津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■興長殿へ寄之殿遺書(一)

2016-01-31 11:41:13 | 歴史


先に■松井寄之の遺書を書いた。光尚の死去後細川家の跡継ぎである六丸(綱利)が幼少であるため、肥後五十四万石の継承が危ぶまれた。
二分割案や三分割案などがささやかれ、どうなるのか予断を許さぬ状態であった。
そこで幕府に対しての説得役として派遣されたのが松井家の養嗣子寄之(忠興末子)である。以下はその折、養父興長へ宛てた寄之の遺書である。
まさに命がけの使命であり、ことが成就しない時は死を覚悟していたことが判る。

      興長殿へ寄之殿遺書
        江戸江罷越候付書置申候
  私儀せかれの時分より御家へ参私儀にて候へハ嘸御心に不被          嘸=さぞ
  為叶事のミにて可有御座候処諸事有之處被 仰付
  如此今迄御奉公相勤参存候 此段具不及申上候

 一御家へ参候上ハ御家へ對何そ一ツと松井之御家をおはれ候様ニと
  昼夜奉存候 其上被成御存知大臺雲様差物なと被為
  拝領様之其節御懇之御諚に御■候間常役御用ニ立申私ニ而
  無御座候間責而折を得候刻ハ御奉公申上度念願ニ而御座候
  此段 段々存様子とも御座候へ共其段ハ此已前佐渡様御隠居
  可被成との儀ニ付
  太守様へ御理申上候時委曲書立懸御目候間際唯今省
  略被候右之心中ニ而罷立候事御条此度江戸江罷越
  御六様江之御奉公聊諫意を可存覚悟ニ而御座候へ共無十方
  私事に候ヘハ御奉公之道と存儀却而御奉公ニ不被成事も可有
  御座候豫所に申仕合ニ御座候間私身を挨申段努々心ニ懸り不申
  候条然上ハいか様に成行申候共右之心中ニ而罷在候と被思召

  可被下候返々嶋原ニ而存儘之御奉公を不申上候処御指物を
  被為 拝領候儀最と可申哉迷惑と可申哉世上之者のおもハく
  何共難弁奉存候 就其若むさと誠身ニても成行候儀千萬
  残多奉存候
  佐渡様不被成御座候而ハ御家之果初ニ而御座候と奉存候条
  何卒被遊御養生 御六様御守立被成候儀乍憚御尤ニ
  奉存候
  母ニて候人江も私儀之内々御奉公一念ニ奉存罷在候列ニ相
  替て可申置儀無御座候ヘハ各別ニ書付不仕通可被仰下候
  せかれともの儀成行次第ニ被遊可被下候 御奉公可成様ニ生
  立候ハヽ御奉公仕候様ニと奉存候 吉松儀御奉公仕候様ニ御座候
  共廿ゟ内ハ御見計被成押立御奉公ハ不仕様二と奉存候 扨又

  若私指物を吉松に被下候事御座候共御理申上候様に
  仕度候 身躰を果候共御指物拝領不仕様ニ被仰聞可被下候
  此段吉松ニ為被仰聞候奉存候 吉松をも當所に仕候乍去吉松
  何そ御奉公をも仕つとめ御座候ハヽ其段ハ何様ニも沙汰仕候
  様ニと奉存候 左膳儀ハ尤不及申候 彼せかれの儀ハ幼少之時分
  より證人ニ遣置せかれの心ニも無是非存儀と可有御座哉と
  不便に存候条可然様ニ奉願候
 一娘共之儀如何様共 佐渡様御はからひ次第ニ而御座候

 

 

    

 

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■去年の今頃

2016-01-30 21:47:56 | 徒然

 去年の今頃は一週間ほど体調を損ない、後半の三四日は寝込んでしまった。よく原因が判らないが風邪だったのだろう。
食事をまったく受け付けず、体重が5キロほど減ったほどであった。もっともすぐに元通りの体重に戻ってしまったが。

一昨年は風邪でこれも数日寝込んだ記憶がある。一月という月は体調をこわす癖が付いた。
今年も気温の変化が大きく風邪を引かないようにと勤めてきたが、なんとか乗り越えた気がする。
しかし加齢による身体の衰えはどうしようもない。27日の構外勉強会で歩き回ったせいで左足が痛くて仕方がない。
寒気も和らいだので少し外に出て散歩をしたいと思っていたのだが、用心に越した事はないとひたすら家の中ですごしている。
今日も今日とて終日タイピングに明け暮れたが、まぶたが痙攣して止まらず終了するという按配である。
明日は日曜日、ゆっくり睡眠をとることに致しましょう。

