津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■22時頃の夜空

2020-07-31 22:01:02 | 熊本

                                              
              少し雲がありますが、月齢10日の月と、ずーっと左に木星が並んで見えています。
    30日梅雨が明けて、猛暑日寸前の暑さが連続していますが、明日もドピーカンの一日になりそうです。

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■李登輝氏逝く

2020-07-31 13:48:36 | 徒然

               

 李登輝氏が亡くなられた。私は新渡戸稲造氏の「武士道」とともに、李登輝氏の「武士道解題」を愛読している。
「ノーブレイス・オブリージュとは」と副題がつけられていて、指導者のあるべき姿を説いている。
昨今の政治家の退廃ぶりを目にする時、欧米の富裕層が当たり前の価値観とする noblesse oblige(高貴なる者の義務=)の精神を、日本の政治家にも共有してもらいたいと念ずる。
日本人は宗教挙育がなされない中、内的な道徳律を失った。
しかしながら、昨今の地震や津波、水害などの大災害を蒙りながら、泣き叫ぶこともなく自らを律しながら、水や食料の配給に整然と列をなしている人々を見て、日本人の血に流れる忍耐と寛容さに心を打たれるのである。
何をして日本人の道徳律はもたらされているのか、世界の人々が感嘆の声を上げる。
新渡戸稲造の「武士道」を読むと、まさに日本人の道徳律として、脈々たる武士道精神が残されていることを実感する。
加えて為政者や政治家・経営者・教育者・有名人・資産家等には、李登輝氏が仰る noblesse oblige の精神を今一度思い直してもらいたいと願う。
あなた方は「高貴なる者の義務」すなわち「社会の模範となるような振舞い」を為さっているだろうか。

李登輝氏の97歳という年齢は如何ともしがたい。ご冥福をお祈り申し上げる。

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■文久三年「恕斎日録」(28)

2020-07-31 08:35:51 | 恕斎日録

202
  十六日 早天より同所出立 久重村御口屋木見分 同所御
203
      境目八角目狩番所見分 尼御前参拝
      廣野ニ而昨日引替候ミネエール筒試打見分
      小子初同道ノ物共 九発悉皆星幕ニ入り 別段無
      類之出来ニ付 此方を持帰候事
       和田源太郎へ祝儀として樽大拾匁遣候事
      右相済 御口屋/\見繕 荒尾引移 大嶋御口屋猿
      渡新右衛門面談 同町福島春岱宅昼休饗応 長須
      御茶屋泊
  十七日 坂下引移 坂下・内田・小田さん手永官銭封印
      同田貫鍛冶小山大和守墓参 此者者 御先代様
204  
      御誘ニ而刀剱鍛錬いたし御懇意之者ニ而 墓参
      いたし候處 当代小山寿太郎不怪欽候事
  十八日 同所出立 高瀬川舟下り 海上廻り 新地塘筋損所
      見分 小田引移 横嶋右新地塘手破損ニ付 今度唐
      人川筋旧復ニ付 新塘千間余築立ニ付 場所見分
      いたし候處 右新地内ニ潮入ニ相成沢山之江鮒入込居
      候ニ付 漁師共七艘入レ候而合せ打を見物 大分
      之得物有之面目有之 夫より上陸御普請小屋ニ
      而昼休 右得物を料理 同道中江廣メ 横嶋幷大園
      庄屋江も盃を遣し 漁師共へも酒代拾御匁遣し
205
      候 右余分ハ直ニ宿本へ御惣庄屋塘より送り遣
      し 右ニ付余程興ニ入隙取 今夕帰府之處遅刻ニ
      及 御惣庄屋丸山平左衛門列より 強而留メ申候
      間 小天村寸志御中小姓野尻八太郎宅江止宿 右
      元気ニ付ニ而大分酩酊ニ及候而 平左衛門列へも
      少々しかり申候由、併同人ハ 御先代様へ同人
      父以来御懇意と申 同人ハ小子殊更懇交ニ付 少
      しも頓着不致 程よく取成候由なり 酒を過不申
      候様ハ尤心を可用候ことなり
  十九日 同所出立帰府之事
206
      此節出在中ハ 南関馬口労宅宿所より 胸痛強差
      起り 長須ニ而も差起り 今日小天村内ニ而尚又
      差起り 駕ニ乗 山を越し帰宅いたし候事
  廿日  病中 右胸痛ニ而引入 保養いたし候事
  廿一日 今日より出勤
  廿二日
  廿三日
  廿四日
  廿五日 今日御天守御武器拝見之事
      先月御達ニ相成居候得とも 余人も一同ニ拝見
      不被仰付候而者 役々手数ニ相成候ニ付 今日支
207
      配頭より■■申来候處 飯田・友成者出在留守ニ
      月永屋同道罷出候 委細者先月御之下ニ記
      今夕新座ニおゐて門二郎より養方之追善能興
      行いたし候ニ付 右拝見後見物ニ参る事
  廿六日 京都より之雇便ニ 当月初 高野山十津川ニ一揆
      一万斗り楯籠 藤堂様之御人数被差向 破北ニ及
      次ニ伊井様御人数被差向 対々之勝負ニ而引取
      其後加賀様・土州様 此方様江も退治被 仰付
      加賀様ハ四期日直ニ御人数差立 土州様ハいま
      た不相分 此方様者京都詰之御人数不足ニ付
208
      暫御猶豫御願ニ相成候由ニ申来
  廿七日
  廿八日 明日繁根木宮御神事ニ付今日ゟ出在
  廿九日 八幡宮お祭礼出勤 例之通無支相済候事

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■細川小倉藩(305)寛永五年・日帳(六月十一日~十ニ日)

2020-07-31 07:01:23 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年六月)十一日~十二日

         |              
         |   十一日         
         |
入牢者へ土々呂木 |一、伊原村之與左衛門、当月二日ゟめしをたべ不申、煩申由、御番衆申来候、土々呂木以心、今程
以心ニ投薬セシム |  幸、籠者の薬を与らるゝ儀候間、以しんニ申届、薬をのませ候へと、申渡候事、
         |                (豊後速見郡)
         |一、久作与御小人惣三郎、六月七日ニ日出へ御使ニ遣、今日罷帰候事、
船頭村上七左衛門 |一、村上七左衛門儀、今迄は村上半左衛門尉屋敷ニ、白井兵介・鏡善右衛門尉心得にて置被申候へ
之処遇      |  共、未緒知行をも不被下、万事利堺ニ罷成物之改をも仕候、御知行取之屋敷ニ其まゝ置申儀い
         |  かゝ之由、白井兵介被申候間、此方ゟ申候ハ、七左衛門儀、今ほとわきのけ借家なとかり居候
         |  ハヽ、弥手前何共成申間敷候、ともかくも、いつれに知行の埒も明可申候間、先其まゝ屋敷をか
         |  し被申、おかれ候て可然由、申渡候事、
中国ノ楊梅購入  |一、中国へ、楊梅買ニ遣候御鉄炮衆桑原主殿与須子又左衛門尉、楊梅二籠かい候て、罷帰候、
新米ヲ上グ    |一、水町ノ少右衛門、新米出来之由にて、小折壱つ上ヶ申候事、

