津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■落ち葉走る

2019-11-30 14:06:30 | 徒然

                                                        落ち葉はけば 容赦を知らぬ落ち葉かな  津々

 今朝ほどはさすがに冬の気配で、熊本でも5・6度まで気温が下がったが、今の時刻は少し風があるが天気が良いのでベランダの戸を開けっぱなしにしている。
室内温度21度、靴下も履かずに過ごしている。
散歩にはダウンを羽織って出かけたが、30分も歩くと汗ばんできて途中で脱いでしまったがすっかりお荷物になってしまった。
あちこちで掃き集められた落ち葉が風に吹かれて元の木阿弥になっている。おまけに新しい落ち葉も降ってが容赦ない。
ケヤキ・カエデ・桜・いちょう等多彩である。そんな吹き溜まりに濃い紫の夕顔の花が蔓を延ばして咲いていると、何とも不思議な装いである。



 

 

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■二代目・太左衛門

2019-11-30 13:53:48 | 自分史

 我が家に関係する先祖附その他の史料をみても、何時細川家に召し出されたのかは記録が見つからないでいた。
処が十年ほど前「福岡県史・近世史料集 細川小倉藩」の元和九年(1623)閏八月六日の項に、次の様な記録があることを発見した。

         |   知行高弐百石
         | 一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、
         |   しれ申候事

これは我家の初代・磯部庄左衛門の実兄であり、我家の祖・庄左衛門はこの兄・長五郎と共に召し出されている。
細川家士としての最後は8代の又太郎であり、これは明治三年(1870)七月に役職を罷免されている。
以降数年は熊本藩士であったのだろうが、詳細は判らない。180年ばかり細川家に仕えたことになる。

二代目太左衛門が母方の名字にかえ、現在の姓を名乗ることになった。
この人物はなかなか頑張っている。召し出しから54年勤めあげているが、15度の参勤交代を経験し江戸に在る事30年であったと記している。
幕府巡検使の案内や、水戸藩士・佐々助三郎の熊本巡行の案内役なども務めた。
15度の参勤を勤め、よくぞ金が続いたものだと少々感心するが、元禄九年に到るといよいよいきづまり「連々不勝手ニ而拝借之願申上候」処、参勤を免除されている。
まさに綱利公の代を過ごした人物であるが、出世には恵まれず穿鑿役にとどまった。150石取ではこんなところだろうか?

先祖附ではいろんな人物との関りが記されているが、そのような方々のご子孫といま交わりがあり、不思議さを感じている。
そんな方々の先祖附なども拝見し、時代を追って校合すると、新しい発見が見えるのではなかろうか。
楽しみは留まることがない。

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■細川小倉藩(90)寛永元年・万日帳(九月六日)

2019-11-30 07:12:08 | 細川小倉藩

          (寛永元年九月)六日

         |                                      
         |     六 両人詰 清天
         |             (築城・上毛郡)
竹切リノ奉行   |一、岩崎太郎兵衛門登城ニ而、御郡ニ而竹切りノ奉行、御米之さいそく壱人つゝ付置候ヘハ、我等手
運上米催促人   |                                   (ママ)
物書       |  前人持不申候ゆへ、何共めいわく成儀ニ候、主無筆ニ而候へハ、物書壱人かゝ置候へ共、御用之
         |  ふれ状参候へば、其者方々被遣候事罷不成候、左様之所何とそ御たんこう候て可被下候由ニ候
         |  事 
         |              (ママ)
大坂川請     |一、大坂川請二兵衛登城、此中留逗仕候へ共、川請之儀ニ付、出入御座候へ共、左様之所埒明不被下
         |  候間、先此度ハ罷上候、其上母煩申ニ付如此候、上り申候由、御くじ衆へも申候ヘハ、其方次
         |                          (ママ)        (案)  
         |  第と御申候、もし跡ニて、二兵衛むさと仕、上り候やと召思候ハんと存、安内ノため二登城仕候
         |  由申候
         |
         |  (松井友好)(加々山可政)(志水)                              (組)
         |一、松宇右衛門・加主馬・牛介登城二而、出船之儀談合にて、十五日に相究候、与はつれ衆へも、右
         |  之通被申触候、
         |       (ゟ脱ヵ)
三斎江戸定供等ノ |一、中津御奉行衆式ア殿・民ア殿へ書状参候ヲ、御奉行衆へ被見せ候、 三斎様江戸被成 御座候、
知行ノ口明ヲ命ズ |  定御供衆一番之御供衆知行之口早々明候て、其後諸運上取立可申旨、 三斎様御諚之由二候、則
         |  其通二時をうつさす仕候へと、豊岡二被申渡候事
         |   (敦行)
長柄走者ノ取替分 |一、続兵右衛門登城二而、元和七年ニ御長ゑノ者江戸ニ而弐人走申候、町人請人弐立申候ヲ、取かへ
借銀ノ処理    |  ノ分町人ゟ前かとたて申候処ニ、江戸ニ而御借銀仕候ヲ、右之請人手前ゟ取立候時、借銀之儀も
         |                                被                                       米
         |  被書上候ハヽ、町奉行一度ニ取立可申を、其時ハ銀子之儀何共不仰、其後年々御切米御借候時
         |  も不被申候て、今又右之銀子之儀、請人手前ゟ取立候様ニハ成不申候、其上得 御諚候ヘハ、
         |  成程ハ請人ゟ取立遣、不成処ハ其与頭へ引付候へとの 御諚ニ候、前かとならさる所を随分取立
         |  申、相済申候ヲ、いま取たて候こと不成候、甚丞失念仕、于今迄延引仕事、右之様子御奉行衆へ、
         |  続平右衛門書物仕、被上候処ニ、先此度ハ御切米被相渡シ候やうニと、甚丞へ被申候、重而言上
         |  可申由ニ候事
         |
白銀製面桶    |一、しろかねや加右衛門登城、藤本勘五郎奉行にて、御めんつうの御道具、しろかねにて仕候、其算
算用遅延ノ利分  |  用を勘五郎おそく被仕上ケ候ニ付、のこり銀ニ利分付申候を、我等ニ出し候へと被申候ニ付、銀
         |  子出し候由かき物ニ而申上候、御奉行衆被申候ハ、其はずにてハ無之候、勘五郎ゟ出し申儀ニ候
         |  間、かねを取返候へと被申候事
         |
   

