
          1、寛永十七年十月二十三日・奉書
              道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至まて念を入
              御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上
                    十月廿三日                          朝山斎助在判
                          御奉行中
          1、寛永十八年正月二日
              道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、
              新免武蔵(剣術者也)、源次郎(不詳)、春田又左衛門(具足師)なとハ
              奥書院ニて御祝被成候而・・・・・・       (綿考輯録・巻五十二)
          1、寛永十八年十二月廿一日 足利道鑑老より鑑物江之状
                   爰元奉行衆より幸便頼入令啓上候
            一、長岡勘解由殿、昨日廿一日致熊本御着候、其表太守様御機嫌能、御息災被成御座、
              其上御前之御仕合残所無御座旨御書ニ蒙仰、何より以万々目出度奉存候、就夫貴殿
              様・頼母殿・右馬助殿今度御目見え被成候処、結構成御上意被仰出之由承り、先書ニ
              も悦入、以書状申上候、弥勘解由殿御相談承、右ニも申上ル通、日本六拾余州ニ其陰
              御座候有間敷と存御事ニ候、重々御吉左右奉待存候
            一、従光貞様御念比之御書被成下、其上左京亮かた之御書ニも別而被加御念、比愚老息
              災罷存候哉と蒙仰、扨も々々難有奉存候、一段と無事ニ罷成候条、御次而之折節可然
              様御取成万々奉頼外無他存候
            一、去月廿六日・当月二日両度之貴札慥ニ相届、面上同前ニ存、くり返くり返拝見忝存候、
              就其大僧正様・双厳院・金蔵院之様子被仰下忝存候、弥大僧正様御息災被成御座候哉、
              急便ニ承度奉存候
            一、せがれ藤左衛門身上之儀、今度於伏見従太守様別而被加御懇、其上御知行并当物成
              残所無御座様ニ被仰出候処、弥貴殿様御取成故外聞実儀忝次第御礼難申尽存候、就
              夫女子共召連今日十七日ニ致熊本着仕候、宿之儀奉行衆并備前守殿御相談ニ而刑部
              殿御屋敷長屋を御借候而かしニ付而手前より作事仕有付候、御心安可被思召候、愚老
              忝様子書中ニ不述申候、御次而も御座候ハゝ可然様ニ御取成万々奉頼存候
            一、拙者娘祝言之儀、備前殿と相談仕、年内は余日無御座候付而、来春迄相延申候、将又
              先可申上ニ御宿上下共ニ御無事ニ御座候条、御心安可被思召候、猶追々可得御意候
              恐惶謹言
                                                足利道鑑法印
                                                      義辰 
                  十二月廿一日
                        長岡監物様
                             人々御中
                                           (綿考輯録・巻五十九)
        西山右京消息
          1、寛永十五年二月二十三日
              島原乱の状況報告書状 長岡監物宛     (綿考輯録・巻四十六)
        尾池伝右衛門(西山左京)
              千石  (真源院様御代御侍名附)
              千石  (慶安三年・真源院様御代御侍免憮帳)(寛文四年・御侍帳)
          1、寛永十九年三月二日、監物より小笠原備前ニ遣候状(抜粋)
              尾池伝右衛門儀、如被仰越諸人ほめ申由承候、迚之事ニ御家ニ取こミ申度事ニ而候、
              ニ三日已前ニ拙宅江御尋ニ而候キ、貴様よりも被仰越候、我等左様ニ存候条、道鑑様
              も御座候間、当家へ御座候様ニと存候由、され事ましりニ申て口ふりを承候所ニ、御一
              門大勢被召抱候上、又候哉、御家江参候事ハいかゝ候ハん哉と被仰候間、又おしかへ
              し申て見申候へ共、伝右衛門殿御口ふり堅ク相聞え申候、又二三日中ニちと用所候而
              懸御目候条、幾度も申候而何とそ引入申度心中ニ御座候事
                                           (綿考輯録・巻五十九)
        尾池藤左衛門(左京・弟)
              千石  (         同上   )
              千石  (         同上           )
              寛文元年八月六日・御暇 壱千石 (
)・・小池藤左衛門
          1、細川文書・御判之物
              尾池藤左衛門尉殿へ米二百俵、但蔵俵也、并塩五俵・薪三拾駄・炭三十俵可相渡者也
                 寛永拾八年九月十一日    光尚ローマ字印
                                 奉行中

コメント (1)

■文学座・脚本二件

2016-02-11 15:16:46 | 花押

150.劇団文学座「がらしあ細川夫人」 杉村春子 昭34年 

    150.劇団文学座「がらしあ細川夫人」 杉村春子 昭34年 


                              149.劇団文学座「明智光秀」 昭32年 福田恒存 先代松本幸四郎  149.劇団文学座「明智光秀」 昭32年 福田恒存 先代松本幸四郎 

コメント (2)

■お安く読む・洋泉社歴史新書「天草四郎の正体」

2016-02-06 09:35:16 | 花押

以前著者の吉村先生の講演をお聞きした時、「現在天草四郎の事を書いている」と仰っていた。まだだろうかとずっと思っていたら、何と2015年4月24日初版で発行されていた。講演はいつのことであったか、何の講演だっらのか思い出せないでいる。なんともお粗末な話、どうぞご一読を・・・・・ 

  天草四郎の正体 (歴史新書y)
  熊本大学名誉教授・吉村豊雄
        洋泉社

 

内容(「BOOK」データベースより)
幕末以前の江戸時代最後の内乱であり、日本史上もっとも大規模な農民反乱である「島原・天草の乱」の盟主・総大将とされる天草四郎。美少年として誰もが知る日本史上の有名人物。じつはその実像は明らかではなく、最期さえわかっていない。本書はさまざまな史料を駆使して解明した「天草四郎は一人ではなく、複数の少年の総称であった」という衝撃の真実に迫るものである。

 

コメント