         |              
         |   十二日         
         |                                       (下関、長門豊浦郡)
長崎奉行水野守信 |一、御船頭河村弥右衛門尉長崎ゟ罷上候、水野河内様長崎へ御下向之由二て、筑前ゟハ関ニ四十六丁
赴任二黒田忠之馳 |                          (宗像郡)
走ノ様子     |  立ノ舟二、弐十丁立之小早壱艘付居申由申候、又筑前地の嶋ニも、四十丁立之舟ニ弐十丁小早付
         |    候        (粕屋郡)
         |  居申■、又筑前のあいの嶋ニも、五十丁立ノ舟ニ廿丁立ノ小早付居申候、右両所は弥右衛門ミ申
         |  由、被申候事、
         |                            候由
小黒船来航ス   |一、長崎へ、小黒船とも追々着仕由申候、其外日本舟も弐艘着〇申候事、
         |                               被
         |一、飯銅上右衛門・岩田甚太郎・鶴田勘右衛門、長崎へ去五日に下着仕、御舟戻申候、末次平蔵殿へ
         |                                         カンボジア
小黒船五艘    |  之御音信物・御書被遣候御返事参候、長崎へ小黒船五月廿九日・晦日之間五艘着仕候、かほう
         |        福州
柬埔寨船三艘   |  ちや舟三艘・ほくちう舟弐艘着仕由ニ候、黒舟荷物之儀も、水野河内様末御下着不被成ニ付、荷
         |                                          (水晶)
ほくちう船二艘  |  物なとも上不被申候由ニ候、間紹甫舩も今月廿日之内ニ、長崎へ着可仕由被申候、御銅・すいし
間紹甫船近ク帰着 |  やう少遣申候、能うれ申由申来候、問小左衛門、自分ニ新銭持帰り申候も、直すくうれ申由ニ
セム   銅水晶 |  候、 三斎様ゟ平蔵へ御帷子三つ・御単物弐つ・大樽三つ被遣候由、被申越候、河内様ヘハ白
新銭価ヨク売ルル |  (ニ脱)
三斎末松政直水野 |  羽重弐拾疋被進之由候、長崎御買被成候との儀に付、被進之候ヘハ、一円ニ御取不被成ニ付、態
         |                   
         |  御使者之由候て、御買物奉行ニ被遣候沖津右兵衛・横田清兵衛申由ニ御座候、右之前、一つかき
         |    熊谷九郎兵衛を以、
         |  ニ仕〇御前へ上ヶ申候事、

                                                                      ■「一木三銘」の名香木購入時の、沖津弥五右衛門同僚殺害の逸話は間違いだった・・・


惣奉行用状案   |一、御馬印持七左衛門儀、当月之御扶持方米未請取不申候、何共迷惑申由候、先当月之分ハ各御加判候
馬標持扶持方米  |  て可被遣候、いつれの与へ成共、吟味仕、入可申候間、当分之事ニ候条、可被得其意候、以上
何レノ与ヘカニ入 |                                  (浅山)
レム       |                                   修理
         |      寛永五                                          (田中氏次)
         |       六月十二日                       兵庫
         |        上野■角左衛門殿
         |        貫 角右衛門殿
         |
直段奉行直ヲ究ム |一、御直段奉行福田甚太夫・岡本源次登城仕、被申候ハ、万事直段相究申候処ニ、十匁銭にて合極申
十匁銭ハ迷惑   |  候、然ハ、何も申候ハ、十匁銭渡被下儀、何共迷惑仕候、同ハ五匁銭被下候様ニと色々理申候、
五匁銭ヲ求ム   |  いかゝ可仕哉と被申候、此方ゟ申候ハ、銭を渡候とも、又ハ金・銀・米を渡申候とも、其方ハ無
銀一へんノ直段  |  御構、銀一へんの直段ニ可被仕通、申渡候、
中嶋橋詰ノ門番歿 |一、中嶋橋詰ノ御門番喜兵衛、此中煩申候処ニ、今朝相果申由、御長柄之久左衛門と申もの申来候
         |  事、
金山奉行金山ヨリ |一、春木金太夫、今日御金山ゟ被罷出候、御金子も被持出候事、
金子ヲ持参ス   |
茶壷下着     |一、鈴木助太郎御茶詰被仕舞、御壷とも被持下候事、被付遣候歩御小性も、両人被罷下候事、
         |一、永松宇兵衛与少右衛門、水野河内様御通被成ニ付、内裏ニ御奉行ニ被居候横田権佐・藤本猪左衛
         |  門、御郡奉行平井五郎兵衛・小崎與次右衛門方へ、状持せ遣候事、

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■「一木三銘」の名香木購入時の、沖津弥五右衛門同僚殺害の逸話は間違いだった・・・

2020-07-30 14:30:27 | 歴史

 二日前のブログで些か仰々しく■ひょっとすると・・ある歴史が塗り替えられるかも?なる記事を書いた。
少々興奮気味であって反省しているが、その内容は以下のようなものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
世の中に「一木三銘」とも呼ばれる名香がある。(細川家では初音、後水尾帝に献上の品は白菊、伊達家の末木は柴船と銘せらる)
綿考輯録には次のように記されている。


           去々年、交趾江渡船せしもの帰国、伽羅持参いたし候、
           三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
            寛永元年交趾江
            渡船同三年ニ来
            伽羅白菊と名之

            たくひありと
                  誰かは
                  いはん
                すゑにほふ
            秋より後の
              しら菊の花
          
           箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、
           桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、
           長サ八寸余、外ニ三四寸之木懸目三百目有之、添居
           申候由なり、

 長崎で求められた香木は本木と末木とがあり、本木を細川家が求め、末木を仙台伊達家が求めた。
この香木を求めるために派遣されたのが、沖津弥五右衛門と横田清兵衛であった。
そして本木を求めるか、末木を求めるかで両者は争論となり弥五右衛門が横田を殺害したとされる。
三斎は横田の遺児を呼び、弥五右衛門を仇と思わぬように諭して和解させている。しかしながら横田の遺族は豊前をはなれ、隣国筑前へ離国したとされている。
寛永三年の御水尾上皇の伏見行幸の際には細川家から本木の一部が献上され「白菊」と命名された。

その名香木には横田清兵衛と遺族の怨念に包まれていることになるが、そのような香木を進上したのだろうか。
真実はそうではないようだ。

 私はつい最近、「小倉細川藩」をタイピングする過程で、これらを否定する記事を見出した。
「一木三銘」の名香と、弥五右衛門が横田清兵衛を討ち果たしたという事実は、時系列的に成立しないことが判る。