                                       

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■桜の森の満開の木の下で

2019-11-29 13:58:22 | 徒然

 小沢一郎氏が安倍総理の「桜を観る会」を「桜の森の満開の下で」と揶揄されているのを聞いて、ふっと笑ってしまった。
     小沢一郎氏、「桜」に隠れた疑惑議員に「雲隠れマニュアル」の存在を指摘
はたしてこの揶揄を安倍さんはじめ、指摘された人たちはお分かりになるだろうかと思った。(失礼・・)

これは坂口安吾の有名な小説である。 青空文庫「桜の森の満開の木の下で」
私の大好きな小説で、10年ほど前にコメントしていた。「桜」

このブログにも書いているが、その内容はまことにおどろおどろしい。

「桜を観る会」に出席した人たちは大いに浮かれて喜んだことであろうが、桜が散った後のむなしさみたいなものを感じておられることだろう。
是非ともこの小説をお読みいただきたいものだ。

                                          平成の名残や 御苑の桜かな   津々

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■お土居の中の人たち

2019-11-29 08:39:16 | 書籍・読書

 先のNHKの番組「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! 」で、本当の京都の範囲について取り上げ質問していたが、京都市民である二人のタレントも知らなかったようで、間の悪い顔をしていた。
随分以前の「ブラタモリ」で言っていたように思うが、「御土居の中」が正解であり、いたって狭い範囲である。
お土居の中に住む「京都人」はそのことは誇りでもあり、他の地域の人にたいして言外に「そんなもん、京都やあらしまへん」という意識を持っているように感じられる。

 昨日「国際日本文化研究センター」の次期(来年四月就任)所長に、建築史家の井上章一氏が選ばれたことが報じられていた。
建築史・意匠論が専門だが、日本文化について、あるいは美人論、関西文化論など「現代風俗研究会」の中心人物としてしられる。
多彩な氏の多くの著の中に、「京都ぎらい」というインパクトある題名の著作がある。
2018年の「新書大賞」を受賞した本で、20万部以上を売り上げて随分評判となった。
建築関係の本をまとめた、まだ開いていない最後のダンボールの中に「つくられた桂離宮神話」(同氏著)などと共にあったが、完読しておらず改めて読んでみようと思い取り出してほこりを払った。
 

「新書大賞2016」(中央公論新社主催)に選ばれた「京都ぎらい」

内容説明

あなたが旅情を覚える古都のたたずまいに、じっと目を凝らせば…。気づいていながら誰もあえて書こうとしなかった数々の事実によって、京都人のおそろしい一面が鮮やかに浮かんでくるにちがいない。洛外に生まれ育った著者だから表現しうる京都の街によどむ底知れぬ沼気(しょうき)。洛中千年の「花」「毒」を見定める新・京都論である。

目次

1 洛外を生きる(京都市か、京都府か;さまざまな肥やし ほか)
2 お坊さんと舞子さん(芸者か、芸子か;呉服と映画の時代は、すぎさって ほか)
3 仏教のある側面(北山の大伽藍;写真とイラスト ほか)
4 歴史のなかから、見えること(皇居という名の行在所;京都で維新を考える ほか)
5 平安京の副都心(嵯峨、亀山、小倉山;南朝の夢の跡 ほか)

著者等紹介

井上章一[イノウエショウイチ]
1955年、京都府生まれ。京都大学工学部建築学科卒、同大学院修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手ののち現在、国際日本文化研究センター教授。来年4月より同所長(任期4年)に就任。

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■その他お土居関係書籍

御土居堀ものがたり              豊臣秀吉と京都―聚楽第・御土居と伏見城

御土居堀ものがたり [単行本]         豊臣秀吉と京都―聚楽第・御土居と伏見城 [単行本]

京都新聞出版センター                      文理閣
2005-10                            2001-12
                                中村 武生
 
 
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■細川小倉藩(89)寛永元年・万日帳(九月三・四・五日)

