津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

萩花忌

2012-09-30 19:54:02 | 史料

 今日は上田久兵衛の忌日・萩花忌である。萩花忌といっても誰も知らない、私が一人高祖父久兵衛に思いを致すだけのことなのだ。
出来うれば、萩の花を仏壇に供えたいところだが、最近は近所では手に入れることが出来ずに居る。
萩の花にこだわり、萩花忌などと大仰に言い募っているのは、久兵衛の次の歌にに由来している。

秋風のたよりに聞けば古里の 萩が花妻いまさかりなり

お気づきのことと思うが、写真のマグカップにその歌が刻まれている。
これは私が毎日愛用しているものだが、畏友K氏からかってお贈りいただいたものである。
K氏の友人に当る方の作品なのだが、頂戴したあとお亡くなりになったことを知らされた。
毎日このカップを手にすると、いろいろな方々のことが思い出されるのである。

久兵衛の旧宅があった城山半田の裏手の河原には、萩の花が咲いていることだろう。明治十年久兵衛の辞世の句は妻を思う恋歌であった。 

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珍しい先祖附

2012-09-30 15:44:42 | 徒然

  一月ほど前から高見権右衛門殿のご子孫とご厚誼をいただいている。こちらは嫡家であるが、分家(新知)があるためその仔細を知りたいと先祖附をとる為に図書館に出かけた。三代目少五郎(権右衛門=本家では初代とする)の二男少五郎が、新知の家として高見武之家となっている。

此の先祖附を見て驚いてしまった。なんと44ページに及ぶものである。ほとんどのお宅の先祖附は明治三年で終わっているだが、武之家のものは明治廿三年までに及ぶ記述がなされている。此の時期まで細川家に仕えられており、その記述をして廃藩後の細川家の有様を知るうえで貴重な史料といえる。明治三年以降廿年間の記述が28ページに及ぶもので、拾い読みしたばかりでも中々おもしろい。十月の私の仕事が決まったようなものである。
出来うればご紹介しようと思っている。

 

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細川時代の小倉城

2012-09-30 09:44:07 | 地図散歩

                                              下の絵図と見比べていただくために、天地が逆さまになっています。

此の絵図は山口県文書館が所蔵する、毛利家の密偵が探索して作られたという慶長末期頃のものとされる「豊前小倉城図」である。
下に参考として表示する絵図は、小笠原氏時代の安政年間の小倉城下図である。比較してごらんいただきたい。
探索図は要点を良く捕らえているのには驚かされる。■印が天守であり、お城の周辺に重臣たちの居宅の位置関係が判る貴重な史料である。
)ないき殿(内記=忠利)、()長岡中務殿(孝之)、()屋ふ内匠(藪政一)、()長岡武蔵(有吉興道)、()加賀山隼人、()松井佐渡内子(長岡興長)などの名前が確認され、当時の細川家家中の勢力関係が伺えて興味深い。米田氏の屋敷が見当たらないのはどういうことであろうか?

 

                               

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絵図に熊本の変貌を見る・・(2) 明治6年~10年

2012-09-29 13:53:29 | 地図散歩

          赤水色で色分けした部分は明治10年の西南の役による、火災による焼失地域水没地を示してみました。
          水没に至ったのは井芹川下流を堰止め(図左下)した為ですが横手・新町・島崎・花園地域が被害を蒙っています。
          城内や花畑邸はすっかり軍(熊本鎮台)に接収されてしまっています。そして城下町のほとんどが戦火で焼失しました。
          細川家は北岡邸(妙解寺内)に居られましたが、姫様方は城下町に火が入れられる直前に立田邸(泰勝寺)に避難されました。 
                http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/3270/1/BR0093_73-109.pdf

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『信長記』と信長・秀吉の時代

2012-09-29 09:14:57 | 書籍・読書
     『信長記』と信長・秀吉の時代
     金子 拓
     勉誠出版

 

目次

序 金子拓

第一部 「首巻」の研究
   牛一の推敲について―「首巻」における伝本間の異同を中心に― 和田裕弘
   再考・桶狭間合戦―天理本・個人蔵本を中心に― 桐野作人
   コラム1 『信長記』研究の課題 和田裕弘

第二部 『信長記』編纂の研究
   『信長記』編纂の要件―越前の一向一揆を糸口として― 杉崎友美
   太田牛一著『信長記』の日付けについての考察―日付けに疑問のある項目の指摘― 谷口克広
   コラム2 名古屋市博物館所蔵『信長記』の紹介 金子拓