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■真田昌幸宛石田三成書状

2016-01-30 07:31:08 | 史料

 一昨日ご厚誼いただいている東京在住の近世史家S氏からメールを頂戴したが、松代の「真田宝物館」に出かけられた由であった。
ご覧に成った諸資料のなかに、石田三成が真田昌幸に宛てた文書があり、その中で細川忠興について触れられている事をご連絡頂いた。
じつはこの文書については以前某氏からその存在をお教えいただいた事があった。多分同じものだろうと思う。
改めてWEBを検索して見ると、「信州上田軍記」というサイトがあり、ここに「慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」があった。
細川家に関わる部分を上記サイトから引用させていただく。

      長岡越中(細川忠興)儀、太閤様御逝去已後、かの仁を徒党の大将に致し、国乱雑ぞう意せしむる本人に候の間、即ち丹後国へ人数差し遣はし、
      かの居城乗取り、親父幽斎(細川藤孝)の在城へ押し寄せ、二の丸まで討ち破り候のところ、命ばかり赦免の儀禁中へ付いて御佗言申し候間、
      一命の儀差し宥され、かの国平均に相済み、御仕置半ばに候の事

忠興は六月には家康の上杉攻めに出陣した。その留守を狙って三成は玉造の屋敷を包囲し、ガラシャ夫人は人質になることを拒んで七月十七日自栽した。その数日後には、幽齋の居城田邊城も三成の命を受けた15,000程の軍勢に包囲された。
処がこの文書の日付は七月晦日である。天皇の勅諚がもたらされたのは二十七日だが、幽齋は使者に対面して決死の覚悟を披露し古今伝授に関わる諸品を禁裡に献上した。両軍和議の使者が到来したのは九月十二日である。
このような事からすると、七月晦日のこの手紙の文面は理解しがたい処が多い。つまり三成はこの時期幽齋が禁裡の勅諚により命が助けられると読んでいる。このような認識が三成にあったとすれば、早々にこれらの軍勢を関が原に向けるべきではなかったのか。
500程の守勢が大いに働き、多勢の軍勢をひきつけた事は関が原の戦いに大いに影響したといえる。

関が原の戦いの火蓋が切られたのは、慶長五年九月十五日田邊城に和議の使者が到来した三日後の事である。敗軍の将となった三成は九月二十一日に捕らえられた。
家康は三成の捕縛に付いて特に文書をもって忠興に報告した。ガラシャ夫人の死という大きな犠牲をおもんばかっての事である。
十月一日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41歳。 

先の文書が発せられてから僅か二ヶ月ばかりの事である。 

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■ミーハーな私の感想

2016-01-29 16:42:23 | 徒然

 DAIGO語でいえば、B・S・N・A・Oなどここ一月ほどに起きたミーハーな出来事がなかなか面白い。

  ・清潔な感じでいつもTVをにぎわしていた女性タレントBが、テレビCMや番組から消えてなくなった。
   あの不道徳加減や、その後のLINEの漏洩など一気に奈落の底に落ちてしまった。まさに自業自得といわなければ成らないが、再起はあるか???
   噂の歌手と結婚するくらいのしたたかさがあればちょっと見直すけどなー・・・・・
   「文春」を「センテンス・スプリング」と云うなど、頭がいいのやら悪いのやら・・・・・

  ・天下のスーパーグループSの解散騒動は、TV番組で五人そろって晒し者になった。
   あれは誰に謝ったのか。J事務所に対してなのか・・・どうでもいいけどよく判らん
   社長・副社長は随分ご高齢のようだが、お二人にもしものことがあれば、また再燃しますよ。
   50近くになって徒党を組んでやる事はないでしょう  

  ・N鑑定団に出演していた某氏が番組を下ろされたらしい。そういえばあの人の仕事はスイッチを押すだけだったもんなー。
   あんな大物俳優でもパワハラ受けるんですな~ こわい??

