津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

平田家の人々

2010-10-31 11:27:39 | 歴史

 ガラシャ夫人の筆跡は十九通残されているという。永青文庫に四通、国会図書館に残りがあるらしいが、これはガラシャ夫人に近侍した小侍従の嫁ぎ先の平田因幡の家系である、平田家、松本家から納められたものであるとされる。(細川護貞著・魚雁集より)

 その他の遺物については、ガラシャ夫人の悲劇的な生涯にあたって灰燼に帰している。
「新・熊本の歴史5-近世・下」の護貞様の「細川家の人々」によると、この平田家のご子孫のお宅からガラシャの生活の一端をうかがい知ることの出来る、貴重な品物が発見されたとされる。護貞様のご努力によるものである。

     ガラシャ夫人筆跡 五通
     忠興公の書簡 二十通
     御食器 (食器二十点、御箸二通 十字が刻まれた漆器があるという)
     打掛 一  (秀吉が小侍従に与えたとされるもの) 等々である。

 この平田家は、因幡・彦三親子が幽齋公の田邊城籠城に加わっている古い家柄である。
小侍従は因幡に嫁いでいるが彦三が小侍従の子であるかどうかはよくわからない。
彦三は後に金工家に転じ名を成している。因幡の甥が松本氏を名乗り士分としての平田家を継いで明治に至っている。
綿考輯録はそれぞれの人たちを詳しく紹介している。


 1、平田因幡  
 【田辺城籠城】   妻・忠興公室(ガラシャ)御付「小侍従」
      
生国佐々木の氏族也、佐々木家没落ニ付、離国後、京都に居申候、兼々忠興君
      御懇意にて、是非丹後へ罷越候様、米田宗賢を以被仰下其子彦三と共に、宮津
      江罷越、数日被留置、御懇意相重り、百石の御擬作被下、其上御前様江被召仕
      候、小侍従と申女房あしく不被成訳にて候を、因幡妻ニ被下候、取持候様にと宗
      賢妻ニ被仰付、嫁娶仕、何となく御奉公申上候 (中略)
      今度宮津にても働き、直ニ駈来、篭城仕(田辺城)父子共ニ北海手の持口の内、
      宮津衆各と有内成へし御利運に成、三斎様関原より御のほりのせつ、父子途中
      まて罷出候へは、籠城の次第被聞召上、御感之旨被仰出、夫より福智山江御供
      仕、働申候、豊前に被召連、丹後已来之忠義御感有之、因幡へ御知行三百五十
      石被下、平田を松本と被改下候而、御櫓一ヶ所御預被成候 (綿考輯録・巻五)

      
   
平田彦三 【田辺城籠城】
      父因幡一同ニ忠義御感之旨ニ而、於豊前御知行百石被下、御領内金銀改役被
      仰付、本苗平田を名乗候様ニと被仰出候、呼野山金出候刻も、吹方御用相勤、
      其後金銀吹改之義ニ付、御手判御書出拝領、且又判銀ニ用候、青印向後平田包
      銀之寿印ニ仕候様ニと御直ニ被下候  八代ニ被差置、度々三斎様御腰掛させら
      れ、唐物之御膳拝領仕候、*(手偏に匁)御物好にて白銀細工被遊候節、御手伝
      申上、茶湯道具銅鍔等、度々差上候、寛永十二年病死   (綿考輯禄・巻五)
    
   小侍従   
      明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方
      伏見御城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ
      御立退被成候、然共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐
      私儀常に奉似御面候体候由承候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次
      にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よく御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も
      右為御礼、猶又登城仕候、ヶ様之訳にて因幡果申候而も後家へ御合力米被下候
                                             (綿考輯録・巻九)

              
2、彦之進(養子)
 
      因幡甥・松本彦之進を養子婿ニ被仰付、因幡娘やゝと申、幼少より被召仕候を嫁
      娶被仰付候、因幡死後御知行弐百石被下 (綿考輯録・巻五 平田因幡項)

           (1)留守居組 京都郡、中津郡奉行 「青龍寺」 筑紫大膳組 二百石
                                        (於豊前小倉御侍帳)
           (2)御馬廻衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)
           (2)御馬廻衆十二番遠坂越後守組 (別記 百五十石)