第三部 太田牛一自筆本の研究
   『大かうさまくんきのうち』の執筆目的と秀次事件 矢部健太郎
   太田牛一自筆『太田牛一旧記』について 金子拓
   コラム3 芝村藩織田家に伝わった未紹介の信長文書 和田裕弘
   コラム4 滝川一益の前半生 金子拓

第四部 信長権力と『信長記』
   織田信長の桐紋拝領と「信長公記」 堀新
   「鉄ノ船」の真相―海から見た信長政権― 黒嶋敏
   コラム5 信長と大砲 桐野作人

【付】史料紹介『別本御代々軍記』(太田牛一旧記) 金子拓

あとがき

執筆者略歴

 

編著者プロフィール

金子拓(かねこ・ひらく)
東京大学史料編纂所助教。専門は日本中世史。
主要著書に『中世武家政権と政治秩序』(吉川弘文館、1998年)、『織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ―』(勉誠出版、2009年)、『記憶の歴史学―史料に見る戦国―』(講談社、2011年)などがある。

書評情報

・「日本経済新聞(電子版)」(2012年7月5日)にて、本書の紹介文が掲載されました。
・「読売新聞」(2012年8月26日)にて、本書の書評が掲載されました。

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御恵贈御礼・・昭和十一年版「肥後人名辭書・全」

2012-09-29 08:49:39 | 地図散歩

                                        152×220×15 272頁 活版印刷・和綴じ本
                高見権右衛門殿のご子孫、伊東市在住のYT様から御恵贈給わった。初版の貴重な本である。心から御礼申し上げる。

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講談・沢村才八郎

2012-09-28 22:11:46 | 徒然

2012年9月28日(金)  21時30分~22時00分、NHK「日本の和芸」をみる。一龍斎貞山による講談「沢村才八郎」である。
このような演目があるとは全然知らずにいたのだが、話を聞いている内に後の家老沢村大学吉重のことと思い至った。
「 丹後の国、細川越中守の家臣で、牛飼いから取り立てられ、武士となった沢村才八郎の立身出世の物語」というのだが、話の筋はまさに講談だが細川大好き人間としてはともかく楽しませていただいた。

ごらんになれなかった皆様・・・・・・残念でした。

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第一回・日本城郭検定

2012-09-28 18:41:48 | 徒然

          第1回 日本城郭検定【日本100名城編】 2012年11月11日(日)開催決定! 
                              開催地:会津若松/東京/犬山/大阪/熊本

                                  http://www.kentei-uketsuke.com/shiro/

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恩讐を越えて

2012-09-28 17:41:14 | 史料

 私の手元に「釣耕園に育まれた思い出のむら」という冊子の抜粋コピーが有る。平成21年2月牧家の御当主TM様から頂戴したものである。
最近ご厚誼をいただいている高見権右衛門家のご子孫YT様から、一週間ほど前メールに添付されて同様のもの(抜粋)が送られてきた。
三代ほど遡るご親戚であることがわかる。三代遡ると田中閑谷様にいたる。詳しい系図があり、長女が高見家に嫁いでいる。長男は典儀である。二女は益田弥一右衛門に嫁いでいる。三女が牧相之室となり、四女が額田丈十郎に嫁した。藩政時代最後の当主たちの婚姻関係である。これに續家、山本家などの上級武士のお宅がからんでいる。これら一族が續家の拝領屋敷である「釣耕園」に、懐かしい思い出を共有されているのであろう。

                    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E8%80%95%E5%9C%92

                    http://flower-k.at.webry.info/200802/article_14.html

改めてこの冊子を読み、系図を眺めている内にある事に気づいた。
田中家と益田家が血縁関係にあるということである。いわゆる天草嶋原の乱に於ける一番鑓の益田弥一右衛門家と、幻の一番鑓といわれる田中左兵衛のご子孫の二家であり、恩讐を越えて血縁となられたということである。
田中左兵衛の一番鑓は誰もが認めるところであった。やや遅れて益田弥一右衛門が到着する。ところが幕府のお偉方からは左兵衛の活躍は見受けることが出来なかったらしく、弥一右衛門が一番鑓と認められたのである。左兵衛の心中穏やかならざる事であったろうが、忠利公は特に言葉をかけてその功績を認め恩賞を与えた。この事について両者が互いにその事実を認めあい、以降口端に上ることはなかったとされる。
恩讐という言葉も適当ではないかもしれない。しかしこのように血縁が結ばれたことは喜ばしい話では有る。 

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絵図に熊本の変貌を見る・・(1)

