津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

章之公一行が見た富士山

2013-06-30 20:40:23 | 展覧会

八代市博物館未来の森ミュージアムでは、「道中絵巻図鑑・殿が訪れた観光スポット」展が開催されている。

             http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/picture/images/zu/094-10.jpg

上は道中風景図巻・場面一覧から、「富士川河原より望む図」である。
富士山が「世界遺産」登録された御祝いにタイミングが良すぎる企画である。7月15日まで
 

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佐分利氏のこと

2013-06-29 21:56:56 | memo

肥後国誌「玉名郡内田手永」の項「木葉町」に、佐分利氏の出自を考えさせる一文がある。

  徳永左馬之助墓 御高札ノ後大松ノ下ニアリ石碑ノ銘ニ釋宗貞永禄七年六月十四日トアリ、子孫家號ヲ佐分利ト改メテ細川家ニ奉仕ス

徳永氏については慶長五年徳永寿昌成る人物が、美濃高須城56、000石の藩主となったが、息昌重の代に改易となった。
48年間二代で消えた。この寿昌が左馬之助を名乗っている。処が没年が全く違う。父親が該当するのではないかと考えたがこれも微妙に違う。
なにか関係がありそうだと思うのだが、全く違うのかもしれない。 

 

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要チェック・大喜多又兵衛の召し出し

2013-06-29 17:26:25 | 歴史

■ 大喜多又兵衛 (後に細川光尚に殉死した、山中又兵衛・氏連)
              尚々、ゑもんのかう(右衛門督)をとゝ、其方へ奉公申度と申二付而、下候故、
              書状調渡候へ共、此状ハ急被脚ニ先へ下し申候、跡より右之奉公人下り可
              申候、追而と書状有之付而、如此候、以上
                     ( 寛永十五年閏七月廿九日光尚宛忠利書状(1142)追而書)

         

   熊本縣史料 近世編第一 部分御舊記一・十八 p584に次のような史料が見受けられるが、これは明らかに上記記事に連なる文書だと考えられるが
 寛永十一年とあり、どちらかが間違いではなかろうか

              (寛永十一年)八月廿四日之飛札九月六日ニ参著披見申候
            一、大北又兵衛其元ニ著申候由得其意候
                                    忠利
                  六(光尚)
                   進候 

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木場太郎左衛門 vs 水野六左衛門

2013-06-29 11:55:02 | 史料

 肥後国衆一揆に於いて、肥後の小場太郎左衛門が佐々成政軍の水野六左衛門(勝成)に討取られるシーンが、肥後國誌ほかの史料に登場する。

かって熊本で藩校サミットが開催された折、小場氏の子孫(直系ではないが)である史談会の会員・木庭氏が、来賓で来られていた水野勝成の子孫で水野家現当主の水野勝之氏に対面され、この話が及んだことを近くで見届けたことがあった。

