津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■街角風景・河底のASO4

2021-03-31 15:17:52 | 徒然

 

 私が現在住んでいるところは、地震の大被害を受けて急遽引っ越したところだが、5年近くになるが今一度の引越が億劫で、終の棲家になりつつある。
毎日の散歩で近所をあちこち回って代り映えしない風景をながめているものの、時折新発見をすることが有る。
今日は、水がすっかり干上がった水無川(健軍川)の川底をながめていたら、阿蘇の溶岩流の先端部らしい岩盤が露呈しているのを見つけ出した。
つまり健軍川の流路は、その先端部を削りながら流れを定めたのではないか?
下流部の江津湖などにもASO4の露呈が顕著にみられるから間違いないのではなかろうかと、一人思っているのだが如何だろうか?
そして川の中には、巨大な石が多く鎮座している。石を割るために穴が一直線に穿たれたものもあるが、断念したのか放置されている。
以前もこんなものをご紹介していた。
■街角風景・水無川の巨石
いつもはまったく水がない川だが、少々の雨が降るとあちこちの側溝の水があつまり瞬く間に濁流となり、この巨大な石も飲み込まれてしまうし、川底も削っているのではないかと思われる。

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■薩摩街道・三太郎峠越え

2021-03-31 09:19:42 | 熊本

 先の史談会例会では、熊本の街道シリーズ・第二弾として、「薩摩街道・豊前街道、日向往還」を取り上げた。
講師をお願いした会員のN氏はこれらの道をたどり踏破した人だから、使用させてもらったサイト「豊前街道・薩摩街道、旧街道地図」の一部ルートの間違いを指摘されるほどの達人である。
大変好評を得た企画となり、史談会事務局8年の大役を終えた。

 さて、かってのNHK大河ドラマ「天璋院篤姫」では、鹿児島をはなれ江戸大奥へ入る篤姫は、鹿児島を海路出発したとしている。
これは原作者の宮尾登美子氏の「海路→木曽路」説に由来するものだが、実際は薩摩街道→豊前街道→西国(山陽)街道→東海道(一部・姫街道)と陸路を二カ月かけて参府している。
随分難儀な旅であったろうと思われるが、その手始めがが熊本南部の「赤松太郎峠」「佐敷太郎峠」「津奈木太郎峠」の三太郎越えの旅であったろう。
幅一間ほどの山道であったというから、宮尾登美子氏の提案の如く船旅が楽であったかもしれないが、船旅も又初めてことであれば難儀なことでもある。
200人以上の大行列があの山道を歩いたのだから、大変なことであったろう。
「あの」と書いたが、私はいわゆる薩摩街道も、一部道筋を同じくする明治国道37号線も通った経験はない。
国道3号線が開通するのは昭和40年のことである。

水俣でうまれた徳富健次郎(蘆花)は、その著「死の陰に」で、大正二年九月二日から、妻と養女、養女の家庭教師の三人の女性と共に長い旅に出て、詳しく記録にとどめている。
東海道を汽車で下り、大坂から汽船で別府に入り薩摩を目指している。薩摩からは人吉を通り日奈久へ帰り、日奈久から海路水俣に入っている。その後この三太郎峠越えをして日奈久に戻り、熊本へ向かっている。
その後福岡へ出て、大陸に渡るという旅であった。十一月三十日に東京に帰る大旅行は終了した。

父祖の地である水俣入りについては、次のように記している。

      日奈久温泉から余の祖先墳墓の地且は余の誕生地たる水俣までは、南へ十里。陸路は三太
      郎の峠を越すが、海には小蒸気が通ふて唯二時間餘でつい往かれる。余は日露戦争中鹿児
      島から歸途、菜の花にしとしと春雨の降る日、薩摩の大口から馬車で峠を越えて水俣に一
      泊し墓参もしたが、妻も鶴子もまだ一度も其土を踏んだことはないのである。何を措いて
      も往つて見なければならぬ。そこで日奈久に着いた翌日、九月二十九日の午後、埠頭から
      艀に乗り、沖で小蒸気に移乗し、葦北の海を南に向ふ。
      北と東一帯は肥後の本土、西は天草諸島、南は薩摩と其島にぐるり取りかこまれた東西六
      七里、南北二十餘里、一寸琵琶湖大の此内海は、景行天皇以来大分古い歴史を有つて居て、
      殊に其南部は古来葦北の海と稱へられ、「葦北の野阪の浦に船出して」など歌にも詠まれ
      て可なり歌枕にもなつて居る。(中略)
      日奈久から水俣まで十里の海岸は、所謂三太郎の屏風を延べた様な山つづき。處々或は浅
      く或は奥深く狭い入江が陸に喰ひ込んで、江の頭には屹度川が流れ込み、川の造つた地面
      に町または村が沖から隠れて住むで居る。松や雑木の茂る磯山つづきに、砂浜と云ふもの
      は絶えてなく、其かはり盆景に欲しい様な小島や岩が磯近くちらばつて居る。日奈久沖か
      ら汽船はずつと陸近く寄つて、磯山松の影ひたす碧潮を分け、此處其處で鱸釣る舟を其餘
      波に盪かしつつ、田の浦、佐敷、津奈木と寄るたびに汽笛を鳴らして三人五人艀の客を上
      げ下ろしつつ、南に駛せて早くも水俣に来た。此處は西北に向ふてやや打開け、人家が大
      分、煙突なども見える。

ここで四人は親族や旧知の人達と再会を喜び数日を過ごしている。健次郎は19年ぶりの水俣入りである。
次回は熊本へ向かうための「三太郎峠越え」についての記述をご紹介しよう。

                     
 

 

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■細川小倉藩(533)寛永七年・日帳(十ニ月十五日~十八日)