2019-11-29 07:01:21 | 細川小倉藩

          (寛永元年九月)三・四・五日

         |            (晴)                          
         |     三 両人詰 清天
         |               (魚住正重)     (浅山)
         |一、岡田茂兵衛登城仕、屋敷之儀、加介手前之儀、浅清右衛門ニ申候、此中談合も不済候、其上屋敷
         |  之儀ハ御舟而ノ内ニ而無之候間、各も被申由被申渡候事
         |一、坂井忠三郎を召寄せ、菊野長十郎舟御供替之衆被参候時、上せ候事成間敷哉と被尋候ヘハ、又此
         |  節少おこり申候而、成申間敷之由申候事
         |                   (長岡孝之)忠興弟・香春城主25、000石・幼名茶知丸、隠居後休斎
吉田ニテ走リシ小 |一、去年吉田にて走申候御小人角大夫儀、 中書様御内八兵衛と申候、下請之由候間、彼者手前せん
人ノ詮索     |                (浅山)
         |  さく被仕候へと、藤本勘五郎ニ清右衛門被申渡候、長良権八と談合候て、吟味被仕候へと、被申
         |  渡候事
         |              (野中)
狼ノ黒焼出来   |一、大かめノ黒焼出来仕候而、作庵持参仕候、則此度之便ニ、江戸へ進上可申之由候事
五きょう     |一、五きょう、天長老昨夕持参被申、此度之便ニ大安寺へ可進之由ニ候事
重陽ノ呉服    |一、式ア殿・民ア殿ゟも九日之呉服之儀ニ付、江戸へ状御上ケ候事
         |  (忠有)
ねうしの用材   |一、彦山座主ゟ返状参候、御舟ねうしノ木、何時も御取せ可被成之事由ニ候、則元田・入江ニ被申
         |  候事                         〃〃
         |                     (遠藤)  (山田)
なべかねへノ重陽 |一、御なべ殿・御かね殿へ進上被成候御小袖、吉右衛門・喜斎両人呼ニ通、五兵衛相渡被申候事、
ノ小袖      | 

         |                                      
         |     四日 両人詰 晴天
         |
         |一、江戸へ下候御鉄炮衆弐人、平二郎今日午刻ニ出舟、
びやうノ湯へ湯治 |一、服部新太郎煩申ニ付、御家老衆へ隙をもらい、ふん後びやうノゆへ入申候事、御奉行衆へ此由被
願        |          (田中氏久)
         |  仰候て可被下候由、田猪兵衛被申候事
         |一、木村十左衛門御暇申、在郷へ参、只今罷帰ノ由候て、登城仕候事、
         |
貸米目録作製ナラ |一、江戸への御飛脚舟、今日出船之筈ニ候へ共、小左衛門・甚丞手前目録出来不申候故、相延申候、
ズ        |  但、御給人衆ニ不足仕候ほとかし申候由、江戸ゟ被仰下候申わけ之儀也、
         |

         |                                      
         |     五 両人詰 清天
         |                                   (ママ)
家中貸付物ノ目録 |一、吉田二郎右衛門ゟ御家中衆へ貸付物之目録、中津御奉行衆ゟ式ア殿・民ア殿ゟへ参候ヲ、御奉行
         |  へ参候、則触状被廻候事
         |
貸米ノ処理    |一、神足半七手前来年御貸米之内、 残米弐十四石余御座候を、 半分ハ被引置、半分御かし被成候

         |                   (志水)
         |  へ、左候ハヽ、今度替りニ可参之由、牛介被申候、甚右衛門丞ニ其通ヲ御奉行衆河喜多・仁保な
         |                          〃〃〃
         |  と被申渡候ヘハ、甚丞申候ハ、おさへずニ御貸米之分ハ皆以御かし分ニ借状ニ御判被成候、引取
         |  申候分ハ、小左衛門・甚丞手前ニ有儀と申候、一段尤ニ候間、其分ニ可仕候由候而、御かし米皆
         |  以被相渡ニ済申候事
         |
         |  佐分利作左衛門        ひく嶋
         |一、高田角左衛門与御鉄炮衆〇小左衛門、昨日病死候事
         |  〃〃〃〃〃〃
         |
欅門外石垣ニ落書 |一、けやき御門ノ外ノ石垣ニ、名判なしノ書状はり付置候、文言ハ御供衆加扶持米を、主々被請取
供侍ノ加扶持米下 |               (虫損)
々ヘハ渡ラズ   |  候て下々ヘハ、少も不給候間、□之通被仰付可給之由候、左様無御座候ハヽ、江戸ニ而言上可仕  
         |  とかき申候ヲ、御奉行衆被見届候て被取置候事
刀装ノ金具ノ横目 |一、橋本惣左衛門を、御こしの物金具御横目ニ被申付候て、伊藤文五郎・成田與平次手前へ被渡候、
         |                           (沼田延行)
忠利ノ命     |一、式ア殿・民ア殿・頼母殿へ、八月廿三日・廿四日之御書、長岡十五朗殿使持下候を、御奉行衆頂
豊後横目新任ヘノ |  戴可被仕とて御越候、御一通ハ豊後国御横目衆替りニ御下候衆へ、御音信之儀被仰下候、御一通ハ
音信物      |  高麗人今日罷上候間、如先例御馳走可仕候よし、被仰下候、符内御横目衆御下向候ハヽ、注進可
朝鮮信使迎接   |  申旨、豊後被付置せ候衆、無由断可被申越之旨、次飛脚ニ而被申遣候事
         |                   (ママ)                   夜ル五時                 
給人貸米ノ目録  |一、御給人衆不足仕候様ニ御米借候由、江戸被仰下候、其目録調被上候御飛脚今日〇出船候
代替リニ中津ノ家 |一、御代替之分時、中津家代銀之滞分元利算用候て、山口半次ニ持せ、八つ時分ニ中津被遣候事、
ノ代銀      |      〃
         |


