津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御礼

2012-12-31 11:51:03 | 徒然

                       袖濡れて硯洗へり大三十日  秋櫻子  

                                            

               本年も皆勤とは参りませんでしたが、なんとか一年を乗り越えることができました。
                    ひとえに皆様の御支援ご鞭撻の賜物と肝に銘じております。
         私は硯洗ならぬ、いつも入れっぱなしのPCの電源を落として、ささやかに一休みさせ来年に備えたいと思います。
                              有難うございました。

                                津々堂敬白

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樋口一葉「大つごもり」

2012-12-30 14:38:12 | 書籍・読書

大つごもり・十三夜 (岩波文庫 緑 25-2) 

樋口一葉に「大つごもり」という短編がある。舞台が細川家の下屋敷があった白金台町とあって、なんだか身近に覚えて何度も読んだものである。
久保田万太郎の俳句に親しむようになってから、彼が新派の舞台の演出に関わったことを知った。
この作品は、劇団新派に於いては「花柳十種」と呼ばれる演目の一つとなっている。
映画にもなっているようだが、映画にしろ舞台にしろこの短編小説がどう脚色されたのか大変興味深く持っている。
脚本が手に入らないかと思ったりしている。ことの善悪はともあれ、大好きな作品である。
あすはその「おおつごもり(大晦日)」、改めてゆっくり読んでみようと思っている・・・・・・・・・・・・
 

            青空文庫から「おおつごもり」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/388_15295.html 

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後水尾院初期歌壇の歌人の研究

2012-12-29 11:11:09 | 書籍・読書
        後水尾院初期歌壇の歌人の研究
               高梨素子
               おうふう

荒木村重のご子孫で自ら村重の研究に携わっておられる、荒木幹雄様からご紹介いただいた本である。
当然のことながら村重研究の一環として購入されたものと思われるが、氏の研究とこの著作の関係が奈辺にあるのかうかがい知れないでいる。

10ページほどをスキャンしてメールをいただいたのだが、幽齋の田邊城籠城に関わる記述が見受けられる。
綿考輯録によると田邊城への和議の使者は、三条大納言實条・中院中納言通勝・烏丸中将光廣だとされてきた。
処がこの本によると、日野輝資・中院素然・富小路秀直だとし、これを裏付ける冷泉少将為親宛の三人からの書状が写真で紹介されている。
そしてこの説を補強するいくつかの資料の存在も紹介されており、信ぴょう性の高いことが伺える。

熊本県立図書館に所蔵されているかどうかを調べたら、これがない。これが地方の図書館の現実であり、残念の極みである。

荒木様に御礼を申し上げる次第である。
 

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異風者伝 近代熊本の人物群像(井上智重著、熊本日日新聞社・2500円)

2012-12-28 14:25:38 | 書籍・読書

 朝日新聞の「書評」欄に、作家・出久根達郎氏が推薦する三冊が次のように紹介されている。
いかにも氏らしい選択だと思うが、我が郷土の本をお選びいただいたのは著者との御縁もまたあったのかもしれない。
著者井上智重氏は現在熊本近代文学館の館長である。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出久根達郎 書評委員お薦め「今年の3点」

 [掲載]2012年12月23日 

    
 本はまず面白くなくてはならぬ。ジャンルを問わぬ。その基準で三冊選んだ。
 (1)こんなにも知的で清新で、かつ情感あふれる日本語で訳された艶笑譚(えんしょうたん)は、近年稀(まれ)。ユーモアとペーソス、
   洒落(しゃれ)た暗喩、程よい皮肉の味は、井伏鱒二を思わせる。そういえば井伏の愛読書の一冊が、これだった。
 (2)熊本の方言で、いひゅうもん、といい、変わり者のことである。江戸期から現代まで実在した熊本人の、風変わりで愛敬者の伝記。
   本人に限らず子や孫に至るまでつづり、おのずと日本近代史を語っている。
 (3)自分を語らず、写真も拒否、どんな顔の漫画家か不明。本書で初めて素顔を見せた。いや本人による架空インタビューだが、本
   音を吐いていると思う。幻の作品も収録され、文芸別冊中、最高の企画