 
  実は平田様ご子孫からご連絡を頂戴し、先祖附などを勉強しなければと思っている。

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大河をねらう・・「細川三代」

2010-10-31 09:47:12 | 書籍・読書
 かって熊本日々新聞の夕刊で連載されていたもので、刊行が待ち望まれていたのだが遅きに失した感じもする。NHK大河で「細川三代」をという声を聞くのだが、何事につけ熊本人は動きが鈍い。幽齋公没後400年に際して諸行事が盛り上がっている中、これをきっかけにパワー全快で目的達成と行きたいものだ。

この本については、ちょっと値段が高いのが気にかかるが・・・・・

細川三代―幽斎・三斎・忠利
春名 徹
藤原書店

【本の内容】

織田信長、豊臣秀吉、そして徳川時代に至る激動の戦乱期に、抜群の政治感覚にしたがって、来るべき権力者を見定めて主君とし、遂には徳川政権において五十四万石の地位を手中にした細川家。権威と価値観が激変する約百年をしなやかに生き抜いた、細川幽斎(1534‐1610)、三斎(1563‐1646)、そして忠利(1586‐1641)の草創期三代の軌跡を描く、圧倒的な歴史絵巻。

【目次】

わが子への手紙
第1部 幽斎藤孝(足利将軍家に仕える信長の陣営に参じて)
第2部 秀吉と細川父子(奮戦する忠興—小牧長久手戦の前後秀吉の九州平定 ほか)
第3部 三斎忠興と徳川家(その前夜—ガラシャの死 父と子の関ヶ原合戦 ほか)
第4部 肥後藩主忠利(忠利、肥後領主となる 御世はじめ—家光の親政 ほか)
第5部 光尚と三斎(肥後五十四万石を継ぐ—光尚の時代 三斎忠興の死—ある時代の終焉)
赤穂浪士と桜田門外の変—その後の細川家

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嗚呼、鈴木喬先生

2010-10-30 09:32:10 | 熊本
 熊本郷土史の泰斗鈴木喬先生がお亡くなりになった。個人的なことでいうと我が高祖父上田久兵衛のことについて、お父君・鈴木登先生の「肥後藩士上田久兵衛先生略傳並年譜」の研究の跡をつがれて、いろいろな論考を上梓していただいた。深く御礼を申し上げたい。おやさしい面差しや語り口が思い出されるが、ただただ残念のきわみである。
熊本市の初代の文化課の課長として多大の業績を残され、退職後は熊本の郷土史研究の牽引者として常に先頭に立ってこられた。多くの著作を残されたが、その二三についてはご恵贈を賜った。いずれもお教えいただくことばかりで、その該博振りにはただただ尊敬の念を禁じえないでいた。
上田久兵衛に関する論考については、ぜひおまとめいただいて発刊をお願いしたことがあった。こと成らずして訃報に接した。今はただ深く哀悼の意を表し、残された奥様の平安をお祈りするばかりである。 合掌

           
                肥後菊の凛たる立ち居秋土用   津々
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「こずむ」という言葉

2010-10-29 18:47:30 | 熊本
 山本夏彦の「完本 文語文」に、久保田万太郎が使っていたという「こずむ」という浅草弁のことが書かれている。十五ほど歳が若い、ちゃきちゃきの江戸っ子である池田弥三郎もこの言葉はわからなかったという。ということは・・すでに死語と成っているわけだ。

 熊本の方言も京都あたりから伝播した言葉が、進化することなく取り残されて定着したという説がある。時折古語辞典などをひも解くと、そんな言葉に出会うことがある。

 「こずむ」が「こづむ」であれば、熊本弁に今も存在している。積み上げるという意味だから、漢字を当てると「小積む」なのではないか。
しかし浅草の言葉が熊本に定着しているとは考えにくいから、まったく違う意味なのだろう。

私の机の周りは、こづみあげた資料や読みかけの本で足の踏み場も無い有様である。
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西福寺に眠る、細川家当主の生母たち

2010-10-29 11:46:06 | 歴史
 唐人町筋から細工町通りを抜けて小沢町へと至る道筋の北側に、慶長年創立の西福寺がある。。小沢町筋は坪井川を挟んでいるとはいえ、対岸に新幹線の高架が走り様変わりを余儀なくされるのであろう。古いたたずまいが残るまちである。お寺の裏手は「板屋町」、わずか十数軒の家で構成された一区画が古い町名を今に伝えている
さてこの西福寺には、細川家当主の生母である人たちのお墓がいくつかある。