                            


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■書評・稲葉継陽著「細川忠利・ポスト戦国時代の国づくり」

2019-11-28 09:30:23 | 書籍・読書

明智光秀を祖父にもつ初代熊本藩主! 戦国乱世に戻さないための対応力とは?
           ―稲葉 継陽『細川忠利: ポスト戦国世代の国づくり』 山内 昌之氏による書評 
                 
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◆創業者と後継者

創業者と後継者との関係はいつの時代も厄介なものだ。戦国期を駆け抜け江戸時代にも活躍した細川忠興のように、耳に快い称賛ばかりに慣れ、国家のかじ取りや政治活動の場で、「燦然(さんぜん)と明るく照らされ、誰からも丸見えの場で、自分自身が成し遂げたこと」(古代ギリシャの哲学者クセノポン)の喜びを後継者に譲る気がなかった隠居もいる。忠興のような型の人物は、老齢とともに人びとの感謝や称賛の言葉が薄らぐことに我慢がならない。

忠興は立派に育てた忠利を家督継承者に定めても17年間も引退せず、忠利は元和7(1621)年36歳でようやく当主になった。三齋と号した忠興は中津城に隠居後、旧臣たちが機嫌伺いに来ないと忠利に当たりちらした。これは戦場と同じく政治でも盛りの時期が過ぎた現実を忠興がまだ直視しないからだ。忠利が「用所」(用件)を言いつけて不参を指示したと疑い、「国中に有りなから今迄参らざるは存外の儀かと存じ候」と不満たらたらなのだ(元和7年9月5日付忠利宛三齋書状『細川家史料』一)。驚いた忠利は「沙汰の限り」とまず老父に相づちを打ちつつ「誰々参り候か、参らず候か存ぜず候間、せんさく仕(つかまつ)るべくと存じ奉り候」と調査を約束したが、武具甲冑をつけぬ忠興の口煩(うるさ)さには、立派な子でもほとほと閉口させられたに違いない(元和7年9月5日付三齋宛忠利書状案『細川家史料』八)。

最近出された稲葉継陽氏の『細川忠利』(吉川弘文館)は本当に面白い本だった。三齋の中津隠居領3万7千石は軍役などを免除されたので、年貢収入はまるまる隠居の手元に残った。無役ゆえに財政が潤沢であり、何と隠居の翌年に米数千石を利子4割か5割で本藩に貸与し、十貫目の丁銀を利子2割で本藩に貸し付けたというのだ。プルタルコスもどきにいえば、三齋が疲れないのは金もうけをしているときだけだと揶揄(やゆ)されても仕方がない。舞鶴が躍動するような甲冑姿を戦場で誇った武人の老後は美しくない。忠利には、三齋の嫌いな小堀遠州(政一)とも共通する行政統治の才があり、藩と百姓をつなぐ惣庄屋の顔触れを着実に改めたのも面白くない。

三齋は、ガラシャ夫人の死後に寵愛(ちょうあい)した女性との子・立孝が育つに従って偏愛もつのる。「御家」だけを見て「御国」の経営に無頓着な戦国生き残りの忠興と、「御家」と「御国」が一つの「御国家」として止揚されるべきと考えた忠利との違いも大きい。救いは忠利が忠興の老人特有の惨めさに恥を上塗りさせる行為を避けたことだ。父子不和を表に出さない忠利の分別である。しかしストレスの代償は大きく、忠利は寛永18(1641)年に56歳で父に先立つ。「教科書的な次元を超えたリアリティー」と彼の統治を評価する稲葉氏の仕事は、理想的な統治を模索した地味な為政者の姿を浮き彫りにした。かねてからガラシャと忠利ひいきでもあった私にはまことにうれしいことだ。

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■細川小倉藩(88)寛永元年・万日帳(九月二日)