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御恵贈御礼--「大嶋家文書の世界」

2012-12-28 09:25:12 | 徒然

 知恵伊豆といわれた松平伊豆守信綱の御側近くにあって、天草島原の乱においても活躍されたご家臣・大嶋左源太豊長を祖とする大嶋家に残された文書の内、今般「道中出先心得方覚」「多美縁組諸事扱留」を取り上げられて刊行された。その他「島原の乱絵図」など貴重な図も公開されてあり興味深い。
「多美縁組諸事扱留」は大嶋家の娘・たみ殿が細川家家臣・高田武七郎に嫁した折の記録文書である。高田氏についての資料を提供した御縁により完成本を頂戴した。
高田家系図によると、武七郎の母は松平阿波守家臣・高橋達吉伯母であり、祖母は土屋采女家臣・山崎唱大叔母である。三代にわたり他藩の武家の女が嫁入りしている。
高田家は代々定府の家とも見えないのだが大変興味深く、当方としても調べてみたいと思っている。

大嶋家にはまだまだたくさんの文書が残されているらしい。多くの関係者の皆様の御苦労により今般の刊行に至っているようだが、今後残された文書についても日の目を見ることに期待したい。御恵贈を感謝申し上げる。

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細川家と石川五右衛門

2012-12-27 22:24:29 | 徒然

 あの大泥棒で釜茹でにされ命を絶たれたという石川五右衛門は、一色氏家臣石川左衛門尉秀門の二男だとされる。秀門は一色氏の家老職であったとされるが、細川家によって滅ぼされた。五右衛門については、ながく架空の人物だと認識されていたが、最近ではアビラ・ヒロンの「日本王国記」などや、「言経卿記」などの共通する記述から、実在する人物であるとの認識が深まっている。
細川家史料では石川氏に関わる記述は現況承知していないが、史料を集めてみたいと思っている。
五右衛門の怒りは細川家に対してではなく、豊臣家に矛先が向けられているが、講談めいた彼の真実が奈辺にあるのか興味深い。
いつも敗者は汚名を着せられる運命にある。そうだと考えると、大泥棒と云うのも如何なものであろうか。 

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伊也さまの御子たち

2012-12-27 10:51:33 | 徒然

  幽齋女・伊也は永禄十一年(1568)生まれである。一色義有の誅伐事件が天正十一年(1583)であるから、当時十六歳である。
誠に不幸な事件であるが、幽齋はすぐに再婚相手を見つけている。吉田左兵衛侍従卜部兼従(身上1,000石)である。
多くの子をなし84歳の長寿を得た。 

 

     吉田兼倶---+--兼政---兼満==兼右---+--兼見---兼治
            |                 |       |  
            +--●              +--梵舜  |
            |                         |----
            +--宣賢---+---兼右            | 
                    |                 |
                    +---智慶院----幽齋----伊也
                                       |----五郎(愛宕山福壽院賢能法印)
                                          一色義有 

                    
        -----+---兼英 兼治家督
             |
             +---萩原右衛門督兼従
             | 
             +---愛宕山福壽院住持幸賢法印
             |
             +---長束大蔵正家男・半左衛門室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣田中氏  
             | 
             | 阿野中納言実顕   キントミ   キンナリ
             |     |----------公福==公業---実藤(生母・木下勝俊女)
             +---●・ ミツ             (公業は公福弟)
             |
             +---●・船橋従二位秀相室---相賢==経賢
             |
             +---●・たま 小笠原備前長元室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣小笠原氏
             |         ガラシャ夫人殉死小笠原少斎嫡子
             |
             +---●・清田石見室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣清田氏 

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お安く読む・文春文庫「長宗我部」

2012-12-26 20:32:20 | 書籍・読書
   長宗我部 (文春文庫)
 
     文藝春秋

長宗我部元親の末弟・親房の直系の子孫、長宗我部友親氏の著作である。長宗我部オフィシャルサイト もご覧あれ。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

さて細川家家臣にも長曽我部氏の流れがある。
■町源右衛門、長曽我部元親の二男(旧名吉良左京進)である。
 元和二年江戸にて忠興に召出され、三百石。長曽我部の「ちょう」を、町と改めたて名字とした。のち加増百石。江戸留守居役をつとめたが、
 三齋の勘気を蒙り暇を出された。その原因は光尚の正室(彌々)の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事によるとされる。
 三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはなく、堀田正盛に仕えた。(五百石)


             寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
        【中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
         従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事】

■源右衛門の嫡子、町三右衛門尉は忠利に召出され、四百石。江戸留守居。江戸にて病死。明治に至る最後の当主は源弥(16人扶持)

■源右衛門の二男・町市之允。忠利代、寛永二年豊前国にて召出さる。知行二百石。十二年百石加増、都合三百石にて使番に任ぜらる。
 兄三右衛門の死により、江戸留守居を勤める。その後奉行役などを勤め、極老により役儀御断を願い免され、御番方に召加えらる。
 寛文六年十月病死。明治に至る最後の当主は市郎(300石)


また、長宗我部元親の伝記「長元記」は、長宗我部氏旧臣・立石正賀により書き残され上妻文庫・他に所収されている。

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寛永八年、連日の日食・・?