六代宣紀の側室鳥井氏映心院は七代宗孝の生母である。その他数人の子をなしているが、熊本生まれの富姫(三歳)、龍五郎(三歳)が母親とともに此処に眠っている。
     女子・倉、蔵   夭折(江戸・伝通院) 
     八三郎      夭折(   同上   )
     女子・富      夭折    
     宗孝
     女子・禰々、喜和     宗対馬守義如室
     女子・照、三千、千代  安藤対馬(大和)守信尹室
     龍五郎   家老木村半平豊持養子  夭折 
宣紀には正室が無かったことは先に書いたが、宣紀が綱利の養子となる以前から宣紀の元にあったようだ。七代宗孝の生母であり、二人の娘は大名家に嫁ぎ正室並の待遇を得ていたものと思われる。田町の屋敷に暮らし、宝暦十一年に亡くなっている。

又、十二代齊護の側室で十二代護久の生母興願院(水俣の惣庄屋深水頼経妹田鶴)、
護久の側室で十五代護成の生母慈雲院(同じく深水頼寛三女ヌイ)のお墓も此処にある。

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恐縮の極み

2010-10-28 12:11:32 | 徒然
10/23の「自分のことは棚に上げ・・」で指摘した、ある図録の間違いについて、わざわざ当方に丁寧なご報告をいただいた。まことに恐縮の極みであり、適切な手早い対応に敬意を表するものである。
当方ブログに目を通していただいている方は、一日2~300人くらいのものであるが、一応全国に向けて発信していることに心して、このような内容の発信には相当の責任を持たなければならないと感じている。すばやく正誤表などを作られたようだが、このような対応こそが新たな信頼関係につながることは間違いない。

まことに爽やかで、ハートにぽっと灯がともったような気分である。
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人形つくりの町

2010-10-27 16:09:39 | 熊本
         「おばけの金太」 熊本県・週間メールマガジン・気になるくまもと-33号から
                                                                                                   
 熊本にはかつて人形製造で生計を立てる人たちが、新細工町や高麗門町に集中していたという。この素朴な郷土玩具「おばけの金太」もその一つであろう。

 最近、蓑田勝彦先生の「江戸後期、熊本町における商品生産・流通の資料紹介」という論考(年報-熊本近世史 平成七・八年合併号)に、「(二)細工町における人形製造について」が掲載されているのを見つけた。
これは、「細工町の別当友枝良右衛門が、職人達に材料の購入の資金を貸し与えた」ことについての、詳細な資料にもとずいて検証されているものである。
このあたりは「人形町」ともよばれ、町の四割ほどが人形製造に携わっていたのだそうだ。
そんな中で日本一の「生き人形師」松本喜三郎などが現れてくるのである。

 私はある方から、某所の床下に人形の木型(?)が多数残されているという話を伺ったことを思い出した。まさに「人形町」界隈の真っ只中にある。どういうものが出てくるのか・・近々調査が始まるらしい。

 先の蓑田先生は、「熊本市立博物館や、熊本伝統工芸館、骨董品店などに問い合わせた」が現物は残っていないようだと記されている。
現物はないが木型(?)が残されており、復元も可能ではないのか。
いろいろな活動が活発なこの地域で、何らかの形でひとつの動きが現れれば幸いである。

 いろいろな事に聞き耳を立てていると、このようなことでつながりが出来てくる。
68爺の耳はまだよく働くのだが、収納する脳みそのほうが怪しくなっているのが心配ではあるが・・。
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大道とか宜貞とか・・刀工のこと

2010-10-26 09:33:28 | 歴史
細川家の旧領、豊前の宇佐八幡宮の宝物館に 大和守藤原宜貞の刀が奉納されているという。
元和六年十二月、細川忠興の家臣の河喜多五郎左衛門正重が長剣を奉納 。
寛永三年三月には忠興自身が短剣を奉納したとされる。

「福岡県史、近世史料編・細川小倉藩」には、忠利が家督した直後の元和九年五月から、肥後入国直前の寛永八年十一月までの覚書や日帳が納められている。
このなかに刀工(刀鍛冶)の宜貞や大道のことが度々書かれている。

