津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

江戸城西之丸 - 地震之間

2012-08-31 08:45:24 | 史料

江戸城内に地震之間があることは、研究者により語られてきたことであるが詳細を知りえないでいた。
幸い江戸城に関わる多くの図面がWEB上で公開されており、今般これをたよりに調べたところ西の丸に二箇所の地震之間が確認された。

               http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html
  
一つは西にある建物で「地震之間」とはっきり書き込まれている。二箇所在ると伝えられているのでよく観察すると、書き込みはないものの、まったく間取りや大きさが同じの建物が南面中央に存在することがわかる。表と奥に一つずつということだろうか・・・ 

コメント

家臣消息・狩野是齋

2012-08-31 08:39:31 | 史料

寛永十一年二月二日牧野信成宛書状(2392)

     一筆申入候 我等女共(忠利室・千代姫)ニ付置候狩野是齋と申者 數年爰元ニ召置候付
     替を國元へ遣申候 彼者妻子女八人之内 乗物壹丁にて御座候 道中御関所御手形被遣
     可被下候 松平大隅(重則)殿へ従貴様被仰入可被下候 猶此者可申入候 恐惶謹言
          二月二日

          牧内匠様
              人々御中

私事で恐縮だが、狩野家は祖母の実家である。
是齋(源右衛門)は日向高橋家に仕え、高橋家改易の後牢人。柳生宗矩の推挙により豊前にて忠利に召抱えらる。

妻子女八人とは・・・・道中も大変なことであったろう。 
二代目は男子が亡くなったため、外孫(女婿・松山次郎太夫の嫡男)を迎えた。 細川家家臣・松山氏 と 狩野氏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、太郎右衛門(是斎) 高橋左近家老職--後浪人
               切米人数 百石二十五人 (於豊前小倉御侍帳)
       
狩野是斎消息(細川家文書・御印之物)
          狩野是斎相果し候段立御耳候所ニ娘之儀縁ニ付候迄ハ是斎ニ被遣御扶持方も其儘
          娘ニ被遣候通仰出候条可被得其意候、已上
             寛永拾六年正月十八日        浅山修理(花押)
                  河喜多五郎左衛門殿
                  椋梨半兵衛殿
                  堀江勘兵衛殿

          狩野是斎女松山次郎太夫女房二遣候間今迄娘ニ遣置候扶持方当十月中は可遣候事
          知行百石右女房為養次郎太夫ニ遣候間、当秋ヨリ所務仕候様割可相渡候、物成四ッニ
          不足之所ニ候ハヽ何時も替可遣旨次郎太夫二申聞候間可得其意候事
          是斎家屋敷次郎太夫ニ可相渡候、是斎残候小娘弐人并娘之母下女壱人留守中ニ城へ
          可差上候事
                  寛永拾六年二月十九日 (忠利ローマ字印)tadatoxi

    2、太郎右衛門(養子=外孫 実・松山次郎太夫男)   
               藤堂大学(高次)ニ仕・・・後浪人
               延宝二年御中小姓召出、同六年新知二百石
                細川綱利公御書出

コメント

関小平次宛加増宛行状

2012-08-30 20:57:28 | オークション

                   細川忠利宛行状 忠興三斎子書状消息熊本藩主和本古文書花押武将 細川忠利宛行状 忠興三斎子書状消息熊本藩主和本古文書花押武将
                        

                            ○ 関 小平次  側小姓・御扈従役歟 百石 (於豊前小倉御侍帳)
                                        御中小姓 百石 (肥後御入国宿割帳)

                                       (以下子孫については不明) 

コメント

加藤家家臣の再仕官

2012-08-30 18:02:26 | 史料

 加藤家家臣の細川家仕官については、そのリストをupしている。
            http://www.shinshindoh.com/katou.html

その内の幾人かについては、細川家が申し出た者もあるし、又肝煎する人物がはっきりしている者もある。
上記リストにそのあたりを、明記しようかとも思っている。

又、他家に召しだされた人もあるが、これはなかなか実情をつかむことは容易ではない。
大日本史料・細川家史料で幾人かの人の再仕官の状況がわかる。そしてこれらの書状は妻子の肥後出國に関するものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    寛永十一年閏七月十九日加藤明成宛書状(2510)

