津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

おひまなら・・・・

2005-08-30 18:38:04 | 徒然
 1、血統研究所<勝利の方程式>
 1、血統研究所<第二章>  それぞれアドレスは省略

 細川護煕氏にもガラシャ夫人の血が流れていた。
 しかし熱い人たちが多いね・・・・・。

 
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安土往還記

2005-08-27 07:21:07 | 書籍・読書
 のちに「嵯峨野名月記」を著す辻邦生の初期の作品である。手許にあるセピア色に変色した文庫本(新潮文庫)は、初刷を昭和47年4月と記している。第4刷を購入しているのだが昭和50年頃の事だろう。信長を主人公とし、宣教師を送り届ける為に渡来したジェノバ生まれの船乗りを語り手としたこの著作は、視点が変わるとこんなにも斬新な作品になることを教えてくれた。

 立花京子の信長も又、かっての研究者や小説家とは違う視点で捕らえられていて、なるほどと頷いている自分に気付き、良い著作に巡り合った幸せを感じている。
そして「安土往還記」を、ひさしぶりに書棚から引っ張り出させてくれた。
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信長関係著作二点

2005-08-25 09:42:34 | 書籍・読書
 1、「本能寺と信長」藤井学著 思文閣出版
   茶道肥後古流の遠祖、円乗坊宗圓についてのかなりの記述があり興味深い。
 1、「信長と十字架」立花京子著 集英社新書
   信長研究のパラダイムを一変させたといわれる立花氏の力作。

   久々に良い著作に巡り合った感じ。

 
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改訂

2005-08-24 23:21:29 | 徒然
 早いものでサイトを立ち上げから二年経った。いろんな情報を加えながら侍帳の充実に努めてきたが、その度にいろんな間違いを発見して冷汗ものだった。大事に保管してきた2000ページ以上にのぼる原稿を思い切って処分、直接画面を見ながら諸々の資料との整合を計る作業に入った。毎日夜の二時間ばかりを掛けて一ト月ほどで改訂し様と考えている。資料間での食い違いも多々見受けられるし、そのあたりをどう処理するのかも頭が痛いが、ありのままを見ていただくのが一番だと思い、その旨の注釈も追記し様と思う。いろいろのお宅から貴重な資料を頂戴した。お許しを戴いたものについては公開していきたい。
新しい発見に遭遇しながら六十爺はわくわくしている。
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平面図

2005-08-11 22:21:34 | 徒然
 サイト「久野氏ミニ情報」を通じて情報を得て、肥後藩士「久野家屋敷之圖」を是非みてみたくなって、久野様に図々しくメールを差し上げた。快くご承諾いただき、早速スキャンしていただいたものが送られてきた。二百石の侍の住まいがスケール感もしっかりした平面図と成っている。当時の侍の生活ぶりを窺い知ることの出来る貴重な史料である。東隣は山本氏、西隣は岐部氏の屋敷との記載も見える。山本氏との境界を跨ぐ格好に井桁の書き込みがある。井戸であろうと思われるが、共同で使っていたのだろうか。
近くに8帖程の台所があり、その横には1坪弱の湯殿がある。
9尺2間の馬小屋が少し離れて建っている。何人のご家族だったのだろうか。
いろいろ想像をたくましくしていると、藤沢周平の世界に紛れ込んだような感じがする。

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謡曲「桧垣」

2005-08-07 17:31:43 | 徒然
 コピーを整理していたら、謡曲「桧垣」の写しが出てきた。この桧垣・・・
以前読んだ坂口安吾の文庫本「堕落論」の「日本文化私観」の中で、安吾は「世界一流の文学」と称え、同じく「青春論」の中でその荒筋を解説している。
敬愛してやまない安吾が「世界一」と言うのだから読んでみようと思い、図書館でコピーをしたものなのだが・・・・よく理解できないまま埋もれていた。

 かっては美しかった舞姫が老いて零落した末路を素材とした、世阿弥の作である。後撰集にあるという桧垣の歌
    「年経ればわが黒髪も白川の みつはぐむまで老いにけるかな」

 忠興は肥後入国にあたり、かっての加藤忠広の居間の庭先に、桧垣の塔があることを承知しており、「気違一つのうちたるべし」として、津川四郎右衛門にその善処を依頼している。そしてその塔はかっての場所蓮台寺に還された。
コピーもまた、埋もれてしまわないよう整理しておかなければならない。
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国立教育研究所紀要

2005-08-07 09:51:03 | 徒然
なんの気なしに祖父の名前を打ち込んだら、稲葉継雄先生の論文の中に出て
きた。私が二歳の時祖父母・父が亡くなり、近年伯母達も亡くなり祖父の生き様
を知る術を無くしてしまっていた処での事で、すっかり嬉しくなった。
お願いをして手許に取り寄せることが出来た。明治22年(1889)平壌に渡って設
立された日本語学校の校長などを務め、日露戦争では義勇軍を率いて赴いたり
している。稲葉先生は祖父を「国士で・・・膨張主義者」としておられる。
その仕事は明治44年までは確認されている。
「国士」とは驚いてしまったし、「膨張主義者」とのご指摘にも愕然としてしまった。
その後最晩年は細川侯爵家の家扶を勤めたが、昭和19年に亡くなるまでの空白
を埋める手立ては無い。
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