元和の改元は、「後水尾天皇 の即位と、大阪の陣などの戦乱の災異の終息」にあたり行われたとされる。
慶長20年5月8日、大坂夏の陣において大坂城は落城、豊臣秀頼・淀殿ら自害し豊臣家は滅んだ。
その3ヶ月後(慶長20年は閏6月がある)の7月13日(新暦1615年9月5日)に「元和」と改元された。
ここではその改元前の時期については「元和元年(慶長廿年)」と表記することにした。
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忠興文書-元和元年(慶長廿年)・・大坂夏の陣勃発、豊臣家滅亡
80、(慶長廿年)正月三日書状
・大坂落着ノ觸状到来
・御奉行衆への返書遣候事
・嶋津・加肥後・田中筑前への書状
・忠利豊前ニ下國タルベシ
81、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月朔日書状
・忠興上關ニ著ス、一両日中ニ小倉ニ著スベシ
82、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月六日書状
・光(=光尚)ノ祝儀の礼
・関東木綿到来ノ礼
83、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月十五日書状
・羽班五十進之候
84、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月七日書状
・光ノ発熱ニツキ注意ヲ與フ
・干拓ノ為曽根ニ堤ヲ築ク
85、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月八日書状
・光ノ病状良シ
・尾そりヨク鳥ヲ捕フ、「日本」ゟヨク鶉ヲ捕フ
86、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十一日書状
・光ノ病状良シ
・曽根ノ堤出来ニツキ中津ニ赴カン
87、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十二日書状
・鹿皮・土筆給り喜悦候
・曽根ノ堤普請大方出来ス
88、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十五日書状
・曽根堤完成ニツキ十九日廿日ノ間ニ中津ニ至ルベシ
(徳川家康4月6・7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結を命じた)
89、(慶長廿年)四月十一日書状
・出陣ノ用意・・・(夏の陣)
・中津馬乗ハ昨年ノ如クタルベシ
・忠利ノ乗舟ヲ中津ニ下ス
・中津ノ普請ヲ中止セシムベシ
90、(慶長廿年)四月十三日書状
・出陣ノ用意ー陣用に米を貸す、忠興の触れを待つに不及、駿府から御触れなくとも用意すべし
・羽織、小姓共ニハ揃ノ指物ヲ申付ベシ
・奉行又ハ頭ノ他ニハ指物ヲ許サズ
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