津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■春日大社の事・・

2024-03-31 21:21:48 | 徒然

 今日の「光る君へ」が終わった後、藤原氏由緒の春日大社の紹介が出てきた。
ふと思い出したことがある。母がまだ存命のころだから22・23年ほど前だと思うが、春日大社から奉納のご案内を頂戴したことがある。
いまだに「何故」という気持ちがあるのだが、一応は苗字に「藤」がついている我家だが、これは2代目が母方の苗字を継いだからで、私は出自を藤原氏だとは思っていない。
しかし、さすがにそのまま放っておくわけにもいかず、母が幾ばくかの御寄附をしたようである。
母が春日大社に詣でたということもなく、私もいまだかって出かけたことはないから、思い当たることがない。
「藤」をつけた苗字の半分くらいは、明治維新後につけられたものだというが、春日大社に寄付をしたからと言って、我が家も藤原一族の詰めの端に入れていただいたことにはなるまい。




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■田崎廣助LOVE

2024-03-31 12:53:27 | ご挨拶

                
 最近版画にチャレンジしたいという気持ちが沸々としているが、私の大好きな田崎廣助氏の作品集や随筆を見たり読んだりするうちに、
この「根子岳」と題するスケッチをお手本にしてみようかと思っている。

まずは線彫りをして、私が勝手に何色か色付を施してみるというのはどうだろうか。
私の田崎廣助LOVEは相当極まっていて、過日はある作品のオークションにも応札してみたが、相当の高値になり断念した。
ならば、八女市の「田崎廣助美術館」まで出かけて、本物を拝見しようと思ったりしている。
車で行けば老人の脚に負担もないが、免許証を返納した身としてはどうにもならない。
新幹線で羽犬塚までいって、TAXIで往復するかなどと、頭の中ではだんだん本気になってきている。

 ある一文に、軽井沢の別荘が近所だという中曽根康弘と美術談義をしたとき、中曽根は「あなたの阿蘇の、灰色を基調としたあの色は
どうしたら出るのですか」と聞かれ、絵のわかる人だと感じたとある。

「あの色を出すために、阿蘇の前に何日座り続けたか・・・十日も二十日も山の周りをぐるぐるまわり・・・噴煙が見える日には幾日も
阿蘇の前にじ~っと座禅を組み座り続けた」と答えている。

山の画家と言われる画伯は、阿蘇に関する作品がいくつもあり、熊本人としては敬愛に値する人物である。
いまだ美術館も訪ねたことはないというのは、田崎廣助LOVEが極まっていない。5月くらいには出かけてみたいと思っている。

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■清源院様

2024-03-31 08:36:14 | 人物

 清源院とは細川重賢の同母妹で、宇土支藩興生に嫁いだ。興生が結婚生活10ヶ月、わずか21歳の若さで亡くなるが、弟・興周(おきちか)を急養子にたて相続せしめた。これが名君の誉れ高い興文(おきのり)である。
このように細川宗家と宇土支藩の間では婚姻によるつながりが深く、重賢の世子・治年には興文女・埴が正室として入っている。
さてこの治年が天明七年の参勤の際に長旅の疲れが病となり病床に就いた。病状が好転しない中、宇土支藩藩主・立禮は本藩重役・長岡主水(松井営之)から極内密の懇請を受けた。
義兄・治年にもしものことがあったときの為の継養子の話である。
細川宗家は綱利の男子が亡くなり、弟・利重の新田藩から利重の次男が綱利の継養子・宜紀が入ったことから新田藩の血が宜紀・宗孝・重賢・治年と四代続いており、立禮はこれを慮って固辞し続けた。
その際、立禮の祖母・清源院が「此義はいか躰にも御断は相立不申候」と強く説得し、ついに承諾するに及んだ。清源院の政治的才覚が細川宗家の危機回避に大きな力となった。
清源院もまた新田藩の血を受け継いだ人ではあるが、重賢公の妹として、また治年公の伯母として強力な助言であったろう。ここに細川宗家10代・斎茲が誕生することになる。
一方、宇土支藩は嫡子・立之がわずか4歳で相続することになる。
その後、斎茲の子斎樹に継嗣子がなく病床に就くと、宇土支藩・立之の嫡子・立政が本藩を相続し斎護となる。