 ・大道打替、上ケ申候御腰物、御大脇指・大小弐腰請取置候事(9/5/6)
 ・大道打之御大脇指、寺尾左介(勝永)方へ渡ス也(9/5/9)
 ・当町ニて、似横目ノ似仕候者、今日誅伐仕候、御大脇刺大道打、一ノ筒ヲためし申候、
  あばら弐枚かゝり申候(9/5/10)
 ・寺尾左介所より、大道打之御脇刺筒ヲためし、あはら弐枚かゝり申候ヲ、今一度ためし
  申候やと被申、持せ被上候(9/5/16)
 ・大道打、宜貞打ノ御腰物弐腰、とき(研)・はゝき(鎺)出来候事(9/5/23)
 ・宜貞打ノ御大脇指壱腰、うちかへ上ケ候事(9/5/晦日)
 ・(国遠)道倫小者久次御成敗候事 御大わきさし宜貞、御腰物大道、何も筒落候也 (9/6/16)
 ・宜貞打替候御腰物壱腰、けん鑓壱つ、さゝのは(笹葉)鑓壱つ、大道打ノ中わきさし壱腰
  寺尾左介より被上候を・・・・(9/8/10)

元和九年のみを抜粋しても以上のようで、大道・宜貞の二人の名前が出てきており、宇佐八幡宮に納められた刀剣もこの宜貞の作によるものであろう。刀の刻印から宜貞は忠利の国替えに随伴して肥後に入っていることが判る。
この時期いまだ戦場をへ巡る武士の荒々しい気風が残されており、試し切りなどが日常的に行われていることを伺わせる。忠利自身も行っている。

又、大道については「倉谷(舞鶴市)」というサイトに次のような記載があった。
          http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kuratani.html           

福来に「大道」と称する刀工鍛冶集団が居たらしいことが「宮津府志拾遺」の中に見える。
 「大道安輝 其先勢州関(三重県津市)住人、細川時代(一五八○~一六○○)田辺地下に来住す。関にては、大道(ダイドウ)という、丹後にては大道(ヲヲミチ)と称す。
 後年京極侯に従い宮津に来住す。高国侯(京極)の時、江戸に出て安定といへる名鍛冶の弟子となり安輝と名乗る。子孫干今有り代々安輝と名く」とあり、「田辺地下」とは、当地の「福来小字大道」でなかろうかと思われる。
 大道の周辺に当たる倉谷の大泉寺、東山寺辺りに「小字カジヤマエ」の地名が伝えられており、ここに、大道刀工鍛冶集団が細川侯の招きにより、来住していたものと思われる。
 その後、細川侯が九州へ転赴された際、大道集団の一部が肥後へ移ったとみえる。「肥後御入国宿割」によると、豊前より肥後へ移る際の刀匠として「拾石刀鍛冶大道左兵衛」「五人仝才次郎」の名が見え、この方達は田辺より肥後へ移った人達であろうと思われている。
 一方、田辺に残った「刀工大道」は、京極家に従い宮津へ移住している。
 これ等の状況により、福来の「だいどう」は「ををみち」ではなく、大道鍛冶集団が居住していたため、今に、「だいどう」の地名で呼ばれて来たものと推察される。 (余内小史千坂哲雄氏、大道刀工高田守氏の資料を参考にさせていただく)

又、未見であるが次のような論考があった。ぜひとも読んでみたいと思っている。
「地方史ふくおか」第110号(第34巻第1号) 2001年8月31日発行
豊前小倉の刀工、大道一派の系譜 …細川藩時代前後における豊前系大道と美濃系大道… 河野正彦(小倉郷土会)

追記:2010/11/1
  妙解院殿忠利公御代於豊前小倉「御侍帳并軽輩末々共ニ」に、次の記載が見える。
 ・細工之者諸職人
       拾石     刀鍛冶  大道左兵衛
       五人     刀鍛冶  大道左太郎
       拾人扶持  鑓鍛冶    宣貞
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家紋のこと