2021-03-31 07:12:30 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)十五日~十八日

         |                                       
         |   十五日  岩男嘉入 
         |
         |一、助進・兵庫担当也、             (元明)
国東郡へ楊枝ノ用 |一、国東郡へ御郡奉行衆へ、御楊枝木之儀申遣ニ、住江甚兵衛与之中村左兵次兵衛を遣也、
         |     〃                           〃
         |   (信通)
稲葉信通ヨリ打直 |一、稲葉彦四郎様ゟ、打直之御脇差壱つ御越被成付而、佐渡殿ゟ持せ被遣候、則、爰元ためし見可申
シノ脇差     |  由、被仰越候、其段江戸へも可有言上由候也、
江戸へ上ル物数  |一、江戸へ差上申物数之覚
塩鴨       |  一、塩鴨弐百三つ、
干いくら     |  一、干いくら壱斗、
         |  右弐色、南野九郎兵衛・足立與兵衛送り状遣由申候、
宇佐宮歳暮ノ護符 |一、宇佐宮常蔵坊、歳暮之御札持参被仕候、彼坊老足弐御座候間、重而ハ弟子を差上可申由申候被申
         |              (林)
         |  候、尤之由申候事、御札ハ隠岐方へ相渡申候由、被申候申候事、
         |                        〃〃〃

         |                                       
         |   十六日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、江戸へ遣御飛脚二人、幷色々御物積上候、御船頭ハ福良七右衛門と申もの也、
狐ツキノ林某本性 |一、林作左衛門尉本生ニ成申候間、前かとのことく御役儀をも被仰付候様にと、吉田縫殿被申候事、左
         |                                           〃
ニ戻ル      |  様ニ候は、御扶持方をも被遣候様ニと被申候間、尤請取候而可然と、申候事、

         |                                       
         |   十七日  奥村少兵衛 
         |
         |一、兵庫・助進当番、江戸へ言上調申ニ付、修理も登城仕ル、
三斎へ鴨罠ノ靏ヲ |一、服部九郎左衛門、鴨わなニ、去ル十四日ノ夜靏壱つ懸り申候を、則、中津様へ指上申之由候、当
上グ       |  秋之御触ニ、中津国東郡ニ靏居申候ハヽ、中津様へ御左右可申旨ニ候間、右之仕合候由、九郎左
         |        〃〃
         |  衛門ゟ、飛札以、被申越候事

         |                                       
         |   十八日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番助進・兵庫、
         |                (桑原)         (山田)           (狩野)
鉄炮弓足軽交替出 |一、江戸ニ詰候御鉄炮衆之かわり、主殿与大槻吉兵衛・市左衛門与之御弓衆二人、かの小源五・福王        |                                       
府  福王十蔵  |  十蔵出船候事、
         |       (城信茂)     (親直)                            (武次)
府内横目へ音信物 |一、苻内御横目城野織ア殿・駒井次郎左衛門殿へ之御音信物、次夫にて遣候、御使者牧丞太夫也、
         |  被遣候物、大樽三つ宛、鴨十廿宛、さうめんばこ壱つ宛、なんはんつけ壱つほつゝ也、
         |              〃
         |           御家中へ              (甲賀郡)
大坂塩屋藤左女房 |一、大坂塩屋藤左衛門、〇貸付銀之儀ニ付、彼女房江州土山迄、 殿様御跡をしたい参り、直奏を可
家中貸付銀ノ催促 |       (加々山可政)    (冨田)(津川辰珍)
直訴セントス   |  仕と申候を、主馬・権右衛門・十太夫・四郎右衛門殿ゟ、爰元へ被差下候、其ニ付、御家老衆ゟ
家老等談合ス   |          (加々山正慶)
         |      (有吉英貴)
         |  よびニ参、頼母殿へ三人参り、御談合承候事、
         |                  (長氏)
三斎へノ歳暮ノ使 |一、中津様へ御歳暮之御使者ニハ、平野九郎右衛門遣候へと、御家老衆被仰候間、申渡候事、
者平野長氏    |
慶徳院ノ賄    |一、小林半三郎、慶徳院殿賄之儀ニ付、御家老衆ゟ、よひニ遣候へと被仰付候間、よひニ遣候也、
         |      乙丸村
人質ヲ盗ミシ庄屋 |一、由布院之〇庄や藤左衛門儀、う野七右衛門ゟ、采女殿家老衆へ申遣候ハ、御領分之者之儀ニ候間、
ヲ竹中家老ヨリ請 |  私心得にてハ不罷成候間、此方へ御渡候へと申、請取、其所にて誅伐仕由、七右衛門ゟ申来候と、
取リ誅伐ス    |  御家老衆被仰聞候事、
慶徳院ノ賄    |一、慶徳院殿賄はたと不相成ニ付、在郷へ引こミ可申由、達而被申候へ共、在郷へ遣申儀ハ不相成候
         |                     御    かし
         |  条、重而、江戸へ可得 御諚申候、其内先〇米五石〇被遣、当分御つゝき候様にと、御家老衆御
         |                    粟野伝介
         |  相談之上ニ而、被仰聞候間、則、松丸衆〇へ申渡候事、
旧主水夫かの介ノ |一、当町清左衛門尉舟ニ、かの介と申ものやとい、上せ申候処ニ、大坂にて、かの介主人見、相渡被
身柄ヲ求ム    |  下候様ニと申候処、寺嶋主水、国と国との御さた候様ニと、返事仕由被申下候、大坂にてからめ、
国ト国トノ沙汰  |  かの清左衛門舟ニ下り申候、則、町籠ニ入置候事、
町籠ニ入レシム  |

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■今日の桜

2021-03-30 17:39:04 | 熊本

                                   
             コロナ禍の中、お花見の人が全く見えない桜の名所「健軍自衛隊通り」熊本城とは大違いです。

         

                                    

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■再考小倉藩葡萄酒(十)結び

2021-03-30 09:31:12 | 小川研次氏論考

         結び

        小倉藩の葡萄酒製造は極めて限定的であった。
        その原因はキリシタン禁教の時代であったからである。細川忠利は敢えて挑戦
        していた。多くのキリシタン家臣を抱え、神父らを保護し、母ガラシャの御霊
        救済のためにミサを挙行していたのである。
        「彼女(ガラシャ)は洗礼を授かってから十一年(実は九年)になるが、この全期間
        中に一人の司祭に会ったこともなければ教会へ行ったこともなく、またミサに
        も説教にも与ったことがない。」(「1596年12月13日付け、長崎発信、ルイス
        ・フロイス」)
        ガラシャは生涯、キリスト教で最も重要とされるミサの「聖体の秘跡」を授か
        っていなかった。
        1587年に洗礼を受けたが、夫忠興により外出禁止を強いられていた。逆臣明智

