津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十年・十二年・十五年」を読む

2023-04-18 08:28:45 | 史料

 忠興文書の慶長十年から十五年にかけての文書はいたって少ない。5点が取り上げられている。
 尚、綿考輯録から主だった記事を補填させる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

忠興文書-慶長十年
 40、三月三日書状  (この書状については綿考輯録では慶長十六年のこととしている)忠興公‐上、p455)
  ・三日兵庫に到着、明日大阪に着、五日秀頼に謁見の予定、六日に出発して吉田(京都)へ

 41、三月十五日書状
  ・病のため江戸参勤は御免となり差延べとなった

 (三月、与五郎興秋主を証人として江戸江被遣、忠利君の代りと被成候処、途より御出奔ニ付、長岡平左衛門重政を以
  証人と被成候)(興秋、京都建仁寺の塔中十如院ニ着、御剃髪)
 (四月、家康将軍職御辞退、六日秀忠公将軍宣下、同廿六日為拝賀御参内、忠興上洛)ー綿考輯録・忠興公‐上巻p433
慶長十一年
 (江戸城石垣普請御手伝 忠利在江戸にて諸事被仰付)
 (二月中旬、忠興大徳寺希首座を子細有りて御手討被成候)
 (七月廿七日、飯河豊前・其子長岡肥後を御誅伐被成候)ー綿考輯録・忠興公‐上巻p435~

忠興文書-慶長十二年
 42、三月廿日書状(もしくは十五年)
  ・近日下国の予定

 (慶長十二年十一月朔日、兵部卿妙庵幸隆主、豊前竜王城にて御卒去、37歳)
 (十二月十四日、(有吉)武蔵守立行備後国ニて病死、50歳)
 (今年、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、22歳)
慶長十三年
 (正月、有吉四郎右衛門康以父武蔵守遺跡無相違、諸格式共ニ先代之通被仰付、長岡并御名乗の字拝領、長岡内膳正興長
  と改直ニ高田在城仕候)
 (今年駿府の城御修営、諸将と共ニ忠興君も駿府に至りて御勤被成候ー沢村大学も相詰皆朱の鑓を持たす)
 (今年忠利君御縁組之儀両御所様被仰出、忠興君御満悦ニ而御礼被仰上候)(四月下旬忠利君御婚礼御整被成候)

忠興書状‐慶長十五年
 43、閏二月廿三日書状
  ・名古屋城普請はになるだろう
  ・石の調達とその数の確認

 44、(慶長十五年ヵ)四月廿三日書状
  ・七月二所の祝儀
  ・忠利の帰国を待つ

  (八月、幽齋君於京都御大病之告有之候間、昼夜御急御上、廿二日御入洛被成候へとも、幽齋君ハ廿日御逝去・・・
   御遺言にまかせ荼毘して、御遺骨を南禅寺天授庵と豊前小倉ニ御わかち被成候・・・九月十三日小倉下着、十八日御葬送の御規式有)

     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大凡荘主人・柴垣隆と周辺の人々

2023-04-18 07:54:12 | 人物

                 

 昨日図書館で570頁という大部「大凡荘夜話」の「目次」16頁をコピーした。
大部というのは過去に発刊された「天の巻」「地の巻」「乾の巻」「坤の巻」「龍虎の巻」「無窮の巻」が合本にまとめられたが故である。
巻頭を飾るのは、堅山南風の口絵「筆者像」である。武者小路実篤岸信介安岡正篤尾崎四郎などの序文が並ぶ。
それぞれの巻にも序文があり、このほかには保田与重郎牛原虚彦小宮悦造池松文雄小坂順造などの名前が見えその交流の広さが感じられる。
改めて著者(口述筆記・佐喜本陽太郎)柴垣隆なる人物が何者なのだろうかの感を強くする。
全く偶然だが、過去に大凡荘に関してこのブログで取り上げたものの中に、あの棟方志功昭和廿玖(29)年四月十八日の日付で、「不動明王□板畫像」の制作方の依頼文もしくは御礼の書簡(下写真)を取り上げたことがあった。
この本の巻頭を飾っている堅山南風にしろ、この棟方志功にしろ、大いにこの柴垣隆の力を頼っていることが伺える。
棟方は保田与重郎を頼っていたようだ。

               本文数ページ省略 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする