津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■スポーツTV観戦

2017-04-30 16:56:46 | 徒然

 世の中はGWだというのに、奥方は所用で出かけるし私は一人留守番。
昼過ぎからお目当ての競馬「天皇賞」とゴルフ「中日クラウンズ」をTV観戦。
キタサンブラックの優勝に感激した後、つづいて宮里勇作の心臓に悪いようなバーディーパットに息をのんでしまった。
北島三郎氏、武豊氏、宮里勇作氏今晩の祝杯はさぞやおいしいことだろう。関係ないけど私もお相伴と参りましょう。
いや感激・・・・・

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■秋月史考

2017-04-30 16:12:53 | オークション

                           秋月史考 田代政栄 昭和52年第ニ版 附図6枚付き

 豊臣秀吉の九州侵攻により、日向高鍋の地に移封を余儀なくされた秋月氏の、筑前秋月(福岡県朝倉市秋月)時代の史料である。
            妻の母親の実家が秋月氏なのだが、どこにどのようにつながっているのか、少々調べてみたいと思いながらなかなか時間もない。

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■図書館行き、そして江津湖散歩

2017-04-29 21:39:51 | 徒然

 昨日に続いて図書館行き、「九州御動座記」を読みたいと思い、これが掲載されている清水紘一氏著の「織豊政権とキリシタン」を借りる。郷土資料コーナーで史料を少々拝見、その後くまもと文学歴史館にまわって地震に関する展示その他を見て退館する。
天気が良くて汗ばむほどだが、図書館裏手の川沿いの道に降りて江津湖畔を散策する。
半袖や裸の子供たちが水に入って遊びまわっている。きれいな水は相変わらずだが少々水量が少ないのが気になった。
地震でひび割れした中の島やこれにかかる橋などの修復工事が盛んに行われている。
市民の憩いの場の復活ももうすぐのようだ。

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■オークションは疲れる

2017-04-29 10:19:08 | 徒然

 競争相手があることでこれ見よがしに写真をUPすることは控えるが、最近ヤフオクで「藩譜採要」六冊を落札した。
年金生活の爺としてはまさに清水の舞台から飛び降りるつもりで応札、まだ手元には届いていないものの心わくわくしている。

ヤフオクの落札記録は120日間記録が残る。私の場合1月2日から41件に及んだ。
本が主であったが、「米田家文書」(私が勝手に命名)が登場してからがぜん古文書に目が行くようになりこのような数字になった。
こちらはまだ湧き出るように出品があり、毎日確認するのも大変だし、ましてや応札しようとすると締め切り時間が毎晩11時~12時とおそく、大いに疲れてしまう。

「永源師檀紀年録」を落とした時はうれしかったが、その後同じ出品者からまた出品されているようだ。
このように欲しい本をヤフオクで手に入れることはまずなくて、こちらは見かけたものを落としている。
どうしても欲しいものは、Amazonや日本の古本屋で入手しているが、それでもなかなか手に入らない本もある。

  ・「武功夜話」検証(九州編)-秀吉の島津征討とその資料集ー      Amazonで現在二点9,800円 高すぎる
  ・伊丹家資料展「ある黒田藩士の記録」  福岡市民図書館編(伊丹氏に関わるもの)

なんとか手元に置きたいこの二冊、根気よく検索をしていつの日か成就させたいと思っている。



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■九州御動座記を読みたい

2017-04-28 22:26:28 | 歴史

 ちょうどこの時期は、九州平定のために出陣した秀吉に追い詰められた島津氏の敗色が決定づけられる時期である。
天正15年秀吉は肥後路を進み、弟・秀長は豊後路に入り4月17日に日向の根城坂で島津氏を撃破した。
秀吉はというと4月27日にはすでに熊本を通過し、海路出水(鹿児島県出水市)に入っている。翌28日には平佐城の戦いで島津軍が敗退、実質的な両軍衝突の戦いは終わりを遂げた。5月3日秀吉は川内の泰平寺に入り、島津義久は6日に剃髪し8日に秀吉のもとに赴き降伏した。

前の年、天正14年4月5日豊後の大友宗麟は島津氏の圧迫を回避するため、羽柴秀吉に助けを求めた。
「大友家文書録」には6日付けの宗麟が国許に宛てた書状が紹介されている。あの有名な利休の権勢ぶりを目にした「内々之儀者宗易、公儀之事者宰相(秀長)存候」が知られる文書だが、秀吉の過分な供応ぶりを詳細に伝えている。秀長はじめ、羽柴秀家、細川兵部入道(幽齋)、長谷川某、宇喜多忠家、家居(?)の方に宗麟、前田利家、安国寺恵瓊、宮内卿法印、利休居士などが居並んだという。
秀吉は大友宗麟の意を受けて九州平定に乗り出すこととなる。