        光秀の娘であることの警戒感に精神的に不安定であったことが原因と思われる。
        しかし、ガラシャの悲願は神父と会い、聖体拝領を授かることであった。
        一時は忠興との離婚を考え、九州へ向かうことを神父に相談している。
        また、最近判明したことだが、ガラシャの亡くなる3ヶ月前に友人へ送った手
        紙に「もうすぐ落ち着きますので、近いうちに豊後に参りますゆえ、あなたに
        も是非お越し下さいますようお待ちしております」と書かれていたという。
                           (NHK番組『歴史ヒストリア』)
        慶長三年(1598)、忠興は丹後国にいたが、豊前国杵築を飛び領地として拝領し
        ていた。ガラシャはこのことを夫から聞き及んでおり、九州に行くことを楽し
        みにしていたのである。しかし、叶わなかった。慶長五年(1600)7月17日、37
        歳の人生を閉じた。
        その母の無念を深く理解していたのが、忠利であった。
        慶長十五年(1610)七月七日付の家老宛忠利書状に、忠興が小倉の禅寺でガラシ
        ャの法要を行うとしたことに、「半天連にて御とむらい候へハ、申すに及ばす
        候」と神父による法要であれば問題ないとしている。(『細川ガラシャ』細川ガ
        ラシャ展実行委員会)
        忠利にとって母の魂の救済はキリスト教式でなければならなかったのである。
        ガラシャが没した年1600年から1632年までの32年間、その御霊を祈り続けた
        地は、豊前国小倉であった。その証が小倉藩葡萄酒である。(了)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回をもって小川研次氏の論考「再考小倉藩葡萄酒」は終了いたしました。
ご提供いただきました、小倉藩葡萄酒研究会代表にして、九州唯一の名誉ソムリエであられる小川氏に深甚なる敬意を表します。有難うございました。

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■細川小倉藩(532)寛永七年・日帳(十ニ月十三日~十四日)

2021-03-30 06:47:02 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)十三日~十四日

         |                                       
         |   十三日  奥村少兵衛 
         |
         |一、当番修理・兵庫也、
鷹師大橋へ泊鷹野 |一、御鷹師渡辺三十郎・横井弥次右衛門、大橋へ泊鷹野ニ被参候処、 三斎様被成御座由にて、御鳥
三斎鷹狩ノ予定ニ |  見参候間、急罷帰候由候、物数之事、
ヨリ急ギ帰ル   |
         | 隼        真鴨四つ          隼分
鷹師ノ物数    |  一、弐拾弐内  黒鴨四つ   たかべ四つ   横井弥次右衛門
         |          羽白四つ   さき六つ
         |
         | 大たか      黒かも四つ
         |  一、物数六つ内 真かも壱つ          渡辺三十郎
         |          真かも壱つ、ひろい申候、
         | 右之通、足立與兵衛ニ被相渡候へと、申渡候事、
         |
         |   (重義)        (大分)                    (申脱)
竹中領ノ人質ヲ盗 |一、竹中采女殿御領之内、おいた郡之内瀧河内ノ内、奈良田村之甚右衛門尉とものゝ人しちを、所之
ミシ者ノ処分   |         (豊後油布郡)
         |  庄屋取置候処、由布院之内、乙丸村之藤左衛門と申もの、十二月五日ニ参、七日之夜、人しちを
相互ノ事     |                                     (互)
         |  ぬすミ取、立退候処を、采女殿領之庄や・百性おりあい、からめ取候を、相遅之事候間、返シ可
竹中重義家老ヨリ |  申由、采女殿家老不破彦左衛門所ゟ、宇野七右衛門所へ申来候ニ付、七右衛門尉ゟ、御家老衆へ
ノ報    誅伐 |  其段被申越候、御家老衆ゟ我等共へ被仰聞候ハ、とかく此ものゝ儀ハ誅伐申付ものゝ事候、彼方
         |                                    (松井興長)
松井興長指示   |  ニ而誅伐可被申付通、可申遣候哉、但、此方ニ請取、由布院にて可申付候哉、佐渡殿ハ此方へ請
         |  取、由布院にて誅伐申付可然と思召候由、被仰聞候間、一段其分可然奉存通、御返事申候事、
鷹師鴨ノ処理法ヲ |一、横井弥次右衛門尉・渡辺三十郎被申候は、中津郡大橋へ御鷹つかひニ参候、遠路之儀候間、鴨壱
伺ウ       |                                         (腸)
         |  つ/\にて持せ上候儀難成候、左候ヘハ、鴨久敷置候ヘハ古ク成申候間、彼地にてわたを出
し、
         |     (鳥 臓)
         |  かもともゝけを上申候、わたの儀はすて申儀候間、たべ候てもくるしかるましきやと、被申候間、
         |  御用ニ立不申候間、被給候へと申渡候、此方ニて足立與兵衛ニ尋候ヘハ、わたハ此方にてもすて
         |  申由申候也、
         |                     (田中氏次)
家老ヨリ速見郡奉 |一、御年寄衆ゟ、宇野七右衛門所へ被遣御返事、兵庫一判にて、次夫ノ状相調、佐分利作左衛門与大
行ヘノ返書    |              (黒原、規矩郡)
         |  畠與三右衛門と申者ニ持せ、くろ原へ遣、

         |                                       
         |   十四日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番修理・助進也、                           (時)
物師賄奉行台所ノ |一、黒瀬九郎右衛門尉申候ハ、御台所御肴・精進物々以下、御横目壱人被仰付、当事かいに仕度と申
肴等ノ当時購入ヲ |         (菜)                 (乱丁アリ、旧ニ復ス)
願ウ       |  候、はしたの衆さいニさせ申候間、豊後橋ニて、いなを御うた「せ候て被下候は、はしたの衆さ
端女ノ菜ニ豊後橋 |  いニ仕せ可申由、申候事、
ノ鯔ヲ打タセシム |
速見郡奉行府内幕 |一、宇野七右衛門尉所ゟ、御飛脚にて御家老衆へ状参候ニ、我等共三人へも状参候、御横目衆之替り
府横目ノ交替近キ |           (加藤忠広)(黒田忠之)
ヲ報ズ      |  近日御着之由候而、肥後殿・筑前殿ゟ之御使者被参、まち被申候間、此方ゟ之御使者、御進物急
         |  度被成御越候而可然由、被申候被申越候事、
         |             〃〃〃
加藤黒田ノ府内横 |一、幷ニ御家老衆へ参候書状、肥後殿・筑前殿ゟ、之御音御横目衆へ之御音信物付参候を、佐渡殿ゟ
目ヘノ音信物ノ書 |  御越候て、御見せ被成候事、
付        |
林隠岐所領之庄屋 |一、林をき庄屋未進七石仕り、其上納米弐石余取遣候て走り、 三斎様御領築城郡へ参、中津御奉行
未進取遣走リ中津 |  衆へ目安を上申由候、頓而戻し可申候間、戻り次第ニ、如何様ニ成共御相談之上、被仰付可被下
奉行へ目安ヲ上グ |  由、おき被申候事、
         |                     主殿与
         |一、江戸へ遣候御弓・鉄炮衆二人之内、壱人ハ〇大月」吉兵衛、一人ハ山田市左衛門与佐田理右衛門
         |  也、                   コレマデ乱丁               
上林味卜下代当年 |一、上林味卜下代忠兵衛、当年の茶代何も不残相調、罷上ル由候て、茶代ノ相濟申帳持参候て、登城
茶代決裁ノ帳ヲ持 |  仕候間、請取置申也、
参        |

