津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

近世紀行文集成

2007-09-30 21:39:07 | 書籍・読書
 図書館にて上記の本を借りる。第二巻-九州編である。

・旅の恥かきすての記 日柳燕石
・膝打毛       一返舎琴声
・筑紫藤夢物語    其鹿
・佐藤信淵九州紀行  佐藤信淵
・菅の下葉      作者不詳
・摂西奇遊談     秋里籬島

以上が紹介されているが、これが中々面白い。
「熊本城は素晴らしいが、総じて貧しく豪農・商家が少ない。赤い酒は口に合わない。」等々夫々が率直に熊本を語っているのが興味深い。一両日読書が楽しみ。
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130年の歳月

2007-09-30 08:44:59 | 歴史
 明治十年九月三十日、家族にさえも知らされる事なく、上田久兵衛は斬首の刑に処された。獄中でこよりを解き開いた小さな紙に、箸の漆を噛み砕いた汁を爪楊枝に浸して書き残したといわれる、何篇かの辞世とも思われる詩歌が残されている。久兵衛の妻は、細川家重臣沼田家の娘である。そんな妻を想って残した歌は、何度読んでも涙を禁じえない。
 
   秋風の便りに聞けば古里の
          萩が花つま今盛りなり

 今日はそれから丁度130年。玄関脇に咲いた彼岸花を五六本切って仏壇に供えた。久兵衛の無念さを思わせるように、彼岸花の色が激しく紅い。そして小さな雨が降り出した。久兵衛の涙雨かもしれない。熊本は50数日の真夏日を脱して秋の気配を増していく。
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忙しいですよ:展覧会、シンポジウム、講演会etc

2007-09-29 14:18:10 | 熊本
■熊本市現代美術館ギャラリー 開催中~11/18まで
    「描かれた熊本城・近世城下町に見る熊本」展
■10月1日(財)島田美術館・再オープン
■熊本県立美術館 10月12日(金)~10月25日(土)
    加藤清正・忠広・細川忠利「激動の三代展」
 ・10/12(金)講演「加藤時代の熊本城」
 ・10/20(土)講演「加藤清正と細川家の武器と武具」
 ・11/03(土)講演「清正・忠広・忠利の政治と肥後の民衆」
 ・11/10(土)講演「三代の美術工芸品について」
 ・11/17(土)講演「加藤清正肖像について」
■熊本城天守閣3階 10月12日(金)~11月28日
    記念特別展示「清正公~神様になった殿様~」 要・城内入場料
■10月13日(土)市民会館ホール 佐々淳行氏ほか
    熊本城と西南戦争シンポジウム 13:00~
        申し込み 熊日新聞広告局営業企画部
■肥後学講座 熊本ルネッサンス・熊本城400年記念講座
 ・第1回 10/07 「細川家・美と戦いの700年」その魅力を語る
 ・第2回 11/11 「熊美と市博への寄託美術工芸」見学
 ・第3回 12/02 「古今伝授の間と藩校時習館教材」見学
■八代市立博物館未来の森ミュージアム
      10/19~11/25 「小西行長」展 
 ・10/20(土)講演「戦国武将小西行長の生涯」
 ・11/10(土)講演「八代とキリスト教文化--
              行長からアグネスへ」
 ・11/17(土)講演「韓国から見た秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱)」
■歴史リレーシンポジウム「肥後400年の品格」
  第2回「経世済民宝暦の改革に見る肥後スピリット」
      11/4(日)熊本市民会館大ホール
■肥後加藤家顕彰・特別講演とシンポジウム
   「加藤家の謎に迫る」歴史に名を残す武家ロマン
      11/10(土)入場料2,000円 (発売中)
      場所:熊本市産業文化会館7階大ホール
 ・9:00~12:00 講演「肥後と加藤家」 六氏
 ・13:00~16:30
      記念講演会「細川家文書からみる加藤家のことなど」
           講師 山本博文氏(東大資料編纂所教授)
      講演「肥後と加藤家」 四氏

 さて皆さんは、どちらへお出かけになりますか。

              
               
