津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

表示不能・・?

2009-06-30 07:02:23 | 徒然
 当方サイトは現在、表示不能になっているようです。
shinshindoh.com で検索すると、プロバイダーのドメイン登録案内へ誘導されていますが、まだ契約期間中なのに・・・??? 現在問い合わせ中ですが、いつ正常化するのか皆目わかりません。トラブル続きで嫌に成ってしまいます。
大変ご迷惑をお掛けします、申し訳ありません。
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成否

2009-06-28 18:11:17 | 熊本
 熊本市の政令指定都市の成否を占う住民投票が、今日植木町と城南町で行われた。さてその結果が気に成る。数ヶ月前益城町でも同様の投票が行われ、反対票が圧倒的多数を占め、推進派であった町長は白旗をあげて合併協議会から脱落した。二の舞になれねば良いがといささか気に成る。将来道州制が云われるときには、ぜひとも政令指定都市になっておくべきだろうと思うが、県を上げての議論は無い。熊本市が頑張れば良いといった、突き放した空気が大勢である。雄都熊本の再生はこんなことでは達成できないだろうと思うのだが・・如何。数時間後テロップが流れるだろうが、その成否はどうなるか・・・良い結果を聴きたいものと思っているのだが・・

 PM11:00のニュースで、両町とも合併賛成が過半数を獲得したようです。どうやら政令指定都市の切符を手に入れたようです。まずは嬉しく思います。
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綱利と清高院

2009-06-28 10:47:16 | 歴史
 綱利の生まれは寛永20年(1643)正月8日、生母・清高院は元和5年(1619)6月生まれとされるから、清高院24歳のときの子である。当時からすると大年増ということになる。母子して大変な浪費家であったらしく、家老松井興長から諫言を受け「1/10ほどで生活しましょう」とふてくされた返事をしている。後年そんな母親が病になると、綱利は江戸に止まる期間の延長を幕府に申し入れたりしている。将軍側用人柳沢吉保にべったりとくっつき、「夜中越中」と揶揄された綱利だが、江戸滞在期間の延長なども柳沢吉保に頼み込んでいる。老中の反対を押し切って許可されている。
 
 その後も参勤の帰国出立の延期を数度申し入れをするなど、幕府側からすると「掟破り」の行動が見えるが、柳沢吉保をして「親孝行者」として認められたという。(仲介の労をとった家老の子を細川家に召し出したりしている。)又。吉保の三男を養子に迎えることを画策したが、これは果たされなかった。「押し込め」の噂が聞える頃である。

 清高院は91歳という長寿を保った。宝永7年に亡くなっているが、二人の息子兄綱利は宗家藩主、弟・利重は新田藩藩主となり幸せな人生であったろう。綱利自身も72歳迄長生きしたが、男子二名を亡くし弟・利重の二男を養嗣子となす(光尚)。名君重賢は孫に当るが・・ひいばあ様には似ても似つかぬ感じがする。
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家系図で読みとく「戦国名将物語」

2009-06-27 18:06:01 | 書籍・読書

家系図で読みとく戦国名将物語

著者:竹内正浩
出版社:講談社
発行年月:2009年04月
価格:1,470円(税込)



【本の内容】
ヒーロー20人の人間像とその系譜を網羅した最高の戦国ガイド。
知ってるようで知らないエピソード、座右に置きたい詳細資料満載。

【目次】
伊達政宗の家系-「奥州王」政宗の壮絶な生き残り策
直江兼続の家系-直江家を断絶させた苦渋の選択
上杉謙信の家系-戦国武将で唯一、妻を娶らなかった男
北条早雲の家系-下剋上ではなかった早雲の行動
今川義元の家系-五男の義元が家督相続できた理由
武田信玄の家系-盛んな姻戚構築が領国拡大の鍵
真田幸村の家系-なぜ兄弟で戦う運命を選んだのか
徳川家康の家系-小領主の遺児が天下人となるまで
織田信長の家系-織田家三代目の飛躍の秘密
豊臣秀吉の家系-政権の命脈を縮めた実子の存在
浅井長政の家系-家康になりきれなかった男の悲劇
石田三成の家系-憎まれ役がなぜ互角に戦えたか
足利義昭の家系-幕府再興を夢見た策士の素顔
明智光秀の家系-謎多き信長の部下ナンバー1
毛利元就の家系-山間の城主が戦国大名となるまで
長宗我部元親の家系-一代の風雲児が犯した晩年の過ち
黒田如水の家系-名軍師は、戦国有数の猛将だった
加藤清正の家系-清正の輝かしき活躍と子孫の悲劇
大友宗麟の家系-貴族化した名門大名の限界
島津義弘の家系-一族の内紛を制して九州統一へ

