津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本県政資料

2008-07-31 19:03:02 | 熊本
 熊本県立図書館に「県政資料」なる、膨大な量の資料が収蔵されている。
               (太字は複製あり)
  1、統計、免任
  2、組合.県治
  3、土木関係
  4、土地.学校
  5、山林原野
  6、町村戸籍
  7、西南役
  8、士族関係
  9、職制
  10、褒章
  11、戸籍
  12、県達願
  13、土地.地種変換
  14、土地払下
  15、土地雑款
  16、土地組換
  17、雑換
  18、雑文書.記録
  19、県会決議録
  20、森林雑換
  21、土地墓地
  22、事変台湾
  23、天災暴風
  24、神社仏閣記録
  25、官員進退
  26、雇用進退原簿
  27、小倉佐賀戦争
  28、教員進退簿
  29、高等官命令簿
  30、官規
  31、土地官有立木竹
  32、王政復古
  33、覚帳
  34、地租改革
  35、旧藩関係記録
  36、機密間日記
  37、尾崎議官取調書
  38、部分林
  39、雑(欠)
  40、神風連
  41、土地郡区分合改称
  42、県政記事
  43、藩譜採要(欠)
  44、郡誌.村誌
  45、戸籍先祖帳
  46、御切米根帳
  47、家録根帳
  48、古切支丹記録
  49、服忌令
  50、寺社例集
  51、知行年々物成帳
  52、貧民救恤
  53、孝行人調
  54、旧藩関係雑記録
  55、諸士名簿
  56、雑
  57、雑(印鑑)

 まさに情報の宝庫なのだが図書館で読むか、コピーをとるのいずれしかない。該当する情報に到達する為にはやはり読まなければ仕方がない。

 どこの大学の生徒さんか分からない。論文を書かれるのだそうだが、「どこを見つければ良いでしょうか」と聞かれても、「ご自分でお調べなさい」としかいいようがない。インターネットの内容を繋ぎ合わせても、うそが多いからために成りませんよ。「自力で頑張りなさい」とお説教をした。
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漏斗雲

2008-07-31 09:48:27 | 徒然
 昨日の竜巻状の雲は、早速TVや新聞で紹介されましたが、正式には漏斗雲と呼ばれるもののようです。
         ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%8F%E6%96%97%E9%9B%B2

         mausam.hyarc.nagoya-u.ac.jp/~hatsuki/routogumo.htm
             (まさにこんな感じでしたねー)

 各地の突然の豪雨は、金沢や神戸などで大変な事故と成りましたが、なんだか気象現象が過激に成りましたね。濾斗雲などを熊本で見るとは思いもよりませんでした。
 昨晩は久しぶりの涼しさ(?)で快眠しましたが、今朝は元の木阿弥、すごい蝉時雨と共に温度も急上昇中・・7月の晦日、今日も又暑い一日になりそうです。皆様くれぐれも御身ご自愛下さい。

 追記:本日の最高気温は36.7℃、今夏の最高記録を更新しました。18:40
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またさぼってしまいました。

2008-07-30 13:58:08 | 徒然
 歳ですかねー、連日の暑さに音を上げています。
25日--35.2℃、26日--35.3℃、27日--36.3℃、28日--36℃、29日--35.8℃・・・今日は少し雲が出ていますから、36℃は割るのではないかと思いますが・・・
 サボりの理由を暑さにしてしまいましたが、資料を読む気力が失せてしまって、ネタがないというのが本当のところです。某コンテンツの改訂作業や、いろんな史料のタイピングなど、すっかり滞ってしまいご迷惑をお掛けしています。

 ふと窓の外を見ると、シオカラトンボが沢山飛んでいます。
百日紅(さるすべり)の花がその数を増してきました。
猫の額ほどの庭に、たっぷりの水を撒くのも一仕事ですが、一雨欲しいところです。
先ほどまで遠くで雷の声がしていましたが、なんだか遠ざかってしまいました。

 また、サボるかもしれません。(お許しください)

16:30ころから待望の夕立です。しかし5分ほどで、まさに「おしめり」程度のものです。
16:50ころ西の方の雨雲から、突然真下に円錐形の雲が伸長し始めました。竜巻でしょう。見る見るうちに大きくなりましたが、1~2分で消滅強い雨模様となりました。デジカメが電池切れで証拠写真を取ることが出来ず残念。
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細川家家臣:牧氏

