津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■幕臣曽我家と細川家の縁

2023-04-22 13:23:49 | 人物

 細川家が懇意にしている徳川幕臣に曾我氏がある。なんでこんなにと思うくらいの近しいお付き合いがあった。
それを納得させられるような情報、
幽齋の奥方麝香(沼田氏)を通じて縁戚関係が在るという事を随分以前或る方からお教えいただいた。
忠興・忠利・光尚のそれぞれの時代に、尚祐・古祐・近祐からいろいろ指導を得ている。又、曾我兄弟の血族である。
以前にも取り上げたが、再度情報を整理してみた。

曾我尚祐
  ‖  又六郎、又左衛門。織田信雄・豊臣秀次に歴任。文禄四年細川幽齋の推挙により秀吉に謁し足利家の舊式を言上。
  ‖  400石。慶長五年徳川家康に召され1,000石。慶長六年秀忠に仕へ夜伽衆。寛永七年五月廿五日歿。
  ‖   尚忠興は尚祐女(丹波守・妹)を養女として松下民部少輔述久の嫡男・掃部助に嫁がせている。
曾我古祐
  ‖  曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、200。大坂役の後軍令違反により閉門、のち赦免。
  ‖  寛永三年相續(1,000石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。
  ‖  十年十二月1,000加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて3,000石。十五年十二月従五位下丹波守。
  ‖  萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年73
  ‖
曾我近祐
       又左衛門。権左衛門。古祐の子。寛永三年西丸小性組(200俵)。五年十一月六日(寛政重修譜には四年としているが誤)
       当番の夜、楢村孫九郎某と木造三郎左衛門某と争論して刃傷に及ぶ。近祐、倉橋忠尭と共に、暗中疵を負ふも楢村を組留む。
       この時、父古祐書院番にて他席にありしがその状を見て加勢す。依って、200加増せらる。八年520石。十年書院番(720石)。
       明暦元年先手弓の頭。万治元年大坂町奉行(2,020石余)同年六月相続(3,000石)寛文元年九月十三日歿。年57

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      沼田光延---+---光兼----+---清延・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・➡沼田家
           |     |
           |     +---麝香
           |        ‖-----忠興-----忠利-----光尚・・・・・・・・・・・・・・➡細川家
           |    藤孝(幽齋)
           |
           +---光宗------●   
                  ‖-----尚祐-----古祐-----近祐・・・・・・・・・・・・・・・・・・➡旗本・曽我家
                曽我助乗  

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■さなきだに・・・

2023-04-22 09:52:16 | 徒然

 ある本を読んでいたら「さなきだに」という言葉が出てきた。前後の言葉から類推してもその意味がよく判らない。
つまるところWEBのお世話になり「然なきだに=そうでなくてさえ」という意味であることを知った。
恥ずかしながら初めて知る言葉である。古語辞典から引用して解説されているから、現代では使われない言葉なのだろうが、読んだ本は熊本で出版されておりその時期は昭和27年とあるから、このころまでは普通に使われていたのであろう。
ふと「然にあらず」という言葉がうかび、何故ここに繋がらなかったかと我が頭の回路がさびているなあと実感した事である。
それにしても、使うことはないなあと思いながら、赤ペンで日記に書き込んでおいた。   

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