       昨日は忝存候 肥後守殿ニ在之候早川四郎兵衛と申仁 被召抱候
       其妻子 我等國元ニ居申ニ付而 連上度由候間 國元へ申遣候處
       爰元へ上著候為御禮被仰越候 御慇懃之至候 何も期面上候 恐慌
             閏七月十九日

             加藤式部様
                   人々御中

    加藤明成 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%98%8E%E6%88%90

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    寛永十一年十二月十五日酒井忠勝宛書状(2764)

       十一月廿二日之書状 十二月十五日ニ拝見仕候 此已前加藤肥後
       殿ニ被罷居候中村伊兵衛・箕部與五右衛門(茂朝)・村井太兵衛・
       平尾源大夫と申仁 貴様ニ被召抱候 其妻子當國ニ罷居候間 女數
       別紙之御書付ニ引合 出可申候由 則申付候 将又 貴様霜月廿二
       日ニ江戸御下向由如仰 春ハ於江戸早々可得御意候 恐惶謹言
             酒井讃岐守様
                     御報
       (尚々書省略)

    酒井忠勝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E5%8B%9D_(%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E5%9B%BD%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E8%97%A9%E4%B8%BB) 

                 (加藤忠廣を預かった、宮内大輔を称し出羽庄内藩主をつとめた酒井忠勝は同姓同名の別人である)

 

コメント

竜ノ口邸・地震之間

2012-08-30 08:39:46 | 史料

 数枚ある竜ノ口邸絵図の内、唯一地震之間の書き込みが確認できる「享保初比ニ而茂可有之哉」絵図である。
○印で囲んだところの下段に「地震之間」とあり、その上には「御次之間」とある。建物全体が、地震屋としての構造であるのかどうかは判断できない。 

(この絵図に於いては右手(北)が道を挟んで道三堀に面している。上がいわゆる大名小路、左手に玄関がありお向かいは松平伯耆守屋敷である。
 玄関をでて西(上)に向かうと竜ノ口で、そのまま直進すると和田蔵門、和田蔵門の手前を右折して内堀にそって道なりに進むと大手門となる。) 

コメント

坂崎家のやっかい者

2012-08-30 08:35:10 | 史料

以前 坂崎三四郎なる人 を書いた。 どうやらこの人は初代・清左衛門成方の男子らしい。この故をもって二代清左衛門成政(岡田修理・二男)を養子としたのではないか・・・私の推測である。バッドな話はまだつづく。
寛永十一年十二月十日、忠利は春日局宛(2755)・伊丹康勝宛(2756)・そして榊原職直ら四人の人物に銘々宛書状(2757)を発している。
その内容は坂崎左吉なる人物についてである。この人物は坂崎家二代・成政の甥だとされる。
いささか長文であるがご紹介する。

   ■春日局宛書状(2755)

         (前二項略)
         我等所より罷出らう人(坂崎左吉)僧正(南光坊天海)へそせう申 御かなえなくハ御庭をよこし
         可申候ハんなとゝ申ニ付而 左様の悪人ハ十七日前にて候共からめとり 若何角申候ハゝ打す
         てニいたし候へと被仰付候處ニ 其様子御尋候ハんとてよのものをよひニ被遣候ハゝ 其ぬし
         参候て 被搦取 籠へ入申候由 我等所ニ居不申候へとも 御寺にていかやうの悪事仕候ハゝ
         此方にて迷惑可仕候ニ 被仰付様能御座候て ぶしニろうしや被仰付 承候てあんと仕候 かの
         ものハ惣別き村(気斑)成ものにて御座候 ○そもしさま御存知之坂さき清さえもんおいにて御さ
         候を 清左衛門やしない申候へとも きちかひものにて八九年いせんに走 其後又我等ニわひこ
         と仕候へ共 をやこ共卻而迷惑仕由申候間 さやうのもの他國にて何やうのとゝかさる儀も候ハ
         んまゝ しんるい共所へめしよせ國におき候へと申付 豊前より肥後迄もおやこ共召つれ参候ヘ
         ハ 又去年の八月親子共の手前をはしり罷下候 惣別一狂成ものにて御座候 南光坊へ御あひ
         なされ候ハゝ 此よし御物語なされ候て可被下候 此度のおほせ付られニよつて御寺ニて之悪
         事を仕いたさす 忝存 播磨(伊丹康勝)殿迄御宿老中へも御心得ニあつかるへきよしとて 使者
         をさしくたし候
                            (以下略)