 その記事は寛永五年六月十五日の日帳の中に存在する。(当該記事は明日UPする)
近々小黒船五艘、柬埔寨船三艘、ほくちう船二艘が長崎に入港する旨の報告があり、その記事の中に「御買物奉行ニ被遣候沖津右兵衛・横田清兵衛申由ニ御座候」とある。右兵衛とは弥五右衛門の前名であり、姓も当時は沖津であった。

 「一木三銘」の香木は寛永三年に購入された旨の三斎自筆の箱書きがあり、これはゆるぎない事実である。
しかし、寛永五年六月十五日現在、沖津右兵衛(弥五右衛門)と横田清兵衛の存在が認められ、是迄語られてきた事柄は間違いであることがわかる。
ウイキペディアで「一木三銘」で検索すると、多くの記事がみうけられ、そのすべてが綿考輯録の記事に準拠している。
興津弥五右衛門は細川三斎の君沢を得たとして、三斎の三回忌にあたり、京都の地で美々しく切腹に臨んでいる。
おおいに違和感を感じざるを得ない。
綿考輯録の編者小野武次郎は下の如く記している。
「君沢追腹せしゆヘハ、弥五右衛門寛永元年三月長崎に役して有し時、名香を持来りて価何程と云ふ、弥五右衛門思ふに、何とそし調へ主人に奉らんと、相役横田清兵衛ニ由を斯と談ずるに、如何思ひけるにや清兵衛曽て談に応せす事、緩々としては佳品手に入す、依て清兵衛を只一刃に殺し、一存に任せ彼名香を得て委細を忠興君に達しぬ、君聴て感悦斜ならず、加恩群にこへ清兵衛無骨の至り、従類必す所存を嗣へからすと制し給ふ、弥五右衛門正保のゆふへ迄存命せしハ君恩なれハ心能切腹せしとなり、名香ハ白菊とて世以て知れりと云々」
そして武次郎は「考ニ少しいふかし」とも書いている。「少しいぶかしい」事とは何を指しているのだろうか。

 ここで武次郎は「寛永元年三月長崎に役し」と記すが、三斎の箱書で明らかなように、此の銘木が手に入ったのは寛永三年のことであり、ここにも錯誤が有るのである。

 御存知のようにこれ等一連の事件は森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」で一気に承知されることになった。
つまり間違った情報が拡散したことになる。
私のような一介の市井の人間が偶然発見した寛永五年のこの記録は、研究者の目に留まることなく今日まで闇の中にあったのだろうか。「福岡県史・近世史料編‐細川小倉藩」の刊行に当り、日帳の読み下しにあたられたり、校訂に携われた方々の御目には触れていることは確実なのだが・・・。

 森鴎外は明治天皇の崩御と乃木希典の殉死を目の当たりにして、わずか数日を以てこの作品を書きあげている。
神沢杜口の記録資料「翁草」の中の「細川家の香木」からヒントを得て書いたともされている。

          

 もっとも、のちには手を入れられたり加筆などもあったようだが、其の史料として細川家の家政所のFなる人物の協力を得ている。綿考輯録の記事であろうか。
一方鴎外は「興津又二郎覺書」「興津家由緒書」等を資料として手に入れている。これは現在鴎外文庫の所蔵する処になっている。

肝心の興津弥五右衛門の先祖附「弐百石・興津宗也」では、この事件の日時など詳細については触れられていない。
唯、「三斎様被聞召上御吟味候処清兵衛儀始末不届ニ付 弥五右衛門儀者被成御免 前々之通相勤申候」としている。
三斎は横田清兵衛について「始末不届」としたと記しているが、真相のほどは闇の中である。

これ等のことから、沖津弥五右衛門が横田清兵衛を殺めたことは間違いなさそうである。
それは何時であったのだろうか。
「細川家の一木三銘」の香木購入(寛永三年)と、寛永五年以降に起こったと思われる弥五右衛門の横田清兵衛殺害事件の二つが、一つのものとして言い伝えられ、鴎外の小説によって流布されたと考えられる。

日帳にはこれに関係するのではないかと思わせる記事が一二認められる。

  ■七月十九日・日帳(細川小倉藩・二 p56)
        交趾ゟ調参申御伽羅注文
     一、御伽羅拾三斤四十三匁五分
          貫目ニテ、弐貫百弐十三匁五分
         右代銀五貫七百六匁九分 壱斤ニ付、四百卅目宛、
                     百目ニ付、弐百六十八匁七分五リン宛
         右之御伽羅上中下も可有御座候へ共、上斗ははなし申候てハうり不申ゆへ、右之通ニ買調、
         上ヶ申候、 御前可然様ニ、被仰上可被下候、以上     とい
           七月九日                      間小左衛門
            浅山修理殿
            田中兵庫殿

  ■九月八日・日帳(細川小倉藩・二 p83)
     一、沖津作太夫儀、右兵衛手前不慮之儀に付、中津ニ御預ヶ被成候間、罷出候儀如何と存候へ共、
       御前もやわらかさうニ御座候ニ付、罷出申由申候事、弥五右衛門□は煩故、不罷成候由、作太
       夫申候事

  この記事の作太夫とは弥五右衛門(右兵衛)の次弟(宗也三男)で「元和六年被召出、百五十石被下」ている。
  宇兵衛の「不慮之儀」とはいかなることであろうか。

弥五右衛門の横田清兵衛殺害事件は、見るべき資料が見当たらずこれらの謎解きは、市井の爺さまにはとても手に負えるものではない。
何方かが、このブログをご覧になって、解決に尽力していただければ幸いに思う所である。

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■植物採取

2020-07-30 09:46:48 | 徒然

              

 昨日の熊本は34.2度まで上がったが、そんな中どうしても済まさなければならない用件が有って自転車で県立図書館まで出かけた。
未だ梅雨明け宣言がないものの、ド・ピーカンの極暑でふらふらしながら帰宅したことであった。
今日は熱中症にかからないように、早朝散歩に切り替えようと6時過ぎから家を出た。
この時間帯だと、木々の影の下を歩くことが出来て、真上からお天道様に照らされることはない。
今日も距離ではなく、ゆっくりのんびり歩くことにした。
そんな中での植物採取である。つゆ草以外の小さな花を付けた野草は名前も知らない。
根を付けて抜いてきたから、後で鉢に植えこんでみようと思っている。
つゆ草は水揚げしたようだから、備前の小壷にでも活けてみようと思う。
今日は35度超えの予報が出ている熊本だが、コロナ感染者も増えているから終日の巣ごもりである。
さて梅雨明け宣言が出ますかどうか・・・

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■文久三年「恕斎日録」(27)