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■今日の散歩

2021-03-29 15:07:06 | 徒然

 今日の散歩はバスと電車を乗り継いでとなった。
土曜日の史談会で、プロジェクターを借用した際、PCとつなぐコードを我が家に持ち帰っていた。
そこで今朝は慌てて熊本市民会館に返却の為に出かけた。平身低頭でお詫びしたのち、その足で市電に乗り込み、熊本駅まで・・・
駅前広場が完成したというから、見ておこうというわけである。
私は「わさもん」と言う方ではないからこういう行動は珍しいのだが、ひょっとすると今日にもくたばるかもしれないと思うと「見といてやろう」と思ったりするわけである。
博多や大分、鹿児島などとはいささか趣を異にする「熊本駅白川口」が完成をみた。熊本の玄関口にふさわしい好感の持てる雰囲気となった。
しばらく構内を歩き回り写真撮影する。それから徒歩で北岡神社を一回りし、一駄橋から小沢町(竹の馬場)を散策、古いお寺を見て回る。
横手の友人T氏宅により小一時間話し込んでおいとました。
少々長時間の朝散歩ゆえに、奥方がTELしてくる有様である。どうやら元気に帰宅と相成った。

   右手に今降りた路面電車 左手熊本駅前広場

 右手開業前のJRビル、右手熊本駅白川口前広場

 広場越しに安藤忠雄氏設計の駅舎

 熊本城武者返しをイメージした駅舎外装

 白川口広場の東橋、駅前ビルとつなぐブリッジのエスカレーター

 

     北岡神社正面                        脇参道の桜

 一駄橋

 昔の風情を残す小沢町 正面が一駄橋

 竹の馬場と称した通りの名残

 街角の地蔵さんと案内板、小沢町が熊本の煙草の発祥地であったことが記されている。

 小沢橋から坪井川上流を望む

 左右に走る道が妙解寺(左手)の御成道 右手角・下馬天神 正面突き当りが安国寺

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■再考小倉藩葡萄酒(九) 真田信之

2021-03-29 08:31:40 | 小川研次氏論考

          九、 真田信之

         寛永十五年(1638)、信濃松代藩主真田信之の葡萄酒要請に対して忠利の返書で
         ある。(6日25日付)
         「信之殿は葡萄酒好きなので、長崎にも問い合わせてみましたが、葡萄酒はキ
         リシタンを勧める時に要する酒であるというので、それを心配して、周囲には
         一切売買がないとのことです。現在一艘の船が来ておりますが、まだ荷物の口
         開けをしていないので、葡萄酒はありません。二十年ばかり前に輸入したとい
         う葡萄酒を去年もらって私が飲んだ残りを壺に入れ江戸に置いていたと思いま
         すので、少ないかも知れませんが、壺のまま差し上げます。壺の見かけは悪い
         ですが…」(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
         「葡萄酒好き」の真田信之の「嗜好品」とみえるが、当時の松代藩の状況を考
         察してみよう。
         承応・明暦・万治(1652~61)に編集された『契利斯督記』(きりすとき)の「信濃
         国」の段に「真田伊豆守領分、松代ヨリ宗門中比二出申候、内侍二三人モ出申
         候」と「上野国」に「真田伊賀守領分、沼田ヨリ宗門多出申候、東庵ト申スイ
         ルマン同前ノ宗門御座候」(『続々群書類従』)とある。
         『契利斯督記』は転伴天連ジュゼッペ・キアラの調書を元に初代宗門改役井上

         政重(1585~1661)が記録したものであるが、その後も引き継ぎ編集されている。
         キアラは日本名「岡本三右衛門」を名乗るが、遠藤周作『沈黙』の主人公のモ
         デルである。
         真田家領地である松代と沼田にキリシタンが多数いたと記されている。
         信之の家臣にもいたということは、忠利の同じ様相である。
         さて、真田家本拠地上州沼田に関するイエズス会の記録「1606,1607年日本の
         諸事」を見てみよう。
         「もう一人の司祭は一人の修道士とともに江戸の市(まち)から北方三日路のと
         ころの司祭も修道士も一度も赴いたことのない上野の国にいる若干のキリシタ
         ンを訪問し慰めに行った。(中略) 同国に於ける中心的人物であり(本多)上野殿
         の舅であり、またかのキリシタンたちの要人であるその地の領主は、司祭を手
         厚く遇した。そして、他の好意に加えて、彼を自邸に食事に招き、その機会に
         我らの聖なる教えの本質と、その基となっている眼目を聴聞することを望んだ
         。(中略) 彼(領主)および居合わせたその家臣たちの多くは説教されたことにい
         たく満足し、(中略) それは、彼らにとっては初めてで、遙か彼方から夢のよう
         にしか聞いたことのないことだったので、彼らは満足した上に、そのような教
         義に感服し、もっとゆっくりとそれを聞くことを望み、教えている真実を少し
         ずつ理解するから、年に一度そこに来てくれと司祭に頼んだ。(中略) それらの
         キリシタンを慰安すると、かの司祭は信濃の国を経てその旅を続けた。」(『十
         六・七世紀イエズス会日本報告集』)
         「領主」は真田信之であり、妻は本多忠勝の娘の小松姫である。
         信之はキリシタンに対して寛容であった。その結果、沼田では家臣や民衆にも
         キリスト教が広がった。しかし、元和二年(1616)、信之は父昌幸の旧領地上田
         に移り、元和八年(1622)には松代藩へ移封する。
         寛永十五年(1638)2月28日に終結した島原の変後の5月、幕府はキリシタン取締
         の徹底化を図る。
         同年9月、訴人よる報償金も伴天連(司祭)は二百枚と元和八年(1622)の時よりも
         二倍になった。
         この年の6月に忠利は信之へ先述の書状を送っている。
         また、「幕府は、真田信之に対し、寛永十五年(1638)に領内や真田家中でのキ
         リシタン改めを厳しく実施するように命じた。これを受けて信之は松代の重臣
         に向けて、九月二十日付で書状を送り、松代領にキリシタン改めを五人組の責
         任で厳重に行うように指示し、また真田家中の改めも実施させ、摘発次第、本
         人はもちろん従類まで成敗すると厳命している。」(『真田信之 父の智略に勝
         った決断率』平山優)とある。