 今日は「熊本史談会」の6月例会、「加藤清正-妻子の研究」の著者福田正秀氏(水野勝之氏共著)によるお話「加藤清正の妻子--正室清浄院と八十姫(瑶林院)」をきく。その中でご紹介いただいたのがこの著。今迄誤り伝えられてきた清正一族の家族関係は、「加藤清正-妻子の研究」により正されてきたが、まだまだ周知されている処ではない。しかしこの 家系図で読みとる「戦国名将物語」 においては、正された系図に基づいて解説がなされているという。早速注文をした。

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鍋島閑叟公

2009-06-26 18:30:24 | 歴史
 勝海舟、氷川清話に曰く
「肥前の鍋島閑叟(直正)侯は、名高い名君だが、たいへん陽明学の学問に達しておられたということだ。文久三年の正月には、将軍家文武の補導を命ぜられて、ときどき江戸城において将軍を訓導せられたのは大名の中でも昔から例がないことだ。候は一生国事に奔走せられたことは、いまさらいうまでもなく世間に知れわたっている。」

 細川の最後の藩主(14代)・護久候の正室が、この鍋島閑叟候女・宏子である。護全、護晃、護立(16代)等が宏子の子である。(15代護成は妾腹)当然のことながら、護貞--護煕と鍋島家のDNAが受け継がれている。陽明学は如何か・・?(×)
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鎮魂の日

2009-06-26 13:55:18 | 熊本
 空梅雨の中で熊本は56回目の鎮魂の日を迎えた。昭和28年6月26日、熊本は未曾有の大水害に見舞われた。当時私は小学校六年生(11歳)だったが、学友27名(?)を失った。我が家も鴨居の高さまで浸水し、命からがら脱出して命を拾った。避難先のお寺から翌朝帰宅すると、我が家の前の数軒が流失していた。思い出したくない悪夢である。

 今日の熊本は、梅雨とは思えない青空が広がっている。当時大暴れした白川も、川底を露出させているところがある。水不足で田植えが出来ないでいるところがあると聞くと、雨が欲しいと切実に思うし、なんとも複雑な気持ちにさせる。アジサイの花々があちこちで立ち枯れして、哀れな姿をさらす鎮魂の日である。 
                                                   合掌
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「長元記(長曽我部元親記)」著者・立石助兵衛

2009-06-25 16:19:08 | 歴史
「土佐一条家」というサイトに、「長元記」を著した立石助兵衛のことが次のように紹介されている。

【立石正賀 たていしまさよし 1565~1659】
長曽我部氏家臣。通称助兵衛。元々立石家は一条氏に属したとゆう。兼定追放のとき10才、内政死去のときでも16歳なので、厳密には一条氏の家臣とはいえない。長じてからは元親に仕え、1580年の久武親信の伊予三滝城攻めに従軍、1582年の高森城・沼田城攻めでも功名を挙げた。元親の逝去に際しては遺言を受けた重臣の一人で、関ケ原では敗北後井伊直政を通じて謝罪に赴くが、結局長曽我部家は改易された。その後細川忠興に仕えて千五百石を食む。のち「長元記」(「長そかべ元ちか記」の略)を著した。自身が南予方面で戦った経験があるので「長元記」のこの方面の信憑性は高いとされる。あくまで軍記としてだが。