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■肥後国新守護職の情報ー2・了

2024-03-30 07:07:20 | 歴史

一、同く問て云、右肥後の国主(守)を被仰付候に於ては、あなかち細川殿斗に限りたる義にては有之間敷く処に、越中守斗を指詰(かきる)の様に
  取沙汰仕りたるは何とそ子細在之候哉。
  答て云、其義を我等承り伝へ候は、越中守殿義其節迄は豊前の国小倉の城主(三十七万石)ニ而御入候処に或年領分大日てりにて百姓共当分の食
  物にも難儀致し、況や来作の夫食等の心当は少も無之とある義を役人共相達し候へは、越中守殿殊之外苦労に被存候へ共、只大かたの義にては事
  済不申候付、親父幽齋(藤孝)以来相伝りたる名物の茶入を近習の侍両人に持たせ京都へ被指越、是を質物に遣し金を借り候分にては、事足り申
  ましき間、少なり共直段を宜しく売払ひ申様にと在之、上方へ持参いたし候処に調申度と望候もの共は余多在之候へ共、此茶入の義は天下の名物
  の義にも候へは、内々にては売買はいかゝと在之、所司代え相伺ひ候処に板倉殿(勝重)殿御申候は、其かた付(肩衝)の由緒はともあれ当分
  の持ち主の義は、越中守殿にて在之候処に、金子入用に付て売被払候に於ては別儀無之間、望の者は心次第の義成へし、但し此茶入の義は我等名
  を聞及ひ終に見さる間、売買求め代物等の取やり抔も相済候に於ては、一覧有へきとの義にて事済、両人の侍共は金子を請取、大阪表へ持下り八
  木(米)麦ひえ其外何によらす農人共の食物共、可成類の諸色を右の金子限りに買調へ船に積、小倉江着眼候以後其穀物を悉く領分へ割あたへ被
  申故、飢に及ひたる農人共力を得作業に取付候となり。此義を世情に於いも大きに取沙汰仕り、向後共に国軍の主たる人の能き手本に候なりと申
  て、越中守を世間て誉事に仕り候を以、今度肥後の国主には、細川とのより害には有ましきなと人々申ふれ候と也。
                    (了)
  

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■弥一右衛門も弥五衛門も

2024-03-29 06:37:31 | 歴史

 弥一右衛門は忠利に殉死した阿部氏、弥五右衛門は三斎忠興に殉死した興津氏である。
共に、森鴎外の史伝小説「阿部一族」「興津弥五右衛門の遺書」の主人公である。
「~も~」ということは「=」を示しているのだが、なにが=かというと、両方とも「当然殉死するべき人物」と周囲にとらえられ
ていた。


 阿部弥一右衛門の出自は、豊前の百姓で惣庄屋職であったと伝えられるが、忠利によりその能力を高く買われて召出され近侍する
とともに、
細川家の肥後入国に当たってもお供している。肥後に於いてもその実力は遺憾なく発揮された。
山本博文氏著「男の嫉妬」でも指摘されているが、殉死をすべきだと言い募る人たちはまさに弥一右衛門の出自と出頭(出世)に対
する「嫉妬」に他ならない。

弥一右衛門は殉死を願い出ているが、当の忠利が拒否したとするのは事実とは相違し、他の殉死者と同じ日に殉死している。
世間のとかくの云い様にに対して、日ならずして殉死したとするのは鴎外の脚色である。

阿部一族の不幸は連鎖して、嫡子権兵衛の忠利三回忌における不都合な振舞いから一族誅伐という事件となった。

 一方興津弥五右衛門は、三斎公の命を受けて長崎へ香木の買い付けに出かけ、入れ札の高騰するにあたって、相役の横田清兵衛と
口論になりこれを殺害した。

帰藩した弥五右衛門は、同役を殺害した故をもって切腹することの許しを乞うたが、三斎はこれを許し、清兵衛の遺児に対し意趣を
持たないようにと席を設けている。
客観的にみると「殉死対象者」とみられる事は致し方ないことであったかもしれない。

三斎の死後、八代の情勢を調査に入った丹羽亀之允は、「三斎御付衆」一人ひとりの動向を見定めて、藩に報告を上げている。
その中に次のよう
な一文が残されている。

    一、三齋様江戸御屋敷御留守居ニ被召置候沖津弥五右衛門 三齋様被成御逝去     
     候而後ゟ傍輩共申候者 殿様を御主と奉存候由申候得共内心ハ少も左様ニ                
     不存様ニ相見申候由 此表ニ而沙汰仕只今加様之儀致言上候儀最早跡ニ可罷            
     成与奉度候得共重而御心得ニ茂可被為成候と存申上候 特又此表御侍衆             
     殿様江戸御發足被遊御延引候故何も気遣ニ存躰ニ御座候 私共も乍憚奉存候          
     ハ此表之御仕置之儀ニ付被為得上意之処ニ江戸御發足相延気遣ニ奉存候 猶          
     相替儀も御座候て可致言上候 此等之趣宜願御披露候 恐々謹言            
       六月廿五日            丹羽亀之丞
                 藤崎作右衛門殿

