津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

今日の熊本日日新聞「松井寄之の抵抗」

2006-06-28 14:44:52 | 歴史
 八代市立博物館から、又々ビッグニュース。「家督相続をめぐり細川家に対立-切腹覚悟藩主に抗議」というような凄い見出し、3mにも及ぶ遺言状が発見されたという。寄之の「備頭」就任を認めない藩主光尚に対して、死をも覚悟しての内容らしい。早い公開が待遠しいが、伯父甥の確執が明らかになって興味深い。
詳細は「くまにちコム」をどうぞ。(6/28・地域のニュース)

 新聞記事とは関係ないが、下って細川綱利と叔父長岡(南條)元知との、陽明学徒追放による元知永蟄居処分問題など、宗家と血縁との確執はいろいろある・・残念
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二つのブログから

2006-06-27 17:46:15 | 徒然
 ブログ「細川藩MUDA智蔵」は、小説「十八万石の壷-松井康之」が見落とせない。毎日訪問することになるのだが、TOPのコメントは読ッ放しに成っていたので、当方からもご紹介しようと思う。八代城北の丸に、三斎公茶室「旦座軒」を復元させようと、運動を開始された方が居られることを紹介されている。同じ熊本でも、熊本市と八代市では歴史に関する思い入れに、随分温度差があることを感じる。八代は松井氏を誇りとされると共に、初代領主ともいうべき忠興公に対する思い入れが熱い。羨ましい限りだし、思いが達成されるよう祈りたい。

 ブログ「小倉っ子日記」は、最近「小倉戦争」に言及されて面白い。小倉城下を歩き回られて、写真なども取り入れてのブログは目が離せない。私も「小倉戦争」後(?)、熊本に避難された幼い藩主や、沢山の避難民のことが知りたくていろいろ調べているが、国事資料などの読みときに、まだまだ時間を費やさなければならないようだ。
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53年前の大水害の日を想う

2006-06-27 01:12:41 | 徒然
昨日未明の雷と豪雨は兎に角凄かった。雷神様は1時間ほど、まったく動くことなく騒ぎつづけ、まさにバケツの水をぶちまけるような雨が数時間続いた。気がつくと6月26日、53年前は熊本大水害の日だ。辛かった思い出が頭をよぎる。命を拾った変わりに、全ての財産や思い出が流失してしまっていた。そのとき昭和28年小学校6年生、私がいろいろな事を考える時の基準点になっている。その後私は、高いところへ高いところへと転居している。いやな、いやな、いやな思い出・・・
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真実はどっち?

2006-06-23 21:10:56 | 歴史
 村井康彦氏に限らず、千利休の介錯をしたのは蒔田淡路守であるとされている。尼子三郎左衛門、安威攝津守と共にこの三名が、利休の死に立ち会うべく派遣された。表題のクエッションは異説が有るという事である。綿考輯録は「・・・依之忠興君より山本三郎右衛門正倶を介錯人に被仰付、神戸喜右衛門次義を葬礼奉行に被遣候・・・」とあり、利休の切腹の様子の凄まじさを、神戸喜左衛門の話として伝えている。さて真実はいかに?
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大激痛

2006-06-22 13:00:56 | 徒然
 夢うつつの中、そろそろ起きようかと思っていたら左足に大激痛、ふくらはぎがつって声も出ない。大激痛は1分ばかりのことだろうと思うが、その後しばらくは歩行も出来ない有様。いまだ張りが取れない感じで、違和感が残っている。最近は仕事と趣味で殆んどPCの前、運動不足は目に見えている。体重が増えて、腹囲が増えて、血圧があがって、これはまさにメタボリック症候群だなー。チャリンコには時折乗るのだが、やっぱり歩かにゃーいかん。「今日は雨模様だし、足もまだ痛いし・・・明日からにしよう」????
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米田助右衛門「日の丸」の指物

