津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日の健軍自衛隊通り

2019-03-31 16:01:28 | 熊本


 自衛隊通り600mの桜並木、その先の2~300mは歩行者天国で出店などで賑わっているようです。

                                                                   割と暖かくてシートを敷いて座り込んでの花見客も随分見られました


とびぬけて早く開花したのが左の白い色の桜の木、赤いポストの先左手が西部方面総監部正門

                                                         

                                                
                  正門前の先を左折するとクスノキの通り、右手に現在建設中の熊本市民病院が姿現しました。

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■永源師檀紀年録・巻之四(7)

2019-03-31 06:34:24 | 史料

〇元亀改元庚午ニ月岐阜家ハ岡崎殿ヲ誘引シテ上洛シテ大樹ヱ礼謁セシム、三河守ニ任セシム、八月廿四日
 四明ニ大樹ニ従軍シテ功アリ。岐阜家向ニ徳川家及ヒ屋形ノ諸将ニ議シテ敦賀ニ入ラント欲ス、屋形ハ慮
 ル所アツテ虚病シテ従軍セズ、岐阜家ハ徳川家及ヒ諸将ヲ帥テ朽木谷ヨリ栗栖越へニ敦賀ニ入リ所々ヱ放火
 ス、朝倉大軍ヲ起シテ岐阜家ヲ囲ム、浅井長政ハ岐阜家ノ表裏ヲ悪ンテ縁ヲ絶テ義景ヲ援シテ敦賀駄口ニ陣
 ヲ張ル、岐阜家ハ驚テ三州殿ヲ捨テ登洛ス、丹波ノ内藤・萩本・庄・安立・久下・長澤・赤井・並河等モ表
 裏ヲ悪ンテ岐阜家ヱ従ハズ、然トモ岐阜家事多シテ征伐スル事能ワズ、丹波ヲ屋形ニ押へサシム。屋形青龍
 寺ヲ発シテ亀山ヲ押へ、並河ヲ攻メ大ニ桑田舟居ニ戦フ。
〇同年六月岐阜家ハ三州殿ト倶ニ江北姉川ニ於テ朝倉浅井ト戦フ、屋形此時ハ舟井ニ在リ、屋形向ニ柳営ニ諫
 ヲ納テ曰ク、方ニ今マ信長ノ威ハ君ノ上ニ在リ、松永父子ヲ助テ剰へ思慮ヲ高フス、此レ怨敵ノ根ヲ深フス
 ル事何事ソ、以来心ヲ用ヒ玉フ可シト、屋形今マ復タ大樹ノ岐阜家ヲ悪ミ玉フヲ忠諫ス。
〇同年八月三日岐阜家ハ朝倉等ト江州刀祢ニ戦ヒ利アリ、此行ヤ屋形ノ越路ヱ従軍セザルヲ景春ナドモ褒シテ
 云ク、藤孝一生不義ノ行作ナリ、寛仁ノ長者ナリト評ス。岐阜家ハ勢州ノ北畑・長野・関及ヒ其ノ他ノ諸城
 ヲ光秀ヲ先鋒トシテ征伐ス。
〇同年十一月十四日光秀謀テ義継ノ重臣金山敦賀守武春ヲ殺ス、仍テ若江大ニ乱ル、是モ以テ岐阜家三万余兵
 ヲ帥テ若江ヲ征伐ス。先陣ハ織田長益・明智光秀・細川藤孝一万余騎ナリ、二陣ハ織田上総介・瀧川関五千
 騎、三陣ハ柴田・安藤・稲葉五千騎、四陣ハ丹羽・氏家・蜂屋三千騎、五陣ハ松永父子・筒井三千騎、高屋
 口ノ押ニハ熊千代殿此歳八歳幼弱ノ故光秀ヨリ三宅、尾形ヨリ松井ヲ従シム。六陣ハ池田父子・堀三千騎、七陣
 ハ不破・丸毛ニ集リ勢等共ニ三千騎、八陣ハ岐阜家父子八千余騎
 
 屋形ハ兵五百余騎ヲ帥テ光秀ノ隊ノ右ヱ二町陣ヲ出シテ張ル事九隊ナリ、敵の那須・小寺ハ織田・明智ヲ追
 退ケ、勝誇リタル隊ニ新手ノ三好帯刀長春二千余兵ニテ後援スル所ヲ、屋形家士ヲ下知シテ励ミニ撃タシメ
 自ラモ鎗ヲ入テ力戦ス、屋形ハ岡友満ト鎗ヲ合セラル処ニ、山口新介及ヒ本郷両人入レ代テ友満カ首ヲ獲タ
 リ、三好長朝ハ山口新介ニ首ヲ授ク、光秀此ヲ見テ身方ハ勝チ軍ソ馳ケヨ馳ヨト自ラ鎗ヲ入ル、此ニ於テ勝
 利ヲ得リ、此ノ行ヤ三好長春同ク弓之助長朝・那須家富・岡飛州友満・小寺江州総計八百余首を授ク。
〇同年十二月下旬舟井辺ノ敵城ヲ熊千代殿ニ松井・有吉ヲ従ヘシメ押へサセ、屋形ハ上洛シテ大樹ニ謁シテ
 歳末ノ賀ヲ伸。
〇同二年正月屋形ハ岐阜ニ至ル、岐阜家ノ曰ク、今年ハ必ス山門ヲ亡サント、屋形キカヌカラシテ帰国ス、此
 九月十三夜果シテ岐阜ヨリ山門ヲ焚滅ス。                                             比叡山焼き討

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■ただいま読書中

2019-03-30 19:19:53 | 書籍・読書

                          

 「永源師壇紀年録」をご紹介していく中で、わからない文言や人名がわからずに往生している。
これは別に勉強が必要だと思い、この本を所蔵していることを思い出し段ボールや押し入れの中の棚を探し回ってようやく見つけ出した。
巻末の「足利義満略年表」が大いに助かる。今日一日でとは参らぬが、明日いっぱいでは何とか読了することだろう。
折角だから斜め読みは避けて読んでいるから仕方がない。
どうも世の中の人たちは、細川藤孝が裏切って信長についたように理解されているようだが、これは真逆の解釈であろう。
「細川フアン」の私としては、なんとも遺憾というほかない。
藤孝もまた将軍義輝のDNAを継承する足利氏である。

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■永源師檀紀年録・巻之四(6)