2010-10-25 09:50:49 | 徒然
 最近家紋について一二お問い合わせがあった。一族の中でもまったく家紋が違っていたり、不思議なアレンジがなされていたりして、その由緒をお尋ねいただくがなんとも不勉強で皆目判らない。
近頃あちこち御寺様をお尋ねして、お墓を見せていただいたりしている。
「立ち葵」を発見して苗字をみると、なるほどと思われるお宅であったり、「細川九曜」の紋が付けられたお墓は某小説の主人公のお宅だったりして成る程と合点したり、なかなか興味深い。

 ある墓石業者に聞いた話によると、自分の家の家紋を知っているという人は大変少なくて、調べても判らず、「かっこいいからこれにしてください」というような人さえいるという。
こまったことではある。

 もっとも我が家の家紋「入り隅角に流鼓紋」なんぞも「家紋帳」にはなく、何時のころか勝手にデザインしたものかもしれない。

 浜洲が鬼浜洲になり、剣がついて剣鬼浜洲になり、そぜぞれが丸や角に収まったり、陰形紋になったり、家紋は進化している。細川家士のお宅の家紋も実に多様で、名前がわからないものが随分多くある。
できれば「家紋の写真と紋の名前」などを、メールでお送りいただくと大変有難い。
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「時代小説を書きたい」という本

2010-10-24 15:42:25 | 書籍・読書

 過日図書館に出かけた折、こんな本に出会った。ちょっと気になるではないか。
別に何かを企てているわけではないが・・・   ちょっと気になる。
アマゾンのカスタマーデビューを読むと、皆さん「時代小説の書き方」だと思われているみたいだ。そういう点では余り評判がよろしくないようだが・・・

【本の内容】
登場人物の履歴作成法、年表の作り方、図書館利用法、資料の選び方、間違いやすい「暦法」「不定時法」の解説等々、時代小説執筆の舞台裏がすべて分かる!作家志望者始め、時代小説をより楽しみたい方、必見の書。この1冊で時代小説の書き方が分かる。時代小説の特性を踏まえ、執筆過程を具体的に記す。時代小説をより楽しみたい方、必見の書。

【目次】
第1章 歴史・時代小説—腕を組んでから本になるまで(何はともあれまず打ちあわせ
     書き出す前の下準備 歴史小説はマギー司郎だ ほか)
第2章 時代小説家—投資と資料と勉強と年齢と(ライバルは司馬遼太郎・藤沢周平・池波
     正太郎 定年過ぎても遅くない 古文・漢文はこわくない ほか)
第3章 ここでコケない勘どころ—時代考証の初歩の初歩(目立つところでしくじらない
     江戸時代—二百六十年あるのを忘れない 戦国時代—激しい技術革新があったの
     を忘れない ほか)
第4章 書いた原稿をどうするか—いざ、勝負!
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自分のことは棚に上げ・・

2010-10-23 12:42:48 | 徒然
 ブログを書いているといろいろ間違いを犯し、時々ご指摘を戴くことがある。これは「赤っ恥」ではあるが脳に刷り込まれて再度ということにはならないから有難い事ではある。
数年ブログを書いていると、以前に書いたものがひょっとしたら間違っていたのではないかと不安になって、チェックを入れたりしている。こっそりはいやだから朱書きで訂正している。

 最近読んだ数冊の本のなかにも、「それはないでしょう・・」というような間違いがあった。

 細川家の一級史料を駆使して書かれたTT氏の名著には、「はじめ」の中に次のような明らかな間違いが見受けられた。
    いま、杉の巨木に守られた熊本市立田山の泰勝寺には、藤孝と忠興、ガラシア夫人
    の、簡素にして雄大な五輪塔が三基並び、側にガラシアに殉じた小笠原少齋の墓も
    ある。
 名著であるがゆえに、藤孝夫妻・忠興夫妻が「四つ御廟」とよばれるお墓が仲良く並んであることをご承知無いことを、残念に思うのである。(現地を見ておられれば間違うことはないだろう)小笠原少齋のお墓は数百メートル離れたところにある。(側かもしれないが・・)

 TH氏の忠興を主題にした著(PHP文庫)の最後の部分に、忠興の臨終の場面が描かれている。臨終を看取る人の中に、後藤又兵衛の子又一郎が登場していた。それは小説だから我慢するとしても、ご丁寧に「当時九歳」と紹介している。忠興の死は正保二年の暮である。又兵衛は大坂夏之陣(元和五月)に亡くなっている。30年の刻が流れているというのに・・・・