ここでは肥後国誌からその場面を含めご紹介しよう。

佐々陸奥守成政ハ同(天正十五年)八月七日衆軍ヲ引率シテ城村ニ發向シ 七日暁隈本ヨリ發ス 先ス日輪寺ニ斥候ヲ遣ハシ城内ヲ伺ヒ大手原口ヨリ古閑ノ谷堺ニ足軽ヲ進メ鉄炮手繁ク放シメ城内ノ足軽多ク討ルヽヲ見テ成政カ炮長相蒐リニ馳合ス、城内ヨリ之ヲ見テ原口ノ門ニ半町許リニ引付ケ有働左京糸木宮内小場次郎以下三十餘人切テ出群カル敵ヲ追返ス、同十三日寄手又原口ニ攻寄セ保柳口圓通寺口ニモ押寄セ保柳口ハ數刻戦テ相引ニス、圓通寺口ニハ佐々右馬頭ヲ将トシテ大勢攻詰打破ラント為ル所ニ城将(隈部道)親安鎗ヲ提ケ突出ケレハ持口ノ軍士立直シ荐リニ拒キ戦フ中浮武者頭孫市・又七・宮内等尾崎ヨリ横合ニ蒐リ其間僅カニ五六間矢玉一放スルヤ否ヤ鎗先ヲ汰ヘテ突蒐レハ寄手不怺辟易ス、右馬頭ハ■(活字つぶれ)ニ後レ引退クヲ隈部五郎兵衛カ従者追蒐シニ右馬頭取テ返シ鎗下ニ突伏ル、孫市・宮内之ヲ見テ遁スマシト追ケレハ右馬頭石原淵ニテ追詰ラレ引所ナク岩上ヨリ飛下ル、二人モ續テ飛下リ孫市逸ク右馬頭ヲ押伏シテ宮内透サス寄リテ首ヲ取ル、岩地蔵口ハ第一ノ切所ニテ守モ薄キヲ成政カ■(表示不能)兵三百餘押寄テ攻上リ巳ニ危ク見ヘシ時圓通寺ノ住僧勇威ヲ奮ツテ數度敵ヲ追下ス、木原藤兵衛ハ強弓ニテ持口ヨリ拳下リニ散々ニ射ル、孫市・宮内モ共ニ趨リ返リ群ル敵ノ後ヨリ馳立レハ寄手又敗走ス、成政カ物頭赤澤左近高木左エ門取テ返シ有働又七ト鎗ヲ合セ二人一所ニ討死ス、親安カ近習ノ士中原修理・河井権介・牧野主殿等衆ニ抽テ相働キ中原ハ河中ニテ太刀打シ鍔元ヨリ折レシ故ニ引組テ水中ニテ首ヲ取ル主殿モ同ク河中ニテ組討シ権助ハ能キ武者二人馬上ヨリ切テ落ス、寄手討ルヽ者太タ多シ、城中ヨリ小場太郎左エ門ト名乗リテ出シヲ寄手モ水野六左エ門勝成ト名乗テ蒐合セ小場ヲ討テ首級ヲ上ク之ヲ見テ城中ヨリ三人一同ニ切テ出水野ヲ中ニ韜ミケレ共勝成屑トセス三人共ニ切臥ル、勝成ニ積續テ道家次右衛門・鈴木小左エ門・浅井喜八郎・岡田将監・原半左エ門各敵ヲ討テ首ヲ獲ル、山田庄太夫モ劣ラス前ミシカハ城上ノ鉄炮ニ眉間ヲ撃レテ馬上ヨリ逆ニ落テ死ス、斯ル處ニ隈本ヨリ飛檄ヲ以テ國中ノ一揆等城ヲ攻圍ル由ヲ告来ルニヨリ成政前後ノ敵ニ心ヲ苦シメ先ス東西二ヶ所ノ付城ヲ國士ニ築サセ東ノ付城ニハ前野又五郎忠勝・瀧三位・多田新兵衛・杉山少佐以下百七十人、西ニハ大木彌助兼能・三田村勝左衛門・才田傳右衛門、小島庄蔵・石田源助以下百八十人ヲ籠メ置山鹿街道ハ敵定テ遮ルヘシトテ合志通リ坪井谷ヨリ隈本ニ歸城ス、斯テ城内ニハ有働兼元思慮ヲ運ラシテ書簡ヲ多ク認メ今日ハ隈部カ身ノ上明日ハ各ノ身ノ上ナルヘシ隈部代々菊池ノ老臣トシテ剰ヘ秀吉公ヨリ本領安堵ノ朱印ヲモ賜リシ罪無キ隈部ヲ亡シ所領ヲ奪フヘキ成政カ結構也往々國士ヲ亡シ悉ク所領ヲ奪ヘシ然ルニ各付城ノ普請ハ何事ソ自滅ヲ招クニ等シ此所ヲ考ヘナハ却テ隈本城ニ取掛ケ心ヲ一途ニシテ攻メナハ糧道モ塞リ敵難儀ニ及フヘキ左ナクハ成政隈本ニ歸ラン共節所ニ待受ケ不意ニ起リ討留ヘシト書送リケレハ寄手ノ國士尤ト同シ各人數ヲ引拂ヒ小代計リ残リケルトナリ、成政ハ隈本ニ歸リ阿蘇ノ舊臣等カ反リ忠ニテ一揆ヲ打退ケ夫ヨリ玉名郡和仁城ヲ攻落シ又當城ニ攻蒐ル、天正十六年四月三日成政ニ台命有テ同十四日攝州尼ケ崎ニ於テ切腹ス、秀吉公又命有テ黒田勘解由孝隆・毛利壹岐守勝信・安國寺法印恵瓊肥後ニ下リ孝隆城中ニ使价ヲ以テ今般ノ逆意ハ成政ニ恨アリテノ事ニヤ又ハ天下ニ對シテノ事ナリヤト言送ル、城将隈部親安使价ニ對面シ我等式ノ何ソヤ天下ニ對シ奉リ爭カ逆心可仕哉成政カ非道ヲ恨ルノミト荅ケレハ左アラハ城ニ居ナカラノ返事ハ憚リナリ親永・親房ハ柳川ニ開キ親安・兼元ハ小倉ニ蟄シ罪無キ趣ヲ秀吉公へ訴達セハ本領安堵疑ナシト言送ル、各畏候トテ下城シ親永父子ハ即チ立花左近将監続茂方へ親安・兼元并山鹿重安・有働甲斐・同能登・同志摩・小場道菴・北里與三兵衛・甲斐平蔵以下十五人ハ毛利壹岐守勝信カ方へ這シ使价ヲ以テ各ノ事ヲ上聞ニ達スル處ニ切腹スヘキ旨台命也トテ同年五月二十七日終ニ両所ニテ被戮テヨリ當城ハ廢セリ、城親賢カ子十郎太郎久基・赤星入道道半ハ此度ノ一揆ニモ不與又成政ニモ不助力シテ却テ一揆ニ與スル由聴ヘシカハ急キ大坂ニ至リテ聊無罪由ヲ陳謝スレ共秀吉公宥許ナク遂ニ本領ヲ没収セラレ道半ハ是ヨリ阿波國へ瓢零シ元和五年八十九歳ニテ病死スト云、城村ノ城跡今ヤ畑トナレリ(以下略)