2020-07-30 07:10:59 | 恕斎日録

195
  九月朔日
  二日  今日吉弘力童 従江戸遺髪持参下着之事
  三日  
  四日  今日被 召出ノ事
     一作方田畑共七ハ分ニ而 民喰心遣仕候儀無之言
      上
     一今度被 召連候在御家人共人撰手配等言上
     一南関御防禦筋川口々々番衛等之儀等言上
       右上下達物帳ニ備録
     一四日之晩吉弘加左衛門遺髪葬式之事
196
      荒木甚四郎方より演舌 今度 御二方様御上京
      者 太守様御名代ニ付 御同様之御振合ニ而一
      郡ニ両人完 東目同役者罷出候様との事
     一今度在御家人引廻者 物場ニ而者重士之場ニも
      被召仕候筈ニ付 着座以上之人躰被差越度内意
      申入置候處 荒木方より御小姓頭ニ而も可差越
      候得とも 在中者共も扱も不なれ之由ニ而 迚も
      同役之内より可被差越候間 人撰申上候様との
      事ニ付 岩崎より申談両人申立候事
       在御家人ハ得物/\持参不苦候 槍も立テ行
197
       候儀ハ不相成候得とも一ツニ括り持せ候儀
       ハ不苦候との事
     一今晩同役之内 村上久太郎・橋本源右衛門両人江
                         (人脱か)
      今度 御二方様御出京御供被仰付 在御家支配
      被仰付候御達之事 内意之通
  六日
  七日
  八日
  九日佳節 御礼出仕
      藤崎宮・祇園社参拝 六所宮参拝ハ来ル十四よ
198
      り十九日迄也
       昨日御達
      方今不穏形勢ニ付 太守様御苦舩被 思召上
      候ニ付 天下泰平・国家安全・武運長久之御祈
      祷 藤崎 祇園 六所右三ヶ所へ被 仰付候
      ニ付 御家中之面々参拝いたし候様との御達
       藤崎 九日八時より七ツ半迄 来ル十二日迄
       祇園 右同様
       六所 来ル十四日より十九日迄               とぎき
     一今日御花畑ニ而 歩ノ御小姓高山秋蔵へ逢候處 同        外聞の京都情報
199
      人儀 長州三田尻迄 為外聞早打被差立候而 昨日
      同所より早打ち罷帰候 同所御茶屋へ三條様御列
      七卿御滞留 禁兵者引払 長州之御人数余斗ニ警
      衛いたし居候 正親町様ハ筑前黒崎江御滞留 追
      而者筑前へ御出之筈之由 同所より御伺ニ成候
      處 勅使ニ御取扱ハ無之由 小倉へ者長崎より
      御和睦之御使者参り 其以後者以前之通御交り
      被成度との由なり
  十日  御連枝御供ニ被召連候無足之面々百人 今日よ
      り出立之事
200
  十一日 今日 御二方様四半頃 此元御発駕 御同勢千人
      余 御二方様共ニ御馬上御陳笠を被召 御小姓
      頭両人 御用人両人いつれも騎馬 御供御側物
      頭同様騎馬 いつれも股引 半切 あしろ笠 黒張立
      を冠り勇々敷御行粧なり
       同役一同 下津氏門前ニ而 拝上いたし候事
      今夕 村上久太郎・橋本源右衛門へ祝酒等送りる事
  十二日 今日同役村上・橋本両人 御家人弐百人引廻出
      立 右百人完 両人宅に而出立懸ニ相揃 門前之祝
      酒を冷酒に而振 同役中者 村上宅へ参り 橋本出 
201 
      立を待合 祝盃いたし 支配/\之御家へも土器
      冷酒ニ而盃を差祝候事 いつれも鯨波之声を揚
      勇々敷出立之事
  十三日 今日より玉名江出在之事
      今日早天より出立 中富手永御家人中 小柳村川
      原ニおゐて操練見分 諸生六十人余也
      中頃より雨ふり出し候得とも 西洋筒ハ雨を凌
      候が第一之用方ニ付不相止打セ 半過ニ誘方中
        (催か)
      幷□合之面々呼出 冷酒ニ万引肴二而元気を為
      附候ニ付 尚更勵ミ合候事
202
      今晩会所泊
  十四日 今朝同所出立 平山村湯所ニ而休ミ 中十丁村入
      込 北原九郎太宅昼休 同人より手酒等饗応 三和
      仁村御境目等見分 吉地村馬口労原作宅止宿
  十五日 関村新番番所見立場見分 和田源太郎制作 相求          五月廿四日「南関鍛冶和田源太郎作ミネエルケヘール壱挺代六百五拾目あい求」とある。
      ミネール筒試打見分 中リ不宜候ニ付新作ニ引替候事
      四ッ山原ニ而南関手永御家人中操練見
       諸生八十人余天気ハ宜候得とも中富同様元
       気付差遣候事

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■細川小倉藩(304)寛永五年・日帳(六月八日~十日)

2020-07-29 15:26:50 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年六月)八日~十日

         |              
         |   八日         
         |
誅伐セシ長柄足軽 |一、江渡にて背御法度、御伐誅伐被 仰付候御小人長柄衆二蔵儀、爰元ニ妻子有之哉と、小頭共ニ申
ノ妻子の詮索   |                     〃〃
         |  付、相改候処ニ、妻子ハ無御座由申候、親親ハ式ア殿へ奉公仕居申由、小頭善兵衛・惣左衛門申
         |  候事、               〃
茶壷       |一、御奉行所ニ有之御茶壷、皆川隠岐治ア丞ニ相渡申候事、
         |               〃〃
誅伐セシ小人ノ妻 |一、御小人ノ各左衛門、江戸ニ而背御法度、御誅伐被 仰付候ニ付、爰元ニ妻子有之ハ、占め置かれ
子ノ詮索     |  候へ、得 御諚可申通、真下七兵衛所へ申遣候処ニ、小頭ともニ被申付、被相改候処ニ、妻子無
         |  之由、小頭■■弥左衛門申来候事、
         |  藤原惺窩か
冬ヘノ扶持    |一、妙寿院様之御息御冬様へ三拾人扶持方、寛永四年十二月朔日より永被進之候間、先御銀子壱貫目相
         |                                 (湘雲守沅)
         |  渡、右之御銀子は以来御扶持方之差引ニ成可申旨、京都にて東福寺之沅西堂・山田喜斎差紙取置
         |  相渡申由、野原善太郎罷下候ニ、佐藤少三郎・小野九右衛門方ゟ被申越候ニ付、善太郎書物を
京ノ相場     |  取、六月迄之御扶持方、京之双場ニ仕、大形可有御座通、熊谷九郎兵衛を以申上候処ニ、三拾人
         |  扶持は京着にて可相渡旨ニ候、併、右ニ御扶持方被進之時、銀子之御定ニ候也、其段喜斎ニ■可
         |  相尋旨被 仰出ニ付、右之趣尋申処ニ、御銀ニ而相渡申御約束ハ無御座候由、被申候間、則九郎
         |  兵衛ニ喜斎被申分、直ニ聞せ、其旨を可被申上通、申渡候事、

