津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本大学永青文庫研究センターと「細川家ワイン」

2021-01-31 15:08:55 | 徒然

20201214094725-0001.jpgのサムネイル画像 後藤典子特別研究員のエッセーが掲載された「ワイン王国」

 

蔦屋書店と熊本大学(永青文庫研究センター)共同企画による「細川家ワイン」の催事について報道する、今日の熊本日々新聞の記事。
葡萄の一種「がらみ」を使って作られたワイン、ガラシャ夫人に因んで「伽羅美酒」と語呂合わせはなかなか手が込んだことではある。
まだ量的に小量しかつくれないのだろう、5,280円というと少々腰が引けてしまうが。

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■細川小倉藩(475)寛永七年・日帳(三月朔日~四日)

2021-01-31 07:36:04 | 細川小倉藩

                二月分については欠本と思われ欠落している。

                     日帳(寛永七年三月)朔日~四日

         |                        
         |    朔日  加来二郎兵衛
         |
         |  (規矩郡)
薬師堂ノ椿ヲ移植 |一、城野村ノ宮にて、椿を弐本被成御掘せ候、此かわりの木ハはやうへ被遣候、少分之宮にて候間、
小祠故境内ノ木竹 |  宮ノ木竹を切候て立直シ可申候、又竹木ノかわりをも、くじ次第ニうへ候てもとし可申候、但、
ニテ再建セシメム |  又それにおよはさると、きじおり候ハヽ、其分ニ可仕候旨被 仰出ニ付、此段河田八右衛門ニ申
竹木ノ代リハ神託 |  渡候事、
次第       |
家中病人ノ報   |一、斎藤権佐煩ニ候間、得其意候へと、松野道遊被申候事、
         |一、宮部権三郎・又市、両人共ニ煩候由、山田久丞被申候事、高田久三郎両人被申来候事、
         |                          〃
         |一、松田七右衛門尉、今朝病死被仕通、栗野伝介被申候事、
         |   (快寛)
佐方快寛服忌届  |一、佐方少左衛門、母をころし申ニ付、親子共ニ、節句の御礼ニ不罷出由、被申越候事

         |                        
         |    二日  奥村少兵衛
         |
         |        (蟹喰、規矩郡)
蟹喰葭原原ノ屋敷 |一、昨日朔日ゟ、かにはミ葭原之屋敷御普請初申候事、
普請ヲ始ム    |
大貞宇佐ノ鳥居ノ |一、宇佐ノ益永罷出候ニ、菅村和泉方ゟ被申聞候ハ、大貞ノとり居根次仕廻候て、宇佐両所ノとりい
根継ヲ完了ス   |  根次仕廻申、■能衣装入申御鞍繕ニ取付申候、今度節句ノ御礼ニも不罷出候間、其心得仕候へ
脳衣装格納ノ蔵ノ |  と、被申聞候事、
修理ヲ始ム    |
上巳節句欠席届  |一、永良助丞も相煩、節句ノ御礼ニ不罷出候、若御改も御座候は、可然様ニ可申上通、被申聞候事、

         |                        
         |    三日  賀来次郎兵衛
         |
         |   (一長)
初見願      |一、伊藤半丞せかれ新八、歳十五ニ罷成候、 御目見え仕せ度由、被申候也、
忠利朝振舞演能ス |一、今日ハ御能被成候、朝ハ御振舞御座候事、
御物十駄ヲ舟ニテ |一、伊藤仁左衛門尉江戸へ罷越候ニ、御物大形十駄斗可有之候間、随其、御舟可申付由、被申候事、
上ス       |  仁左衛門上下八人有之由、被申候事、御鉄炮衆壱人・御乗り物かき弐人・御道具持弐人、右同前
         |  ニ、江戸へ被遣候事、

         |                        
         |    四日  奥村少兵衛
         |
小倉町魚屋上納ノ |一、吉田縫殿登城ニ而被申候ハ、当町魚屋とも書物を仕、差上候ハ、御台所へ被召上御さかなの儀
魚ニツキ書物ス  |  ハ、当座/\ニ大米被下旨にて、町へ御米を被召置、当分被下候、左候ヘハ、北ノ御丸御音信
台所ヘノ魚ノ代米 |  物ノ御用ニ被 召上分ハ、当分大米不被下、其魚之寸を被成、御かい物奉行衆へ渡被申、其寸弐
ヲ町ニ預ヶ下サル |  寸三分御へし被成、又御買物奉行手前ニて御へし被成候間、かやうニ不被成、代米も御台所同前
北ノ丸音信用魚代 |  ニ、急度被下候様ニとの書物持参被仕候、当分大米相渡候へと被 仰出上ハ、一国一面之儀候、
ハ適正ニ下サレズ |  御台所之分ハ当分渡候へ、其外ハおそく渡候へとの 御意にてハ有之間敷候、此後ハさかなをか
買物奉行魚ノ寸ヲ |  へしも仕間敷候、又急度当分渡候様ニとの書物ハあまり成儀候、かやうノ書物上可有儀まてハ
減頭  台所同様 |  有之間敷候由申候事、
ニ代価ヲ請求す  |
あまりなる書物  |            
当借米奉行埒明キ |一、可児次太右衛門尉・大竹與三左衛門・河田藤右衛門被申候ハ、当御借米奉行ニて候か、爰元ノ埒
在所へ帰ルヲ伺ウ |  ハ明申候、御郡々へかへり可申哉と被申候間、此方申候ハ、御借米ノ埒悉御明候而、御知行/\
在所ニ払米ノ用  |  へ御かへり候哉と申候ヘハ、御郡々ニ払残之米なとも御座候、又方々へ払申御米なとも御座候
         |  間、参候て払申度と被申候間、其分ニ候は、可被参通申渡候事、
         |         (辰珍)                          (長氏)
薗田道各書状津川 |一、薗田道各ゟ、津川四郎右衛門殿へ参候文箱、祐念ニ持せ、平野九郎右衛門方へ相渡ス也、
辰珍宛      |
         |              被遣            (松井興長)
豊後横目ヨリ返書 |一、苻内御横目衆へ山本五平次〇罷帰申候、御返書ハ式ア殿へ当り申候ニ付、式ア殿へ持参可被仕
         |  由、申渡候事、