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竹宮という処

2013-06-28 08:22:50 | 熊本

 「水野勝成覚書」を読むと、肥後国衆一揆の折勝成は竹宮(タケミヤ=健宮)を攻めている。竹宮は現在の健軍(ケングン)であるが、かっては竹宮の城(健軍陣内城)があったという。肥後國誌にも取り上げられているが、場所は定かではないらしい。勝成が責めたというのはこの城のことであろう。

私が以前住んでいた「三郎」という処は、この竹宮一帯を支配下にし健軍神社の宮司職にあった阿蘇三郎惟盛に由来するらしい。
竹宮原という広大な原野が広がっていたらしく、詫摩原とか龍の原とか呼ばれ「詫摩原合戦」の地である。
健軍神社はその創立が欽明天皇十九年というから、古い歴史を持つ神社であり熊本の最古社ともいわれる。その参道は八丁馬場と呼ばれ加藤清正の馬責めの場所であったといわれる。実際はそれよりも長く1,200メートルの直線道路(途中東バイパスが横断している)の両脇には杉並木が連なる見事な参道である。かっては「戦の神様」とも言われていたらしく(?)、西南の役にあたっては池邊吉十郎を首将とする熊本隊がここから進発している
自衛隊の西部方面総監部がすぐ近くにあり、縁を感じさせている。
 

古文書に触れその内容についていろいろ調べていると、身近な地元の町と思っていたこの場所について何にも知らなかったことに気付かされた。

                                        

                    楼門前の背の低い鳥居が何とも不思議・・・当たり前の高さにすると楼門がよく見えないからという事らしいが・・・・・・
 

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泰勝寺の天然記念物の「八重クチナシ」

2013-06-27 14:50:42 | 熊本

 所用があって細川家をお訪ねする。帰りに先の新聞の天然記念物の「八重クチナシが見ごろ」の報道をうけて、泰勝寺に立ち寄り写真撮影をした。
以前のものは随分大きかったが根腐れで枯れてしまい、現在のものは挿し木でこれまでに成長したものらしい。
私が泰勝寺にしょっちゅう出入りしていたころは、刑部家の長岡度誠さまが管理をされていて、この八重クチナシが咲く苔園に足を踏み入れたりする人たちを、怒りつけておられた様子を様々と思い出したことであった。
雨のせいか、通路の土があちこちではがれており、雨の被害はここにもあった。久しぶりに四つ御廟の奥にある、宮本武蔵や泰勝寺歴代和尚のお墓がある所まで尋ねたが、沢山の大きな蚊に襲われほうほうのていで退散してきた。 