                  今日図書館へ出かけ、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」を書くにあたり、典拠とした「日本随筆集成19」の「翁草・巻六」を
                  眺めていたところ、前の頁にまったく偶然にも「惺窩五十の歌」という項があり、一、妙寿院惺窩とあり驚いてしまった。

黒部儀太夫切腹  |一、黒部義太夫儀、切腹被 仰付候事、

         |              
         |   九日         
         |
矢箆巻ノ麻糸奥ノ |一、矢箆を巻申麻之糸、御奥御はした衆より申候を、藤田宗理処へ持せ遣候事、
端女ヨリ来ル   |

         |              
         |   十日         
         |
出水見分     |一、神西長五郎・竹内八兵衛予知被申越候ハ、水出候哉と存、罷出見申処ニ、先度之水ヨリハほそく御
         |  座候、若御尋も御座候ハヽ、此段可被仰上通、被申候事
鉄炮足軽諸所ノ番 |一、所々為御番、御鉄炮衆今度被 召上候請状の儀ハ、銘々与頭手前へ被召置、慥成ものにて候間、
         |                                         (正慶)
人トシテノ請状  |  被 召上可被下との与頭書物、証拠之段ノ内、證人之袋ニ入置申候也、右之内、加々山権左衛門
         |  与ゟ被 召上候星野半介請状ハ、此方へ被差上候、権左衛門方へ戻可申筈ニ候へ共、御金山ニ被
         |  罷居、留守にて候ニ付、先此方ニ、右之書物同前ニ召置候也、
早松茸ヲ見分セシ |一、さ松たけ有無見せニ、岩石山へ、寺田五郎兵衛遣候事、うさへハ、同御用ニ、本庄喜三郎遣、
ム        |                                        (財)
奥方綿ノ算用帳  |一、奥方綿之御算用之帳三冊ハ、払帳・諸方の目録壱つ、三宅勘三郎奉ニて被持出候を、才津惣兵衛
         |  算を入、則勘三郎ニ渡申由之事、勿論請払無相違由也、
惣積之目録    |一、惣積之目録、京上申候処、無別条候、当年ゟ先さき/\何ヶ年迄ニ御返弁相済候との書付、可
万事之覚書    |          (栗野)
         |  懸 御目旨ニ付、伝介へ申渡候、其上統暮御預米内、元り共ニ被返遣とのかき付、万事之覚書を
         |  一枚ニ仕、伝介ニ相渡候事、
         |    (長之)
平野長之忌明   |一、平野九郎右衛門、今日いミ明申由ニ而、登城仕候事、
         |           (守信)                    (大里、規矩郡)
長崎奉行通行ニ付 |一、式ア殿被仰候ハ、水野河内様近日御通りたるへくと存、申上げ候ヘハ、内裏御ちや屋の御さうち共
         |                       (へ脱)
キ接待      |  可申付旨ニ候、則横田権左・藤本猪左衛門を内裏遣可然由、式ア殿被仰付、右両人をよひ、明日
         |  ■可被参由申渡候、則御郡奉行をもよひ、右分ニ候間、可被得其意由、申渡候事、
         |                  御茶や       被申
道端等ノ修繕   |一、水野河内様被成御通ニ付、道・橋・損申所つくろひ、又ハ馬次之所ニ而、御目にかゝらさるやう
         |      馬ノくつなともこしらへ置、   それ/\ニ、各御百性以下も今程時分柄ノ儀ニ候間、まへかどより寄不被置様ニ、
         |  に馬寄置〇夜中ニよらす、万事〇無御緩可被申付旨、小崎與次兵衛・釘本半左衛門ニ慥ニ申渡候
         |  事、                       (規矩郡奉行)   (田川郡奉行)
         | 
大里之茶屋修繕ヲ |一、内裏之御茶屋損申ニ付、繕可被申旨、河田八右衛門ニ申渡候事
作事奉行へ命ズ  |

   

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■熊本の梅雨明けは? そしてコロナ第二波

2020-07-29 07:14:12 | 熊本

 鹿児島は昨日梅雨明けした。熊本も今日の天気予報からすると、「梅雨明け」宣言があっていいようなものだが、お付き合いがあって明日になりそうだ。
お付き合いというのは、熊本は「北九州」というくくりの中にある。長崎・佐賀・福岡・大分と熊本がそのくくりの中にある。
つまり、他の四県がまだ「今日梅雨明け」という状況にないことによる。
昨晩は久しぶりに雲一つない空に上弦に近い形の月が煌々と輝き、今日の快晴を保証しているかのようであった。そして寝苦しい晩に付き合わされた。
案の定、今朝は快晴、蝉の声がものすごく暑苦しいし、湿度がたかく不快感が半端ない。梅雨明けを明日?に控えた熊本である。

 おまけに、熊本では「コロナ」感染者が急増してきた。人の動きから来るもので、クラスターが発生した。
ここ数日続いており明らかな第二波であろう。
県南の水害の被災地では、連日降り続く雨がかたずけの邪魔をしてきたが、天気がよくなるといきなりの猛暑であり、それにコロナが追い打ちをかけることになった。
皆さんの体調が気遣われる。

 かくいう老人も、コロナと熱中症をさけて散歩もひかえ「巣ごもり」をせずばなるまいかと考えている。

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■文久三年「恕斎日録」(26)