   ■伊丹康勝宛書状(2756)

         態貴様迄以使者申入候 仍我等所ニ此前罷有候坂崎左助と申者 南光坊へ参 猥かハしく不届
         儀共申候處 何も被仰付様可然によつて 不慮成儀を不仕出 安堵仕候 可然様ニ御心得候て可
         被下候 右左吉と申もの ぬし如申 おやこ共もあまた御座候ものにて御座候 然所ニ寛永三年ニ
         はしり申 其以後罷歸度候ニ申候へ共 おやこ共卻而迷惑仕候間 召返不申候 更共 他國ニ罷
         歸有候ハゝ 氣違者にて候條 親の所迄召寄 國ニ置候て可然之由申ニ付 豊前より肥後迄おや
         この内ニ置申候處 又親の手前を昨年八月ニ走申由ニ候 氣の揃不申者にて候間 左様ニ可有
         御座と存候 能様ニ御心得可忝候 恐惶謹言

   ■榊原職直 并 片山宗琢 并 井岡孝賀 并 河野通幸 銘々宛書状

         乍急便一書申入候 仍我等所ニ此前居申候者 南光坊(天海)へ参 色々不聞儀を申候由承候
         八九年已然ニ走 其已後又我等所へ歸度申候へ共 親子共卻而迷惑仕由申候間 同心不仕候
         更共 氣之不揃者にて候間 他國ニ居候而ハ親子迄迷惑仕事可在之候間 親類共所ね召寄 國
         ニ置候而可然由申付候處 従豊前肥後迄参 去八月ニ又親子共手前を走申 事之外氣之不揃
         者にて御座候處 被仰付様能候而 御寺にても無何事安堵仕候 惣別一(逸)狂成者にて御座候
         つる  (以下略)
                 十二月十日

                    榊飛騨様
                 尚々 彼氣違者ハ坂崎清左衛門おいなり やしなひ子ニ仕候處 不届も有之候ハゝ
                 中をたかひ罷有候 以上

 

家老職を勤める等の由緒の家であるが、こういう人物が出て当事者は頭の痛いことである。 
成方・成政と系図上どうつながるのかよくわからない。この人物のそのごも遥として知れない。 

コメント

望んで熊本

2012-08-29 08:37:26 | 史料

 加藤忠廣の改易による大国肥後の新しい国主について、隣国豊前の細川ではないかとの噂は早い段階でちらほらあったようだ。

寛永九年八月十六日の忠利が内藤正重(秀忠側近・5,000石)に宛てた書状(1726-抜粋)には次のようにある。

            肥後之國我等ニ被下度由 かやうの大國ハいつかたにても所望ニ
            御座候へ共 ゆゑなく拝領ハ卻而(カエッテ)餘のそしりいやにて候間
            もとのまゝがましかと存候 おかしく候 恐惶謹言
                八月十六日

                内外記様
                     御報

噂話であるからそうそう嬉しがって返書を認めるわけにも行かず、一応殊勝な感じである。
実はこれ以前、忠利が肥後國を希望する書状が存在するのである。畏友榊原職直に宛てた六月十三日の書状(1589- 抜粋)がある。

           肥後ノ國へハ誰が可被遣候哉 是ハ能々被成御思案可被仰付と存
           候 御仕置ハ此國主ニ而大かたかたまり可申と内々存候 と角か様
           ニ遠國ニ居申候は 肥後へ参度候 御出頭候而可頂御取合ニ候 さ
           れとも我等ごときの草臥もの彼國へ参候ハゝ 御ためニも成ましきと
           存笑申候 此國主ハおそく候ても 末々まて可然様ニ仕度事ニ候事