 この立石助兵衛についての細川家史料は中々見つからない。
「御侍帳・元禄五年比カ」に、「立石助兵衛 二十挺組・小兵衛組 千五百石」と見えるのみである。上記説明によると、忠興代の召出しとあるから、私の史料の読み込みが不足しているのかもしれない。島原一揆に関する綿考輯録の記述の中には「立石助兵衛・其子市兵衛共に与を下知し、引上候へとの仰を受ても様子見合候内、組足軽添嶋九兵衛城中を見て告る、市兵衛其所より乗込、組の足軽不残集り候を、御両君も御覧被成候」とある。侍帳にも、以降立石姓の人が数人見えるが、その末ははきとしない。
長曽我部氏(町氏)、久武氏など長曽我部氏旧臣が細川家に在る。
少し詳しく調べなければと思っている。
ちなみに熊本県立図書館には、宮村典太が書き写した膨大な写本「雑撰録」の中の「巻97」に、「長元物語」(一名立石正賀覚書)として所収されてある。

  ○ 立石市兵衛 (助兵衛子) 
    (1)側小姓・御扈従役歟・組無衆 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)三百石  (肥後御入国宿割帳)
    (3)八代与力衆 千五百石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)千五百石  (真源院様御代御侍免撫帳)
    (5)三百石   (真源院様御代御侍免撫帳)・・・・重複?
    (6)八代御城附衆 千五百石 (寛文四年六月・御侍帳)

以下続き柄不明(まったくの他人かもしれない)
  ○ 立石助右衛門  三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
  ○ 立石弥平太    長岡監物組 五人扶持廿石 (寛文四年六月・御侍帳)
  ○ 立石善右衛門  二百石 延宝九年六月十四日 煩ニ付知行被差上候 (※)



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勝海舟と坂本龍馬

2009-06-24 17:33:35 | 書籍・読書
 勝海舟の事を知ったのは多分映画「親子鷹」(昭和31年・1956)を見てのことだと思う。勝麟太郎を北大路欣也、小吉をこちらも親父の市川右太衛門が演じた。江藤淳の「海舟余波」や、勝部真長の「氷川清話」、東洋文庫の「夢酔独言」などを買い入れてすっかり「勝」フアンになった。「クララの明治日記 勝海舟の嫁 」も読んだし、坂口安吾の青春論(堕落論所収)にある小吉・海舟に関する処も熟読した。(もっともここには、宮本武蔵や都甲太兵衛のことも出ているからだが・・・)

 龍馬については、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んでのことだが、平尾道雄著の「坂本龍馬・海援隊始末記」を読んでから、「こっちが本物だー」と思っている。昭和54年3月10日四刷の中公文庫(340円)を今でも大事に持っている。
「昭和54年5月17日長崎次郎書店にて購入。翌朝の新聞にて五月十七日、著者平尾道雄死去さるを知る、奇しき事」と書き込みをし、死亡記事を切り抜いて挟み込んでいる。
この本をを読んでから、「竜馬がゆく」は読んでいないように思うし、初版で揃えた全巻も処分してしまった。所詮創作は本物には勝てない。

 私は勝海舟にしろ坂本龍馬にしろ、武田鉄矢が口からあわを飛ばすような思い入れはない。来年の大河ドラマでは海舟の役をおやりだそうだが、勝海舟全集全巻をぜひともお読みいただきたいものだ。
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山本勘助宛武田信玄書状

2009-06-24 11:01:28 | 歴史
 山梨県甲州市在住のMA氏から、山本勘助宛武田信玄書状なるものが見つかり、地元新聞で取り上げられたことをお教えいただいた。

    http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/05/01/2.html

 細川家には信玄の孫・岩間六兵衛、山本勘助の孫・下村某、そして先日ブログで紹介した諸隅豊後守の子孫・両角家など、信玄ゆかりの人たちが居ることをご承知でのご連絡であった。
その存在さえ疑われてきた勘助であるが、現在ではこのような史料の出現で実在した人物であることは衆知のことである。まさに一級史料の登場で、勘助研究に弾みがつくものと思われる。尚、詳しい論文と写真は「山梨県立博物館研究紀要第3巻」に掲載されているという。