2019-03-30 06:05:30 | 史料

〇同年十月十六日藤孝ノ信長ニ謂テ曰ク、青竜寺ハ吾カ祖父以来相伝ノ所ナリ、然ル二近年君ニ奉シテ他国ニ
 在リ、軍務ニ暇無シテ此ニ及フ事遺恨也、某カ一勢ヲ以テ此ヲ攻ント、信長ノ曰ク、其兵数如何ン、答フ三
 百ニハ足ラザランカ、信長ノ曰、兵少シ我カ兵ヲ加フ可シト、藤孝辞謝ス、光秀曰ク、公ノ旗本勢ニモ及マ
 ジ、吾レ五百ノ兵ヲ以テ後援セント、藤孝ノ光秀ニ答曰ク、自身ノ出馬ニモ及ハジト、依テ光秀ノ家士三宅
 藤兵衛ニ百五十騎帥ヒサセテ後援ト為サシム、藤孝ノ兵百廿騎ヲ以テ岩成ト桂川ノ西ニ戦フ、藤孝川ヲ踰テ
 兵士ヲ指呼シテ力戦ス、岩成カ兵靡ケテ城ヱ引入ントスルヲ附ケ入ル、岩成カ心ハ山ヲモ抜ント欲スレトモ
 士卒逃ケ足ニナレハ力ナク南一方ヲ破テ遁ル、番頭大炊助義之コモル所ノ淀城ニ入テ勢ヲ合ス、此ニ於テ細    青龍寺奪還す
                           (吉)
 川家ヨリ青龍寺ニ入レ代リ、老臣齊藤元實和州元右ノ子也及ヒ有由ヲ番代ト為ス、同廿一日平明ニ屋形青龍寺ヲ進
 初シテ淀ヲ囲ム、此行松井康之ノ家人下津権内吉辰岩成ト相抱テ橋下ニ堕ス、権内能ク水ニ浮沈シテ遂ニ    権内、岩成友通を討つ
 岩成ヲ刺シテ首級ヲ獲タリ。廿三日吉辰ヲシテ岩成カ首級ヲ持シテ信長ニ献セシム、信長大ニ賞シテ感書及
 ヒ黄金百両ヲ吉辰ニ授ク。次ノ日大炊介は細川右馬頭殿ニ託シテ降ヲ乞ヒ、城ヲ開テ遁レ去ル。屋形宥恕シ
 テ城ヲ受取リ、家臣江村秀盛ヲ番代トシテ此ニ居ク、因テ岐阜家ヨリ感帖ヲ屋形ニ授ケ不曰ノ大功ヲ賞シ、    岐阜家→織田家、以下同
 義昭公ニ白シテ屋形ヲシテ再ヒ青龍寺ニ還住セシムル事如元也。
〇同年十月廿八日義昭公将軍宣下也、本国寺ヲ営トス、尋ヒテ大樹ヨリ屋形及ヒ和田伊州惟政ヲ使節トシテ早    足利義昭将軍宣下
 速ノ大功ヲ荷フノ感賞帖ヲ岐阜家ニ授ケラル。此年屋形第三女ヲ青龍寺ニ生ム、伊也媛ト名ク。         伊也→一色義有室、後吉田兼治再嫁
 信長重テ将軍ニ白シテ判断シテ三淵大和守藤英ヲシテ淀城ニ居キ、渡邊宮内少輔長及ヒ磯貝新衛門久次ヲシ    細川藤孝実兄
 テ一乗寺ニ居ラシメ、山本対馬守和之・細川右馬頭ヲシテ静原ニ居キ、内藤備前守忠政ヲシテ亀山ニ居シム。   典厩家・細川藤賢
 本国寺の東方ハ明智光秀、西方ハ羽柴秀吉ニ警固セシム。村井長門守ヲシテ諸司代トス。京都総衛護ノ士五
(千カ)
 □三百余騎也、岐阜家又曰ク、吾レ本国ニ帰ル可シ、然ラハ寃敵隙ニ乗シテ襲ヒ来ンカ、然ラハ各自ニ急ニ
 馳テ諸将ニモ柳営ノ危ヲ救ヘト下知セラル。
〇同十二年正月五日三好・松永ノ党三宅・茨木・河州・若江等ノ城ヲ発シテ本国寺ノ柳営ヲ囲ム、三淵藤英・
 上野清信防戦ス、洛中ノ諸寺院来テ明日ハ必ス遷座アラシメント、強テ侘テ囲ヲ解カシム、柳営ハ七條ノ道
 場ニ遷ル、青龍寺ノ屋形急ヲ聞テ曰ク、柳営ノ西ニ向ハン敵ヲ吾レ此ニ居テ争カ外ニ見ンヤ、敵定テ当城ヲ
 押テ京ヱモ至ルラン、然ラハ敵ヲ半途ニ遮テ破ラン迚テ、二百余騎ヲ帥テ桂川ノ西ヨリ嵐山ノ南ヱ推出シテ
                                ママ
 屯ス、三好城州入道・番頭大炊介・岩成カ徒等六千余騎、淀山崎ヲ経千ニ進テ此ニ至ル、屋形ノ兵士進テ戦
 ヲ交ユ、屋形ノ曰ク、吾カ兵ヲ他ニ較ブレハ九牛ノ一毛ナリ、唯戦死セヨト下知シテ自ラ鎗ヲ拈シテ敵ニ当
 ル、譜代ノ家臣此ヲ見テ死地ニ入テ堅ヲ破リ利ヲ砕クカ故ニ敵紛乱シテ山崎ヱ引キ退ク、屋形兵士ニ下知シ
 テ兵ヲ屯シ軍使ヲ馳テ京東ノ戦利ヲ問フニ、共ニ勝利アリトナン、羽柴秀吉ハ一千余騎ヲ率キ桂川ノ西ヱ進
 ンテ屋形ニ後援セントナリ、大手ハ明智光秀大ニ利ヲ獲テ敵ノ兵将薬師寺ヲ初メ数多ノ首級ヲ得リ、是ヲ以
 テ敵八幡ヱ退散シテ重テ一戦ト議ス、岐阜家ハ一万ノ兵ヲ帥テ上洛ス、此ノ外丹波・若狭・近江ノ諸将駢集
 テ降スト言へトモ、先君ノ□(怨)家トシテ我ニ降スル者ハ何ソ許サンヤ、ト云テ屋形點頭ナキニ依テ岐阜
 家モ此レニ応シテ三條河原ニ於テ刎硜ス。此ノ行ヤ柳営ヨリ屋形ニ授ル賞帖ニ曰
   昨日兇徒等入洛ノ処、以手人数被追拂、剰首三到来感悦不浅、為褒紋桐引両免之候、恐々謹言 正月六
   日 屋形名 大樹花押
〇同年春岐阜家ハ明智・羽柴ニ議シテ二條大宮ニ新城ヲ築カシム、光秀コレヲ縄ハリス。同二月十一日鍬初メ、    
足利義昭の二条城 
 七月十二日ヲ以テ柳営ヲ新城ヱ移ス。三好等ハ大阪ノ顕如ニ会盟シテ摂州ニ蜂起ス、大樹此ヲ征伐ス、屋形
 又岐阜家ニ従軍シテ枚方ヲ征伐ス、岐阜家利ナシ、仍テ佐久間信盛ヲシテ陣ヲ大坂ニ張ラシメテ岐阜家ハ上
 洛ス。屋形ハ岐阜家ノ命ヲ承テ枚方ヲ退テ尼ケ崎辺諸所ノ城地ヲ巡見ス、八月松永父子ヲ諭シテ岐阜家ヱ降
 セシム。                      
                     参考:藤戸石(二条新城建設にあたり細川典厩家の藤戸石が運び込まれた)
                    ◆かくれなき藤戸石を。上京細川殿屋敷より室町畠山様御屋敷へ信長公(三宝殿)御引なさるゝ
                    ◆細川右馬頭庭之藤戸石、織弾(信長)三・四千人にて、笛鼓にて囃之、勘解由小路室町迄、日暮之間、

                     御堀之内へハ不入云々、見物了、驚目者也
                    ◆御庭には、東山慈照院殿秘藏し給ひし九山八海といへる大石、細川が館に居たりし藤戸といへる名石
                     を始め、國々の奇樹怪石を盡し、

 

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■新発見「水鳥之御間」

2019-03-29 11:31:03 | 徒然

 先に「■陽気に誘われて」で「於御城表御禮被為 受圖」をご紹介した。
私が興味を持ったのは、復元された本丸御殿の「昭君之間」などがどの様に利用されていたかということであった。
清正が秀頼公を迎えるため?に作られたと伝えられる「昭君之間」は、大広間(桐の間・櫻の間・梅の間・鶴の間)の奥「若松の間」の右奥にあり、大広間からは見えない。

                             

この「於御城表御禮被為 受圖」は、すでに隠居していた齊茲(諦了院・この時期浜町様と呼称す)が文政九年七月、城内において御禮を受けられる際の状況を記す図面である。
若松之間の桐之御間に間近い場所に「御」という書き込みがあり、この場所に浜町様は座着されたものと思われる。
左後ろに御小姓が居り、右後ろには御取次が控えている。そして「昭君之間」には、若松之間に向かって、御用人・御取次・御小姓役四人計六人が並び居る。
反対側の入側には10人の非番御用人+御次着座が控える。同じく入側の少し下った場所に大御目附二人が座す。
御家老衆は桐之間の床の間を少し下がった場所(桜之御間か)に列座(裏に家老の間がある)、反対側の入側には御備頭や御留守居その他(判読不可)の人が居並んでいる。

