津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御姫様の逃避行

2014-09-30 11:15:03 | 歴史

 永青文庫には「明治十年御子様方所々御立退中日記」なるものが残されている。
この文書をもとに、熊本大学の三澤純准教授が「お姫様たちの西南戦争--史料の解題と紹介」を発表されている。

これは護久公の三人の姫様が西南戦争の戦火を逃れようと、二月十九日熊本城下に火がつけられる(射界の清掃)数時間前に北岡邸を脱出、四月廿六日まで両軍の戦いの場をを避けながらの逃避行(?)の記録である。
この時期北岡邸に在った家扶・高見武之は同家の先祖附に明治23年までに至る記録を残している。 高見武之家の明治 (一) (二) (三) (四)

神風連の暴動や西南の役の際のこれらの御姫様方の動きが、わずかながら記録されている。
そして神風連の暴動の際にも、宇土細川家の別邸・桂原(邸)へ避難していることが判る。 

                       同年(明治九年)十月廿四日神風連百餘人突然鎮臺營乱入     
                       其外縣官舎等初所々乱入宿所之放火炮撃夥敷
                       玉如雨放火益盛ニ相成候ニ付
                       御子様方乱玉為御用心宇土桂原御末家之御別邸江
                       御立除被遊候節御供申上候處翌日ニ到り鎮静ニ相成ニ付
                       廿六日御帰邸被遊候其後當前之御奉公相勤居申候   
                       同(明治)十年二月縣地変動ニ付                              

                       御子様方處々御立除御供申上城兵打出矢部郷迄
                       進撃■漸クニ四月廿六日北岡江御帰邸被遊候ニ付而御供ニ而
                       帰宅仕候

                                          

                                   
                    「市政100周年記念・熊本歴史と魅力」から

  2月19日家扶や女中その他総勢21人で北岡邸を脱出、22・23日の両日は熊本城籠城軍と薩摩軍との間で激しい戦闘が行われた。
立田邸(泰勝寺)に三日滞在後、阿蘇郡錦野村→上益城郡白旗村→同岩下町→同下早川村→同砥河村→阿蘇郡河原村→同久木野村→菊池郡陣内村(現大津町)等を転々として4月26日北岡邸に帰館された。

 

 


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■「北村甚太郎覚書」釈文--17・18

2014-09-30 10:17:41 | 史料

 

                              一、同方少後ロ尓より愛宕山乃城より四拾余有之其山下

                                下に桂林寺と云禅寺は小野木縫殿介本陳なり
                                               イ浄
                              一、同方桂林寺より南尓國降寺と云大寺は此邊尓陳取衆
                                                         
                                は石川備後谷出羽川勝右兵衛藤懸三河なり
                                  
                              一、國降寺より南尓引出と云在所は生駒雅楽頭陳取りなり

                                城より五拾町余有之

                                一、城より申酉の方に柳の水と云池は城より三町七八反有之

                                生駒雅楽頭者とも竹把付寄此池を取なり

                              一、同方東へより七日市と云在所有 城ヨリ廿七八町程是有源仁法印亦使番二頭の陳取なり

                              一、同方東江ヨリ九文明と云在所あり 城より三拾四町有之木下

                                右衛門赤松左兵衛陳取なり
 
                              一、夫より東の方若狭海道尓大内と云在所は其並尓平城の

                                古城あり城より二拾四五町有之其邊尓小出大和山崎左馬

                                原伯耆別所豊前陳取れり其陳と北の方ハ平地

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                田地大川なり

                              一、北の方阿ごと云在所は城より三拾町斗有之海邊なり

                                阿ごととびとりの間ハ入江海手明なり後ニハ敵番船を

                                付置申船は竹中源助早川主馬毛利勘八高田川内

                                陳取れり此人々の下知尓て大勢竹把を拵へ東西

                                南北手分して責寄申候城中方角ハ絵図有之事

                              一、九月末尓丹後籠城為御見廻として忠興公与十郎殿より中

                                津海五郎右衛門・小崎六左衛門と申者関東より御上を被成候

                                両使急ぎ田邊尓着候へとも敵の番所堅固尓候故城へ入

                                可申様無之候へとも案内越能存候尓付あごと申所海

                                邊北の口より夜半時分忍入関東より能御書差上

                                関東の様子具尓言上仕候此事如何して敵の方へ聞へ

                                候哉城より五丁斗置て一夜の間尓東西南北尓壱間

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■安巳橋突囲隊

2014-09-29 12:27:00 | 歴史

 先に「安巳橋周辺」で、西南戦争における官軍の「突囲隊」のことを書いた。ウィキペディアでその概要を引用すると以下の如くである。

 籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。一方、侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。