2008-07-28 11:33:27 | 歴史

 牧氏の出自について、綿孝輯録は次のように紹介する。
【先祖ハ敏達帝より出で橘の姓也、薬師寺次郎左衛門公儀末流にて、攝津国河辺郡富松の城主富松与一郎元亮男也、同郡牧村に住故、牧を以家号とすと云。(綿考輯録・巻十)】

                     +--新五(病死)
      兼重     嫡男・興相     | 善太郎・四郎右衛門
 牧遠江守---尉大夫---+--新五・左馬之允---+--平左衛門------------------→(新五家)
            |          |   虎蔵    
            |          +--藤左衛門------------------→(藤衛家)
            | 二男      
            +--五助---------------------------------------------→(新二家)
            |
            | 三男(細川忠興軍功記編者)
            +--丞大夫---+--権内 (病にて知行差上げ)
                 |
                 +--五左衛門---+--丹右衛門-----------→(市右衛門家)
                         |
                         +--丞大夫-------------→(丞大夫家)
               略系図を修正 2009/2/19

 牧家は細川家根本家臣の一家であり、青龍寺以来の家格を持つ。
 【牧丞太夫(兼重)ハ青龍寺より御奉公仕候、代々細川の御家臣筋目を以被召出、既ニ一色御討果の時も石川山にて狼烟を揚し役人也、其後小笠原少左衛門所にて黒川大炊と喧嘩 (中略)秀吉公より喧嘩は両成敗と被仰出・・(中略)立退・・夫より浪人して小西攝津守に奉公・・其後岐阜中納言殿ニも少の間奉公・・「今年(天正十九年)牧丞太夫・同新五父子帰参仕、聚楽にて御目見被仰付候」】

 管領家斯波氏の斯波義統の弟・義長、長治等母方が牧氏とされ夫々が牧氏を名乗っているが、この牧氏との関係を探っているが確証を得ないでいる。ご存知の方が居られれば、ご教示賜りたい。
さて、浅井長政の遺児・万菊丸は細川家の庇護を受け細川家家臣となった。その万菊丸を助けたのが牧左馬允・兼相である。丹後では五百石、豊前にて六千石の知行であったが、その知行地・豊後真玉に万菊丸を招いたと伝えられる。詳細は「杵築史談会久米忠臣著・生きていた浅井長政・お市の次男万菊丸」に詳しい。
熊本市立田山麓の泰勝寺(細川家墓地・現立田自然公園)にほど近い処にある、泰勝寺の塔頭・慈眼庵跡に細川刑部家の広大な墓地の横に、牧家と浅井家の歴代のお墓が寄り添うようにある。両家の深い関係を暗示するかのようだ。 

 又、兼重の三男は「細川忠興軍功記」を著した。忠興の軍功を知る上での、貴重な史料である。 

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ミハーな私

2008-07-27 21:40:21 | 熊本
 いわゆる「お馬鹿タレント」と云われて名を上げた「スザンヌ」だが、あっけらかんとした言動で大方の好感を得ているようだ。宮崎の東国原氏とまでは参らぬが、熊本を代表するタレントとして活躍している。
 昨晩友人が運転する車に乗って、市内の繁華街を通り抜けた。週末の人ごみが一段と顕著な一画がある。若者達がたむろして、盛んに携帯のシャッターをおしている。首を傾げている私を見て運転をしてくれる若い友人が、「キャサリン、ズ・バー」ですよと教えてくれた。一瞬に理解に及んだのだが、「スザンヌ」の母親「キャサリン」が、妹の「マーガリン」と共に経営しているバーである。それにしても大変な賑わいで、周辺の同業者も大歓迎だという。
 かって若かりしころ飲んで廻った衆知の街だ。地元の人間ばかりではなく、観光で熊本を訪れた酔客までもが沢山訪れて、入店もままならないという大繁盛の店らしい。
 首を傾げる人もあるようだが、そうむきに成る事もあるまい。結構・・結構・・
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佐藤雅美の「伊也」