2019-11-28 06:51:49 | 創作

          (寛永元年九月)ニ日

         |                          
         |     ニ 両人詰 晴天
         |
         |一、中津御奉行衆ゟ書状来候、中津御長ゑノ仁左衛門と申者、持参申候事
         |              ゟ                          裄丈
三斎ヘノ重陽ノ小 |一、谷助太夫、たつノ刻ニ中津被帰候、 三斎様へ之御小袖長さ・そでのゆきあい不申候ニ付、めし
袖丈ハズ書状 |                                      
共ニ返サル    |  て御らん被成、御返シ被成候、中津御奉行衆被申候ハ、定而御小袖かわり候間、此方ニ而御あら
         |                                      〃
         |  ため候て、御上ケ候由、ニ候事助太夫ニ口上ニ而被申渡候、則 越中様ゟ之御書も御小袖之上ニ
         |             〃〃〃
         |  置、此方ニ置候ていらさる儀ニ候間、返シ可申由被申候事、式ア殿・民ア殿へ中津御奉行衆ゟ返
         |         (西郡清忠)
         |  事被申候を、今朝形ア殿御小袖持参被申候、右之状写参候事
         |
公儀早飛脚    |一、公儀早飛脚之儀、三ケ番之御鉄炮頭衆へ可申渡之由候事
         |
         | (河田)    (林)               (塀)
小倉城廻リノ塀土 |一、八右衛門・弥五右衛門登城、御城廻り之坪七百五十間、どだいくさり候て、ひかへ柱斗ニてかゝ
台朽ル      |  わり申候、風ふき候ハヽ、たおれ可申候、いかゝ可有哉と申候、左候ハヽ、角木三百五十本入申
角木三百五十本ヲ |               (惑)  
渡ス   倒壊セ |  候、其内ニ三寸角無之候て迷悪申候由候、たおれ候てハ、 公儀へ被得 御意候ハてハ不成候
バ公ノ許可を要ス |  間、早々つくろひ被申付可然之由、被申渡候事
         |                         (米田是門)  (矢野)
三斎小袖ノ仕直  |一、三斎様ゟ九日之呉服被成御返シ候ニ付、御奉行三人、米與右殿・利斎、 式ア殿へ御呼、民ア殿
         |  打合、談合ニ而候、中津へも式ア殿・民ア殿ゟ飛脚を御奉行衆迄被遣候、 又呉服を調直シニ京
         |  へも中川四左衛門被指上せ候、今夕小早出船候事、呉服之御袖ノゆきを、式ア殿ニ而御くらべ候
         |                       〃
         |  ニ、弐分ほど宛みしかく、三つともニ少宛違申候事
         |        (親英)
松野親英懸り銀  |一、同所ニて、松野織ア懸り銀之事談合、とかく月引・日引ニ仕候へと、 御印御座候上ハ、此地ニ
月引  日引   |                                (逗)
         |  織ア殿被居候分、懸可申候、其上清兵衛・仁兵衛所ゟ書物ニも、此地通留中もかゝり申間敷との
         |                                  
         |  様子無之候間、かゝり申筈ニ可仕候、入江・宗像所、織アゟも御奉行衆〇へも右之通被申遣可然
         |  よし、御両人被仰候事                     
借米物成ニ不足ス |一、江戸書立被成 御下候、御給人衆物成不足祖候ほと御米借候儀、たれがさしつニ而候哉、急度言
ルホドニ貸セル者 |  上可仕旨被仰下候ニ付、豊岡ニ被申付、算用仕候へと被申付候、只今書出し候御書付之内、大田
ノ詮索      |  八郎右衛門・曽祢勘介ハ惣並ノ御借米も三十石宛ノ内ニかり申候、又三十石宛ゟ外ハかり不申衆
         |  も御座候、御増借仕候家ハ請人をニ三人宛立候而あかり申候、今少あらめニ候間、成ほと念ヲ入
         |  仕直候へと被申渡候
         |            (仕脱)
         |一、御鉄炮衆二人、平二郎荒子一人明晩出船、江戸へ可差遣ニ相済候事
         |

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■三齋側室・幾知殿

2019-11-27 14:51:22 | 人物

寛永元年八月二十日の日帳に次の様な記録が残る。

   忠興妾ヨリ重陽ノ |一、江戸ゟ村田忠右衛門下候、 三斎様へ 殿様ゟ続少介へ当、 御書箱壱つ参候、御はら殿ゟ 三
   祝儀       |  斎様へ御小袖箱ニ入参候、数ハしれ不申候事

中津に在る三齋の許へ忠利からの書と共に、三齋側室から重陽の節供の祝儀として小袖が送られてきたというのである。
そしてこの側室は清田氏であると注が入れられている。この時期江戸に在ったのであろう。
「御はら様」とは「御腹様」であろうが、細川立允(宇土細川家祖・立孝)と細川興孝(刑部家祖)の生母・幾知(吉)である。
この幾知は「御部屋様」の呼称でも呼ばれ、江戸愛宕山下の三齋屋敷に住んだといわれる。このような形でも消息が伺えて興味深い。
その出自は豊前大友一族の清田氏で清田寿閑(鎮乗・シゲノリ)女である。切支丹で岡城主であった志賀親次の弟で、転び切支丹だとされる清田凉泉院の婿養子となり清田家をついだ。高名な清田七助(石見)は幾知の兄である。
つまるところ、宇土細川家、細川刑部家には大友一族の志賀氏・清田氏の血が流れている。

付足し:
明日ご紹介する九月二日付万日帳では、上記の小袖を中津の三齋の許へ届けたところ、裄丈が短くて三齋が受け取らなかったことが報告されている。
家老をはじめ奉行衆その他があつまり、善後策をこうじるとともに、その日のうちに小早をたて京都へこの小袖(三枚)を贈る手はずをとっている。
重陽の節供は九重なりで九月九日である。さて間に合いますかどうか?関係者の慌てぶりが記されている。お楽しみに・・・

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■目白台細川邸

2019-11-27 10:31:22 | 徒然

 朝から何気なくヤフーニュースを読んでいたら、学生時代を和敬塾で過ごしたという元衆議院議員のY氏の話が載っていた。

和敬塾とはかっての細川侯爵邸と膨大な敷地を、昭和30年前川喜作氏が買取り財団法人・和敬塾を創立し「男子学生寮」を建設、多くの有為の学生が青春時代を過ごした。現在本館と称される建物は、かっての侯爵邸である。
この地にはかって広大な洋館建築が存在したが、東京大震災の被害を受けた。
          