この後衝背軍が薩軍を追い立てながら北上して熊本城に入城する。田原坂方面の激戦でも薩軍の戦いは勝利には至らず、敗走することに成る。
「安巳橋突囲隊」の出撃が状況を好転させる結果を導いている。

児玉源太郎が後に語ったことをまとめたものが、「熊本篭城談」として残されている。
これによると、、午前四時城門を出た一隊は坪井広小路から手取水道町をへて安巳橋に至っている。
侵襲隊は斥候を出しているが薩軍に遭遇したものの、日の出前の暗闇であったため見破られずにすみ、立ち返って状況を報告、安巳橋を急襲して激戦となった。これが錦絵などに見られるものである。そんな中突囲隊は上流100mばかりの浅瀬を渡河して、一気に宇土を目指した。
上流の明午橋(明治五年建設)が近いのだが、薩軍の守りが厳重でもあったのか、安巳橋の方が水前寺にいたるのに都合がよかったのか・・・
いろいろ疑問が残る。 

どこの城門をでて坪井広小路に出たのか、まだ詳しい資料を見出していないが、これも疑問である。城下は焼き払われ大隊規模の人の動きはすぐさま察知される。
西大手門→棒安坂→小豆坂(KKRホテル裏)→内坪井→坪井広小路といったルートが頭に浮かんだのだが・・・・如何
御存知の方が居られればご教示いただきたい。(正直私は西南の役の事は良く判らない・・・・)

 

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■「北村甚太郎覚書」を読む--18

2014-09-29 11:16:52 | 先祖附
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■「北村甚太郎覚書」を読む--17

2014-09-29 11:14:39 | 史料
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■傳・細川忠興公自筆 小切紙

2014-09-28 13:14:50 | オークション

                             源・mz】傳・細川忠興公自筆 小切紙/軸装仕立!!! 

                     別個よみくだし文が添付されているが、どうも合点がいかないでいる。

      

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■日付けが替る時刻

2014-09-28 08:11:15 | 徒然

「日付が替るのは何時ですか」と問えば、小学生でも知っていることだが、日本の中世・近世に於いてはそうはいかなかった。
「お江戸日本橋七つ発ち・・・」という俗謡があるが、当時は七つ(午前四時)をもって日付が替ったとされる。七つ以前の出発は夜発ちという。

例えば赤穂浪士の吉良邸討入りについて、資料は14日と書いたり15日としたりして混乱している。
赤穂浪士を預かった三家の口上書によると討入りは14日であり、幕府に於いてもそのように扱っているらしい。
17人の浪士を預った細川家で、接待役を仰せつかった堀内傳右衛門の「御預人記録」によると、「元禄十五壬午年十二月十五日暁七時分、浅野内匠頭殿家来之浪人四十六人、吉良上野殿本所屋敷え押入、上野殿并出合候家来討果候・・・」とある。「暁七時分」は討入った時刻ではなく「討果候」時刻であろう。

つまり赤穂浪士は14日の深夜討入り、日付けがかわった15日未明上野介を討取ったという事になる。

随分古い書物だが応永21年(1414)の『暦林問答集』に、「丑を昨日の終となし、寅を今日の始となす」「丑寅の両時、昨と今の交り也」とある。
つまり「寅之刻=七つ=午前四時」に日付が替るのである。

傳右衛門がいう「暁」は日出前の仄暗い時刻をいうが、そんな時刻に日は新たに成っている。江戸っ子は皆起きだして、事を為した46人の浪士を喝采を以て見送ったのであろう。

 

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■「北村甚太郎覚書」釈文--15・16

2014-09-27 06:56:45 | 史料

 

                                                        射抜玉
                                尓てハ竹束通り申さぬと見へ申候と存いぬき玉をこしらへ

                                分別して勘四郎・松田忠右衛門を以 幽斎公懸御目候へ
                                                 
                                は殊之外御感被成何連もへ相渡し打を候へと被仰付候間勘四郎
                                        配り             を へ
                                忠右衛門玉くばりなれは渡被申様子遣ひ打をかへハ其後ハ輙