親しい間柄の人物とはいえ、幕府の要職にある人に対しての書状としては、いささか軽口のそしりはまぬがれないところであろう。
三齋が知ったら大目玉ものである。 

そして十月四日江戸城にて忠利に肥後転封が命ぜられるのである。
予想していたとはいえ、自ら望んだ大國熊本を拝領した忠利の気持ちは如何ばかりであったろうか。
この時期の忠利の書状は到って少ない。自らが江戸に在る事によるのだろう。 

コメント

無念中/\可申上様無御座候

2012-08-29 08:26:42 | 史料

 寛永十年八月廿四日酒井忠行宛書状(2318)の追而書(2319)に見える一文である。
宛名の酒井忠行は酒井雅楽頭系の八代当主であ、この時期幕府の奏者を勤める家光側近である。

書状(2318)の大意は、幕府から預かった最上光直の妻子などについての報告に誤りがあったので追加説明をしている。
先の報告では「甲斐守子ハ三人御座候、内二人ハ男子、十三と七ツとに罷成候、壹人は女子にて御座候・・・」と報告したが、実は今一人女子があってこれを報告漏れしていたというのである。

       (2318)尚々書   山野辺義忠
       尚々 備前へ御預之山邊右衛門と申者之女も楯岡甲斐守娘と申候
          最上
       是ハ■上にて婦夫ニ罷成由申候 不残妻子書付候様ニと被仰付候付        ■ 宀ニ取
       如此候 以上 

ただ是だけの話なのだが、その後が仰々しい。追而書(2319)は自筆であることもそれを窺わせる。
  
       追而申上候 今度之書違 無念中/\可申上様無御座候 少ハ我等
                                            公界
       如在なき事も御座候間 罷下候刻以面可申上候 申わけくかいへ出
       ぬ事にて御座候 書付共御用ニ不立御迷惑可被成と 是のミ迷惑仕
       候 被入御念 我等留守居共へも存候は申上へと被仰聞候段 具申
       越候 忝存候/\ 只今之書状之分ニ而御座候間 可然様ニ奉頼存
       候 恐惶謹言
            八月廿四日

            酒阿波守様
                  人々御中 

忠利の性格を窺い知るような書状である。

後年光尚代、幕府から同様の問い合わせを受けているが、こちらにも山野辺義忠に嫁いだ娘については欠落している・・・・・
                                     楯岡家先祖附の間違い


        11代         12代
  最上義守---+--義光---+--義康
          |       |  13代  14代
          |       +--家親---義俊
          |       |
          |       +--義親
          |       |
          |       +--(山野辺)義忠
          |             ∥
          |       +-----
          |       |
          |       +-----● 
          |最上甲斐守  |
          +--光直---+--孫一郎・定直---→(楯岡小文吾家)
                   |
                   +--蔵之助--------→(楯岡三郎兵衛家)

                     
ちなみに山野辺義忠とはいわゆる最上騒動の当事者で、最上義俊の叔父に当る人物である。なかなか人望ある人であったらしいが、義俊派・義忠派と藩内が二分する対立により名門最上家は没落することになる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E9%A8%92%E5%8B%95
最上光直の子息が楯岡姓を名乗って細川家に仕えた。      

  

コメント

ついに出ました、秀頼、秀吉の実子にあらず説

2012-08-28 10:51:07 | 書籍・読書

    河原ノ者・非人・秀吉

 
     山川出版社

 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20120822-OYT8T00735.htm?from=yolsp

本の題が大変センセイショナルですが、「河原ノ者・非人」と「秀吉」は別物です。
一部と二部に別れ、二部に「豊臣秀吉」が登場し、第十一章で「秀頼は秀吉の実子に非ず」説が取り上げられているようだ。

 http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/2090/

ミーハー気分で読んでみようかと思っている。

 