実は今日、秀吉の九州における動向を詳しく知りたいと思い、「九州御動座記」を読みたいと思い熊本県立図書館に出かけた。処がなんと今日は休館日、もうがっかりして力なく帰宅に及んだ。又明日出かけようか?思案のしどころである。

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■明治銅版画 熊本商家繁昌図録 覆刻版 青潮社 昭59

2017-04-28 07:05:25 | オークション

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■松寿庵先生・第234講

2017-04-27 11:51:25 | 史料
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■25日兵部大輔吉利卒す

2017-04-26 11:09:13 | 人物

 4月25日綱利の継嗣・兵部大輔吉利が亡くなった。

      千次郎、利章、内記、兵部大輔、従四位下、侍従
      元禄二年己巳二月十九日江戸ニ生ル、同十五年壬午九月十五日初テ将軍(綱吉)ニ謁ス、
      同十六年癸未三月十三日水戸宰相養女ヲ内記ニ配偶ノコト定マリ、同六月九日結納ヲオクラル、
      同年十一月廿二日内記登城将軍ニ謁シ、名一字ヲ賜イ従四位下侍従ニ叙任、兵部大輔吉利ト称ス
      宝永三年丙戌四月二十五日江戸ニテ卒ス、年十八、
      奏者番田村因幡守弔問ス、法号圓明院惠海宗達、妙解院ニ葬ル
      母、仁田氏女・熊 元禄十五年壬午六月廿三日江戸ニ卒ス、法号安住院日永妙静 池上本門寺ニ葬ル

父・綱利の悲しみは如何ばかりであったろうかと察せられる。
綱利は「夜食越中」などと揶揄されながらも時の権力者・綱吉の側用人・柳沢吉保に接近、吉保の三男を養子に迎えようとしている。
しかしながら幕閣の反対により子の養子話はとん挫した。このために吉保の家老の薮田氏の子息を細川藩に召し抱えるなどしている。
弟・細川利重の二男・利武を養嗣子としたのは宝永五年正月のことである。
正徳二年綱利は隠居、「鸚鵡籠中記」では家中で「押籠め」の噂があったとも伝えるが、「肥後先哲遺蹟」では家老の木村半平が隠居を薦め、三日ほど詰間に詰めたと記している(木村秋山項)。
 

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■苦蒼蠅、責蚤蚊

2017-04-25 09:54:54 | 史料

 史談会の友人N君に頼まれて落札した文書がなかなか面白い。河口勝太なる人物が佐田道之助という人に宛てた書状だが、内容が中々ユニークである。
その中の一節‥・・・・

       残暑未退キ不申其上私邊鄙巷ニ而昼苦蒼蠅
       夜責蚤蚊誠ニ夏秋苦シキ事ニ而御座候
       然ニ貴殿従舟又茶屋ニ行名所舊跡等も
       御見物誠ニ以御羨敷御事ニ而御座候
       私どもハ井之中の小魚ニ而御座候間一入羨敷御座候 

二人の名前が細川家侍帳には見えないことから、どうやら米田家に仕える陪臣であろうと思われる。
それゆえか、文面もざっくばらんなところがあり、読んでいて思わず笑ってしまった。
大意は
       未だ残暑が厳しい中私が住むあたりは田舎にて昼はあお蠅に苦しみ
       夜は蚤や蚊に苦しめられ夏も秋も苦しい事です
       貴方は舟にて茶屋や名所旧跡を見物されるなどうらやましい限りです。
       私どもは「井の中の小魚」ですからひとしお羨ましく存じます。

公式文書は形式ばった挨拶などで面白くもなんともないが、今後もこんな文書に出会いたいものだと感じたことであった。 

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■職五朗様江祝儀

2017-04-24 09:28:09 | オークション

                                                  職五朗様江御祝儀・あと読めず、38cmx15.6cm

 最近連戦連敗のヤフオク、運よく21日に落札したのが「職五朗様江祝儀・あと読めず‥」という文書。
以下に度支彙函から職五郎に関わる記述を抜粋してみたが、上記文書の「祝儀」とは如何なるものか、文書の到着が待たれる。