この図の書き込みによると二日目とあるから、家格の高い人たちはすでに御禮を済ませていることになる。二日目から大寄せであり、しつらえが変わったことを意味する。
さて御禮を申し上げる人たちはどこに居たのか。書き込みに「桜之御間外迄並居」とあるから、ここに記されている「水鳥之御間」に控えていたのであろう。実は現在の熊本城本丸御殿の資料を見ると、この「水鳥之御間」は「梅之御間」と紹介されている。
いつのころから「水鳥之御間」と呼ばれているのか不明だが、新発見である。現代における表示に梅之間とあるのは、どうやらこれは加藤時代の熊本城図を踏襲しているらしい。
梅之間に続いて大きな鶴之間があり、ここまで使って居並んだのであろう。御禮を申し上げる人達は「長上下」の正装であろうと思われる。
御規式の決まり事からすると、家臣の人たちはその家格により進席する場所が決められているのだろうが、それでも精々「桜之御間」の敷居から少々進むくらいの事であったろうと思われる。
映画やTVドラマのように至近で拝謁することはこういう公の席ではありえないことである。

距離があり殿様の声が聞き取れないことも多々あり、その時は家老が其旨を再度伝えたとも伝えられる。

こういう絵図にふれると、そのシーンが浮かびあがる思いである。

                               

 

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■永源師檀紀年録・巻之四(5)

2019-03-29 07:22:09 | 史料

 永禄                 あ
〇同年八月五日信長ヨリ諸士ニ胥ヒ議シテ曰、速ニ三好・松永ヲ亡シ、義昭公ヲ還京ナシ奉ンニ、先ツ江州ノ

            輔ヵ
 諸城ヲ陥ンカト、刑部大輪殿曰、其儀尤ニ存候、某愚案ニハ一応先ツ佐々木六角ヱ音信アツテノ後チ出馬遅

 カルマシ、然ラハ義昭公ノ使節ヲ奉シテ某彼ニ至ラン、誰ソ副使ヲ幕下ヨリ発セラル可シ、臨機応変シテ彼
 ニ利害ヲ説与セハ数多ノ徳アラン欤、信長及ヒ諸士可也トシテ瑞龍寺ノ夕庵和尚ヲ副使トシテ発セシム、信
 長ハ潜テ江州犬上郡佐和山ヱ赴キヌ、此時浅井長政ニ柏原ノ成菩提院ニテ対面ス、此レ信長ノ妹ヲ嫁娶シテ           於市の方
 後対面ナケレハ也、使節ハ箕作城ニ赴キ承禎入道ト対面ス。再三丁寧ヲ尽ニ入道甚タ不敬也、曰ク、上使ト     六角義賢   

 ノ事、匿笑スルニ堪ヘリ、京都将軍家ノ事ハ向ニ三好・松永計ヒトシテ近々堺ノ左馬頭殿ヲ入洛セシメント   
 治定ス、此儀三好城州ヨリ通シ来ル、此外ニ将軍ト号スル人アルマシキ也、室町ノ家督ニ還俗ノ人ハ不吉ナ
 リ、信長此ヲ弁へナク此ノ事ニ及フ事不調法也、義栄義晴公ノ甥、義房ノ子也大樹ニ任セラルヽ時キ当家ハ管領ノ約ナ   足利義栄
 リ、且ツ信長ハ当家旗下ナリ、然ハ万事当家ノ下知ヲ承ラル可ント也、使節此ヲ去テ観音城ニ赴キ、義秀ノ     六角義秀
 後見及ヒ家老ニ対面ス、信楽大石郷城主近藤山城守秀成・後藤喜三郎頼基・日野城主蒲生将監・永原城主永