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■湊町川尻

2021-01-30 16:08:11 | 歴史

 史料としては見出し得ないでいるが。細川家の熊本へのお国入りなどでも、多くの人や荷物が小倉から海路で川尻へ入ったことであろう。
高橋から熊本城下・船場あたりまで入り込んだのかもしれない。
参勤の為の藩公の御召し舟「波奈之丸」は豊後鶴崎に留め置かれていたようだが、大廻して川尻にも来航したことであろう。
天草島原の乱や正保四年のポルトガル船の長崎来航にあたっての出兵の際は、鶴崎から回航した船を含め、川尻の湊は船の出入りが煩雑であったらしい。
某家の史料を読むと、長崎警備にあたる12,000人ほどの先陣を切ったのは沼田勘解由であったらしいが、熊本に於いて家老をはじめ重役の見送りをうけ、川尻に赴いている。
その折の事に「紺地に大葉大根」が描かれた帷子を着た船頭が迎えたと書かれている。

以前、靏崎の舟歌について書いたことが有ったが、平常においては川尻に於いても、華やかに船頭衆の舟歌が流れていたのかもしれない。
戦時に於いては多くの侍や物資を運び、狭い港はごった返したことであろう。
今はかすかに往時をしのぶ湊の雁木あと等が残るが、静かな川向うは船頭衆の集住の地が有った。
歓楽の地もあったと伝えられている。一時代を期した川尻の地は、高祖父上田久兵衛が免罪を被り斬首された因縁の地でもある。

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■細川小倉藩(474)寛永七年・日帳(一月晦日)

2021-01-30 06:37:34 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)晦日

         |                        
         |    晦日  奥村少兵衛
         |
         |  (蜂須賀忠英)
蜂須賀忠英同家政 |一、松平阿波守様へ、加々山主馬御使者ニ被参、御返書とも大坂ゟ主馬下シ被申通ニ而、式ア殿ゟ持
等ヨリ書状    |                 (同家政)                          (辰珍)
津川辰珍ヘノ状  |  せ被下候、阿波守様ゟ御文箱壱つ、蓬庵様ゟ御状弐通、御つほね殿ゟ之御状壱通、津川四郎右衛
         |  門尉殿へ蓬庵様ゟ 御書文箱壱つ、四郎右衛門尉殿へ阿波守様ご家老衆ゟノ状五通持せ被下候、
         |  請取置申候也、
蜂須賀家ヨリ年賀 |一、蓬庵様・阿波守様へ被進之御折帋・御馬代金請取候との裏書在之を弐枚、又御つほねかたへ被遣
ノ返書      |   (臘燭)
他国ノ段     |  候燭臘幷御小袖請取候との状、壱つニ包、他国の段ニ入置候也、
御冬賄所     |一、御冬様御賄所ゟ御茶取ニ参候間、遣申候事、
田川ヨリ鹿兎来ル |一、夜前、田川ゟ鹿八拾弐・うさき四つ参候事、
         |   (尾ヵ)
上リ家ヲ所望ノ家 |一、小袋九兵衛家望被申衆、
中ニ籤取セシム  |    津田才左内・的場勘平・可児兵介・武藤長兵衛・瀬崎猪右衛門・西沢伝兵衛・服部武兵衛・
         |      〃
         |    清田助十郎・菅村七大夫・菅村藤兵衛・堀江勘兵衛・小林半三郎・久保田安丞・永良助丞
         |  右くし取ニ仕候ヘハ、津田左内取被申候也、
         |一、高橋五郎作上り家望被申衆、
         |    黒部孫丞・山崎加平次・藤崎喜八郎
         |  右くし取ニ仕候ヘハ、喜八郎取被申候也、
         |一、百留忠左衛門家望被申衆、
         |    村上才十郎・財善七郎右衛門
         |  右くし取ニ仕候ヘハ、七郎右衛門取申候也、
         |一、北原新十郎上り屋敷ハ、住江孫三郎一人望被申ニ付、孫三郎取被申候也、
沢村吉重等豚飼ニ |一、大学殿御登城ニ付、ぶたの儀談合申候処、今迄かい申候たまとりのぶたハころし、其外ハはなし
ツキ談合     |  かいニして置可然ニ、談合究候事、
たまとりノ豚   |
放飼       |
塗師屋ノ手伝ヲ取 |一、御扶持人ノぬしや左兵衛御仕事仕候時、手伝をとり申候、此等ハ取可申儀ニ而ハ無之候間、手伝
上グ       |  ハ取上可然通、大学被申候事、
忠利帰城     |一、今日大橋ゟ被成御帰城候事、
惣奉行へ鹿̪肢下賜 |一、鹿肢、修理・兵庫も拝領仕候事、