  ・TPP問題で活躍されたA大臣の辞職はおどろきだった。その事は仕方ないとして、金を届けた人物と社員五人という会社の事がまったく報道されない。
   こちらにもなんだか胡散臭さがぷんぷんしますね~ 確信(犯)ですな。
   
  ・O相撲の役員人事や理事選のことがいろいろ報道されているが、強引な手法のまずさや綿密な下準備が必要であることが教訓となったようだ。
   
それにしても九重親方(千代の富士)がかわいそう・・・・

当事者はお辛いことでしょうが、いろいろ考えさせられるミーハーな出来事ですね。


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■版籍奉還の建白

2016-01-29 09:58:18 | 歴史

 藩籍奉還の話である。薩長土肥の四藩主が連署して明治1月23日に建白書を奏呈した。
遅れて熊本藩(藩主・韶邦)も版籍奉還の建白書を1月28日に提出した。

韶邦室は一条忠香養女(実・三条大納言実萬女・峯)だが、一条家の養妹が昭憲皇太后(明治天皇皇后)である。
又忠香の生母は細川齊茲女・峯である。そういう関係で一条家から韶邦に対しては種々情報がもたらされたと伝えられる。
又細川護久室・宏子は、肥前鍋島家・鍋島齊正(閑叟)であり、鍋島家からの情報も多々あったと思われる。

                                             明治天皇 
                                 
      一条関白忠良---忠香---+---美子(昭憲皇太后)
                ‖                 |  
            +--峯(邰)        +==峯(実・三条大納言実萬女)
                 |                   ‖
 細川齊茲---+--齊樹==齊護---+---韶邦
                             |
                             +---護久---護立---護貞---護煕
                                   ‖
                      鍋島齊正---宏子         

 

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■勉強会

2016-01-28 08:34:42 | 熊本史談会

 昨日は史談会の仲間7名で二台の車に乗り合わせて、玉名の市立歴史博物館、熊本市植木町の新装成った田原坂西南戦争資料館に出かけた。
玉名の歴史博物館では「福島の菊池一族」が開催されており、これの展観が主たる目的であった。熊本の菊池氏が分かれてなぜ東北の地に営々と繁栄したのか、学芸員の方の付っきりの説明を拝聴した。また常設展示の玉名の歴史も合わせて勉強、有意義な午前中をすごし昼食。帰りは道に迷いながら「木村鉄太」のお墓に詣でる。そのご新装成った植木の「田原坂西南戦争資料館」によって、貴重な資料を展観、眼下に広がる激戦地を望みながら悲惨な戦争の実情に想いを新たにした。行程7時間誠に有意義な勉強会で、近いうちの再開を約した。

                        要約筆記 木村鉄太 日本開国の先駆者 崇城大学教授 松本 寿三郎

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■熊本での女歌舞伎

2016-01-27 07:43:23 | 歴史

 中原雑記(肥後古記集覧巻二十・所収)に加藤清正が「御仕立被成候」女歌舞伎に触れた記事があった。
いろんな情報をかき集めて記したという感があるが、それが又真実味を醸し出していて面白い。

    清正公御代女歌舞岐(伎)御仕立被成候時、郡又市といふ大夫の座本より御下シ被成候由
       ・兵助 是ハ肥後国合志郡高場(竹迫カ)の生レ也、仍て竹バ兵助と名ノル
       ・長助 是ハ肥後国益城郡竹宮(熊本市健軍カ)ノ生レ也、仍て竹宮長助と云也
       ・清十郎 是ハ肥後国玉名郡上津原村宮司須山宮内召仕候高麗人の子也、きりふ能故郡ニのぼせ大夫又市所ニて尋候へば
             須山宮内娘と云ニ付須山清十郎と名のる
       ・主膳 是ハ肥前佐賀ノ生れ也、仍て佐賀主膳と名のり申候 

座元とされる郡又市については良く判らないが、いわゆる地方公演の趣で熊本出身の役者を揃えたということか。
もしくは、役者の中から熊本出身の役者をピックアップして記したのか、詳細が判然としないので余計興味をそそられる。 

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■1月26日忠利着陣す

2016-01-26 10:24:29 | 歴史

 天草島原の乱における光尚の動きに着いては ■寛永15年1月5日 で書いた。父忠利は一月十二日登城、出陣の命を受け即日江戸を発った。
そして二十六日には有馬に着陣している。わずか十四日の旅程であるが、病身の忠利にとってはつらいものがあった。
二月二十七日の落城まで過酷な戦いが続くことになる。寒さが募る海辺の地である。 