 原安芸守信頼等ハ承禎ト相悪ヲ聞テ此ノ人々ニ対面シテ懇ニ調議シ、其ノ後義秀ニ対面スト言ヘトモ闇将ユ
 へ是非ノ言ナシ、刑部大輔殿此ノ回ヒ彼ニ赴くハ大ニ智謀アリ、ハ使節ニ託シテ近藤等ヲ我ニ属セシムル
 事、ハ城中ノ案内及ヒ士卒ノ多少ヲ計フ事、ニ江州ノ諸城、鯖江・多摩・梅戸・守山・永原・甲賀・八
 幡・日野・高宮・舟木等ノ異変ヲ計フ事、ニ懈ヲ見テ不虞ニ兵ヲ発シテ伐ツ事、ニ向ニ信長ヨリ息ノ源
 左衛門殿ヲ観音城ニ質トシテ至ラシム、今マ和破レ再ヒ弓箭ヲ挟ン時キ義秀此ヲ殺サン、然ラハ信長此ヲ患
 へ鋒ユルへ還京遅滞スへシ、是ヲ以テ此ヲ謀ル事、此ノ五條ノ利ヲ知テ先ツ信長ノ兵ヲ押ヘテカクノ如ク也、
   仍テ一時ノ称誉ト成レリ、信長ハ彼ノ返答ヲ聞テ出馬ヲ刑部大輔殿ニ承ル、対テ曰ク、急ニ不虞ヲ伐テ可ナ
 リ、本月七日コロヲヒ陣ヲ出サル可シト、仍テ永禄十一年九月七日信長ハ岐阜ヲ発ス、兵士二万八千余騎ナ
 リ。                                                 
 義昭公ノ昵近ニハ藤孝ヲ始トシテ上野陸奥守清秀・荒川掃部頭政次・杉原淡路守友之・吉良日州英長・尼子
 兵庫頭高久・和田伊賀守惟政・諏訪飛州盛実・伊勢々々守貞隆・細川右馬頭晴賢・渡部宮内少輔長・仁木伊
 賀守義正・三淵大和守藤英・磯貝新右衛門久次等也、信長ノ隊頭ニハ柴田勝家・瀧川一益・池田信輝・丹羽
 長秀・佐々成政・佐久間信盛・森可成・長谷川秀一・川尻秀頼・羽柴秀吉・前田利家・林一久・明智光秀等
 也、寄合ノ諸将ニハ稲葉一鉄・氏家卜全・安藤範利・平塚無心・金森入道・同雲州・遠藤左馬頭・不破河州
 ・丸毛兵庫頭・遠山久兵衛・蜂屋兵庫頭・竹中半兵衛・坂井重康・飯尾信家・毛利河州・梁田羽州・長沼重
 宗・齋藤新五郎等也、徳川家ノ名代ニハ松平信勝・渡部半蔵・小谷ノ名代ニハ浅井日宗長元、中嶋新平次直
 満ナリ、此ノ諸将ハ信長ノ異見ヲ待ツ、丸毛兵庫頭・平塚因州・安藤右衛門・竹中采女・齋藤新五等兵将ト
 シテ三千余騎ハ多摩ヲ押へ、信長ハ柴田・毛利・森・坂井・飯尾・長沼・梁田等兵士八千余騎ヲ帥テ観音城   (観音寺城の戦い
 ヲ押へ、織田房州・林佐州・氏家友国・蜂屋兵庫頭・不破阿州・稲葉長通・安藤伊州等七千余ノ士率ヲ率ヒ
 テ和田山ヲ押へ、織田長益・金森五郎八ヲ兵将トシテ三千余騎ハ諸方ノ押ヘト定メ、浅井殿ヨリ佐和山出張
 ニハ浅井石州政春三千余騎ニ大野木土州・池田豊後守輝次・中嶋直満此ニ附ス、先ツ箕作ヲ屠ントテ先隊ニ
 ハ松平信勝・渡部半蔵、二番隊ハ明智光秀・徳山五兵衛、三番隊ハ羽柴秀吉・浅井弥兵衛、四番隊ハ藤孝
 一色式部少輔、五番ハ丹羽長秀・蜂須賀彦右衛門等五千七百余騎ノ諸勢ヲ以テ囲ム、九月十一日ヨリ三州勢
 ・岐阜勢、埋草野草ヲ用テ左右ヨリ鉄炮打チ掛ケ、三昼夜タユミナク攻ヌレハ城柔リ、義弼ヲ始メ吉田雲州
 実重・正田四郎左衛門・今村掃部頭・真野土州信重・大宇和州・舟木十兵衛・駒井作州氏宗・建部源八信勝
 等必死ニ究テ支へルヲ、藤孝・光秀料リ知テ軍使ヲ信勝ニ馳セテ曰ク、城中柔リテミへヌ、一方ヲ披攻ラレ
 ハ退散センカト、其ノ言ノ如南一方ヲ開ヌレハ果シテ城兵遁レ去ル、細川ノ臣松井康之・志水清久等ヲ初メ
 最モ戦功アリ、藤孝又タ虎口ノ場ヲ一色ニ預ケ、自ラ急ニ観音城ニ至リ信長ニ謂テ曰ク、今マ箕作陥リヌ、
 此城ヲモ一方ヲ啓テ厳シク攻ラレンカ、其際ニ某ハ城中ノ近藤・後藤等エ書ヲ馳セ開城シテ遁サシメント、
 信長ノ曰、鏖ント、藤孝曰、不可也、公ハ義昭公ノ羽翼トシテ忠義ノ旗ヲ揚クル、初ニ仁恵ヲ本トセズンハ
 非ズ、殺サズシテ人ヲ和シ、罰ヲ軽クシ賞ヲ重クセハ刃ニ血ヌラズシテ服従ス可シ、如カジ徳ヲ仰レンニハ
 ト、信長此ヲ信用シテ南ヲ啓テ攻ヌレハ果シテ或ハ降シ或ハ遁ヌ、此レ藤孝向ニ近藤等ニ約セシ故へ也、因
 テ近藤等ハ義秀ヲ奉シテ日野城ニ遁ル、深更ニ至リ城兵ハ主将ノ無ヲ知テ各自ニ退散ス、箕作入道モ僉方ナ
 クテ伊賀ヱ逃去ヌ、此外青地豫州秀資・永田左近・馬渕伊州定春・片桐備後守実光・鳥山左京・乾甲州秀氏
 等モ遁ス、藤孝ハ密ニ使价ヲ日野ニ馳テ曰、速ニ信長ニ降ラレヨ、猶豫遅参ナラハ大事ニ及ント、此ニ於テ
 蒲生及ヒ三老ト共ニ義秀ヲ奉シテ向ニ質タル源左衛門殿ヲ引テ信長ニ降ル、信長観音城中ニ入替リ居テ、九
 月廿六日藤孝ヲ以テ蒲生・近藤・後藤等ニ対面ス、義秀ヲ喚出シテ慇懃ニ接待アリ、観音城ヲ返ス、義秀礼
 謝ス、此ヨリ織田家ノ威ヲ遠近ニ振ヒ一日ノ中チ州中ノ属城降スル事十八、此ノ外遁レ隠ル者共マテ降スル
 事多シ、尋テ蒲生父子ハ羽柴秀吉ニ預ケ、近藤・後藤・青地・馬渕・間宮・大宇・閉地・乾・永田・鳥山・
 真野・駒井・正田ハ明知ニ預ケラル。信長ハ細川ノ智計ニ随テ速ニ大功ヲタテリト大ニ悦ヒ、同廿八日ヲ以
 テ不破河州ヲ濃州ノ義昭公ヱ初シテ江南勝利ノ事ヲ言ス、其ノ祝使トシテ仁木伊賀守ヲ信長ニ馳セ、早速ノ
 功績ヲ賞セラル、丹羽長秀ハ江州ノ治業ノ為メニ三千余騎ニテ駐メラル、此ヨリ湖上・陸上二ツニ分ケテ京
 都ヱ発進ス、三好義継及ヒ松永父子・番頭大炊・岩成主税等失計シテ京ヲ去テ各ノ城ヲ固タム、檄ヲ織田家
 ニ馳セテ京ニ敵一人モ無事ヲ信長ニ報スルカ故ニ、大津ヲ発シテ陣ヲ清水山ニ張ル、急ニ濃州ニ報ス、是ヲ
 以テ十月四日義昭公濃州ヲ発ス、信長ヨリ迎使トシテ不破ノ河州・原彦次郎・竹中半兵衛等ヲ兵将トシテ五
 百余騎ヲ発ス。
 

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■永源師檀紀年録・巻之四(4)

