津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

宮村典太という人

2004-10-27 18:33:02 | 歴史
 熊本県立図書館は、盤桓随筆(43巻)、吹奇与勢(33巻)、雑撰録(99巻)を
所蔵公開している。細川家並びに関係者の著作や記録を複写したものである。
多いものでは、1巻に二十数件が記載されている。筆者を宮村典太という。
この他にも塩藻草という記録集も有る。とにかく膨大な量の記録は、まさにタイム
カプセルだ。先に記した「上妻文庫」はこれらの史料を筆写しているものも有る。

宮村家は初代平馬成順は正徳時代旅家老などを務めている。
典太を名乗る人は二人居り、これらの筆者が誰なのか、現在においては未確認で
ある。一人は七代典太、御番頭等を勤め千六百石、文政のころ活躍している。
今一人は十代目典太、幕末の人で千二百石を拝領している。
 (11代典太である。明治後期の写しが存在する 2008/5/12)

かつて、筆耕という生業があった。「筆写をして報酬をもらうこと」とあるが、
時代小説の主人公にもこれを生業とする人がある。

もちろん宮村典太は「生業」ではない。膨大な其の量には驚かされるが、その内容
は雑多で「雑撰録」などや「吹奇与勢」などのネーミングはそれを表している。
いずれにしても、凄い人がいるものだ。「興秋公御系図」は此処に記載されていた。
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上妻文庫

2004-10-26 10:44:34 | 熊本
 熊本県立図書館が所蔵する「上妻文庫」は、その量の膨大なことと、
このことがたった一人の人によって成されて事に驚かされる。
この偉業は上妻博之氏によって成された。437冊に及ぶ、細川藩関
係の文書を毛筆により複写されている。氏は植物学者であり、牧野富
太郎博士とも深い交流が有ったという。専門の植物学の研究の傍らの
この作業は、並々ならぬものであったことは想像するに難くない。

そしてその偉業は、ご子息を通して熊本県立図書館に委託公開された。
好事家は元より、研究者の間でもその価値は高く評価されている。
これらの文献が、不明の歴史に一条の明かりをともす大きな役割を果
たしている。先人の偉大な業績に頭が下がる。


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いかんばい。

2004-10-23 16:27:11 | 徒然
 国立国会図書館からの封書が届いた。待望の利用者登録カード
が送られててきた・・・・と思ったら・・・・
ムム・・・・「何?書類不備・・・・」ンンンンンn
「生年月日が分かる物を・・・・」・・・・ンンンンンそうか。
あわてて再度郵送する。あと十日はかかるだろうか?

「シッカリセントイカンバイ」
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お久しぶりネ♪♪・・・

2004-10-22 18:53:28 | 書籍・読書
 熊本県立図書館に久しぶりに行く
  1、上妻文庫の「北村甚太郎覚書」をコピー
  1、雑撰録の「興秋公御系図」をコピー
       二つとも読み解くのに骨が折れそう(読めないよ・・)
  1、「細川忠興軍功記」をコピー 
       そのうちに我が電子図書館にアップしようかなー ???
  1、上妻文庫の「中村甚左衛門内田辺城御籠城御使者一件」のコピー
                      (しまった、忘れた・・)
  1、長崎県立図書館所蔵の「あい嚢抄」の貸し出しをお願いする
  1、大正三年発行の「言継卿記」四巻のうちの一・ニ巻を借りる。
       熊本陸軍幼年学校の印が押されている。
       返却日は11月5日、読んでしまえるのかねー。
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山本夏彦先生

2004-10-22 00:37:28 | 徒然
 「格調」という言葉がある。「格調高く」というような使い方をする。
もう死語だろう。若い人に限らず、私のような六十爺まで「ぐぐる」なんて
言葉を使うようになると、日本語も末期症状かナと考え込んでしまう。
夏彦先生の「完本文語文」は私の座右の書だが、まさにお説の通りと脱帽する。
ご一読をお勧めする。
古い文献に眼を通すと、「格調」が感じられ、それは文体の故であろう事がす
ぐわかる。明治維新はまさに「御一新」で言語風俗が否定された。
今後素晴らしい文語文により、「格調高く」読者を唸らせてくれるような著作
は出るのだろうか。「四畳半襖の下張り」という文章は、文語文ゆえの格調が
感じられ、現代文であったらまさに卑猥の極みだろう。

処でこの著作は未だ発禁本なんだろうか。
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父は一色義有・・・・・?