2012-12-26 18:01:41 | 史料

 寛永八年五月廿六日の忠利宛ての三齋書状(876)に、「本当かいな」と首をかしげる記事がある。

                     其元ニ奇特成事餘多御入候内、四月六日之月有明、又十六日之月夜中ニ出、
                     十四五日之比ゟ廿五日迄毎日日食之由、又廿五日之日出時分より蝕のことく
                     日ニ光なく候てあかく候由、爰元一切左様之儀無之候、去十六日候哉、日之色
                     いつもゟあかく候つる、加様ニ大空之儀所ニゟ替事前代未聞ニ候事

こりゃあいろいろ調べてみる必要がありそうだと、ぐぐってみるが反応なし・・・・・どなたかご存じあれば、お教えいただきたい。 

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一色義有御討果のこと(六)

2012-12-26 08:49:33 | 歴史

                忠興君も無程被押寄御下知被成候、城中ニハ天下に名を得たる鉄炮の上手稲富伊賀祐直 慶長五年ニ詳に出す を初、弟子共数多有
                ける故、味方にも手負死人多く有之候、されともひるます鉄炮打かけ候、中ニも沢村才八は一番に走着、初より桛(カセギ)けるか、
                よせ口を不退、よく鉄炮を打て矢間をからミ候間、手負も薄く成候、一色の家老鳥井彦八郎 一ニ鳥井作五右衛門 士卒を下知して突て
                出る、御馬廻追手口ニ仕掛ける内、美濃七人衆しらミけるか、可児清左衛門計能働候 残る六人ハ其場より立退く、余所にてハよかりし者也と云
                松井・有吉等組を下知し戦はせ候ニ、敵壱人立行に突てかゝるを突伏て首を取、其外何れも相働、搦手ニ而ハ志水新之允下知
                を加へ、自身敵を鑓付て首を取、城兵若干討れ引入れて堅く守り候得共、松井・米田・有吉等下知を加て強く攻付候間、城中終
                に防兼、我々共不残御討果し候ハゝ、一色殿御内室御生害いたさせ各切腹可仕候、我々御助ヶ義有の男子 二歳 五郎を後に御
                取立候ハゝ、御内室を無事ニ渡し城を開き可申旨懇に申候間、助右衛門ハ殊に真下か言をのへて和議を取扱ひ、松井・有吉等
                ニ談して忠興君に達し、則城兵御助命可被成旨言送り、城を受取、御内室并其御子五郎を携へ宮津へ御帰城被成候
                                 一色の浪士稲冨を初め、名有者共追々被召抱候も数人有之候
                   義有の死骸ハ菩提所大円山盛林寺に葬り、賞雲源忠と謚す 家系別ニ出 義有の後室無是非思召、忠興君御対面之時不図
                   脇差にて御突候を御はつし被成候ヘハ、御鼻に中り後迄疵少有之候ひしと也、此後室程経て吉田神職卜部兼治に再婚有、
                   御子数多出 系別ニ出す、一書義有の女子も此御腹と有は誤なり 義有の御子五郎ハ剃髪して後愛宕福寿院の住侶と成、幸能法院と云、
                   幸賀の後住也、廿五歳にて寂す
                     考ニ湯川随節か由緒書ニ、先祖浅井茂十郎三齋様御甥福寿院幸賢法印愛宕江御入院被成候節御附被成、後御差図を
                     以湯川竹雲と申ものゝ養子ニ相成、湯川宗碩と改候と有、幸賢幸能同人の様ニ心得たる族も有之候、幸能法印ハ本書之
                     通一色の御子也、幸賢法印ハ右御伊や様後ニ吉田兼治ニ御再嫁ニ而、御出生之御子御出家ニ而福寿院五代目の住職
                     也、兼治の三男也
                     一書、天正十一年九月四日一色義有を誅給ふ、此義有ハ敵対なれ共降参によりて本領を宛行れ、藤孝君の御息女に嫁
                     せしめて睦かりしか、忽に心をひりかえし柴田に組して藤孝君御父子を亡し、丹後を一円ニ掌握せんと思ひ立、忠興君の
                     越前に赴き給ふを窺ひ、戦艦を犬の堂の沖へ漕出す、かゝる所に忠興君帰陳し給ふと聞へけれハ、是非なく犬の堂より
                     兵を引て帰り謀叛の色を顕しける、依之忠興君義有を討んとし給ふ、藤孝君姻戚のよしミを以彼是あつかひ給ひ、両家暫
                     無事也といへ共、義有猶引籠て不来、忠興君憤不止、秀吉に告て一色を討んと窺はる、速に討せらるへしと有しかハ、内
                     々御用意有、求政謀略を以義有宮津ニ来らると云々、また牧武次筆記に、志津嶽合戦に中川瀬兵衛討死を秀吉公討負
                     給ふやうに風聞するを聞て、義有犬の堂と云沖迄漕出しけるが、弓木に残し置たる家人共小舟にて追かけとゝめける故
                     帰船せらる、然れ共色々顕れ候間、忠興君御帰陳の御歓ニも出不被申候ニ付、幽齋君御扱にて宮津へ被参候ニ成と
                     云々、考に両説共ニ誤なるへし、一色殿御討候ハ天正十年九月八日なり、志津嶽合戦は同十一年四月なり、一書、弓木
                     城攻の時米田助右衛門馳着、野田の橋詰にひかへ、使を以御内室をたに渡さは面々には子細あるへからすと云遣す、
                     城中詮議区なりけるか、御内室を人質に取、後の山より忍ひ出、但馬をさして落行、助右衛門是を聞付て追懸、但馬国藤
                     森にて内室を取返す、城をハ興元受取、番人を置て帰陳せらる云々