2020-07-29 06:31:19 | 展覧会

186(八月)
  廿三日        (人脱か)
  廿四日 今日 今度在御家被召連候ニ付 御惣庄屋共会談
      之事 惣人数三百九人 遠御郡者省
      飽田・詫摩・上下益城・宇土・山本・山鹿 ・玉名之内三手
      永内田・小田・中富也 其外南関手当者・菊池・合志・阿蘇・南郷
       右会談之次第ハ達物帳に録
      右御家人鞆ハ物場におゐてハ重士之場にも被
      召仕候筈ニ而 諸役人段之御取扱なり
  廿五日 今朝京都之大早打着左之通
     一去ル十七日之朝 御所内甚騒敷候處 其内会津
187
      候より御屋敷江被知候ニ者 此節因州公より
      何某と申者を中川宮様江被差越 今度御親政之
      儀を御諫爭ニ相成候處 勅意御同意被遊候而 大
      躰事成候處 右御諫メ申上候人を親兵二十人斗
      りニ而打果候間 右之者共直ニ召捕 左候而 長
      州預之禁門を薩州江警衛被 仰付 会津・因           禁門(蛤御門)の変勃発
      州・加州・仙台等之諸藩より 禁裏を速ニ取堅 長州・土
      州を押出 十八日昼頃迄ニ双方合戦ニ相成候
      勢ニ而 此方様より者 内膳殿直ニ出陳ニ相成          細川藩出陳(主将・細川内膳忠顕)
      候 寺町御門ニ者御堅之御人数出 同日八半頃迄
188
      之事と申来 其後ハ未タ相分不申 尚一左右を相
      待候との事
       右之節三條様一味之公家四人 禁裡江御出           七卿落ち
       仕之處 直ニ御下り御役御免ニ相成 京都立退
       大佛ノ宮へ御集り 惣勢五百斗り有之 夫より
       長州江御下り之處 西ノ宮辺ニ而者其内三百
       斗りハ逃れ帰 漸二百斗りニ相成候との風聞
       右変動ノ次第ハ 長州人と禁兵と一味いたし
       三條様列を取入 陰謀を企 既ニ 行幸を奉進
       其機ニ乗し幕府を 御親征之功ミいたし居
189
       候處 右機密相破れ候ニ付 右之通御諫爭申上
       候ニ付、禁庭ニも御感悟被遊候ニ付 俄ニ御
       経営を御引替 三條様列御役御免被仰付候ニ
       付 惣勢三條様列を取囲ミ既ニ戦争ニ及候筈
       之處 三條様列之七卿一同京都を御立退候而
       事鎮り 是より京都之形勢一変いたし 先者
       御厚運目出度御事なり
       右之節此方より被差出置候禁兵之内 悔悟之
       者七八名ハ大佛辺より引返 宮部鼎蔵・轟翁助
       小坂平九郎列数人ハ長州迄附添候由なり
190
        右御親征ニ付 勅諚左之通
      今度攘夷為 御祈願 大和国行幸 神武帝凌
      春日社 御拝 暫 御逗留 御親征軍儀被為在
      其上 神宮 行幸之旨
       八月十二日
       右同十七日此方御留守居御呼出御渡
            御名
       行幸幷御親征郡儀ニ付 御用金拾万両加州・長州
       薩州・久留米七州外ニ加る 御申談調達有之様と
       の事
191
       右京都十八日立廿五日着十八日は既ニ事変ニ及候ニ付其以
       前欤 薩州早打通行之者より申出候ニ者右
       勅命之儀 攘夷者 直命被為在候得とも 親
       征之儀者 勅命ニ無之候との申出なり
     一右異変之節 諸藩よりハ 惣而甲冑ニ而取堅メ出
      立之處 内膳殿ニ者 禁庭御伺之事ニ而 いまた
      出陳之命無之候中ニ付 麻上下二而被罷出候ニ
      付 却而尋常ニ相見候との事
  廿六日
  廿七日 今日御城内御奉行中より 小子幷永屋猪兵衛
192
      列当りニ而 明日申達儀有之 両人之内御奉行所
      へ罷出候様御達之事
  廿八日 今日御奉行所へ罷出候處 御天守御武器拝見被          庄右衛門等御天主蔵の武器拝見
       仰付 御書付 御奉行より被相渡候事
       右連名中村庄右衛門・永屋猪兵衛・飯田熊之助
       友成貞之助
      右拝見四人同道 催合ニ而饅頭一重 羊羹四人当一重
      相携 御天守支配頭へ相贈 朝五頃より支配頭詰
      間へ罷出候處 頭幷御目附等同道小子共外ニ数
      人有之 御天守を初拝見 御召之御品々 御拝
193
      領錦御旗 蜀江錦 其外御鎧等誠ニ結構之御品な
      り 右鎧箱之中ニ 先年松巖亭様 此方屋敷内ニ          松巖亭=中村庄右衛門父・庄右衛門正彝
      生在候桐ニ而 榎津村甚蔵・杢七両人へ被仰付 御
      櫃を為造 御差上ニ相成候御品も拝見いたし 右
      御鎧ハ頼有公之御品を御写しニ而 岩下平吾列
      より製造被仰付候御品ニ而 尤結構之御品なり
       右拝見者 九月廿護日ニ支配頭より申来拝見
       之事 爰ニ記
  廿九日 御連枝様御二方様共ニ御上京被 仰出候段一
      統へ御達之事
194
       在御家人二百人御供被 仰付候間 申渡之上
       名前相達候様との御達
       御連枝様 来月七日御発駕之段 内分藤本より
       演達 直ニ御惣庄屋共へ内輪申□会談申付候
       事
     一薩摩より三郎様 来月十五日頃士席以上七百人          島津家久700名を率いて熊本通過、上洛の予定
      被召連上京 此元通行之段申来候事
  三十日   

      
       

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■ひょっとすると・・ある歴史が塗り替えられるかも?

2020-07-28 22:01:28 | 徒然

 ある史料を精読しているなかで、貴重な記述を見つけた。思いがけない発見である。
細川家にかかわる事柄について、世の中に広く紹介されていることが、どうやらそれは間違いであることに繋がっている。
直接的な表現はされていないが、登場人物の名前などからおそらく間違いないと確信している。
ウイキペディアをはじめ、この事柄を紹介している多くの論考やサイトは訂正を余儀なくされることだろう。
ただし私は今、大いに躊躇している。
すでに気付いておられる方がお出でではないのか?何方かにご相談してから発表した方が良いのではないのか?
今日は何となく落ち着かず、立ったり座ったり、部屋の中をうろうろしたりしている。
今晩は興奮してよく寝れないかもしれない。一晩考えて明日は結論を出したいと思っている。

 

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■細川小倉藩(303)寛永五年・日帳(六月七日)

2020-07-28 08:07:57 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年六月)七日

         |              
         |   七日         
         |
蜂須賀忠英ヨリ使 |一、松岡角太夫ニ、阿波様ニ而御帷子一・単物一・樽壱・肴一折被下由、被申候事、
者ニ給与ノ品   |
         |         
         |一、津田左内江戸ゟ罷下候、江戸御無事之由候、方々ゟの御返書共持参被申候、但、江戸を五月十七
         |  日ニ被出候事、
         |   (定芳)
菅沼定芳ヨリ鮓ヲ |一、菅沼織ア様ゟ、すし桶二つ、御文箱添参候、熊谷九郎兵衛を以、上申候事、
贈ラル      |
         |                           (沼田清延女)              (浅山)
上方ヘノ音信   |一、歩之御小性衆、大坂へ被成御上せニ付、大坂ヘ之状一通、伊与殿ゟ寺嶋方へ之状一通、修理ゟ寺
御遣帷子五十之請 |  嶋方へ私之状一通・銀壱包、御船頭乃美十左衛門ニ相渡申候、幷京とへ上り申状五つ、内ニ御遣
         |              (後筆)(清忠)
取切手      |  帷子五拾ノ請取切手有之、「西郡形ア殿へ山田七兵衛ゟ之状一結」、何も乃美十左衛門ニ相渡候
         |               (一長)
         |  事、又後藤又市郎殿ゟ、伊崎半丞方監物殿へ遣被申むしろ包弐つ、十左衛門ニ相渡候事、
         |
                     参考: 【綿考輯録・巻十七】
                      黒田の功臣後藤又兵衛筑前を立退候時ハ、忠興君を頼奉り小倉より上方江罷越候、忠興君
                      御懇て村上八郎左衛門を大阪迄御添遺候、扨又兵衛二男又一郎九歳に成候を指上候処、
                      又兵衛討死後公儀ニ被仰上被助置御知行五百石被下候
                      同志茶話ニ、後藤又市郎は又兵衛四男と有誤也、其外又兵衛事ニ付異説区也(以下略)
         |