2004-10-15 23:16:05 | 歴史
 妙解院忠利公御代於豊前小倉「御侍衆并軽輩末々共ニ」に乗物かき小者頭
真下七兵衛・丹後七百石とあり、その横に父は一色義有・真下梶之助元重と
いう書き込みがある。元重の姉(娘トモ)才は忠興の妾で末子寄之(松井家)
の生母であるが、後長岡勘解由延元に嫁いでいる。
改めて眺めていて、こんなに大事なことを忘れていたことに(汗・・・・・)

また調べ物が一つ増えた。

(これは明らかな誤記であろう 2008/5/12)
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本を購入

2004-10-13 13:08:06 | 書籍・読書
 市役所に出向いたついでに紀伊国屋書店に・・・
中公文庫「完訳フロイス日本史」全十二巻の現物を見よう
と思っていったのだが、「フロイスの見た戦国日本」を発見、
これをまず読む事に急遽変更した。
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尾篭な話ですが・・・・

2004-10-11 08:55:50 | 徒然
 昨日はコーヒーを何杯飲んだんだろうか。ちょっとお腹が
緩んでしまった。(失礼)
ふと思った、尾篭という言葉の語源だ。記憶が定かでないが。

かって天皇のご先祖には短い「しっぽ」が有ったそうだ。
記紀周辺のはなしだろう。
あるときお側に仕える人が、その「しっぽ」を踏んでしまった。
驚いた天皇(?)が「尾篭なり」と叫んだという。

確かに辞書を引くと「無礼、無作法の意」ともある。
私の蔵書の中で発見した話だが、どの本なのかわからない。
2時間ほど探したが見つからない。布団に入っても寝付かれない。
さて、図書館のレファレンスにお願いしようか。
そして引っ張り出した本を元に戻さなきゃ。

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読みたい本

2004-10-10 13:58:36 | 書籍・読書
 唐木順三著「千利休」に、福井県立図書館から藩の裏面史「片つん
ぼ記」なる本が出版されそれを購入したとある。
図書館は「この出版を菊池寛がもし知っていたら『忠直卿行状記』は
もっと違ったものになっていたろう」とコメントしていたらしい。
昭和40年前後の話だ。

さっそく福井県立図書館に電話した。書名を告げると一寸待たされて
男性の職員が対応され「へんろうき」ですねと云われる。
一瞬に理解した「片聾記」だ。「いまはそう云っています」ごもっとも、
今は使ってはならない語句だから。「古書籍店でも手に入らない
でしょう。有っても10万くらいしますよ」・・・・・
駄目だ・・・・熊本県立図書館の検索を試みたが無い。

「藩の裏面史」が気になる。何が書いてあるんだ・・・。
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読み比べ

2004-10-10 11:00:18 | 書籍・読書
 旧 村井康彦著「千利休」 日本放送出版協会 1971年3月
 新 村井康彦著「千利休」 講談社学術文庫  2004年2月
 目次を見ると内容は殆ど変わっていない。1977年版を改めている。

 現存する利休最後の手紙は松井家に所蔵される「羽与さま、古
 織さま」が淀川べりまで送りにきたことを「驚存候」と伝える、
 あの有名な書状・・・・と思っていた。
 ぴえーるさんのご教示で別のものが有ることを知った。
 芝山監物に当てたこの手紙は「かなしく候、かなしく候」と最
 後を結ぶ人間味あふれる利休の姿を見ることが出来る。
 切腹の際の気迫に満ちたあの辞世とは好対照だ。