 

                                                 (了) 

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一色義有御討果のこと(五)

2012-12-25 07:35:20 | 歴史

                 面の御薙刀の作ハ備前義光也、光尚君御家督後初而御入国之節、御花畑に新敷小書院を御構へ候て 今の鹿の御間なり 三齋君
                 を御祝儀ニ御振舞被成、御名乗字と壱同ニ御拝領被成たる光忠の御腰物を三齋君へ被進候、三齋君よりハ其座にて面の薙
                 刀被進候、其以後面の薙刀御取返し、光忠も御返し被成候時、御祝儀ニ被進候物御返し候事気味も悪敷可被存候間、何にて
                 も肴を祝儀ニ給候へと被仰進候故、光尚君より鶴を御進上候なり、光忠の御刀当時まで御指料、面之御長刀ハ丹後守殿より
                      年月不分明 御代々今以宇土ニ御伝り、私云、宇土にての申伝ニ、綱利君御代御借受被成候而、影之写被仰付候と也、但御天守
                 ニ当時も面之御長刀とて有之候、作ハ備前国住人具正近と有、御下国毎ニ御着座之朝、御花畑に御取寄、鹿之御間ニかゝり
                 候ハ右影の御写なるへきか、又一色義有御討果之事を関原御陳田辺御籠城の時ニ混し合て怪しく、色々記し置るも有之 関東備
                      考なとなり
偽妄現然たるによりこゝに出し不申候