 ちなみにMA氏は荒木村重のご子孫、熊本の荒木氏・細田氏の研究も続けておられる。

 
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天下人の一級史料

2009-06-24 08:08:41 | 書籍・読書

天下人の一級史料―秀吉文書の真実


                          
                          
著者:山本博文
出版社名:柏書房
価格:2,310円(税込)


    【本の内容】
      なぜ、テレビや小説は歴史を創作するのか。なぜ、教科書には書かれない歴史
     があるのか。だから、一級史料にだけ刻まれた歴史に触れてみたい。
     史料だけが知っている本物の歴史。

   【目次】
     第1講 刀狩令(島津家文書の二通の刀狩令
          さまざまな刀狩令
          刀狩令の収蔵状況
          刀狩令の広がり
          基本法令となった刀狩令)
     第2講 「人掃令」と「身分法令」(秀次「人掃令」原本の確定
          二通の「人掃令」?
          秀吉「身分法令」の本質
          「人掃令」をめぐる論争の意義)
     第3講 バテレン追放令(バテレン追放令の解釈
          バテレン追放令の伝達
          バテレン追放令の国内への布達
          もう一つの「キリシタン禁令」)
     第4講 豊臣政権の「取次」と奉行(豊臣政権の「取次」と「指南」
          「御取次之筋目」とはなにか五大老・五奉行制をめぐって)
     補講 「直江状」の真偽

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細川家家臣・神戸氏

2009-06-23 13:57:22 | 歴史
 細川家の根本家臣「青龍寺以来」の一人に、神戸喜右衛門がいる。「天正十二三年の比被召出、丹後にて弐百石、本は伊勢の者也」とある。幽齋の田辺城籠城に際し行動を共にした「初より持口被仰付、あなたこなた走廻り働候間、五百石被下、忠利君御代迄相勤候ひしか、気腫を煩ひ候故、御知行差上、逼塞して居申候」と綿考輯録(巻五)は記す。

 千利休が秀吉の怒りを得て「終に切腹可被仰付ニ定り候」とき「依之忠興君より(中略)神戸喜右衛門次義を葬礼奉行に被遣候二月廿八日切腹の期ニ臨ミ、懐より羽与様と筒に書付たる茶杓を取出し、茶杓は是にて候と忠興公江申て給り候へとて神戸喜右衛門ニ渡し候、茶の湯の印可相伝の心にやと人々申候と也」とも記されている。
                                               (綿考輯録・巻十)

 下って寛永十三年十月二日光尚に待望の男子が誕生、しかし同十四日室・禰々が死去する。禰々の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事に三齋は激怒、江戸留守居の三人が扶持放しとなる。上記の「御知行差上、逼塞して居申候」がこれである。

      寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
  中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
  従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事

三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはかなわず、息子の代になってようやく召出しとなった。
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富士見町細川邸

2009-06-23 13:01:48 | 徒然
 芥川龍之介には、細川家にかかわることを題材にした作品がいくつかある。
「糸女覚書」「或る日の大石内蔵助」、そして「金春会の隅田川」といった処だが、青空文庫のお世話になり親しんでいる。    www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html

その「金春会の隅田川」の冒頭は次のようなものである。

   『僕は或早春の夜、富士見町の細川侯の舞台へ金春会の能を見に出かけた』

 この富士見町の細川候というのがよく判らないのだが、細川護美のことではないのかと考えている。養嗣子となった護全が「麹町富士見小学校から学習院に転入」という明治廿三年(1890)の記録があるからだ。しかしこの作品の初出が、大正13年(1924)年3月というのが一寸気に成るのだが・・・

 (いろいろ調べている内に、「馬場孤蝶著、明治の東京」というサイトに遭遇、なかなか面白くはまってしまった)    http://www.j-texts.com/showa/mtokyo.html


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勝海舟細川藩領内を往く

2009-06-22 16:32:08 | 歴史
 勝海舟日記は文久二年八月十七日から始まっている。その日に勝海舟は「御軍艦奉行並」を仰付けられた。そのことが切っ掛けであろう、そのご明治三十一年迄日記を書き続けている。
勁草書房判の海舟日記の第一巻は、その文久二年八月から慶応三年十二月晦日までが紹介されている。その中に細川藩領内をへて、長崎に向いまた復路の旅の海舟一行の記録が含まれている。 
  