 千家略系図が新たに入っている。が・・・
 わが肥後古流の遠祖、利休女婿・円乗坊宗円の名が欠落している。
 著者は気づいておられるのだろうか。
 
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山城国西岡御領地之地図

2004-10-09 21:41:20 | 歴史
 細川の根本家臣を考えるのに、この地図は参考になる。
青龍寺城を囲むように、沼田・松井・米田・中村・神足・築山などの
屋敷が書き込まれている。沼田丸から神足屋敷にかけては外堀が
つながっていない。「青龍寺以来之面々子孫」に参考として昭和四
十年当時の「青龍寺城址図」というものがスケッチで添えられてい
るが、これをみると沼田丸から神足屋敷に掛けては、空堀が存在し
ていた事が分かる。堀の位置など、あまり変わっていない。
現長岡京駅は当時神足駅と言ってたようだ。

ところで、中村屋敷とは与一郎忠興を扶育した中村新助夫婦の屋
敷だろうか。
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ありゃりゃ

2004-10-08 18:32:05 | 歴史
 「永源師檀紀年録」を眺めていたら、次の記載を発見。
 「同年(天正八年)四月八日忠興主長子ヲ生ム、千丸殿ト小字ス、
  後元服シテ忠隆ト称ス」

 私が承知している誕生日と違ってるよ・・・参っちゃったなー。

 (天正八年四月廿七日生まれ・・・?)
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知ったこと でも?

2004-10-03 18:51:22 | 歴史
 聚楽第にあった利休邸は利休切腹後、長岡休無の邸になった。
     昭和64年3月初版 村井康彦著「千利休・その生涯と茶湯の意味」より
 
 休無(忠興嫡子・忠隆)は、天正八年四月廿七日生まれだから利休切腹の年
天正十九年二月二十八日は十一歳・・・・・本当かな??
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上田久兵衛という人

2004-10-02 11:58:00 | 歴史

私事でいささか気が引けるが、私の曽祖父の岳父である。

元治元年(1864)七月から慶応元年(1865)十一月まで、家禄二百石の久兵衛は
役料五百石の支給を受け、異例の抜擢を受け京都留守居役になった。そして京都
の町中を走り回り「公武の融和」に努力した。彼は公私にわたっての日記をつけ、
かつ手紙を残している。「幕末京都の政局と朝廷-肥後藩京都留守居役の書状・日
記から」に詳しい。薩摩の西郷隆盛は久兵衛免職の報を得ると、最も喜び書状に
残している。帰郷した久兵衛は、川尻町奉行などを歴任した。

明治十年鹿児島に下野していた西郷は政府に対し「尋ねたき儀あり」として徒党
を組み東上を試みる。その道筋にあたる川尻の町民は旧奉行久兵衛に相談する。
久兵衛は中立を標榜して千七、八百の士族を集め、鎮撫隊を組織し秩序の維持に
奔走した。そんな中不幸な事件がおき後久兵衛は罪を得て刑死する。
その妻は重職沼田勘解由の女ヨネであり、長女晩稲が私の曾祖母である。

人には時の流れに抗うことの出来ない運命がある。
久兵衛はそんな運命の人であったと考える。久兵衛が妻を思い、残した辞世の句
にある萩の花が、風にゆれる季節になった。
   「秋風のたよりに聞けば古里の 萩がはなつま今さかりなり」

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一色義有=義次ならば・・・・

2004-10-02 10:22:04 | 歴史
 掲示板で議論されている中院家。通村や長岡孝似の生母について、京都大学
が所蔵する中院家系図にははっきりと「母兵部大輔藤孝入道幽斎女・実一色左
京大夫義次女幽斎孫」と書かれている。
「一色義有と幽斎女・伊与の女を幽斎の養女として中院道村に嫁がせたのでは」
と西京子啓氏は推理する。もっともだと思うのだけれど義有=義次が証明され
ない。細川家資料にも幽斎養女の話は出てこない・・・・

一色という家が良く分からないし、この証明は果たして出来るのだろうか?
コメント (3)
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