津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

近頃・・・

2012-07-31 18:05:54 | 徒然

・ここ三四日で、「日本の古本屋」や「ヤフー・オークション」から、都合七冊ばかりの古本を購入した。
 問題はこれらの品物が着いた時の事である。奥方のご機嫌が悪くなるのが目に見えている。彼女がいないときに配達してくれると嬉しいのだが・・・・

・愛用のメガネを車の運転席で尻に敷きこわしてしまった。いまひとつのメガネで特段不自由はないのだが、失いでもしたら困ると思い新調した。
 視力は0,7といったところだが、右目の乱視がひどくなっているらしい。よく見えすぎてかえって目が疲れる。ケースに入ったままでしばらく出番はなさそう。

・4キロ散歩は毎日のすごい暑さで早朝がお決まりと成りつつある。6時前におきて約45分、早足で坂道を上り下りする。
 ここ一週間ほどは休むこともなく歩いて、ふくらはぎがパンパンに成ってきている。あと半月もすれば体重にも変化があるのではないかと思っている。

・毎日のあまりの暑さにクーラーが動きっぱなしである。節電/\といっているみぎり、我が家はかえってUPしているのではないかと心配している。
  家の中でも熱中症になるというから、お目こぼしいただけないものだろうか。まだ死にたくない。

・出かけるときの為に扇子を準備したが、あまりの暑さに出かける気にならないから扇子も使いようがないでいる。
 4キロ散歩のときにもって出ようかしら・・・・

・台風10号の進路が気にかかっている。九州西岸を抜けるようなコースで、なんだか被害が出そうな予感がする。
 平成3年(1991)、平成11(1999)、平成14年(2004)と、熊本は大きな被害に見舞われた。何事もないことを願うのみ・・・・・ 

  

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御書出頂戴 (三)

2012-07-31 09:24:24 | 史料

宗孝の二度目の「御書出頂戴」は享保二十年三月六日・七日の両日にわたり執り行われた。

■六日
  於中柱之間 朝五つ時集合 藩主臨席 左・家老有吉大蔵・用人額田和多理、右・家老小笠原備前・用人長谷川久兵衛
  御書出は左右二列に分け、十枚載りの塗台に積み御小姓が持ち出し御右筆頭の脇に置く。頂戴人次第の通り家老衆から頂戴。

  御郡奉行、御小姓組、右筆二人、御番方、御留守居組、八代御城付、佐敷御番、鶴崎詰(御侍中全てを終わる)
             (八代御城付、佐敷御番、鶴崎詰の面々は半数が出府頂戴、残りは名代が頂戴)

■七日 九時より両御寺以下寺社の御寄付状頂戴
  総庄屋筆頭の三人(田浦助兵衛・水俣市朗右衛門・北里善右衛門) 折り紙、御書判による御書出頂戴 

  

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宵待ち草

2012-07-30 08:41:56 | 徒然

                                 朝だというのに宵待ち草がしぼむことなく、きれいに咲いていました。

                                        月見草まだしぼまずよ朝散歩  秋桜子

                                 宵待ち草=月見草ではありませんが、白い花が月見草だそうです。

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御書出頂戴 (ニ)

2012-07-30 08:25:56 | 史料

 松本寿三郎先生の御著「近世の領主支配と村落」の第二部の第一章に、近世細川に家における「御書出」の交付 がある。
この中の 三 御書出交付の要領 は、規式化された御花畑邸に於ける式の進行の様子が紹介されており、大変興味深い。
これは享保十九年十一月二十八日、宗孝公御代始めの御書出頂戴を例としている。朝五時集合とあるから午前八時である。

 ・御一門、御家老   於・鹿之間 取次・御用人
     長岡内膳 長岡図書 清水靭負 長岡帯刀 長岡丹波 有吉大蔵 松井求馬 小笠原備前 沢村衛士 長岡冬山 有吉大膳