  文久四年(=元治元年)二月

■十五日 五時
       豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿。
       地役人、水夫、火焚へ酒代遣わす。惣計五両一分。
■十六日 豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀の関より五里。此地、街市、可なり。
       市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し。
   大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
■十七日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。
       大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。
       海道広く、田畑厚肥、桃菜花盛、関東の三月頃の季節なり。
   民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう(おうちょう)野津原のさと
       野津原の宿より出ずれば、山路。この道、久住山を左に見る。
       往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。
       これより古田二十余町、新田三丁余町を得たりと、その事業を記し碑あり。
       七里。
   豊後佐賀の関五里泊。
   港せまし。上下二所あり、入口、上の口暗礁あり。山脚に沿うて入るべし、中央危し。
■十八日 久住に宿る。細川矦の旅邸。惣体、葺屋、素朴、花美の風なく、庭中泉を引き、
       末、田野に流る。七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。
       山泉を引きて左右に導く。小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋
       杭なし。導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、栗、皆実る
       べし。その高名、尽力の至る処殊に感ずべく、英主あらざれば、この挙興しが
       たかるべし。他領、公田の雑る所、熊領に及ばず。また聞く、この地の南方、導
       泉の功、この地の比にあらず。或いは山底を貫き、高く噴出せしめ、或いは底な
       しの深谷に帰さしめ、皆田畑の用に応ぜしむと。
       山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並び立ちたる高峯あり。猫が嶽と云う。
       人跡到らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。妙義山に比すれば、更
       に一層の奇峯なり。
■十九日                       八里
       内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。
       惣て鶴崎より此地まで、土地厚■、熊領は大材甚だ多し。此地より街道杉並樹、
       数十年の大林、左右に繁茂す。我、此地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこ
       と、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。 
       内の牧より二里、的石村あり。爰に領主小休の亭あり。素質、底は山泉一面に
       流る。夏に宣し。北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚甚だ広く、田野あり。
       また一里半にして二重の峠あり。甚だ高く、峠の道十八、九町、最難所、路、山
       の脚、殆ど頂上をめぐる。
       峠を下り少々行けば、大石直立、大斧壁をなせし所あり。侘立十丈ばかり、横
       また同断。路を挟みて左右に直立す。これを過ぐれば大杉、山脚に並し、山腹
       鬱として殆ど唐画と一況。
       大津宿に到る。五里。大津宿より、熊城下までは少低の路、左右大杉の並樹、
       この中、桜の大樹十四、五丁の並樹あり。道中甚だ広し。熊城を路二里より望む。
       天守孤立、築制他城の比にあらず。外周最大なり。武士屋敷、その中にあり。
       郭畳高く、堅牢おもうべし。
       熊城下新町の本陣に宿す。矦より十文字の鑓刃を賜う。我が門の藩士、数人来訪。
    横井先生へ龍馬子を遣る。
■二十日 (元治と改元、海舟がこのことを知るのは三月九日長崎に於いてである)
■二十一日 新町出立、馬にて高橋宿に到る。同所より乗船。此夜、島原へ渡る。此地、小川
         あり。小船にて川口へ下る、半里。
    高橋の郡奉行岩崎物部に面会。志士なりと云う。
■二十二日 払暁、島原へ着船。

・・・・・・復路に於ける記録はわずかしかない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■四月四日 長崎出立。
        矢上中食。見立の者彦次郎、安之丞用達。筆者両人。肥前藩杉谷応助、老矦の
        内命あり。
■五日    島原着。
■六日    渡海、熊本着、肥後矦より使者あり。
        当今、形勢如何、且、海外の事情を問わる。答え云う、外邦人は時宣、道理に明
        らかなり。故に逢接の際、我虚言を以てせず、直言飾らざれば、必ず談判かつて
        苦心なし。皇国人は皆虚飾、且、大儀に暗し。天下の勢、回旋すべからず、と云々。
        池辺龍太、使いとして来訪。御軍艦拝借の内話を談ず。
        龍馬を横井先生方へ遣わす。
   横井先生の親族三人入門、同行す。
■七日    出立、内牧に宿す。
■八日    久住へ着。細川隅之助公子に途中にて逢う。聞く、京師の諸矦、大抵帰国すと。
■九日    野津原に宿す。
■十日    佐賀関着。船中の者来る。
■十一日   出帆。
■十二日   午時、兵庫投錨。荒井その他来訪。江戸操練局焼失の事を聞く。且、蟠龍船、備
         前守、拝借。順動・朝陽両船、細川家拝借。近々下国の由を聞く。
         同夕、大坂へ着、上陸。