                                          く寄候事の不仕候 此儀松田忠右衛門・竹原庄左衛門なと存生尓て

                                候間可被存か後尓竹把裏尓死人多く有之りて何とも

                                不成のよし井門亀右衛門被召抱候て物語尓て聞申候其後

                                豊前尓ても度々此物語被仕候城中尓て赤き装束ハ甚ン

                                太郎尓て有之候 又白赤の段々の母衣武者ハ其後亀右衛門尓て

                                有之候ひつるかかくのことく城より祢らひ鉄炮打懸候へとも

                                當り不申と申候へハいや當らぬ尓てもなく候甲の立物又母衣

                                の出し母衣尓も少し玉の當りたる跡有之つると語り申

                                され候事

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

                              一、右のことく竹把尓ても寄兼申候故か八月中頃まてハ責申事

                                もなし 八月中頃より東西尓大石火矢を志かけ申候西の方石

                                火矢ハ本町筋中程より松山権兵衛預り申大草矢倉と申
                                              
                                矢倉尓當て仕懸申候 西ハ小野木縫殿介大将分尓て肝

                                煎打申候後ハ矢倉越打破申候東乃方の石火矢ハ二ッ橋と

                                云橋の少城の方尓當て仕懸申候是ハ諸勢替る替る打申候と

                                見へ申候差物かゆれるのを見て城中合点仕用心仕候
                                  本ノママ  そと    本ノママ
                                是ハ矢ことく矢倉と申へ當て仕懸申候数度打申候へとも皆
                                  候て
                                越し只一ッ中り塀を幾重も打貫後の塀扣柱尓當候て

                                玉留り申候其玉重さ三百目有之由之事
                                一本コレヲ見出シトセルアリ
                              一、寄手の陳所乃次第人数壱萬五千余騎なり城より西

                                の方にとひとりと云山は高き山なり城より三拾町余

                                有之是ハ小野木縫殿介陳取れり

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■二つのオークション

2014-09-26 15:49:12 | オークション

                              重要文化財 細川家 住宅 保存修理工事報告書 昭和52 090917012

                           重要文化財 細川家 住宅 保存修理工事報告書 昭和52 090917012

                             この本の正体が良く判らない。どこの住宅なのだろうか・・・・除籍本のようだが
                             熊本県とか熊本市とか印刷されていると良いのだが・・・熊本ではないのか 
                                                       よくよく調べたら香川県の細川家住宅であった。皆様そのおつもりで・・・・16:41追記 
                                       http://sanshorou.jp/book/detail/30994/ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                             こちらは私も所持している熊本城二ノ丸に移転された刑部邸の工事報告書・・・・

                          ■熊本県指定重要文化財旧細川刑部邸移築工事報告書H8

                             ■熊本県指定重要文化財旧細川刑部邸移築工事報告書H8

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■安巳(安政)橋周辺

2014-09-26 12:15:20 | 歴史

                                 

 西南の役における「熊本城突囲隊之図」である。右手に見えるのが安巳(安政)橋、上流(左手)100mばかりの所を渡河したというから、手前が御府内、川向こうが大江村である。(左手前の石垣が何なのか・・・よく理解できない。)

熊本城に籠城した官軍は50日近い籠城で弾薬や食料が乏しくなったため、司令長官谷干城は突囲作戦を決断、4月8日未明奥陸軍少佐をして突囲作戦を敢行白川を渡河して、水前寺→六嘉(嘉島町)→隈庄(城南町)→宇土・衝背軍本営にいたり黒田参軍に対面して窮状を報告した。
作戦が功を奏し衝背軍が熊本に至り15日には籠城が解かれた。 

 

                             

                                       暴徒安見橋合戦

                            官軍ハ安見橋のほうるいを抜き川尻を越んとせし時賊軍隊長別府新助の隊不斗裏道より出て激戦なす
                            角力取梅ケ谷藤太郎ハ官軍加ハり賊軍追しりぞげて官軍勝利なり

 

                            

                            鹿児島士族熊本安政橋戦争ノ図 / 永嶋孟斎 画


 古写真として「マンスフェルトが見た長崎・熊本」には、「水前寺道の大川にかかる橋」として1871(明治4年)~74年頃の安巳橋の写真があるが、著作権の関係も有りさすがにUPは思いとどまった。この写真では方角を特定できる情報が見受けられない。板橋の真ん中に馬糞が落ちているのが御愛嬌・・・・・

 ご厚誼をいただいているS様のブログ「徒然なかはなし」にある 熊本の風景今昔 ~ 安巳橋・小泉八雲「橋の上で」 ~ に古い安巳橋の写真が紹介されている。こちらは手前が大江(九品寺一丁目)、橋を渡ると三年坂へとつながっている。 