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■楽しい読み下しの作業~~

2021-01-29 20:23:29 | 徒然

 侍帳改訂の為ではありませんが、某家の史料を読んでいます。これが面白くて仕方が有りません。
文中に「異風」という文字が出てきますが、まさに「異風者」で、肥後もっこすの創始者かとさえ思ってしまいます。
ご大身のお宅とは言え、このような資料が出てくると、もう楽しくて仕方が有りません。
少々読み下しにてこずっていますが、これはそう多くの人が読んだとは思われず、その内にはご紹介しようと思いますが、
新年度の史談会が発行する会報のネタにしようかとも思っています。
これだから古文書はやめられません。
図書館にまた面白そうな史料をさがしに行きたいと思いますね~~。
今日も就寝時間が遅くなりそうです・・・

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■細川小倉藩(473)寛永七年・日帳(一月廿七日~廿九日)

2021-01-29 06:52:18 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)廿七日~廿九日

         |                        
         |    廿七日  加来二郎兵衛
         |
財津惣左衛門診療 |一、財津惣左衛門煩ニ付、明官被遣候、次夫ニ而遣、往来共ニ、泊ニ而ハ賄可被申付由、御郡奉行衆
ノ明寰ニ次夫賄ヲ |  中へ書状遣候也、
付ク       |
田川郡狩場へ鉄炮 |一、田川郡御狩場へ御鉄炮五十丁ニ小頭五人付遣候、此段坂清左へ書状遣候也、
足軽五十丁小頭五 |
人ヲ遣ス     |

         |                        
         |    廿八日  奥村少兵衛
         |
         | (長門厚狭郡カ)
舟木町ノ宿主生鶴 |一、舟木之町 殿様御宿主孫右衛門と申もの、為御見廻罷下候、進物ニ生靏壱つ持参仕由、吉田縫殿
持参見舞ニ来ル  |                (米田是季)
         |  登城ニ而被申候、此方ゟ申候ハ、監物殿ニ被得御意候ヘハ、先靏をうけ取、似惣ニ何にても遣、
         |  可戻と被仰候ハヽ其分、左様無之候ハヽ、ともかくも御さしつ次第可仕旨、奉行共も申候通、可
         |  被申候由申候事

         |                        
         |    廿九日  加来二郎兵衛
         |                             由、
鹿狩ノ獲物八十七 |一、昨日、田川長五林ノ御鹿狩被成候処ニ、鹿数八十七被成御取式ア殿ゟ被仰下候事、
         |  (親盛)
松野親盛腫物ニヨ |一、松野半斎ゟ使者ニ而被仰聞候ハ、今日御城御番にて御座候へ共、腫気物然々無御座候ニ付、登城
         |                                〃
リ欠勤届     |  不仕申候、得其意申候由、御返事申候事、
         |                (室、播磨揖西郡)   (本多政朝)
本多政朝ヨリ半弓 |一、御船頭中村二郎右衛門罷下候、むろへより申候ヘハ、本田甲斐守様ゟ、半弓壱丁・御文箱壱つ参
文箱到来     |  候也、
         |  (蜂須賀家政)                                 (河政)
蜂須賀家政ヨリ樽 |一、蓬庵様ゟ、御樽二・靏壱つ被進之候を、右二郎右衛門積下候、加々山主馬被乗阿波へ被乗上舟也、
鶴到来      |                                   〃〃
舟木宿主ノ進上物 |一、舟木之御宿主孫右衛門御見舞ニ罷下候、進物ハ御樽二・靏壱つ・こんふ一折持参仕由、田川御か
ソノ返礼方    |  りばへ、坂清左迄申入候ヘハ、其状を則懸 御目被申候ヘハ、いかやうニ仕候へとの 御意無御
         |  座との御返事ニ付、難計存、吉田縫殿をよび、其状を見せ、監物殿へ被参、如何様ニ被成可然候
         |  ハんやと、談合ニ遣候ヘハ、監物殿被仰せ候ハ、先日被懸 御腰、忝との御礼に参候、 語彙も其
         |  通ニ相聞え候間、其儘戻し候へと、被仰候由申候、左候ハヽ、殿様ハ今程不被成御帰城候間、
         |  帰候へと可被申由、申候事、
江戸ヨリ飛脚   |一、江戸ゟ御飛脚弐人参候、壱人三木仁兵衛ハ上林与、壱人ミね甚兵衛也、江戸を正月十二日に罷
ソノ旅程     |  出、大坂ニ十九日ニ着、廿日に大坂舟ニ乗候へ共、日和悪敷候而、廿一日ニ出船之由、重田吉左
         |  衛門舟ニ而下由、申候事、
お冬下着ス    |一、御冬様、重田吉左衛門舟ニ而、只今御下着被成候事、
         |一、松野織ア・町三右衛門ゟ、大文箱一つ・小文箱壱つ被上候を、持下ル、
         |                               (元明)
         |一、御冬様御乗物かきの御用ニ、御長柄衆三人、御賄之ためニ三人、住江甚兵衛ニ渡申候由、御長柄
         |  ノ小頭申候、六人ノ外ハ御長柄衆ム御座ニ付、右之通由申候事、
病死届      |一、木原惣左衛門尉、昨晩病死被仕候通、小林久介被申候事、
米船大坂皮口ニテ |一、佐藤少三郎被申候ハ、主大坂出船之刻、殿様御米舟一そう大坂川口にて破損仕候、御米三十三俵
破損ス      |  見え不申由候、大坂衆被申候ハ、此段を書状ニ而小倉へ申遣度候へ共、其ひまも無之、此御仕合
         |                                          〃〃〃
         |  仕合ニ候間、御奉行衆二申上くれ候へと、被申候へ共、此中失念仕、申後候由被申候、破損ノ夜
         |  ハ正月九日之由、