コメント

小笠原忠眞、三齋・忠利の不和を心配す

2012-08-28 08:27:49 | 史料

 寛永十年八月廿四日、忠利の義兄・豊前小倉藩主小笠原忠眞は、三齋・忠利の不和について心配の書状を送っている。
同九月二日の忠眞宛て忠利の返書(2324)である。

   態御使者被下八月廿四日之御状拝見仕候 我等父子間悪由被聞召
   何とそ可然様にと仰越候御心入之段 忝儀 書中難申盡候 其元へ左
   様被聞召候哉 切々用共御座候而 此中状數を取替候 左様之儀之理
   をも不存は何事そと存候而 申候哉と存候 今日為暇乞 口切可有之と
   て八代へ参候とて 御使者ニも早々得御意候 爰元ハ少も替儀無御座
   候 委細又三齋かたより可被申入候 彌九月十一二日ニ罷立候 於江
   戸御用候は可被仰聞候 被懸御心安候而早々被示下候段 御禮難申
   盡候 尚御使者可被仰候 恐惶謹言
        九月二日

        小右近様
            御報

      尚々 我等おぢニ休齋と申者御座候 不聞事候而中をたかい申候
      他國も如何とて我等弟知行八代へ召寄候 其後ハ少も不苦候由
      申聞候 かやうの事を申候哉 以上

 大意は次のようなことであろう。
      【我等父子の中が悪いのではないかとご心配いただいているが、いろいろ用事があり書状が多くそのことでそうお思いかと思う。
       今日も三齋から口切に招かれているくらいだ。江戸でお目にかかりお話したい。
       叔父休齋とは仲違いをしたが、今は八代に居るのでそのような事もない。このような事(を含めて)のお話ではないのか】

        幽齋息ちゃち   孝之に家督・・・?  やっかいな叔父  寛永十年ころの休齋孝之  

 

コメント

花畑邸・地震之間

2012-08-28 08:26:59 | 史料

 唯一地震之間の存在が書き込まれている、花畑邸絵図のトレスである。○印の部分が地震之間である。この絵図が作成された時期は判らないが、忠利の入国後寛永期のものではないかと私は推測している。ただ能舞台などがあるところをみると、時代は下るかもしれない。披雲閣とあるあたりは後年藩主の私室・陽春之間が出来ることになり、その後の絵図ではこの地震之間はなくなっている。

コメント

昨日・本日クーラーなし

2012-08-27 17:34:44 | 徒然

 あまりの暑さが続き我が家のクーラーはフル稼動してきた。電気料金の請求書を見たら通常月の二倍になっている。
節電が叫ばれる中、こりゃーまずいと思いながらも使い続けてきた。
昨日今日と我が家の室内温度は32~30,5℃ほどである。しかし我慢ではなくクーラーは動かしていない。
実は台風のせいで昨日の朝から終日風が吹いている。湿度もあまり高くなく、風が通ると32℃くらいあってもしのげるものである。
九州の西側を北上するみたいだから、明日・明後日もこんな状態なのだろう。
冷房によると思われる足のむくみも、クーラーを止めない限り完治しそうもないと思ってのことだが・・・どうだろう?
風鈴が休むことなく鳴り続けている。シャワーを使い団扇で風を送ると、「昔は当たり前だったよなー」と懐かしささえおぼえる。



 

コメント

閑話休題

2012-08-27 08:21:57 | 徒然

 
荒木又右衛門が活躍する「鍵屋の辻の決闘」についてはよく知られているところである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%B5%E5%B1%8B%E3%81%AE%E8%BE%BB%E3%81%AE%E6%B1%BA%E9%97%98
備前藩主・池田忠雄が寵愛した家士渡辺源太夫を、同僚・河合又五郎が切り殺したことに始まる。詳細は省略するが、藩主池田忠雄の怒りは相当のものであったらしい。
寛永9年4月3日急死しているが、死に臨んで必ず仇を討つよう遺言したと伝えられる。寛永9年5月朔日の曾我古祐宛の忠利書状(1556)に、その池田忠雄の無念さを伝えるような話しが記されている。