 ・御備頭、御城代   於・鹿之間 一台に載せ置き家老衆の前置したものを一通づつ渡される。御右筆立ち合い。

 ・御着座~御鉄炮三十挺頭。   於・中柱之間 藩主上座、左右に御家老・用人。 御書出は十枚載り塗台に積み、御小姓が持ち出し御右筆頭の脇に置く。
  左右二列になり、次第に従い頂戴。御右筆頭両人が加わる。

                     (中入り休憩)

 ・鉄炮廿挺頭~御者頭列まで   於・中柱之間 左右二列、右筆頭も頂戴するゆえ、請込みの右筆(三苫惣左衛門・中島作太夫)が勤め

 ・御家老脇・御用人・着座   於・鹿之間 御家老脇分二通は三方に一緒に載せ、有吉大蔵の傍らに御小姓役が持ち出す。請込みの御用人・御右筆頭は不参。

 ・部屋方、御次方、御者頭列より御小姓役、御医者、新組御知行取まで   於・鹿之間 有吉大蔵、請込みの用人額田和多理は歌仙之間敷居際に着座。
  各々のグループごとに台に載せ、用人が家老の前に直し名前披露、次第の通り家老が渡す。名前の披露は用人が代わる代わる勤める。

 ・尚ご一門 清水靭負(綱利女婿・勝貞)は所要で遅参したので、しばらく間をおいた後一人頂戴する。

 

これ以外の人については、享保二十年三月六日・七日の両日御花畑邸で行われた。(三)としてご紹介する。 

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滴水(てきすい)瓦

2012-07-29 15:01:17 | 徒然

平成肥後国誌に掲載されている、熊本市の正福寺所蔵の完全形の滴水瓦(高麗瓦とも)である。
古いものは加藤清正や小西行長が朝鮮から持ち帰ったものだとされ、倒壊埋没した八代の麦島城跡から発掘されている。
                http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=16739 

また宇土城に於いては、慶長13年銘滴水瓦(指定文化財宇土市指定考古資料)が残されている。
正福寺のものは文政十三年三月吉日の銘があるが、時代はずいぶん下っている。しかし熊本城においても一・二天守のみにしか使われていない瓦であり補修目的で作られたものであろう。それにしても完全形の貴重なものである。
最近あるところで年号が確認できるこの滴水瓦の断片が見つかったという話を聞いた。どうやらこの写真のものと同じものではないのか。
正式発表に至っていないので詳細は差し控える。
この瓦が使われているのは全国的にもそう多くない。なかなか見る機会も少ないものであり、建築屋としても興味がつきないでいる。 

  

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御書出頂戴 (一)

2012-07-29 08:51:38 | 史料

                                         
   
 

この写真は田邊籠城衆の寺井道運・吉右衛門父子のご子孫のお宅の写真である。
床柱の上部()に御書出が収められた箱がある。現代においてこのような状況を見ることは殆どなく貴重であるが、かってはどちらのお宅でも見られた光景であったのだろう。大事に扱われ火事や地震・水害など出来の時には一番に持ち出せるようにしていた。

熊本に於いての「御書出」とは、一般的にいう「知行宛行状」のことである。綱利代までは召出や加増等の度に「御書出」が出されていたらしいが、宣紀の代からは藩主の代替わりやその他の時期に一二度になってくる。例えば加増があったり、擬作に格下げになったりしても「御書出」は頂戴できないという現実があった。そしてそれは「御書出頂戴式」として規式として固定化されていく。二日ほどの日程で、千名内外の藩士が「御花畑」に出頭して頂戴することとなる。 

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江戸古地図散歩 回想の下町・山手懐旧

2012-07-28 13:11:53 | 書籍・読書

 

         新版 江戸東京古地図散歩 (コロナ・ブックス)
            池波正太郎
             平凡社



  • 江戸古地図散歩 回想の下町 正続 1975 (平凡社カラー新書)
  • 江戸切絵図散歩 新潮社 1989.3 のち文庫
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ペーテル君のお墓参り