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■あっ・・馬鹿~~~

2021-01-28 17:45:48 | 徒然

 苦労して読み下しをした某家文書を、一瞬の手違いですべて消去してしまった。これは非常にまずい・・・大ポカである。
全28頁、今日は一日これに取り掛かれなければならないが、朝食後あわてて4頁程を2時間ほどで読み下しと並行しながらタイピング。
途中歯医者にも出かけて中断。夕方までに16頁を終了、ほかの事を中止しても二日懸りである。
一度読んでいるからスムーズにいきそうなものだが、これが何とそう行かぬのが古文書の難しさである。
読めない文字はまずは■表示をしてどんどん前に進む。すると同じ字が出てきたりして解決することが有る。
初めて知るようなことがいくつも書かれていて、タイピングを思わず止めて見入ってしまう。
陪臣の江戸證人の話などは、大変興味深い。(しばらく内緒・・)
明日のブログの為に「細川小倉藩」のタイピングもある。今日は少々就寝時間を遅くしてできる限り前に進めようと思っている。

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■細川小倉藩(472)寛永七年・日帳(一月廿二日~廿六日)

2021-01-28 06:47:12 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)廿二日~廿六日

         |                        
         |    廿二日  奥村少兵衛
         |
忠利大橋へ出遊ス |一、殿様今朝卯之刻ニ、大橋へ被成 御座候事、
規矩郡ノ鴨罠ヲ引 |一、規矩郡にて、鴨わな御さゝせ被成候、もはや鴨とれ不申由ニ付、不残上ヶ候へと、申渡候事、
上グ       |
台所奉行賄方諸買 |一、浦上瀬兵衛被申候ハ、御台所御賄方諸御かい物之分、御印帳ニ付候と成共、又ハ不書付ニ成共、
物ノ御印帳ニ記載 |  とかくの埒明候へと被申候、松丸衆中共談合可申由、申候事、
ノ可否ノ決定ヲ願 |
フ        |
弁当丸盆数寄屋ノ |一、御弁当三荷・丸盆拾五枚・御すきやノ重箱大小五くミ、古ク罷成、御用ニ遣申儀不罷成候間、ぬ
重箱ノ塗替    |  り直申度由、得兵衛被申候事、
         |   (重直)忠利室の弟、杵築藩主
         |一、松平丹後様ゟ御飛脚両人参候、御文箱ハ則此方ノ御飛脚弐持せ、大橋へ遣申候也、

         |                        
         |    廿三日  安東九兵衛
         |
松平重直飛脚へ給 |一、松平丹後守様ゟの御飛脚両人ニ、銀子壱枚被遣候也、
与        |
         |但、江戸下御屋敷御座敷ノゑのぐ也、
矢野吉重積ノ江戸 |一、絵書三郎兵衛ゟゑのぐの積ノ切手、京都へ差上せ候を、御小早御船頭石井又左衛門尉ニ相渡、大
下邸座敷ノ絵具切 |  坂へ差上せ候也、
手        |
         |一、松之丸衆同道仕候而、御用之儀に付而、大学殿へ参候也、
小篠次大夫病死  |一、小篠次大夫、今日病死被仕候也、

         |                        
         |    廿四日  加来二郎兵衛
         |
         | (加室、周防大島郡)
加室ヨリ来ル鷹野 |一、かむろゟ参候御犬、御鷹場へ参、御しまやニ成候間、小倉へ遣、重而不参候様可仕置由、続平右
犬狩ニ邪魔トナル |  衛門尉ゟ奉書参候ニ付、御小人頭與介ニ、右段申候而、御犬相渡候事、
         |                     加兵衛ニ
若松口ノ門番任命 |一、若松口の御門番、池上加兵衛に被仰付候由〇申渡、 御印頂戴仕候事、
菊野伊織母ノ扶持 |一、菊野伊織母内久松半右衛門ニ、伊織母ニ被遣御扶持方幷御米・大豆・塩ノ切手、相渡候也、
方ノ切手     |
沢形右衛門等ノ上 |一、沢形右衛門尉上屋敷、小崎四郎左衛門望被申ニ付而、被相渡候へと、中山佐次右衛門ニ申渡候也、
リ屋敷ノ下渡シ  |
         |一、団左兵衛上屋敷、柳瀬茂左衛門望被申ニ付而、是又被相渡候へと、同人ニ申渡候也、

         |                        
         |    廿五日  奥村少兵衛
         |
         |   (高虎)
藤堂高虎家臣飛脚 |一、藤堂和泉殿御内鈴木平兵衛と申人ゟ、 殿様へ御飛脚被差上候間、京銭弐貫文被遣候而、相渡可
へ京銭給与    |                               (長氏)
         |  申旨、坂崎清左衛門尉方ゟ書状にて被申越候、飛脚ノやとハ、平野九郎右衛門尉所也、則河村七
         |  佐衛門尉ニ右ノ銭持せ、九郎右衛門方へ遣也、
         | (忠総)当時美濃大垣藩主                                 (松井興長)
石川忠総老臣ヨリ |一、石川主膳殿御内天野刑ア左衛門尉・石川二郎右衛門尉・石川淡路守ゟ、式ア少輔殿へ之返事参候