 

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■松寿庵先生 第116講

2014-09-26 08:04:49 | 史料
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■長岡監物の献策「舟橋による長崎湾口の封鎖」

2014-09-25 08:29:55 | 史料

 昨日「長六橋」を書いたが、舟橋による架橋は川幅約35間(約63m)だとされる。下る事7年後の正保四年長崎にポルトガル船が来航、細川藩は11,300余人・船447艘を出して九州の諸藩とともに警備に当たる。ここでの出色は長岡監物の発案による海上封鎖作戦である。長崎の瀬戸口約400余mに船橋を設置しポルトガル船を囲い込んだ。結果この作戦がこの騒動を解決に導き惨事に至ることなく、ポルトガル船を帰国させた。

 佐賀の歴史博物館「徴古館」に収蔵する「正保四年長崎警備の図」である。書かれた時代が下っているため史実とはそぐわない齟齬もあるといわれる図だが、当時の緊張感が伺える史料である。長崎湾口が舟橋によって海上封鎖されている。

 

                       

 正保四年のポルトガル船の長崎来航に関して、綿考輯録は次のように記している。

比は正保四年亥六月上旬、南蛮国よりかりあんとか申切支丹之大船長崎の湊に入津仕、自今已後商売舟日本渡海の御詫言申上候願之旨を申上る、御政所馬場三郎左衛門様より江戸江可有言上候、暫ク相待候へと御答、九州二嶋江早速人数を被指出、邪船弐艘不計帰帆不仕様ニ可有覚悟、御誅伐有なしの儀ハ江戸より可為御下知次第との御飛脚七月四日未明ニ到着す、光尚公御在江戸之御事なれハ長岡式部殿ニ御一門細川左京殿・細川刑部殿、御家老中・御備頭衆御寄合ニて即日未之上刻長岡勘解由手勢三百余ニ而熊本押出す、直組・下組諸者頭彼而の面々段々はせ追、同日亥の刻河尻ニ至る、同子之刻乗船、軍勢都合五千程とかや、二蕃貝ニ纜をとく、三番貝に押出す、折節追手の北風吹しほりけれは、同六日の晩景に長崎の湊に着舟す、諸国之船共はともづけニ懸る、御国船ハみたれ懸りにする、船数かそえられすとかや、元より鍋嶋信濃守様御当番御請持成れハ、御家老鍋島七左衛門はからひとして、深堀のせば戸八丁の所を弐尺廻りのと綱を以、東西の岸の松に碇からみ付、所々に大木のうけをつけ、敵船をさへきりとめんとの支度也、扨二蕃手長岡監物殿六千の人数を引卒して同七日ニ長崎江着船し給ふ、と其儘麻上下を着し、唯今到着仕候、奉窺御機嫌とや、三郎左衛門様早速御対面残暑甚候ニ堅固ニ早ク到着、御出歓入候、監物殿参上を御聞被成候と其儘諸国参陳之家老衆へ急報ニ被参候へと御呼使参る、何も早速参上御対面、誅伐可仕旨之上意下るとひとしく打果候手立、且又其内与風敵船出船可仕と押へ申ハと綱ニて弥丈夫ニ候哉、累年之被仰付と違背したる敵国候ハゝ、公義の御為大事之儀ニ候間、各存寄心底を不残委細ニ可被申と也、何も詞を出さす、ぎしとして被居ける