 数え上げるときりが無い。

 郷土史家と名乗られる某氏の明らかな間違いに対し史料を添えて質問をしたが、返事さえも返ってこない。氏の著書は訂正されることも無く、あちこちの図書館に置かれている。

 今朝ほどはMN氏から、某展覧会で求められた図録に大間違いがあるとのお電話を戴いた。学芸員が解説した文章にあったようだが、お話を伺うと明らかな間違いである。
これは訂正方を申し入れたがよかろうという話になったのだが、さてどうなるのか・・・。

  研究者はなかなか自分の間違いを認めようとしないが、謙虚であるべきだ。
私のブログは訂正で朱書きが巾を利かせている。

 汗・・朱書き部分は誤植ではないかとのご指摘がありました。
言い訳の出来ない当方のミスです・・まったくもって「自分のことは棚に上げ」になってしまいました。
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安國寺掃苔

2010-10-22 09:50:44 | 歴史
                        荒木村重・供養塔
       http://www.m-network.com/sengoku/haka/murashige450h.html

今年の5月18日、 「熊本史談会」の会員十名ほどで安國寺を訪問、貴重な資料をいろいろ拝観させていただいた。
 安國寺の開山明巌梵徹は、明智光秀の末子(ガラシャ夫人末弟)とされる。その故であろうか、明智左馬介の子孫にあたる三宅家から、『明智系図』が納められている。(現況未公開)
他にも「喜多村系 明智系図」が残されいた。

 寺域には、細川家の有力家臣である沼田・朽木・續・溝口・町(長曽我部)・内藤氏等や切支丹として有名な加賀山氏その他多くのお墓がある。今般「幽齋公400年遠忌」に際し根本家臣のご子孫をお探しする中で、荒木家(荒木村重男善兵衛を祖とする)のお墓を発見したのだが、これについてはすでにウエブサイトで紹介されていた。(知らなかった・・)
又、蒲生秀行供養塔を始め、肥後四戦役戦死者供養碑、などがある。
これは正式な碑の名前は知らないが、天草島原の乱、小倉戦争(四境戦争)、ハーマン号沈没事故、戊辰戦争関係の戦死者の慰霊碑である。

 そしてもう一つ、神風連の挙で亡くなられた、地元高麗門連の志士を顕彰する「高麗門連招魂碑」があることも知った。
          植野常備
          平山平馬
          上野継緒
          小篠一三
          山田彦三郎
          西川正継
          大石虎雄
          小篠清四郎
          高田健次郎
          小篠源三
          井上豊三郎
          兼松郡起
          米良亀雄
          兼松繁彦    の14氏である。
 時習館教授を務め(のち奉行)た井口呈助の薫陶を受けた人々である。
特に、小篠家は四兄弟(ここには末弟の名前が無いが・・)が参加して命を落としているが、なんとも悲惨な結末である。

 細川家菩提寺・妙解寺のすぐお隣にあるこの安國寺は、細川九曜紋が寺紋だという。細川家と深い係りを持っていることがわかる。現在でも「四戦役戦死者供養」が執り行われている。
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町家と「長元記」著者・立石助兵衛

2010-10-21 14:13:48 | 歴史
 2009/6/25のブログで「長元記(長曽我部元親記)」の著者・立石助兵衛のことを書いた。
立石氏については細川家侍帳に、個人のお名前がいくつか見えるが先祖附は残されていない。過日本覺寺のお上人さまからメールを頂戴し、こちらが立石家の菩提寺であるとお教えいただいた。過去帳などは火災で無くされたそうだが、史料が熊本市の「歴史文書資料室」に残されているとのことであった。
(本覺寺・・法華本妙寺末寺、清正公ノ寵妾法号本覺院月心日圓大姉ノ為ニ、慶長年中建立之、開山日眞上人也、清正侯忠廣侯二代毎歳弐百俵納之・・)
           www.cam.hi-ho.ne.jp/s-uekawa

 この本覺寺のお隣が、細川九曜紋を寺紋とする安国寺である。
           orange.zero.jp/kkubota.bird/antaiheizan.htm
細川家の有力家臣のお墓がいくつもここにあるのだが、そのひとつが町家すなわち長曽我部氏の子孫のお墓がある。長曽我部氏の「ちょう」を「町」として「まち」氏と名乗り明治に至ったがその後複姓されている。