                 扨相図のことく牧丞大夫 一ニ武次と有ハ誤りなり、此尉大夫ハ左馬允親也 を石川山 宮津より壱里程、一ニ狼烟嶽 に被遣、火の手を揚る、米田助
                 右
衛門ハ火之手遅キ事を怪ミ、普請場より引返し、石川山の尾崎鈴か峠を西より登りしに、真下梶之助元重 親沢井対馬守ハ将軍義
                      輝公へ仕、御生害之時同戦死、梶之助は大和国真下ニ居住、一色之招ニより来て家老職となる
何として宮津を切抜候哉、弓木を心掛、東より登り峠
                 にて米田に行逢候、米田と真下は常に睦かりけるか、真下此時も詞をかけ、今日の次第とかういふに及はす、他人の手にかゝら
                 んより貴殿と死んこそ本望なれとて刀を抜く、助右衛門は鑓にて互に馬上より挑ミ合、やかて真下を突通す、真下懇に城中の事
                 を頼ミ死し、米田も落涙して領掌いたし候
                    一書、梶之助、米田ニ突れ、馬上より鑓をたくり来るを、ひたもの振候ヘハ、馬より落るを米田か家人木崎縫殿 大炊か子 首を
                    取へきとて走寄るを、真下臥なから木崎か膝ノ口を切割候、され共ひるます飛掛り首をかき手拭にて膝を巻、馬にて弓木に
                    赴き候、此手疵にて行歩不自由に成、其後有馬ニ入湯して痛愈(ママ)候処ニ、堺ニ知る者有て彼か許へ行、塩風呂に入り、
                    疵口より血はしりて死すと云々                      
                    又一書、真下突かれなから米田か鑓をたくりよせて来るを、あなたこなたに振て捨けれバ、どうと倒れて首を取らる、一反程
                    の間血にまミれしと云々
                    又一書、真下も鳥井と同しく弓木にて働、米田と鑓を合せしとも有、
                    又一書、城中ニ有あハす鬨に驚、蒐来り米田と鑓を合、討死と云々
                 助右衛門一言の契約もたしかなく、真下か妻子弟四人を育ミ置、男子七之助を御家人となし三百石被下、後七兵衛と云、其子孫
                 今の真下喜角なり、元重か姉は忠興君の妾となる、式部寄之ハ此腹也 名はさい、後長岡勘解由延元ニ嫁す、五百石被添遣候 梶之助弟沢
                 村小八郎重包ハ義有の親類武者小路殿ニ使者ニ罷越、於京都丹後騒動之様子聞付早速罷下候、途中ニ助右衛門より真鍋甚
                 六と申者を以梶之助家内を引取候事とも具に申越候ニ付、小八郎も助右衛門方ニ来り、後に弐百石被下候、子の代ニ至、寄之
                 ニ御附被成、松井家ニ被遣、彼家来となる
                    一書、沢井小八郎重包関原之役従軍し、於会津表力戦し、忠興公の御感状を賜る
                          今度於会津表一戦之砌、玉川権六打取無比類
                          働誠以神妙也、仍丹州伽佐郡於豊村百石令加
                          増事、弥可抽軍忠者也
                              慶長五年十一月      忠興 御判
                                沢井小八郎殿
                    其後大坂の役にも相従ひ、度々褒美を得て、都合三百五拾石を領し、豊州小倉におゐて病死すと云々 考ニ第一慶長五年
                    会津表にて一戦といふ事いふかし、然ハ右感状御本書拝見せされハ、御判物たる由申す共疑ハし、重而可考

                 玄蕃殿・康之・立之等ハ相図等の火の手を見るとひとしく、弓木の城の追手搦手より二手に分れて押寄る、城兵思よらす周章さ
                 わきなから俄に門を閉て堅く守る
                    一書、義有討れし事を聞、家老鳥井作五右衛門弓の木の城に楯籠ると云々 

 

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一色義有御討果のこと(四)

2012-12-24 10:51:18 | 歴史

                                                銘 信長拵
                                           (一色義有御討果の御腰物) 

                一色の士共屈竟の者三十六人ニ此方の仕手僅十七人也。此者共か襖障子一重後ロにつく息か暑き様ニ覚しと後ニ被仰候、
                壱人ニ敵弐人宛にしても弐人余る也、され共事故なく仕廻、梶平七郎壱人の外討死も無之、手負少々有之たる迄なり、嶋庄
                右衛門ハ一色之者と見誤、小腹を鑓にて突候故、一時はかりして果候、米田・有吉にも劣るましき者にて有しに惜しき事をし
                たりしと後ニも被仰候と也、嶋家申伝に存生之内数度之軍功比類少キとて庄の字を小と申字に直し被下候由、此節家断絶、
                甥又左衛門信由、金森法印之類にて慶長七年豊前にて千石拝領御番頭、有馬にて討死、其子又左衛門重次奉願其子千石
                之内、嫡子又左衛門重正江七百石、次男庄右衛門重知へ三百石分知、今の又左衛門正備・庄右衛門正閭等か祖也