 弥五右衛門は職務が多忙であったため、三斎死去直後の殉死はできなかったとしているが、国元でこのような噂が囁かれていた
ことは、当然耳に入ったことであろう。

弥五右衛門の殉死の気持ちは確固たるものであったろうが、このような噂話は何とも腹立たしい思いであったろう。
そして弥五右衛門は阿部弥一右衛門の殉死とそれに伴う一族の滅亡を知っている。
上記報告書からすると、自らの殉死する三斎公の三回忌迄一年六ヶ月ほど、弥五右衛門の鬱々とした気持ちは、阿部弥一右衛門の
それに比べると如何にも長く感じられたことであろう。

 「阿部一族」も「興津弥五右衛門の遺書」も史伝小説とは言いながら、引用した史料「阿部茶事談」「翁草」等に虚構がある
こともあるが、鴎外によって脚色を施されてもおり、史実とは大いに異なることを承知しておかなければならない。

 

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■TVの前に釘付けになれる番組

2024-03-28 20:51:15 | 徒然

 NHKの「プロジェクトX」が新しく始まることが、特集番組でご披露があった。
ブラタモリは終わったし、ニュース以外には、新日本風土記くらいしか必ず見る番組がなくなってしまっていたから、これは大いに楽しみである。
民放各局も番組改編に当たり、担当MCが変わったり、何か目新しい番組も登場するかもしれない。
暇人の爺様を、TVに釘付けにしてくれるような企画を提供してほしい。

膳場貴子アナがNHK登場には驚いたが、相変わらずお美しい。そうだ、サンデーモーニングも又見ることにしよう。

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■九州にもいそうなもん

2024-03-28 15:45:35 | 徒然

                   ほととぎす         しのびね
         卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ

 私も良く知っている唱歌だが、正式名称は「夏は来ぬ」だったかな?
この唱歌を、小学生の高学年らしい女の子が数名で歌いながらして下校していた。歌い終わるとにぎやかなおしゃべりとなった。
「卯の花を知っていますか?」「時鳥をみたことありますか?」「忍音って何のことですか?」
がやがや言いながら通り過ぎて行ったが、考えてみると爺もよく理解できていない。

 「卯の花」についてはかって、富安風生の句に 書淫の目あげて卯の花腐(くた)しかな という句があることを■書淫・・・・でご紹介した。
 ホトトギスについても同様俳句がらみで■時鳥厠半に出かねたりでご紹介した。

 よくよく考えると、そもそも九州には時鳥(ほととぎす)は住んでいないらしいから、どういう鳥なのかもよく理解できていない。
正岡子規の子規の読みがほととぎすであり、主宰した結社がホトトギスであり、時鳥という鳥の口の中が赤く血を吐くようだというので命名したと聞く。俳句などにもよく歌われているが、九州人には良く理解できない。

 随分以前、ある方に手紙で、季節の挨拶の意味で「ホトトギスが鳴き始める季節ですね」と書いたところ、関東圏でもホトトギスの鳴き声はもう随分聞きませんというお返事をいただいたことを思い出す。
九州人としては、なんだか取り残された気持ちさえする。阿蘇には古歌が残されているというから、現在でも、どこか山中にはいそうなもんと思うのだが如何だろうか。


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■肥後国新守護職の情報ー1

2024-03-28 06:56:25 | 書籍・読書

    江戸史料叢書「落穂草」を読んでいたら、「肥後国守護職」という記事があった。
この落穂草の著者は、大道寺重祐友山なる人物で、「徳川家康の誕生から大坂夏の陣が終る迄の家康及びその周辺諸家の動静を記述したもの。」と
ある。
当時の関係者に聞き取りをするなど、信ぴょう性は高いものと思われる。少々、長い文章だが労を惜しまず、御紹介してみたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