2008-07-27 21:16:30 | 歴史
 佐藤雅美著「幽斎玄旨」に於ける、伊也が幽斎家臣・篠山五右衛門に再嫁したという部分は本当の事なのか・・・篠山五右衛門とは後に忠興によって誅伐された飯河豊前宗祐の事であろう。先にご紹介したが、伊也が吉田侍従兼治に嫁ぎ、最初の出産に際しては、幽齋の命により五右衛門の姉(妹?)が、手伝いの為に伊也の許に逗留した事が、「兼見卿記」に記されている。
 総じて佐藤氏のこの作品は、史実に忠実に書かれていると評価しているところだが、この件については史料を見つけえず首を傾げている。ご存知よりの方が居られたら、是非ともご示教いただきたい。
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青龍寺城

2008-07-27 18:42:00 | 歴史
 細川藤孝が青龍寺城に入城した正式な日にちがはっきりしない。。「兼見卿記」を見ると、元亀二年(1571)二月九日の条に「向細兵、皈(帰)城勝龍寺也、直ニ罷下、於路次云、西庄福知所ニ滞留也、罷向對談了、入夜歸宅了」とある。入城して住まう事は出来ないものの、青龍寺の地に帰った事が分かる。「綿孝輯録」は同年十月、米田求政に縄張りさせ青龍寺城の大改修に着手した事を記している。
 
 天正八年(1580)三月十八日、藤孝は(44歳)叙従四位下侍従に任ぜられた。七月信長は藤孝と惟任光秀を安土に召出し、丹後を藤孝に丹波を光秀に賜る旨の仰出がある。松井康之を青龍寺に残し、八月二日(十二日とも)藤孝・忠興父子は丹後に入国する。そして天正九年三月廿五日「矢部善七郎、猪子兵助青竜寺に番手として来られ」、松井康之は城を渡して丹後に罷越したと、綿孝輯録(巻四p138)は記す。
 藤孝の青龍寺在城は九年である。矢部善七郎(家定)・猪子兵助(高就)は、共に織田信長に近侍する馬廻衆及び奉行衆である。青龍寺に入って検地などを行った。

 この文章を読んで思い至る文書がある。文献雑録の「神足掃部頭青龍寺之覚書」(盤桓随筆巻三・所収)である。神足掃部については綿孝輯録に、足利将軍義昭が「勢ひ尽て降を乞、普賢寺に入て御剃髪(昌山道休と号)」した後のこととして次のように記している。
「天正元年信長の坂本攻め(三淵大和守藤英・同弥四郎秋豪など自刃)に際し「此時藤公君御身上之事何れも気遺、青竜寺の御城騒申二付、御本丸米田求政持堅め候得共、二の丸の事無覚束と申候処、神足掃部罷出、私に被仰付候様ニと申、早速地下人共呼集二の丸堅め候、無程藤孝君御首尾能御帰城被成候て、掃部忠節御感被成候」(綿孝輯録巻二・p71)

 さてこの「神足掃部頭青龍寺之覚書」は正式には、「天正十年六月朔日神足掃部青龍寺城ニ而之覚書」である。日を改めてご紹介する。
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史談会出席

2008-07-26 17:38:31 | 徒然
 「藩校サミット」の関係で、二回に渉りお休みがあった史談会に出席。何時もの顔ぶれが顔を合わせた。前回に引き続き、「小倉戦争」に係わるN家に伝わる「慶應ニ年・於小倉表聞取書」の勉強である。原文のコピーと、講師の下津先生の訓下分に目を動かしながらお話しを伺う。「小倉戦争(四境戦争)」については、吉村藤舟著「郷土物語」に詳しいが、実際戦いを目の辺りにした人の聞書きで、未だ世に出ていない文書でも有り大変興味深い。
 歴史に「もし」はありえないが、唯一長州藩を撃退した肥後藩がその後も小倉に留まり戦いが継続されていたら、明治維新も随分違った形であったろう。新暦と旧暦の違いは有るが、八月一日小倉藩は小倉城を自焼させて敗走する。すでに亡くなっていた藩主の死を隠したまま、未だ六歳であった幼君を守って、一万余といわれる関係者が肥後堺を目指して逃げ来るのは季節も変わる寒い時期である。想像を絶する逃避行があった。