2019-03-28 09:29:21 | 史料

 永禄
〇同十年二月廿三日義昭公敦賀ヲ発駕シテ同廿五日ヲ以テ一乗谷ヱ至ル、義景ヨリ安養禅寺ヲ以テ宿坊ト為シ
 テ接待シ奉ル、然シテ刑部大輔殿ニ就テ奏達シテ義昭公ニ礼謁ス、乃チ砂金五百枚、騎馬十匹ヲ献上ス、義
 昭公ノ昵近衆ニイタルマテ賀儀ヲ行ウ。
〇同年朝倉ヨリ刑部大輔殿ニ胥議スルニ、義昭公ノ帰洛ヲ以テス。乃チ兵将ヲ招ク、江ノ南北ハ朝倉ノ城下ナ
 ルカ故ニ浅井・三田村・赤尾・磯野・乾・三雲・大野木等ノ諸将八千余騎ヲ以テ馳聚ル、江西ノ和爾・片田
 ・朽木・高嶋等、五百八十騎ヲ率テ麾下ニ聚ル、武田義頼ハ三千余騎ヲ帥テ此ノ麾下ニ属ス、朝倉ハ我カ幕
 下ニ属スル所ノ堀江北庄・青蓮花・細呂木武曽・三段崎・阿波谷・溝江・黒坂・野尻・猪口・深町等ノ兵士
 二万三千七百余騎ヲ聚テ義昭公ノ為ニ党ヲ樹ツ、預メ六月十八日ヲ以テ陣ヲ起スノ期ト為ス、是ヲ以テ諸将
 各功ヲ立ル事ノ速ナラン事ヲ驩ス処ニ、加・能・越ノ本願寺ノ一揆等義景ノ先人考景時代、天文ノ初年ヨリ
 以来匹敵ヲ為シテ戦ヲ挑ム事年々也、今一揆ノ首ノ下妻筑前守、幸ニ其ノ空国ノ便ヲ伺ント擬シテ三州ノ寺
 道場ノ弟子及ヒ檀那共相ヒ聚ル者ノ八万人也、乃ヒ(チか)安宅・篠原・御幸塚・大聖寺ヨリ推シ入ント擬
 ス、朝倉ハ此ノ眼前ノ大難ヲ憶テ進発スル事已ニ遅滞ス、刑部大輔殿此ヲ思惟スラク、彼ノ無事ヲ計ラワズ
 ンハ此ノ大事ヲ起シ難カラン迚テ、自ラ忍テ大坂ニ至リ顕如乃ニ逢テ朝倉ト和睦シテ恨ヲ遣ス事無シテ婚姻
 好ヲ結ハン事ヲ諭ス。遂ニ義景ノ娘ヲ以テ顕如ノ長子教如ヱ娶ル、是ヲ以テ一揆ノ上下悉ク朝倉ニ敬服シテ
 却テ出馬ノ扈従ヲ願フ、時ニ義景ハ愛子ヲ早世セシムルカ故ニ悲哀シテ上洛大ニ渋滞ス、刑部大輔殿ヨリ一
 乗ヱ赴キ上洛ヲ勧メラル数回ニ及テ後ハ対面セス。
〇同年源頼光ノ後胤土岐光久ノ息男十兵衛光秀ハ、其ノ先人濃州明知城ニ戦死スルニ臨テ教訓シテ遁レ匿レシ
 ム、後チ朝倉ニ候シテ五百貫ヲ授ク、大筒ノ妙術アリ、一時ノ豪傑ナリ、故ニ同僚ニ妬忌セラルヲ以テ他行
 ノ底意アリ、刑部大輔殿此ノ族寓ノ中チ光秀ヨリ大ニ交リヲ厚フス、久シテ刑部大輔殿此ノ一大事ヲ語ル、
 只管ニ此ノ人ヲ与力サセシメント要スルノ心アリ、或時キ三国ノ安奥ヲ伴ヒ遊覧シテ光秀ハ御島明神ニ於テ
 詩ヲ賦ス、刑部大輔殿モ潮越根挙リノ松ヲ見テ和歌ヲ咏ス。
    充ツ塩ノ越テヤ洗フアラカ子ノ 土モ顕ワス根アカリノ松
 其後ニ足利ノ衰微此ノ漂泊ノ始終ヲ委説シテ實情ヲ傾ケ、光秀ノ底意を乞ヒ聞ク、光秀ノ曰ク、今義昭公ノ
           ミナゴロシ
 昵近ノ中チニテ強敵ヲ鏖シテ帰洛ノ大功ヲ樹ン人ハ唯此レ足下一人ノミ也、此ノ国ニ淹留シテ朝倉ヲ憑テ難
 哉ナヤ、素望ヲ遂ケラレン事当時信長ハ雄将也、已ニ今マ尾・参・濃ニ独処シテ驀ニ江州ヲ呑ント欲ルノ機
 鋒飄然タリ、我レ彼ノ室家ニ縁アルヲ以テ頻リニ招ク、其言大録光秀ヲ招テ三千貫ヲ授トテ期ス也ヲ授ント期スルカ故ニ却
 テ猶預シテ未タ果サス。信長ノ室家ハ齋藤義龍第五ノ女也、光秀ノ室ハ齋藤源太ノ女ナル故ニ縁家ナリ翁請フ、急ニ忍テ岐阜ニ赴キ信長ヲ頼メト
 幽懐徹底傾ケリ、予モ亦タ此ヲ思事此ニ有リ、然モ信長ノ幕下ニ熟識ノ媒ナシ此答ニ深旨アランヲヤ、他後便リ好カラ
 ン時ハ偏ニ足下ヲ頼ムト刑部大輔殿堅ク此ヲ期ス、然シテ後チ刑部大輔殿ハ義昭公ノ直ニ光秀ヲ頼ン事ヲ説
 テ曰ク、今ヤ光秀ハ鞍谷家足利義嗣四代ノ孫嗣知ナリ義景ノ舅也ト悪シ、此故ニ讒ヲ義景ニ致ス、義景其ノ言ヲ信シテ光秀
 ヲ疎ンス、此隙ニ乗シテ頻ニ依頼セハ必ス敬諾セント、義昭公此言ヲ可ナリトシテ其ノ言ノ如ス、光秀果
 シテ敬諾ス。
〇同年五月義景ヨリ暇ヲ光秀ニ与フ、光秀ハ十月九日ヲ以テ岐阜ニ赴ク、信長大ニ悦フ、乃千五百貫ヲ食マシ
 ム、光秀或時信長ニ説テ曰ク、臣カ越国ニ在ルノ時、義昭公ノ君ヲ頼ント要スルヲ聞ク、若シ然ラハ義昭公
 ヲ奉シテ隣国ヲ征伐シテ直ニ三好松永等ヲ鏖シテ大功ヲ京畿ニ樹テハ、諸侯ニ覇トシテ管領ト為テ其ノ威光
 右リニ出ル人有ンヤト、信長ハ然リトシテ柴田・丹羽等ニ胥議セラルヽニ一等ニ万歳ト叫フ、光秀ハ密ニ介
 ヲ馳テ此ヲ刑部大輔殿ニ告ケリ。
〇同十一年六月廿三日ヲ以テ刑部大輔殿及ヒ上野中務大輔清信両使トシテ岐阜ニ赴キ、光秀ニ就テ信長ニ謁ス、
 信長唯諾ス。
〇同年刑部大輔殿ヨリ妙弁ヲ以テ義昭ノ我ヲ捨ラルヽヲ怒リテ論説ス、且ツ預メ光秀ト隠計シテ七月十日光秀
 ノ家士溝尾庄兵衛・三宅藤兵衛ヲ迎使トシテ廿余人ヲ率シメテ阿波ガ口ニ待タシム、信長ノ迎使不破河内守
 ・村井民部之介一千余騎ヲ率ヒ犬上郡多摩ニ待ツ、更ニ浅井備前守長政ヲシテ義昭公ヲ警衛セシム、長政ハ
 自ラ浅井福寿庵・赤尾美作守・大野木土佐守・三田村左衛門大夫ヲ始メ五百余騎ヲ率テコレヲ江越ノ堺ニ迎
 フ、長政又タ六角承禎ヲ怪テ別ニ磯野丹波守・安養寺三郎左衛門両人ヲシテ四百八十余騎ヲ率ヒテ箕作山ヲ
 押へサシム、然トモ刑部大輔殿等ノ陰計ヲ以テ長政等ノ待ツ゚所ノ路ニ反シテ大野郡ヨリ阿波谷ニ臨ミ、穴間
 ノ谷ヲ経テ若子ノ橋ヨリ佛ケ原ニ出ツ、光秀ハ五百余騎ヲ率テ此ニ迎フ、乃チ過ル所ノ若子橋ヲ截随シヌ。
 谷川深事数百丈、ソノ上ニ藤條ヲツナキ間ニ板ヲ配ス、恰ク蜀川ノ縄橋ノ如シ、信長自ラ五千余騎ヲ率テ犬
 上郡五竹院ニ郊迎ス。同十八日ニ於テ岐阜ノ立正寺ニ入ル、向キニ義昭公ヲ南都ヨリ出シテヨリ此ニ至テ従
 衝ノ援ナフシテ、却テ諸侯ノ怒ヲ解キ千辛万苦シテ一大事ヲ挙ル事、刑部大輔殿唯一人ノ功業也。

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■加藤清正に「朝鮮出兵の命令書」発見さる

2019-03-28 07:31:36 | 新聞

                       秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見 朝日新聞掲載文引用

                                         

                                                       豊臣秀吉から加藤清正に宛てた朱印状。日付の下に秀吉の朱印があり、末尾に「加藤主計頭(清正)」とある。
                                                                                                        2019年3月27日午後、愛知県刈谷市の刈谷市歴史博物館、上田潤氏撮影

 豊臣秀吉(1537~98)が、武将加藤清正(1562~1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。
愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。

朱印状は縦21.5㎝、横125.5㎝で軸装されている。竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。
清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。
また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。
3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。

博物館によると、内容自体は福岡藩の黒田家に伝わる古文書に引用されている黒田長政ら3人の大名宛ての同日付の朱印状と同じで、同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出されたと推測されていた。
だが、3月23日付の命令書の実物が見つかったのは初めてという。

秀吉の文書に詳しい名古屋市博物館分館蓬左(ほうさ)文庫の鳥居和之文庫長は「一次史料が発見されたことで黒田家文書の内容が事実だとわかる。
また、清正の後、加藤家が断絶したため清正の資料は散逸しており貴重だ」と評価する。

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                                       去九日之書状今日
                                             廿三日到来、加披見候、
                                             先書ニ如被仰遣候、対馬守・摂津守高麗ヘ定而
                                             可相越候条、其方も
                                             至高麗船付令着
                                             岸、取固候て早々注進
                                             可申候、異国者手ぬるく候
                                             とて、少も不可由断候、
                                             九州・四国・中国衆
                                             何茂高麗ヘ渡海之
                                             儀、被仰遣候、御先勢
                                             路次つかへ候ニ付而、廿
                                             五日御動座候、猶以
                                             城々堅相拵、皆々申
                                             談無卒尓様可成
                                             其意候也、

                                             三月廿三日(朱印)



                                                   加藤主計頭とのへ

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                       刈谷市は加藤清正室・清浄院の兄・水野勝成の領地であった。清浄院は清正死後、兄・勝成を頼っている。
                      この書状は清浄院が水野家にもたらしたものか・・・?              津々堂