           肥後国守護職

 一、問て云、いつの頃の義にて候哉。公方様の御機嫌大きに損し、其日にかきり御城にて御用多く候て、頓て七ッ前迄御詰候て退出あられたる御
  老中方を、急に被為召何れも早乗物にて俄に登城在之候を以、末々とては大きに肝をつふし候義の在之たると申候をは、いかゝ被聞及候哉。
  答て云、其義を我等の承り及び候は、大猷院様(秀忠)御代の義に在之候由、子細は其節加藤肥後守(忠廣)殿身上果候以後、肥後之国主の被
  仰付も無御座候を以、誰人か拝領か被致と在之、江戸人の諸人聞耳をたて是のみを取沙汰仕候折節、御城に於て御用之義在之、其御席に而右肥
  後の国主の御撰ひの御沙汰なと御座候由、左様の後陽ゆへの義にも在之候哉。いつとても御老中方には八ッの時をさへ打候へと其まゝ御下りの
  処に、其日は七ッ頃に至り何れも御下り候処に、御側衆より御用の義在之候間、只今登城可有之旨申来候付、土井大炊頭殿(利勝)には帰宅あ
  られ上下を御取、留守中の用事なと聞之御入候所へ被為召候との義に付、早々支度を調へ屋敷(大手町)の門外迄出給ふ所へ御小人衆走り来り、
  急き御上り候様にとの事ゆへ、夫より早乗物にて登城在之、外の御老中さま御上り候へ共、井伊掃部頭殿(直孝)少し恙く候を、何れも御待合
  せ候内にもいまた揃ひ不申候哉の旨御尋なと在之、其後御老中方各御前へ御出候所に公方様(家光)にも殊の外なる御不興らしき御様躰に御見
  へ被遊、何れもへ御向ひ被遊其方共を呼寄候義、別事に非らず、もはや我等天下の仕置はならす候、此段を何れもへ可申聞為なりと迄の上意に
  付、各驚き入とかくの御請も無御座所に、夫はいか成思召を以の上意にて御座候哉と大炊頭殿被申上候へは、其時上意被遊候は、今日各中へ申
  談したる肥後の国主の義は、近き内に可申渡義成を先達て其者の方へ告知するには不及義也。左様に内談の事か、もれ安く候ては我等天下の仕
  置は成へき事かと上意有けれは、大炊頭殿被承、其儀に於ては恐悦の至り目出度御事に御座候と被申上候へは、弥々御機嫌悪敷被成大炊頭殿へ
  御向ひ被遊、其方は内談の外へもれ安きと有を目出度と申候か 夫は聞所也、其子細を申せと有上意にて大炊頭殿被居所へ御座を御詰寄被遊候
  を以、掃部頭殿を初め御老中方何れも胸を被冷候処に、大炊殿被申上候は、是に罷在候同役共いつれも存候通、何そ是は急に相触不申しては叶
  ひ不申と有之如くなる御用むきなと有之節、諸番頭諸役人共へ申渡し、随分急に相触させ候ても、其日の中なとには末々迄触届け候如くには成
  兼申義に御座候。肥後国守護の義は、誰にか可被仰付と有之義を、下々に於ては、諸人聞耳をたて罷在候処に、私共はいつとても八ッの太鼓さ
  へ鳴候へば罷下り候を、今日の義は彼是御用も多く、頓て七ッ比迄御城に罷在候に付、扨は肥後の国主相極り候かと推量仕り、然るに於ては、
  細川越中守より外には無御座と江戸中の取沙汰には及び候と存候。然は上御一人の思召と下方人の存寄と一同仕り候と有之義は、恐悦至極の御
  事に候を以目出度御義とは申上候。惣而私儀は毎日両人宛内々似て江戸中へ物聞を指出し申候処に、私義いまた御城に罷在帰宅不仕内に右両人
  の者共罷帰り、壱人は芝札の辻辺、一人は牛込辺 におゐて細川越中守へ肥後の国拝領被仰付哉と有之義を承り候由書付仕り、用人共方迄差出
  し置候と在之、右両通の書付を指上候へは、則御上覧被遊御機嫌も御やわらぎ被遊候刻、掃部頭殿にも大炊申上候通に私躰も奉存候と御挨拶被
  申上候へは、御笑ひ被遊なから何れも呼寄る事にてはなかりつるぞ、早々罷帰休息仕候様にとの上意につき、右帰宅あられ事済候となり。

               (つづく)

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■立石合戦記

2024-03-27 10:55:24 | オークション

         豊後立石の攻防!/[立石合戦記・手写本34丁]/松井・如水/九州
            即決40,000円(税 0 円)送料・全国一律520円(税込)

 