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忠利公の気に成る書状・・・

2013-06-27 13:08:38 | 徒然

 寛永十一年のものではないかと考える忠利公の書状が気になっている。(一部割愛)書状の相手は切支丹弾圧で名を馳せた、長崎奉行榊原飛騨守職直である。
前段二項目の切支丹に関わるところでは、「如何/\」と少々反駁めいた文章も見えて興味深い。
全体的に気鬱を思わせるような文章がつらなり、父三齋を持て余している様もみえる。
 

   一、きりしたんせんさくの儀ニ付而思召通之御一書一段面白存候事
   一、君臣・父子・夫婦・朋友之理ニ背候ものハきりしたんたるへき由九州不残きりしたんたるへく候日本之中ニ右之五りんニ相候人ハ御座有間敷候
     左候ヘハ我等をはしめてきりしたんたるへく候如何/\

   一、我等気色緩々と心なかく養生仕へき由御申越候ヘハ扨ハと存候はや能候ヘハ養生ハとく忘申候更とも食事も能しゝも大かたものことくかゝり申候
     可御心安候更共ワかき時のことくニ心得候てハ成間敷と覚悟仕候事

   一、物事静ニ緩々とおこなひ申候か當代ハよきと思召候由尤とハ存候我等なとハ生付閙 (サワガシイ)敷内の閙敷生付にて候御當代ニ相かね申候事
     是非もなきと存候而一人笑申候
   一、三齋儀十一月四日ニ早々ゟ熊本へ被参一日我等所にて振舞口切なと仕祝候て候秘参候何事も用も無之候つる可御心安候無残所客人ふりニて
      候つる具之御書中不及返事御書中と我等存候と能相申候四月中ニ可得御意候事
   一、畢竟はや五十ニあまり申候ま幾程之命も無之候無左とも人間の作法はつれ候てハいきたるかひハ更ニ無之と人毎ニ申候も尤ニて候此心さへ候
     ヘハ何國之國々ニ居候ても能候作法はつれ候と我等をはしめて朝夕存候間可御心安候いけんかましき書状かゝせ候もはつかしく候間火中披成
     候間(而ヵ)可被下候事
   一、自筆にて可申候へとも三齋被参て亭主ふりニ草臥申候間才兵衛ニ書せ進候恐惶謹言
            十一月五日
                  榊 飛騨様
                        人々御中 

 

 山本博文著「江戸城の宮廷政治」によると、この時期三齋・忠利共に熊本に在国しているのは寛永十一年である。
東大史料編纂所の『東京大学史料編纂所報』第37号(p.32-33)によると、同時期のことについて次のようにある。

  忠利は、閏七月十八日、九州・中国・四国の大名とともに、家光から帰国の許可を言い渡された。同時に、この時、国元での伴天連の穿鑿強化を直接命じられている(二五〇七号)。八月一日に京を出発し、同十三日に熊本へ着いたが、帰国のその日から領内の伴天連・入満・同宿・切支丹等の穿鑿にとりかかり、「一日も隙無」(二六一三号)という多忙な日々が始まる。手始めに長崎奉行榊原職直らに対して、長崎での伴天連対策を尋ね、それまで行っていた下々からの宗門の書物取り以外に方法がないか探っている。そうする内に、領内の豊後や肥後から伴天連捕縛等の情報が寄せられ始め、伴天連に宿を貸した者の穿鑿も開始された。忠利は、長崎奉行・豊後府内目付や、島津氏・有馬氏(延岡)・稲葉氏(臼杵)氏等の隣接する大名等と連絡を取り合いながら、個々の伴天連摘発に対応している(二六〇二号等多数)。その中で、忠利は切支丹改めは一朝一夕に完了できるものではなく、踏絵の改め等により転んだとしても、「七度ハ成帰り候へとの」教えが「南蛮」より信者に対して出ているとの認識を示し、「とだへなく連々ニ切支丹たやし」続けるより他はないと進言している(二六一四・二六三九・二六四九号等)。
 十月に入ると、江戸城普請についての情報が流れ始め、十一月九日付の幕府年寄奉書(十一月晦日熊本着)により、正式に、翌々年の江戸城普請が命じられた。細川氏は石垣普請の担当とされているが、すでに十月段階から普請道具や石場の準備等に取りかかり、金策のことも心配し始めている(二六四七・二七三四号等)。さらに、家光の本心は翌々年よりも、翌年に普請を行いたいのではないかと忖度し、幕府の普請奉行たちに対して来年七月八月からの普請開始を内々申し入れてもいる(二七三五・二七三六号)。
 十一月十八日付で山城長岡藩主永井直清に出した書状(二六九六号)の内容は、忠利の幕府に対する意見の上申事績として早くから注目され、『綿考輯録』においても特記されているものである。最近では『部分御旧記』所載の同書状を、吉村豊雄氏が「意見状」として紹介、とくに参勤交代制度化との関係を中心に検討している(「参勤交代の制度化についての一考察ー寛永武家諸法度と細川氏ー」熊本大学文学部『文学部論叢第二九号』一九八九年)。
 これ以外にもこの年後半は、様々な事件(家臣借銀に関しての大坂商人から公儀への訴訟、家臣一族の者の寛永寺境内での騒動等々)が頻発し、忠利は一つずつ処理している。そして、次の参勤が年明け以降となったことを喜び、江戸の光尚の疱瘡が思いの外軽かったことに安堵しながら、この年の暮れを迎えている。