                  
そして和敬塾本館と現在称されるイギリスチューダ式の洋館は昭和11年に建設されている。

この目白台の細川邸は、和敬塾・永青文庫(細川家旧家政所)・新江戸川公園(細川肥後庭園)の三つに分かれたが、その膨大な敷地は一筆の土地であった。

すなわち、旧・東京市小石川区高田老松町65番地である。本邸の入り口に二本の老松が立っており、これが地名の由来である。
すぐ西側はあの田中角栄の目白邸がある。

護立侯がこの建物の前で、夫人と共にドンドヤをされている写真が残されている。どこに掲載されていたのかをすっかり忘れていたが、寺嶋雅子氏(護立様二女)の御著「梅鉢草」に発見、下の写真であるが、背景にまさしくこの建物が写り込んでいるが、これは裏手にあたる。
現在の永青文庫はかっての家政所、護立侯の目の前やや左手奥にあたる。
右手奥が池や和風の建物が残る、現在の新江戸川公園(細川肥後庭園)で、まさに一筆地続きの広大なお屋敷であった。

             
 私の祖父は家扶として、大正四年から亡くなる昭和十九年まで、これらの細川家御屋敷の建物をつぶさに見ながら奉職した。   

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■細川小倉藩(87)寛永元年・万日帳(九月朔日)

2019-11-27 06:42:54 | 細川小倉藩

          (寛永元年九月)朔日

         |                          
         |     朔日 両人詰 晴天
         |

         | 河喜多・仁保所へ御奉行衆被集、談合候事
奉行等談合    |一、釘本半左衛門ヲ金子替ニ、大坂へ可差上由、半左衛門理も御座候ヲニ付、何かと被申候ヘハ、其
大阪米奉行交替  |                               〃
         |  身ためもいかゝニ候間、内証にて田猪兵衛ニ見仕可然之由、被申候ヘハ、猪兵衛得其意候間、
         |  今夕可申聞由候事           (己の下に大=異)
         |(同)
         |  □所にて
蔵奉行ノ定法   |一、御蔵奉行衆手前 御定法之旨、各吟味候て被申渡候事
         |同所にて
大坂城普請ノ鉄炮 |一、大坂御普請ニ、去年・当年御鉄炮衆被指上せ候儀、日用之積りニ而、惣銀割符ニ可仕旨ニ候間、
足軽日用ノ積   |          (野田幸長) (豊岡)
         |  其分ニ被仕候へと、小左衛門・甚丞所へ、差帋にて被申渡候事
         |同所にて
人抱ノ禁     |一、元田・入江定手伝と候て、新参ニ抱間敷ニ弥談合相究候、此中ノ分ニ可申付由候事
         |同所にて
         |一、藤崎言斎内十兵衛儀、抱候而、彦市・伝介手伝ニ可相渡申候事
         |同所にて
         |一、大坂へ、佐野嶋平兵衛可差上由之事
         |同所
宇佐郡水害    |一、宇佐郡大水ニ家なかし者ニ、ぬれ米を利なしニ米直シニ貸、是ハ立候て、右之御百性ともニハ御郡
濡米ヲ利ナシニ貸 |  麦ヲ可遣之由候事、但、田中猪兵衛・加藤新兵衛目録指出、両人談合ニ参候事
ス        |
         |同所
江戸廻米出船   |一、江戸へ、大廻り御米を、今朝出船仕候事
         |                       ( 刻印打 )
極印奉行     |一、佐藤安右衛門所ゟ御奉行衆へ書状参候、銀子ニこくいうち申候儀、又新汰場ニ、弥金子懸り申候
         |              (米田是門)       (米田是友)
         |  由之事、こくい之儀ハ、則米與右衛門殿へ指帋、甚左衛門被渡候
         |           
          

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■「西南の役‐熊本隊出陣の場所」のその後

2019-11-26 12:41:21 | 熊本

  今日の朝散歩は暖かく良い天気となったので、健軍神社前の「西南の役‐熊本隊出陣の場所」の現況を写真に収めようと出かける。
取り囲むようにマンションが建設中、下の写真が現況だが、植栽が全くなくなりなんとも変な感じ。
現状のまま残すことは出来なかったのかと、首をかしげざるを得ない。マンションの完成後、どのように整備されていくのか興味深い。

熊本隊出陣之所 以前の状況(前の道は、参道の側道)

 

                 
                           改修後の状況(同じアングルで)

                                           

   
 左右に石灯篭が続く参道(八丁馬場)この道の背中側正面に健軍神社の楼門がある。
 横断歩道を右手に進むと正面が「熊本隊出陣の場所」である。

                                               

                   同上 右側にある側道と「熊本隊出陣の場所」、手前が参道(八丁馬場)