 いわゆる西の関ケ原・石垣原の戦いを記録したものである。大友義統が石田三成の意を受けて立石別府市南立石)で挙兵したことで、
細川家の松井・有吉勢とこれに加勢をした黒田如水の連合軍との戦いとなった。義統はこの敗北により、名門大友氏の没落へと導いた。

少々気になる文書ではある。
実はこの文書、別のサイトで全く同じ品が「フリーショッピング」でも見ることができるが、ここでは26,000円とある。
                                   (文責:津々堂)

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■熊本の「桜の井戸」

2024-03-27 08:36:49 | 熊本

 熊本市中央区の上通郵便局の前の通りをかっては「桜井町」といった。
藩政期は武家屋敷が並んでいたから町名はなかったが、明治13年に至りこの名がついた。
上通郵便局の前にあるセントラルマンションの前庭に「桜の井戸」があり、この井戸に由来して町名となった。
清正が軍備のために掘ったと伝えられるが、一方では茶の湯の井戸で誰もが使用することはできなかったとも伝えられる。
屋敷内に桜の木でも植えられていたのだろうか。
「桜の井戸」の命名の由来はよくわからないが、案外先に書いた清正の江戸屋敷の「桜の井戸」からきているのかもしれない。
清正公死して、江戸と熊本に「桜の井戸」を残した。

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■加藤清正の江戸屋敷と「桜の井戸」

2024-03-27 06:42:13 | 歴史

 桜田門の変でおなじみの井伊家の上屋敷が、かっての加藤清正の江戸屋敷であった。
その名残として清正が堀ったという「桜の井戸」が残っているが、これは昭和43年道路工事に伴い動いている。
処で、清正時代の時代の表門は桁行10間ほどあったと伝えられる。櫓門で外向惣長屋など丸瓦には金の桔梗紋が施されていて夜中でも光り輝いていたという。
「事跡合考」には「この屋敷の表門の冠木に、清正長さ三尺余の黄金にて虎を作り紋とせり。然るにこの紋、朝日にて耀て品川浦魚驚きさりて猟すくなくなり、漁人殊の外渡世難儀のよし歎くに付、彼紋を放したるといふ事、往古より武家の口碑にのこるところなり」とある。

   
      安藤広重の「東都名所」より「外櫻田弁慶櫻の井」 天保14年(1843)

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■開花宣言あって「ようやく春ですね~」

2024-03-26 15:05:06 | 徒然

       さくら咲いて、なるほど日本の春で  種田山頭火

 菜種梅雨が続く中でようやく熊本も桜の開花宣伝がありました。やはり日本の春は桜、「ようやく春ですね~」

強い雨が数日続きましたが、御昼過ぎにはすっかりあがり久しぶりのまばゆいばかりの日差しです。
近所の自衛隊前の桜並木も、古い桜が随分切り倒されてしまいましたし、毎年いち早く花をつける正門左の樹も切り倒されてしまい、残念なことになりました。

 老人共にはいつもと変わらぬ春ですが、孫娘が大学を出て東京に就職して熊本を離れます。
それも渋谷のど真ん中に職場があるらしく、喜々としています。若い人は良いですね。いつまでも平和な日本であってほしいと願います。
爺様としては帰省の時にしか会えませんから、あと何回会えるかなと、少々感傷的になります。
そしてあと何回、春を迎えることができるのかと思ったりします。

        あと幾とせ 出会うか 桜の花日和  津々

      