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■永源師檀紀年録・巻之四(3)

2019-03-27 09:07:36 | 史料

天文廿三年
〇同年冬和泉守護屋敷等ノ寄附ニ依テ、青龍寺屋形(枢府の誤か)ノ老臣ヨリ下知ノ状授ク。
   建仁寺永源庵領下京北綾小路・西高倉・南五条坊門・東万里小路・四町町事、根本和泉守護雖為知行、
   先年對当庵寄進以来帯数通證文、当知行無紛候(之か)段分明候(之か)上者、地子致如在之可致其沙
   汰者也、仍折紙之状如件、十二月廿九日 当地百姓中 俊郷判・秀雄判(以下三通永禄末元亀頃の文書と思われる)
   建仁寺永源庵領下京北綾小路・西高倉・南五条坊門・東万里小路・四町町事、根本和泉守護雖為知行、
   先年寄進以来帯数通證文、当知行無紛候(之か)条、被存知之不可有競望候也、仍折紙之状如件
   十二月廿ク日 旧院下代中・好齊(齋か)下代中・村井民部少輔下代中 俊郷判・秀雄判
 此冬地子無滞寺納之旨ヲ屋形ヱ告ク、慶順ハ屋形ノ昵近ニアツテ、執奏スノ趣キ十二月廿九日ヲ以テ当庵ヱ
 告報ス
〇同廿四年屋形ヨリ一條屋敷寄附ニ依テ、再ヒ青龍寺屋形(枢府)ノ郎従ヨリ領地ヱ下知状ヲ与フ。        屋形細川藤孝
   建仁寺内永源庵領一條很(戻)橋西爪四町々、幷細川淡路屋敷分四町々、合八町々事、当知行無紛ノ旨
   證文之上者、急度可致其沙汰者也、仍折紙之状如件 正月廿日 当地百姓中 晴門判・頼隆判・貞遙判
永禄元年三月三日前右京兆殿ノ息元服シテ六郎殿ト称フ。此月大樹ハ営ヲ坂本ニ遷シ又朽木谷ヱ遷座ス、屋
 形及ヒ右京大夫殿供奉ス。同五月三日大樹ハ朽木ヨリ坂本ヱ遷ル、右京大夫殿及ヒ屋形供奉ス。又将軍山ニ
 遷座ス、同六月四日ヲ以テ如意岳ヱ移リ、同八日再ヒ将軍山ヱ復座ス、屋形及六角家等供奉ス。翌日諸将ト
 三好ト鋒ヲ交テ亀井家戦死ス。
〇同年八月廿三日三好方ノ諸将泉州ヲ巡見シテ一同平均ニ押領ス、是以テ屋形ノ領地及当庵領永ク貢物ヲ闕ク。
〇同二年四月三好ノハカライニテ右京大夫氏綱ヲ淀ヱ入城也。
〇同四年五月前右京兆剃髪シテ一清入道ト号ス、三好ト和睦シテ富田ノ普門寺ニ入ル、富田庄ヲ料所ト為ス。    細川晴元
〇同年一清入道殿ノ次男ハ六角家ノ實子ナレハ、六角ヨリ此ヲ取立ントシテ諸将ニ諜シテ大軍ヲ起シテ陣ヲ勝
 軍山ニ屯ス。ツイニ成ラスシテ帰国ス。
〇同六年三月朔一清入道殿普門寺ニ於テ卒ス、竜昇院殿心月一新大禅定門ト号ス。
〇同年十一月十三日屋形長男ヲ生ム、熊千代殿ト小字ス。此十二月廿日氏綱主卒ス。               熊千代細川忠興
〇同八年五月十九日三好・松永・岩成等俄ニ二條武衛陣ノ構ニ推参シテ戦フ、警衛ノ兵妨戦ス、大樹ハ自ラ放
 火シテ戦ヒ遂ニ薨ス。光源院殿融山道圓大居士ト号ス。屋形ハ青龍寺ニ在リ出シテ路地ニ於テ弑スト聞テ大    光源院足利義輝
 ニ哀嘆ス、大樹ノ舎弟一乗院ノ覚慶門主ハ院家ノ如ニシテ三好ヨリ警衛セシム、刑部大輔殿忍テ南部ニ赴キ、   覚慶➝ 足利義昭
 米田壹岐守求政宗堅入道ヲシテ三好ヲ押へサセ、窃ニ門主ヲ警護シテ春日山ニ入リ、此ノ八月ヲ以テ江州甲           刑部大輔➝細川藤孝
 賀ニ逃ル、門主暫ク此ニ滞留シテ髪ヲ長シテ義秋ト称ス、又義昭ト改ム。刑部大輔殿ヲモへラク、六角左京                         ここから表記が変わる
 大夫義秀ハ義昭公ノ甥ナレハ此ヲ憑マントテ義昭公ヲ奉シテ矢嶋邸ニ移リ、和田和泉守秀隆・米田宗堅入道
 等ヲカタライテ観音城ヲ頼ム、六角義秀愚闇ナル人ユヘ六角承禎ヨリ専ラ江南ノ治業ヲ行フ故ニ義秀ノ心ニ
 マカセス、松永ハ承禎ノ縁家ナレハ剰ヱ諸卒ヲ矢嶋ヱ発向セシム、刑部大輔殿初ヨリ義秀ノ愚闇ナレハ覚ツ
 カナク思ヒ、自ラ若州小濱ニ赴キ武田義頼ヲ頼ム、義頼ハ義統継嗣二シテ義秀ノ弟也、故ニ義昭公ノ甥也、
 武田領掌ス。
〇同年九月晦日武田家ヨリ義昭公ノ迎トシテ佐分利谷石山城主武藤上野介ヲ発ス、然モ若州蕞爾タル分内ナレ
 ハ大事ヲ成シ難シ、越前ノ朝倉義景ハ一時ノ豪雄ニシテ然モ兵士多シ、前将軍ヨリ恩顧ヲ蒙ナレハ、此ヲ頼
 マント欲シて刑部大輔殿得々トシテ敦賀金ヶ崎ニ赴キ、朝倉九郎左衛門景糺ヲ以テ説カシム、義景敬テ諾ス、
 刑部大輔殿急ニ若州ニ還テ武田ニ説ク、武田無貮心ヲ以テ奉スルカ故ニ大ニ怒ル、既ニ事ニ及ント欲ス。
 部大輔殿巧弁ヲ以テ謀リ諭ス、遂ニ義頼意解ケ三百五十余騎ヲ卒シテ送リ奉ツル。
〇同九年九月十九日ヲ以テ義昭公越前ニ赴ク、刑部大輔殿預メ所々ニ潜ミ居ル所ノ諸将ヲ招ク、此ハ向ニ室町    
 騒動ノ時キ重テ便ヲ待ント欲シテ私第ヨリ直ニ遁レシ諸将也、乃シ大舘治部大輔時忠・仁木伊賀守義正・上
 野中務大輔清信・飯川山城守信賢・一色式部少輔藤長等ヲ始トシテ六十余人馳聚ル、越前ヨリ朝倉式部少輔
 景鏡ヲ迎使トシテ五百余騎ヲ率テ発向セシム、景鏡ハ義景ノ甥ナリ、景鏡ハ若州左柿ニ来テ待ツ、義昭公翌
 廿日ヲ以テ金ケ崎城ニ入ル、直ニ一乗谷ヱ請シ奉ント欲シテ此事ヲ敦賀ノ家士ヱ告ルニ、積雪ノ常年ヨリ深
 シテ鉢伏木ノ目峠ヲ踰ル事能ワズシテ淹留也、此年刑部大輔殿次息ヲ生ム、頓五郎殿ト小字ス。         頓五郎→ 細川興元