■職五郎(ヨリゴロウ、茲詮)齊茲三男、寛政八年九月晦日に江戸で生まれた。文政元年四月十九日没、23歳。生母は山科氏女・正操院

   (享和二年并文化元年、細川和泉守立之仮養子となる)

   一、(文化二年)職五郎様四月六日江府被成御發途候段申來候、此許御着之上所々御出之節、士席以上於途中御行列ニ参り懸り
      候節ハ、左ニ片付鑓ヲ伏せ被扣居御時宜可被仕候
   一、軽輩・陪臣下々共避候ニ不及、参り懸りニ平伏仕罷在候儀不苦候
   一、門前御通り之節、形儀手桶等指出候ニ不及候
     右之通被相心得、組々えも可被達候、以上
        五月八日                     奉行所

   一、(文化六年)來ル九日職五郎様三丁目御屋敷え御移徏之筈候、右御門前御塀内は御屋敷内同前之場形ニ付、下馬可仕候、
     尤家来末々迄堅可被申付候、此段觸之面々へも可被達候、以上
        二月朔日                     奉行所

   一、(文化九年)職五郎様、當春被成御出府筈ニて、此段御用番松平伊豆守え御届之御書付、舊臘十一日被遊御差出候處、無御
      滞被成御受取候段申來奉恐悦候、依之來月三日御發途之筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨、御用番被申聞候條、
      已下同断
        文化九申正月廿一日                御奉行中

   一、職五郎様(文政元年)先月二日夕より少御腹痛御熱候も被成御座、同八日より御両足御■(馬ニ夫)上御浮氣被為見、其後御
     食事も御乏敷御出来不出来ニ被為在候處、次第ニ御容躰被差重御療養務御叶、同十九日巳刻御死去之段御到来有之恐入
     候、依之御國中諸事穏便ニ相心得、繕作事は明後日迄被相止候、此段觸支配方えも可被相觸候、以上
        文政元寅五月朔日                 奉行所 

 

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■冥途の土産

2017-04-23 10:18:23 | 熊本

 10時過ぎ奥方がそそくさと外出した。
11時すぎに熊本城上空に飛来する、ブルーインパルスを見るためである。
じつは予行演習のため昨日も飛来した。すごい爆音で旋回飛行する姿が我が家からも見えた。
それでも、「もう熊本で見ることはできない。冥途の土産よ」とのたまう。
もう笑いながら「行ってらっしゃい」というほかない。
奥方は17・8年前、娘がカナダに留学中交通事故にあい急きょカナダに向かった。
幸い大事には至らず、日本から同行してくれた娘の友人らと、一両日観光もして帰国した。
その折、ステルス戦闘機を身近に見たらしく、いまでも時折ニュースなどでその姿を見ると興奮してしゃべり出すほどだ。
「すごいから‥」「かっこいいから‥」が口癖で、ブルーインパルスもその類であろう。
「冥途の土産」には別に何かありそうなものだと思うのだが、よく判らん。
私はベランダから眺めることにしょう。 

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■細川宣紀公の甲冑、所在判明 地震機に調査

2017-04-23 09:01:38 | 新聞

 わが熊本史談会の会員大矢野氏からすでにお聞きしていた話だが、今般所蔵される甲冑の素性来歴が判明し公表された。

           画像 大矢野家に残された甲冑。永青文庫に残る預かり証と一致した

 熊本市西区の自営業大矢野種康さん(69)所有の甲冑[かっちゅう]が、専門家の調査で、江戸時代の4代熊本藩主・細川宣紀[のぶのり](1676~1732)のものであることが分かった。決め手は、熊本大付属図書館に寄託されている永青文庫(東京)の古文書。熊本地震をきっかけに、史料の記述と甲冑の所在が一致した。

 細川家は1871(明治4)年の廃藩置県後、多数の武器武具を家臣に寄託した。細川家ゆかりの古文書類を保管する永青文庫には、預かった家臣らの證書[しょうしょ](預かり証)約200通が残され、熊本大の図書館に寄託されている。

 大矢野さん宅の甲冑には「宣紀公」「一番」と書かれた木札2枚が付いていた。同大永青文庫研究センターの稲葉継陽センター長が史料を検索したところ、「宣紀公一番」の具足(甲冑)を預かったとする「熊本縣[けん]士族 大矢野次郎八」の證書があり、木札と一致した。永青文庫の證書の内容が実際に裏付けられたのは初めてという。種康さんによると、大矢野家は「小[こ]姓[しょう]」として藩主の身の回りの世話をしていた。