 

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梅雨の合間の・・・・

2013-06-27 09:35:30 | 徒然

 一昨日(?)TVのスイッチを入れたら貴乃花親方が出演していた。そしてやおら立ち上がると、なにやら解説が始まった。
「足を肩幅に広げ、あどを付けたままゆっくりと膝が水平になるまで腰を落とし、これを1分間」一日一回でよいという。
お調子者の私は早速試してみたが、10秒もせぬうちにギブアップしてしまった。二三度試したのが災いして、左すねのあたりが痛くなり、昨晩は何度となくm目が覚める始末である。「蹲踞ダイエット」というものもあるのだそうだが、こちらの方がよさそうだ。
「体幹を鍛える」ことが盛んに言われているが、私がいまさらすることでもないなーと思ったりするなか、71爺はあちこち壊れて、本当に歳を感じている。

6:26水害から60年の昨日は午後からは晴れ、時折お天道様が顔を出すような天気に成り爽やかな気持ちに成りました。
今日はちょっとどんよりとしていますが、足を引きづりながら梅雨の合間の散歩に出かけようと思っています。 

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熊本城、行ってよかった城1位 世界最大口コミサイトで

2013-06-26 15:17:01 | 新聞

朝日新聞デジタル版から   http://www.asahi.com/national/update/0626/SEB201306250073.html

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鎮魂の日・60年の感慨

2013-06-26 06:56:12 | 徒然

                                      

 昭和28年の6;26水害では、未曾有の被害と多くの犠牲者を出したが、我が小学校時代の同窓が沢山(27名?)亡くなっている。
あれから60年たつというのに、あの時の恐怖はいまだトラウマとなっている。幼くして亡くなった同窓の犠牲者に哀悼の意を表したい。
                              大江小学校・水害犠牲者慰霊祭写真 (四段目中央)

今年は雨の少ない梅雨をすごしてきたが、今日は夜半からすごい風雨、大雨の予報が出されている。今も振り続いている雨は、かすかな記憶の中にある60年まえの雨を思わせる。・・・・・悲しい・・・・

昨年も白川は大きな被害をもたらした。龍田地区の原始の川のように大きく蛇行する川路は、以前と変わらぬ流れで被害地を見ない限り、昨年の事が嘘のように思われる。子飼橋の架け替えや、河川改修などが進み随分様相が変わってきた。龍田地区も多くの家々が移転を迫られ、かつての宅地を貫通させて川路の変更が行われる。買収交渉もままならないようだが、致し方のない措置であろう。

自然の前にはまさに無力である。いかに災害にあわないようにするか、命を守るために知恵を出し合い協力しなければならない。

 (昨日は母校・大江小学校に電話をして水害で亡くなった方の人数をお聞きしたが、60年もたつとどうも判らないらしい。ちょっとショックを受けてしまった。   
 その後教育委員会のおたずねして、死者7名・行方不明者14名・計21名であったことをお教えいただいた。私は27名と覚えていたのだが、1(いち)と7(しち)の間違いだったようだ。)


  今日のこの日、学校では黙とうくらいされるのだろうか・・・と、ふっと思った。 

   今日の熊本日々新聞  http://kumanichi.com/news/local/main/20130626005.shtml

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