2012-07-28 11:52:38 | 徒然

                2012-07-23 16.13.36.jpg  上田久兵衛のお墓である。

この写真の撮影者は、久兵衛の五代の孫ペーテル・上田君である。日本国籍も持つペーテル君だが、現在フロアーボールの世界大会で日本代表としてプレイするため、トレーニングのために在日中で、その合間をぬって熊本までお墓参りに訪れたという次第である
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%

スウェーデン在住のお母さんを通じて頂戴した写真だが、お母さんはご存知でなかったらしく「よくぞ熊本までお墓参りに・・・」と感激も一入らしい。
禅定寺の計画道路問題で、改葬もやむなしかと心配したこのお墓も、著名な加藤・細川時代の侍のお墓が集まった文化遺産として評価され、計画道路位置変更という知事の大英断でどうやらこのままの状態で済みそうである。上田久兵衛顕彰碑の前で、久兵衛の没後150年祭をひそかに企てているのだが・・・・あと15年待たなければ成らない。その時期ペーテル君は42歳だそうである。 

            オリンピック女子サッカー
                   日本vsスウェーデン  0-0    21:53記 

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開会式の早朝

2012-07-28 09:10:03 | 徒然

 朝6時前起床、オリンピックを見ようと思ったわけではない。デジカメ片手に4キロ散歩に出る。いつもはキョロキョロせずにただひたすら45分ほどを歩くのだが、今日はご近所の庭先の木々や、道端の草花などを足を止めながら観賞し、デジカメ撮影をしながらの散歩である。国道57号線東バイパスを横断する陸橋の上から、坂道の状態を撮影しようと試みたり、路上観察学会よろしくマンホールの蓋を撮影したりする。今日は逆周りに歩いたので、思いがけなく道路わきのがけ地で自生の「藤の花」がかわいく花を咲かせているのを発見驚いてしまった。1時間15分の散歩と相成りました。(日本の入場行進には間に合わず)

 

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二代目熊本市役所庁舎

2012-07-27 19:11:48 | 古写真

434【熊本】建物・熊本市役所_画像1

  • 大正12年(1923)12月15日に落成した 二代目 熊本市役所庁舎
     
  • 昭和56年(1981)11月4日 現在の庁舎落成
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細川家伝来 蒔絵入双六盤

2012-07-26 11:07:04 | オークション

古美術慶應◆肥後熊本藩主細川家伝来 蒔絵入双六盤 婚礼道具 古美術慶應◆肥後熊本藩主細川家伝来 蒔絵入双六盤 婚礼道具

こんなものが出ました。本物保障と書かれていますが、すばらしいものですね~。
最後はいくらになるのか見ものですね。 

 

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お安く読む 「ジパング島発見記」

2012-07-25 18:34:54 | 書籍・読書

 

         

         ジパング島発見記 (集英社文庫)

 
               集英社


「火天の城」や「利休にたずねよ」等の作者・山本兼氏の編著(?)である。
単行本もあるようだが、「お安く読むべえ」と文庫本を注文する。 

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恒例の4キロ散歩

2012-07-25 15:29:48 | 徒然

 今般の未曾有の大雨は、阿蘇市で多くの犠牲者を出し、熊本市では白川沿いの低地で多くの住宅が全半壊するなど、昭和28年の水害を思い出させることと成りました。被害地の皆様には後始末でご苦労の中、一昨日熊本も梅雨明けと相なりました。
朝からの蝉時雨は、本当の夏がやってきたことを感じさせます。今日はピーカンとはいえぬ空模様に、昼食後4キロ散歩に出かけました。厳密には3,85キロといったところですが、高低差が25メートル程ありますから上ったり下ったりで結構応えます。歩き出してしばらくすると、陽が射しはじめました。都合45分ほどの行程ですが汗びっしょりです。シャワーをかぶっても、30分ほどは汗が滴ります。毎日とは参りませんが、いまだダイエット効果には至りません。
膝の痛みが出ないことを念じながら、70爺のチャレンジです。 