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■隱見細倉記-1

2024-03-26 09:12:08 | 史料

      延享四丁夘年八月十五日 細川越中守
如例月次出仕之儀は諸大名不残事也 扨大廣間之面々は兼而申合ニ茂無之儀なれ共高位之御方ニ候ヘハ段々御上座ゟして御間定り
諸侯出仕の上大目附見繕あり 御禮始り候事也 細川越中守殿毎之通座席に着座 其以後
小用所に被参候処に 跡より来りし人や有けん
誰ともしらず抜打に首筋際に打懸たり 是はと思ひ給ふ内にたゝみ懸て左の肩へ切懸たり 越中守殿も我に覚る敵なし 全乱心人成べし
殿中と申兎角組伏ばやと思はれけ
れ共 其内手疵深ければ叶難く 如何せんとしばし立休らひ給ひし内に 誰いふとなく小用所に大乱也
と云声のしければ 御杉戸御番両人 御徒目附衆聞付け そうそう御目附衆へ告ければ 大目附石河土佐守殿 御目附中山五郎左衛門殿其
外追々馳集りて 土佐守殿越中守殿江向ひ被申候処に 誰人共不知 誠に血に染にたる如くなれば 御家名はと問し時 たへ/\しき声にて
細川越中守と答ふ 誰人討かけしやと尋の時 越中守殿答られしは 誰共見分けず上下着用之者なりとありしかば 夫より直に土佐守殿御
徒目付呼て 御坊主の分外へ散不申様に集め可置由 扨又御門/\を早速打せ申べし 其段達し候様にと 御目附衆より被申渡ければ 早速
申通して表玄関前御門より外 桜田迄の御門/\を打たりけり 越中守殿療治の儀は詰合の御医師衆に被仰付之 夫より切懸し人有べし
と大勢相尋しに ゑんの上に抜身の脇差あり 扨こそ此処に脇差あれば此近所外へは行まじ 殊更無刀と見へたり 隅々をさがせよとて尋
しに 小用所のすみに人あり それより御目附御徒目附よびよせ いかなる人ぞとそはせしに 修理なりと答ふ 御目附衆被申しは 如何敷殿
中も不憚かくの体は如何と被申しければ 修理殿被申候は 誰共不知自分へ切掛しにより私殊も討懸候となり 扨其元の髪は何とて切被
申候哉とありければ 人をあやめ立難く存候故 髪を切申候 それは何とて切被申候哉 其節修理殿被申候は懐中の鋏にて切しと答給ふ
全乱心と見えし上は御徒目附立寄 蘇鉄の間脇小部屋へ入置 御徒目附衆其外御小人目附付置るとなり

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■細川宗孝の死

2024-03-25 17:15:16 | 史料

 芥川龍之介の作品に「忠義」があるが、これは細川家7代目宗孝に対する板倉勝該の殿中刃傷事件を取り上げたものである。
事件そのものではなく、彼に仕えた二人の武士のそれぞれの生き様を軸として語られている。
その中には次のような狂歌が紹介されているが、私はこのことについては詳しくは知らない。

         三斎さんさいの末なればこそ細川は、二歳にさいられ、五歳ごさいごとなる。

三斎の末とは宗孝公の事、二歳は大方「青二才」であろう。三歳と二歳を足すと「五歳ご=ご最後」という江戸っ子のダジャレである。

 私が所蔵している上妻文庫の写の中に「隱見細倉記」というものがある。細は細川、倉は板倉を表す。
原文を読み下しながらタイピングを並行して、その内容をご紹介しようと思いいたった。
目次は次のようにあるが、何せ読み下しながらの作業なので少々時間がかかりそうであることを、予めお許しを願っておきたい。
       (目次)
    1、細川越中守殿八月十五日月次登城之事
        附板倉修理(勝該)殿乱心越中守殿手負
    1、越中守殿腰物御徒目付衆預り事
    1、越中守殿中ノ口ゟ平川通退出事
    1、小用所繪圖之事
    1、水野監物殿江修理殿御預之事
    1、大御目附衆目附衆ゟ書上之事
    1、越中守殿手疵容躰之事
    1、水野監物殿江修理殿御引渡之事
    1、越中守殿江 上使之事
          附 上使之事
    1、越中守殿頼之御城坊主衆之事
    1、修理殿一類中御目通并指扣之事
    1、修理殿跡屋敷有馬中務大輔殿江御預之事
    1、八月十五日詰合之御城坊主町奉行所ニ而吟味之事
    1、越中守殿死去并法名之事
    1、越中守殿殿中慎之事
    1、修理殿家来、并供之者御預之事
    1、監物殿江修理殿御請取行列之事
    1、監物殿ニ而修理殿切腹一件之事
    1、修理殿江被仰渡之御書付之事
    1、検使御役人中之事
               以上

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■宇土「宇土支藩初代・行孝公」が教えること

2024-03-25 06:57:09 | 史料

1、宇土細川藩初代の行孝(宮松)3歳から荻原兼従に預けられたが、それが7年にも及んでいたこと。
1、三斎の死の時期、興津弥五右衛門は愛宕下屋敷(三斎屋敷)詰であったこと。
1、「志方半兵衛御暇申上候故、願之通御暇下候得共、不届之子細在之付、行孝公ヨリ身上御構被成、
   熊本被召出候事も不被為成、御扶持方下一生埋レ罷在候也」
  この記述は、その後も志方家五家が枝葉を広げており、何かの間違いではないか。
           
■志方一族略系図

 細川家記では伺えない、側近の記述である井門文三郎著の「井門家文書」が著すところだが、疑義も残る。

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