2006-06-21 00:36:28 | 歴史
 天正十一年(1583)一月末、秀吉は滝川一益を攻める。細川軍は亀山の城を攻めたという。その折の話。「唯今黄絹に日の丸の紋を付たる者群を抜てかせきたるハ誰なるそ」「見て参れ」との秀吉の仰せに、御小姓野々村伝右衛門なる人が確認に駆け出す。程なく帰ると「米田にて御座候、指物日の丸ニ而ハ無之、敵之鉄炮にて指物を破り御陳にてハ日の丸と見へ候か」と報告、「秀吉公甚御感被成候」て、助右衛門の働きに対し感状を賜り「向後指物に日の丸を用へき旨被仰出候」となった。25歳の頃の話である。
 この助右衛門、慶長五年(1600)岐阜攻の時、与一郎忠隆の下で奮戦中、左脇を鉄炮で撃たれ「御用に立可申と存候所ニ無念なる事に候」と言い残して戦死。42歳。この時の指物ははたして「日の丸」だったのだろうか。
 
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「御鷹の鶴」拝領、御礼の使者

2006-06-20 09:10:07 | 歴史
 元和三年(1613)十二月、忠興は「御鷹之鶴被為拝領候由忝儀候」とて、御礼の使者を出している。荒川与三、荒川治部少助晴宣の孫、荒川勝(少)兵衛の息である。「荒川与三ニ下申候、御奉行衆へも大炊殿(土居大炊)江も前一戸之城をもち候ものゝむすこ、我等親類之ものにて候由可被申候、大夫殿へも鶴被遣候由候、いかやうの使にて御礼可被申上も不存候、かるき使を進上仕候様おの/\被存候へハ如何候間、右之通可被申候事」と、幽齋室麝香の姉(荒川治部少輔晴宣室)の孫を使者としたことを説明している。処が一方「与三口上不調法ニ可在之間、田中半左衛門一人さしそへ、こうけんを仕候様ニ能々可被申付候事」と書いている。田中半左衛門も又忠興妹伊也(一色義有室・吉田兼治再嫁)女徳雲院の壻で、長束大蔵大輔正家の子である。かろき使者では礼を失するから、身内でも有る与三に使いさせるというのだが、口上が不調法では使者としては如何なものなのか・・・。そして、将軍家から拝領する「御鷹の鶴」とは、何とも不思議な代物ではある。
 ちなみに荒川与三の父勝兵衛は、徳川家康の岐阜攻めに際し、忠興の下で「城ニ付申衆」として戦功者の一人とされている。「菅野勝兵衛・・輝宗、後ニ荒川ニ改、武衛家也、義昭公の時六条合戦に鑓を合す、光寿院様(幽齋室麝香)の甥なり、父は荒川晴宣治部少輔晴宣」と綿考輯録は紹介している。又巻9-P50には御番頭・荒川勝兵衛とある。
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最近気になること

2006-06-18 16:18:40 | 徒然
最近気になること
  *新右翼・鈴木邦夫の言動
  *市長に直訴した事柄に関する、市役所の回答
  *ナノバブル水の今後
  *荒川治部少輔晴宣の子、菅野勝兵衛輝宗に関する「武衛家也」という
             綿考輯録の記述(巻14・P257)
  *わが愛犬ごえもん(17歳)の肥満
  *不愉快な我が左手のしびれ(握力はある)
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有吉四郎右衛門立行の「武蔵守」

2006-06-18 00:10:46 | 歴史
 有吉家は、松井・米田と共に代々家老を務める細川家の根本家臣である。初代立言(旧姓佐々木)は細川元常・藤孝に仕え、天文11年有吉と改め、丹後国安良城預かり。二代目四郎右衛門は立言の嫡子、丹後中山城代を務め五千石、慶長五年石垣原の戦いで戦功を挙げる。同年暮れ、豊前の国主として細川家は中津に入り、翌年七月「去年岐阜・関原・木付(石垣原)の役ニ手ニ合候者不残御饗応」なされ、立行は「武蔵守」となり長岡姓を賜る。その経緯、「有吉四郎右衛門を長岡武蔵守、後藤又兵衛なとが随分の者なれ共、紀伊谷にて猩々緋之羽織を抜たる事あり、有吉ハ数度之戦場に一度も不覚を不取、古の武蔵坊ニもおとるまじ、然れば武蔵になしても笑ふ者ハ有間敷と、列座之面々に御意被遊、扨御召縫延之御具足を被為拝領(以下略)」弐千五百石加増され、後七千石加増、都合一万五千石となり家老職となった。「武蔵守」が武蔵坊弁慶から来ているとは、ちょっと驚きである。
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大谷刑部左衛門成家と沢田次郎助

2006-06-17 17:03:22 | 歴史
 田辺城籠城衆について、「沢田次郎助内室の功績」を追加した。これは一色軍記から、該当項を抜粋したものである。(参考:宮津市歴史資料館2005年春季特別展・古代中世の宮津・展示解説図録中の「資料・一色軍記(竹野神社)」

 慶長五年幽齋が田辺城籠城に際して、細川忠興の弟・玄蕃興元の内室以下、侍の妻女・娘などを、機転良く田辺まで避難させたのが、沢村次郎助の妻女である。次郎助の日頃の善政を感謝していた村人が、自発的に二百ほど妻女の下に駆けつけ、その手の者により脱出がなされたと伝えられる。
 さて沢田次郎助若年の頃、一色氏家臣の大谷刑部が、吉原城落城後但馬に落ち延びようと馬を進めていたところを見咎め、太刀を合わせて功名している。刑部はかっては足利家臣で、「自分が帯たる大刀は数度の功名で義輝公から給わったものである。そのお墨付きは兜の内にあるから、首実検に出されよ」といって討たれたという。興元は、次郎助の働きに八千石(???)を与えるとともに、刑部の武勇を惜しんだという。
 この次郎助は岐阜攻め(慶長五年八月二十三日カ)に出陣、「白黒段々のしなひを指、馬上に鑓を持少し遅参しを、忠興君何とて遅かりつる、鑓をかたけよと被仰けれハ、誠に少をそなハり候、去なから人並にハ働申とて鑓を振かたけ、むとう丸の城戸の内に込入ハ、敵の大将津田藤三郎元房馬を乗廻し士卒を下知するを見、名乗かけて太刀打せしか、次郎助つと入て引組、互に馬より落しはらくもミ合候へとも、坂をしのき急き登りしに勢つきけるにや下になるけるに、組しかれなから尚一刀切りけれ共、ついに津田か為に討死をとくる」(綿考輯録・卷14-P247~248)

 さてこの大谷刑部左衛門成家、関ヶ原で奮戦自害した大谷刑部少輔吉継とはどういう関係だろうか。ぐぐって見たが出てこない。

(心配なのが、この一色軍記ちょっと信憑性に欠けるところが有る。例えば一色義有を細川が謀殺した時、義有の内室(忠興・興元の妹)が、興元がいる峯山城を尋ねたが追い返されて、失意のうちに自殺したというような話だ。細川方の話によると、細川家に帰ったこの方「伊也さま」は、忠興に懐刀で切りつけ、忠興は鼻の頭に傷を負ったという。後、吉田左兵衛督兼治に再嫁している)
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松井家公儀知行地

2006-06-16 13:02:47 | 歴史
 松井家は陪臣でありながら、公儀から知行を拝領している。始まりは秀吉代に遡るが、康之の母法寿に領地の証書が下されている。

  山城国八瀬村、十三石事令扶持訖、全可領知候也
            天正十三年十一月一日  朱印
    松井母 

 文禄の頃、秀吉は康之に石見半国をあたえ、直参にしたいと考えたようだが、康之は「身に取て難有き上意ニ御座候へとも、幽斎父子数年の恩遇他に異候故、是と列を同するの処難忍覚候」と恐れながらと断っている。秀吉は大変感心し「松井は常に茶道に志深きゆへ茶料にすへし」として、上記母宛ての八瀬村にあわせて神童子村を知行された。

  一、百六拾石壱斗七升  本地城州神童子
  一、拾三石壱斗弐升   母地同 八瀬村
      合百七拾三石弐斗九升
     右令扶助之訖、可全領地候也
      文禄二年十一月十一日  御朱印
       松井佐渡守とのへ

 このことは、徳川の時代になっても受け継がれている。
康之は、慶長十七年正月二十三日小倉において亡くなるが、遺言らしきものが沢山残されている。そのなかに、この知行地に関するものがある。

      就私相果申、乍恐言上之条々
  一、  (略す)
  一、御知行百七十石内 百六拾石ハ上山城之内、十三石ハ八瀬之内
    数年拝領忝奉存候、京都盛芳院ニ有之むすめニ遣之置申候、拙
    者相果申上ハ返上仕候事
  一、  (略す)
     已上
    慶長十六年十二月十五日       松井佐渡守
                         康之
         本多上野介殿  
              参

 亡くなる二十数日前のものであるが、この知行が康之から娘・いと(吉田盛方院浄珍法印・嫁)に与えられていた事が伺える。
この文面は遺物と共に駿府の家康の下に届けられた。
「家康公被聞召、康之ニ豊後の明地を被預置候ハ、慶長五年大乱の忠義御感賞、且ハ常々御懇故なれハ、此節勘定ニ不及とて不残興長ニ被下、城州二ヶ所之領地も無相違之旨被仰出候」とされ、以前のまま松井興長に引き継がれた。一方本多上野介は「惣別領地を娘に譲るといふ儀は無之事ニ候、物成ハ遣被申候共、領地ハ嫡子ニ拝領之事ニ候間得其意候へ」と使者に注意を与えている。興長は二通の答書を以って「御礼申上」ている。

 このことについて、興長が江戸へ答礼に行った事もないし、また御朱印状がくだされた事もないと綿考輯録は語っている。下って家光代・寛永十三年藩主忠利参府にあたり興長も同行し、この領地返上を忠利から上奏しているが、老中より「領地無相違」と達しあってこれより代々続いたわけである。「但宝永七寅家宣公御代寿之在勤の内、八瀬村御用地ニ被召上、其代りとして泉州泉郡尾井村之内を被下候也」と知行地の変更がなされて、明治維新にいたっている。

 
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織田と細川のえにし

2006-06-15 19:37:45 | 歴史
 細川家家臣に津田という家がある。織田の一族が良く使う姓だが、その内の一家・三十郎家は信長の弟信包(のぶかね)の流れを汲んでおり、細川とも血縁である。細川に仕えたのは津田三十郎、父は信包の長男、伊勢林藩主織田信重である。信重女が細川幽斎の妹(土御門久脩・簾中)の子二条泰重に嫁ついでいる。

 先祖附に面白いことが書かれている。信重は大変な子持ちだったらしく、子供の仕官口に苦労したらしい。正室は斯波氏である。細川家家臣津川氏は、織田信長と不和に成り官職停止となった、従四位下左兵衛督斯波義近の子辰珍を初代とするが、その妹が織田信重に嫁いだ。そんな津田三十郎だが、家禄は300石であった。伯父にあたる津川辰珍は、家禄1250石であったが、そのうちの700石をこの三十郎に分知している。これにより三十郎家は1000石となる。辰珍の養嗣子・辰房は跡目550石を相続、後に加増されて1400石となったが、不思議な話ではある。

 この三十郎のじい様織田信包は、丹波柏原(かいばら)藩36、000石の初代、伊勢安濃津からの移封である。三代目に継嗣なく断絶、柏原藩は一時期天領となった。
その後織田高長(長岡信友)から始まる、大和宇陀藩の織田信休(織田家4代)が減封されて転封、柏原藩主となった。父信武の乱心による騒動が原因である。信休の三男・信旧が6代目、細川宣紀女(利加)を正室とした。義兄細川宗孝の殿中での災難に当たって、この信旧が活躍している。下って11代目は養嗣子であるが、これは宇土細川家10代目の藩主・行芬の三男信敬(のぶのり)である。行芬の実兄は細川宗家を継いだ12代齋護である。

このように、織田と細川の関係は纏綿と続いている。
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織田高長(長岡信友)

2006-06-15 15:46:41 | 歴史
 織田信長の二男信雄の五男である。綿考輯録は長岡信友を、藪内匠の娘壻と紹介している。労を惜しまず紹介すると、慶長十六年(1611)項に次のようにある。
「今年長岡主膳信友御家を被立退候 信友ハ織田信雄の二男(ママ)也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城御預被被置候処、今度御立退、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従四位下ニ叙任、二万石被下候・・」
 藪内匠は藪伊賀守の子、中村一氏に仕え六千石を領していたが致仕、後豊前にて忠興に召し出されて一万二千石を領した。藪家系図は「女・長岡主膳信友嫁、織田出雲守再嫁」と記している。信友及び出雲守とあるが、同一人だろう。

 信友(高長)は天正18年(1590)生まれとあるから、豊前を放れたときは21歳である。父信雄から呼び戻されたのだろうか。兄信由がなくなった(寛永3年-1623)後、その子信昌の後見を信雄から命ぜられている。そして、寛永6年(1629)、父信雄の隠居領・大和宇陀松山31,200石を相続することになる。ウィキペディアによると、正室はいないとされるが、五男六女があり、二男が宇陀松山藩を相続、三男は寄合交代衆、四男は上野小幡藩主と枝葉は栄えている。さて藪内匠女、信友の嫁となり、出雲守に再嫁したというのは、どういう事情があってのことだろうか。どなたかご存知であればご教示いただきたい。

 ちなみに父信雄は一時期北畠(木造)具教の婿養子となり、義父を殺害して北畠家を乗っ取ったとされる。信長亡き後三法師の後見を務め織田に復姓したとされる。具教女との間の子が信由、信由の正室は下津棒庵女である。高長は信由とは異腹である。

 熊本における、このような事情はウィキペディアも御存知ない。
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「鳴け聞こう 我が領分の ほととぎす」

2006-06-15 10:55:33 | 熊本
 鳴かぬ時鳥になぞらえて、「殺してしまえ」という信長、「鳴かせてみよう」という秀吉、「鳴くまでまとう」という家康、それぞれの性格を良くとらえた有名な歌だが、加藤清正にこんな(上記)歌があるとは知らなかった。熊本における加藤清正の治世は、天正16年(1588)から、亡くなる慶長16年(1611)までの23年間だが、自らは戦乱の間只中に身をおきながらも、農業土木などで後世に伝えられる仕事を残し、現在も熊本では「せいしょこさん」と呼ばれ親しまれている。誰が作った歌かは知らないが、なるほどと思わせる。熊本城築城400年を来年迎えるにあたり、いろんなスケジュールも発表されている。「官」主導のこの催し、「鳴け聞こう」の気持ちで、より良いものにしていただきたいものだが、さて主役の清正公どう御覧になるのか・・・・
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直訴でござる-2

2006-06-14 08:55:29 | 徒然
 今日の新聞は、来年二月熊本商工会議所が、熊本の歴史や文化の知識を問う「熊本観光文化検定」を実施することを報じている。いわゆる「熊本通」を育成し様というわけだ。結構じゃないか。惜しむらくは、今年実施されていれば熊本城築城400年を前にして、一つの盛り上がりに繋がったと思うのだが。読んでいるうちに、昨日のブログに書いた諸々の事が頭を駆け巡った。また直訴に及ぼうかと考えた。出題される問題についてだ。「あれも知っていて欲しい、これもそうだ」と考え始めたら、頭がぐじゃぐじゃになってきた。
お茶を一服、「余計なことだ」とつぶやいた。
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