書状       |  を、式ア殿ゟ持せ被下候、請取置申候事、

         |                        
         |    廿六日  安東九兵衛
         |
         |          (有吉英貴)
         |一、今日式ア少輔殿・頼母佐殿、田川御狩場へ御越候也、
田川郡御狩場鉄炮 |一、田川御かりはへ御鉄炮五十丁か、百丁か、廿七日ニ進上可仕旨ニ付、御鉄炮頭衆も付遣可申儀候
足軽差遣     |    (米田是季)
本頭 小頭    |  哉と監物殿へ相尋候へば、本頭ハ入申間敷候、小頭を付遣候様ニと、被仰下候也
         |          (宗珠院)    (長沢顕長室、沼田清延女)
宗珠院ヨリ伊与へ |一、佐藤少三郎敏ニ、そうしゅいん殿ゟいよ殿へ参候かミノ袋弐つ、大嶋喜右衛門ニ相渡候也、
音信       |
京都遣銀ノ目録  |一、右少三郎御銀之目録三つ被持下候を、弐つハ甚丞、壱つは新兵衛・喜左衛門ニ渡、使ハ古庄次左
         |  衛門也、

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■冬の大三角

2021-01-27 21:56:46 | 熊本

 今日の夕食時、奥方が最近「大三角」がきれいと言い出した。
あとがいけない「知ってる?大三角」・・・こん畜生と思ったが、その一つがオリオン座のペテルギウスくらいしか知識がない。
うやむやでお茶を濁したが、就寝前シャワーをした後ベランダに出て見ると、鮮やかとはいかないが低いところに大三角が輝いていた。

下が22時ころの熊本の星座だが、見事に三角形を成していた。
       、
夏にはよくベランダに出て星空を眺めるが、冬は寒くていけない。今日は暖房のSWも入れることない暖かい一日だったから、大三角を目の当たりにした。

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■細川小倉藩(471)寛永七年・日帳(一月廿日~廿一日)

2021-01-27 09:17:51 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)廿日~廿一日

         |                        
         |    廿日  安東九兵衛
         |
草履取赦免サル  |一、御さうり取三五郎、今日御ゆるし被成、しちへやゟ被成御出候、則御さうりかしら猪介ニ渡申候
         |  事、
明屋敷ノ所望   |一、岡本新九郎屋敷、団左兵衛望被申候、余人ハ望不申ニ付、左兵衛ニ渡し可被申由、波多理右衛門
許可ノ肩書    |  ニ肩書仕、遣候事、
忠利終日政務ヲ聴 |一、今日ハ終日、何かたへ茂不被成御出、万事御用被成御聞候、
ク        |
         |一、佐藤安右衛門尉・井関久馬助、今日出船被仕候、江戸・大坂へ之状とも相渡候事、
医師等知行拝領  |一、北村作雲・石川理斎、今日御知行被為拝領候事、其外沢村九兵衛も拝領仕候也、
         |            (安藤)  (加来)  (奥村)
奉行等用務繁多  |一、今日は御用多ニ付而、九兵衛も二郎兵衛も少兵衛も、未明ゟ登城仕候事、
宇佐郡奉行相役  |一、近藤新五左衛門尉、宗像清兵衛相使ニ被 仰付、様子申渡候事、
下毛郡奉行任命  |一、河喜多九太夫、下毛ノ御郡奉行被 仰付、右同前ニ申渡候事、
         |一、佐藤少三郎・築山兵庫、今日罷下候事、
         |    
小倉屋七左衛門  |一、小倉ニ兵衛せかれ七左衛門、昨日罷下由にて、大学殿ゟ使者被相添、登城仕候事、
         |              (側)                                                                            (横田)      (冨田)       (不破)
御弓鉄炮足軽ノ肩 |一、大橋へ被成御座候時、御例御弓・御鉄炮衆之かた替、四人は権佐与、三人ハ十太夫与、壱人ハ角
替        |        (湯浅)
         |  丞与、二人ハ角兵衛与、壱人湯浅五郎兵衛ニ付也、