 一説には、小倉城の自焼を進言したのは、肥後実学党の竹崎律次郎だという話がある。のちに熊本城を壊す話が実学党政権から出たことを思うと、ありえる話しかとも思うが、詳細は分からない。慶應ニ年の出来事、維新への歯車は一気に加速する事に成る。
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水前寺のり・続報 ほか

2008-07-25 11:05:44 | 熊本
 「水前寺のり」が希少金属の吸着に有効だという、新成分「サクラン」の抽出に、北陸先端科学技術大学が成功した事を7/2のブログで書いた。担当研究員の方は熊本のご出身らしい。よくぞ目を付けていただいたものだ。希少金属の貴重さはよく聞かされるが、例えば自動車の製造価格の1/10を〆ると聞いて驚かされた。
 7/23の熊本日日新聞は、この「サクラン」が、1グラムで5~6リットルの吸水力を持つことを報じ、化粧品・医療用品・食料添加物など多方面での利用が可能である事を報じている。

 しかし問題は「水前寺のり」の量産態勢だ。自然界に於いては環境破壊によって死滅の危機さえある。郷土の宝を、新たな宝にする為の努力が求められる。

 また今日の新聞は、熊本大学において新たな自動車の「排気ガス浄化触媒」の研究が成果を上げている事を報じている。希少金属の使用量削減にも効果があるというから、すばらしい話ではある。
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平成の夏の陣

2008-07-25 09:36:37 | 些事奏論
 天気に関する情報を調べていたら、1994年の7月の猛暑が熊本の最高気温ベスト10にずらりと並んでいた。7/16・38.8℃、7/17・38.8℃、7/18・38.3℃、7/19・37.6℃、7/20・37.3℃、7/21・36.9℃、7/22・37.7℃といった風である。社会党の村山富市氏を首班とする村山内閣が発足(6/30)して、世間をあっといわせた年の夏である。苦い思いを味わった小沢一郎氏が14年の歳月を経て、又暑い夏を呻吟している。14年前に比べると今年の夏の暑さはたいした事はない。小沢氏も密かにそう思っているかもしれない。平成の夏の陣といったところか。
 
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熊本駅周辺

2008-07-24 15:23:21 | 熊本
 九州新幹線工事に伴う、熊本駅周辺の変わりように驚かされる。細川家墓地・妙解寺(現・北岡自然公園)前は、そう広くない道路をへだてて高架の橋脚が林立し、忠利公以下歴代藩主様も驚き入っておられることだろう。駅の西口(春日)にいたる新しい道路は、北岡神社の存在を際立たせる事になった。周辺工事は先祖が眠る禅定寺にも及び、計画道路の為に墓域が削られ、沢山のお墓が改葬の憂き目にあっている。

 駅横の敷地では、広大な合同庁舎新築の工事が始まった。駅舎の工事も予算で懸念されていた、大建築家安藤忠雄氏のプレゼンテーションでどうやら動き出すようだ。一方東地区の再開発は、地権者の同意がまとまらず難航して、新幹線開通には間に合わないらしい。相変わらずのまとまりを欠くドタバタ劇である。熊本人の協調意識の希薄さにはうんざりさせられる。政令指定都市へのタイムスケジュールも大変気になる。

 「本当に大丈夫なのか」
お上がなさる事に口も挟めぬが、心配で心配で仕方がない。
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細川氏動向--兼見卿記から(11)天正十二年秋冬