                沢村才八吉重ハ桃井の族ニて若州之産也、若年之時逸見駿河守に仕へ候ニ、駿河守病死之時継子なき由、旗頭丹羽長秀
                より被申遣、断絶ニ及候、実ハ源太丸とて 才八か絵像の賛ニハ虎清とあり 七歳之男子有しかとも、長秀とかくニさゝへて信長に不達、
                才八是を歎き、源太丸をいさない安土ニ至、直訴両度ニおよひけれハ、信長あはれミ給ひ、逸見跡式下し給ハるへき旨成しに
                不慮ニ弑逆ニ逢たまひ、剰同し此源太丸も早世しける故、無力丹後ニ越、八月上旬御鉄炮之者ニ被召出、はや此度手柄をあ
                らはし、追々武功ニよりて天正十八年奥州より御帰陳後知行百石被下、朝鮮御帰朝後百石御加増、慶長六年七月千石、同
                十月弐千石、又寛永九年五百石被下候、同十年当御国ニ而被改五千石被下、御城代被仰付候、働之事は其所々ニ出申候、
                扨自筆の覚書ニ、高麗ニ而唐人なと切候事并伏見ニ而の仕者丹後宮津そうと申所ニ而取籠者搦候儀等は常之事と存、子細
                を不書分と有之候、後ニ沢村宇右衛門友好を養子ニ被仰付、宇右衛門知行六千石共ニ壱万千石之内七百石は今の沢村権
                兵衛祖、三百石は同八郎祖ニ内分ニ成、当宇右衛門迄代々無相違被下置候

                右一色義有御討果の御腰物ハ信長作長サ弐尺八分半計也、元来勢州より出たり、或時伊勢の海辺ニ而囚人の首を可刎との
                時、太刀取刀を打付候ニ、囚人うつ伏候而縄取を引倒し候ヘハ、縄取首被討落、囚人ハ前の海へ入て泳行を太刀取つゝひて
                飛込、両股をなくり落すニより、刀の異名を浮股共波股とも申候、又胴九ツニ切れ能落走路yて九ツ胴共申候、青龍寺にて忠
                興君御求、十四五歳ニ而御ためし被成、胴落候而一入御秘蔵有しを、頓五郎殿御所望被成故被遣しか共、今度御取返し被
                成候、後にも此御腰物きたいの切物と世上へ流布いたし、関白秀次公御所望被成候へ共御断被仰上候、依之秀次公方々御
                尋させ恰好似たる信長の刀を御求め出候て、諸大名登城之折節、与一郎所持ニ大方似たる同銘の刀を求め置たり、只今た
                めさせ各へ見せ可申とて、御庭にて御斬せ被成候、忠興君も能切れ候へかしと思召、列座の大名衆も気をつめ御覧有しに、
                大骨も不越、切れ悪く候故、最早御所持の刀を可被差上と思召候内ニ、列座の大名衆一度ニ忠興君の御顔を御覧候ニ付、爰
                にて御上候ヘハ、惣様の差図を御請候にてこそあれと思召候処に、秀次公御座を御立被成候故、御知音の諸将忠興君の袖
                を引、是非御上可然由御申候へ共、何とやらん上ヶ難体なり、たとひ御身体の礙に成る共上ヶ間敷と思召詰られ候由、御拵ハ
                研は竹屋、金具は田村、鎺(ハバキ)ハ 一ニ下鎺ハ 不錆ために銀也、同様ニ鎺を弐十被仰付様子、能を壱ツ残し、拾九は打つぶさ
                せ被成候、御柄革巻ふち唐革ニ而御包ませ置候、久しくなり所々損候へ共御繕せ置候、御柄鮫ハ其比黄金壱枚ニ御求候て御
                かけ候ヘハ、小国の主ニ而奢人と人口ニ御乗り候、地鮫能にらミ、よく取廻し、九曜ニ有之候、越中殿九曜鮫と世上ニ唱へ申候、
                御目貫笄ハ祐乗作蛸の彫物也、御鍔ハ鉄火すかし廻りに象眼あり、此鍔ニ似たるを御家中ニ而信長すかしと申也、御鞘も色々
                御吟味、角なり恰好被尽御心、拵出来候て利休ニ御見せ被成候ヘハ、恰好ものすき残所も無御座候、私も是ニ似申たるを求置
                候、御目に懸ヶ可申とて、宿へ取ニ遣し、くらへ候ヘハ、くり形・かへり角・さや肉置迄少も違不申候、是ハ寺町通りの小店ニつり
                さけ有之候を、余り見事なる古鞘と存し求候と申候ヘハ、何事ニも目の利たる者、物数寄たゝ人ならぬと御感被成候ヘハ、利休
                も同前ニほめ返し申候、御若年より御老年迄御腰をはなされす御秘蔵ニ思召、忠利君御所望被成候へ共不被遣、然処寛永十
                一年三月八日光尚君と烏丸中納言光賢卿の御息女お祢々様 三齋君の御孫なり 御婚礼御整候以後、御対顔の座ニ而其時さゝせら
                れしを直ニ光尚君へ被進、御法体の身ニ而御腰物ハ入せられす候へとも、此刀を被進候上ハ男をハ止候とて御落涙被遊候ニ
                付、御座敷ニ山田古竺印其外居申たる面々迄も感涙を催候也 一ニ武勇を譲らるゝとの御事也と語伝へりと云々 此御刀御代々
                御指料、御物好の御柄鞘等段々有之、三齋君御拵も其時之まゝにて今ニ有之候 