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■細川小倉藩(86)寛永元年・日帳

2019-11-26 06:53:25 | 創作

          (寛永元年八月)廿九日

         |                          
         |     廿九日 両人詰 晴天
         |    (童=わっぱ)     (規矩郡)
筑前ヨリ童走来ル |一、筑前ゟわつは壱人走来候ヲ到津之庄屋所へはしり参候ヲ、上田忠左衛門召連、登城被仕候、奉公
ヲ規矩郡奉行連来 |          〃〃〃〃                    (肥)  
ル        |  人ニ而ハ無之候、爰元ニ而いわしうり成共仕度由申候事、右之者本国ハひ前之者ニ候、ちくせん
本国ハ肥前    |  ニ弐三ケ月居申候て、御国へ参申候事
         |
田川郡松茸ノ進上 |一、田川ゟまつたけ参候を、中津へ被遣候ヘハ、まつたけさかり、其上おれ候をくきニ而つき候て参
方無念      |  候、以来ハあたらしきを、念を入候て御こし候由、中津御奉行衆ゟ申来候事、従林與兵衛所添状
         |  仕候故、彼方へノ返書也、
         |
三斎ヘノ重陽祝儀 |一、中津へハ九月九日ノ御小袖、谷助太夫持参被申候事
ノ小袖      |     〃
         |(一脱)          (米田是門)  (矢野)
公事聞奉行等惣談 |  式ア殿・民ア殿、與右衛門殿・利斎ヲ御本丸へ被呼候て、御奉行衆惣談被仕候儀候事
六箇状      |
入米法度ハ御諚ヲ | 一、他国ゟ米入候ヲ留候儀、不得 御諚法度仕候儀、如何と今度之 御書ニ被 諚下候、莵角 御
得ズ       |   諚次第前々のことくニ可仕之由候事、則御家中へ御両人ゟ可被触之由候
         |  (国東郡)          (国遠)
         | 一、古市村與三右衛門儀、道倫被得 御諚儀も可有之候間、平二郎参候時、可得 御諚之由ニ候事、
寺内八兵衛誅伐  | 一、寺内八兵衛儀、せんさく科ニ究候間、誅伐可仕哉と、得 御諚可申談合候事
         |
薮兄弟ノ知行ノ口 | 一、藪図書・同小吉知行之口不明候儀、三左衛門中津ノ御貸米八百石有之 儀ニ候間、此埒明候まて、
明        |        (知)   
末弟政三ノ借米  |   右両人ノ地行口ヲ不明候儀いかゝニ、三左衛門運上物ヲ兄弟両人ゟ被 召上候ニ究候ハヽ、地行 
         |   之口を明候とても、いなや被申儀ニ無之候間、地行之口をハ惣並ニ明候て可然之由、談合候事
         | 一、三輪源右衛門儀、中津御奉行衆今一度被申届可然之由、談合之事 
         |
香春城ノ道具   | 一、香春御城之道具香春ニ御座候、うわふき損申候通、中津御奉行衆へ御郡代衆被申届可然由之事、
         |   右之六ヶ條惣談之事候て相究候
         |          〃〃
         |            (矢野)                            (正直)(慰英)
小笠原長元賄米ノ |一、同所ニ而與右衛門殿・少右衛門、御奉行衆談合之儀、民ア殿賄七月中ハ、河喜多・仁保ゟ指帋に
渡方       |  て渡候、当月ゟ差かミも御蔵へ不参候故、被不申候、左候ヘハ、民ア殿御台所はたと不相成候、
         |  惣別民ア殿手前相続候まてハ、右之通ニ御賄ニ被仰付候、第一御賄候とても、民ア殿御貸米之差
         |  引ニ成候地行之口ヲ不明候間、被渡可然之由、左候ハヽ、御奉行衆ゟ河喜多・仁保へさしかミに
         |  て可申渡之由候、同御地行懸り米五百石ニて候、此分ヲ下毛・宇佐郡之地行ニ而口を明給候へと
         |  の儀、惣談相済申候事
         |
加子大坂ニテ走ル |一、鏡善右衛門登城、■■去年大坂ニ而與助と申御加子一人走り申候、大坂ニ而水橋五郎助所へ参、
         |  理申候ニ付、五郎助ゟ状添下申候、請人を立させ候て置可被申よし、被申渡候事
         |    (幸長)
         |一、野田小左衛門夜前中津ゟ被帰候事へ共、目悪敷候て、登城無之候事
         |                〃
         |一、一宮善太夫江戸ゟ被下候間ハ、留守之内十人之御扶持方加被遣由、江渡ゟ被仰下候事、善太夫内
         |  (儀)                                                                                                                           (田中)
         |  き知行所へ引こし居被申し候ニ付、則知行ニ而扶持方被請候やうニと、猪兵衛ニ被申渡候事

         |

               (寛永元年八月・了)                                   

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■拾い読み「北窓瑣談」から

2019-11-25 11:35:56 | 書籍・読書

北窓瑣談」とは江戸後期の 宮川春暉(橘南谿)という人物の随筆集である。
全九十七条ある中に、細川家にかかわることが二編見える。

     ・六十一  肥後の薮茂二郎先生が、大坂の中井善太(竹山)先生を初めて訪うた時、冬だのに薄羽織を着てゐた。
          中井が怪しんで、「どうして先生は夏羽織をお召ですか」と問うたら、藪は答へて、「国許を夏に出まし
          たので」といつたそうである。