2012-09-28 08:20:48 | 地図散歩

  江戸末期(文久頃?)の絵図である。齊茲が一時期居を構えた本山御殿が図左下に見える。御門・構口で御府内は厳重に守られていたことが判る。
坪井川・井芹川は現在とは流路が全く異なっているし、熊本城地と京町台はまだ完全に繋がれている。これが開鑿されて広町から花園・島崎方面へ繋がるにはまだまだ時間を経なければならない。泰勝寺・妙解寺が熊本城から表鬼門・裏鬼門に位置することも良くわかる。本妙寺に至る長い直線道路が出来るのもまだまだ先のことである。 

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妙解寺塔頭・臨流院

2012-09-27 16:47:49 | 地図散歩

妙解寺塔頭の臨流院の貴重な写真である。左手は坪井川、右手が妙解寺である。

地図は妙解寺全図であるが、正門の左手、坪井川(左)と井芹川(祓川とも・右)にはさまれた場所にあるのが臨流院である。当時は大変風光明美な所であったらしいが、井芹川は流路が変更され現在ではその跡がかすかに排水路として名残を止めている。
臨流院に向かっている道が御成道、写真では右手下にやや低くあるのがそうであろう。その御成道の手前から写されている。
写真、地図ともに左手に御門が確認できる。貴重な写真である。 

                                

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俳句いきなり入門

2012-09-27 08:12:03 | 書籍・読書
     俳句いきなり入門 (NHK出版新書 383)
 
                    NHK出版

我が家の本棚を、相当数の俳句の本が占めていますが、こんなものを見るとついつい手が出てしまいますね~
その分上達するといいのですが、なかなかそうは行きません。

(実はオークションでも古い俳句関係の本を二冊入手しました。まだ届いていませんが楽しみです) 

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明智次左衛門か事

2012-09-26 21:43:33 | 史料

 明智次左衛門といえば忠興の愛娘・於万の生母、小也ゝの父親だということで承知している。また喜多流能楽師・狩野鵬家の系図によると次右衛門光忠なる人物が記されており、その室は明智光秀の二女律だとされる。小也ゝに妹・栄陽がおりこれが喜多家の二代目・窪田善助室であるとする。
この善助は忠興二男・興秋の守役を勤め、興秋の自害の三年後後を追い自害している。
明智系図は種々見受けられるがこれらを確認できる資料がないが、興味有る史料ではある。

さてここでご紹介するのは、宮村典太の膨大な筆写記録・雑撰録に記されているものである。「雨窓間語」からの書写である。
元々は「太閤奥方素性并に明智次左衛門事」とする一文であるが、「明智次左衛門事」をご紹介する。

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御恵贈御礼「肥後澁江傳来の文教」

2012-09-26 09:14:27 | 徒然

 A4判728ページにわたる大書である。著者・山口泰平氏の原稿が1ページ4枚、p3~710にわたる縮小複製本である。2800余枚の原稿が転写されていることになる。
ご恵贈たまわったT様には感謝申し上げる次第だが、さてこれを読了することが出来るかどうか、いささかたよりない。御礼とともにその旨を申し上げた。
菊池地方の文教に代々力を注がれた 澁江家の業績を称える書籍である。澁江家のみならず、山口泰平氏のご尽力にはただただ敬意を表するのみである。

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マツタケの食べすぎ・・・・・?

2012-09-26 08:30:50 | 徒然

 兄弟仲が悪かった忠興・興元であったが、元和五年興元がなくなると忠興は其の子供たちの婚姻などに大変気を使っている。
興元女については、老中井上正就の子息にと考えるが諸般の情勢から断念している。

その井上正就が子供の結婚問題で、殿中で刺殺されるという事件が起きた。(寛永5年8月10日)
          http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AD%A3%E5%B0%B1
井上正就の嫡男と大坂町奉行・嶋田直時女の結婚話が進捗、春日の局の反対で頓挫する。仲人役の旗本で目付の豊島信満がこれに腹を立て井上を刺殺したという事件である。このことに心痛めた嶋田直時が切腹するという事態に至り、諸資料はそう伝えている。

ところが忠利が聞いた話として 「マツタケを食べ過ぎて積り刀を突き立て」死亡した、という話がある。
直時の死は同年10月5日である。時はまさにシーズン切腹前にマツタケを食されたというところか・・・・忠利のまじめな語り口が面白い。 

小便が出ず下腹部に刀をつきたてたとか、奥方の喉の病気に旦那が鍼灸を施して失敗死亡させたとか、すごい話がいろいろあるが、マツタケを食べ過ぎて切腹というのはいささか眉唾ものではある。

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