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■沼田弥七郎統兼と沼田藤次

2019-03-27 07:09:25 | 歴史

 永源師檀紀年録・巻之四(2)にあるように、天文廿三年(1554)六月十六日、幽齋の養父・細川元常が亡くなっている。
その折り、永源庵に「和泉守護分・淡路分」として寺納しており、三件の宛行状が三淵藤英・一色藤長・沼田統兼の名前で発せられている。
その沼田統兼は、若狭国遠敷郡熊川城主沼田光兼の三男(?)で、細川幽齋(藤孝)室・麝香の兄にあたる。
入道「一之斎」の名前でも知られるが、宮津市の郷土史家・中嶋利雄氏の講演集「細川時代の宮津」によると、宮津市内の発掘現場から茶碗の底に「一之」と書かれた天目茶碗が発見された際、立ち会われたことが紹介されている。

 つい最近の事だが、三従兄弟(みいとこ)に当たるK家から所蔵の古文書のコピーを頂戴したが、その中に秀吉が発した沼田藤次宛の宛行状があり驚いてしまった。
沼田藤次とは細川家臣となった沼田氏の初代清延(幽齋室麝香の兄、統兼の弟)の嫡男、藤左衛門貞弘の事である。
父・光兼の領地である熊川の地はこの人が受け継いでいたことがわかる。大変貴重な資料であり驚いている。
未だ所有者の同意を得ていないので、写真やその内容についての公表は控えるが、藤次は「秀吉に仕え四百石」と系図に記されているが、その四百石が熊川の地であることが、この宛行状で確認できた。
秀吉没後の事か、藤次も細川家に仕えたようだが、慶長五年九月廿七日福知山攻めに際し討死している。
細川家臣沼田家の二代目は延元が継いでいるが、兄・藤次の死に伴うものであろう。。

 
 熊川城主   同   同
   光建ー光延ー光兼ー+ーー光長

            
            +ーー統兼 弥七郎・一之斎 
            |
                  +ーー藤次 藤左衛門貞弘
            |      |
            +ーー清延ーー+ーー延元ーー延之

            |       
            +ーー麝香
                ‖
              細川藤孝(幽齋)

熊川宿に就いては以前に少々触れたこともある。■熊川城主・沼田氏
K家と当家はいささかながら沼田家(門太家)の血を受け継いでいることもあって、興味ある記述や資料に同時期に遭遇して奇縁に感じている。

             

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■植物採取

2019-03-26 09:57:41 | 徒然

 最近の日のでは6時14・5分、散歩の頃はすっかり明るい。
散歩も習い性となって歩くこと自体はまったく苦にはならなくなった。あまり変わり映えのしない狭い範囲の中での散歩だから、大した変化もないのだが、四季折々、植物の変化を眺めることが出来て興味深い。
広大な自衛隊の敷地や、周辺道路の並木などで緑に恵まれいて、植えこみを覗いてみると、実生で育った小さな植物たちを見ることが出来る。
時折、これを頂戴してプランターに植えたりしているが、夫々が春になって芽立ちはじめてその成長を眺めるのも楽しみである。
僅か2㎝ほどの「松」や、7~8㎝の四本ほどの「槇」(一本は小葉槇)、「もみじ」「けやき」それに小さくて名前の確認が出来ない木が数本ある。

そのうちに平鉢に「林」の如くに寄せ植えしようと考えているが、77爺にとって成長形は眺めることは出来そうにない。
折角、取ってきたものだから、暑い夏も日陰に置いたり、水やりを欠かさずにやったりして、枯らすことなく今日に至っている。

 また、メダカの為に水草を取に出かけねばと思っている。ついでに容器内を掃除してくれる「たにし」も手に入れたいところだが・・・
図書館に出かけた折、江津湖で取ろうと思っているが、水もぬるむ恰好の季節になった。

但し、77爺は乱視が一段と進み、植え込みの小さな植物などが良く確認できないようになったし、水中のタニシが捕らえられるかどうか怪しい限りではある。
「林」に仕立てるには、あと数本手に入れたいと思っているが・・・

追記:ようやく桜の開花宣言がありました。標準木の周りにマスコミ初め多くの人たちが集まって大変・・平和ですね~
   もっとも、熊本市内之あちこちの桜は既に二・三分咲きの状態ですけど・・・

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■永源師檀紀年録・巻之四(2)

2019-03-26 06:24:56 | 史料

   天文
〇同十九年三月大樹父子坐ヲ穴太山ニ移ス、屋形父子等及ヒ右京大夫供奉ス。同五月四日前大樹義晴公薨去ス、
 春秋四十七、万松院殿ト号ス。同十一日大樹四明ノ宝泉寺ニ動座、屋形父子及ヒ右京大夫殿等供奉ス、同日
 屋形ノ舎弟形部大輔殿向ニ疾ニ依テ間適ス、剃髪シテ光庵入道殿ト号ス。屋形ノ右馬助殿形部少輔ニ任ス。
〇同年十一月三好長慶上洛シテ火ヲ大津ニ放ツ、屋形ノ連枝諸卒ヲ指呼シテ対陣ス。九郎殿 弥九郎殿
〇同廿年七月屋形及ヒ右京大夫殿ノ卒ト三好ト戦ヲ京中ニ挑ム。同九月二日屋形ノ末男、永源庵ニ入テ得度ス、
 永宋喝食ト号ス、字ハ玉峯ナリ。
〇同廿一年正月廿八日大樹入洛也、屋形父子等供奉ス。右京大夫殿途中ヨリ奔ル、二月次郎氏綱主・舎弟藤賢
 共ニ上洛ス、三好権ヲ執ル、松永モ相沿テ逆威ヲ振フ。
〇同年讃岐守持隆主ハ坂東ノ勝端ニ居テ三好義賢我ヲ蔑如スルヲ誅セントシテ西宮ニ密語ス、此ヲ漏ス、讃州
 角抵ニ託シテ義賢ヲ召ス、然モ殺サント謀ラルヲ聞カ故ニ応セス、却テ八月十九日持隆主ノ龍音寺ニ遊ヲ囲
 ム、讃州敗亡シテ見性寺ニ入テ自殺ス、徳雲院殿ト号ス、其子真之主家督ス。
〇同年九月二日屋形剃髪シテ、實翁播磨入道諱通真ト号ス。号ノ偈ニ
   千聖不法真面目塵々脱着自分明龍陀陳下雷霆令将難当百万兵
〇同年十一月廿五日刑部少輔頼勝主卒ス、亨(享)年廿也、永源庵ニ斂ム、善勝院殿刑部郎悦伝心公大禅定門    頼勝細川元常嫡男
 ト号ス。
〇同廿三年四月六日屋形ノ舎弟光庵入道殿卒ス、永源庵ニ斂ム、見性院殿光庵宗清大禅定門ト号ス。居士生前
 屋形ニ従軍シテ功アリ。
〇同年六月七日屋形疾甚シ、逝ント欲シテ世ノ危ヲ慮リ、屋形ニ伝ル所ノ朝廷恩賜ノ錦ノ旌、及ヒ足利家ヨリ
 授クル処ノ旗、並感賞帖数十通、屋形累代初伝ノ甲冑旗等、悉ク皆ナ永源庵ニ納メ、以テ児孫ノ興隆ヲ期ス
 今也。泉州ノ守護代松浦ハ我意ヲ以テ強キ時ハ自立シ、弱キ時ハ他ニ属ス、四国ノ領地ハ多ク三好等押領ス、
 摂・播・備ノ所々モ昨是今非マヽ交替ス、是ヲ以テカクノ如ナリ、又永源庵宗侍者ニ遺書等ヲアタフ
   淡路屋敷分・和泉守護屋敷分・両所地子錢、雖少分之儀、永代寄進申候、並硯箱・刀壱腰参候、弥可遂
   出家事肝要候、仍譲状如件 天文廿三年六月七日 永宋侍者床下 播磨守元常判
 コレ則チ卒スルノ十日前ナリ
〇同年六月十六日午ノ中刻播磨入道殿卒ス、亨(享)年七十三也、永源庵ニ葬ル、佛恩院殿故播州太守實翁通    播磨入道細川元常
 真大禅定門ト号ス、刑部大輔殿画師ニ命シテ真照ヲ繪シム、其賛辞曰
   百八殊玉轉音出凡入聖活機深画工何欠一離縻只繪清容不繪心
〇同八月十五日今ノ屋形ハ大樹ニ血脈ヲ分テルヲ以テ格別ニ昵近ス。
〇同年去六月七日屋形遺附ノ綾小路和泉守護屋敷四町町、及ヒ一條ノ淡路屋敷四町々ノ義ニ依テ、三淵大和守
 殿等ヨリ永源庵ニ授ル状ニ
   下々和泉守護分・淡路分、任当知行之旨可有寺納候也、仍如件 十二月十七日 永源庵床下 三淵大和    三淵藤英
   守藤英
   下々和泉守護分・淡路分、任当知行之旨可有寺納候也、仍折紙如件 十二月十七日 永源庵床下 一色    一色藤長
   式部少輔藤長
   和泉守護分・淡路分之事、任当知行之旨可有寺納者也、仍状如件 十二月廿七日 永源庵床下 沼田弥    沼田統兼
   七郎統兼判                                             幽齋室・麝香の実兄 

