津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利の周旋

2023-04-25 06:24:56 | 史料

 東大史料編纂所の「大日本近世史料 細川家史料・26」において、荒木左馬助(のちの細田栖隠)の公儀召出しに尽力する、忠利・光尚の
様子が紹介されている。

荒木左馬助は望まれて荒木局(村重女)の養子になっている。
荒木村重と入魂であった烏丸大納言から光尚に対し左馬助の将軍家への奉公について頼まれ、忠利が代って老中・松平信綱に申し入れている。
忠利はその翌年十八年三月十七日、死去することになる。


  ■(寛永十七年) 四月廿五日松平信綱宛書状
         村常      烏丸光廣       細川光尚
 一書申入候、仍荒木左馬事、からす丸大納言殿同名肥後ニ頼被申候様子御座候、當月ハ間も無御座候間、
 重而之御月番ニ肥後可得御意候、御取成も御座候者、可忝候、恐惶謹言
      卯月廿五日
        信綱                   細川忠利
      松平伊豆守様
           人々御中
                         徳川家光
    尚々、荒木左馬事ハ、別之儀ニ而ハ無御座候、 上様へ御奉公之事ニ付得御意度と
    肥後申候、以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ■(寛永十七年) 五月十四日松平信綱宛書状
 昨日者御使者、忝存候、一昨日御馬拝領、忝存付而致伺公候通被聞召、為御禮被仰越候段、御事多内御慇懃
 之儀共候、次ニ、荒木左馬助殿之儀被聞召由、忝存候、尚期後音候、恐惶謹言
       五月十四日
       松平伊豆守様
             人々御中

 上記二つの書状から、この時期左馬助が徳川家光への奉公を望み、これが承認されたことを知ることが出来る。
しかし僅か四年後、左馬助にとっては思いがけない事件が起こる。城中にあった養母・荒木局の流罪事件である。
その原因はよく判らないが、左馬助は連座の罪で細川家へお預けの身となるのである。
その後は細田栖隠を名乗り、荒木村重の血筋は細田氏として細川家に仕え明治に至っている。

  ■(寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書)

 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指置候、
 扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
     五月十日               阿部対馬守
                        阿部豊後守
   細川肥後守殿               松平伊豆守
                                     (綿考輯録・巻六十一)

 綿考輯録は次のように記している。
  荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、
  御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君
  より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も
  無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置か
  たく御預ニ成、後熊本ニて果候

正保二年「御扶持方御切米御帳」には「金小判三十両 細田清印」という記載が有り、まだ知行が確定されていないことを伺わせる。

 

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■洗馬川(坪井川)沿いを電車... | トップ | ■鳩野宗巴の西南の役観察‐薩... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
烏丸光広と入魂だったのは沢庵です (荒木幹雄)
2023-05-14 00:39:06
 綿考輯録には「烏丸光広卿前廉(まえかど。以前)村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、」とあります。
 しかし、烏丸光広は天正七年(1579)生まれであり(1579-1638)(『国史大辞典』)、荒木村重は天正十四年(1586)堺で52歳で病死しており(『寛永諸家系図伝』)、石碑つまり墓は千利休が修行した堺の南宗寺にありました(瓦田昇『荒木村重研究序説』p354の「藤原姓荒木家系譜」)。村重が病死した天正十四年(1586)、烏丸光広は数えで8歳であり、烏丸光広が荒木村重と入魂だったとは考えられません。
 烏丸光広が入魂だったのは沢庵宗彭(たくあんそうほう)(1573-1645)です(高梨素子著松永貞徳と烏山光広』笠間書院、2012年、p88-89)。
 沢庵は、堺の南宗寺、京都の大徳寺の住職を務め、元和元年(1615)に大阪夏の陣で焼失した南宗寺の伽藍を復興しました(『国史大辞典』)。
 つまり、沢庵と荒木村重家は、元々住職と檀家の関係であり、沢庵と村重の娘の荒木局、村重の孫の荒木村常(左馬助、のちの細田栖隠。荒木局の甥)(『寛永諸家系図伝』)との関係は深かったと考えられます。
 烏丸光広の孫娘は、細川肥後守光尚に嫁いでいますので、烏丸光広が亡くなる寛永十五年(1638)以前に、まず荒木村常が将軍家への奉公を沢庵に頼み、沢庵が烏丸光広に頼んで、烏丸光広が細川肥後守光尚に頼んでいた、と推測されます。
 『寛永諸家系図伝』の編纂時に、荒木村常が荒木家の系図を寛永二十年(1643)に幕府に提出したと考えられますが、瓦田昇『荒木村重研究序説』p357の石井信氏所蔵の「藤原姓荒木系図」は、原本を見ると『寛永諸家系図伝』の荒木家の系図より詳しく、荒木村常が幕府に提出した原稿(呈譜)だったと考えられます。同書p357に「右紫野沢庵の術也」とありますが、原本では正しくは「右紫野沢庵之述也」であり、意味は、「右は京都紫野の大徳寺の住職の沢庵が述べた」です。つまり、沢庵が荒木村常に頼まれて荒木家の系図の原稿を作った、と考えられます。『寛永諸家系図伝』に荒木村重について非常に詳しく書かれている理由がこれで理解できます。沢庵は荒木村重について当時あちこちに残っていたであろう多くの史料を入手できる立場にあったと考えられます。
 沢庵が紫衣事件で寛永六年(1629)から寛永九年(1632)まで出羽上山(かみのやま)藩に流罪になった際に、出羽上山藩主土岐山城守頼行は沢庵に帰依し、手厚く保護し、上山に春雨庵(はるさめあん)を作っています。
 後に3代将軍徳川家光も沢庵に深く帰依し、沢庵の為に寛永十五年(1638)に品川に東海寺を建てています(『国史大辞典』)。
 土岐山城守頼行はこの品川の東海寺にも沢庵の為に春雨庵を模した塔中を建てて、貞享元年(1684)没後、ここに葬られています(『国史大辞典』)。これほど土岐山城守頼行は沢庵に心酔していました。
 正保元年(1644)五月十日女房松山が自分の子を銀座年寄役にするため後閤(大奥)表使の女房荒木の名を使って消息を銀座に送った事が発覚し、巻き込まれた荒木局は出羽上山藩主土岐山城守頼行に召し預けられ、荒木局を養母とする荒木村常は肥後熊本藩主細川肥後守光尚に召し預けられ家臣となりました(瓦田昇『荒木村重研究序説』p45)
 正保元年(1644)荒木局が罪に問われた際に、本来遠島等のもっと重い処罰を受けるはずだったのが、沢庵が3代将軍徳川家光に頼んで、上山藩への流罪という減刑にし、土岐山城守頼行に荒木局を厚遇する様に頼んだのだろう、と私は推測しています。
 荒木局の娘は中村文左衛門尚春に嫁ぎ、中村文左衛門尚春は『上山三家見聞日記』を書きました (『上山三家見聞日記』上山市史編さん委員会、1976年、p(13))。
 荒木局の墓は、上山市軽井沢の浄光寺に現存しています。
 浄光寺境内にある庭園は沢庵が作庭しています。
 元禄十年(1697)、松平信通(藤井松平家当主)が上山藩(藩庁・上山城)に入封すると歴代藤井松平家の菩提寺に定められ歴代藩主から庇護を受け寺運も隆盛しています(浄光寺のホームページ https://www.dewatabi.com/murayama/kaminoyama/jyoukou.html)。
返信する

コメントを投稿