         この「五人組」の原因は「大奥」にあったという。
         この年(1638)、「皇帝の御殿(将軍の大奥)の中さへ、キリシタンが発見された
         。これが実に、厳重な禁令の動機となった。家族の者が、五人づつ、連座の中
         に組合されていた。五人の中の一人がキリシタンである場合には、四人の他の
         者は、彼と共に死なねばならぬのであった。」(『日本切支丹宗門史』)
         『契利斯督記』の松代藩のキリシタン発覚はこの時と思われる。沼田の件はか
         なり前の1610年代であろう。
         さて、信之は忠利から定期的に葡萄酒を嗜好品として受けていたのだろうか。
         その貴重な葡萄酒は忠利と同じく家臣と分かち合ったキリストの御血であった
         のではなかろうか。まさに「最後の晩餐」であった。
         翌年の1639年には、訴人報償制度が功を奏したのか、イエズス会の司祭ペドロ
         岐部、マルチノ式見、ヨハネ・バプチスタ・ポッロらが捕縛され処刑された。
         しかし、日本人司祭のマンショ小西は潜伏していた。マンショはキリシタン大
         名小西行長の孫である。正保元年(1644)に処刑されるまで、活動していたので
         ある。          (『キリシタン時代の日本人司祭』H.チースリク)
         私は1639年に仙台で捕縛された三人の司祭の一人が信濃国に入ったとし、マン
         ショは祖父の旧領地であった熊本(宇土、細川藩領)、天草を中心に潜伏活動し
         ていたと推考している。

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■細川小倉藩(531)寛永七年・日帳(十ニ月九日~十ニ日)

2021-03-29 06:58:13 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)九日~十二日

         |                                       
         |   九日  奥村少兵衛 
         |
         |一、当番助進・修理也
友田新丞家ヲ上グ |一、友田新丞家を上ヶ申度候、請取人被仰付被下候へと、安場二左衛門登城候而、被申候、則、御家
         |  奉行へ御渡候様にと申候事、

         |                                       
         |   十日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番修理・兵庫也、
         |     (小)
         |一、狩野□源五申候ハ、手前之御算用仕廻申候、頓而、京吉田へ可被成御上せやと申候、便宜次第可
親ノ見舞鴈    |  差上由、申渡候、小源五親田川ニ居申候、ちと見廻ニ参度由申候、被参、急可被罷帰由申候、又、
         |   (正直)
         |  河喜多五郎右衛門所へ、御正月御用之物之書付言伝遣候事、

         |                                       
         |   十一日  岩男嘉入軒 
         |
         |一、京当番兵庫・助進
江戸へ蜜柑    |一、上林甚介ゟ、江戸へミかんを可被遣哉と、申越候間、頓而便有之候間、遣可申由、申渡候事、
         |                               (正照)
         |一、吉田縫殿被壮士候ハ、林作左衛門尉儀、罷帰候、此者儀、前かと藪内匠所ニ居申、ぬい預り候者に
狐ノ退ク薬    |  て候か、狐ののき申薬與申候ヘハ、はや本性ニなり申候由、被申候、如前々被 召仕候事ハ如何
         |  可有御座哉と被申候、返事ニ何も談合可申由申候事、
         |     (渡辺)                                          大あいさ三つ、 三つ
鷹師捉飼ウ鴨ヲ上 |一、御鷹師三十郎、京都郡ハ御鷹遣ニ参居申由ニて、鴨四つ持せ、差越候、内壱つハ〇くろかも〇也、
グ        |  捉、御台所へ払候へと、申付候也、
         |         (相次)
規矩郡代官皆済目 |一、当御郡御代官牧五介・岡嶋仁兵衛・清成作介・小田村與三右衛門、今日皆済目録差上申由にて、
録ヲ持参     |  戸上被仕候事、
鉄炮足軽手伝出役 |一、桑原主殿与之御鉄炮衆之内、壱人ハ皆川治ア手伝ニ付居申候、壱人ハ御数寄屋こもあミ申候、此
ノ欠ヲ補填スルニ |  両人権役を、残ルものとして、仕ふさく事迷惑仕候間、上り人ニ被成候か、不然ハ、組へ御返し
迷惑ス      |  被成候而被下候様にと、与中之者共申候由、主殿登城候而、被申候、書物ハ返し申候、惣談可仕
         |  と申、返候事、

         |                                       
         |   十二日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、当番助進・修理、
金山ノ状況報告書 |一、広吉半介、、御金山ゟ罷帰候ニ、山之様子言上之状、幷才兵衛方へ之添状持せ、被指越候、便キ次
         |  第、江戸へ上可申由申候事、
         |                        (甚丞)(新兵衛)(粟野)
細川七左衛門預米 |一、細川七左衛門殿御預り米、五十石被相渡候へと、豊岡・加藤・伝介方へ切手遣候、段々賄
         |  方引越候而不足之由、被申候ニ付、目録見届候て候上、右之分、相渡候事、
         |                      〃〃

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■徳富健次郎著「死の陰に」

2021-03-28 21:35:01 | 書籍・読書

                                                               

 徳富蘆花(健次郎)に此の著があることは承知していたが、今迄読む機会がなかった。
先の史談会の例会で「薩摩街道」を取り上げたときの配布資料に、先の熊本県河川国道事務所長の三太郎峠に係る文章をご紹介したが、引用されていたのがこの「死の陰に」である。
健次郎は妻・養女とその家庭教師の女性の三人を引き連れ大正二年秋から三カ月ほどの長い旅に出かけ、その途中生家である水俣を訪れている。
鹿児島から人吉経由で日奈久に入り一泊、日奈久から海路水俣入りしているが、その後熊本へ至る途中三太郎峠越をしているのだ。
そこで是非読みたいと思い「日本の古本屋」で見つけて購入依頼をしたのだが、史談会例会には間に合わなかった。
大正十一年十月の第五十二版とあるが、外箱はともかく、肝心の本の方はまだしっかりしていた。
彼らが通ったのは薩摩藩の参勤交代路の「薩摩街道」ではなく、「明治国道37号線」というやつで、三太郎は隧道や切通で整備された明治33年に開通した新たな交通路である。
一部は薩摩街道と重複はしているが、自動車も通れるようになり、昭和40年の国道3号線の開通までの熊本と県南の水俣や鹿児島県をつなぐ重要な道であった。
それでも難儀な旅であったらしいが、峠から見える眼下の風景に驚嘆を上げる女性たちに、蘆花健次郎は眼を細めている。
例会では 薩摩街道・豊前街道 | 旧街道地図・高低図 というサイとを遣わさせていただいたが、当日講師をお願いした当会のN氏は、みずから何度も現地を訪れ踏破された人だから、道筋が違うことをたびたび指摘された。
幅が2mにも満たない山道を、薩摩藩の参勤や帰国などが何度も繰り返されたことだし、熊本藩の佐敷詰めの藩士たちが薩摩に対する最前線の基地として行き来したのである。
今は南九州西回りの高速道が八代から芦北までつなげられ、3号線を利用していた我々の現役時代からしても、格段の時間的短縮がなされている。三太郎峠のお腹の中を走り抜けている。