 大矢野さんの自宅は熊本地震で半壊。改築に備えて今年3月、熊本被災史料レスキューネットワーク(代表・稲葉センター長)に甲冑の一時預かりを依頼し、調査のきっかけとなった。甲冑は県内の保管庫に移された。

 大矢野さんは「細川家から頂いたと聞いていたが、こんなに貴重なものだとは思わなかった。素性が分かってうれしい」。稲葉センター長は「レスキューを通じ、所有者に由緒来歴を知ってもらえた。蓄積した調査研究の成果が生かせた」と話している。(飛松佐和子)

 
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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(八・了)

2017-04-22 13:18:02 | 史料

 以下第三項として、大名の文化生活を支えた京都・長崎など都市の役割について考えてみる予定であったが、既に与えられた枚数を超えているので、ごく簡単に触れておくに止める。寛永期の細川家史料のうち、京都・大阪・長崎などにちゅうざいさせてある役人宛の書簡の控などをみると、それらの都市が大名にとってどのような役割を持っていたかが具体的に理解できる。たとえば京都の場合、その地に駐在する役人の仕事は、一つには借銀の交渉、もう一つはさまざまな物品の購入であった。注文されている品物で最も大量のものは、小袖・帷子の類であり、さらにこの類の衣料・布地類として白羽二重・唐木綿・綾錦・足袋などがある。衣類は三齋・忠利等の着用や奥向女房衆の振袖もあるが、量的に多いのは諸方との贈答用であった。ほかに美農紙・鳥子紙等の紙類、紫革・菖蒲革・柄用の鮫革など皮革類、さまざまの用途の箱、これは蒔絵梨子地などの高級塗物も含まれる。また金・銀の箔や絵具絵筆類の注文が多いのは、御抱えの絵師や経師に材料を支給して国許や江戸で仕事をさせているものと思われる。このような注文の状態を見ると、江戸や国許に住居しながらも、大名の文化生活は、その調度類においては京都の生活に依存するところが大きかったように思われる。

 同じ注文でも長崎は様相を異にする。その品物は、さまざまの砂糖、生糸類、らしゃ等の毛織物、唐木綿などの錦織物が多い。これらはもちろん南蛮渡り、唐渡りの品で前述した南蛮趣味を充足させる源泉であった。
 大阪についてみると、この時期には蔵屋敷関係の記事と、江戸・大阪に品物を送る舟使の手配記事が多く、京都・長崎のような買物の注文はほとんどみられないのが目立っている。
 このようね状態は、細川家だけではなく、徳川将軍家においても、また他の諸大名にも共通したものであったと思われる。

                             (了) 

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■ちょっと古い記事ですが

2017-04-21 11:42:45 | 熊本地震

熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」

細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供
細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供写真を見る
<iframe src="https://tap-secure.rubiconproject.com/partner/scripts/rubicon/emily.html?pc=13136/84840&geo=au&co=jp" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="NO" width="0" height="0"></iframe>

 細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。

 昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センターが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。

 同センターが江戸初期の資料約1万点を読み込むと、忠利の手紙に地震に関する記述が多いことが分かった。1633年5月、忠利が江戸にいる家臣に宛てた手紙に「本丸は逃げ場となる庭もなく、高い石垣や櫓(やぐら)、天守閣に囲まれて危なくていられない」という趣旨の記述を確認。他藩の大名に「たびたび地震で揺れるので本丸にはいられず、城下の広い花畑屋敷に住んでいる」と書き送っていたことも分かった。細川家の関係古文書によると、1633年3月~5月にたびたび地震が発生したとされる。稲葉センター長は「忠利が地震を強く警戒していることがうかがえる」と指摘する。江戸初期は災害が多く、被害を受けた熊本城の修復に追われていた記録もあった。

 同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で、熊本地震の前震1年を迎える14日から展覧会を同美術館で開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開する。

=2017/04/11付 西日本新聞朝刊=

震災と復興のメモリー展ポスター
細川コレクション展 細川コレクション展示室
4月14日(金)~5月21日(日)
歴史にみる地震の爪あとと、復興を目指す人々のあゆみ
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■松寿庵先生・第233講

2017-04-21 09:07:36 | 史料

         肥後・熊本画壇の分かれ道

                      http://www.shimada-museum.net/event.html

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