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ご案内「第三回・金春流 若楠会 鑑賞能」

2012-12-24 10:19:38 | 熊本

                      


                                         
                      
                                                                       能 田村

                                           

                                          中村一路氏 シテ方金春流能楽師
                                             肥後金春流中村家の長男 

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一色義有御討果のこと(三)

2012-12-23 09:44:52 | 歴史

        扨義有御盃を戴かれ候所を忠興君抜打に肩先より側腹かけて斬給ひ、主殿介方ニ御向ひ被成候ヘハ、主殿逃出候を中路市之允 後次郎左
           衛門 又周防
討留候、義有ハ銀の打鮫の中脇差を少抜かけなから次の椽にどうと倒れ、袈裟分れしなり
        義有の前に三方有しに御心を付給ふ故、少掛りしかと後に被仰候
           一書、天返の灯かけから中りたるものにて有へし、前か六七寸程かゝりしにと有
           一説、俱の士両人にて引立、屋敷之外迄出ける時、倒れて袈裟分れし也、大きれものにて吸付て如此と云々
           一書、日置主殿ハ次の間より斬て入、又一書、主殿は忠興君に志を通し逃失たりと、然れとも中路討とめたる事実説也、主殿か子
           後に忠興君御扶助被成、中路を敵と思ふへからすと被仰、中路も懇に云ける由也、其子孫熊本に居すと云々、再考

        供の士此旨を聞て斬込んとするを、仕手の面々はや広間に出て切立候、敵もかひ/\しく働候得共、此方の勇士等思ひ/\に切臥る、中
        にも半弓を以彼是ニ手を負する敵あり、的場甚右衛門立向て討留候、山本三四郎 後三郎右衛門正俱、法名宗覚可児清左衛門等同時に敵を切
        倒す、米田宗堅も敵三人を切、各眉間を割けるに頤まて二になる 此刀を三ツ頭と号す、秘蔵せしなり、後於京都忠隆君へ差上、今以伝来 敵方ニ芦屋金八郎・
        金川与蔵と云者強く働き候をも取こめて討取る、宮部市左衛門 田辺之所に詳ニ出 も能働き、嶋庄右衛門ハ誤て味方討に合候、忠興君も庭ニ御
        出御下知候処ニ日置主殿か弟小左衛門と外ニ壱人、三尺の鍔なしの刀にて忠興君を目掛て切てかゝる、丸山左馬助長刀をはしらかし、丸
        山左馬介是ニ有と云てじたんたをふミたり 此勢にて弐人か切込さりにしや、名誉の男也と後ニ被仰候、三淵大和守殿ニつきて廻り候用人なりと云 、忠興君刀にて御
        働被成候を見て、山本三四郎代々持伝たる長刀を、是をと申て御手の下より差出す 一ニ入江平内、又御小坊主 、両人之者三間馬屋へ走り込、繋
        柱を楯に取る、忠興君右の長刀にて御せり合候か、つゝと入て御払ひ候ヘハ、小左衛門腕両方共に切られよろ/\と致し候を御かけ被成候
        に、能大夫の面を落したる様ニ顔そけ候 面の薙刀と御名付御秘蔵被成候 其内に広間仕廻者どつと押入、今壱人ハ取込て討取候、
           一書、忠興君最早残る者ハなきかと宣ふ、御声を聞て、小左衛門厩の内より飛出切て掛るを、忠興君ひらひて長刀にてかけ給ふと
           云々、又一書にハ、小左衛門ハ丸山とつよく戦ひ候を取込て討取り、忠興君は広庭に出、大勢を追靡討取給ふニ、馬屋の前ニ弐人
           の兵左右より切てかゝるを、長刀にて両手を払ひ落し、面をかけ給ふと云々、又一書、御傍ニ被召仕候坊主御長刀を持、庭へ飛下申
           候、就夫弐人共ニ馬屋ニ入、繋柱を楯ニ取、御せり合被成候と云々