せっかくだから、そのうちに蘆花のこの紀行文の「三太郎」という項(約8頁)をご紹介しようと思っている。乞うご期待・・・

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■再考小倉藩葡萄酒 (八)キリストの御血

2021-03-28 10:11:23 | 小川研次氏論考

          八、キリストの御血

         「ミサ用のワインはぶどうジュースから造られた天然の生産物でなければなら
         ず、純粋で腐敗していない、添加物のないものである。」(教皇庁典礼秘跡省)
         「腐敗していない」は酸敗していないことである。
         「キリストの御血」は純粋で変化をしない葡萄酒でなければならず、唯一認め
         られたのが、保存のためにヨーロッパ産の葡萄酒を混ぜることだった。
         寛永5年(1628)8月28日付けの『奉書』よれば、忠利は家臣となった上田太郎
         右衛門に葡萄酒造りを命じている。また、前年から製造していたことも判明し
         ている。9月15日に仲津郡(京都郡みやこ町)へ、ぶどうの収穫に行き、16日に
         は葡萄酒造りの「道具」を同郡の「製造所」に運び込んでいる。(『永青文庫研
         究』創刊号)
         原料は在来種「がらみ」(蘡薁・エビヅル)を使用するが、『和漢三才図会』
         (1712年成立)に俗名「吾由美」(あごみ)とあり、「吾→我 由→良」となり「我
         良美」(がらみ)となったのではないかと自己解釈している。
         仕込みに関しては、同年9月16日の「道具」だが、発酵桶、櫂、樽など、また
         平戸で求めた「万力」も含んでいるのだろうか。
         その後の同年10月の『日帳』が欠落しているが、翌年の寛永六年(1629)9月18
         日に記述がある。
         「ふたう酒作こミ樽弍つ、」と「黒大つ」(黒大豆)が用意されている。
         葡萄酒を造りこむ樽という意味だが、樽発酵なのか。
         10月1日には仕上がった葡萄酒を「ふたう酒弍樽仕上され候、」とあり、およ
         そ二週間で完成している。そして、その日の夜に小倉城へ運んでいる。
         小倉藩葡萄酒製造を推測してみよう。
         まず、収穫した(天日干しの?)「がらみ」を房ごと(全房)、小さめの四角い発酵
         桶に入れ、数人で足で潰し、さらに「万力」で吊り上げた石を板の上に置き、
         圧搾する。板を外し、蓋はしない。数日間発酵させ、色づいた汁だけを抜き取
         る。(血抜き、セニエ) そして、樽で完全発酵させる。正真正銘のワインである。
         さて、「黒大つ」(黒大豆)の使用内容が不明だが、煮詰めた少量の液体を色付
         けのためか。ベトナムのダラットワインに桑の実を使用するのと同じ手法であ
         る。ガラシャと縁のある丹波国の名物黒大豆だったらロマンを感じる。
         しかし、この葡萄酒はアルコール度数が低いため酸敗しやすく、腐敗するため
         、アルコール度数の高い輸入葡萄酒を混入した。
         「長崎買物ニ参候ものニ平蔵相談して申、葡萄酒を調候へと、あまきが能存候
         事」
         元和九年(1623)4月9日付けの忠利の書状に「あまき葡萄酒」をキリシタン棄教
         者の豪商末次平蔵政直に求めていたのである。(『藩貿易史の研究』武野要子)
         前述の高アルコールのスペイン・ポルトガル産の甘い葡萄酒である。この時の
         買物奉行は「飯胴上右衛門」と考えられ、寛永十三年(1636)に転宗するキリシ
         タンである。(「勧談跡覧」『肥後切支丹史』)
         忠利が葡萄酒を求めた記録には、この年から寛永二年(1625)に平戸、寛永八・
         九年(1631・1632)と寛永十四年(1637)に長崎からとある。(『藩貿易史の研究
         』)

         長崎で調達した輸入葡萄酒は、現在ミサで使用されている酒精強化ワインだっ
         たのだろうか。
         「17世紀から熟成途中の異なる段階で少量のブランデー添加が行われていた
         。」(『ポートワイン その歴史とワイン造り』)とあるが、今後の研究課題と
         し、ここでは先述のフォンディリョンのようなスティルワインとしておこう。
         「焼酎ではなく西洋から宣教師が持ち込んたワイン(無濾過、非熱処理)に収穫
         ・破砕した葡萄を投げ込んでいたら・・・瓶内では不活性化で休眠中の酵母は
         新鮮な葡萄の当分と窒素源で充分に発酵できる可能性がある。シャルドネなど
         でシュール・リー(滓の上)として、樽などの容器で沈んだら酵母の生菌性をみ
         ると驚くことにかなりの割合の酵母が生きている事を確認している。瓶に沈ん
         だらワインの滓の中に存在する生きた酵母を種とすることを経験的に知ってい
         た宣教師がいたら、全く別の展開になる。そうすると、日本で始まったワイン
         の酵母種は海外のテロワールに起因することになる。」(川邊久之・醸造家)

 

 

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■細川小倉藩(530)寛永七年・日帳(十ニ月七日~八日)