     ・八十三  ある時蒲生氏郷が、細川家の茶道具に富んでゐる由を聞き及んで、「御道具を拝見いたしとうござる。
          いついつの日にまゐり申さう」と約束した。その日に到って見ると、細川家で名物名作といはれる武具の
          鎧や太刀から鎗などに至るまでが飾りつけてある。氏郷は驚いて、「所望したのは、御茶具のことでござ
          る」といつたら、忠興答へて、「道具と承つたので、武具とばかり心得てござる。それならば」と、改め
          て茶器のかずかずを見せ給うたといふ。これらは人のよく知ってゐる話ではあるが、本業を忘却しない心
          がけが快い。その頃の名のある茶人は、大方は人としてすぐれてゐた。今時の茶人の俗情のはなはだしい
          のとは大いに異るものがある。

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■細川小倉藩(85)寛永元年・日帳

2019-11-25 06:18:39 | 細川小倉藩

          (寛永元年八月)廿八日

         |                          
         |     廿八日 両人詰 曇
         |                                                    (卯の下刻)六つ時(午前5時~7時)を三つ割りした7時前の40分
江戸ヨリ三斎へ鮭 |一、江戸ゟ、御飛脚二人中津へ被進之候、うノ下刻ニ下着、 則中津へ被遣候、鮭二尺被成 御進上
進上       |  候、右ノ御飛脚壱人ハ、片岡九郎左衛門与ノ御鉄炮衆後藤助左衛門・御小人二郎介、江戸を八月
飛脚ノ旅程    |  十三日ひる過ニ罷出候由之事
         |  (正成)
河口女出切手   |一、藪図書ゟ、紀伊国ニ居候高橋宇左衛門母彼地へ参候ニ付、江戸ニ而河口 御印申請候ニ付、御奉
         |              (野間ヵ)
         |  行衆ゟ切手被出候、請人間野九兵衛罷立候事   
         |   (刑以下同)
長崎ノ借銀ノ借状 |一、形ア・助進御用之儀候て、式ア殿へ被参候、御用之儀ハ不存候事、我等両人ハ参ニ不及儀ニ候由
他国ヨリノ入米ノ | (西郡清忠)(横山重嘉)  
禁は忠利ノ命ニテ |  候事、但、長崎への御借銀之借状ニ、式ア殿判形取被申候と、今度ノ 御書ニ、他国ゟ売米不入
ハナシ      |  儀、無 御意事を申付候と被 仰下候通を、式ア殿・民ア殿見せニ参候事
         |
病死人ノ貸米ハ損 |一、御長柄ノ者壱人七月病死候、此御貸米御損米ニ成可申哉と、小頭尋ニ参候、 御損米ニ可成との
米トナル     |  事
畠作ノ平二郎出府 |一、畠作之平二郎、何とて遅ク江戸へ指越候哉と、今度之 御書被 仰下候ニ付、急度上せ可申由、
         |  被申渡候事
         |     (宮村)田辺城籠城衆、
鉄砲屋出雲船筒張 |一、御鉄炮屋出雲登城、御舟筒はり直シ申候ニ付、御鉄炮之かつかう冣前ノことくニ可仕哉と、仁左
直シノ事ヲ伺ウ  |  衛門ニ尋申候ヘハ、御奉行衆ニ相尋候へと被申候、いかゝ可仕哉と申候、御奉行衆被申様ニ、仁
         |                                    ( マ  マ )
         |  左衛門きこへさる申分、中々さたかきりニ而候、此御鉄炮之儀ニ付、両度ませくさし申候、昨日
         |       (三上)
         |  甚左衛門・宗於ニ申渡候間、其通ニ可仕之由候、拙者式も右同前ニ存候事
田川郡奉行松茸進 |一、林與兵衛登城、田川松茸出来次第、中津へ直ニ進上嘉仕哉と申候、先日も申候様ニ、小倉御奉行
上ノ伺      |             (へ脱)
         |  共申付候と、中津御奉行衆申遣、直ニ被上ケ候へと、被申渡し候事
なべ知行米    |一、遠藤吉右衛門登城、御なべ殿御知行之御米、御代官衆ゟ取寄候切手ニ、二郎兵衛加判仕間敷之由
         |  候、吉右衛門壱人ノ判ニ而請取可申哉と申候、先二郎兵衛、弥河畔仕間敷と申候哉、口かため候
         |  て、重而可申上候よし、被申渡候事付、吉右衛門・小介、荒仕子とも御扶持方も、御なべ殿御米
         |  之内ニ而請取候へと被申候
塀ノ控柱ノ購入  |一、林弥五右衛門・河田八右衛門登城、へいノひかへはしら、ゆす・くり・しいノ中ぢん、中国へか
         |  いニ被遣候ハヽ候て可然候、つね木ゟ高ク候へ共、右之木ニ而被成候ヘハ、七八年ハつゝき申
         |      〃〃〃
         |                                      (麦) (雑穀)
         |  候、此由五郎右衛門へも談合申候ヘハ、可然由被申候、今程ハ御銀子無之候間、むき・ざこくニ
         |  而御かい候て可然由、被申候事
鞍ノ蒔絵     |一、御鞍之巻絵奉行八谷新介、ミのかミを三帖うけ取候て、四帖ノ払方ノ書出ニ仕候、不念ニ候間、
         |            (財津)(深野)
過怠       |  惣当之過怠可申付之由、久七・新介ニ被申渡候、同御横目ニ付居候者、猶以無念之儀ニ候間、是
         |  又過怠被申付之由、被申渡候事
         |  

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