         |     (忠利室)                   (子脱)             (せ)
         |一、江戸 御裏様ゟ、 三斎様へ被進之候御帷幷 御書、則中津へ持を被進之候、御使にハ伊藤太左
         |  衛門を五月晦日ニ被遣、小右上り、今日被罷帰候事、
         |   (忠重)   (佐久間勝之)
諸方ヨリノ音信  |一、松平大膳様・作間大膳様ゟ之御返書は、大坂御普請ニ被居候四与之頭衆ゟ式ア殿へ参候由、松岡
         |  角太夫被申候事
         |                       (大久保忠清)      (忠次)
幕府勘定奉行ヨリ |一、松平阿波守様ゟ之御返書壱つ、公儀御勘定奉行大窪六右衛門殿・杉田九郎兵衛殿ゟ御返書壱
ノ返書      |     (慰英)
         |  つ、仁保太兵衛方ゟ之文箱壱つ、熊谷九郎兵衛を以上ヶ申候事、
         |
猩々緋ノ目録   |一、京都ニ買置申候猩々皮、幷小倉へ下シ申候猩々皮ノ付、小野九右衛門・佐藤少三郎・黒川甚左衛
         |  門判形ニ而下し申候を、三宅勘三郎を以、懸 御目申候事、
         |  (医師)
         |一、いし良運内より、坂崎清左衛門殿内へ渋紙包壱つ、幷小野九右衛門方ゟ、清左衛門殿へノ文、御
         |  小早之船頭中津留仁左衛門持下り候を、則清左衛門殿へ可被届申にて、御船頭仁左衛門方へ慥ニ
         |  相渡候事、
         |  (小頭)
金山ヘノ音信   |一、弥左衛門与御小人少右衛門、御金山へ状、幷中国紙三束・豊前中折壱束持せ、春木金太夫・加々
         |   (正慶)
         |  山権左衛門方へ遣候事、
         |  (小頭)
         |一、久昨與御小人惣三郎、 木下右衛門様へ 御書持せ遣候事、
元代官後藤幷恵良 |一、後藤定林・恵良半右衛門御代官仕候時、百性二戻被遣候御米、両人手前ニ取こミ置候段、立 御
百姓へ戻ス米ヲ取 |  耳、高田角左衛門・下村五兵衛ニ被 仰付、御算用被仕上候、各左衛門・五兵衛儀ハ当分之御算
込ム       |                 (算用奉行)
         |  用被承候ニ付、帳・小日記・目録、財津惣兵衛ニ請取被置候へと、惣兵衛ニ申渡候事、
         |               (ママ)
         |一、後藤定林・恵良半右衛門御代官ニ時、百性二戻シ被遣候御米、両人手前ニ取こミ置候段、立 御
         |                              諸目録ヲ
算用書目録ヲ上グ |  耳、高田角左衛門・下村五兵衛ニ被 仰付、御算用被仕上候、〇則懸 御目申候而、蒲田次左衛
         |  門方へ相渡申候事、
油屋篤右衛門貸付 |一、中津油屋徳右衛門借付銀有之衆
御目録      |
         |  丁銀内十九匁一リンハ菊判                    (元五)
         |  一、六百七拾五匁四分九厘四毛      志水伯耆
         |                    同人内
         |  一、六匁五分七リン菊          志水又左衛門
         |                    同人内
         |  一、壱匁八分   同          村山作兵衛
         |                    同人内
         |  一、壱匁弐分六リン同          角介・二介
         |  一、一匁九分八リン同          矢野助二郎
         |     右ハ、大坂二被居衆二而候間、便宜次第可申上也
         |  一、十七匁八分弐リン菊         遠藤安斎
         |                      ぬしや
         |  一、弐匁一分    同           作介
         |     右ハ、江渡へ可申遣也、

 

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■文久三年「恕斎日録」(25)

2020-07-28 06:02:24 | 恕斎日録

180
  十八日 今日政府対談間ニ而 道家角左衛門江今度被召
      連候在御家人之儀ニ付咄合有之 其節も今度御
      出京之儀相尋候處 此節者 越前・肥前・筑前・久留米
      其外所ゝより此方江御使者参り 此方よりも薩
      州江御使者参り御談合之處 肥前閑窓京都へ          鍋島閑叟(齊正)=細川護久室・宏子の父
      御登り 攘夷之方を御受被成 夫より江戸江御下
181
      り 同所ニ而者 当時之事務攘夷と者成る物欤抔
      とわやくの様ニ被仰向 尚京都へ御立寄直ニ蒸
      気船ニ而御帰り 其後者 少しも手を御出し不被
      成 禁兵本式之警衛之人撰ニ而却而者外聞ニ被
      成候由ニ而 コスキ御工面被成 此節も御同意ニ
      而者候得とも御上京者無之由 併モ諸大名御上
      りニ相成候ハヽ 大方俄ニ御上り可被成候 筑前
      様ヘハ小倉之打手之命を御受被成候由ニ而 江
      戸方ヘハ御心配被成 公武之中ニ御立被成 石
      ニ手をはさみ候様ニ而 今度不得已御上京御一
182
      躰之御建白之由 薩州者 公武之御向キニ不宜
      京都之方者御不興ニ相成候間 御冤を被雪度御
      上之由 此跡三郎様伏見迄御上り 十三郷を御退
      け被遊候様御建白之處 御用ひ無之候間 御出京
      なし 直ニ御下りニ相成 旁以御不興之由なり
      此方様者是迄差而御建白も無之候處 此方より
      被差登候王朝連 不怪はびこり 関白様三條様江
      も深く取入 却而却而ハ長州よりも 此方様よ
      り被差登候王朝連強相成 天子を挟而諸侯を
      令する勢ニ乗し居 大ニ天下之妨ニ相成居候 既
183
      ニ轟翁助宮部鼎蔵河上元斉山田重郎四人ニ者       宮部鼎蔵ら四人、藩主補佐に任ぜらる
      乍恐 太守様御補佐之 勅令も下り 御礼廻り
      も有之程 中々 公辺二被対候而も御心痛二被
      為在候ニ付 今度御建白ニ而 攘夷欤開発両塗之
      内ニ御決儀 公武御一鼎之御建白之筈ニ而 攘
      夷者いまた防禦調かたく候ハヽ 公家方一致ニ
      相成候様 夫を御建白ニ而通被行候ハヽ 江戸江
      御下り御建白可被成候 左候ヘハ たとへ御聞入
      無之とも 御申訳ハ相立可申 其上ニ而者割拠之
      御支度之外無之候との事
184
      右ニ付 右此方より被差登候浪人共を初 除候仕
      法者難相成候哉と尋候處 夫ハ中々手当りかた
      く 右四人之者共者 公家衆へも深く取入 既ニ
      御補佐之命も蒙り居程之事ニ而 今更御手ニ及
      間敷 元来此方より右等之者を禁兵ニ御登せ相
      成候か 乍恐御失策と可申候得とも 是も不得已
      訳ニ而御登ニ相成候 右等之儀ニ付 強之助
      早々御上京之御治定被為在候間 一日も御早き
      方御為合二相成候との噂ニ相成候事
  十九日 今日小倉候より早打之御使者参り 長州より京
185
      都へ申立 小倉征伐ニも可相成哉之勢ニ付 援兵
      を被差出被下候様 左候ハヽ長州より手差も出
      来かたく候間偏ニ御□援を奉願候との事
  廿日
  廿一日
  廿二日 南関者 長州口ニ付 御防禦之御手当等種々入組
      追々御奉行中へも咄合 且又今度 強之助様被
      召連候在御家人被撰 且御取扱振引廻之人躰等
      之儀ニ付手者 日々同役初分職へも咄合有之候
      右者上下達帳ニ備録候ニ付爰ニ畧す