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やっかいな叔父

2012-07-25 09:04:06 | 歴史

 忠利の叔父孝之は天正十三年の生まれだから、忠利より一つだけ年上ということになる。細川家の豊前入国後香春城を預かり25,000石を領したが、一国一城令により廃城となりその任を解かれる。のち忠利から300人扶持を与えられている。
彼の自由気ままな行動はいろいろ記録に残されているが、藩主忠利にとってはまことにやっかいな叔父であったらしい。
寛永四年正月廿七日書状案(224)には、困り果てて忠興に泣きつかんばかりの忠利の心情が伺える。

           以上
    謹而申上候 仍中務殿(孝之)心易京へ上下を仕 小倉を居所ニ定 気をも延度之由にて 我等ニ御申候ハゝ
    成間敷とて 御かくし候て法躰にて御座候 我等と中務殿と申様 書付にて取かハし申候間 懸御目候 京へ
    御越候而 第一賄もつゝき申ましく候 其上不入様ニ存候間 色々留申候へ共 其段は同心無御座候 京へ御
    越候而も心まゝにハ有間敷由堅御申候 如何御座候ハん哉 得御内意候 たとひ在京不入儀と思召候とも
    我等申候分にてハ 此儀ハ同心有間敷候 御内意も有やうニ不申候ハゝ 成ましきと存候 如何可有御座候
    哉 此等之趣 可然様可有披露候 恐々謹言
            正月廿七日
                             長舟十右衛門殿

書状は忠興に宛てられているのだが側近を介して披露されるので、宛名は長舟十右衛門となっている。
この書状に対する忠興の返事が存在すると思われるが、現況見つけ出すに至っていない。
この年忠利は42歳、叔父孝之は43歳である。 

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御ちへの書状

2012-07-24 11:12:12 | 歴史

三齋の年月未詳の次のような興味深い書状(1913)が残されている。その内容から元和八年のものであろうと推察される。

                      以上
                 文はいけんいたし候 内きかたより けんもつ事ニつきふみ候ハんと申
                 くはしくみ申候 むりニかゝへとハ申さす候 よそへつかはし候ハんとも
                 かゝへ候ハんとも まゝにて候よし 申つかハし候 何と成とも心したいと
                 仰遣され候へく候 かしく 

                                          より
                         御ち               三
                           御中
                             御返事


一見して女性に宛てた書状であることが判る。御ちとは誰か・・・御乳、すなわち忠利の乳人に宛てたものである。
この人物については綿考輯録に次のようにある。
                 門川備中と申者一柳監物之家中江客分ニ居申候、備中娘丹後ニおゐて忠興君
                 ニ被召出、光千代君(細川忠利)ニ御乳を上申候、依之其弟喜右衛門を被召出、
                 新知百石被為拝領候            (綿考輯録・巻二十八)

さてこの書状は、慶長十二年忠興の元を退去していた米田是季(興季)を、忠利が呼び戻すための動きの中での書状である。
退去の理由は定かではないが、妹婿・飯河肥後の誅伐事件が原因であろうという説がある。この事件そのものの原因も定かではないが、こちらは忠興の二男・興秋の出奔や豊臣方での出陣などが原因ではないかとされている。いずれにしろ、藩主に反旗をひるがして出奔するというのだから、大変剛毅な性格であったのだろう。豊臣方につき出陣したが、元和八年忠利の招きにより帰参したとされる。
何故乳人との書状のやり取りがなされたのか、忠利の意を受けてのことであろうが、どういう意味合いを持つのか大変興味深い。
ひょっとすると、忠興は忠利の考えを喜んだのかもしれないが、「どうにでもご随意に・・」とでもいうような物の云い様が面白い。

帰参その他に関わる過去のブログをご紹介しておく。 
                米田是季の再仕官
                長岡監物 21年、沢村大学 17年

            

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