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田邊籠城衆と飯岡豊前誅伐事件

2007-09-29 10:13:05 | 歴史
 飯岡豊前・長岡肥後父子誅伐事件は、その原因が判然とせず釈然としない。伝えられるように細川興秋の証人を嫌っての出奔が原因ならば、父豊前は関係なかろうと思うのだが。
 豊前の娘壻麻生吉右衛門はこの事件の際、日頃の不仲を謝し駆けつけ共に討手と戦い討ち死にしている。吉右衛門の父吉右衛門は飯岡豊前(当時・篠山五右衛門)と共に、田邊城籠城に於いて戦い苦労を共にしている。豊前の妹・おいまは一宮大蔵丞に嫁しているが、この一宮家は同じく籠城組の寺井道雲・吉右衛門父子と親戚関係にある。田邊籠城衆が死を掛けて戦った数ヶ月間は、強い仲間意識を醸成し縁戚に繋がる人間関係を作り上げている。さればこそ岳父豊前の元に駆けつける吉右衛門の心情に思い至るのである。
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絵手紙

2007-09-28 23:17:00 | 徒然
 日頃入った事のない、近所の住宅地の路地を歩いてみた。あるお宅には大きな石榴の木があり実を沢山つけている。珍しいなーと立ち止まって眺めていると、玄関内でガチャガチャ音がする。あわてて離れると小学生らしい女の子が出てきて、その手に一二個実がついた石榴の枝を持っている。一緒に出てきたお母さんから「走っちゃ駄目よ、落ちちゃうよ」と声を掛けられている。同じ方向に歩き出した女の子に「石榴だねー。めずらしいなー」と声を掛けると、「今日絵手紙を書くんです」と言って早足で去っていった。後ろから「一枝お持ちになりませんか」と声がかかった。答えがいけなかった。「絵手紙が欲しいですね」・・・まずかった、素直に頂戴すればよかったのに・・・。
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旧主を考える-17 蒲生氏郷

2007-09-28 08:04:30 | 歴史

                                                                            
                                                                                           鯰尾兜

 細川家家臣吉田如雪家先祖附によると、その祖・美作は8,000石、息・作兵衛は別禄200石で蒲生飛騨守に仕えたという。蒲生家没落後共に牢人、美作は病死する。作兵衛は加藤主計頭(清正)に300石で仕官するも加藤家改易、後病死。息作左衛門も加藤家に在ったが牢人、慶安二年細川家の召し出しを受けた。
 蒲生家で8,000石の家柄であれば、高名な家臣であったろうとインターネットで検索したがはかばしくない。
 そして、熊本の安国禅寺には蒲生秀行のお墓があって、鎧を着た遺骸がでたと言われるが、これは果たしてどういう訳なのか。秀行女が加藤忠広室なのだが、とすると幾人かの蒲生家臣が加藤家に来ている事はないか。作左衛門もそんな一人なのだろうか。興味は尽きない。

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気になる記事

2007-09-27 21:05:19 | memo
 歴研の歴史論文集「在野史論」の記事目録を見ると、ちょっと気がかりな論文が見える。
■第9集 平成13年8月刊 肥後細川家に仕えた我が先祖 (跡部真)
    同上      西南の役異聞 (松本茂)
■第12集 平成18年刊  山名氏の光芒 (井田敏子)
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田邊籠城衆カ・・・

2007-09-27 16:52:36 | 歴史
 細川家の筆頭家老松井家の、「御給人先祖附」(八代市史・近世資料編Ⅳ)によると、堀口庄右衛門の祖は山名藤広入道一雲齋とある。一雲斎は三淵(渕)伊賀入道宗賢(細川藤孝父)の同姓親類で、将軍義輝に仕えた。義輝(義藤)の一字を拝領して藤広と名乗った。泰勝院(細川藤孝=幽齋)の薩摩行きにお供したが旅の途中で病死した。
 その子喜六光広は改姓して堀口氏、丹後久美で御切米二十石、宮津屋敷御留守居の時幽齋が田邊城に籠城、宮津屋敷から武具兵糧を船で搬入したという。当然のことながら、籠城に加わったと考えるのが妥当であろう。
松井家の堀口庄右衛門は鉄炮頭で150石である。