        八木田新右衛門ハ御勝手ニ御用有之罷在、御討果候音を聞、御次より蒐出候ヘハ、一色の供に参たる小坊主を宗堅とらへ、新右衛門に渡、
        此者殺し申間敷旨ニ付搦置候而相働疵を被る、一色の勇士牧忠左衛門 一ニ家老梶平七郎 一ニ梶平七 を討て立退候所を、沢村才八走り掛
        て切伏る、森孫六郎 一ニ孫一 と云者柴垣の後ロに隠れてとをる者に手を負せ、中路市之允をもきる所を見かへりて孫六を討取り、左の眉の上
        に疵を蒙候、忠興君御覧なされ、市之允切れたかと被仰候に夫迄覚さりし也、御手つから頭を結ひ、深手也、働へからすと被仰候 吉田に居る主
           殿娘小少将か、夫からおれか小鬢を切とつたと後ニ申せしなり
敵討洩されたる者、城下より町に出る橋を越て逃行を押続て追かくる、大手の門外にひかへし
        一色の雑兵、主人の死を聞て城中に込入んとする折節、逃るを追て切て出る味方の兵に橋向より持弓之者共弓鉄炮つるへ掛ける故、各橋
        を渡り兼る処、的場甚右衛門鑓提けて搦手の門より出、町の方より廻り、弓射る者を突伏る、此勢ひに乗て討て出、こと/\く追ちらし也
 

 

 

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コメント「荒尾の荒木家の歴史」ご紹介

2012-12-23 00:48:49 | 徒然

荒木村重の子孫「荒尾の荒木家の歴史」について、荒木一族の研究をされている山梨県甲州市の荒木幹雄様から貴重な情報をいただいた。
もともとはブログ「荒木村重系細田氏--谷氏--田中氏(長束氏)--三渕氏」にコメントいただいたものだが、皆様に周知いたすべくここに全文をご紹介申し上げる。一昨年荒木先生が福岡県大牟田市(荒尾市とは県境をまたいでお隣)の荒木家を訪ねられた折御目にかかり、ご一緒にいろいろ資料を見せていただいたことがある。私の「肥後・荒木氏」の勉強は一向進捗を見ないでいるが、このようなご報告はありがたい次第である。

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荒尾の荒木家の歴史について補足させて頂きます。『荒尾の文化遺産』(2003年)p266によれば、荒木村重次男の荒木孫四郎村政が荒尾の小代下総守に匿われ樺村に土着しました。荒木家は1793年からは細川家の在御家人となりました。中尾富枝著『荒尾にゆかりの「青鞜」作家荒木郁子』(1997年)p40-41荒木家系図によれば、十代和兵衛村重(歩小姓列)の後妻の長男慎一郎村賢(諸役人段)の長男が府本村の村長の荒木直(すなお)です。直の次男博の妻貞子は、ガラシヤ夫人生害の時に殉死した金津助次郎正直の子孫です。十代和兵衛村重の後妻の次男佐七の妻スガは、高槻城主入江春継(元秀)子孫の細川藩士入江十郎大夫の娘です。十代和兵衛村重の前妻の長男が慶右衛門村富(諸役人段)です。2011年3月12日、10月15日の本ブログで取り上げられています。慶右衛門村富の長男官太の長女滋子の娘が女優の荒木道子であり、その息子が歌手の荒木一郎です。官太の三女郁子は、平塚らいてうの雑誌『青鞜』に小説「手紙」を載せ、この為に『青鞜』は発禁処分を受けました。
官太の長男東一郎は日本の経営コンサルタントの草分けであり、井上智重著『異風者伝』にも書かれています。遠藤周作著『留学』(新潮文庫、1968年)p316の解説によれば、東一郎の娘敬子の夫の評論家の村松剛が、遠藤周作に「ぼくの姻戚の荒木村重の子孫という家の伝説では、村重の一族のだれかが、ローマに留学した、ということになっている」と話したところ、遠藤周作は、さっそく文献をあさって、それは荒木トマスのことではないかな、といって、間もなく荒木トマスが主人公の小説『留学生』が雑誌に出ました(文中敬称略)。

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