        池田忠雄
       備前之宰相殿之儀 惜儀共ニ而御座候 御存生之内 彼一義も其儘ニ而
       御座候つる由 籠者共御赦免之刻 年寄衆より詫言御座候つれ共 無承引
                             鳥取藩主池田長幸
       由 彼親備中へ参候と申候へとも 未備中殿屋敷ニ居申候由 此後は如何
       成行可申哉と存候事 

頭注を借りて文意を記す。
池田忠雄臨終ニ際シ老臣等請フトイへドモ河合又五郎等ヲ赦サズ 又五郎ノ親未ダ池田長幸邸ニ在リ

池田忠雄は自らの命が危うい状態で、その無念ぶりは沸々と増殖していたのだろう。「鍵屋の辻の決闘」のプロローグである。
 

コメント (1)

白井太左衛門宛書状

2012-08-26 09:39:37 | 史料

細川家家臣に白井太左衛門という人物がある。「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」によると転切支丹だとされ、「寛永十三年七月十三日 法華宗に罷成り・・」との記述があり、子孫は数代に亘り監視を受けることになる。この系図が其のことを物語っている。 

寛永十年九月五日白井太左衛門宛書状(2329)がある。贈物に対する忠利の礼状であるが、文の末尾は「謹言」で〆られている。
これは家臣だなと思い、上記のことに気づかないまま細川家家臣略系譜をめくると白井家の初代であった。

         就近日出船飛脚 殊南蛮菓子あるへる曲物壹到来 令祝着候 其方疱瘡煩之由
         能々可有養生候 尚長岡佐渡守所より可申候 謹言
                九月五日
                     白井太左衛門殿

 先祖附を見ると、白井家初代・太左衛門尉は薩摩島津家々老喜入摂津守忠續の伯母聟とある。忠續より依頼あり長岡佐渡取次にて寛永十年忠利に召出され、知行三百石、小性組に属せられた。

喜入(島津)忠續とは鹿籠(現・鹿児島枕崎)の領主。季久四男として元亀二年生る。初名忠政。又長重。攝津守。元和頃より國家老。正保二年三月十八日歿。年七五。

先祖附と上記書状を付き合わせると、上記書状が細川家召出し直後頃のものではないかと推測される。召出しの御禮に「あるへる」という南蛮菓子を贈ったというわけであろう。 「南蛮菓子」 http://www.meikatanbou.com/chi_/chi_s/chi_s15.htm

そして太左衛門は、正保元年三月二日、江戸にて乱心者のため深手を負い、程なく歿した。(先祖附)
子孫は代々三百石をもって明治に至った。
長岡佐渡とは松井興長のことであるが、喜入忠續との関係がいかなるものであったのか興味深い。末尾にある「松井佐渡守所より・・・」という文言も納得できる。


コメント

三淵藤利宛書状

2012-08-26 09:22:21 | 史料

 贈答に関わる御禮の書状はいろいろ見受けられる。以下は細川家史料において、忠利が再従兄の旗本・三淵藤利に宛てた(2380)書状である。
内容は特段特記すべきものではないが、再従弟同士の書状ということでここにご紹介しておく。 

                 昨日は御知行之枝柹(柿)一箱三百被送下候
                 一入賞玩申候 何も以面可申入候 恐々謹言
                   (寛永十年)極月廿八日

                      三縫殿様
                           人々御中

                   尚々 御知行所之柹毎年被下候 遠路御苦
                   苦労成儀候條 重而は御無用ニ候 被下候
                   共 申請間敷候間 可被成其御心得候 以上

 

 三淵藤利は細川幽齋の兄・三淵藤英の二男・光行 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E5%85%89%E8%A1%8C の嫡男である。光行の遺領を継いだとされるから、この柿は遠路近江の神埼から送られてきたことに成る。また郡宗保の女婿である忠興と光行の関係も興味深い。
 

    三淵家略系図

     +---三渕藤英---+--秋豪
    |           |                          
    |           +--光行  
    |               ∥----藤利 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳川家臣・三淵家
    |      郡宗保---+---●
    |           |
    |           +---●松ノ丸(松井興長室・古保生母)
    |               ∥                
        +---細川幽齋-------忠興---忠利                               
    | 
    +---三淵伊賀守好重 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家臣・三淵家

 

コメント (3)