         |                        
         |    廿一日  加来二郎兵衛
         |
歩小性岡某諸侍へ |一、歩之御小性岡文右衛門尉、諸御侍衆へ■悪ミやうを申かけ候、いつわりニ悉相究候ニ付、今日侍
悪名ヲ申懸ク   |  町をひかせ、中津口にて、はた物ニかけ候へと、被 仰出候也、
僞ニツキはた物  |
はた物ノ奉行   |一、右ノ奉行ニ、入江三丞・安井太右衛門両人被 仰付候也、
         |一、真野九兵衛、別苻替め参候間、罷帰度由被申候、式ア殿へ被申理可被戻由、申渡候事、
         |一、岩崎五郎介宿ハ、藤田宗理となりノ由、
         |         (堺)    (船場)
         |一、八並少介宿ハ、さかい町筋せんは七丁めノ横町ノ由、
         |一、吉田太郎介宿ハ、中津口ノ由也、
         |  (規矩郡)
高罠ヲ上ゲ御印ヲ |一、篠崎村ニ而、高わな御さゝせ候へ共、もはや鴨とれ不申候由、申候ニ付、さ候ハヽ、わなをあ
返サシム     |  が、 御印を加藤・金子ニ渡候へと、申付候事、
佐田長三郎等親ノ |一、佐田長三郎ニ、親ノ御ふちかた八人ふちを、長三郎ニ昨日被下との 御印成申候ニ付、今日御礼
扶持方分与ニ御礼 |  申上候事、
         |一、加藤甚兵衛子甚太郎ニも、甚兵衛御ふち方六人分被遣候、理右同、
         |一、北村次右衛門子少二郎ニ、三人ふち十石被遣候、是も今日御礼申上候事、
         |一、三輪加左衛門子久五郎ニも、三人ふちニ十石被遣候、今日御礼申上候事、
         |一、松山権兵衛子猪兵衛・同五郎八、両人ニ御ふち方被遣ニ付、今日御礼申上候事、
御礼披露坂崎成政 |       (成政)
         |  右御取次ハ坂崎清左衛門尉可仕旨ニ付、清左披露被申候事、
家ノ直段付ノ横目 |一、家之直段仕候御横目、中村新左衛門申付候也、
         |一、今日は 殿様いつかたへも不被成御座候也、
佐藤秀成石川理斎 |一、佐藤少三郎・石川理斎、御知行拝領仕候由にて、御書出シ持被参候事、
知行ノ書出持参  |

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■ご紹介「細川藩士・高見家」HP

2021-01-27 07:28:55 | 史料

                    高見家家紋

 ご厚誼をいただいている、細川家家臣・高見家の御当代から、昨年末高見家をご紹介するHPを立ち上げる準備をされていることをご連絡いただいた。
そして昨日メールをいただき、HPアドレスをお贈りいただいた。
                      https://takami-f.net

実は一年程前、わざわざ来熊され高見家に遺る数々の資料を熊本大学図書館に寄贈をされた。
その折、お目にかかり御子息ともども痛飲し、酔態をお見せするというなんとも取り返しのつかない有様になってしまったが、裃がとれたお付き合いが改めて始まったのではないかと感じている。

まだまだ発展形のサイトであり、今後に期待している。ブログなども立ち上げられて、いろいろな広がりを楽しまれることをお願い申し上げた。
皆さんにもぜひご覧いただきたいとご紹介申し上げる。

 

コメント (1)
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■細川小倉藩(470)寛永七年・日帳(一月十七日~十九日)

2021-01-26 10:16:08 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)十七日~十九日

         |                        
         |    十七日  安東九兵衛
         |
         |一、あいノ嶋へ、靏うちニ御鉄炮、今朝遣候也、
丹頂鶴ヲ上グ   |一、曽根ノ長兵衛、たんちやう壱つ打上候也、
梨子       |一、なし十一、河喜多八助上申候を、山中弥次右衛門ニ、生嶋平三郎渡被申候也、
上方江戸へ申遣ス |一、佐藤安右衛門・井関久馬介江戸へ被参時、上方・江戸へ可申遣覚
覚        |
土風呂三斎へ   |  一、三斎様へ被進之候御土風呂之事、
小判六百両大坂ヨ |  一、小判六百両、大坂衆ゟ可被渡由之事、残分ハ江戸ゟ申来次第、跡ゟ江戸へ可下旨、
リ江戸へ     |
普請道具     |  一、江戸にて御普請道具被渡候へと、御留守居衆加申遣由候事、
         | (細川立孝)      (槙島昭光)(一色)(中路)
細川立孝等へ鯨肉 |一、立允様へ鯨三桶、云庵・木工・宗悦三人ニ壱桶宛被遣候事、
賜与       |
伜目見ノ礼ニ進物 |一、野瀬吉右衛門被申候ハ、私ハ御借米奉行被仰付候ニ付而、算用目録松ノ丸衆ゟ急被申候、先罷帰
         |  申候せかれ御目見え仕候ハヽ、私ハ進物を上ヶ申度候由被申候、一段可然候歳申候事、
         |                                (長重)
浅野長重へ鶴ヲ贈 |一、明日江戸へ、靏持せ被遣候御小人與介与市蔵・左右衛門与惣三郎、浅野采女様へ、右ノ靏被進之
ル        |  候、様子ハ永良長兵衛奉ニ而、江戸御留守居衆へ書状遣被申候也、

         |                        
         |    十八日  加来二郎兵衛
         |
忠利大里へ放鷹  |一、今日は内裏へ、御鷹野ニ被成御出候也、               (矢野吉重)
鷹ノ押絵本ノ請取 |一、御鷹ノ御押絵本、拙者江戸へ罷越候時、上置申候を、只今慥請取申候、ゑかき三郎兵衛(花押)
驢馬筑後ニナシ  |一、筑後へ、驢馬かいニ被遣候へ共、馬無御座由にてかい不申、罷帰候事、
         |一、春木金太夫、今日罷帰候事、
忠利氏家元高邸ニ |一、今晩は氏家殿へ御成ノ事、
臨ム
         |    喜兵衛
伜目見ノ礼    |一、野瀬吉右衛門・安井長左衛門・真野九兵衛・右之衆、子共御礼相済候由にて、子共めしつれ
         |  被参候也、式ア少殿御取次也、