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■熊本の「ぽつんと一軒家」・・その正体は

2019-03-25 19:02:51 | 熊本

 昨日放送の「ぽつんと一軒家」は、出演者の皆さんもいたく感激されていたようだが・・・
なんと球磨焼酎の醸造元の山中にある工場だった。そしてこれが「鳥飼」だったとは驚いてしまった。
今、評判の球磨焼酎である。ダンディーな装いの社長もさることながら、その哲学が素晴らしい。
素晴らしい自然を壊さないように、広大な山や谷を購入されたそうな・・TVを見てフアンが広がったのではないか?
HPも素晴らしい。http://torikais.com/ 焼酎も素晴らしい・・・熊本の焼酎をお楽しみください。

                   鳥飼(熊本)吟香米焼...

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■開花宣言は未だですが???

2019-03-25 17:18:07 | 熊本

 

 御昼過ぎ、雨がぽつぽつ降り出しました。左手が自衛隊西部方面総監部、二分咲きと言ったところです。
                    
                  
                 
                  上の写真の反対側通称自衛隊通り、600メートルにわたる桜並木は満開自分には歩行者天国になります。



                         蕾がかわいい

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■永源師檀紀年録・巻之四(1)

2019-03-25 13:51:11 | 史料

                          平成13年 今谷明 監修 『 永源師檀紀年録並付録 正伝永源院蔵本 』 初版 函 阿波郷土会 建仁寺 塔頭寺院 茶道 細川氏

永源師檀紀年録・巻之四

〇天文三年九月大樹義晴公ハ三好カ逆乱ヲ避テ営ヲ北白川ニ移ス、屋形供奉ス、大樹或ル時三淵宗薫大和入道
 殿ヲ召ス、時ニ大樹ノ側ニ妾侍坐ス、此ノ妾ハ船橋大納言清原宣賢真人法名環翠軒宗尤ノナリ、大樹其ノ     ➝智慶院
 妾ヲ指シテ入道殿ニ謂テ曰ク、此女我カ胤ヲ妊メリ、誕生シテ若男ナラハ鞠テ汝カ継嗣トセヨ、入道殿敬テ
 諾ス、是ヲ以テ入道殿ハ京ニ留ル。
〇同四乙未年四月廿二日巳下刻三淵大和入道殿ノ養子誕生ス、然モ男ナル故へ約ニ応ス、万吉殿ト小字ス。
〇同五年三宅国村ト本願寺ト互ニ力ヲ戮テ、常桓入道殿ノ跡ノ八郎晴国主ヲ招キ奉ス、然モ此ノ軍行危シ、八
 月廿九日八郎殿堺ニ遁レ、天王寺ニ於テ自殺ス。
〇同七年二月十七日古岳座元金剛寺ニ住ス、釣帖ノ文ハ先例ノ如シ、此ノ六月九日古岳真如寺ニ住ス、公文ハ
 先例ノ如シ
〇同八年六月京都ノ乱ヲ避テ大樹及ヒ諸将八瀬ノ里ニ赴ク、屋形及ヒ朽木等供奉ス、大和入道殿モ命ニ應シテ
 扈従ス、入道殿此ノ時万吉殿ヲシテ大樹ニ謁セシメテ曰ク、我躬小身ナリイカニモシテ宜キ家ノ養子ニ為シ
 申度キ由シテ説ク、然ラハ迚テ屋形播磨守殿ノ軍中ニ在ルヲ召シテ、汝カ継嗣ニセヨト口入ナサル。
 三淵伊賀守ノ息女ハ善法寺殿ノ室ナルカ故ニ、伊賀守ハ元常及ヒ晴員ノ母方ノ外戚也、就テ晴員其ノ伯父ノ
  兵部少輔晴恒ノ継嗣トナレリ、此故ニ元常ハ晴員ノ實兄ナリ、仍テ今誰ト云ンヨリ幸ニ在ルアリトテ口入ナ
  リキトナン 万吉殿時年五歳也、大樹直ニ諸将義藤殿ハ胤ヲ分テル兄妹ナレハトテ、其諱ノ一字ヲ授サセ九郎
 藤孝ト名ル、義藤公ハ此時八歳也、大樹又朽木谷エ動座、屋形父子供奉ス。
〇同年八月十日大風アリ、内裏及ヒ室町ノ営及ヒ建仁寺・相国寺ノ伽藍等吹倒ス、此年大樹坂本ヱ遷座。
〇同十一年禅居庵出火延テ山中及ヒ三重塔ヲ焼亡ス。
〇同年十一月四日播磨守殿室掩粧ス、清林院殿貞林殊節大姉ト号ス。同月廿三日屋形末男ヲ誕生ス、預メ出家
 ヲ期スルカ故ニ小字ヲ誌サス、弥九郎殿ト同胞ナリ。向ニ九郎殿ヲ屋形ノ継子ト為スカ故ニ弥九郎殿ヲ次男
 ニ立テ、九郎殿ヲ家長トス、是ヲ以誕生ノ男ヲ第三子ト為ス。
〇同十二年七月廿ニ日常桓入道家嗣トシテ次郎氏綱ヲ奉シテ泉州ノ玉井ヲ築キ居ル、此ノ日境南庄エ押ス処ニ、
 芦原口ニテ屋形ノ守護代松浦肥前守ニ會シテ戦ヒ潰ユ、肥前守比類ナキ功績ヲ策ス。
〇同十五年九月晦日永源ノ第六代谷諦禅師圓寂ス、丗壽六十七也。
〇同十六年三月晦日ノ大樹北白川ノ城ニ入ル。屋形父子供奉ナリ、四月三日弥九郎殿元服シテ右馬助頼勝主ト
 称フ。
〇同年七月十二日右京大夫殿ハ佐々木ヲ援兵トシテ軍ヲ相国寺ニ屯ス、佐々木ハ北白川ニ囲ム。同十九日前ノ
 大樹ハ城ヲ焚テ坂本ニ遁ル、屋形供奉ス、終ニ前ノ大樹ノ宥怒ニ値テ右京大夫殿及ヒ六角佐々木家廿五日ヲ
 以テ坂本ニ謁ス。
〇同年八月廿□古岳建仁寺ニ住ス、請状釣旨ハ先例ノ文言ナリ、此年十月廿三日古岳遷化ス。
〇同十七年六月前ノ大樹、今ノ大樹上洛ス、屋形父子供奉ス。                         義晴・義藤(義輝)
〇同十八年六月廿七日大樹父子乱ヲ避テ神楽岡ニ移リ、東坂本ニ赴キ常在寺ニ入ル。右京大夫殿・屋形父子及
 ヒ一族ニ諸将供奉ス。

              

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