2008-07-23 12:31:53 | 歴史
 天正十二年(1854)秋冬
■十月四日:(秀吉禁裏近邊に仙洞御所を造営せんとし自ら縄打に臨む)
(當座連歌興行)
次筑州(秀吉)発句云 
    冬なれとのとけき空のけしき哉 秀吉
    さかへん花の春をまつ比    紹巴
筑州一段褒美、依此儀百石紹巴ニ遣之、即折紙於當座遣之、天下之面目實儀也、次第之幽齋へ所望也、即云
    あたらしき御庭に松を植そへて 玄旨(幽齋)
筑州褒美、機嫌也(以下略)
■十月廿四日:幽齋来、丹後ツムキ一端持来、進夕飡、及暮歸京(以下略)
■十月廿八日:出京、幽齋旅宿一庵へ罷向、面会相談(以下略)
■十一月二日:自幽齋書状到来云、今度禁裏江御屏風進上之、出来也、可一覧歟之由云、即可罷出之由返事了、後刻出京、幽齋旅宿へ罷向、紹巴所へ行也、即紹巴所へ罷向、進上之御屏風立置之、一双、片方者冨士山、雲デイ、片方者橋立也、此絵之事、内々祠(伺)申之調之云々、無比類事也、今日以藤中納言(高倉永相)進上之云々(中略)
幽齋俄可来之由直談之間、徳大寺殿へ御理申、歸宅了、即幽齋来、焼風呂、進夕飡、種々相談、入夜皈京(以下略)
■十一月四日:幽齋皈國云々、後刻聞之、今度屏風之義付、御製二首冨士・橋立御短冊被下之云々、忝次第也
■十一月五日:侍従方為造立作事、今度幽齋相催、依助成俄申付也(以下略)
■十一月十九日:(略)自丹後幽齋書状、今度侍従為作事料合力八木十五石到来、書状返事相調遣了
■十二月十五日:(略)丹後長岡入道(幽齋)ヨリ八木拾石到来、今度作事合力之義也、都合廿五石・青銅五百疋上来也(略)

                    兼見卿記第二 了
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本妙寺頓写会

2008-07-23 10:25:49 | 熊本
 加藤清正公を祀る本妙寺は今晩、10万人ほどの人でごった返します。頓写会(トンシャエ)と呼ばれる、一夜限りのお祭りです。
         www.akiz.jp/kumamoto/tonsyae/tonsyae.html
        www.akiz.jp/kumamoto/honmyoji/honmyoji.html
    (熊本宮口写真事務所のサイトから引用させていただきました)

 7月23日は、加藤清正の命日である慶長16年(1611)の旧暦6月24日の逮夜(前夜)にあたる日です。1周忌に、本妙寺三世日遥上人が法華経一部八巻の69,384文字の書写を始め、同年10月24日に完成しました。これを機会に、翌18年に各僧達が日遥を助けて23日の祥当逮夜に法華経全巻の写経を行いました。以来、これが清正祥当忌の恒例行事となりました。県内の日蓮宗120カ寺の住職が、700基の灯籠が立つ176段の石段を上って廟所へ向かい、1時間半に及ぶ写経の奉納と法要のあと、夜半まで読経は続きます。参道両側には約500もの露天が出店し、浴衣姿の女性や家族連れなどで賑わいます。  (熊本県観光総合サイトから引用)

 私は30年ほど本妙寺のすぐ近くに住みました。毎年友人を招いて宴を張ったものです。夕刻6:30から周辺の交通は遮断され、参拝の10万とも云われる人並みで満ち溢れます。「胸付き雁木(ムナツキガンギ)」と呼ばれる石段(176段)の足元を気にしながら、この際とばかりに若いカップルは(そうでない人も)手を取り合って、清正公の廟所(浄池廟・ジョウチビョウ)まで登るのです。熊本では「せいしょこさん(清正公様)」と親しく呼ばれる加藤清正公、その人気は衰える事は有りません。例年よく夕立に見舞われる「頓写会」ですが、今年も一雨来るかもしれませんね。暑い暑い熊本の夏の風物詩です。
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益田弥一右衛門言上書

2008-07-22 12:37:56 | 歴史
 宇野東風はその著「細川霊感公」で、「霊感公の堀平太左衛門を採用し、政務を任じ給ふや、之に反抗せしもの、松野七蔵、益田弥一右衛門、弓削清左衛門、及家老有吉大膳か臣某等」と四人の名前を挙げている。松野・益田・弓削は上書を上げた。「松野は憂国の至情より出てたるものヽ如く、他は未だ之を是認する能はざるものあり・・」と記す。

 ある書の中でI氏は、「非難つづく名君賢宰の宝暦改革」なる一文を挙げて、「これらの諸事件は(中略)反対派による派閥抗争だけでは片付けられない政治批判を意味した」とされる。いささか意見を異にする部分もあるが、読みもしないでは反論も出来まいと、「益田弥一右衛門言上書」を読み始めた。これは弥一右衛門が霊感公(細川重賢)に上げた封事であるが、弥一右衛門は「私より申上候儀、一切誰ニも 御意不被成候様奉願上候」と、この封事が公にならないように頼んだ上、「洩候而ハ御為相成不申儀と奉存候」と、脅しと思えるような文言を入れている。重賢は一方の当事者、宝暦の改革の立役者堀平太左衛門に「反論あらば・・」とこれを手渡している。為に平太左衛門の「申開書」が共に付けられている。重賢からこの「申開書」を見せられた弥一右衛門は、職を辞して逼塞に至ったという曰く付きの封事である。