         |                        
         |    十九日  奥村少兵衛
         |
籠質部屋口ノ番死 |一、籠しちへやの口ノ番山本理兵衛、正月四日ニ相果候由、相番林勘介登城にて申候也、
亡届       |
         |      (一成)
忠利朝道家一成邸 |一、今朝ハ道家帯刀所へ御成候事、それゟ直ニ御鷹野ニ被成御座候事、
ヨリ鷹野へ赴ク  |
惣奉行北ノ丸ニテ |一、今晩、修理・兵庫ニ御茶被下候事、但、北之御丸にて也、
茶ヲ賜ハル    |
細川立允等鯨ノ礼 |一、立允様へ昨日鯨被進之候御飛脚罷帰候、昨晩御食被下候由申候、御返書ハ平野九郎右衛門を以、
         |  上申候事、云庵・木工・宗悦御請も同前也、

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■小崎五郎左衛門宛忠利書状(2)

2021-01-26 07:09:04 | オークション

               細川忠利筆 小崎五郎左衛門苑書状 肉筆紙本掛軸(陽明文庫小笹喜三箱書

 昨日ご紹介したこのオークション物件、よくよく眺めると「陽明文庫小笹喜三箱書」があり451,000円とあった。
陽明文庫とは摂関家である近衛家伝来の文物を収蔵する施設だが、小笹喜三とはここに属した貴重文書の調査研究の第一人者らしい。
その小笹の箱書きが有るからこの値段が付いたという事らしい。それにしても高い・・・
そうなるとこの文書の内容が大いに気になるが、どうやら小崎五郎左衛門が細川家に召出される前のものらしいことが伺える。
音信物を仲介したのが平野九郎右衛門であることが文中で判るから、九郎右衛門が細川家に仕官したのが「元和八年1622)豊前召寄せられ、知行五百石(のち千石)」であり、五郎左衛門の仕官寛永十六年(1639)迄の間に交わされた書簡であろうと思われる。
平野九郎右衛門を使者として送り、御状・音信物(鮭・御菓子・昆布)などを贈られたことに対する礼状である。
五郎左衛門が石州銀山にいたこと、また少し病気味であることに対し丁重な文面である。
ひょっとすると細川藩への召出しに関するものではないかと考えるが、確証はない。

      以上
      為御見廻指
      越使者平野
      九郎右衛門所迄
      御状殊鮭之子
      籠二尺幷菓子
      昆布五拾本
饋       饋=おくる
      給御志之程不浅
      存候貴殿事頃       頃=しばらく
      石州銀山ニ被居
      彼地被□□今
      程刑部殿領
      分ニ御入之先尤
      少持病差□之
      由心許存候
      □々如此之段
      別而□満足候
      尚平野九郎右衛門
      可申入候恐々謹言
          細越中
       七月六日 花押
       小崎五郎左衛門殿
            御宿所      □表示個所は現況読みえず

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■細川小倉藩(469)寛永七年・日帳(一月十五日~十六日)

2021-01-25 13:25:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)十五日~十六日

         |                        
         |    十五日  加来二郎兵衛
         |
元田彦丞家来走リ |一、元田彦丞召遣候者、浅山修理抱申候御鉄炮衆ノ内ニ罷出居申候処ニ、彦丞ゟ修理方へ去年被相届候
而浅山修理ノ鉄炮 |  ハ、私召遣候者にて御座候、大分ノ科人ニ而御座候間、返被下候様ニと被申候、其折節、江戸へ御
足軽ノ中ニアリ  |  供ニ罷上居申ニ付而、罷下候ハヽ、其上にて承届可申付由、返事申置候、今度江戸ゟ罷下候ニ付、
帰属ニツキ交渉  |  則暇を遣、此段彦丞方へ申届候処ニ、彦丞登城ニ而被申候ハ、右之者返被下、忝存候、何とそと
ソノ処理     |  らへ候て見可申候、若何角申候ハヽ、打果可申候間、其心得可仕由被申候、此方ゟ返事申候ハ、
         |                   (軽)
         |  御構在之由ニ付、暇を遣申候、科ノ経重不存候間、いかやうニ可被成も、此方ゟとかくノ儀もハ
         |                                           〃
         |  難申候、ともかくも御分別ノ上たるへく候由、申渡候也、
女出切手     |一、古川源内方被上候ニ付、女出切手ハ河田八右衛門ニ渡ス、
医師北村作雲帰国 |一、北村作雲・上田忠蔵、両人江戸ゟ被罷下候事、     