2021-03-28 07:00:06 | オークション

    日帳(寛永七年十二月)七日~八日

         |                                       
         |   七日  岩男嘉入軒 
         |
         |一、修理・兵庫当番也、
         |                (伊勢桑名郡)
忠利ノ袖判紙家老 |一、御船頭乃み十左衛門夜前罷下候、桑名之渡御供仕、罷上候由申候、其便ニ御袖判弐拾枚、御年寄
判形ナキ故京都ヨ |  衆御判形無之由候て、小野九右衛門・佐藤少左衛門方ゟ差下候事、
リ返サル     |
忠利出府中江戸ヨ |一、江戸ゟ御飛脚弐人罷下候内、財津惣左衛門与宮崎忠左衛門・友田二郎兵衛与住江茂兵衛也、右之
リノ飛脚ニ御油ニ |               (御油、宝飯郡)      (楊枝)      小堀遠江殿へ  
テ行逢ウ 小堀政 |  者共、霜月廿三日ニ、三河国五位にて懸 御目候、此便二、やうし木三百本箱二入、〇進上可申
一へ楊枝木ヲ贈ラ |  旨、江戸へも、やうし木百本可差上旨候事、
シム       |
         |一、浅山修理与山本次郎左衛門、桑名之渡舟ニ着居申候、夜前六日之夜罷下候事、
諸方ヨリノ音信  |一、寺嶋主水ゟ、状壱通参候事、
         |   (慰英)  (是次)
 大坂調物米奉行 |一、仁保太兵衛・米田左兵衛ゟ、状壱通参候事、
 京都調物奉行  |一、佐藤少左衛門尉・小野九右衛門尉・志水安右衛門ゟ、状壱通参候事、
         | (松野親英)(町)
 江戸留守居   |一、織ア・三右衛門ゟ、状壱通参候事、
火縄竹矢篠竹ノ請 |    請取申火縄竹幷矢篠竹之事、
取        |
 上ノ苦竹    |  一、千九百五拾六本ハ  上ノにか竹
 手峰足軽四五一 |      御鉄炮衆四百五拾壱人分 火縄壱わけニ付、竹弐本宛ニして、
 人分
 矢篠竹     |  一、百七拾五本は  矢篠竹
 弓足軽三五人分 |      御弓衆三拾五人分 壱人ニ付、五本宛ニ〆、
         |
佳例年賀ノ献上品 |  右は、毎年為御年頭、火縄幷矢篠上申ニ付、右ノ竹、慥請取申所如件、
小頭等請取    |    寛永七 十二月六日         上野興左衛門
武具奉行宛    |       安場仁左衛門殿        安東八左衛門
         |       林隠岐殿           村上吉左衛門
         |       (崎)
規矩郡奉行宛   |     小嶋與次兵衛殿          野村太兵衛
         |     神足三郎左衛門殿         荒瀬角兵衛                          
日下ノ印判    |  右之通、松之丸衆裏判なしニ、日ノ下ノ印判仕候、
         |                           (蜂須賀忠英)         
遠坂関内粟へ使ス |一、遠坂関内、阿波へ大坂ゟ御使ニ被遣、昨六日ニ被罷下候、阿波様にての拝領物之事、
蜂須賀忠英等ノ賜 |  一、阿波様ゟ、御中わき指一腰 但、御切帋そい申候由候、作ハ盛光
与品 切紙、盛光 |    (同家政)  
         |  一、蓬庵様ゟ、御小袖弐つ、
         |  一、御前様ゟ、御小袖弐つ、
         |  一、長谷川伊豆所ゟ、壱荷壱種給候由候事、

         |                                       
         |   八日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、当番兵庫・助進
奥方女房衆ヨリ京 |一、林隠岐ゟ、おく方御女房衆ゟ京都へ御祝之樽肴日差上度由候間、便儀次第上せ候様にと、内々被
ヘノ祝儀樽有   |  申聞候間、今日惣銀之御奉行をに、御家老衆ゟ、大竹興三左衛門・渡辺藤五郎被差上候間、此便
惣銀奉行  町舟 |              〃
         |  二被遣候へと、隠岐所へ申遣候ヘハ、はや町舟ニ便宜候而、日差上せ候由候事、
         |一、口御納戸御手伝善右衛門尉・惣右衛門尉・助右衛門尉、今日ゟ御用無之候間、差帰申候間由、御
         |  納戸衆伊藤太左衛門申候事、
忠利袖判二十枚  |一、御袖判弐十枚、御家老衆■御判形調、大竹興三左衛門・渡辺藤五郎惣銀被持上付、両人相渡し、
家老ノ判形調へ京 |  佐藤少左衛門・小野九右衛門方へ差上候事
都調物奉行へ渡サ |
シム       |                           (小崎)  (三郎左衛門)
片山示庵加増分ノ |一、片山示庵ニ被遣候御加増分、被引渡候様にと、御郡奉行與次兵衛・神足所へ之状遣候事、
引渡シヲ規矩郡奉 |
行へ命ズ     |
袖判二十枚ノ請書 |一、御袖判弐拾枚ノ内之由にて、箱壱つ、京都へ被成御上せ候、佐藤少左衛門・小野九右衛門・志水
         |        〃〃
         |  安右衛門方へ相渡可申候、以上
         |                             大竹與三右衛門(花押)
         |                             渡辺藤五郎(花押)

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■爺様走る

2021-03-27 16:10:42 | 熊本史談会

                                     

  桜の後ろと右手の低層部が熊本市民会館、いつもの熊本史談例会の会場です。
これは午前九時頃の写真でまだ人影が見えませんが、史談会を終えて外に出た13時過ぎは観光客でごった返ししていました。
右手がすぐ行幸橋、熊本城の入り口です。
最後のお世話の史談会に準備万端で出かけたつもりでしたら、PCのマウスを忘れてきており、講演30分前に会場を飛び出し、約1キロほど離れた電気店に走り込みました。開店は10時、しばらく待って5Fに駆け登り、マウスを購入すると79爺は街中を走って10分程で取って返し、開演の10時20分の5分前に飛び込むという離れ業でした。
講演の方のお手伝いも無事にすみ、本当の意味の8年間の御奉公を終えました。
今後は一会員として、毎月の例会出席を楽しみにしたいと思います。
走ったおかげで、自宅に帰ってからはしばらく椅子にへたり込んでしまいました。

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■再考小倉藩葡萄酒 (七)葡萄酒製造法

2021-03-27 14:45:59 | 小川研次氏論考

         七、 葡萄酒製造法

        天正八年(1580)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
        「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と
        言うなり」
        「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷
        ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ
        三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」
        これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎
        そして氷砂糖である。当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
        さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方であ
        る。主な文献から引用してみよう。

        『料理塩梅集』寛文八年(1668)
        「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜ
        る。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米
        とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そ
        こに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度
        程よくかき混ぜること。
        もう一つの方法
        山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これら
        を桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる
        。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる
        。そして、空気に触れないように桶に詰める。
        甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
        桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。
        又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」

        『本朝食鑑』元禄十年(1697)
        「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾
        った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この
        汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭
        を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさ
        らに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ
        =チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種
        類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」

        『手造酒法』 文化十年(1816)
        葡萄酒
        焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒 、
        山ぶどう酒
        ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升
        本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようであ
        る。
        葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思わ
        れる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明
        した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
        (のちにチンタ酒は蒸留酒ブランデーだったことがオランダ商務館館長により判
        明)

        このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていたのである。
        本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
        山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。

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■細川小倉藩(529)寛永七年・日帳(十ニ月四日~六日)

2021-03-27 07:05:28 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)四日~六日

         |                                       
         |   四日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、当番修理・兵庫也
         |  (城信茂) (豊後大分郡)                 (乱丁アルモ、旧二復ス)
城信茂府内横目着 |一、城野織ア殿苻内へ御横目被成御下候付、「御鷹野黒之御馬ニ、御中間三人・荒仕子壱人被成御付、
任  鷹野馬中間 |  御逗留中被成御借候間、今月七日、八日ノ比、別苻迄遣置、織ア殿苻内被成御着候ハヽ、引可参旨、
ヲ貸スベシ    |                        (杉)
荒仕子奉行ソノ欠 |  此中被 仰下ニ付、申付候、遣可申人足無之由、弥三郎申候、御郡之夫をかわり/\ニ遣候事い
ヲ申ス      |  かゝニ候間、御鉄炮衆ニ付居申候御鉄御荒仕子ノ内を、一人取遣候へと、弥三郎ニ申渡候、其か
         |                 〃〃
         |  わりニハ、御郡夫を可申付通、申聞せ、遣候事、
海上ノ絵図    |一、六端帆之御小早内ニ、海上ノ絵図入申候かミ袋、其儘、右之御舟ニ被為置候を、持下候由にて、
         |  村上七左衛門持テ登城候、林おきニ渡置候、右袋ノ内ニ、物数七つ入テ有之由、七左衛門申候事、
         |   (一成)                      (近江甲賀郡)                            (ママ)
         |一、道家帯刀殿ゟ、同弥太郎ニ付上せ被申飛脚、土山ゟ戻被申ニ、 御書被下候」をとり、今日ニ着
         |                                    (コレマデ乱丁)
         |  仕申候事

         |                                       
         |   五日  奥村少兵衛 
         |
         | (田中氏次)(横山重嘉)
         |一、兵庫・助進当番也、
         |  (築城郡)
寒田牧山ニ猿出没 |一、寒田牧山之御番ノもの参候テ、申候ハ、此比猿出候而、御馬をおとし申候、玉薬無御座候而、何
ス        |  共不罷成候間、請取申度と申候間、安場甚左衛門ニ申候而、請取候へと申付候事、
番人玉薬ヲ乞ウ  |
弓足軽釈放後ノ切 |一、服部九郎左衛門尉組御弓衆靍田宇右衛門御切米之儀、去年十月ニ籠者被 仰付候而、当年霜月四
米給与方     |  日ニ籠ゟ御出被成候間、彼もの御切米之儀は、去年分ハ正月ゟ九月迄之分八石被遣、当年ハ霜月
         |                            松尾
         |  ゟ十二月迄之分を被遣候て可然と存由、松の丸衆ゟ、小頭彦兵衛使ニ而、被申越候間、可然と存
         |  通、申遣候事、
         |    (太)
銀屋具足屋ノ扶持 |一、銀や大郎右衛門・御具足や忠兵衛、御扶持方被遣候御印写を、松丸衆へ遣候事、
方        |
         |               (総)
安養寺来ル    |一、安養寺能登ゟ被罷下候ニ、捴持寺ノ長老如意庵ゟ、修理・兵庫へあたり参候状被届候事、
鷹匠ノ屋敷ニ鷹部 |一、冨田彦右衛門、屋敷ニ御鷹へや無之、御鷹煩時不成由候間、立日遣候へと、矢野勘右衛門ニ申渡
屋建設      |  候事
         |            (塀)
         |一、本庄久右衛門屋敷之屏・家繕之儀、矢野勘右衛門ニ申渡候事、

         |                                       
         |   六日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番助進・修理亮、
         |   (一成)
三斎ノ小鼓打ノ出 |一、道家帯刀知行所へ参候次而ニ、中津へ御見廻ニ参候処、 三斎様被成 御諚候ハ、小鼓打中嶋二
         |                         (ママ)
府        |  郎兵衛儀、御客人御下被成儀不定候二付、又、尋ニ遣被遣候、いよ/\不被成御下候ハヽ、二郎                  
         |  兵衛儀、江戸へ可被遣候、京都ゟノ今御一左右次第ニ可被成候間、其分ニ心得可仕旨、被 仰下
         |  候事、
         |一、竹内作丞、岡本源次を以被申聞候ハ、在郷へ罷越候、相当之御用御座候ハヽ、在郷へ可被仰下由
         |  日申候、心得申候間、返事申候事、
黒犬猪子ヲ喰捉ル |一、岩田■喜右衛門、ちいさきいのこ壱つ、服部佐伝次ゟ被 召上候、黒ノ御犬弐くわせ申由にて、
         |        (規矩郡)
         |  持せ上り申候、貫山ノつじ畑山にて、くわせ申由申候、松ノ御丸衆被申分可有之間、松ノ丸衆次
         |  第ニ渡候へと、申渡候事、
         |                 (大里、規矩郡)
肥前ノ町船難波シ |一、肥前国町舟米ヲ積、罷上り候処、内裏ノ沖にて破損仕候を、内裏之者、長門浦之者罷出、悉米を
大里長門浦ノ者損 |  取上候由、御浦奉行申来候、就其、辛労分ヲ出可申由、舟主申候へとも、長門浦之者ハ取申候、
米ヲ全テ買上グ  |  内裏浦之者ハ、下として取申儀ハ如何可有之哉と、御浦奉行衆被申候、返事二取不申儀、一段可
辛労分      |  然由、申渡候事、
浦奉行指示ヲ乞ウ |
長門浦ノ者出舟ノ |一、右之様子ニ付、長門浦之者ハ賃米を取申候、左候ヘハ、内裏浦ゟハ舟数多出申候、長門浦ゟハ舟
多少ニ拘ラズ賃米 |  すくなく出申ニ付而、賃米も少渡申候、就其、長門浦ゟ申候ハ、此度之賃米、舟之多少ニ不構、
ノ等分ヲ主張ス  |  とかく等分ニ分候て取可申由申、若、無左候ハヽ、以来、か様之儀、此辺ニ出来候共、内裏浦之
         |  者にはかまハせ申間敷由申候、如何可有之哉と申候、此段ハ御年寄衆へ談合可申由、申渡候事、
         |     御年貢方   (加藤)(粟野)(豊岡)
築城郡皆済目録  |一、築城郡〇皆済之目録、新兵衛・伝助・甚丞へ参由候而、状参候事、

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