 町家(長曽我部氏)のお墓がある安国寺のお隣の本覚寺六角堂に、「長元記」の著者・立石助兵衛のお墓があるというのには、何かしら因縁めいたものを感じてしまう。

 文書の所在がはっきりしているとすっかり安心してしまい、熊本県立図書館所蔵の「上妻文庫」に所収されている「長元記」はまだコピーできていない。
そろそろ腰を上げずばなるまいと思っている。
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六丸(綱利)の後見

2010-10-21 10:18:03 | 歴史
 六丸(細川綱利)がわずか七歳で肥後五十四万石の襲封を許されたとき、その後見を命じられたのが豊前小倉藩主・小笠原忠真と阿波徳島藩主の蜂須賀忠英である。
小笠原忠真は小笠原秀政の二男、その妹・千代姫が綱利の祖父・細川忠利室、秀政の長女が蜂須賀忠英の父・至鎮の室という関係にある。
秀政・忠脩父子が関ヶ原で戦没したため、秀政の長女は家康の養女として至鎮に嫁ぎ、次女・千代姫は徳川秀忠養女として細川忠利に嫁いだ。
蜂須賀忠英は父同様小笠原家から正室を迎えている。忠脩が亡くなったため忠真の養女として忠英に嫁いでいる。

 細川家は小笠原家の血縁を通じて、この時期を支えられている。

寛永廿年(1643)生まれの綱利だが、慶安二年(1649)に没した祖母保壽院(千代姫)の記憶はのこっていただろうか。


        蜂須賀至鎮
              ∥----------忠英
小笠原秀政----+--●         ∥
          |            ∥
          +--忠脩----------●
          |
          +--忠真
          |
          |  細川忠利
          |    ∥------光尚---六丸(綱利)
          +--千代姫(保壽院) 
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士席・軽輩という身分

2010-10-20 18:12:43 | 歴史
 細川藩においては武士の身分は、大きく「士席」と「軽輩」の二つに分けられる。
その身分差別はいろんな面で顕著である。その最たるものが「討捨」(いわゆる無礼討ち)である。士席は軽輩以下のものを「討捨」にしてよいとされていた。

   ■士席 
        ・一門
        ・知行取   上卿  一二三家老・家老・中老
                下卿  備頭・備大頭・留守居大頭・大奉行・大目附・組外

                上大夫 上着座
                中大夫 中着座・佐敷番頭・番頭・用人・小姓頭・留守居番頭
                下大夫 比着座・八代番頭・中小姓頭・奉行・御次着座

                上士   江戸留守居・鉄炮五十挺頭・奉行副役・鉄炮三十挺頭
                      留守居中小姓頭・鉄炮二十挺頭・近習御次組脇・側鉄炮頭・
                      側弓頭・鉄炮十挺頭・長柄頭・目附・使番・歩使番頭・右筆頭・
                      歩頭・昇副頭・鉄炮五十挺副頭・鉄炮三十挺副頭・物奉行・
                      側取次・大組付・川尻町奉行・留守居切米取觸頭・留守居
                      大組付・近習御次物頭列・小姓組組脇・番方組脇・留守居
                      番方組脇・留守居番方組脇・八代城付組脇・八代目付・
                      佐敷番方組脇・学校目付・馬方支配役・船頭頭・持筒頭・
                      普請作事頭・郡頭・穿鑿頭・勘定頭・算用頭・御連枝様付役
                平士   郡代・高瀬/高橋町奉行・近習目付・外様医師触頭・奉行所
                      佐弐役・天守支配役・惣銀支配役・切米支配役・掃除頭・八代
                      城付・佐敷番方
                下士   中小姓組脇・近習目付・奉行所中小姓根役・目見医  

  ■軽輩 (切米・扶持米の支給)                
                上徒   奉行所根取・歩使番・歩小姓組脇・独礼・郡間/勘定所根取
                      穿鑿役・惣銀所/切米所根取・諸独礼
                中徒(歩段)   歩小姓・奉行所物書・諸歩段・惣庄屋
                   (諸役人段)  諸役人段
                下徒( 同上 )   一領一匹・
                   (足軽格)   諸小頭役
                   (足軽格)   足軽段・中間格
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