津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■江戸證人幽齋未亡人光壽院

2023-04-01 09:02:07 | 先祖附

 慶長15年細川幽齋が京都三条車屋町で死去した。忠興は母・光壽院を江戸辰口邸に住まわせることになるが、これは江戸證人(16年10月頃~)としてである。
辰口邸は慶長8年頃に出来上がっているが、熊本大学名誉教授北野隆氏の日本建築学会論文報告書「細川家文書による近世江戸屋敷の研究」によると、龍口邸は三つの建物(本屋敷・光寿院の家・居間)にわかれていたらしい。
忠興は江戸證人である光壽院に対しては、細やかな心遣いで遇している。

この時期忠興は失明するのではないかと心配するほど目を悪くしていた。一方光壽院も体調は芳しくなかったようで、風呂を使う事を辞めさせるようにと書簡を発したりしている。  

■(元和四年)四月朔日、忠利君江之御書之内
   追而申候、光寿院殿御屋敷と路地との間之土居ニ、来つゆ之内ニこから竹をうらおもてニひしと植、土居を藪ニ
   したて候まゝ、竹之儀才覚候てつゆの内ニうへさせらるへく候、ちいさき竹程能候、なかきハ悪候、いかにもや
   せたる小藪か能候、其才覚不成候はかハせらるへく候、竹沢山ニ候は、何方ニ而も路地へ裏之家ノ見ゆる方ニ家
   かくしに植度候、二畳敷・三畳敷ほと路地ニハまろくうへさせらるへく候、又土居の下ノ方水つき二ハ柳木をさ
   ゝせらるへく候、以上

 まるで茶室に於ける茶庭の作庭を思わせるような感じさえする。
そんな忠興の指示が間に合ったのかどうか、光寿院は六月に入り病となる。そして七月廿六日御卒去、御年七十五歳であった。
忠興は「御死目二とても相候事成間敷候間・・」と覚悟をしながらも、七月十三日小倉を発している。「右之目は捨二仕、左之能方之ひとみ(略)上下へほそ長ク罷成、事之外かすみ申候」状態で、廿九日吉田に到着している。
「我等心中御推量候而可被下候、取乱申候而一書ニ申入候」と、後事を忠利に託して忠興は京に十四五日滞在の後、小倉へ帰っている。
そして十月初小倉を発ち、吉田に逗留して目の治療をし、十一月江戸着、廿七日将軍家に御目見している。


 江戸證人とはいえ、屋敷には孫の忠利がおり心安らかな晩年であったろう。
元和七年正月七日忠利が家督相続、大名妻子の江戸居住令により忠利室保寿院が江戸に下るのは八年十月である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■豊国廟再建に命を捧げた男、幽齋公女・伊也の嫡男・萩原兼従

2023-04-01 08:14:45 | 歴史

 熊本市の立田山の泰勝寺の西脇から、立田山山頂に到る道脇に「豊国廟跡」がある。
しかしその場所のしめ縄が巻かれた岩などもどうやら豊国廟とは関係ないもののようだ。
秀吉没後、慶長4年加藤清正によって建立されたとされるが、現在ではその場所さえ定かではなく特定されていないというが、これは徳川家康による徹底的な豊臣廟排除の意向が関係しているのだう。

 秀吉は慶長3年8月18日に亡くなったが、その死はしばらく伏せられていた。
その後遺骸は密かに運び出されて、阿弥陀ヶ峰に埋葬され、其の後この下段の地に豊国廟が建設された。
30万坪にも及ぶ壮大な報国大明神の神領が形成された。
これに深くかかわったのが、吉田兼見の18斎年下の弟・梵舜と、兼見嫡男・兼治(室‐細川幽齋女・伊也)の嫡子で萩原家を創家させ豊国神社社務職に就かせた兼従である。
吉田神道家によって秀吉は祀られてきたが、梵舜・萩原兼従の献身的な奉仕も虚しく、豊臣家滅亡を受け徳川家康の破却命令により元和元年四月には粗方が破却されてしまった。

                                                        
                                                                 萩原兼従 (系図)

更に、参詣の道を閉鎖するように妙法院が画策し更に豊国神社神宮寺領まで取り上げたのである。
以降秀吉廟への参詣は不可能になった。
梵舜はこの不幸な出来事を「盛者必衰ノ理ハ目ノ前ニアリ、哀レ也」と自らの「梵舜日記」に記し、破却された豊国神社の御神体を吉田神道家の斎場所へ収めている。
吉田神道家による豊国廟再建の働きは、その後徳川家の援助により一縷の希望が見えたこともあったが、幕僚の反対や妙法院の抵抗などがあり、遂にその希望の火は潰えたのである。
豊国廟の再建は時代が移り変わり、今度は徳川幕府の滅亡によりようやくその道が開かれた。
明治天皇の御沙汰によって、その機運は一気に盛り上がった。
大坂・京都が廟建設に名乗りを上げたが、荒れ果てたながらも秀吉廟が残る京都の阿弥陀ヶ池の地に豊国神社が再建され、大坂では中之島の旧細川藩邸に大坂豊国神社が再建され、後には中の島公会堂の地へ移転した。
そして大坂城再建の大構想が生まれるのである。大坂城の完成と共に大坂城豊国神社となった。

 徳川家光は豊国廟再建に対しては大変理解的であったと言われる。また家光の義弟・保科正之は吉田神道家の良き理解者であり、これも同様であった。それにもかかわらず萩原兼従の願いも虚しく、夢はついえたのである。

                                 参考:津田三郎著「秀吉・英雄伝説の軌跡」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする