津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■街角の風景ーかあかあカラスの勘三郎

2023-04-23 07:39:48 | 先祖附

 最近健軍自衛隊の森の中にねぐらを持つと思われるカラスの勘三郎達が朝から大騒ぎしている。
我が家から西部方面総監部の敷地は、至近距離で400mほどの距離だから、一斉に飛び立つと我が家の周辺の空には数十羽の勘三郎が飛び交っている。
面白いのは皆が殆どと言っていいように一方方向を向いていることだ。
ワイドにしてみた写真には屋根の上やアンテナに10羽ほど、飛翔中が2羽ほどだが、こんなものではない。
そしてうるさい事半端ない。これが昼頃になるといなくなり、翌朝はまた騒ぎ立てるという繰り返しが三日ほど続いた。「何事ニ哉あらむ」である。

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■一日二食の歴史

2023-04-23 06:46:07 | 徒然

 知行を頂戴しないお侍は、いわゆる給料として御扶持米を頂戴する。一日五合×360日=1石8斗/年、俵に直して米5俵を支給することをいう。これは生活費である。
五人扶持だと9石4斗(俵25俵)という事になる。

江戸期は「朝御饌・夕御饌」という言葉が示すように、食事は朝夕二食であった。江戸で明暦の大火が有り、その復旧に大工その他の職人たちが大いに働き、二食では腹が持たぬようになり昼食が広まったとされる。
しかしながら、お侍の扶持米は一日五合は替りなしである。

 西洋でも三食になったのは、余り時期が変わらないというが日本とは違い朝食がなく昼と夜の二食だったという。
もっとも、日本に於いては三食が一勢に始まったわけではないらしく、どうしても労働が激しい大工だとか、侍でも役付きの或る程度裕福な階層から始まったらしい。

役付きではない御番方の侍や、その下層階級、また夜なべ仕事までこなす百姓なども三食になるのにはずいぶん時間を要した事だろう。

 御番方のお侍も、役付きになれば役職手当が付くから、御役次第では突然裕福になった気分となり、その御仁が役を罷免されると元の木阿弥で、又やりくりに四苦八苦することになる。
ある方から、そのお宅の実話としてお聞きしたことがあるが、役を罷免された後は、時折昼食を抜いたなどと云う話が言い伝えで残されていたそうだ。

 熊本に於いても長く、役人の務めは四時間勤務であったが、重賢公の宝暦の改革により、時の鐘の鳴らし方を変えて早起きを促し、終業の鐘をずらして八時間勤務にしたという話が残る。

時之鐘付候儀、殿様御工夫ニ而、七ッおつかせ被成候 朝之鐘を段々夜之内へくり 昼之四つを五つニつかせ被成候 八ッをのべ而七ッにおつかせ被成候 是ハ四ッゟ八ッ迄之勤方 二日之役を一日ニ相仕廻候様之御工夫と申候 夫故肥後国は諸奉公人百姓によらす 朝厳敷晩を詰申由」(熊本御城下の町人)

こうなると御役人は手弁当のお昼をもってお役所へ出勤という事になる。役方と言っても頭の役宅での執務であったのが奉行所が出来るに及んでは、厳しい勤務体制が順次完成していった。

 さて先の方のお話しによると、御番方は決められた日に御城へ出かけ「当分」の仕事を務めれば良く、時間を持て余すことになる。
しかし、役付きの人に比べると同じ家禄でも「役付き手当」がない分、やりくりは厳しく手内職をしたり、屋敷内に畑を作り畑仕事をすることになる。
また在に籠って開き地を開発したりすることになる。そんなご先祖様の苦労話をお聞きした。

「私も今は一日二食です。家内が食わしてくれません」と仰ったが、「実は糖尿病持ちで、肥満解消の為で・・・」という落ちが付いていた。



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