 このことは山名氏を調べている内に分かった事だ。細川藤孝は三渕氏である。細川家に養子となるが、三渕の末弟好重は異母弟で山名氏を名乗っていた事がある。その生母は山名民部少輔一雲斎と記されている。(ここで堀口氏と繋がった)その故であろうが、その後も三渕家では山名氏を名乗る人が数人いる。(家督前のことだろうか)
 何度か目にした資料にもかかわらず、こんな事もある。籠城衆に加えるべきであろうかと思案中である。
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旧主を考える-16 加藤嘉明

2007-09-27 11:08:11 | 歴史
 加藤嘉明は秀吉代伊予松山藩主(20万石)をへて、秀吉没後は家康の下で働き会津40万石の藩主となる。

肥後藩士梅原七兵衛は、父十助が会津藩士であった。加藤家は家中のいざこざで二万石に格下げになったから、その折離れたのだろうか。七兵衛は長曾我部の一門のようだ。柳生宗矩の高弟で請われて細川家臣となり、江戸にて光尚附きとなった。光尚死去後の細川家存続問題に当たっては、松井寄之等と共に奔走、懐中に短刀を忍ばせ幕府重役の袖にすがったりして困難な交渉に臨み、その活躍を以って「袖引き梅原」と渾名される。300石
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旧主を考える-15 石田三成

2007-09-27 08:24:17 | 歴史
 續亀之助は、初め明智光秀に仕え、後石田三成に仕え関が原で活躍の処を忠興に目撃されている。細川家に仕え大阪の陣でも活躍している。

 余談だが、石田三成の軍師島左近は慶長五年に亡くなったとされるが、一方生き伸びたとされる異説もある。7/26熊本日日新聞の「くまもと地名あらかると-83」によると、西岸寺町の名の由来である「西岸寺」は、創建は安貞二年(1222)という古刹だが、寛永十年(1633)僧・泰岩びよって中興されたという。この泰岩こそが島左近で、細川忠興に招かれたという。細川氏の肥後入国直前、加藤改易後の肥後内偵の命を受け「西岸寺」に入寺したという。(藤吉洸氏・熊本地名研究会)京都立本寺他数箇所にお墓があるらしいが、有名人はいくつ身体が有っても足りないという事か・・・
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長岡佐渡暗殺未遂事件

2007-09-26 21:01:47 | 歴史
 日本談義の膨大な索引目録に目を通していたら、上記のようなものに出くわした。昭和29年6月号に掲載されている。約7ページに及んでいるが、気になってしょうがない。「天保時代の一事件」とあって、著者は宮本謙吾氏。図書館に走らねば・・・
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旧主を考える-14 明智光秀

2007-09-26 08:00:29 | 歴史
 ご存知明智光秀についての説明は必要なかろう。その娘が細川忠興室ガラシャ夫人である事はご存知の通りである。

■三宅藤兵衛・三兄弟 ガラシャは死に臨むに当たり甥藤兵衛の事につき遺言している。「三宅藤兵へ事を頼候也、此上にいはれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に」明智左馬助光春の子・与平次重利(藤兵衛)の事であるが、細川家を退身後寺沢家に仕えた。島原一揆の当時天草富岡城の城代を務めて戦死する。三宅藤右衛門・新兵衛・左京の三兄弟は、寛永十九年十二月の「御合力米被下候留書覚」にあるように、この年召し出されたのだろうと、綿孝輯録は記している。

■麻生吉右衛門 阿波の三好氏に仕えた後、明智家に仕えたとされる。細川家への仕官が何時の時期であるのか判然としない。飯岡豊前の娘壻である麻生は、「飯岡豊前・長岡肥後誅伐事件」に際し、日頃無音であることを詫び舅と共に戦い討ち死にする。慶長十一年七月二十七日のことである。
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加藤清正と「京都六条本圀寺」