 昨今、宝暦の改革に関するいろんな意見が見られる。700町歩に及ぶ隠田を見つけ出した、田添源次郎の十五年に及ぶ「地引合い」さえやり玉に挙げられるが、このような論調には合点がいかぬ。そして弥一右衛門の「政治批判」が、正当なものなのかを知ろうとのチャレンジである。(この暑い中ご苦労さん・・・)
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細川氏動向--兼見卿記から(10)天正十二年春夏

2008-07-22 10:18:41 | 歴史
 天正十二年(1584)
■正月八日:早天長岡越中守(忠興)来、先於侍従方卒度祝義在之、次予方へ請之、令抑留之処、今朝茶湯約諾也、則皈京急之間、中々無用之由理之間、不及是非、卒度羞一盞了、青銅百疋持来、侍従方へ百疋、女房衆妹(兼治室長岡氏・伊彌)金子五両二分・織筋二面持来云々、頓而被皈京陵(以下略)
■二月四日:(略)午刻、幽齋来、百疋・マスノ魚四持来、侍従(兼治)方へも百疋持来云々、於侍従方為茶湯一会、請幽齋、月齋・予相伴、供之者上下廿四五人、悉飯・酒申付了、今夜仰留、及深更相談了、玄三来、遣侍従長光刀南豊軒(相國寺・周清ヨリ到来自去年幽齋見之、スリアケ以下誘之、可遣侍従之由令約諾、今日悉出来、持来也、念ヲ入誘之、驚目訖、メヌキ・カヲ(ウ)カイ後藤作、小刀以下マテ別而入精仕立也、自牧庵書状到来、明朝幽齋請茶湯、可令同道之由申来、相意得之由返事
■二月五日:早々幽齋令同道向牧庵、幽齋・一庵・予、千阿弥縁ニ在之、丁寧也、茶以後囲碁、及晩抑留、在夕飡之儀、次出牧庵、幽齋、盛方院へ同道、自是幽齋参聖護院殿、(以下略)
■二月廿一日:(略)未明出京、向幽齋旅宿、面会、暫相談了(以下略)
■二月廿四日:出京、幽齋在京見廻了(以下略)
■二月廿九日:侍従方女房衆へ、自丹後飯川山城息女、女房衆従父兄弟也、當月為産出、為見舞上洛、此方へ来、平産之間、此間ニ滞留云々
■三月一日:(略)幽齋へ以書状遣使者、明日焼風呂、一会可令興行、可有来臨之由申遣了、後刻使者罷歸、明日茶湯令先約興行之間、来間敷候由申了
■三月三日:(略)次幽齋旅宿一庵(横濱良慶)罷向、暫相談了(略)
■三月六日:侍従女房誕生也、早々罷歸之由申之間、則帰宅、婦子無別儀、女子也、先満足、弥繁昌祝着々々
■三月八日:(略)今夜自長兵入、月齋(この日死去)跡へ千疋持来云々(略)
■三月九日:未明幽齋下國云々
■四月八日:侍従女房(兼治室長岡氏・伊彌)産褥日數卅日明、息女召連来、(略)女社参、其砌予付名、御満(オミツ)侍従満千代ト云、以其儀如此、繁昌弥満足了(以下略)
■五月五日:(略)自丹後長岡入道(幽齋)侍従(兼治)方へ帷二到来、同女房衆(伊彌)方へ到来了
■五月九日:(略)長岡越中(忠興)息煩之間、罷越之由被了
■六月廿八日:(略)及晩長岡越中守上洛、南禅寺ニ陣取之由聞之、即遣使者、只今此方へ来、於路次使ニ罷出之由云、直ニ侍従方へ来、今度在陣數日令迷惑之条々難儀、舎弟玄蕃允(長岡興元)・松井(康之)来、(以下略)
■五月廿九日:(略)長岡越中守大坂へ下向云々
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