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■細川小倉藩(302)寛永五年・日帳(六月六日)

2020-07-27 12:29:59 | 展覧会

                      日帳(寛永五年六月)六日

         |              
         |   六日         
         |
         |  宇佐神宮    (久盛)豊前岡藩主
中川久盛宮成掃部 |一、宮成掃ア、中川内膳殿へ御礼二参、色々御馳走之上、御帷子五つ、内弐つは御単物拝領仕候、又
ヲ厚遇ス     |  御内衆ゟ銀子弐枚給候、宿奉行両人迄日仰付、別而之御馳走、 殿様御影故忝と、書付を以申上
忠利ノ御影故トノ |                           (成政)
書物ヲ上グ 鈴鉢 |  候、掃ア進上ニ鈴鉢弐つ上被申候処ニ、御取次之衆坂崎清左衛門尉被申候ハ、掃ア儀 御前如
         |  何敷候処ニ、進物など差上候儀、何共合点不参候、同ハ進物ハ差置、先内膳殿ゟ之拝領之様子迄
         |  申上候ハヽ、可然と被申、我々共申候ハ、重而とても無其堺候間、只今進物をも差上、埒を明
         |  可然由を申、右之書付幷進物共、熊谷九郎兵衛を以差上候処ニ、被成 御合点之由、御意に候、
         |  左候而、進物も納り申候事、
         |  (早鞆社)
早鞆社廻廊建立奉 |一、隼友廻廊被成 御建候御奉行ニ、神西謹右衛門・荒木権右衛門尉差遣候事、
行        |
台所茶ノ用    |一、当年上林甚介仕候御茶、大つほ弐つニ詰、御台所茶の御用ニ上申候事、但、皆川治アニ渡候へと
         |  申渡候也、
中国へ楊梅買入ニ |一、中国へ山もゝ買ニ被遣ニ、関迄小早ニ而渡可被申候旨、白木兵介・鏡善右衛門方へ申渡候事、
渡ル小早を用意ス |  但、人数弐人也、
         |                         (三淵之直)
田川郡ヨリ楊梅進 |一、田川郡赤忠左衛門手永ゟ、山もゝ弐籠被差上候、則左膳殿を以上ヶ申候事、
上        |
硯屋大森土佐注文 |一、下関ゟ、硯屋大森土佐御あつらへの御硯持参仕候ニ、御帷子弐つ被遣候、硯代銀も相渡可申旨、
之硯を仕上グ   |  御意也、右硯之代銀可相渡通、色々申候へとも、請取申間敷候由申候、然ハ、当暮運上に差
代銀ヲ請取ラズ  |  次可申由、申候間、其分可然由申候、御使ニ被参候歩之御小性山本喜兵衛を、手形を仕、被渡候
手形ニテ運上ニ差 |  へ、重而其切手を以、運上に差次可被申由、可被申渡由申渡候事、
次グ       |
         | (烏丸光賢室)
烏丸万へ楊梅進上 |一、御万様へ山もゝ被進之候、御返書、御小人六右衛門・助作持帰、則上申候事、
         |           (猪膝、田川郡)
         |一、木村九郎久兵衛ニ、いのひさ迄日付遣候歩之御小姓河上ク兵衛・赤尾茂兵衛罷帰候事、
         |    〃〃
楊梅       |一、安宅太左衛門手永ゟ、山もゝ三籠差上候処、能時分/\ニ上候由、可申遣旨、奉九郎兵衛、
算用人切米十石三 |一、財津惣兵衛登城仕、被申候ハ、前廉被成御抱候御算用衆御切米之儀、前々ゟ三人扶持ニ拾石之筈
人扶持      |  にて、御奉公ニ罷出候処ニ、旅役仕時は拾石、又御国ニ有之時ハ八石にて候よし候て、御借米以
旅役       |  下も未かり申さす候而、迷惑仕由ニ御座候、前廉ゟ拾石之御約束慥成儀成候由被申候間、於其儀
         |  は、何之道ニも、前々如約束之可被仕候、深野次郎右衛門なとゝ能々御吟味可有由、申渡候事、

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■梅雨明けはいつ?

2020-07-27 09:56:08 | 徒然

  朝食を終えて、さて今日の散歩はどうしようかと考えていると、「今日はペットボトルです、早めにお願いします」と奥方から声がかかる。
一昨年の奥方の入院以降、「護美すて(細川護美公には申し訳ありませんが)」は私の担当に決まってしまった。
「ペットボトル」の回収は割と時間が早く、時々持ち帰るっこともあったから、雨がぱらついているな~と思いながらも、早々に出かける。
きょうは一日中、こんなパラパラ状態で雨模様らしい。梅雨の上りは30日とか報じている。
歩き出すとどうも足元がふらついて仕方がない。50㎝位の巾の中をフラフラしている。
とても急ぎ足では歩けず、所定のコースは断念、時計を見ながら都合の良いところで折り返し。都合45分の散歩となった。
ますます小脳が委縮しているような気がする。
最近は色々やりたいことが出てきて、簡単にはくたばりたくないなという想いが強くなってきた。
コロナも昨日熊本市内で2人、県北の事業所では10人のクラスターが発生したという。
こちらにも用心しながら、天候の変わり目に身体を順応させて頑張っていかなければならない。皆さまもお大事に・・・

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