御政所被仰候は、監物殿事岐阜・関ヶ原・大坂夜討、同五月六日七日之防戦数度之分骨他ニ異して、第一名将忠興公ニ馳被申候へは卑下もならぬ事、若取逃し候てハ日域末代のかきんたり、上様之御為なれハ武略を尽されよと也、監物畏て人ケ間敷御諚の上は、愚存之趣可申上候、火急之儀ニ付手と綱之儀尤之儀ニ御座候(瀬戸口に大縄を渡すという事) 乍然邪船押而帰帆候はと綱幾筋御はらせ被成候共、乗沈め可申候、若船底ニさわり候ハゝ、船具を仕候刃物を以切はなち罷通り可申候、船橋を被仰付可然と也、御政所仰ニ、八丁之所を日数かけば可取切候得共、取切と見て被取籠、叶ハしと乗出し候ハゝ、手を可失と也、いや只肥後守一手二被仰付候へ、今夜不明内ニ取切り候而可懸御目候と也、材木ハいかに監物抑さへ被付候へは出来可仕候、若材木不便ニ候ハ、当所之町を取こハし、船橋出来之上ニてはや明日より前ニ不劣様ニ作事仕らせ遣可申と也、しからハ監物殿裁判次第、然共八丁を皆迄と申も余也、四丁を肥後殿御手へ、残る四丁を諸手二而懸渡され候へと也、御諚畏候とて各退出、監物元船に帰座有て渡辺作之允と申かせたる石火矢を呼、其方儀今夜中に四丁の所に舟橋を懸渡す材木・釘・かすかい諸具つかへざる様に心いつはひニ可相渡しと也、渡辺も誠に不存儀なれハ、あきれはて忙然たり、雖然夏の短夜不明内に四丁をかけ渡す、急用なれハ渡辺なに/\わたせ/\請取へしと諸手へさゝ波の磯のまさごをうつ風情、作之允船々ニ材木夫々の品々を材木ニくゝりつけ、帆柱所二立置而、てんでニ手柄次第とらしませよとよはわる、聞伝へ/\渡辺ニ届る迄もなくはひとりのことし、数万の材木・貫・平物・かすかい・縄以下おつとり/\懸わたす、猶其上に三階の矢くらを三ヶ所ニあげ、塀・板はりの所大杉原を以てはりたて候へハ白かべのことし、石火矢さま切てあれは、石火矢・大筒数十挺しかけける、当御手ハ不及申、残る四丁も諸手より夜の中にかけ仕廻ぬ、夜明けれは見物の諸万人群集してわたりとやめく、橋の上ニ幾所ともなく臼を持出、米をうつ、都五条ノ橋の上もかくやとみえてにきやか也

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■大名物・荒木高麗茶碗

2014-09-25 07:05:23 | 先祖附

                                                      唐草文染付茶碗 銘 荒木

 

 攝津城主・荒木村重が所持していたという大名物「荒木高麗茶碗」である。現在名古屋の徳川美術館の企画展示「天下統一」にて、9月28日まで展示されているという。その後は10月17日から11月30日までは、ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)で展示されるという。
ご子孫MA様からご連絡をいただいた(感謝)

女優・仲間由紀恵が結婚するという報道でお相手の男性の顔をみて、「おう・・荒木村重・・」と思わず声を出してしまった。
私は知らなかったが実力派の役者さんらしい、名演技が光っていた。今後村重の資料を見る時には、彼の顔が浮かんでくることだろう。
 

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■長六橋

2014-09-24 18:27:32 | 熊本

 昔の長六橋      

        明治初期の長六橋              昭和2年に完成したトラスタイドアーチ橋          平成2年完成の現在の橋


 江戸時代熊本市内を貫流する白川には、この長六橋が唯一という時代が長く続いた。安政年間安政(安巳)橋が架けられた。
長六橋は慶長六年加藤清正によって架けられたので、その年号から名前が付けられたとされている。もっとも明治初期の写真のような橋ではなかったと考えられ、資料には梅雨時には解体する仮設橋であったらしい。橋が度々流され舟橋であったという記録もみられる。
白川の大洪水は、慶安9年(1650)、寛政8年(1796)の大洪水は最大級のものであったとされ、そのほか元禄9年(1696)・元文元年(1736)・文化13年(1816)にも死者が出る水害となっている。以下にあげる文章は寛永17年(1640)に書かれた奉行日録の抜き書きである。

 

 

                          

 

                               寛永十七年八月五日
                            一、長六はしわたし舟ニてハ御不自由ニ候間舩はしかけ候事ハ
                              成間敷やと小内膳(仲光氏)を以被仰出候事
                                      御請ニ舟はしノ儀手間入申間敷由申上候事

                               同七日
                            一、長六橋之渡り舟はし之儀小内膳を以得御意候へ共明日
                               早々より舟はしかけさせ候へと被仰出候事

                               同九日
                            一、長六橋いつも今時分かけ夏ニなり候へははしをとり申し候来
                               年ははかれ次第に其まゝ置候て見候へと可申付由御意ニ候
                               其まゝ置申ニ付いつもより造作まし分ハ此方ゟ加勢仕候
                               様ニと被仰出候由奉り 奥田権左衛門 

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 参考  山口県防府市 宮市舟橋 佐波川  片頭船6艘、橋脚ナシ、手摺りアリ  寛保2年(1742)架設、大正7年流失。昭和16年撤去とも。


                                         

 

 

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■「北村甚太郎覚書」を読む--16

2014-09-24 11:04:31 | 史料
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