  編者・勝部真長の解説が「海舟日記の時代背景」と銘して設けられている。
この中の文久四年・元治元年二月の項を見ると「十四日神戸を船で発って翌日佐賀の関に着、陸路九州を横断して二十三日長崎へ到着。この間の旅日記はなかなか雅趣ある名文である」と評している。

   
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細川家家臣・両角氏

2009-06-22 09:41:10 | 歴史
 細川家家臣略系譜の「病死並御暇等之面々(三)」にある両角家が今回のテーマ。
その家祖は諸隅豊後守重之と記されている。川中嶋の戦いで武田(信玄)軍のなかにあって戦死した隊将の中に諸角(ママ)豊後守がいるが同一人物であろうか。

    サイト【川中嶋の戦い】
           www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/kawanakajima/kawanakajima.html

 武田信昌---+---○---○---信玄
         |
         |  六男                                     初代
         +---諸角豊後守---本田彦太郎重政---刑部大輔頼重---外太夫---又左衛門
               虎定・昌清 重之?

 同一人物だとすると細川家家臣初代又左衛門は四代の孫ということになる。諸隅が両角になった。
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メタボな宣紀は・・

2009-06-21 15:40:59 | 歴史
 「杖をついてメタボ」といえば極めつけの人が居る。宣紀(ノリノブ)である。

宣紀は延宝四年(1676)十一月廿日、新田藩細川家江戸藩邸にて藩主利重(綱利の弟)の次男(利武)として生れる 。
       32歳  宝永五年(1708)綱利養嗣子となる
       33歳  宝永六年(1709)従四位下侍従に叙任・主税頭
       36歳  正徳二年(1712)家督相続 越中守と改称
       57歳  享保十七年(1732)六月廿六日江戸にて卒す

その宣紀40歳の時 (享保元年・1716)、参勤登城に際し肥満の為歩行不自由であった為、江戸城内にての杖の使用を願い出ている。なんともいただけない話ではある。
不思議な事に宣紀には正室と言われる人がない。これがよく理解できない。
処が代々の藩主のうちでは一番の子沢山である。八男・十三女・・・・・・・・・・・?
        
           *小野田太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
              男子・竹之助(夭折・三歳)・・長男
                  萬次郎(夭折・一歳)・・三男
              女子・亀(夭折・六歳)・・二女
                  名世(夭折・五歳)・・三女
           *鳥井氏女 際
              男子・八三郎(夭折・六歳)・・二男
                  宗孝(七代)・・四男
                  龍五郎(家老・木村半平戸豊持養子・夭折三歳)・・八男
              女子・蔵(夭折・六歳)・・長女
                  富(夭折・三歳)・・五女
                  喜和(宗対馬守義如室)・・八女
                  千代(安藤対馬守信尹室)・・九女
           *姓氏不詳
              女子・村(夭折・三歳)・・四女
           *安野氏女 民
              男子・興彭(長岡図書興行・養子)・・七男
              女子・勝(夭折・三歳)・・六女
                  花(松平讃岐守頼恭室)・・七女
                  衛世、悦(長岡助右衛門是福室)・・十一女
                  津與(小笠原備前長軌室)・・十三女
           *岩瀬氏女 利加
              男子・重賢(八代)・・五男
              女子・豊、常、岑(織田山城守信舊室)・・十女
                  幾、常、成、軌(細川大和守興里室)・・十二女
           *友成氏女 佐衛
              男子・紀休(65歳)・・六男
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