図は永青文庫が所蔵する、忠利使用の紫糸素懸威鉢巻形兜(むらさきいとすがけおどしはちまきなりのかぶと)である。
華美な装飾を廃した大変実戦的なデザインが好もしい。果たしてこれを天草島原の乱で着用したかどうかは判らないが・・・・ 

 

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■くまもと文学・歴史館開館

2016-01-25 13:52:18 | 熊本
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■御地の積雪は如何ですか

2016-01-25 08:40:08 | 徒然

 沖縄をはじめ各地の雪の情報に驚かされています。御地ではどのような具合ですか、御見舞いもうしあげます。
熊本では昨日は朝8時ころから雪が降り始め、二三時間であたり一面銀世界と成りました。断続的に降り続きましたがせいぜい2・3センチといったところでしょうか。夜中に降り積もるのではないかと心配していましたが、有難いことにそのようなこともなく、車もゆっくりながら走る事ができる様です。
それでも山間部や県南では相当量の積雪がありご苦労されているようです。
今朝は太陽も昇り明るい日差しが雪に反射して一段とまぶしく感じられます。屋根の雪もだんだん斑模様になりつつあります。
熊本では雪景色を楽しんだという感じの一日でした。 

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■紀伊大納言頼宣夫人逝去す

2016-01-24 10:39:19 | 歴史

 加藤清正息女にして紀伊大納言頼宣夫人搖林院(あま姫八十姫)が、寛文六年の今日亡くなった。疱瘡だと伝えられている。
熊本在住の歴史研究家・福田正秀氏により、その生母は水野忠重(徳川家康生母お大の方の弟)息女・清浄院であることが、その著・加藤清正「妻子」の研究で明らかにされたのは2007年のことである。
永い間玉目丹波守の息女・正應院の女とされてきたが、福田氏と共著者水野家現当主・勝之氏の共同研究の成果は、誤り伝えられてきた加藤家の歴史に正当な光をあてた。

                                                                      「加藤清正「妻子」の研究」の画像検索結果           続 加藤清正「妻子」の研究

                                        加藤清正「妻子」の研究   続加藤清正「妻子」の研究

              
                        

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■キリシタン大名の高山右近「福者」に…法王承認

2016-01-23 21:25:21 | 新聞

読売新聞 2016年01月22日 23時22分の記事から

 昨年は没後400年にあたり、日本のカトリック関係者らが、殉教者として福者への認定を働きかけていた。バチカンは来年2月にも、高山右近の地元・大阪で、福者の敬称を与える「列福式」を行う予定だ。

 日本カトリック司教協議会で列聖推進委員長を務める大塚喜直・京都教区司教は「信念を貫いて生きることが難しい現代において、高山右近の生き方は勇気を与えてくれるものだ」と話し、列福を歓迎した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高山右近に付いては過去にもいろいろ書いたり取り上げたりしてきた。 

          ■高山右近列福・・・・?

          ■松寿庵先生・第154講

         ■まだ見ぬ故郷〈上〉〈下〉―高山右近の生涯 (新潮文庫)

 

次はガラシャ夫人なんて事は・・・無いでしょうね

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■八晝八夜で江戸へ

2016-01-23 07:28:17 | 歴史

 危篤に陥った齊樹の後継に付いて、齊茲の意をくんで奉行副役の杉浦仁一郎が一月十八日の朝熊本を発し、二十六日の朝上屋敷に到着している。
その前、江戸からの急報を熊本に伝えた中川唯之允は一日早く折り返し出発してこれも江戸へ急行した。仁一郎はこれを途中で追い抜き江戸についたが、後から到着した中川は大いに驚いたという。一橋家からの養子の話を断り、宇土細川家から齊護を迎えて次の藩主とした。ちなみに一橋家からの養子の話というのは、齊樹の奥方・紀が一橋家(治済)の出身であることによる。仁一郎の抜群の働きは大いに評価され、後奉行職へと上り詰めることに成る。 