2007-09-25 10:45:35 | 歴史
 大光山本圀寺は日蓮宗の本山、室町期の色々な文書にその名が見える。現在の西本願寺の北側に、五条通りを挟んで広大な寺域を誇っていた。現在も了円院、勧持院、智妙院、松林院、隋雲院などの、かっての本圀寺の塔頭が残り往時を忍ばせている。加藤清正は京に上ると勧持院を宿所にしたという。「京都六条本圀寺」というすごいサイトがある。かってここに清正門があり、清正女(瑶林院)建立の清正堂があり、清正が作庭したという円龍院林泉があったことをこのサイトで知った。本圀寺は昭和44年、寺勢が衰微し山科に移転した。清正門はここに移され「開運門」となり、清正堂は金色のまぶしい鳥居をもつ清正宮になっている。清正宮は清正廟である。サイト「京都六条本圀寺」は、今はない本圀寺の風景や建物の写真などを織り交ぜ、往時の本圀寺の寺勢を覗わせてくれる。
秀逸のサイトであり敬意を表したい。昨日はこのサイトに数時間釘つけにされてしまった。
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いよいよ

2007-09-25 08:48:00 | 熊本
 (財)島田美術館が10月1日再開オープンする。計画道路の話が持ち上がったとき、島田館長は終始一貫反対の態度を貫かれた。結果として1/4に及ぶ大切な美術館敷地が、この道路計画の為に召し上げられた。私は半年ほど前現場を訪ね、周辺の余りの変わりように吃驚したものだ。静かなたたずまいの歴史を感じさせる町並みが、無残にも無機質なコンクリートの塊で分断された。この部分は地下トンネルとなり、上は緑地帯になるらしいが。敷地内に有った大きな樹木も出来る限り動かされたと聞く。新たな島崎の顔、熊本の財産として島田美術館にかけるフアンの期待は大きい。少し時間を置いて奥山の木々が紅葉し始める頃出かけようかと思っている。そういえば「島田美術館」のサイトを随分久しく見ていない。サイトは昔のままのやさしい雰囲気そのままだろう。


追記:サイトを開いてみると未だ完全ではない状態が察せられる。ブログでも
   その慌しさ振りが伺える。8/4ブログに出てくる「番犬たんちゃん」が、
   色といい、姿かたちといい我が家の愛犬に余りにも似ている(99%カ)
   事に吃驚・・・このワンちゃんにも会いたい。13:18
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カヒ屋

2007-09-24 21:12:59 | 徒然
 確かに腰に二刀を手挟んでいる。足元は雪駄だったようだ。途中の竹林で細い竹を選んで釣り竿を作る。その釣り竿を肩に担いで歩く私の横を車が走りぬけていく。私が歩いているのは江津湖の土手道だ。しばらく歩くと一面の葦の原が現れた。土手を下り葦を掻き分けて進むと突然視界が開け、前面には美しい阿蘇の山並みが見える。私は釣り竿に「てぐす」を結び付け、餌をつけて釣りに懸かる。しばらくすると面白いように魚が釣れる。目の前には大学生達がボートの練習をしている。咽喉の渇きを覚えて、上の土手に上がると、少し離れたところに二坪にも満たない、粗末な小さな茶店がある。軒先につるされた小さな木切れの看板が風に揺れていた。「カヒ屋」と書いてある。私は躊躇することなく「カヒ」を頼んだ。粗末な「ばんこ」に腰をおろしていると、十六・七位のかわいい娘がお盆に椀をのせて運んでくる。香りのいい真っ黒な飲み物で疲れを癒す。目の前を小さなトラックが凄い勢いで走りぬけた。店先までひどい土埃だ。「すみませんねー、お客さん」と桃割れ頭の娘が頭を下げた。きらきら輝くかんざしをさしている。「きれいだねー」と声をかけると、てれたように「有難う御座います、これすすきです」と返事が帰ってきた。「ほんとに綺麗でかわいいよ」と声をかけ勘定をすませる。「こんなところで、こんなにおいしいコーヒーが飲めるなんて思いもしなかった」と再び声をかけ、真っ赤な夕日を眺めながら、釣り竿を肩にかけて帰路につく。ボート遊びを楽しんだ家族連れが、三々五々家路を急いでいる。我が家まであと少しだ。

 起き掛けにふと笑ってしまった。変な夢を見てしまったが、なかなか面白いじゃないか。椀に入ったコーヒーを片手で飲むのも変なものだが、味はGOODだったなー。
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