         |                        
         |    十六日  奥村少兵衛
         |
         |一、古川源内興被罷上候、御船頭は乃美十左衛門尉、寺嶋主水所へ之状壱通・京都へ之状壱通、又
         |                   文箱壱つ (長沢顕長室、沼田清延女)  
         |  式ア殿ゟ小田豊斎・同與右衛門所へ之状壱通、伊与殿ゟそうしゅいん殿へ之文一包、松や九郎兵
諸方ヘノ書状ノ請 |                   〃〃〃     (宗珠院)
取        |  衛ゟ京都三人衆へ之状壱つ、慥うけ取申候、     乃美十左衛門(花押)
         |                                          靏打申
大里ニ鶴すはるモ |一、寺尾左介与茂右衛門尉と申もの申来候ハ、内裏ニ靏すハり申由、百性注進申来候、此中私〇御
鶴打ノ御印返上  |  印請取、彼方ニて百性共ニ申置候ニ付、私所へ申来候、はや 御印も上申ニ付而、如此候由申候
         |  間、靏被打候衆二急度可申渡也候へと、申付候事、
         |            〃  〃
         |  (規矩郡)
鴨罠ニ鴨一ツモナ |一、志井村にて、鴨わなさし申候御鉄炮衆登城にて申候は、鴨一節とれ不申、わなさしいたつらニ
シ 罠ヲ上ゲシム |  罷居候而、賃米を取申候、如何わな上ヶさせ可申やと、申候間、早々あけさせ候へと申渡候也、
明寰薬種購入ノ代 |一、明官、江戸にて薬種かい申代銀百九十七匁滞、 殿様御上洛之刻、御供仕、罷上儀成不申ニ付、
銀滞リ上洛ノ供成 |  立 御耳、御銀御取かへ被成、被遣候を、爰元にて御ふち方ノ内を以引取候へと、かし方奉行衆
リ難シ ソノ処理 |                        (国遠)    (豊岡)(粟野)
         |  へ申渡候、さ候て、江戸ニて右銀うけ取人之切手、道倫被持下候を、甚丞・伝介ニ渡申候、此切
替奉行      |  手江戸へ不遣候ヘハ、江戸衆銀払之算用成間敷候間、江戸之御さん用通り候様、かへ切手遣可被
         |  申由、少兵衛を以伝介・甚丞ニ申渡候也、
         |            (加藤) (金子)
古川源内知行目録 |一、古川源内知行之目録、新兵衛・喜左衛門へ、少兵衛を以渡候事、
惣奉行書院ニテ朝 |一、今朝修理・兵庫ニ、御書院ニ而御食被下候、忝 御諚中/\難申上候事、
食ヲ給ハル    |
         |                                (藍島、規矩郡)
鉄炮足軽へ鶴打ノ |一、寺尾さ介与広津茂右衛門ニ 御印、新兵衛・喜左衛門ニ相渡させ、あいの嶋へ靏打ニ遣候、但、
御印ヲ渡シ藍島へ |  明日渡し申筈也、
遣ス       |
         |   (辺ヵ)
         |一、田■作右衛門靏壱つ打申候事、
江戸へ飛脚    |一、江戸へ被遣御飛脚弐時と、乗せ上り候御船頭ハ田辺長介、六丁立ニ八丁立申由、申候也、
三斎へ鶴ヲ上グ  |一、三斎様へ靏被成御進上候、持せ上ヶ申御小人、源三郎与助作・弥左衛門与五郎介両人也。上ノ遣
         |  銀ノ外ニ、余慶ニ四十め渡遣申候也、但、明日出船仕筈也、
         |  (元信)室、細川興秋女なべ
忠利南条元信邸ニ |一、南条左衛門尉殿江御申在之事、
臨ム       |
         |                  (三淵重政)
鯨ヲ見物     |一、南条殿ゟ、直ニくしら被成御覧ニ、右馬佐殿わきへ被成御座候事、

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■小崎五郎左衛門宛忠利書状

2021-01-25 07:33:55 | オークション

          細川忠利筆 小崎五郎左衛門苑書状 肉筆紙本掛軸(陽明文庫小笹喜三箱書

             

 小崎五郎左衛門の見廻に対する礼状である。それにしては大変丁寧な長い文章である。
この人物については判らないことが多い。以下にある消息文から寛永16年(1639)7月に、「四十人扶持」という好待遇で召出されている。9月には、1,000石の大身となった。
忠利は18年(1641)3月にはなくなっているから、わずか2年の間に書かれた書状である。

そして明暦元年(1655)には御隙となって居り、わずか16年の細川家との縁である。
他の資料を紐解くと面白い事実が見える。
細川家には赤穂浪士で討ち入りに参加した堀部弥兵衛の兄・次郎左衛門が召出されているが、その召出しはこの小崎五郎左衛門が関係しているが、次郎左衛門の妻が五郎左衛門の姪であるらしい。
正保四年の事だとされる。熊本の堀部家四家

大変な実力者であったことを窺わせるが、五郎左衛門の仕官のいきさつなどは、史料不足でなかなか近づけないでいる。

       ○ 小崎五郎左衛門  御鉄炮頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
               千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
               千石 明暦元年八月 御暇被遣候 (※)
      消息:熊本縣資料近世編第二p467
          被仰上可被下御印之?
         一 四拾人扶持ハ    小崎五郎左衛門
         一 八人扶持ハ      小崎三右衛門
          右之五郎左衛門・三右衛門新参ニ被召拘候寛永拾六年七月廿二日御禮
          申上候右之日帳より御扶持方被為拝領候御印之儀仰上可被下候以上

      消息:
         小崎五郎左衛門・同三右衛門・速水助兵衛此三人新参ニ召置候
         五郎左衛門千石・三右衛門弐百石・助兵衛六百石遣候筈候間当
         物成之分ハ家中へ遣候知行並のことく蔵米ニ而可相渡候 謹言
            (寛永十六年)九月七日     越 忠利 御判
                        西郡要人佐殿
                        浅山修理亮殿
                        河喜多五郎右衛門殿
                        椋梨半兵衛殿 

                               (綿考輯録 忠利公・下 p289)

 肝心の読み下しは、今からである。

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