       文政八年十二月中旬より少将様(齋樹)御疱瘡御煩、正月二日に至、御危篤の御容體に付、一橋様より、幕府より御養子進られ度段、
       御留守中川唯之允早打にて申来り、正月十五日熊本に着、直に二丸御殿に出、濱町様(齋茲)に言上致し、頂戴物等致し、十七日發
       足せり、此儀早御家中へ相聞へ、人氣忽動揺せり、政府には惣打寄にて、此儀遅々に及候ては大事なり、一刻も早く、濱町様思召奉
       伺べしと、山城殿(松井督之)・宇右衛門殿澤村・御勝手方御家老・九郎太郎殿郡大御目附・服部多門御奉行・杉浦仁一郎御奉行副役等、忠臣義
       膽の重役の諸衆議定致され、御用人津田三十郎を以て、人氣動揺の次第、御血脉筋、決して御絶し有之間敷段、身命を不顧申上ら
       れ候へば、御同意御聞入有之候に付、一刻も中川に追懸、懸止べしと申され候へとも、大事の御使、余上らんと申人一人も無之候處、
       杉浦仁一郎進出、某御墨付を給はりて、是より馳向可申と望出候、此仁一郎と申は、竹田菊池の騒動を始、八代宇土の御用に至る迄

       度々の大事を相勤、人々許し候侍にて、衆議是に一決し、則此使を申付られ候時年四十六時に十八日朝、中川に後るゝ事一晝夜、直
       に早駕に乗り、内裏(豊前大里)に至り、飛船に乗り込、直様數百両を出し、船板に張付、刀を把て船頭に膝詰懸、此小判悉取せ候間、
       皆々力を出すべし、然し懸命の使故、約束の日數を過ば、己等一々薙切て死んぞと申渡候に付、船頭共大に恐れ、死力を出して漕立
       未約束の日數に至らずして大阪に着し、中川を尋れば先刻澱舟に乗込と申、是天の與と乃平潟通を馳上り、此所にて中川に追越し、
       東海道を馳通り、箱根の関所に至しに、関所の番士、追々の早打に不審を立居、如何なる大事の超候や、仔細を承て通さんと云、時
       に一策を思案し、某は下役の者にて御返答出来兼申候、跡より中川と申者、留守居役を勤、専此事を取計居候、委敷此者へ御尋下さ
       るべしとて、事故なく馳脱て、同月二十六日朝龍の口に到着、八晝八夜詰合と談合し、一橋様に御断申上、當君公(齊護)を奉迎、二
       月十二日少将様御逝去、御跡式仰出され、御先祖様御以来の御血脉、御継統遊され候に付、上下一統始て安堵の思を為し候、然れ
       ば此度の大事を議定致され候重役の老人達、皆身命を投て、共に國家を守られ候忠義の優劣は無之候へとも、其功烈は仁一郎第一
       にて有之候
 池松筆記

ちょうど今の時期昼夜兼行で早駕にゆられて江戸へ向かう仁一郎の姿が目に浮かぶ。ご苦労様・・・・

 

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■熊本城を川尻に・・・・・

2016-01-22 07:32:15 | 歴史

 熊本城を川尻の地に移そうという企てがあったらしい。肥後宇土軍記下終につづいて又書きがある。

                  又云、肥後ニて申伝ニ云、忠利公於御長命ハ熊本の御城を川尻へ被為引度思召ニて
                  御絵図等御内證ニて出来、江戸表被従御内意御心懸被遊置候由申伝候、此処は近く
                  四方ニ見所無之大河流候ヘハ水筋如何様ニ候共舟入も有之、其自由能るへし、誠ニ
                  堅固繁昌の勝地たるへきもの也

「本当かいな?」と思わせる一文だが、この事を裏ずける記事が綿考輯録にもある。
ちょうど8年ほど前に 幻の城 書いたのだが、内容に相通ずるものがある。
川尻町史を読むと「鎮西肥後大渡は九州第一の難處なり、其の源を尋ぬれば、遂に阿蘇神地の南北に出で激流漿の如く此れを白河と云なり。遠久甲佐霊嶽の西を廻り、東して碧漂藍に似たり、此を緑川と云ふ、其の二川合流す」とある。
もっとも「幻の城」によると、城地は川尻の南隣の杉島だと云う。上記「白河」とあるのは現在の加勢川だろうが、当時は白河が流れ込んでおり「白河」と称していたのだろう。いずれにしても水運にめぐまれ、海へ容易に出入りすることが出来る格好の場所ではある。
清正・三斎・忠利そして光尚が城地として目を付けていたという杉島の地に目を向けて見たいと思う。

 

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■明暦の大火被害「幸橋門」

2016-01-21 08:56:03 | 歴史
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